其之参拾壱
長崎の廃藩置県
2007年(平成19)1月23日
文中の日付《 》は……《 》外が新暦、《 》内が旧暦、《 》なしは新暦または旧暦となります。


長崎での廃藩置県前後の名称の移り変わりについてまとめてみます。
江戸時代、幕府直轄領としての天領長崎の他に6つの藩領と、2つの旗本領、3つの鍋島藩家臣の知行領地が分立していました。
6つの藩領とは大村藩、島原藩、平戸藩、平戸新田藩、福江藩(五島藩)、府中藩(対馬藩)のこと。
2つの旗本領とは今福領(平戸藩)と富江領(五島藩)のこと。
3つの鍋島藩家臣の知行領地とは諫早領、深堀領、神代領のことです。
これらが、どのような変遷を経て廃藩置県にかかわってきたのでしょう。
名称の変遷は年表にも折り込んでいますが、かかわることを抜きとってみます。

1868(慶応04)01/16長崎奉行西役所が長崎会議所と改められ、長崎奉行の権限を引き継ぐ
1868(慶応04)02/16長崎会議所を廃止し長崎裁判所が正式に発足【02/02】
明治政府が旧長崎奉行支配地を管轄する行政機関として長崎裁判所を置く。府庁が外浦町に設置
1868(慶応04)05/04長崎裁判所を長崎府と改称
1868(慶応04)08/29天草県(富岡県)が長崎府に編入
1869(明治02)07/25《06/17》版籍奉還が行なわれる。藩主が旧来所有していた土地と人民を朝廷に返還
1869(明治02)07/28《06/20》長崎府が長崎県と改められる
1869(明治02)08/07対馬の府中藩(対馬藩)が厳原藩と改称
1870(明治03)平戸新田藩が廃藩し平戸藩に編入
1871(明治04)07/14廃藩置県が実施される。旧来の藩制を廃して郡県制度を敷き中央集権をはかる
藩をそのまま県に置き換え全国で3府302県に
大村藩が大村県に、島原藩が島原県に、平戸藩(含・壱岐)が平戸県に、
厳原藩(対馬藩)が厳原県に、福江藩(五島藩)と富江領が福江県に
長崎県はそのまま。深堀領、諫早領、神代領もそのまま
1871(明治04)09/04佐賀県(旧佐賀藩)が伊万里県と改称し厳原県を統合する
1871(明治04)11/14第1次府県統合が実施される。全国で、それまでの3府302県が3府72県に統合される
大村県、島原県、平戸県、福江県、長崎県が合併し長崎県に
厳原県、深堀領、諫早領、神代領が佐賀、唐津、鹿島、小城、蓮池各県とともに合併し伊万里県となる
     長崎県の旧天草県が分離、熊本県、人吉県とともに合併し八代県となる
1872(明治05)01/旧佐賀藩の飛地と深堀領、諫早領、神代領が長崎県に編入
1872(明治05)05/29伊万里県が佐賀県と改称
1872(明治05)08/17旧厳原県(対馬)が佐賀県(旧伊万里県)より長崎県へ移る【08/12】
1876(明治09)04/18第2次府県統合(第1回)が実施される
佐賀県が三潴県(現福岡県の一部)と統合し[新]三潴県となる
1876(明治09)08/21第2次府県統合(第2回)が実施される
[新]旧佐賀県が三潴県から分離し長崎県と統合。長崎県が旧佐賀藩全域を合併する
1883(明治16)05/09長崎県が旧佐賀県を分割。現在の長崎県域となる

お分かりいただけましたでしょうか。
なんと、天草(富岡県)が長崎県に入っていた時期が3年ちょっとあり、
はたまた対馬(厳原県)が佐賀県(伊万里県)に入っていた時期が1年弱あり、
さらに佐賀県が長崎県と統合されていた時期が7年近くもあるのです。
でも年表を見ていると瞬時にして、あっちにくっつき、こっちにくっつき、ゴチャゴチャしています。
分かりづらいと思い表にまとめてみました。
佐賀県、熊本県、福岡県に関しては、長崎にかかわりのある一部分のみを含めました。

県への変遷

長崎の名称だけでも、短い期間に、めまぐるしい変遷をとげています。かなり強引なようにも感じます。
長崎奉行西役所から替わった長崎会議所の名称が長崎裁判所となるまで1か月、
長崎裁判所の名称は長崎府と替わるまでの間、2か月半余、
長崎府の名称は長崎県と替わるまでの間、1年3か月弱、
以来、長崎県という名称が現在まで続くことになります。
さてさて、これだけの変化を当時の市井の人たちが、どのくらい把握していたのか、かなり疑問があると思います。
ぜんぜん知らなかったという人が、かなりを占めていたのではないでしょうか。
明治新政府の中で廃藩置県だの府県統合だのよりも、今日の食事の方が、よっぽど気になっていたことでしょう。

上年表をみると1869(明治02)07/28《06/20》に「長崎府が長崎県と改められる」とありますが
実際、京都・東京・大坂の3府以外の各地の諸府すべてが廃され「県」に替わるのは、
太政官布告が1869(明治02)08/24《07/17》に発せられてからのことです。
太政官布告とは「法令全書」通番 明治2年太政官布告 第655の
「今度御改正ニ付京都東京大坂三府之外諸府被廃総テ県ニ被 仰出候事」です。
各地の府がいつ設置され、いつ県になったのかを記してみます。

長崎府(慶4.05/04設置)→→1869(明治02)07/28《06/20》長崎県に
箱館府(慶4.閏04/24設置)→1869(明治02)08/15《07/08》開拓使に
度会府(慶4.07/06設置)→→1869(明治02)08/24《07/17》度会県に
奈良府(慶4.07/29設置)→→1869(明治02)08/24《07/17》奈良県に
甲斐府(明1.10/28設置)→→1869(明治02)08/27《07/20》甲府県に
神奈川府(慶4.06/17設置)→1869(明治02)10/25《09/21》神奈川県に
新潟府は(旧越後府・慶4.05/29 設置)、越後府は(明2.02/08 新潟府から分置)して
1869(明治02)《07/27》に合併し水原県になりました。

ほとんどが太政官布告当日か、それ以降に改称していますが、箱館府は布告9日前に改め
長崎府は、なんと1か月前に長崎県に改めていたのです。

ちなみに府の名称は1868(慶応04)06/15《閏04/25》に京都裁判所が京都府となったのが初めてです。
つづいて1868(慶応04)06/21《05/02》に大坂裁判所が大坂府となり
1868(慶応04)07/01《05/12》に江戸府が設置されます。
そして09/03《07/17》に江戸府は勅令により東京府に改称されます。
さらに1943(昭和18)07/01、東京府と東京市の機能が統合され東京都となります。
ちなみに東京市とは1889(明治22)05/01に東京府の中心部を15区に分け統括して設置されました。

あれ?府は1868(慶応04)06/15《閏04/25》の京都府が初めてとしていますが、
箱館府は前日の1868(慶応04)06/14《閏04/24》に設置されています。
あれ?長崎とは関係のないところで疑問点が生じてしまいました。

「府」と「県」の違いについて

長崎県は、1868(慶応04)05/04から1年3か月弱のあいだ「長崎府」という名称でした。
いま「府」の名称は京都府と大阪府にとどめているだけですが、明治初めの一時期、全国的につけられた名称なのです。
では、府と県の違いは、どこにあるのでしょうか。
徳川幕府の幕府領(天領)には「奉行支配地」と「郡代支配地」がありましたが、
おおまかにいって「奉行支配地」が「府」となり、「郡代支配地」が「県」になったとされています。
当初、日本には京都、箱館、大阪、長崎、東京(江戸)、新潟(越後)、神奈川、奈良、甲斐(設置順) の9府があり、
つまり「府」と「県」の違いは明治政府にとっての重要度の違いによるものだそうです。
そして廃藩置県のとき、明治政府にとって最も重要な東京、大阪、京都だけを「府」とし、 他は「県」に統一しました。

「県」や「府」という名称は県域・府域を指すのではなく、本来は県庁・府庁という「役所」そのものを指すそうです。
これは長崎の一連の流れ、長崎奉行西役所→長崎会議所→長崎裁判所→長崎府→長崎県からもうなずけます。
ちなみに「県」は秦の始皇帝にまでさかのぼることができる地方制度だそうで、
律令以前の日本の地方単位である「あがた」もこの字が当てられています。
対して「府」が地方制度の名前として使われた歴史は、明治以前にはなく
律令格式レベルで、近衛府、兵衛府、衛門府/鎮守府……など、武力を行使する任務の役所に使われていたようです。
かなり狭い範囲での見解ですが、「府」は「民衆や外敵を(武力で)制圧する役所」となり
「重要都市の東京・大阪・京都をしっかりと制圧する役所」という位置づけになるのかもしれません。
最近、お役所の悪政が、よく取り沙汰されているようですが、ちょっとコワイ感じがします。


今回は、廃藩置県から府県レベルでの話として進めております。郡や市町村はまた別の機会に。


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