2011(平成23)03/30(水)初回立上
 2012(平成24)02/21(火)最終更新
 ●書籍  ●雑誌、新聞  ●協会、学会、党  ●大会、集会、遊説、伝道行商   全1693事象

1841(天保12)

  12/15《11/03》田中正造が下野国安蘇郡小中村に父田中富蔵、母サキとのあいだに生まれる
     1913(大正02)09/04午後0時50分、足利郡吾妻村下羽田の支援者庭田清四郎宅で田中正造が永眠
     死因は胃癌。享年73才
     財産は鉱毒反対運動などに使いはたし無一文。死亡時の全財産は信玄袋1つ
     中身は書きかけの原稿と新約聖書、鼻紙、川海苔、小石3個、日記3冊、帝国憲法とマタイ伝の合本だけ
     09/06雲龍寺で密葬が行なわれる
     10/12佐野町惣宗寺で本葬が行なわれる。参列者は数万人に

1847(弘化04)

  12/08《11/01》中江兆民が高知城下の土佐郡北街山田町に生まれる
     1901(明治34)12/13中江兆民が大阪で病床に臥せ55歳で死去。死因は食道癌【満54才?】
     12/17中江兆民は自分の葬儀にあたって一切の宗教色を排するように遺言
     葬儀に宗教上の儀式を持ち込まないで故人に別れを告げる兆民を送る会「告別式」が催される
     弔辞は板垣退助が読み、大石正巳の追悼演説、門下生総代野村泰亨の永別式辞に続き、1千人を数える参列者の列

1848(弘化05・嘉永01)

  01/04《弘化04・11/28》桂太郎が長門国阿武郡萩町の萩城下平安古で長州藩士馬廻役、桂與一右衛門の嫡男として生まれる
     1913(大正02)10/10胃がんで死去
     日露戦争を勝利に導いた総理大臣にもかかわらず国葬はなし
     のち増上寺で行なわれた葬儀の会葬者は数千人にのぼる。8か月前に桂を倒したはずの民衆までも大挙して押し寄せる
  02/共産主義者同盟の綱領としてカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスが起草した『共産党宣言』発表される
     1904(明治37)11/13幸徳秋水と堺利彦が共訳した「共産党宣言」が『平民新聞』1周年記念号の第53号に訳載。発禁となる
     ドイツ語からの翻訳ではなく、小島龍太郎が提供したサミュエル・ムーアの英語訳からの重訳

1849(嘉永02)

  12/07《10/23》西園寺公望が清華家のひとつ、徳大寺家の次男として生まれる
     のち4才のとき同族で清華家の西園寺家へ養子に入り家督を相続する
     1940(昭和15)11/24享年92、満90才で死去する

1856(安政03)

  03/15《02/09》原敬が盛岡藩盛岡城外の本宮村で盛岡藩士原直治の次男として生まれる
     1921(大正10)11/04内閣総理大臣在任中に東京駅で中岡艮一に刺殺される。ほぼ即死。65年の生涯を閉じる
     原敬は関西での政友会大会に出席のため東京駅に着いた直後。中岡艮一は山手線大塚駅の転轍手

1857(安政04)

  12/27《11/12》奥宮健之が土佐国土佐郡布師田村に生まれる。父の慥斉は藩内一流の陽明学者
     1911(明治44)01/24大逆事件で処刑される

1858(安政05)

  02/14《01/01》加藤時次郎が豊前国田川郡香春村に医師吉松元簡、きくの次男として生まれる
     のち加治姓となる
     1883(明治16)加藤さだの養子となり加藤時次郎となる
     1930(昭和05)05/3073才で死去する
     06/01芝二本榎承教寺で密葬
     06/05芝二本榎承教寺で本葬と告別式が営まれる
     杉田日布(身延山法王)、山田三良(法華会代表)、清水牧三郎(信行会総代)、
     北里柴三郎(東京府医師会長)、金杉英五郎(東京市医師会長)、松曄(京橋区医師会長)、
     麻生久(日本大衆党)、荻野庫三(社会政策実行団)らが弔辞を述べる
     06/29池上本門寺の墓所に埋骨され黒田忠悳が墓誌を記す。戒名は本時院医王日遠居士

1859(安政06)

  12/26《12/03》片山潜が美作国久米南条郡羽出木村の庄屋藪木家の次男として生まれる。幼名は菅太郎
     1933(昭和08)11/05モスクワで死去
     11/09葬儀には15万人のソビエト市民やコミンテルン指導者らが集まる
     棺にはカリーニン、ヨシフ・スターリン、ヴィルヘルム・ピーク、ベーラ・クン、野坂参三ら14人が付き添う
     遺骨はクレムリン宮殿の壁に他の倒れた同志たちと共に埋葬される

1861(万延02・文久01)

  03/23《02/13》内村鑑三が高崎藩士内村宜之とヤソの6男1女の長男として江戸小石川の武士長屋に生まれる
     1930(昭和05)03/28朝「非常に調和がとれて居るがこれでよいのか」の言葉を最後に昏睡状態におちいる
     午前8時51分に家族に見守られて死去

1864(文久04・元治01)

  01/17《文久03・12/09》永岡鶴蔵が大阪府吉野郡大日川村の漢方医中井善次郎の4男として生まれる
     1914(大正03)02/10急なゼンソクで千葉監獄にて52才で死去する
     前年1913(大正02)3月31日「貨幣偽造行使」の容疑で収監、服役中
  06/24《05/21》高木顕明が尾張国西春日井郡下小田井村で生まれる
     1911(明治44)01/19大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1914(大正03)06/24僧籍削除を苦に51才のとき秋田監獄で服役中に自殺

1865(元治02・慶応01 05/01《04/07》〜

  01/23《元治01・12/26》山路愛山が幕臣山路一郎の子として江戸浅草の天文屋敷に生まれる
     1917(大正06)03/1554才で病死
  03/01《02/04》安部磯雄が福岡藩士岡本権之丞の次男として生まれる。安部姓を名乗ったのは徴兵忌避のため
     1949(昭和24)02/1085才で没する
  11/22《10/05》景山英子(福田英子)が備前藩の下級武士景山確の次女として岡山県野田屋町に生まれる
     1927(昭和02)05/02午後6時5分、61才で没す

1867(慶応03)

  11/29大石誠之助が紀伊新宮の仲之町に生まれる
     1911(明治44)01/24大逆事件で処刑される

1868(慶応04・明治01 10/23《09/08》〜

  07/31《06/12》花井卓蔵が備後国御調郡三原町に士族、立原四郎右衛門の四男として生まれる
     のち分家により花井姓を名のる
     1931(昭和06)12/03東京神田の自宅兼事務所の寝室にてガス中毒により死去
     就寝中にガス火鉢のガス管が何らかの理由で外れる
     のち通夜、葬儀には多くの法曹関係者が駆けつけ、いくつかの重要裁判の公判が延期となる

1869(明治02)

  01/06《明治01・11/24》高野房太郎が長崎府彼杵郡長崎町銀屋町18番地に和服裁縫師の父仙吉、母ますの長男として生まれる
     1904(明治37)03/12日本に戻ることなく青島のドイツ病院で肝臓の膿瘍で客死。36才
  10/12《09/08》木下尚江が信濃国松本城下の松本藩士木下廉左衛門秀勝の子として生まれる
     1937(昭和12)11/0569才で没する
  11/29《10/26》田川大吉郎が肥前国大村藩の藩士の長男として生まれる
     1947(昭和22)10/09衆議院議員在職中に死去

1871(明治04)

  01/15《明治03・11/25》堺利彦が没落士族の3男として豊前国仲津郡長井手永大坂村松坂に生まれる
     1933(昭和08)01/23脳溢血で死去。享年64
  01/23《明治03・12/03》宮崎滔天が肥後国玉名郡荒尾村に郷士宮崎政賢(長兵衛)の8男で末子として生まれる
     本名は寅蔵(虎蔵)。浪曲家としての名は桃中軒牛右衛門
     1922(大正11)12/06腎臓病による尿毒合併症により東京で病没
  04/10《02/02》横山源之助が富山県中新川郡魚津町の網元の家に生まれる。父母は不詳【下新川郡魚津町?】
     左官職の横山伝兵衛、すい夫妻に養われその姓を名のるようになる
     1915(大正04)06/03小石川白山御殿御前町にて死去する。享年45才
  11/05《09/23》幸徳伝次郎が高知県幡多郡中村町に生まれる
     1910(明治43)06/01湯河原の天野屋旅館を出立した直後に大逆罪で拘引される
     1911(明治44)01/24大逆事件で処刑される

1872(明治05)

  06/12《05/07》日本で初めての鉄道が品川〜横浜間で仮営業を開始。2往復の列車が運行
     06/13《05/07》6往復となる
     10/14《09/12》新橋〜横浜間が正式開業
     開業の式典が催され明治天皇のお召列車が横浜まで往復する
     列車本数は日9往復、全線所要時間は53分、表定速度は時速32.8キロ

1873(明治06)

  08/10南助松が石川県に生まれる【1872(明治05)生?】
     1964(昭和39)10/1591才で死去【1965(昭和40)93才で没?】
  10/19新聞紙発行条目が布告される
     1875(明治08)06/28新聞紙条例がそれまでの新聞紙発行条目を実質的に改正するかたちで成立する
     新聞紙条例は明治時代の日本における、新聞を取り締まるための条例
     反政府的言論活動を封ずることを目的として制定
     1883(明治16)04/16新聞紙条例が改正
     統制を強め発行は保証金制度に、行政権による発行禁止・停止権、新聞紙差押え権など新設を含んだ改正
     改正1か月以内に47紙が廃刊。前年の355紙が年末には199紙に激減する。俗に「新聞撲滅法」とも称される
     1909(明治42)05/06新聞紙法の成立により新聞紙条例が失効となる
     権力による新聞弾圧の意図が一層拡大、さらに統制が強化される

1874(明治07)

  05/17内山愚童が新潟県北魚沼郡小千谷の宮大工で木形職人の直吉の息子に生まれる
     1911(明治44)01/24大逆事件で処刑される
  長崎の高島炭坑で囚人による労働がはじまる

1875(明治08)

  02/20武田九平が香川県香川郡浅野村で生まれる
     1911(明治44)01/19大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1929(昭和04)04/29成石勘三郎とともに長崎刑務所を仮出獄
     1932(昭和07)11/2958才のとき大阪市東区北浜3丁目で交通事故で死亡
  04/05赤羽一が長野県東筑摩郡広丘村郷原の地主問屋の父赤羽無事と母京の長男として誕生
     のち1910(明治43)5月25日発行の『農民の福音』が朝憲紊乱罪として入獄
     1912(明治45)03/01千葉監獄で獄中死
  06/28新聞紙条例がそれまでの新聞紙発行条目を実質的に改正するかたちで成立する
     新聞紙条例は明治時代の日本における、新聞を取り締まるための条例
     反政府的言論活動を封ずることを目的として制定
     1883(明治16)04/16新聞紙条例が改正
     統制を強め発行は保証金制度に、行政権による発行禁止・停止権、新聞紙差押え権など新設を含んだ改正
     改正1か月以内に47紙が廃刊。前年の355紙が年末には199紙に激減する。俗に「新聞撲滅法」とも称される
  07/24田添鉄二が熊本県飽託郡中緑村に太郎彦、シカの士族の長男として生まれる
     1908(明治41)03/1932年8か月のみじかい生涯をとじる
     7才年上の妻幸枝と満5才にみたない長男一、1才9か月の次男明が残される
     論敵となる幸徳秋水は森近運平の『日本平民新聞』で、その死を愛惜する
  09/30宮下太吉が山梨県甲府市若松町で鍛冶職人の次男に生まれる
     1910(明治43)05/25信濃明科の宮下太吉が大逆事件最初の検挙者となり拘引される
     1911(明治44)01/24大逆事件で処刑される

1876(明治09)

  01/30岡林寅松が高知県鷹匠町で生まれる
     1911(明治44)01/19大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1931(昭和06)04/29小松丑治とともに長崎刑務所を仮出獄
     1946(昭和21)02/24坂本清馬とともに刑の言い渡しの効力を失わせる「復権」が確定する
     1948(昭和23)09/0173才のとき高知で死去
  04/15小松丑治が高知市帯屋町で生まれる
     1911(明治44)01/19大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1931(昭和06)04/29岡林寅松とともに長崎刑務所を仮出獄
     1945(昭和20)10/04困窮のなか70才で死去
  04/29西川光次郎が名東県津名郡佐野村(兵庫県津名郡津名町佐野)に父林蔵、母たつの3男として生まれる
     1940(昭和15)10/23醸母菌脳膜炎で64才で没する
     10/27遺言により神式にて告別式を行なう
  05/23石川三四郎(旭山)が埼玉県児玉郡山王堂村に、戸長五十嵐九十郎、シゲの3男として生まれる
     生家は利根川沿岸で江戸時代から船着き問屋を営み名主も務める家
     徴兵を逃れるため、同村の石川半三郎の養子になる
     1956(昭和31)11/2880歳で没する
     12/07しのぶ会が開かれる。友人や同志、後輩など二百数十人が集まる
     旧い同志、添田唖蝉坊、柴田三郎、西川光二郎、及川鼎寿、大杉栄、堺利彦の息子、娘の姿も
     ヴァイオリンをひく、詩をよむ、思い出をかたる、礼賛する、思想的解剖をする、素破ぬきをするなど

1877(明治10)

  02/25広島出身の士族野村文夫が、東京神田雉子町31番地に団団社を設立
     時局諷刺週刊誌『団団珍聞』が創刊される。「団団珍聞」は「まるまるちんぶん」と読む。通称「団珍(まるちん)」
     創刊号の初刷りは5千部。3千部は日報社を通して売り、2千部は売捌所で売り完売。ただちに増刷する
     1907(明治40)07/27この日発売の号で一時休刊に
     のち月刊誌として復活する
     1908(明治41)1月号で終刊となる

1879(明治12)

  01/27松尾卯一太が熊本県に生まれる
     1911(明治44)01/24大逆事件で処刑される

1880(明治13)

  01/12新見卯一郎が熊本県に生まれる
     1911(明治44)01/24大逆事件で処刑される
  02/05成石勘三郎が和歌山県東牟婁郡請川村で生まれる
     1911(明治44)01/19大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1929(昭和04)04/29武田九平とともに長崎刑務所を仮出獄
     1931(昭和06)01/0352才で病死する
  03/12新田融が仙台市堤通町で生まれる
     1911(明治44)01/18大逆事件に連座したとされ捕らわれ、懲役11年の判決を受ける。1審限りで控訴なし
     1916(大正05)10/10千葉監獄を仮出獄
     1938(昭和13)03/2059才のとき東京で死去
  09/12岡本頴一郎が山口県吉敷郡大内村で生まれる
     1911(明治44)01/19大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1917(大正06)07/27諫早監獄で服役中に病死
  10/11小崎弘道、植村正久、田村直臣らが評論雑誌の月刊『六合雑誌』を創刊する
     政治、思想、社会問題などについて、キリスト教社会主義など進歩的立場から論じる
     1921(大正10)02/01481号をもって終刊となる
  12/20山川均が岡山県窪屋郡倉敷村字城の内の山川清平、尚の長男として生まれる。浦、次の2姉がある
     1958(昭和33)01/22終日臥床の状態に、病状は悪化
     03/23午前6時7分、死去。解剖の結果、主として膵臓癌と判定される
     04/02青山斎場にて日本社会党葬。倉敷市前神町長連寺の山川家墓地に埋葬

1881(明治14)

  01/20森近運平が岡山県の後月郡高屋村で生まれる
     1911(明治44)01/24大逆事件で処刑される
  03/16新村善兵衛が長野県埴科郡屋代町で生まれる
     1911(明治44)01/18大逆事件に連座したとされ捕らわれ、懲役8年の判決を受ける。1審限りで控訴なし
     1915(大正04)07/24千葉監獄を仮出獄
     1920(大正09)04/0240才のとき大阪で死去
  03/18『東洋自由新聞』が創刊する。社主は山城屋の稲田政吉。社長に西園寺公望が就任
     発行所は東京市京橋区尾張町2の19の東洋自由新聞社。定価は2銭3厘。当初は2千部を印刷
     幹事の松田正久、監督委員に森新三郎。編集委員は主筆の中江兆民の他、柏田盛文、上条信次、桑野鋭、松沢求策、林正明ら
     フランス的な自由民権論を展開する。内外の報道記事も充実
     のち西園寺の社長就任に対し、岩倉具視は宮内卿で西園寺の実兄徳大寺実則に働きかける
     明治天皇の内諭により社長辞任を申し入れる
     04/09辞任要請が内勅となり西園寺は辞任する
     のち内勅の事実を檄文によって暴露した松沢らが逮捕される
     言論弾圧の影響を受け社主の稲田が退くことに。資金が欠乏する
     04/30第34号で休刊となる。事実上の廃刊に
  06/07管野すがが大阪絹笠町に裁判官で代言人、鉱山事業家の管野義秀の長女として生まれる
     1910(明治43)06/03大逆罪で拘引される
     1911(明治44)01/25大逆事件で処刑される

1882(明治15)

  04/06自由党党首の板垣退助が岐阜の中教院で遊説中に暴漢の相原尚●(耳火の下に衣)に襲われ負傷する
     「板垣ハ死ストモ自由ハ死セズ」と叫ぶ
     板垣を診察した医者は後藤新平。板垣は後藤の才を見抜き「彼を政治家にできないのが残念だ」と語る
     のち後藤は板垣の希望通り政治家となる
  04/18樽井藤吉らが長崎の十善寺郷で日本初の社会主義政党「東洋社会党」を結成【05/25?】
     綱領
     ○道徳を言行の規準とする○平等を主義とする○社会公衆の最大福利を目的とする
     綱領をみると社会主義的な面がとくに打ちだしているわけではない
     のち党員が各地に遊説。3〜4千人の同志を獲得する
     のち遊説と雑誌の発行で党勢を拡張。清国や韓国へも党の趣旨を普及させるほど
     のち樽井が社会党の政策をかかげる
     ○土地その他あらゆる自然物の共有○協同社会○児童の国家養育○優生学的生殖
     明治政府の弾圧の手がのびてくる
     長崎警察署は社会党の中心人物達を次々に呼びだし、署長の野田警部自身が直接尋問をはじめる
     07/07長崎警察署長が内務卿命により結社を禁止、解散を命じられる
  06/25東京馬車鉄道会社が新橋〜日本橋間を開業する
     10/25日本橋〜万世橋〜上野〜浅草〜浅草橋〜日本橋の循環線を開業
     1899(明治32)06/19品川〜新橋間の品川馬車鉄道会社を合併
     1900(明治33)10/東京馬車鉄道会社が東京電車鉄道会社(東電)に改組
     1903(明治36)08/22新橋〜品川八ツ山に40人乗り木造4輪単車の市内電車が運転を開始
     1904(明治37)03/総延長17.0キロの旧馬車鉄道の路線を電化
     1906(明治39)09/11東京市街鉄道会社と東京電気鉄道会社とあわせて3社が合併、東京鉄道会社に改称
     (印の事象は以降の記述なし)
  08/12成石平四郎が和歌山県に生まれる
     1911(明治44)01/24大逆事件で処刑される
  10/14新橋〜日本橋間の馬車鉄道の開通により鉄道馬車反対同盟がつくられる
     自由民権運動の活動家で自由党の奥宮健之が失業した人力車夫の生活擁護を目的にした人力車懇親会
     中心は奥宮健之と車夫の三浦亀吉。植木枝盛、栗原亮一、伊藤仁太郎も協力
     のち「車会党(しゃかいとう・車界党)」と改称する
     車会党は車夫の共済組合的な性格を多分にもつ
     車会党規則総則第1条は「本会は車夫営業の為め相互に懇話親睦するを旨とし、名づけて車会党と称する」
     第4条は「会員たるもの他人の為め恥辱を蒙りもしくは損害等を受ける時はその情実によりこれを救助すべし」
  11/28福島県の自由党員、農民が県令三島通庸の圧政に反抗。福島事件が起きる
     三島通庸は会津三方道路工事に人夫や人夫賃を出させるなど、農民に大きな負担をかける
     県会議長河野広中を中心に自由党員や農民が団結して反対運動を展開
     佐治幸平らの逮捕をきっかけに数千人が喜多方警察署におしかけ約2000人が逮捕
     河野広中の軽禁獄7年の刑など6人が処罰される
  愛媛県の別子鉱山で日本で初めてダイナマイトが使用。掘削に採用される

1883(明治16)

  02/18吉川守圀が東京に生まれる
     1939(昭和14)08/1457才で死去
  03/20新潟県の活動家、加藤貞盟、八木原繁祉、赤井景韶ら20人余りが政府転覆の容疑で逮捕。高田事件が起きる
     05/党員や支持者ら37人が逮捕
     08/政府転覆計画の捜査が見込み捜査で、大半の容疑者は証拠が見つからないまま22人が不起訴
     加藤、八木原ら自由党幹部12人は起訴したが公判を維持できず、免訴、責付釈放となり事実上の無罪に
  04/03北一輝[本名は輝次(のち輝次郎)]が新潟県佐渡郡両津湊町の酒造業・北慶太郎と妻リクの長男として生まれる
     1937(昭和12)08/14軍法会議で二・二六事件の理論的首謀者とされ死刑判決
     08/19北一輝(52)が元騎兵少尉で愛弟子の西田税(34)とともに処刑される
  04/16新聞紙条例が改正
     統制を強め発行は保証金制度に、行政権による発行禁止・停止権、新聞紙差押え権など新設を含んだ改正
     新聞紙条例の成立は1875(明治08)6月28日
     改正1か月以内に47紙が廃刊。前年の355紙が年末には199紙に激減する。俗に「新聞撲滅法」とも称される
     1909(明治42)05/06新聞紙法の成立により新聞紙条例が失効となる
     権力による新聞弾圧の意図が一層拡大、さらに統制が強化される
  04/19山口義三(孤剣)が山口県赤間関区豊前田町に呉服商の父福田伊助、母チヨの3男として生まれる
     1920(大正09)09/02持病の腎臓病が悪化し37才で没す
  11/28東京麹町山下町に、西洋社交クラブ「鹿鳴館」がオープン。オープン当日は外務卿井上馨の誕生日
     建設費は18万円。鹿鳴館は外国からの賓客や外交官を接待するために明治政府によって建てられた社交場
     煉瓦造2階建で1階に大食堂、談話室、書籍室など、2階が舞踏室で3室開け放つと100坪ほどの広間に
     バーやビリヤード場も設備
     「鹿鳴」は詩経の「鹿鳴の詩」に由来、来客をもてなすことを表わす語
     落成の祝宴が1200人を招待して行なわれる【600人?】
     パーティは深夜にまでおよび午前1時新橋発横浜行の臨時列車が運行される

1884(明治17)

  05/13群馬県北甘楽郡で自由党急進派と農民の自由民権運動が激化。群馬事件が起きる
     自由党員の湯浅理平、小林安兵衛、三浦桃之助らが中心となり妙義山麓陣場ヶ原で蜂起
     襲撃の目標は警察署や高崎鎮台分営。正確な蜂起人数は不明。数10人、200人、数千人など人数に幅
     群集は松井田警察分署を襲撃、人数不足や士気減退で高崎鎮台分営襲撃は実行されず
     05/16北甘楽郡丹生村の高利貸岡部為作邸を打ちこわして蜂起は収束
     のち湯浅、小林、三浦らが逮捕、妙義山中の残党も1か月ほどで逮捕される
     のち最終的に湯浅、小林、三浦ら12人が有期徒刑、20人が罰金刑に
  06/14古河力作が福井県の遠敷郡雲浜村(現小浜市)で生まれる
     1911(明治44)01/24大逆事件で処刑される
  08/自由党員らが中心となり増税や借金苦に喘ぐ農民とともに「困民党」を組織、2度の山林集会を開催
     のち決議をもとに請願活動や高利貸との交渉を行なうも不調に
     のち租税の軽減、義務教育の延期、借金の据え置き等を政府に訴えるための蜂起が提案
     大宮郷で代々名主を務める家が出身の田代栄助が総理として推挙
     蜂起の目的は暴力行為なく高利貸や役所の帳簿を滅失し、租税の軽減等につき政府に請願すること
     10/31下吉田の椋神社で決起集会が行なわれ、蜂起の目的のほか、役割表や軍律が制定、蜂起が開始される
     軍律
      第1条 私ニ金品ヲ掠奪スル者ハ斬
      第2条 女色ヲ犯ス者ハ斬
      第3条 酒宴ヲ為シタル者ハ斬
      第4条 私ノ遺恨ヲ以テ放火其他乱暴ヲ為シタル者ハ斬
      第5条 指揮官ノ命令二違背シ私ニ事ヲ為シタル者ハ斬
     11/01秩父郡内を制圧し高利貸や役所等の書類を破棄。秩父事件が起きる
     のち政府は警察隊、憲兵隊等を送り込むが苦戦。最終的に東京鎮台の鎮台兵をが送られ郡境を抑える
     11/04秩父困民党指導部は事実上崩壊、鎮圧される
     のち一部の急進派は北相木村の菊池貫平を筆頭に農民を駆り出して十石峠経由で信州方面に進出する
     11/09一隊は佐久郡東馬流で鎮台兵の攻撃を受け壊滅
     のち指導者、参加者は各地で次々と捕縛。約14000人が処罰
     1885(明治18)02/19浦和重罪裁判所で首謀者とされた7人に死刑判決が下される
     田代栄助、加藤織平、新井周三郎、高岸善吉、坂本宗作、菊池貫平、井上伝蔵。うち井上と菊池は欠席裁判での判決
     05/17田代、加藤、新井、高岸、坂本が絞首刑に
     のち井上は北海道に逃走、菊池は甲府で逮捕、終身刑に減刑される
  09/16竹久夢二(本名竹久茂次郎)が岡山県邑久郡本庄村に酒造業を営む家に次男として生まれる
     兄が前年に亡くなり、事実上の長男
     1934(昭和09)09/01長野県八ケ岳山麓の富士見高原療養所で死去。49才
  09/栃木の民権家鯉沼九八郎が爆裂弾を製造中に事故を起こし重傷
     民権運動を弾圧した三島通庸県令や大臣を爆殺する計画が明らかに
     09/23無謀と知りつつも16人が爆裂弾百数十発をもち茨城県の加波山に立てこもり檄文を起草。加波山事件が起きる
     夜、河野広体ら10人が下山し真壁郡の町屋分署を襲撃
     のち自由党幹部の内藤魯一や田中正造、小久保喜七ら300人の民権家が逮捕。起訴は加波山の16人と若干名のみ
     のち7人に死刑判決がくだる。1人は刑執行前に獄死、3人が無期懲役に
     のち獄死者を除いた服役者は特赦によって出獄する
  11/08名古屋にある大日本帝国陸軍の鎮台を占拠しようと計画、戦闘準備をはじめる。飯田事件が起きる
     計画の発案は信州飯田の愛国正理社の桜井平吉と三河の田原自由党の村松愛蔵・八木重治が中心となる
     11/09政府転覆を理由に村松、八木、桜井らを逮捕し刑務所に連行
  11/26片山潜(25)がサンパウロ号で横浜を発ち渡米する
     12/14サンフランシスコに上陸
     1895(明治28)12/下帰国のためヴィクトリア号に乗船。ワシントンのタコマを発つ
     1896(明治29)01/横浜につく。足かけ13年ぶりの帰国となる
     1903(明治36)12/29横浜からアメリカに向けて旅立つ。第2回渡米
     1904(明治37)01/17アメリカのシアトルにつく
     1906(明治39)01/18横浜に帰着
     1906(明治39)07/131月にアメリカから帰ったばかりの片山潜が3度目の渡米
     1907(明治40)02/19アメリカから帰国
     1914(大正03)09/09佐渡丸で横浜を出帆。4回目の渡米となる。最後の渡米で、事実上の亡命
     日本での逆境にたえないのが最大の理由。病身の妻と3人の子供を残し出発
     09/28サンフランシスコに上陸
  12/加波山事件後に解党していた旧自由党の党員が政府転覆未遂事件を起こす。名古屋事件が起きる
     軍資金を調達するために略奪行為などを行なうが、武装蜂起は失敗、処罰される
      明治政府に批判的な大島渚を中心とする博徒系グループ
      山内徳三郎、鈴木松五郎を中心とする愛国交親社系グループ
      久野幸太郎ら名古屋自由党公道協会の会員らが結合

1885(明治18)

  01/17大杉栄が香川県丸亀に生まれる
     父の大杉東は大日本帝国陸軍の軍人で親戚にも軍人がいるという家庭環境
     1923(大正12)09/16関東大震災の混乱に乗じて、甘粕正彦憲兵大尉により伊藤野枝、橘宗一とともに虐殺される
     大杉の弟家族を鶴見に見舞った帰り。橘宗一は大杉の妹の子
  02/19秩父事件の首謀者とされた7人に浦和重罪裁判所が死刑判決をくだす
     田代栄助、加藤織平、新井周三郎、高岸善吉、坂本宗作、菊池貫平、井上伝蔵。うち井上と菊池は欠席裁判での判決
     05/17田代、加藤、新井、高岸、坂本が絞首刑に
  04/01峰尾節堂が和歌山県東牟婁郡新宮町で生まれる
     1911(明治44)01/19大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1919(大正08)03/0635才のとき千葉監獄で服役中に病死
  07/04坂本清馬が高知県安芸郡室戸村で生まれる
     1911(明治44)01/19大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1931(昭和06)10/01秋田刑務所から高知刑務所へ移送される
     1934(昭和09)11/03高知刑務所を仮出獄
     1946(昭和21)02/24岡林寅松とともに刑の言い渡しの効力を失わせる「復権」が確定する
     1975(昭和50)01/1589才で死去【84才?】
  10/12崎久保誓一が三重県南牟婁郡市木村下市木で生まれる
     1911(明治44)01/19大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1929(昭和04)04/29秋田刑務所を仮出獄
     1948(昭和23)06/26飛松与次郎とともに刑の言い渡しの効力を失わせる「復権」が確定する
     1955(昭和30)10/3070才のとき市木村で死去
  11/23大井憲太郎らとともに朝鮮改革運動に加わった20才の景山(福田)英子が爆発物運搬などに協力し長崎で拘引【11/13?】
     大阪事件
     11/25長崎警察署の警部補宋栄次郎により訊問が行なわれる
     1887(明治20)05/25大阪臨時重罪裁判所で第1回公判が開かれる
     170枚の傍聴券はたちまちに渡し尽され追加分もすぐになくなる
     午前7時50分開廷。裁判長は評定官の井上操、陪席は評定官の臣佐武、矢野茂、検察官別府景通、堀田正忠
     のち事実審問35回、事実弁論40回、法律弁論19回
     09/21弁論が終わる
     09/24判決が下る。景山は外患罪で軽禁錮1年6か月、監視10か月の判決を受ける
     第1審の判決に服し即日下獄
     のち三重県の津監獄に送られる
     1889(明治22)02/14大赦令により出獄

1886(明治19)

  02/20石川啄木(本名石川一)が岩手県南岩手郡日戸村常光寺の住職石川一禎と妻カツの長男として生まれる
     1912(明治45)04/13東京は小石川区久堅町にて肺結核のため死去。享年27
  03/28加藤時次郎が千住加藤病院を設立する
  06/上7月10日の箱根離宮落成式に臨席の政府高官暗殺し、天皇を擁立する計画をたてる
     爆弾を作り準備するがスパイの密告により発覚、一味は各地で捕縛される。静岡事件が起きる
     中心人物は旧岳南自由党、遠陽自由党員の民権左派の中野次郎三郎、山岡音高ら
  06/12〜16甲府の雨宮製糸女工が時間短縮を要求するストライキ
     のち甲府の各製糸工場でストが続発する
  07/藤村操が北海道の事業家藤村胖(ゆたか)の長男として生まれる
     胖は明治維新後に北海道に渡り事業家として成功。祖父、政徳は盛岡藩士で胖は政徳の長子
     1903(明治36)05/22第1高等学校文科1年在学中に日光の華厳の滝で投身自殺
     数えで18才の16才10か月。自殺現場のかたわらの木に「巌頭之感」を書き残す
     のちあとを追う者が続出。藤村の死後4年間で華厳の滝で自殺を図った者は185人に
  10/24イギリス船籍の貨物船ノルマントン号が横浜から神戸へむかう途中、紀州沖で座礁沈没する
     ノルマントン号にはイギリス人、ドイツ人、中国人、インド人、日本人らが乗船
     事故の際、イギリス人船長ジョン・ウイリアム・ドレークの指示により乗組員は避難する
     日本人乗客の25人全員とインド人水夫など乗組員12人は誰ひとり助かることなく死亡
     のち「東洋人を人種的に差別しあたかも動物視している」 として世論をわかすことに

1887(明治20)

  02/15徳富猪一郎(蘇峰)らが民友社から月刊誌『国民之友』を創刊する
     民間雑誌で日本初の総合雑誌
     のち徳富猪一郎の弟徳富健次郎(蘆花)はじめ山路愛山、竹越与三郎、国木田哲夫(独歩)らが入社
     のちまもなく月2回の発行になる
     1889(明治22)月3回の発行になる
     1896(明治29)週刊になる
     1897(明治30)08/月刊にもどる
     1898(明治31)08/第372号をもって廃刊となる
  04/26新村忠雄が長野県埴科郡屋代町に父善兵衛、母やいの次男として生まれる
     1911(明治44)01/24大逆事件で処刑される
  05/25朝鮮改革運動に加わった景山(福田)英子らへの第1回公判が大阪臨時重罪裁判所で開かれる。大阪事件
     170枚の傍聴券はたちまちに渡し尽され追加分もすぐになくなる
     午前7時50分開廷。裁判長は評定官の井上操、陪席は評定官の臣佐武、矢野茂、検察官別府景通、堀田正忠
     景山は爆発物運搬などに協力し1885(明治18)11月23日に長崎で拘引【11/13?】
     のち事実審問35回、事実弁論40回、法律弁論19回
     09/21弁論が終わる
     09/24判決が下る。景山は外患罪で軽禁錮1年6か月、監視10か月の判決を受ける
     第1審の判決に服し即日下獄
     のち三重県の津監獄に送られる
     1889(明治22)02/14大赦令により出獄
  07/甲府市外の製糸女工が労働強化反対のストライキ
  08/11福岡で国権派日刊紙『福陵新報』が創刊される
     玄洋社の頭山満を中心に刊行し、主筆には福沢諭吉の門弟で「時事新報」の記者川村惇が迎えられる
     1898(明治31)題号を『九州日報』に改め、記者として宮崎滔天、夢野久作ら
     1940(昭和15)読売新聞社に買収される
     1942(昭和17)08/10新聞統制により「福岡日日新聞」と合同し『西日本新聞』に改められる
  08/14荒畑勝三(寒村)が神奈川県横浜市永楽町の横浜遊郭内でに生まれる
     1981(昭和56)03/0696才で死去
  12/25保安条例が制定、発布され即日施行される(明治20年勅令第67号)
     全7条からなる自由民権運動など反政府運動をを弾圧するための法律
     秘密結社、秘密集会、秘密出版の禁止、屋外の集会運動の制限などを定める
     内乱の陰謀・教唆、治安の妨害をする恐れがある自由民権派の人物が皇居から3里(約11.8km)以外に退去
     3年以内の間その範囲への出入りや居住を禁止される
     1898(明治31)06/25保安条例廃止法律(明治31年法律第16号)により廃止となる
  12/26〜28保安条例により東京から退去を命じられる者が総計約570人に
     退去を命じられたのは尾崎行雄、星亨、林有造、中江兆民、片岡健吉、
     光永星郎、中島湘煙、中島信行、横川省三、山本幸彦、坂本直寛ら
     のち片岡健吉、坂本直寛ら10数人が退去を拒否し投獄される
     禁獄2年6か月、監視2年の刑を宣告
     1889(明治22)02/大赦令により出獄

1888(明治21)

  01/15自由民権派の日刊紙『東雲新聞』が創刊される
     発行所は、大阪市北区堂島仲2丁目47番地の東雲新聞社。定価は1銭5厘。主筆は中江兆民
     1890(明治23)10/08廃刊となる
  01/27長崎で煙草の職工がスト
  02/10三浦安太郎が兵庫県武庫郡鳴尾村で生まれる
     1911(明治44)01/19大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1916(大正05)05/1829才のとき諫早監獄で服役中に自殺
  02/25四日市で煉瓦工がスト
  04/国粋主義系の政治評論団体、政教社が結成。結成と同時に雑誌『日本人』を創刊する
     発足時の同人は哲学館系の井上円了、加賀秀一、島地黙雷、辰巳小次郎、棚橋一郎、三宅雪嶺と、
     東京英語学校系の志賀重昂、松下丈吉、菊池熊太郎、今外三郎、杉江輔人の11人
  06/06神近市子が長崎県北松浦郡佐々村字小浦の漢方医の三女として生まれる
     1981(昭和56)08/01午後5時、93歳で没する
  06/18雑誌『日本人』第6号に松岡好一の潜入体験手記「高島炭鉱の惨状」が掲載される
     07/14雑誌『日本人』第7号の特集には、元高島炭礦社員の吉本襄が「高島問題で天下の人に訴う」を寄稿する
  08/末『朝野新聞』で記者をしていた犬養毅が高島へ渡り、取材記事「高島炭鉱の実況」が連載
     8月29日の第4459号から9月13日の第4472号まで連載
     犬養の報告記は、これまでの松岡好一や吉本襄の体験と正反対、まっこうから否定する内容
     のち松岡は犬養の記事を三菱の代弁ではないかと憤り、犬養に対し介添人をたて決闘状を突きつける
     犬養は拒絶するという事件が起きる
  11/02幸徳伝次郎が中江兆民のもとで生活。寝食苦楽をともにする
     1890(明治23)08/まで
     1891(明治24)03/〜07/2回目
     1893(明治26)03/〜08/3回目

1889(明治22)

  02/10佐々木道元が熊本県西坪井町真宗寺院即生寺で生まれる
     1911(明治44)01/19大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1916(大正05)07/1528才のとき千葉監獄で服役中に病死
  02/11大日本帝国憲法が公布される
  02/14大井憲太郎らとともに朝鮮改革運動に加わった景山(福田)英子が大赦令により出獄。大阪事件
     景山は爆発物運搬などに協力し1885(明治18)11月23日長崎で拘引【11/13?】
     判決は外患罪で軽禁錮1年6か月、監視10か月
  02/26飛松与次郎が熊本県鹿本郡広見村で生まれる
     1911(明治44)01/19大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1925(大正14)05/10秋田刑務所を仮出獄
     1948(昭和23)06/26崎久保誓一とともに刑の言い渡しの効力を失わせる「復権」が確定する
     1953(昭和28)09/1064才のとき熊本県山鹿村で死去【65才?】
  02/保安条例による東京からの退去命令を拒否し投獄された片岡健吉、坂本直寛ら10数人が大赦令により出獄する
  06/08〜1619才の堺利彦が初めて書いた小説「悪魔」を『福岡日日新聞』に投稿。連載される
  07/『政論』が創刊する
  09/30〜10/06大阪天満紡績女工が賃上げのストライキを起こす
  09/秋田の太郎鉱山で坑夫がスト
  11/品川乗合馬車鉄道が新橋〜品川間に無軌道式の乗合馬車を開業する
     1897(明治30)12/鉄道軌道式となり品川馬車鉄道会社に改称する
     1899(明治32)06/19東京馬車鉄道会社に合併
  民友社発行の総合雑誌『国民之友』が月刊から月3回になる
     創刊は1887(明治20)2月15日、廃刊は1898(明治31)8月
     1896(明治29)週刊となる

1890(明治23)

  02/11紀元節のこの日、「金鵄勲ノ等級製式佩用式」の勅令11号をもって金鵄勲章が制定される
     金鵄勲章は武功抜群な陸海軍人に与えられる勲章。功1級から功7級まで
     1947(昭和22)05/03GHQの指示で公示により廃止となる
  05/酒井雄三郎が『国民之友』にメーデーを紹介する
  06/06「大日本労働者同盟会」が結成される
  07/25集会条例を受け継いだ集会、結社規制法規「集会及政社法」が公布される
     認可制を届出制にかえて規制をゆるめる
     臨監警察官による集会の解散権や内務大臣の結社禁止権、他社との連絡の禁止などは残される
     新たに未成年者、女子の政談集会、政社参加を禁止。屋外集会、多衆運動への規制が加わる
     1900(明治33)03/30治安警察法により廃止となる
  08/23足尾銅山で鉱毒があらわれる
  08/1888(明治21)11月2日からはじめた幸徳伝次郎の中江兆民のもとで寝食苦楽を共にした生活が8月まで続く
     1891(明治24)03/〜07/2回目
     1893(明治26)03/〜08/3回目
  10/08自由民権派の日刊紙『東雲新聞』が廃刊となる
     『東雲新聞』は1888(明治21)年1月15日に創刊。主筆は中江兆民が務める
  11/03青山菊枝が東京神田で父、森田龍之助、母(青山)千世のあいだに生まれる。兄弟は10人
     父は熊本県玉名郡出身の士族で、神田三崎町に旅館玉名館を営む
     母は水戸藩士で弘道館教授頭取代理、彰考館権総裁を務めた儒学者、史学者の青山延寿の娘
     菊枝は青山姓を名のる
     1980(昭和55)11/02死去
  11/11東京浅草に12階建ての凌雲閣が開業する
     高さは173尺(約52米)、建坪は37坪(122.31平方米)
     設計はウィリアム・K・バルトン(イギリス人)
     構造は10階まで煉瓦造り、11と12階は木造
     1階は入口階、2〜7階は諸外国の物品販売店(計46店舗)、8階は休憩室、10〜12階は展望室
     1〜8階にかけて日本初のエレベーターが設置される
     入場料は大人8銭、子供4銭
     12階の展望室には望遠鏡が設置、見料は1銭
     1923(大正12)09/01関東大震災により、建物の8階部分より上が崩壊
     09/23経営難から復旧が困難となり陸軍工兵隊が爆破解体
  12/23大井憲太郎が『あずま新聞』を創刊する
  加藤時次郎が東京市京橋区水谷町に加藤病院を設立する
     1894(明治27)06/09懇意の者100人を帝国ホテルに招き加藤病院の木挽町移転工事落成を祝す
     長与専斎、佐々木東洋、田代基徳、松山棟庵ら
     06/加藤病院が東京市京橋区木挽町6丁目10番地に移転
     外科、皮膚病科のほかドイツドクトルの平野光太郎を聘し産科、婦人科を新設
     1896(明治29)02/10神奈川県の青木台に加藤病院分院を開く
     のち神奈川県の小田原十字町海岸に別荘をかねた分院を設ける
     1899(明治32)加藤病院の広告がでる。院長加藤時次郎、副院長田島丈作。診察は午前9時から正午まで
     外科、皮膚科を専門とし梅毒、痲病、痔疾のほか癩病、外科的婦人科、尿道器械的療法を設置
     1915(大正04)11/加藤病院を改組して平民病院を開設する

1891(明治24)

  01/09内村鑑三が第一高等中学校の嘱託教員時代、教育勅語奉読式にて明治天皇の親筆の署名に最敬礼を行なわず降壇
     同僚、生徒などの非難から社会問題となり不敬事件に発展。「内村鑑三不敬事件」「第1高等中学校不敬事件」
     01/17新聞「民報」がいちばんに報じる
     のち1月25日付「密厳教報」、27日には事件元一高の「校友会雑誌」と「読売新聞」、「民報」の続報と続く
     のち事件20日目。事態の悪化に木下校長は改めて内村に敬礼を依頼
     内村は同意するが、インフルエンザから肺炎をこじらせ、代わりに木下駿吉が行なう
     のちマスコミが大きく取り上げて「内村鑑三の不敬事件」として全国に喧伝され、キリスト教と国体の問題へ進展
     のち内村は病床にあり意識不明の状態のなか
     1月31日には代筆により本人の名前で辞表がだされ、2月3日付けで依願解嘱される
     2月に本人の知らないうちに内村の名前で弁明書が数紙に掲載される
     のち3月末までに事件を扱った新聞、雑誌は数十種、延べ150回近くに
  01/09内村鑑三の不敬事件をきっかけに各校に配布された教育勅語の写しを丁重に取り扱うよう命じる旨の訓令が発せられる
     のち祝祭日に学校で行なわれる儀式では教育勅語を奉読(朗読)することなどが定められる
     1891(明治24)の小学校祝日大祭日儀式規定(明治24年文部省令第4号)
     1900(明治33)の小学校令施行規則(明治33年文部省令第14号)などによる
     紀元節(2月11日)、天長節(天皇誕生日)、明治節(11月3日)、1月1日(元日、四方節)の四大節
     学校で儀式が行なわれ、全校生徒に向けて校長が教育勅語を厳粛に読み上げられる
     写しは御真影とともに奉安殿に納められて、丁重に扱われる
     以後、教育勅語は教育の第一目標とされるようになる
  01/23〜28東京府下の石工がストライキを行なう
  01/岡山の鉄道工夫がストライキを行なう
  01/『立憲自由新聞』が創刊する
  02/14近江の麻紡績職工が暴動
  03/〜07/幸徳伝次郎が7月まで中江兆民のもとで生活。寝食苦楽をともにする。2回目
     1回目は1888(明治21)11月2日から1890(明治23)8月まで
     1893(明治26)03/〜08/3回目
  05/11琵琶湖見物を終えたロシアのアレクサンドル3世の長子ニコライ2世が京都の宿舎に帰る途中
     滋賀県の大津で警備の巡査・津田三蔵に切りつけられ負傷する。大津事件
  05/自由党大会で社会主義の排斥が宣言される
  06/『民権新聞』が創刊する
  08/足尾銅山の鉱毒で農作物の被害が甚大となる
  10/09東京市神田区錦町3丁目に錦輝館が開業する
     1918(大正07)08/19火災により焼失する
  10/京都で活版職工同盟会が結成される
  12/東京の花崗石工がストライキを行なう

1892(明治25)

  01/28勅令第11号の緊急勅令として予戒令が公布される
     「社会公共の安寧秩序を紊す行為に出るおそれありと認むるとき、その者の自由を制限し予め謹慎せしむる命令」
     命令権者は警視総監、府県知事とする
  02/東京府下で煉瓦職組合が設立される
  08/東京深川で左官がストライキを行なう
  09/甲府の矢島製糸女工で賃下げ反対のストライキが起きる
  10/27斯波貞吉の『国家的社会論』が東京冨山房より刊行される
  10/3011月3日に発行する吉松茂彦の1枚もの『日本平権党宣言書』が発売頒布禁止の処分を受ける
  11/01『都新聞』を辞した黒岩涙香が東京で『万朝報』を創刊させる。発行所名は「朝報社」
     1940(昭和15)10/01『東京毎夕新聞』に吸収され廃刊となる
  12/28『平権倶楽部主旨竝規約書』が発売頒布を禁止する処分を受ける。発行日、発行者、著者は不明

1893(明治26)

  01/04前時代的な飯場制度の撤廃を要求する夕張炭鉱の労働者300人が争議を起こす【400人?】
     09/労働者が会社直轄に切り換えられる
     1894(明治27)04/納屋頭から「坑夫世話役」制度に切り替わる
     1900(明治33)08/世話役に代わり巡視長および巡視制度を布く
     のち少しずつに労務管理の近代化をはかる
  03/〜08/幸徳伝次郎が8月まで中江兆民のもとで生活。寝食苦楽をともにする。3回目
     1回目は1888(明治21)11月2日から1890(明治23)8月まで
     2回目は1891(明治24)3月から7月まで
  08/28民友社からウィリアム・グラハムの『新旧社会主義』が森山信規の訳で刊行される
  08/28民友社からジョン・レーの『現時の社会主義』が深井英五の訳で刊行される
  09/11京都の西陣織職工が賃上げ要求のストライキを行なう
  09/15朝報社の『万朝報』が発行停止の処分を受ける。10月6日まで
     以降、この年の『万朝報』の発行停止は4回に
      第2回目の発行停止は10月28日から11月3日
      第3回目の発行停止は11月10日から11月16日
      第4回目の発行停止は11月30日から12月6日
  09/25愛媛県新居浜の農民が別子銅山の煙害に反対する
  10/07黒岩涙香が『万朝報』に「停止および解停」を発表する
  10/10黒岩涙香が『万朝報』に「新聞紙の新聞紙たるゆえん―それいずくにあるや」を発表する
  10/17黒岩涙香が『万朝報』に「小局の見解をもって全局の方針を誤らしむるなかれ―あえてその筋々の新聞検閲者に告ぐ」を発表
  10/26秋山定輔(26)が中心となり東京は神田で日刊『二六新報』が創刊される
     藩閥政治反対を唱え、朝鮮問題や中国の動向に注目した独立の政論新聞
     1895(明治28)05/資金難と日清戦争後の対外政策に反対する論陣を張り休刊に追い込まれる
     1900(明治33)02/同郷岡山の友人の資金援助を得て復刊する
     のち三井財閥攻撃、吉原娼妓の自由廃業実践運動、天狗煙草の岩谷松平キャンペーンなどを次々と打ちだす
     1902(明治35)08/秋山が第7回総選挙で当選。代議士となり桂内閣攻撃を強め露探とうわさされる
     1904(明治37)03/代議士を辞任、『二六新報』の勢いが失われる
     1904(明治37)04/『東京二六新聞』と改題
     のち『二六新報』『二六新聞』『世界新聞』『二六新報』と改題をかさねる
     1940(昭和15)09/新聞の戦時統制で『日刊工業新聞』と合併
  11/09松原岩五郎(乾坤一布衣)が民友社から『最暗黒之東京』を刊行
  石川三四郎(18)が福田英子の書生となる

1894(明治27)

  01/18高群逸枝が熊本県下益城郡豊川村南豊崎の小学校校長、高群勝太郎の長女として生まれる
     1964(昭和39)06/0777歳で没する
  01/26天満紡績で賃上げ、監督排斥のストライキが起きる
  04/03神戸市活版工組合の結成に着手
  04/北海道の夕張炭鉱がそれまでの納屋頭制度から「坑夫世話役」制度に切り替わる
     1900(明治33)08/世話役に代わり巡視長および巡視制度を布く
     のち少しずつに労務管理の近代化をはかる
  06/09加藤時次郎が懇意の者100人を帝国ホテルに招き加藤病院の木挽町移転工事落成を祝す
     長与専斎、佐々木東洋、田代基徳、松山棟庵ら
     06/加藤病院が東京市京橋区水谷町(1890(明治23)開院)から京橋区木挽町6丁目10番地に移転
     外科、皮膚病科のほかドイツドクトルの平野光太郎を聘し産科、婦人科を新設
     1896(明治29)02/10神奈川県の青木台に加藤病院分院を開く
  07/23北海道炭坑鉄道で賃上げストライキが起きる
  07/26別子鉱山の煙害で農民が住友分店を襲撃、警官と衝突する
  08/01清国に宣戦布告。日清戦争が始まる
     1895(明治28)04/17日清講和条約(下関条約)が調印

1895(明治28)

  01/21福岡県糸島郡今宿村に7人兄妹の3番目の長女として伊藤野枝が生まれる
     1923(大正12)09/16関東大震災の混乱に乗じて、甘粕正彦憲兵大尉により大杉栄、橘宗一とともに虐殺される
     大杉の弟家族を鶴見に見舞った帰り。橘宗一は大杉の妹の子
  02/03古川市兵衛と鉱毒被害農民が示談の契約書を交わす
  03/布川孫市により社会学会が創立する
     賛成員は田口卯吉、三宅雪嶺、呉文聰、加藤弘之、ガルストなど
     社会学の原理、社会主義、社会問題等を研究するを以て目的とする
  04/17日清講和条約(下関条約)が調印。日清戦争が終結
     宣戦布告は1894(明治27)8月1日
  05/06東京の煉瓦工が賃上げストライキを起こす
  05/秋山定輔の日刊『二六新報』が資金難と日清戦争後の対外政策に反対する論陣を張り休刊に追い込まれる
     『二六新報』は1893(明治26)10月26日、秋山定輔(26)が中心となり東京は神田で創刊される
     1900(明治33)02/同郷岡山の友人の資金援助を得て復刊する
  06/23東京第1師団の軍夫がストライキを起こす
  10/29大阪タバコ工300人がストライキを起こす
  12/木下尚江、中村太八郎らが信州松本で普選運動をはじめる
     1897(明治30)05/01中村太八郎、木下尚江らが信州松本で普選同盟会を設立する
     07/中村太八郎、木下尚江らが普通選挙期成同盟会を結成
  12/下片山潜が帰国のためヴィクトリア号に乗船。ワシントンのタコマを発つ
     片山初めての渡米は1884(明治17)11月26日に横浜を発ち、12月14日にサンフランシスコに上陸
     1896(明治29)01/横浜につく。足かけ13年ぶりの帰国となる
  神岡鉱山で坑夫共済会が組織される

1896(明治29)

  01/1895(明治28)12月下旬にワシントンのタコマをヴィクトリア号で発った片山潜が横浜につく
     片山は1884(明治17)11月26日に横浜を発ち、12月14日にサンフランシスコに上陸
     片山初めての渡米で足かけ13年ぶりの帰国となる
  02/10加藤時次郎が神奈川県の青木台に加藤病院分院を開く。本院は東京府京橋区木挽町6丁目10番地
     加藤病院は1890(明治23)、東京市京橋区水谷町に開院
     のち神奈川県の小田原十字町海岸に別荘をかねた分院を設ける
     1899(明治32)加藤病院の広告がでる。院長加藤時次郎、副院長田島丈作。診察は午前9時から正午まで
     外科、皮膚科を専門とし梅毒、痲病、痔疾のほか癩病、外科的婦人科、尿道器械的療法を設置
  03/駸々堂が堺枯川の『破れ羽織』を発行する
  04/02無名研究会が創立する【04/26?】
     山崎覺次郎、桑田熊蔵、高野岩三郎、小野塚喜平治、織田一、鈴木純一郎ら東京帝国大学法科教授によって組織
     1897(明治30)門戸を開放し公的な会合に。日本社会政策学会となる
  04/失業中の堺利彦(26)が落葉社の会員堀紫山の妹、美知子(23)と結婚する
     落葉社は堺が加藤眠柳、上司小剣、堀紫山らとつくった俳句の親睦団体
     美和子は1906(明治39)9月に大杉栄(21)と結婚する堀保子の姉
     1897(明治30)10/堺利彦、美知子との間に長男不二彦が生まれる
     堺は「不二山に対ひ立ちてもふさはしき男の子になれと祈るなりけり」との気持ちから名づける
     1899(明治32)08/28脳膜炎を起こす。翌日、危篤状態になり入院
     のち入院費がかさみ退院。看護婦を雇い自宅看護に
     12/22脳膜炎を起こし死去
     のち不二彦の死を悼み妻美知子の衰弱がひどくなる
     1903(明治36)01/30堺真柄が東京府下角筈で堺利彦と美知の長女として生まれる
     由来は堺がエミール・ゾラの「多産」を抄訳して「子孫繁昌記」を出版。その登場人物「マーガレット」から
     1904(明治37)08/病弱の美知子の持病の肺患が急激に悪化。加藤病院神奈川分院に入院加療
     のち堺が活動しやすいように真柄を加藤病院小田原分院がひきとる
     09/18美知子が入院先の加藤病院神奈川分院で死去。享年35才【08/18?】
  07/19〜21三重紡績でストライキが起きる
  10/07門司港沖の仲仕がストライキを起こす
  11/02足尾鉱毒被害農民による足尾銅山鉱業停止請願事務所がつくられる
  暮/24才の南助松が夕張炭坑へ入り斜坑運搬夫となる
     34才の永岡鶴蔵が院内銀山の同志80人と北海道夕張炭鉱へ移るのは1897(明治30)5月1日
  民友社発行の総合雑誌『国民之友』が月3回発行から週刊になる
     創刊は1887(明治20)2月15日、廃刊は1898(明治31)8月
     1897(明治30)08/月刊にもどる

1897(明治30)

  01/15海南新聞社員の柳原極堂が松山で『ほとヽぎす』を創刊
     雑誌名は正岡の俳号「子規」にちなんだもの
     選者は正岡子規、高濱虚子、河東碧梧桐、内藤鳴雪ら
  01/27横浜の日本絹紡で職工がストライキを起こす
  02/永岡鶴蔵ら院内銀山坑夫500人が賃下げ反対で3日間スト。警察署長の仲介で要求は承認されるが後に賃下げ実施
  03/01片山潜がアメリカで学んだ社会改良事業を計画【02/01?】
     組合派宣教師のグリーン博士より月25円を受けることに
     神田三崎町に1戸を借り「キリスト教社会事業の本営たらしめん」と「大学植民事業」キングスレー館をはじめる
  03/02足尾鉱毒被害民が鉱毒惨害の救済を議会に請願陳情するため出発する。第1回押出し
     03/03800余人が上京し農商務相に陳情、嘆願して農商務省をとりかこむ
     03/23足尾鉱毒被害民3600人が渡瀬村雲竜寺に集合
     03/24第2回目の押出しが行なわれる
     1898(明治31)09/261万人余が集合し第3回目の押出しが行なわれる
     各地で警察が憲兵の阻止行動。田中正造の説得で惣代50人を残して解散
     09/29農商務省などに陳情する
     1900(明治33)02/13足尾鉱毒被害民1万2千人が、鉱毒の惨害を議会に陳情し救済を請願しようと出発
     途中、館林から群馬郡川俣の利根川渡船場にさしかかったところで、行動阻止をたくらむ警官隊、憲兵190人と衝突
     安蘇郡堺村助役で被害民青年隊長の野口春蔵ら2500人は突破をはかるも、警官、憲兵の陣になす術もなく
     結果、指導部が総検挙、逮捕者100人余に達す【検挙68人?】。川俣事件(第4回押出し)
     1902(明治35)02/19第5回目の押出しが行なわれる
     03/02第6回目の押出しが行なわれる
  03/片山潜が警醒社より『英国今日之社会』を刊行
  04/03中村大八郎、樽井藤吉、西村玄道の主唱により「社会問題研究会」が上野精養軒で発会する
     幹事は中村大八郎、樽井藤吉、西村玄道
     評議員は井上經重、巌本善治、石川安次郎、入江錦五郎、稻垣示、原餘三郎、鳩山和夫、波多野善三郎、堀内賢郎、片山潜、
     吉田義靜、田口卯吉、高橋五郎、坪谷善四郎、中村彌六、陸實、安岡雄吉、松村介石、福本誠、小島龍太郎、天野爲之、
     佐治實然、酒井雄三郎、佐久間貞一、三宅雄二郎、シー・ガルスト、人見一太郎、天田作之進、尺秀三郎、鈴木重遠
     発会式で片山潜が「将来の労働問題」を講演
     社会運動は会員の希望するところではなく社会問題の研究会にとどまる
     幸徳傳次郎が石川安次郎の紹介で即日に入会
     のち1年有余にして自然消滅する
     1898(明治31)10/18社会主義研究団体「社会主義研究会」が創立される
     社会主義の原理と之を日本に応用するの可否を考究するを目的とする会
     『六合雑誌』の関係者がその中心となる
     東京芝区四国町の惟一館(ユニテリアン)の会堂を借り会を開くことに
     会長は村井知至、会員は片山潜、佐治實然、中村大八郎、幸徳傳次郎、高木正蔵、河上清、豊崎善之助、岸本能武太、新原俊秀、
     神田佐一郎、金子喜一、安部磯雄、村井知至、北川筌因、櫻井一義、綾部竹次郎、木下尚江、杉村廣太郎(杉村楚人冠)、平井金三
     1900(明治33)01/28「社会主義研究会」第11回研究会にて改組。社会主義者団体「社会主義協会」が結成される
     実践活動に手をつけることとして演説会を中心とした啓蒙団体へと変容する
     安部磯雄を会長として、片山潜が幹事、河上清、堺利彦、幸徳秋水、木下尚江、西川光次郎、村井某らによる
     事務所を東京芝区四国町のユニテリアン協会から片山のキングスレー館に移される
     1903(明治36)10/片山が幹事の役を解任される
     1904(明治37)01/下前年12月29日に片山が渡米したため片山方キングスレー館の「社会主義協会」本部が平民社に移される
     11/16第1次桂内閣により結社が禁止され協会が解散に【11/06?】
     治安警察法第8条により解散が命じられる
  04/03城泉太郎、高野房太郎、沢田半之助らにより「職工義友会」が結成される
     07/05「職工義友会」を改称し「労働組合期成会」として発足
  04/「職工義友会」が結成されてまもなく、わが国初の労働組合の街頭宣伝文「職工諸君に寄す」を配布
  04/幸徳秋水がいろは庵のペンネームで『団団珍聞』の茶説(社説)を書きはじめる
     1901(明治34)04/連載を終える
  05/01中村太八郎、木下尚江らが信州松本で普選同盟会を設立する
     07/中村太八郎、木下尚江らが普通選挙期成同盟会を結成
  05/0134才の永岡鶴蔵が院内銀山の同志80人と北海道夕張炭鉱へ移る
     24才の南助松が夕張炭坑へ入り斜坑運搬夫となるのは1896(明治29)の暮
  06/05横浜ドックで船大工のストが行なわれる
  06/25「職工義友会」が最初の労働問題演説会を催す
     弁士は城常太郎、高野房太郎、松村介石、片山潜、佐久間貞一、島田三郎ら
     片山は「労働団結の必要」について講演。高野房太郎は労働組合期成会の結成を呼びかける
  07/05京橋北槇町の池の尾で「労働組合期成会」が結成される【日本橋花月?】
     幹事は片山潜、沢田半之助、高野房太郎、村松民太郎、山田菊三
     4月3日に結成された「職工義友会」を改称
  08/民友社発行の総合雑誌『国民之友』が週刊から月刊になる
     創刊は1887(明治20)2月15日、廃刊は1898(明治31)8月
     1898(明治31)08/第372号をもって廃刊となる
  09/27大阪の友禅工が賃上げのストライキを起こす
  10/片山潜が鈴木純一郎の紹介で社会政策学会に入会する
     1899(明治32)04/片山潜が社会政策学会の宣言起草委員の1人になる
     「我々は極端なる社会主義に反対する」の点に片山が異議をとなえる
     学会は片山の退会勧告を議す
  10/堺利彦、美知子との間に長男不二彦が生まれる
     堺は「不二山に対ひ立ちてもふさはしき男の子になれと祈るなりけり」との気持ちから名づける
     1899(明治32)08/28脳膜炎を起こす。翌日、危篤状態になり入院
     のち入院費がかさみ退院。看護婦を雇い自宅看護に
     12/22脳膜炎を起こし死去
     のち不二彦の死を悼み妻美知子の衰弱がひどくなる
  11/田岡嶺雲が朝報社に入社する
  12/01労働組合期成会中の鉄工が1184人の組合員で「鉄工組合」を結成。日本最初の労働組合
  12/01労働組合期成会の機関紙『労働世界』が創刊される。発行は。主筆は片山潜【12/05?】
     わが国最初の労働組合雑誌
     発行所/労働世界社、発行/月2回(5日、15日)
     定価/1部2銭5厘[送料(郵税)5厘込]、半年分26銭[送料(郵税)込]
     体裁/タブロイド判、頁建/10頁(創刊号12頁)
     1900(明治33)06/第62号から装いを新たに月刊として発行
     09/労働運動が行き詰まり『労働世界』の維持が困難に。片山個人の所有となる
     1901(明治34)01/第69号から再び月2回刊として発行
     06/第80号から1日、11日、21日の月3回刊となる
     12/21第100号で発行を終了
     1902(明治35)01/01日刊『内外新報』に改題、拡張される
     日本最初の社会主義日刊新聞に
     のち2か月間発行される【約3週間で廃刊?】
     1902(明治35)04/03『労働世界』が復活する。隔週刊【月3回刊?】
     1903(明治36)03/03『社会主義』に改題。社会主義協会発行となる。月2回刊
     1904(明治37)01/片山潜の渡米後、『渡米雑誌』に改題
     11/社会主義協会の解散と同時に発行禁止
  12/片山潜が労働世界発売所から『労働者之良友喇撒(ラツサール)傳』を刊行
     『六合雑誌』第192、194、195号に発表した「独乙共和国の創立者フエルヂナンド・ラツサール」
     『六合雑誌』第196、197、198号に発表した「フエルヂナンド・ラツサールの社会主義」をまとめたもの
  12/無軌道式で新橋〜品川間を走る品川乗合馬車鉄道が鉄道軌道式となる。品川馬車鉄道会社に改称
     品川乗合馬車鉄道は1889(明治22)11月に開業
     1899(明治32)06/19東京馬車鉄道会社に合併
  無名研究会が門戸を開放し公的な会合に。日本社会政策学会となる
     無名研究会は1896(明治29)4月2日、東京帝国大学法科教授によって組織【04/26?】
     山崎覺次郎、桑田熊蔵、高野岩三郎、小野塚喜平治、織田一、鈴木純一郎ら
  朝報社の黒岩涙香が名古屋にいる内村鑑三を訪ねて入社を懇請
     内村はためらいつつも黒岩の説得に答えて朝報社に入社する
     1903(明治36)10/08平和主義で非戦論を主張する内村は朝報社の主戦論的な立場に対立
     10/12幸徳秋水、堺利彦が「退社の辞」をもって開戦論に転じた朝報社を退社
     ほどなく内村も退社
  河上清が『労働保護論』を刊行
  田島錦治が『日本現時の社会問題』を刊行する
  鈴木純一郎が『労働者の心得』を刊行する
  松村介石訳の『社会改良家列伝』が刊行する

1898(明治31)

  01/06夕張第1斜坑でガス爆発が発生し2人が死亡
  02/幸徳秋水(28)が朝報社に入社。『万朝報』に携わる
     1903(明治36)10/12幸徳秋水が堺利彦、内村鑑三と「退社の辞」をもって開戦論に転じた朝報社を退社
  02/11朝報社に入った幸徳秋水が初めて『万朝報』に論説「紀元節を哀しむ」を記し藩閥政治を激しく攻撃する
  02/24日本鉄道会社の機関方ら400人が同盟罷工に突入し、上野〜青森の列車が2日にわたり運休
     要求の中心は待遇改善、呼称問題。機関方→機関士、火夫→機関助手
     待遇期成大同盟会を結成すると、首謀者が解雇され撤回を求めてストライキを起こす
     ほかに賃上げ・解雇撤回など
     のち会社側はすべての要求を入れストライキは全面的に労働者の勝利に。わずか数日で決着
     02/27要求がとおり解除される
  02/金子筑水が『早稲田文学』に「所謂社会小説」を発表する
  02/田岡嶺雲が『万朝報』に「社会問題」を発表する
  03/10片山潜がキングスレー館に市民夜学校を開く。職工30人余参加。普通学、英語、数学、物理学等を教授
  04/03神武天皇祭の日、「労働組合期成会」が労働者の気焔を高めようと「運動会」(メーデー)を計画
     期成会の会員と家族は弁当持参で日本橋の呉服橋内永楽町原に集合、上野まで行進し竹の台で「運動会」の予定
     警察庁は直前にこれを禁止
  04/05日本鉄道会社の機関方はストライキが成功したことで「矯正会」を結成する
     1901(明治34)03/日本鉄道労働組合の年次大会が大宮で開かれる
     社会主義が労働組合の唯一の根本的解決であると宣言した決議が可決される
     04/18「矯正会」大会が開かれ「社会主義を標榜して労働問題を解決すべし」と決議。社会主義を表明
     11/解散となる
  04/10「労働組合期成会」労働者800人による集会禁止反対デモが皇居前から上野まで行進
     鉄工組合員が上野で花見をしようとするのを警察当局が禁止。初めての弾圧となる
  04/27片山潜、横山源之助らが救世軍の山室軍平らと貧民研究会を結成。第1回研究会が開かれる
  06/10山県悌三郎を社主として『東京独立雑誌』が創刊する。内村鑑三は主筆となる
     1900(明治33)07/05東京独立雑誌社が解散となり第72号で廃刊となる
  06/25保安条例が保安条例廃止法律(明治31年法律第16号)により廃止となる
     保安条例は1887(明治20)12月25日に制定、発布され即日施行される
  07/23高野房太郎、片山潜らが鉄工組合を拡大。日鉄矯正会との連携を強化させる
     対工場法案運動強化のため福島、仙台、青森など東北地方各地を遊説する
  08/04「活版工同志懇話会」が結成される
     1899(明治32)11/03「活版工同志懇話会」が解散し「活版工組合」が結成される
     1900(明治33)05/「活版工組合」が衰退し、職工のみで「誠友会」を組織する
  08/民友社発行の総合雑誌『国民之友』が第372号をもって廃刊となる
     徳富猪一郎(蘇峰)らが1887(明治20)2月15日に創刊
  09/23「労働組合期成会」が工場法案の修正意見を提出
  09/261万人余が集合し足尾鉱毒被害民が鉱毒惨害の救済を議会に請願陳情するため出発する。第3回目の押出しが行なわれる
     各地で警察が憲兵の阻止行動。田中正造の説得で惣代50人を残して解散
     09/29農商務省などに陳情する
     1900(明治33)02/13足尾鉱毒被害民1万2千人が、鉱毒の惨害を議会に陳情し救済を請願しようと出発
     途中、館林から群馬郡川俣の利根川渡船場にさしかかったところで、行動阻止をたくらむ警官隊、憲兵190人と衝突
     安蘇郡堺村助役で被害民青年隊長の野口春蔵ら2500人は突破をはかるも、警官、憲兵の陣になす術もなく
     結果、指導部が総検挙、逮捕者100人余に達す【検挙68人?】。川俣事件(第4回押出し)
       押出しは1897(明治30)3月2日の第1回、3月24日の第2回から
       1902(明治35)2月19日の第5回、3月2日の第6回まで続く
  09/28懇話会機関誌の『会報』が創刊
  10/18社会主義研究団体「社会主義研究会」が創立される
     社会主義の原理と之を日本に応用するの可否を考究するを目的とする会
     1897(明治30)4月3日に発会し、のち1年有余にして自然消滅した「社会問題研究会」のあとを受けて成立
     『六合雑誌』の関係者がその中心となる
     東京芝区四国町の惟一館(ユニテリアン)の会堂を借り会を開くことに
     会長は村井知至、会員は片山潜、佐治實然、中村大八郎、幸徳傳次郎、高木正蔵、河上清、豊崎善之助、岸本能武太、新原俊秀、
     神田佐一郎、金子喜一、安部磯雄、村井知至、北川筌因、櫻井一義、綾部竹次郎、木下尚江、杉村廣太郎(杉村楚人冠)、平井金三
     1900(明治33)01/28「社会主義研究会」第11回研究会にて改組。社会主義者団体「社会主義協会」が結成される
     実践活動に手をつけることとして演説会を中心とした啓蒙団体へと変容する
     安部磯雄を会長として、片山潜が幹事、河上清、堺利彦、幸徳秋水、木下尚江、西川光次郎、村井某らによる
     事務所を芝ユニテリアン協会から片山のキングスレー館に移される
  10/18「社会主義研究会」主催の第1回例会が開かれる
     研究課題は社会主義綱要。講師は村井知至
     11/20第2回例会が開かれる。研究課題は英国の地主制度。講師は村上清
     1899(明治32)01/15第3回例会が開かれる。研究課題はサン・シモンの社会主義。講師は岸本能武太
     02/19第4回例会が開かれる。研究課題はフーリエの社会主義
     講師は河上清。研究課題はルイ・ブラン及びプルードンの社会主義
     03/19第5回例会が開かれる。研究課題はフェルジナンド・ラサールの社会主義。講師は片山潜
     04/16第6回例会が開かれる。研究課題はカール・マルクスの社会主義。講師は村井知至
     05/28第7回例会が開かれる。研究課題はヘンリー・ジョージの社会主義。講師は安部磯雄
     06/25第8回例会が開かれる。研究課題は現今の政治社会と社会主義。講師は幸徳秋水
     10/22第9回例会が開かれる。研究課題は実際的研究方法について。講師は安部磯雄
     研究課題は市街鉄道問題について。河上清
     11/26第10回例会が開かれる。研究課題はニュージーランドの土地制度。講師は安部磯雄
     1900(明治33)01/28第11回例会が開かれる。研究課題は普通選挙。講師は北川筌因
     「社会主義研究会」が「社会主義協会」に改組されるも例会は続く
     02/25第12回例会が開かれる。研究課題は都市問題について。講師は片山潜
     研究課題は都市問題について。講師は杉山重義
     03/24第13回例会が開かれる。研究課題は三級選挙法について。講師は杉山重義
     04/28第14回例会が開かれる。研究課題はビスマルクの強制保険法について。講師は安部磯雄
     05/27第15回例会が開かれる。研究課題は工場法制定について。講師は河上清
     1901(明治34)01/27第16回例会が開かれる。研究課題は社会主義の心理学。講師は安部磯雄
     03/24第17回例会が開かれる。研究課題はヘンリー・ジョージの立場を支持する講演。講師は田口卯吉
     (以下は単独で記載)
  10/18キリスト教主義の月刊誌『六合雑誌』第215号から「社会主義研究会」の記事を連載する
  11/20「社会主義研究会」主催の第2回例会が開かれる。研究課題は英国の地主制度。講師は村上清
  11/20幸徳秋水が「社会主義研究会」主催の第2回例会に出席、入会する
  11/大阪で「日本平民協会」が設立される
  11/和歌山市で『日本平民新聞』が創刊する
  12/18東京の上野公園に西郷隆盛の像が建ち除幕式が行なわれる
     西郷像は高村光雲の作。かたわらの犬は後藤貞行の作。鋳造は岡崎雪聲
     発起人は吉井友美、宮内省より500円を下賜され、全国2万5千人余の有志の寄付金で建立
     身長370.1糎、胸囲256.7糎、足55.1糎
  12/社会学研究会が創立する
     会長は加藤弘之。評議員は元良勇次郎、有賀長雄、小河滋次郎、戸水寛人、呉文聰、高木正義
     委員は武井悌四郎、岡百世、富尾木知佳、布川孫市、木時彌、高桑駒吉、五来欣造ら
  井上円了が『破唯物論』を刊行
  福岡の国権派日刊紙『福陵新報』が題号を『九州日報』に改め、記者として宮崎滔天、夢野久作ら
     『福陵新報』は1877(明治20)8月11日に玄洋社の頭山満を中心に刊行
     1940(昭和15)読売新聞社に買収される

1899(明治32)

  01/01『労働世界』に社会主義欄が常設され、毎号積極的に宣伝をはじめる
  01/08鉄工組合の第1回創立記念日の祝賀会が上野公園で開かれる
     強くまったく不当な弾圧が行なわれる
     皇室の管理下にある公園当局の許可を得ていたにもかかわらず、政府は解散を命じる
  01/15「社会主義研究会」主催の第3回例会が開かれる。研究課題はサン・シモンの社会主義。講師は岸本能武太
  01/牧師坂本直寛の提唱により「日本坑夫同盟」結成大会が札幌市の豊平館で催されることになる
     坑夫の精神的、経済的向上と共済制度の強化をはかることが目的
     夕張からは渡り坑夫の代表として南助松ほか2人、自坑夫代表として永岡鶴蔵ほか1人の5人が出席
     永岡と南の2人が初めて出会う
     北海道庁の弾圧で会場貸与が不許可となり結成大会は延期に
     06/01日本坑夫同盟を共済を主体とした帝国鉱夫共済会と改めて設立大会が札幌の豊平館開かれる
     創立員として永岡と南が参加
  02/19「社会主義研究会」主催の第4回例会が開かれる。研究課題はフーリエの社会主義
     講師は河上清。研究課題はルイ・ブラン及びプルードンの社会主義
  03/19「社会主義研究会」主催の第5回例会が開かれる。研究課題はフェルジナンド・ラサールの社会主義。講師は片山潜
  03/左官たちが古いギルドを新しい組合に改組する。左官組合は2600人もの組合員を有する
  春/国木田独歩が報知社の『報知新聞』に政治記者として入社する
     のち1年後には退社
  04/03活版工懇話会春季大会が開かれる
     片山潜が名誉員に推されるが懇話会が調和論をとり片山との間に意見対立が生じる
  04/03日刊4ページ建ての『千代田日報』が発刊する
     本社は京橋区築地3丁目11番地、発行兼印刷人は正福巳之助、編輯人は多喜豊次郎、社長は加藤時次郎
     記者は社会部に岡鬼太郎、硬派主筆に熊田葦城、外交に工藤鉄男
     のち経営が思わしくなくなる
     1900(明治33)06/11『毎夕新聞』と合併し『千代田毎夕新聞』となる
  04/15高野房太郎が『労働世界』第34号に「労働世界に警告す」を発表
     期成会傘下の鉄工組合が社会主義化することへの批判
  04/16「社会主義研究会」主催の第6回例会が開かれる。研究課題はカール・マルクスの社会主義。講師は村井知至
  04/30横山源之助が教文館から『日本之下層社会』を刊行【内外出版協会?】
  04/片山潜が社会政策学会の宣言起草委員の1人になる
     「我々は極端なる社会主義に反対する」の点に片山が異議をとなえる
     学会は片山の退会勧告を議す
  05/03横山源之助が『内地雑居後之日本』を刊行
     縦18.7センチ、横12.7センチのB6版。発行者は片山潜、発行所は労働新聞社。印刷者は吉岡厳八、印刷所は秀英舎工場
     例言2ページ、目録2ページ、本文142ページ、著者断り書1ページ、広告8ページ、奥付1ページ。定価20銭
  05/28「社会主義研究会」主催の第7回例会が開かれる。研究課題はヘンリー・ジョージの社会主義。講師は安部磯雄
  06/01日本坑夫同盟帝国鉱夫共済会と改めて設立大会が札幌の豊平館開かれる
     創立員として永岡鶴蔵と南助松が参加
  06/14九州の豊国炭坑で207人の坑夫が生き埋めにされる。炭坑施設を守るために放置され焼死
  06/25「社会主義研究会」主催の第8回例会が開かれる。研究課題は現今の政治社会と社会主義。講師は幸徳秋水
  06/大阪で大井憲太郎らが「大日本労働協会」を設立する
  06/大井憲太郎らが「小作条例期成同盟会」を設立する
  07/01堺利彦が朝報社に入社。記者になる。月給40円
  07/09神田青年会館で活版工懇話会主催の演説会が開かれる【07/02?】
     労資協調論と社会主義とが対立することに
     社会政策学会会長で東京帝国大学法科大学教授の金井延や桑田熊蔵などは高野房太郎とともに社会主義の排撃を主張
     労資協調、社会主義反対が活版工組合の立場で、また社会政策学会の立場でも
     桑田の「改良主義」、金井の「社会主義を駁す」、高野の「日本の労働運動の方針」
     対して片山潜の「調和主義と社会主義」は主張において正面から対立
     金井が片山の社会主義観を批判する
  07/10片山潜が東北、北海道を遊説労働組合の宣伝旅行
  07/12労働新聞社が村井知至の『社会主義』を発行する
     第1章 欧州現時の社会問題 第2章 社会主義の定義 第3章 社会主義の本領 第4章 社会主義と道徳
     第5章 社会主義と教育 第6章 社会主義と美術 第7章 社会主義と婦人 第8章 社会主義と労働組合
     第9章 社会主義とキリスト教 第10章 理想の社会
     1911(明治44)05/29発売頒布を禁止する処分を受ける
  07/30高野房太郎が神戸を遊説する
  07/幸徳秋水(28)が国学者の師岡正胤の娘千代子と結婚。麻布佐久間町に住む
     1909(明治42)03/01荊棘の道を進ますのは忍びないと幸徳秋水は妻千代子と協議離婚
  08/28愛媛の別子鉱山で暴風雨による山津波が起きる。死者513人、負傷者26人
  08/28堺利彦、美知子との間の長男不二彦が脳膜炎を起こす。翌日、危篤状態になり入院
     のち入院費がかさみ退院。看護婦を雇い自宅看護に
     12/22脳膜炎を起こし死去[1897(明治30)10/生]
     のち不二彦の死を悼み妻美知子の衰弱がひどくなる
  10/02木下尚江、片山潜らが東京で普通選挙既成同盟会を結成
  10/22「社会主義研究会」主催の第9回例会が開かれる
     研究課題は実際的研究方法について。講師は安部磯雄
     研究課題は市街鉄道問題について。河上清
  10/「大日本労働協会」が機関誌『大阪週報』を創刊。編集は大井憲太郎
     社会主義は労働問題の唯一の解決法であると、はっきりと主張する
     のち資金不足と労働者の支持不足で間もなく失敗
  10/料理人組合(進徳会)が作られる
  11/03東京神田錦町の錦輝館で印刷工組合の発会式が行なわれる
     労資の利害の同一性を唱え、会長は代議士島田三郎を選出する
  11/03「活版工同志懇話会」が解散し「活版工組合」が結成される
     1900(明治33)05/「活版工組合」が衰退し、職工のみで「誠友会」を組織する
  11/07日本鉄道会社大宮工場の解雇問題で紛議が起こる
  11/07難波大助が山口県熊毛郡周防村立野宮河内の名家に生まれる
     1923(大正12)12/27難波が摂政の皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)に対して近接狙撃。虎ノ門事件
     失敗し「革命万歳」と叫び逃走をはかる。周囲の群衆の暴行を受けるなか警備の警官に現行犯逮捕される
     1924(大正13)11/15大逆罪で死刑に処せされる
  11/26「社会主義研究会」主催の第10回例会が開かれる。研究課題はニュージーランドの土地制度。講師は安部磯雄
  11/30労働問題学術演説会が開催。高野房太郎、片山潜らが講演する
  12/22堺利彦、美知子との間の長男不二彦が脳膜炎を起こし死去[1897(明治30)10/生]
     のち不二彦の死を悼み妻美知子の衰弱がひどくなる
     1903(明治36)01/30堺真柄が東京府下角筈で堺利彦と美知の長女として生まれる
     由来は堺がエミール・ゾラの「多産」を抄訳して「子孫繁昌記」を出版。その登場人物「マーガレット」から
  木下尚江が生まれ故郷の長野県松本から上京、「毎日新聞」に入社する
  東京でコックの組合が、横浜で家具工の組合が『労働世界』とその主筆の直接の援助のもと結成される
  板垣退助が社会主義の原理に基づく改革クラブ「同気倶楽部」を創立
     和歌山市と大宮市に労働者の教育と娯楽のために労働者クラブが設立される
  愛媛の別子鉱山で初めて負夫に女子労働者が採用される
  加藤病院の広告がでる。院長加藤時次郎、副院長田島丈作。診察は午前9時から正午まで
     外科、皮膚科を専門とし梅毒、痲病、痔疾のほか癩病、外科的婦人科、尿道器械的療法を設置
     加藤病院は1890(明治23)、東京市京橋区水谷町に開院
     1915(大正04)11/加藤病院を改組して平民病院を開設する
  福井準吉が『近世社会主義』を刊行
  キッド著、角田柳作訳の『社会の進化』が刊行する
  豊原又男が『資本と労働の調和』を刊行する

1900(明治33)

  01/05内村鑑三の東京独立雑誌社に西川光次郎が入社
     07/05内紛により東京独立雑誌社が解散する
     10/05西川が旧東京独立雑誌社の社員、坂井義三郎、安孫子貞治郎らと『東京評論』を創刊する
  01/21埼玉県大宮労働倶楽部の主催で公娼反対演説会が開催、聴衆数百人
     1899(明治32)12月に可決した埼玉県会の公娼増置建議に反対し、安部磯雄、木下尚江、島田三郎ら演説
     『毎日新聞』が廃娼キャンペーンで支援
  01/28「社会主義研究会」第11回研究会にて改組。社会主義者団体「社会主義協会」が結成される
     「社会主義研究会」は1898(明治31)10月18日に社会主義理論の研究を目的として創立
     実践活動に手をつけることとして演説会を中心とした啓蒙団体へと変容する
     安部磯雄を会長として、片山潜が幹事、河上清、堺利彦、幸徳秋水、木下尚江、西川光次郎、村井某らによる
     事務所を東京芝区四国町のユニテリアン協会から片山のキングスレー館に移される
     1903(明治36)10/片山が幹事の役を解任される
     1904(明治37)01/下前年12月29日に片山が渡米したため片山方の「社会主義協会」本部が平民社に移される
  01/28「社会主義協会」主催の第11回例会が開かれる。研究課題は普通選挙。講師は北川筌因
     それまでの主催「社会主義研究会」が「社会主義協会」に改組されるも例会は続く
  02/13足尾鉱毒被害民1万2千人が、鉱毒の惨害を議会に陳情し救済を請願しようと出発。川俣事件(第4回押出し)
     途中、館林から群馬郡川俣の利根川渡船場にさしかかったところで、行動阻止をたくらむ警官隊、憲兵190人と衝突
     安蘇郡堺村助役で被害民青年隊長の野口春蔵ら2500人は突破をはかるも、警官、憲兵の陣になす術もなく
     結果、指導部が総検挙、逮捕者100人余に達す。【検挙68人?】
     1902(明治35)02/19第5回目の押出しが行なわれる
       押出しは1897(明治30)3月2日の第1回、3月24日の第2回、1898(明治31)9月26日の第3回から
       1902(明治35)3月2日の第6回まで続く
  02/15田中正造が衆議院で弾圧に関し質問し憲政本党の脱党を宣言。足尾鉱毒事件解決のため
  02/17、18幸徳秋水が『万朝報』紙上に「治安警察法案」を草し治安警察法に反対する
  02/24労働組合期成会が治安警察法の反対運動をはじめる
  02/25「社会主義協会」主催の第12回例会が開かれる。研究課題は都市問題について。講師は片山潜
     研究課題は都市問題について。講師は杉山重義
  02/秋山定輔の日刊『二六新報』が同郷岡山の友人の資金援助を得て復刊する
     『二六新報』は1893(明治26)10月26日、秋山定輔(26)が中心となり東京は神田で創刊される
     1895(明治28)5月に資金難と日清戦争後の対外政策に反対する論陣を張り休刊に追い込まれる
     のち三井財閥攻撃、吉原娼妓の自由廃業実践運動、天狗煙草の岩谷松平キャンペーンなどを次々と打ちだす
     1902(明治35)08/秋山が第7回総選挙で当選。代議士となり桂内閣攻撃を強め露探とうわさされる
  02/造船工組合が賃上げ要求業者と紛争
  03/01山川均、守田有秋らが月刊『青年の福音』を創刊
     新聞紙8つ折り6〜8ページものを毎月1千部ずつ刷ることに
     のちほとんど全部が売れる
     04/第2号を発行。売りつくす
  03/02「社会主義協会」主催の社会主義学術大演説会が神田青年会館で開かれる
     初めて社会主義を一般社会に訴える。演説会は聴衆が会場にあふれすこぶる盛会に
      社会主義の本領 河上清
      社会主義と現社会制度 安部磯雄
      社会主義の実行 木下尚江
      社会主義と都市問題 杉山重義
      社会主義の大勢 片山潜
  03/02毎日新聞記者の木下尚江が吉原遊廓からのがれてきた津田きみを保護。7日より新聞に報道し廃業に成功
  03/10集会及び政社法が廃止。治安警察法が公布される。全33条からなる(法律第36号)
     日清戦争後に高まり先鋭化しつつあった労働運動を取り締まるため、第2次山県有朋内閣時に制定した法律
     自由民権運動を念頭に置いた政治活動の規制が主な目的の集会及政社法に、労働運動の規制を付加した形で制定
     法律の範囲内で言論、著作、印行、集会および結社の自由を有する大日本帝国憲法第29条に対して加えられた制限
     03/30施行される
     1945(昭和20)11/21GHQの指令に基づく「治安警察法廃止等ノ件(勅令第638号)」により廃止となる
  03/15〜31佐渡の鉱山でストライキが起こる
  03/24「社会主義協会」主催の第13回例会が開かれる。研究課題は三級選挙法について。講師は杉山重義
  03/30集会、結社規制法規「集会及政社法」が治安警察法により廃止となる
     公布は1890(明治23)7月25日
  04/04和歌山県田辺町で毛利柴庵を社長、主筆として地方新聞『牟婁新報』を創刊【04/14?】
     1926(大正15・昭和01)頃廃刊となる
  04/04日本鉄道会社の鉄工組合が待遇改善を要求
  04/28「社会主義協会」主催の第14回例会が開かれる。研究課題はビスマルクの強制保険法について。講師は安部磯雄
  04/久津見蕨村が毎週土曜日発行の週刊雑誌『国力』を創刊する
     のち月2回発行に変更
     のち第18号まで発行し、のち終刊
  05/09刷り上がった『青年の福音』第3号700部を守田有秋が受け取り山川均と配布にまわる
     05/11残り300部を神田猿楽町の古書店中庸堂の主人若林が受け取り11、12日には店頭で売り書店に配布
     05/122、3の新聞に不敬記事云々との報道
     制服警官が中庸堂に残る『青年の福音』押収。守田と山川が神田署に拘引、留置取り調べを受ける
     守田の「人生の大慘劇」と山川の短評「苦笑談」が不敬罪に問われる。不敬罪適用第1号
     筆禍事件が起こる
     「人生の大慘劇」皇太子と九条節子(大正天皇皇后)の結婚問題を論じる
     「苦笑談」キリスト教徒が皇室に忠誠を誓って世俗に迎合する様子を嘲笑
     05/12発売頒布を禁止する処分を受ける
     数日後牛込富久町の東京監獄に移される
     のち秘密の公判が2回開かれる。1審、2審とも有罪
     05/313回目の公判で判決の言い渡しを受ける
     守田と山川は刑法第117条第1項、第119条、第120条が適用される
     丁年(20才)未満で罪1等が減じられ重禁固3年6か月、罰金120円、監視1年に
     中庸堂の主人若林は重禁錮8か月、罰金50円、監視6か月に処せられる
     のち3人はただちに控訴
     1901(明治34)07/10控訴判決で1審に同じ【07/05?】
     07/14服罪し巣鴨監獄に入る
     1904(明治37)06/初山川が仮出獄する
  05/22木下尚江が『毎日新聞』に「『忠君愛国』の疑問」を発表する
  05/27「社会主義協会」主催の第15回例会が開かれる。研究課題は工場法制定について。講師は河上清
  05/「活版工組合」(旧「活版工同志懇話会」)が衰退し、職工のみで「誠友会」を組織する
  05/田岡嶺雲が北清事変に従軍。反戦的なルポルタージュを『九州日報』発表する
  06/11『千代田日報』『毎夕新聞』と合併し『千代田毎夕新聞』となる
     『千代田日報』は1899(明治32)4月3日創刊の日刊4ページ建て新聞。社長は加藤時次郎
  06/労働組合期成会の機関紙『労働世界』が第62号から装いを新たに月刊として発行
     『労働世界』は1897(明治30)12月1日に創刊。主筆は片山潜【12/05?】
     09/労働運動が行き詰まり『労働世界』の維持が困難に。片山個人の所有となる
  06/〜07/堺利彦が北清事変の従軍記者として派遣
     07/05天津に到着、下旬まで滞在。『万朝報』に「天津通信」を発表する
     のち約1か月半で帰国
     08/11堺は日記に「従軍は愚かなる事なり」と記す
  07/05東京独立雑誌社が解散。『東京独立雑誌』が第72号で廃刊に
     『東京独立雑誌』は内村鑑三らが1898(明治31)6月10日に創刊
  07/21片山潜が北海道を遊説。8月21日まで
  08/07幸徳秋水が『万朝報』紙上に「非戦争主義」を発表する
  08/30幸徳秋水が『万朝報』紙上に「自由党を祭る文」を発表する
  08/北海道の夕張炭鉱がそれまでの坑夫世話役制度に代わり巡視長および巡視制度を布く
     納屋頭制度から坑夫世話役制度に代わったのは1894(明治27)4月
     のち少しずつに労務管理の近代化をはかる
  09/労働運動が行き詰まり労働組合期成会の機関紙『労働世界』の維持が困難に。片山個人の所有となる
     1901(明治34)01/第69号から再び月2回刊として発行
  09/国際社会党(第二インターナショナル)第5回大会がパリで開かれる
  秋/高野房太郎が中国の青島にわたる
     のち消息が不明に
     1904(明治37)03/12日本に戻ることなく青島のドイツ病院で肝臓の膿瘍で客死。36才
  秋/片山潜が国際社会党本部員の1人に選ばれる
  10/05西川光次郎が旧東京独立雑誌社の社員、坂井義三郎、安孫子貞治郎らと『東京評論』を創刊する
  10/12「社会主義協会」主催の第2回社会主義学術大演説会が神田青年会館で開かれる
     西川光次郎、木下尚江、幸徳伝次郎、片山潜、安部磯雄の5人が演説
     聴衆は800人を超え、その大部分は学生
  10/13キリスト教青年会が大阪土佐堀青年会館で廃娼演説会。木下尚江らが演説。松下遊廓楼主がなぐりこみ大乱闘に
  11/0111月3日発行の富沢喜八郎の『富国の礎』が発売頒布禁止の処分を受ける
  11/14幸徳秋水が『千代田毎夕新聞』に40回にわたり3つの論文「大逆無道録」「刀尋段段録」「帝国主義」を掲げる
     「大逆無道録」11月24日号から12月15日号まで15回
     「刀尋段段録」12月17日号から1901(明治34)1月16日号まで16回
     「帝国主義」1901(明治34)1月19日号から2月14日まで号9回
     1901(明治34)02/14まで
     のち内容の一部は4月20日発行の『廿世紀之怪物 帝国主義』にそれぞれ対応
     「大逆無道録」は『帝国主義』の第2章「愛国心を論ず」
     「刀尋段段録」は『帝国主義』の第3章「軍国主義を論ず」
     「帝国主義」は『帝国主義』の第4章「帝国主義を論ず」「その4」まで
  11/17幸徳秋水が『万朝報』紙上に「排帝国主義論」を発表する
  12/01ジュネーブ亡命中のレーニンらがロシア社会民主労働党の機関紙『イスクラ』をシュトゥットガルトで創刊する
     のちミュンヘン、ロンドン、ジュネーブで発行される
     1903(明治36)07/ロシア社会民主労働党代位1回党大会(ブリュッセル大会)のあと党が分裂
     レーニンのボリシェビキ派とユーリー・マルトフのメンシェビキ派に分かれる
     レーニンらは脱退。『イスクラ』の編集部からも離れる
     のちメンシェビキの手により編集される。責任者はゲオルギー・プレハーノフが勤める
     1905(明治38)廃刊となる
     『イスクラ』の平均発行部数は約8千部に。名称はプーシキンの言葉「火花よりぞ焔は燃え立つ」から
  冬頃/山口義三(孤剣)が松原岩五郎の『最暗黒の東京』を読む。社会主義者となる契機となる
  足尾銅山の鉱毒事件を機に協同親和会が起こる
     樽井藤吉、稲垣示、山口弾正、一木斎太郎らにより組織
     のち松村介石や幸徳伝次郎らが出入りする
  久松義典が『近世社会主義評論』を刊行

1901(明治34)

  01/05敬業社が磯部久作の『地主ハ盗賊』を発行する
     1911(明治44)01/25発売頒布を禁止する処分を受ける
  01/27「社会主義協会」主催の第16回例会が開かれる。研究課題は社会主義の心理学。講師は安部磯雄
     安部磯雄は社会主義演説会の開催を提案する
  01/労働組合期成会の機関紙『労働世界』が第69号から月刊を再び月2回刊として発行
     『労働世界』は1897(明治30)12月1日に創刊。主筆は片山潜【12/05?】
     06/第80号から1日、11日、21日の月3回刊となる
  01/宮武外骨(35)が印刷業を営む福田友吉とともに『滑稽新聞』を創刊する。月2回刊
     1908(明治41)10/20第173号を「自殺号」と銘うち、「本誌受罰史」を4ページ掲載して廃刊に
     10/24「自殺号」が発売停止処分を受ける
     11/03天長節のこの日、新たに『大阪滑稽新聞』を創刊する
  02/14幸徳秋水が『千代田毎夕新聞』に1900(明治33)11月14日からはじめた全40回にわたる3つの論文掲載が終わる
     「大逆無道録」11月24日号から12月15日号まで15回
     「刀尋段段録」12月17日号から1901(明治34)1月16日号まで16回
     「帝国主義」1901(明治34)1月19日号から2月14日まで号9回
     のち内容の一部は4月20日発行の『廿世紀之怪物 帝国主義』にそれぞれ対応
     「大逆無道録」は『帝国主義』の第2章「愛国心を論ず」
     「刀尋段段録」は『帝国主義』の第3章「軍国主義を論ず」
     「帝国主義」は『帝国主義』の第4章「帝国主義を論ず」「その4」まで
  03/02社会主義協会が神田青年会館で社会主義学術大演説会を開催。河上清、安部磯雄、木下尚江、片山潜らが講演
     満員の聴衆を集めて開催された日本初の演説会となる
  03/24「社会主義協会」主催の第17回例会が開かれる。研究課題はヘンリー・ジョージの立場を支持する講演。講師は田口卯吉
  03/24田中正造が議会で鉱毒問題について最後の質問を行なう
  03/日本鉄道労働組合「矯正会」の年次大会が大宮で開かれる
     社会主義が労働組合の唯一の根本的解決であると宣言した決議が可決される
     04/18「矯正会」大会が開かれ「社会主義を標榜して労働問題を解決すべし」と決議。社会主義を表明
     11/解散となる
  04/03労働組合期成会鉄工組合の旗の下、労働者大懇親会が向島白鬚前の広場で開かれ、約1万人が集まる
     工場法、普通選挙権などの要求を決議。主催は二六新報
      開催を新聞発表すると20銭の入場料を払い約5万人の労働者が応募する
      そのなかには6千人の鉄工組合員があり、集会に対して政府は禁止を通告
      主催者側と折衝の結果、政府は5千人を越えない集会の許可を認める
      二六新報は許可人員は5千人に限られる、早いもの勝ちと通知
      結果、前日からの徹夜組を含めて3万人が集まる【5万人?】
     7時に開会、8時に天皇陛下万歳をもって平穏に終了
     幹事総代の福田和五郎、労働者総代の片山潜、高知県労働者総代の門脇宗光、靴工同盟会名誉幹事の小川平吉らが演説
     片山の演説中、労働者の希望として述べた5か条が会の決議として社会に公表
     のち、懇親会は主催者の二六新報による娼妓の自由廃業運動に反感を持つ吉原の暴力団の挑発で大混乱に
     1902(明治35)03/13二六新報主催の第2回労働者懇親会が禁止となる
  04/09幸徳秋水が『万朝報』に「我は社会主義者也」を発表、宣言する
  04/20幸徳秋水が最初の著作『廿世紀之怪物 帝国主義』を警醒社書店から刊行【04/21?】
     四六版、本文134頁
     巻頭には4月11日付の内村鑑三の序文「『帝国主義』に序す」が3ページ、
     秋水の「例言三則」が2ページ、目次が6ページ
     巻末には奥付けが1ページ、警醒社書店の広告3ページがつく
     第1章・諸言 第2章・愛国心を論ず 第3章・軍国主義を論ず 第4章・帝国主義を論ず
     内容の一部は1900(明治33)11月24日号から1901(明治34)2月14日号まで『千代田毎夕新聞』に連載
     第2章「愛国心を論ず」は1900(明治33)11月24日号から12月15日号まで「大逆無道録」のタイトルで連載。15回
     第3章「軍国主義を論ず」は12月17日号から1901(明治34)1月16日号まで「刀尋段段録」のタイトルで連載。16回
     第4章「帝国主義を論ず」その4までは1月19日号から2月14日号まで「帝国主義」のタイトルで連載。9回
     05/10再版される
     1903(明治36)10/10第3版が発行される
     16本の書評と紹介記事が「本書に対する批判」と題し16ページにわたり追加される
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  04/21日本橋本石町1丁目の労働組合期成会事務所に6人が集まる
     東京専門学校講師の安部磯雄(37)、『労働世界』主筆の片山潜(42)、『万朝報』記者の幸徳秋水(30)、
     『毎日新聞』編集長の木下尚江(32)、『万朝報』記者の河上清(28)、『東京評論』記者の西川光次郎(25)
     創立者6人のうち幸徳を除いてすべてがキリスト教徒
     片山が呼びかけ幸徳が世話人となる。社会主義政党を結成することについて何人も異議なく
     党名を「社会民主党」とすることを片山が提議
     04/28第2回準備会が開かれる。綱領について協議。理想的綱領8か条と実行的綱領28か条が決定
     宣言書の起草は安部が筆をとることに
     05/05第3回準備会が開かれる。社会民主党発表についての準備が協議される
     05/15第4回準備会が開かれる。宣言書が承認、決定される
     幹事に片山と木下を選出。18日の結成、19日の神田警察署への結社届提出、20日の結成発表を決議
     19日中に全国の各新聞社に宣言書が届くよう郵便もしくは配布するよう決めて準備会は散会
     05/18日本最初の社会主義政党「社会民主党」が結成
  04/安部磯雄が処女作となる『社会問題解釈法』を刊行。社会主義理論の最高水準を極める
  04/1897(明治30)4月から幸徳秋水がいろは庵のペンネームではじめた『団団珍聞』の茶説(社説)の連載を終える
  05/18日本最初の社会主義政党「社会民主党」が結成される
     【05/20結成、即日禁止?】【05/18結成、即日禁止?】
     行き詰まった労働運動の打開策を政治運動に求める
     安部磯雄、河上清、片山潜、幸徳秋水、木下尚江、西川光次郎による
     幸徳以外は全てキリスト教徒。党幹事は片山と木下
     党則の第1条に「我党は社会主義を実行するを以て目的とす」の一文を掲げる
     同時に人類同胞主義、軍備全廃、階級制度全廃、土地・資本の公有、交通機関の公有、
     公平な財富の分配、参政権の平等、教育の公費負担の8項目からなる党の理想と、
     28項目からなる綱領を含んだ「社会民主党宣言書」を発表
     東京では『労働世界』をはじめ『毎日新聞』『万朝報』『報知新聞』の3つの日刊紙
     京都の『日出国(やまと)新聞』、ほか『新総房』『東海新聞』に掲載
     05/19幹事の木下が結成の届出を提出
     05/20木下が神田警察署に呼びだされる。警視総監安楽兼道の命令書を手渡される
     「社会民主党は安寧秩序に妨害ありと認むるを以て治安警察法
     第八条二項に依り其結社を禁止する旨内務大臣より達せられたり。右伝達す」
     結社禁止と同時に宣言書を掲載した新聞等が発売頒布を禁止、新聞紙条例第33条違反で告発、罰金刑を課す
     社会民主党は結成2日後にして禁止される
  05/20片山潜と西川光次郎の共著『日本の労働運動』が労働新聞社から刊行【05/18?】
  05/矢野文雄(龍渓)が社会問題講究会を結成する
     幹事に田川大吉郎。会員に安部磯雄、幸徳秋水、片山潜、国木田独歩、小栗貞雄、加藤時次郎ら
     1904(明治37)03/日露開戦まもなく消滅
  06/01社会民主党の禁止を受けて幸徳秋水、西川光次郎らが会合をもち、再度社会主義政党の結成を企てる
     党名は「社会平民党」に、綱領から政治的事項を一切省く
     06/03社会民主党創設メンバーらは直後に綱領を変更して「社会平民党」を結成
     事務所を麻布宮村町71番地に移す
     幹事の幸徳秋水、西川光次郎が届出。ふたたび安寧秩序を妨害するとして禁止命令が伝達。結成即日禁止に
     社会主義の政治運動は当分見込みがないと「教育的伝道」の方針をとり「社会主義協会」が復活
     運動は既存の「社会主義協会」と1903(明治36)10月27日結成の「平民社」に受け継がれる
     のち宣言文を掲載した新聞編集者の裁判が行なわれる
     社会民主党禁止事件が大きくクローズアップ、社会主義が宣伝されることになる
  06/21少年結社が松田純三の『少年之思想 第4号』を発行する
     07/04発売頒布を禁止する処分を受ける
  06/労働組合期成会の機関紙『労働世界』が第80号から月2回刊を1日、11日、21日の月3回刊となる
     『労働世界』は1897(明治30)12月1日に創刊。主筆は片山潜【12/05?】
     12/21第100号で発行を終了
  06/久松義典が『東洋社会党』を発行する
  07/上堺利彦が内外出版協会から『言文一致普通文』を刊行
  07/02朝報社社長の黒岩涙香が社会救済の第1歩として呼びかける「理想団」が結成される
     黒岩の「団員の誓約に基づき、身を正しくして人に及ぼし、以て我が社会全体を理想に近づける」社会改良思想に基づく
     黒岩、内村鑑三、山県五十雄、幸徳秋水、円城寺清、天城安政、堺利彦、斯波貞吉の8人が発起
     07/20社会改良団体「理想団」の発会式がもたれる
     年末2058人の入会者をみる。社会問題解決に心をつくす広範な人々が参加する
     佐治実然、竹内余所次郎、竹内きみ、安部磯雄、木下尚江、小泉策太郎、片山潜
     久津見蕨村、吉田●(王篇に幾)、今村力三郎、牧野充安、井上伸、高橋秀臣ら
  07/05社会民主党の禁止後、「社会主義協会」を強化。堺利彦らが入会する
  07/10前年5月1日発行の月刊『青年の福音』第3号掲載記事の筆禍事件での控訴判決で1審に同じ【07/05?】
     守田有秋の「人生の大慘劇」と山川均の「苦笑談」が不敬罪に問われる。不敬罪適用第1号に
     守田と山川は刑法第117条第1項、第119条、第120条が適用される
     丁年(20才)未満で罪1等が減じられ重禁固3年6か月、罰金120円、監視1年に処せられる
     『青年の福音』を印刷販売した神田猿楽町の古書店中庸堂の主人若林は重禁錮8か月、罰金50円、監視6か月に
     07/14服罪し巣鴨監獄に入る
     1904(明治37)06/初山川が仮出獄する
  08/11堺利彦が『万朝報』に「予は理想団員として何を為さんとするか」を記す
     「社会主義」という言葉はでてこない
  08/下堺利彦が内外出版協会から『家庭の新風味』シリーズの「1.家庭の組織」を刊行する
     1902(明治35)09/6冊の発行で完結
  08/富沢喜八郎が『済世乃礎』を発行する。発行所は不明
     10/08発売頒布を禁止する処分を受ける
  09/01関西労働組合期成会が結成される
  09/05幸徳秋水と小山久之助が中江兆民の『一年有半』を博文館から刊行【09/03?】
     菊版 本文154ページ、付録92ページ、定価35銭
     付録は「百零一」所載の論文4篇と『毎夕新聞』所載の論文約20篇を収める
     のち初版1万部は3日にして売り切れ
     のちたちまちのうちに22版をかぞえる
  10/16内外出版協会が西川光次郎の『社会党』を発行する
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  10/28信州普通撰挙同盟会が片山潜の『社会改良手段 普通撰挙』を発行する
     1911(明治44)05/29発売頒布を禁止する処分を受ける
  10/中江兆民が余力をふりしぼり『続一年有半』を書きあげ出版する
     10/12博文館から刊行。菊版 本文116ページ、付録232ページ。定価35銭
     付録は1886(明治19)6月初版の『理学鉤玄』を収める
  10/島田三郎が『世界の大問題社会主義概評』を刊行する
  11/08新声社が佐藤儀助の『弱者の声』を発行する
     1911(明治44)05/29発売頒布を禁止する処分を受ける
  11/日本鉄道労働組合「矯正会」が解散する
     「矯正会」は1898(明治31)4月5日に機関方はストライキが成功したことで結成される
  12/09朝報社の幸徳秋水が田中正造が行なう足尾鉱毒事件についての直訴文を起草する。田中が加筆修正
     12/10東京市日比谷で帝国議会開院式から帰る途中の明治天皇に、田中が足尾鉱毒事件について直訴を行なう
     警備の警官に取り押さえられ直訴は失敗するが、東京市中は大騒ぎになり号外が配られる
     田中は即拘束されるが、政府は単に狂人が馬車の前によろめいただけと不問にし、即日に釈放
  12/13中江兆民が大阪で病床に臥せ55歳で死去。死因は食道癌【満54才?】[1847(弘化04)12/08《11/01》生]
     12/17中江兆民は自分の葬儀にあたって一切の宗教色を排するように遺言
     葬儀に宗教上の儀式を持ち込まないで故人に別れを告げる兆民を送る会「告別式」が催される
     弔辞は板垣退助が読み、大石正巳の追悼演説、門下生総代野村泰亨の永別式辞に続き、1千人を数える参列者の列
  12/21労働組合期成会の機関紙『労働世界』が第100号で発行を終了
     『労働世界』は1897(明治30)12月1日に創刊。主筆は片山潜【12/05?】
     1902(明治35)01/01日刊『内外新報』に改題、拡張される
     日本最初の社会主義日刊新聞に
  年末「理想団」が2058人の入会者をみる。社会問題解決に心をつくす広範な人々が参加する
     佐治実然、竹内余所次郎、竹内きみ、安部磯雄、木下尚江、小泉策太郎、
     吉田●(王篇に幾)、今村力三郎、牧野充安、井上伸、高橋秀臣ら
     発会は同年7月20日。呼びかけは朝報社社長の黒岩涙香
  久松義典が『最近国家社会主義』を刊行

1902(明治35)

  01/01労働組合期成会の機関紙『労働世界』が日刊『内外新報』に改題、拡張される
     『労働世界』は1897(明治30)12月1日に創刊。主筆は片山潜【12/05?】
     日本最初の社会主義日刊新聞に
     のち2か月間発行される【約3週間で廃刊?】
     04/03『労働世界』が復活する。隔週刊【月3回刊?】
  01/日本陸軍が冬季訓練を2つのルートに分けて実行
     ○弘前〜十和田湖畔〜三本木〜田代〜青森
      弘前歩兵第31連隊。目的は雪中行軍に関する服装、行軍方法等の全般研究
     ○青森〜田代〜三本木〜八戸
      青森歩兵第5連隊。目的は雪中における軍の展開、物資の輸送の可否
     01/25青森歩兵第5連隊が遭難。訓練参加者210人中199人が死亡する
     01/29弘前歩兵第31連隊38人は無事全員生還し青森に到着
  02/16花井卓蔵らが衆議院に初めて普通選挙案を提出するも本会議で否決される
     以後1910(明治43)まで毎年提出する
  02/18人文社が幸徳秋水の『長広舌』を発行する【02/20?】
     1897(明治30)から1901(明治34)にかけて発表した社会主義的論説を集めて出版
     03/15たいへん好評で再版する
     1910(明治43)09/061902(明治35)2月18日発行【02/20?】と3月15日発行がともに発売頒布を禁止する処分を受ける
  02/19足尾鉱毒被害民が鉱毒惨害の救済を議会に請願陳情するため出発する。第5回目の押出しが行なわれる
     03/02最後となる第6回目の押出しが行なわれる
       押出しは1897(明治30)3月2日の第1回、3月24日の第2回、
       1898(明治31)9月26日の第3回、1898(明治31)9月26日の第4回(川俣事件)と続く
  03/05尾去沢鉱山の坑道で崩壊事故が起きる。死者16人
  03/13二六新報主催の第2回労働者懇親会が前年4月の大会の大混乱を受けて禁止となる
  03/22労働者大懇親会の禁止に抗議する労働問題政談大演説会が神田錦輝館で開かれる
     幸徳秋水、安部磯雄、木下尚江らが演説する
  04/03『内外新報』『労働世界』に改題
     『労働世界』が復活する。隔週刊【月3回刊?】
     『労働世界』は1897(明治30)12月1日に創刊。1902(明治35)1月1日に『内外新報』に改題された
     1903(明治36)03/03『社会主義』に改題。社会主義協会発行となる。月2回刊
  04/03宮崎滔天が桃中軒雲右衛門に入門
     07/25浪花節の営業鑑札が交付される。芸名は桃中軒牛右衛門
  04/10中庸堂書店から西川光次郎著の『人道の戦士社会主義の父カール・マルクス』が刊行【04/18?】
     日本初のマルクス伝。定価15銭
     リーブクネヒト「マルクス伝」、ゾンバアト「社会主義及社会運動」、ブリス「社会改良百科全書」を参考とする
     1904(明治37)09/平民社が版権と残本300部を中庸堂書店から引き受け定価10銭で販売
     1905(明治38)02/西川の2月の新聞条例違反での入獄を記念し平民文庫の1冊に加えられる
     四六半截版104ページ、定価10銭
     1910(明治43)09/03中庸堂書店版と平民社平民文庫版がともに発売頒布を禁止する処分を受ける
  04/13『労働世界』第6年第2号から幸徳秋水による「社会民主党建設者血性男児」の連載が開始される
     09/13第6年第15号で連載終了
     1904(明治37)09/01幸徳秋水著の『社会民主党建設者ラサール』が平民文庫から刊行
     四六半截版137ページ、定価15銭。初版は2千部
     著作兼発行人は幸徳伝次郎、印刷人は石川三四郎、印刷所は国光社、発行所は平民社
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  04/労働問題大演説会が契機となり「労働同盟会」が成立する。事務所は片山潜方に
  05/12労働者団体の「大日本労働至誠会」が夕張市一丁目の万行寺で結成される。南助松、永岡鶴蔵は創立員として参加
     会長に坂本直寛、副会長に小山恒次郎
     坂本直寛は坂本龍馬の甥にあたる人物。北海道に理想郷を作ろうと移住していた
     至誠会は、1、労働者の品位を高むること。2、独立自営の精神を涵養(かんよう)すること。
     3、勤倹貯蓄を実行すること。4、会員互いに相親しみ相助くること。の4か条を制定
     会の主旨を宣伝するために路傍で演説をし、また労働学術講演会を催す
     1903(明治36)06/01永岡らと会長、副会長との間に意見の違いが生じ会長、副会長が辞任
     のち労働者のみでなくキリスト教徒が中心の会員のため、次第に減少することに
  05/31博文館が幸徳伝次郎の『兆民先生』を発行する
     1910(明治43)09/06発売頒布を禁止する処分を受ける
  05/海員共同救済会が設立される
  06/21『仙台毎日新聞』『夕刊平民』と改題。自ら社会主義を標榜する
  06/博文館が内田魯庵の『社会百面相』を発行する
  07/15〜18呉の海軍造兵廠で3千人がストを決行
  07/17労働新聞社から西川光二郎著の『英国労働界の偉人ジヨン・バアンス』が刊行
     四六版47ページ、定価12銭
     1904(明治37)10/品切れ絶版状態に
     1905(明治38)03/24西川の2月の新聞条例違反での入獄記念として平民文庫5銭本の1冊として増補再版
     菊版20ページ、定価5銭
     著作兼発行人は西川光二郎、印刷人は石川三四郎、印刷所は国光社、発行所は平民社
     1910(明治43)09/03労働新聞社版と平民社平民文庫版ともに発売頒布を禁止する処分を受ける
  07/矢野龍渓(文雄)が大日本図書から『新社会』を刊行
  08/11片山潜、西川光二郎、宮本勘二郎の3人が東北遊説を行なう
     高崎、黒磯、白河、福島、仙台、一の関、盛岡、青森、弘前、黒石、佐沼、米沢の12市町村を遊説
     13回の演説を行ない、聴衆は約3千人以上の参加
     盛岡では機関庫青年有志の尽力で1200人の聴衆を集める
     各地の地方新聞記者の好意的な協力が目立つ
     08/26この日まで
  08/14〜21東京小石川の砲兵工廠で120人が賃上げストを決行
  08/23文学同志会が久松義典の『社会学講義』を発行する
     1910(明治43)09/13発売頒布を禁止する処分を受ける
  08/31鳴皐書院が赤羽一の『嗚呼祖国』を発行する
     1904(明治37)01/25一二三館が赤羽一の号、赤羽厳穴の名で『嗚呼祖国』を発行する
     1910(明治43)09/20鳴皐書院版、一二三館版がともに発売頒布を禁止する処分を受ける
  08/国光書房が宮崎滔天の『三十三年の夢』を発行する
  08/『二六新報』の秋山定輔が第7回総選挙で当選。代議士となり桂内閣攻撃を強め露探とうわさされる
     1904(明治37)03/代議士を辞任、『二六新報』の勢いが失われる
  09/08朝報社の有志が社会主義的洋行綱領の大部分をとりいれた一種の自由主義的改良クラブ「理想国」を結成する
  09/24社会主義学術講演会が開かれる
     8人の巡査と7人の探偵が会場にのりこみ監視。無事に話し終えたのは木下尚江と安部磯雄のみ
  09/堺利彦の『家庭の新風味』シリーズの6冊目が発行。完結する
     第1巻目は1901(明治34)8月下旬に発行した「1.家庭の組織」
  秋/石川三四郎が朝報社に入社する
     1903(明治36)11/29石川三四郎が朝報社を退社し平民社への入社を発表する
  10/02足尾銅山が豪雨で48戸流出。死者300人に
  10/18社会主義協会が万国社会党大会に人種的差別反対の提案を決議
  11/15幸徳秋水が『六合雑誌』に「社会主義と国体」を発表
  11/23片山潜が『社会講演』を発行する。発行所は不明
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  11/幸徳秋水が『万朝報』に「鳥語傳」を発表する
  12/27学生鉱毒地大挙視察大演説会が開催される
  12/堺利彦が内外出版協会から『家庭夜話』の第1冊としてエミール・ゾラの「子孫繁昌の話」を訳出する
     「子孫繁昌の話」は堺がゾラの「多産」を英訳本から日本語に抄訳。人物の名前を日本語に置き換える
     1903(明治36)01/第2冊としてゴールドスミスの「質素倹約の話」を刊行。訳は加藤眠柳
     03/第3冊としてストー夫人の「仁慈博愛の話」を刊行
  宮崎滔天の兄、宮崎民蔵が「土地復権同志会」を結成する
  大原祥一が『社会問題』を刊行
  煙山専太郎が『近世無政府主義』を刊行
  J・A・ホブスンが『帝国主義論』を刊行
     前年4月には幸徳秋水が最初の著作『廿世紀之怪物 帝国主義』を刊行

1903(明治36)

  01/01山路愛山が『独立評論』を創刊
     1904(明治37)休刊となる
  01/04社会主義協会の片山潜、西川光二郎の2人が関西遊説を行なう
     京都、大阪、神戸、岡山、広島、呉での演説会を開く。聴衆は2600余人に
     京都、大阪、神戸の演説会には矢野文雄が弁士として参加
     01/23この日まで
  01/24社会主義協会大演説会が開催。幸徳秋水、安部磯雄らが演説、聴衆300余人。この年ほぼ月1回の演説会を開催
  01/30堺真柄が東京府下角筈で堺利彦と美知の長女として生まれる
     由来は堺がエミール・ゾラの「多産」を抄訳して「子孫繁昌記」を出版。その登場人物「マーガレット」から
     1983(昭和58)03/1880才で死去
  01/堺利彦が内外出版協会から『家庭夜話』の第2冊としてゴールドスミスの「質素倹約の話」を刊行。訳は加藤眠柳
     第1冊は前年12月に堺がエミール・ゾラの「子孫繁昌の話」を訳出
     03/第3冊としてストー夫人の「仁慈博愛の話」を刊行
  02/01安部磯雄、幸徳秋水、堺利彦らが講師をつとめるユニテリアン協会の惟一館日曜演説会に加藤時次郎が参加
     「外科皮膚病の社会に及ぼす関係」を報告する
  02/『読売新聞』が小杉天外の「魔風恋風」を連載。9月まで
  03/03『労働世界』『社会主義』に改題。社会主義協会発行となる。月2回刊
     1897(明治30)12月1日『労働世界』創刊、1902(明治35)1月1日『内外新報』に改題、
     1902(明治35)4月3日『労働世界』に改題ののち
     1904(明治37)01/片山潜の渡米後、『渡米雑誌』に改題
  03/小塚空谷が『社会主義』に「社会主義勃興の歌」を発表する
     09/小塚空谷が『社会主義』に「社会主義歓迎の歌」を発表する
  04/03朝報社在社中の堺利彦が由分社を設立
  04/03朝報社在社中の堺利彦が由分社から月刊『家庭雑誌』を創刊
     一貫して家庭の中から社会主義を発展させ、かつ家庭の近代化をはかることを目的とした啓蒙雑誌
     内村鑑三が創刊号に祝辞を寄せる
     誌上では新しい家庭のあり方、夫婦のあり方、戦争の問題等がユーモアを交え、温かくかつ鋭く論じられる
     本誌の特色として6つの綱領をかかげる
     1、健全な思想 2、改革の気象 3、清新の趣味 4、親切の教訓 5、平易の文章 6、通俗の説明
     のち週刊『平民新聞』を起こすにあたり編集事務を西村渚山に託す
     1906(明治39)03/15堺利彦が麹町元園町で、再び堺が「家庭雑誌」の出版経営にあたる
     10/由分社を解散するとともに、「家庭雑誌」を大杉栄、堀保子夫妻に譲渡する
     1907(明治40)06/「家庭雑誌」の発行人が、平民書房の熊谷千代三郎にかわる
     08/第5巻10号の全54冊で廃刊になる
     1909(明治42)04/大杉の妻堀保子が「家庭雑誌」を復刊する
     07/01第4号で発行停止、その幕を閉じる
  04/03『家庭雑誌』創刊号にエドワード・ベラミーの社会主義理想小説『回顧』の抄訳の一部が掲載される
     タイトルは「ユトピアの話」。抄訳は堺枯川。原題は「Looking backward」(1887)
     09/『家庭雑誌』第1巻第6号に全体を抄訳し『百年後の世界』のタイトルで掲載される
     1904(明治37)03/09平民文庫5銭本の第1巻として『百年後の世界』刊行
     菊版30ページ、定価5銭。初版は1千部
     著作兼発行人は堺利彦、印刷人は幸徳伝次郎、印刷所は国光社、発行所は平民社
     1911(明治44)04/04発売禁止の処分を受ける
     1920(大正09)『理想郷』と合綴してアルス社より出版
  04/05安部磯雄、西川光次郎、木下尚江、片山潜が社会主義協会の代表として大阪へ
     中之島公会堂での社会主義演説会で演説
     04/06土佐堀青年会館で日本社会主義者大会が開かれる
     大会では満場一致で決議を通す
     一、吾人は社会主義を以て人類社会の改善を計るものなり
     一、吾人は日本に社会主義の実行を努めざるべからず
     一、社会主義の成功を期するには万国同主義者の一致協力を要す
     大会出席者は鳥取や愛知などから数百人が集まる
  04/05管野すがが大阪中之島公会堂で開かれた社会主義演説会で木下尚江の演説を聞き感激
  04/19社会主義図書部が片山潜の『都市社会主義』を発行する
  04/27社会主義図書部から西川光次郎著の『富の圧制』が刊行。定価12銭【04/30?】
     社会主義の実践活動に入っての4年間の演説を筋書きとして成り立たせる。社会主義の啓蒙書的な役割
     1905(明治38)01/23平民文庫の1冊に加えられる【01/25?】
     西川の2月の新聞条例違反での入獄を記念して
     四六半截版102ページ、定価10銭
     著作兼発行人は西川光次郎、印刷人は石川三四郎、印刷所は国光社、発行所は平民社
     1910(明治43)09/03社会主義図書部版と平民社版がともに発売頒布を禁止する処分を受ける
  05/01幸徳秋水の「非開戦論」が『万朝報』に掲載される
  05/14〜19長崎三菱造船所の鉄工部900人により賃金要求ストが起こる
  05/20民雄社が石巻良夫の『労働運動の変遷』を発行する
     1910(明治43)09/09発売頒布を禁止する処分を受ける
  05/22藤村操が第1高等学校文科1年在学中に日光の華厳の滝で投身自殺[1886(明治19)07/生]
     数えで18才の16才10か月。自殺現場のかたわらの木に「巌頭之感」を書き残す
     のちあとを追う者が続出。藤村の死後4年間で華厳の滝で自殺を図った者は185人に
  05/木下尚江が残陽生のペンネームで『毎日新聞』に「戦争人種」を掲載
     主戦論に動員される日本国民の好戦主義に対し批判をあびせる
  06/01日本初のドイツ式洋風近代式公園として日比谷公園が開園する
     ドイツで林学を学んだ本多静六や、本多の助手でのち造園を志す本郷高徳により「都市の公園」として設計
      日比谷公園のまわりに広がっていた入江が埋め立てられたのは、江戸時代初期のこと
      幕末の頃には御用屋敷や松平大膳大夫(毛利)、松平肥前守(鍋島)、丹波若狭守、
      有馬備後守、朽木近江守、南部信濃守、小笠原佐渡守、北条相模守のの上屋敷が置かれた
      明治維新直後には亀岡松平藩、唐津藩、有馬藩邸や、鍋島藩の上地、政府御用地の他に、桑畑や茶畑ができる
      屋敷跡を畑にしたのは、旧江戸周辺の荒廃地の開拓手段として農村化しようとした政策
      1871(明治04)年頃には、のち日比谷練兵場の前身、日比谷操練所が置かれる
      明治時代に入って、陸軍近衛師団の練兵場に
      1889(明治22)には練兵場を青山に移して、跡地を公園にする計画が決定する
  06/01夕張の「大日本労働至誠会」の永岡鶴蔵らと会長坂本直寛、副会長小山恒次郎との間に意見の違いが生じる
     会長、副会長が辞任
     「大日本労働至誠会」は1902(明治35)5月12日に夕張市一丁目の万行寺で結成される
     のち労働者のみでなくキリスト教徒が中心の会員のため、次第に減少することに
  06/03『社会主義』第7巻13号が発売禁止に。新聞条例違反で有罪判決
  06/06博文館がドン・ネリー著、磯野徳三郎訳の『社会主義新小説 文明の大破壊』を発行する
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  06/10内閣総理大臣桂太郎、外務大臣小村寿太郎らに「七博士意見書」が提出される
     七博士とは東京帝国大学教授の戸水寛人、富井政章、小野塚喜平次、高橋作衛、金井延、寺尾亨と学習院教授の中村進午
     内容は桂内閣の外交を軟弱であると糾弾。「バイカル湖まで侵攻しろ」と主戦論を唱え、対露武力強硬路線の選択を迫る
     のち伊藤博文は「なまじ学のあるバカ程恐ろしいものはない」と述べる
     桂太郎は「政策のことまではいいが、軍事のことまで言うか」と困惑
  06/17前川文栄閣が正岡芸陽の『新時代の道徳』を発行する
     1911(明治44)04/04発売頒布を禁止する処分を受ける
  06/19幸徳秋水の「開戦論の流行」が『万朝報』に掲載される
  06/19加藤時次郎が「今後お互いに一層交情を深くしたい」と自宅で晩餐会を開く
     堺利彦、幸徳秋水、佐治実然、山県五十雄、黒岩涙香、田川大吉郎、斯波貞吉、片山潜を招待
     内村鑑三、安部磯雄も招かれるが欠席する
  06/22電車賃率引上反対運動で加藤時次郎が演説をする
     06/26同じく電車賃率引上反対運動で加藤時次郎が演説をする
  06/29『社会主義』が鉱毒事件労働軍歌を掲げて処罰される
  06/30内村鑑三の「戦争廃止論」が『万朝報』に掲載される【06/10?】
  07/05朝報社が幸徳伝次郎の『社会主義神髄』を発行する
     のち11月までの6版を重ねる
     11/15博文館、東京堂が幸徳伝次郎の『社会主義神髄』を発行する
     1905(明治38)11/17由分社が幸徳伝次郎の『社会主義神髄』を発行する
     1910(明治43)09/03朝報社版と博文館、東京堂版の『社会主義神髄』が発売頒布を禁止する処分を受ける
     1910(明治43)09/13由分社版が発売頒布を禁止する処分を受ける
  07/05安部磯雄が『社会主義論』を発行する。発行所は不明
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  07/07幸徳秋水の「戦争論者に告ぐ」が『万朝報』に掲載される
  07/08社会主義図書部が片山潜の『我社会主義』を発行する
     例言 第1章 社会主義とは何ぞや 第2章 資本家とは何ぞや 第3章 富、財産及び資本の関係
     第4章 資本家の歴史 第5章 初期の資本家時代 第6章 資本家の第二期時代 第7章 自由競争と労働者
     第8章 労働者間の強制的競争 第9章 資本家制度と婦女及幼年労働者 第10章 資本家の生活(対貧民の家庭)
     第11章 自由競争の終局点 第12章 ツラスト 第13章 資本家の最後(上) 第14章 資本家の最後(中)
     第15章 資本家の最後(下) 第16章 資本家の死物狂 第17章 社会主義の発達 第18章 社会主義の産業
     第19章 社会主義の生産 第20章 社会主義の恐慌 第21章 社会的製産の利益 第22章 産業の分配
     第23章 社会主義と価格 第24章 社会主義と政事及法律 第25章 社会主義と道徳及宗教
     第26章 社会主義と知能、発明、美術、文学及科学 第27章 社会主義と私有財産 第28章 社会的革命
     第29章 資本家制度の跡始末 第30章 社会主義の理想 結論
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  07/09片山潜、西川光二郎、松崎源吉、吉野省一の4人が四国、中国、九州地方の遊説を行なう【07/06?】
     香川、愛媛、広島、山口、福岡、大分、佐賀、熊本、鹿児島、宮崎の10県にわたる
     演説会は21市町村で26回にわたり行ない約7500人以上の聴衆を集める
     遊説から警察の弾圧が介入するようになる
     09/05この日まで
  07/26近衛篤麿、頭山満らが対外硬同志会を組織する
  07/ロシア社会民主労働党代位1回党大会(ブリュッセル大会)のあと党が分裂
     レーニンのボリシェビキ派とユーリー・マルトフのメンシェビキ派に分かれる
     レーニンらは脱退。『イスクラ』の編集部からも離れる
     のちメンシェビキの手により編集される。責任者はゲオルギー・プレハーノフが勤める
     1905(明治38)廃刊となる
     『イスクラ』の平均発行部数は約8千部に。名称はプーシキンの言葉「火花よりぞ焔は燃え立つ」から
  07/長崎の『鎮西日報』の改善拡張の機に主筆として田添鉄二が招かれる
     08/社会主義遊説のため長崎を訪れた西川光二郎が田添鉄二と会談
     1904(明治37)02/社主との主義上の衝突で『鎮西日報』を退社
     1904(明治37)03/社会主義のため一身を犠牲にする覚悟で上京、平民社に参加する
  08/18『社会主義』第7巻18号が発売禁止に。新聞条例違反で有罪判決
  08/22東京電車鉄道会社(東電)が新橋〜品川八ツ山間に40人乗り市内電車の運転を開始
     1904(明治37)03/総延長17.0キロの旧馬車鉄道の路線を電化
     1906(明治39)09/11東京市街鉄道会社と東京電気鉄道会社とあわせて3社が合併、東京鉄道会社に改称
  08/23幸徳秋水の「二者一を取れ」が『万朝報』に掲載される
  09/10福島の入山炭鉱でストライキが起こる
  09/129月15日発行の児玉伝八(花外)の『社会主義詩集』が発売頒布を禁止する処分を受ける
     発行所は金尾文淵堂、社会主義図書部、文淵堂代理店
  09/13幸徳秋水の「好戦心の挑発」が『万朝報』に掲載される
  09/15東京市街鉄道会社(街鉄)が数寄屋橋〜日比谷〜大手町〜神田橋に路面電車を走らせる
     1904(明治37)05/頃日比谷〜小川町〜万世橋〜両国〜茅場町〜日比谷の循環運転を開始
     のち3社合併までの間に総延長36.5キロを開業する
     1906(明治39)09/11東京電車鉄道会社と東京電気鉄道会社とあわせて3社が合併、東京鉄道会社に改称
  09/23社会主義協会大演説会が開催される。安部、片山、幸徳ら演説。聴衆650余人
  09/23社会主義協会が非戦論の発表を提唱
  09/『家庭雑誌』第1巻第6号にエドワード・ベラミー社会主義理想小説『百年後の世界』が掲載される
     抄訳は堺枯川。原題は「Looking backward」(1887)
     同年4月3日発行の『家庭雑誌』創刊号には一部抄訳した「ユトピアの話」が掲載
     1904(明治37)03/09平民文庫5銭本の第1巻として『百年後の世界』刊行
     菊版30ページ、定価5銭。初版は1千部
     著作兼発行人は堺利彦、印刷人は幸徳伝次郎、印刷所は国光社、発行所は平民社
     1911(明治44)04/04発売禁止の処分を受ける
     1920(大正09)『理想郷』と合綴してアルス社より出版
  10/08『万朝報』を発行する朝報社が前日までの態度を一変、極端に主戦論的な立場をとる
     社主の黒岩涙香が心境の変化により主戦論を唱える
  10/08夕食会の席上、非戦派急尖鋒の幸徳秋水は非戦主義の立場を主張。朝報社社長の黒岩涙香と対立
  10/08夜、社会主義協会主催の「第1回非戦論大演説会(社会主義者反戦大会)」が開かれる
     場所は東京神田美土代町のキリスト教青年会館(YMCA)【神田錦輝館?】
     主戦論を唱える諸政党の強い反対にもかかわらず集会は大成功に
     集会は来るべき戦争に反対する日本の社会主義者による最初の宣言となる
  10/08「第1回非戦論大演説会(社会主義者反戦大会)」に幸徳秋水と堺利彦が出席
     ほかにも安部磯雄、木下尚江、西川光二郎らが主義主張を掲げて熱弁をふるう
     席上、幸徳と堺は朝報社を退社する決意を表明する
     幸徳は「非戦論の立場を強調し主戦論に走った『万朝報』に留まることはできない」と決意を述べる
     10/09クリスチャンの立場から非戦を訴える内村鑑三も退社を決意
  10/10京橋区木挽町の加藤時次郎宅で「直行団」が結成される
     「吾人は決して現在の社会を以て満足する事は出来ぬ」として結成。直行団の命名は加藤
     大沢興国(天仙)、島本清隠、村山漂浪、榊原常吉(松籟)、小倉秀峯、原霞外が集まる
     事務所となる直行社を京橋区築地2丁目20番地におき先の発起人7人を理事として活動を開始。会費は5銭
     12/15第1回団員会が開かれる。事実上の「直行団」の発会式となる
     1904(明治37)02/21事務所を京橋区木挽町6丁目10番地の加藤病院内に移転
     04/事務所がいったん日本橋区牡蠣殻町の磯部検三宅に移される
     08/ふたたび加藤病院内に戻される
  10/10幸徳秋の著作『廿世紀之怪物 帝国主義』の第3版が警醒社書店から発行される
     第3版は16本の書評と紹介記事が「本書に対する批判」と題し16ページにわたり追加される
     初版は1901(明治34)4月20日
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  10/12幸徳秋水、堺利彦、内村鑑三が『万朝報』に退社する旨の記事を掲載。開戦論に転じた朝報社を退社
     幸徳と堺が連名で「退社の辞」。内村も「退社に際し涙香兄に贈りし覚書」
     また3人の退社に対する朝報社社長黒岩涙香の「内村、幸徳、堺、三名の退社に就て」を掲載する
  10/13朝報社を退社した幸徳秋水と堺利彦が今後のことに関して話し合う
     幸徳は新しい雑誌の創刊を考え、堺は『家庭雑誌』を拡張する計画
     別々に活動をするのも面白くないと共同事業をするという結論に達する
  10/13小林多喜二が秋田県の貧農の長男として生まれる
     1933(昭和08)02/20築地署の特別高等警察に検挙された小林多喜二が3時間にわたる拷問を受け息絶える
     指と前歯が折られ蹴り上げられた睾丸と陰茎は通常の3倍にまで膨れ上がる
     こめかみや二の腕には焼け火鉢を突き刺した跡。太股には錐か千枚通しで刺されたような穴が15、6か所も残る
     凄惨なリンチが死をもたらしたのは誰に目にも明らか。でも警察は死因を心臓麻痺と発表
     多喜二の関係者が望んだ遺体解剖については、どの医療機関もかかわりを恐れて引き受けず
  10/15夜、社会主義協会が幸徳秋水と堺利彦の同情会を開き激励する
     加藤時次郎が幸徳、堺らが発刊する週刊新聞に「創業費として差当り必要なだけを貸す」と申しでる
  10/20社会主義協会「第2回非戦論大演説会(社会主義者反戦大会)」を本郷の中央公会堂で開催
     6千余人の聴衆を前に幸徳秋水、堺利彦、西川光次郎、安部磯雄、木下尚江が非戦論の立場で熱弁をふるう
     演説会の収益金32円92銭は新聞発行飢饉に寄与される
  10/20片山潜が健康恢復をかねて北海道旅行に出発
     のち福島で演説会を開催
     のち北海道へ渡る
     11/05〜07夕張の永岡鶴蔵宅に3泊する
     11/14帰京
  10/23麹町区有楽町3丁目1番地(朝日新聞社に近接した日劇の裏)に1戸を借り受ける
     2階建てで2階に10畳、7畳半の2室、1階に9畳、4畳半、3畳、2畳の5室
     1階の5室に幸徳秋水一家が住みこみ、2階の2室が事務室に
     10/27警視庁に届け出をすませ東京平民社が設立される
     年末/幸徳が平民社との同居を不便と感じ、一家は淀橋に引っ越しをする
     清田伝右衛門老夫婦が住みこむ。清田老人は小泉三申の小学校時代の恩師
     1904(明治37)暮/老夫婦が故あって故郷に帰ることになる
     堺利彦の依頼で松岡文子が平民社の勝手方を任される
     松岡文子(22)は25才で病死した早稲田大学学生の同志松岡荒村の未亡人
     1905(明治38)01/01文子1人では手が足りず『平民新聞』第60号6ページの紙上で女性を募集する
     平民社勝手方松岡文子の名で掲載
     02/07広告をみた延岡為子が母の同意を得て金沢から上京。その足で有楽町の平民社へ【02/08?】
     為子の弟常太郎は『平民新聞』の購読者。平民社の温かい雰囲気にひかれ裏方募集の広告を見て上京
     10/09政府の弾圧が厳しくなり平民社が解散となる
     平民社楼上に同志70余人が集まり悲壮な解散式となる
  10/27幸徳秋水と堺利彦が警視庁に『平民新聞』発行を届けでる
  10/片山潜が「社会主義協会」の幹事の役を解任される
     1904(明治37)01/下前年12月29日に片山が渡米したため片山方キングスレー館の「社会主義協会」本部が平民社に移される
     11/16第1次桂内閣により結社が禁止され協会が解散に【11/06?】
     治安警察法第8条により解散が命じられる
  10/荒畑寒村が「社会主義協会」に加わる
  10/北一輝が論文を連載している『佐渡新聞』に「吾人は社会主義者なり」と述べる
  11/05〜07片山潜が北海道旅行の途中、夕張の永岡鶴蔵宅に3泊する
     昼間は坑口でオルグ、夜は講演会を開く
     全国的な社会主義運動や労働組合運動の現状と将来について深夜まで語る
     鉱山労働運動の組織化を方針として定め、永岡は内地に移り、南助松は夕張に残り、それぞれ組織することに
  11/0911月10日に分録堂書店が発行する尾池義雄の『人道論』が発売頒布禁止の処分を受ける
  11/15『平民新聞』が創刊される。平民社が有楽町3丁目に創立。運動の拠点となる
     編集室の壁にはマルクス、エンゲルス、ベーベル、ウィリアム・モリス、ゾラ、トルストイの6人の肖像写真がならぶ
     非戦論、社会主義的社会革命を主張する目的で創刊
     元貴族院の書記官小島竜太郎が政府に納める保証金1千円余りを援助
     京橋区出雲橋際の加藤医院の院長加藤時次郎が創業費750円を貸与
     小島、加藤のほか岩崎革也も創業費を援助する
     発行所/平民社、印刷所/国光社、発行/週刊・毎週月曜日発行
     発行兼編集人/堺利彦、印刷人/幸徳伝次郎、24号〜西川光次郎
     定価/1部3銭5厘、20部前金65銭、50部前金1円60銭
     体裁/四六倍判、紙幅/縦=約39糎、横=27糎、頁建/8頁(創刊号12頁)
     英文欄/斯波貞吉、11号〜安部磯雄
     創刊号は5千部が売り切れ3千部を増刷。のち発行部数は3千5百から4千を維持
     創刊当時の社員は幸徳秋水、堺利彦のほか山根吾一、柿内竹次郎
     相談役には小島竜太郎、加藤時次郎、佐藤実然、安部磯雄、木下尚江があたる
     執筆者には伊藤銀月、細野猪太郎、片山潜、金子喜一、田岡嶺雲、村井知至、野上啓之助、
     小泉策太郎(三申)、斯波貞吉、杉村廉太郎(縦横・楚人冠)、斎藤緑雨、田添鉄二、
     原霞外、山口義三、小田頼造、白柳秀湖、中里介山、荒畑寒村、小野吉勝(有香)ら
     自由民権運動の婦人志士景山英子(福田)も参加。平福百穂、小川芋銭が挿絵を描く
     1905(明治38)01/29第64号(最終号)で発行禁止は避けられないとして刑の執行を待たず自発的廃刊を決意
     マルクス、エンゲレスらの『新ライン新聞』の終刊にならい全紙面を赤刷り
     巻頭には幸徳秋水の「吾人は涙をふるうて、ここに平民新聞の廃刊を宣言す」と冒頭する「終刊の辞」を掲げる
     第2面には「露国革命の火」と題したロシア革命の状況が詳しく報道される
  11/15『平民新聞』創刊号9ページに伊藤銀月が「枯川と秋水」を記す
  11/15『平民新聞』創刊号2ページに「独逸社会民主党首領ベベル」の肖像画が載る
     画の執筆は平福百穂の厚意
     11/22第2号5ページに「近世社会主義の師カルルマルクス」の肖像画が載る
     11/29第3号3ページに「仏国社会党首領ジヤン、ジョーン」の肖像画が載る
     12/06第4号3ページに「社会主義の詩人ウヰリアム、モリス」の肖像画が載る
  11/22片山潜が『平民新聞』第2号6ページに「労働問題の将来」を発表
  11/22早稲田社会学会の発会式が行なわれる。矢野文雄、片山潜、西川光次郎、堺利彦ら出席
     社会主義協会加盟の早大学生、白柳秀湖、永井柳太郎、松岡荒村、山田滴海らが組織する
  11/25社会主義協会茶話会で斎藤兼次郎と西川光次郎が新任幹事に選ばれる
  11/29『平民新聞』第3号から「予は如何にして社会主義者となりし乎」の連載がはじまる
     1・西川光次郎氏 2・吉田●(王篇に幾)氏(早稲田大学) 3・斎藤金造氏(牛込) 4・緑川幸左右氏(神田)
     12/06第4号に5・小林富貴太郎氏(品川) 6・野上啓之助氏(本郷) 7・佐藤一水氏(磐城)
     8・大脇直寿氏(前橋) 9・北沢生(芝区) 10・寒(下谷) 11・清水谷善照氏(谷中)
     12/13第5号に12・林謙堂氏(名古屋) 13・天井(井口)天外氏(大津) 14・斎藤兼次郎氏(下谷)
     15・近藤平一郎氏(名古屋) 16・宇都野水氏 17・山田浅蔵氏(信濃) 18・小林血涙氏
     12/20第6号に19・西村今朝善氏(長野県) 20・宙華氏(岡山市) 21・土井昇氏(備後)
     22・瀬戸忠太郎氏(神田) 23・斎藤利四郎氏(牛込) 24・和田英吉氏(栃木県) 25・小泉新五郎氏(浅草)
     12/27第7号に26・深津駿堂氏(静岡) 27・黒川幸兵衛氏(常陸竹島) 28・石野準介氏(周防八坂)
     29・荻田汀瀾氏(岩手県岩釜) 30・南助松氏(北海道夕張炭山) 31・栗山信夫氏(信濃)
     32・朝比奈武夫氏(本郷) 33・荒岡岸郎氏(足利)
     1904(明治37)01/03第8号に34・吉田秋汀氏 35・天眼子 36・半田一郎氏(長野県) 37・堺利彦(本社)
     01/10第9号に38・木下尚江氏 39・志賀三行氏(長野) 40・伊藤潮風氏(下総)
     41・山中謂哉氏(伊予) 42・小滝淳氏(水戸) 43・森江覚平氏(富山県)
     01/17第10号に44・一牧師氏(遠州見付町) 45・内山愚童氏(相州箱根) 46・池田氏(京都)
     47・岡村百幸氏(備前) 48・稲生誠吉氏(下谷) 49・久田二葉氏(加賀) 50・一読者(横浜) 51・幸徳伝次郎(本社)
     01/31第12号に52・杉村縦横氏 53・牧野充安氏 54・小田頼造氏
     02/07第13号に55・竹内余所次郎氏(札幌) 56・幸内久太郎氏(麹町区)
     57・小森治助氏(盛岡) 58・吉田笠雨氏(和歌山) 59・青山慶次郎氏(浅草区)
     02/21第15号に60・秋峰生(横須賀) 61・中里介山氏(王子) 62・佐々木万太郎氏(陸前佐沼町)
     63・藤咲芳雄氏(牛込区) 64・天随生(東京) 65・鷲尾生(岡山)
     03/20第19号に66・安部磯雄氏 67・磯部久作氏 68・宮本氏 69・宮城喜代三氏
     09/11第44号に70・山口義三氏(神田) 71・松川竹之助氏(宮城県若柳町)
     72・中村直行氏(小石川) 73・増原長治氏(岡山)
     09/18第45号に74・岡野辰之介氏(府下池袋) 75・米田涙月氏(富山県)
     76・石渡五六氏(下総) 77・簗田右一氏(神田区) 78・大亦楠太郎氏(本郷)
     1905(明治38)04/23『直言』第2巻第12号の「婦人号」に
     79・菅谷伊和子氏 80・延岡為子氏 81・松岡文子氏 82・神川文子氏
  11/29木下尚江が『平民新聞』第3号2ページに「君主観」を発表
  11/29石川三四郎が朝報社を退社し平民社への入社を発表する
  11/福田英子がしばしば平民社に出入りするようになる
  12/上日本坑夫組合結成のため南助松が幌内方面に遊説
  12/05鉄鞭社が20才で東京政治学校在学中の山口孤剣(義三)の『破帝国主義論』を発行する
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  12/07片山の影響をうけた永岡は鉱夫の全国的な組織を結成する使命感にもえた永岡鶴蔵が北海道から上京
     神田三崎町キングスレー館の片山を訪ねる
     12/27片山より社会主義の書籍80余冊と幻燈を借りうけ足尾に移る。辻占売りをし伝道行脚を開始
     1904(明治37)02/01足尾銅山本山坑採坑夫となる
     04/末坑夫をやめて雑貨商になり共済事業をはじめる
     (月5銭の会費で傷害で休んだときは1日6銭の保証)
     小新聞『坑夫の友』『歌』を発行し、いっしょに『平民新聞』や社会主義関係の新聞、書籍を行商
  12/15加藤時次郎らが10月10日に結成した「直行団」の第1回団員会が開かれる。事実上の「直行団」の発会式
     田川大吉郎、幸徳秋水、堺利彦、石川三四郎、山根吾一、岸市五郎、中島藤吉、川畑秀太郎、保坂彦蔵、
     鎌田市太郎、渡辺真吉、沢田宗四郎、伊達琢之、磐井彦太郎、柳沢保太郎、高木唯雄、加藤良勘郎、杉島末吉、
     棚橋雅治、岡本近造、重荘正位ら30余人が参加
     加藤の開会の辞につづき田川、幸徳、堺、原、石川、山根が講演
     1904(明治37)02/26第2回団員会が加藤病院で開かれる
     03/23第3回団員会が直行社の事務所で開かれる
     05/06第4回団員会が山城屋で開かれる
     06/14第5回団員会が加藤病院で開かれる
     08/05第6回団員会が加藤病院で開かれる
     09/07第7回団員会が加藤病院で開かれる
     10/06第8回団員会が加藤病院で開かれる
     11/09加藤病院で開かれるも来会者が少なく四方山話をして散会
     11/19初期の理事島本清隠の送別会を兼ねた臨時団員会が開かれる。場所は不明
     12/12消費組合員総会をかねる。場所は加藤病院
     1905(明治38)01/21直行団1周年記念会が加藤病院で開かれる
     山田道兄、加藤時次郎、西川光二郎、安部磯雄、斯波貞吉、岡千代彦ら12人が参加
     西川、安部、斯波の演説と岡の落語、加藤の浄瑠璃、社会劇が催される
  12/18『社会主義』第26号に永岡鶴蔵が「日本坑夫組合の遊説者(永岡鶴蔵氏の奮起)」を発表する
  12/22片山潜がアムステルダムで開催の第二インターナショナル万国社会党第6回大会に出席のための送別会が開かれる
     幸徳秋水、堺利彦は出席せず
  12/29片山潜が横浜からアメリカに向けて旅立つ。第2回渡米
     アムステルダムで開催の第二インターナショナル万国社会党第6回大会に出席のため
     1904(明治37)01/17アメリカのシアトルにつく
     1904(明治37)08/14片山潜が第二インターナショナル万国社会党第6回大会に、日本の代表として出席
     大会代表者は各自国の政府に圧力を加え、日露戦争の終結に努力するよう求める決議案を提出
     日露戦争まっただなか、片山はロシア代表のプレハーノフと1千余の代表者を前に握手を交わす
     1906(明治39)01/18横浜に帰着
  12/31警醒社書店がエドワード・ベラミーの社会主義理想小説『社会小説 百年後之社会』を平井広五郎の全訳で発行する
     原名ルツキング、バツクワード。定価60銭
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  12/外国語学校仏語科学生の大杉栄が平民社に出入り、手伝いをはじめる【11/?】
  年末/幸徳秋水が平民社との同居を不便と感じ、幸徳一家は淀橋に引っ越しをする
     清田伝右衛門老夫婦が住みこむ。清田老人は小泉三申の小学校時代の恩師
     1904(明治37)暮/老夫婦が故あって故郷に帰ることになる
     堺利彦の依頼で松岡文子が平民社の勝手方を任される
     松岡文子(22)は25才で病死した早稲田大学学生の同志松岡荒村の未亡人

1904(明治37)

  01/01木下尚江が『毎日新聞』に「火の柱」の連載を開始。〜3月20日
  01/03二六新報を退いた西川光次郎の平民社入社の辞が『平民新聞』第8号1ページに掲載される
  01/03かつて『万朝報』に載せた「歌牌(カルタ)の娯楽」が『平民新聞』第8号1ページに再録される
  01/03『平民新聞』第8号からヰリアム・モリス原著、堺枯川抄訳の社会小説『理想郷』の連載が開始
     原題は「News from Nowhere」(1892)。3月6日発行の第17号をのぞく毎号で15回連載
     04/17第23号で連載終了
     12/25原稿を訂正添削し平民文庫5銭本として『理想郷』が刊行
     菊版38ページ、定価5銭。初版2千部
     著作兼発行人は堺利彦、印刷人は石川三四郎、印刷所は国光社、発行所は平民社
     1910(明治43)09/03発売禁止の処分を受ける
     1920(大正09)『百年後の世界』と合綴してアルス社より出版
  01/05加藤時次郎が雑誌『直言』を創刊する
     消費組合運動の啓蒙推進のために組織した「直行団」の機関紙
     編集室は加藤病院の2階。発行兼編集人は原霞外、印刷人は大沢興国。編集は村山漂浪(白柳秀湖)
     月1回発行(2月のみ第2号が5日、第3号が20日に発行され月2回)
     全38ページ(第2号以降は菊2倍版8ページで発行)定価は1部5銭(3銭5厘3銭)
     執筆者には原霞外、白柳秀湖、山田道兄、小野有香などの青年社會主義者
     のち社会主義者の執筆をめぐる問題で発起人中の主だった人物が離反することに
     1905(明治38)01/05第14号を発行し終刊となる
     02/05『直言』が平民社の機関紙に。第2巻第1号より『平民新聞』の後継紙となる
  01/17幸徳秋水が『平民新聞』第10号1ページの紙上に「吾人は飽くまで戦争を非認す」を発表する
     日露戦争に反対の立場を明らかにする
  01/171903(明治36)12月29日に横浜を出港した片山潜がアメリカのシアトルにつく。第2回渡米
     アムステルダムで開催の第二インターナショナル万国社会党第6回大会に出席のため
     1904(明治37)08/14片山潜が第二インターナショナル万国社会党第6回大会に、日本の代表として出席
     大会代表者は各自国の政府に圧力を加え、日露戦争の終結に努力するよう求める決議案を提出
     日露戦争まっただなか、片山はロシア代表のプレハーノフと1千余の代表者を前に握手を交わす
     1906(明治39)01/18横浜に帰着
  01/23神田美土代町の神田教会で第1回社会主義婦人講演会が開かれる
     午後1時開会。開会時の聴衆は1人。閉会までには8人に
     弁士は木下尚江、堺枯川、西川光二郎の3人
     02/13第2回社会主義婦人講演会が開かれる
     堺利彦「家庭に於ける階級制度」、西川光二郎「婦人問題の中心点」
     幸徳秋水「婦人と戦争」、村井知至「日本婦人に対する二大迷想」
     03/12第3回社会主義婦人講演会が開かれる
     午後2時、神田美土代町の神田教会で開会。聴衆は16人
     村井知至「日本婦人に関する二大迷想」、石川三四郎「婦人の天職」、堺利彦「親子の関係」
     04/10本社で社会主義婦人講演が開かれる
     聴衆は婦人8人、男子7人
     木下尚江「理想の婦人」
     以下、幸徳秋水、堺利彦の講話は都合により中止
     05/08平民社の楼上で社会主義婦人講演が開かれる
     午後2時開会。来会者は20余人
     万朝報の斯波貞吉「将来の理想的婦人」と幸徳秋水
     06/12平民社の楼上で社会主義婦人講演が開かれる
     午後2時開会。来聴者は婦人14、5人、男子14、5人、計30人ばかり
     はじめに来遊中のハンガリー社会党員のポラチエクが挨拶
     安部磯雄「革命運動と婦人」。村井知至は病気のため登壇できず
     4時半閉会
     のち7月、8月は暑中につき休止
     09/11平民社の楼上で社会主義婦人講演が開かれる
     午後2時開会。来会者は女11人、男15人
     堺利彦「身上話」
     4時半散会
     10/09本社楼上で社会主義婦人講演が開かれる
     午後2時開会。婦人の来会者おおよそ10人
     第1席に安藤兎毛喜、第2席は幸徳伝次郎の「娼妓と社会制度」
     珍客に政治家の立川雲平、自由民権運動の闘士・安芸喜代香
     立川は島崎藤村の「破壊」の市村代議士のモデル
     11/06本社楼上で社会主義婦人講演が開かれる
     午後2時開会。来聴者は婦人だけでも30余人に
     第1席に菅谷いわ子、第2席に寺本みち子、最後に松岡ふみ子
     散会前に神川松子の挨拶、吉川吉子の話など弁士はすべて女性
     12/11午後、平民社にて社会主義婦人講演が開かれる
     第1席に石川三四郎「春日局の話」
     第2席に山路愛山「予は婦人諸君が善く自己の力を考へんことを望む」
     最後に松岡文子「静御前の話」
     1905(明治38)02/05平民社楼上で社会主義婦人講演が開かれる
     午後1時半開会
     松岡文子、木下尚江「貞操に対する迷信及疑問」、今井歌子は自己の経験談を語る
     男子の入場を無制限にし会場は男子ばかりで、婦人は片隅に追いやられることに
     4時半頃閉会
     03/05平民社で社会主義婦人講演が開かれる
     午後2時開会。前回の入場をふまえ男子は必ず婦人に同伴のことに
     来聴者は婦人18人、男子もほぼ同数
     第1席は急きょの堺利彦、第2席に菅谷岩子「源氏物語に於ける女性」、
     第3席に木下尚江「解放時代の女子の危機」
     04/09平民社で社会主義婦人講演が開かれる
     午後2時開会。来会者は婦人16、7人、男子10余人
     第1席は石川旭山「独逸軍人の結婚」、第2席に神川松子「独身に対する我見解」、
     第3席に堺利彦「女らしきとは何ぞや」、第4席に木下尚江「良人の自白の苦心談」
     最後に吉崎吉子が提言
     05/07平民社楼上で社会主義婦人講演が開かれる
     午後2時開会。来会者は婦人20人、男子ほぼ同数
     第1席は堺利彦「ベーベルの婦人論(第1回)」、第2席に白柳武司「婦人犯罪の二方面」
     堺がふたたび立ち「衆議院議員補充選挙に木下尚江を推薦する議」
     休憩ののち松岡ふみ子の「現今社会主義婦人の使命」
     主義の歌をうたい5時過ぎに閉会
     06/04平民社楼上で社会主義婦人講演が開かれる
     午後2時開会。来会者は婦人14、5人、男子20人ばかり。初めて警部巡査の臨監にあう
     第1席は堺利彦「ベーベルの婦人論(第2回)」、第2席に菅谷いわ子が立つ
     のち、2、3の感話がありヴァイオリンの奏楽、5時頃散会
  01/24幸徳秋水が『平民新聞』第11号1ページの社説に「戦争と道徳」を発表する
  01/25一二三館が赤羽一の号、赤羽厳穴の名で『嗚呼祖国』を発行する
     もとは1902(明治35)8月31日に鳴皐書院が本名の赤羽一の名で発行
     1910(明治43)09/20鳴皐書院版、一二三館版がともに発売頒布を禁止する処分を受ける
  01/下前年12月29日に片山潜が渡米したため片山方キングスレー館の「社会主義協会」本部が平民社に移される
     11/16第1次桂内閣により結社が禁止され協会が解散に【11/06?】
     治安警察法第8条により解散が命じられる
     「社会主義協会」は1900(明治33)1月28日に旧社会主義研究会[1898(明治31)10月18日創立]が改組して結成される
  01/片山潜の渡米後、『社会主義』『渡米雑誌』に改題
     1897(明治30)12月1日『労働世界』創刊、1902(明治35)1月1日『内外新報』に改題、
     1902(明治35)4月3日『労働世界』に改題、1903(明治36)3月3日『社会主義』に改題ののち
     11/社会主義協会の解散と同時に発行禁止
  02/01永岡鶴蔵が足尾銅山本山坑採坑夫となる
     04/末坑夫をやめて雑貨商になり共済事業をはじめる
     (月5銭の会費で傷害で休んだときは1日6銭の保証)
     小新聞『坑夫の友』『歌』を発行し、いっしょに『平民新聞』や社会主義関係の新聞、書籍を行商
  02/04午後、御前会議でロシアとの国交断絶。開戦が決定される
     02/05御前会議で開戦が決定。連合艦隊司令長官に出撃命令が手交
     02/06ロシアに宣戦布告。連合艦隊が佐世保港より出撃。日露戦争が始まる
     02/10日本、露ともに宣戦布告
     1905(明治38)01/01旅順要塞司令官ステッセルが降伏の申し入れ
     01/02旅順開城規約が調印される
     09/05日露戦争の講和条約(ポーツマス条約)が調印される
     11/25批准書が交換され終戦を迎える
  02/07幸徳秋水が『平民新聞』第13号1ページの社説に「和戦を決する者」を発表する
  02/10西川光二郎と野上啓之助の2人が伊豆遊説を試みる
     熱海、多賀、伊東、下田、沼津、三島などで演説を行ない、約370人以上の聴衆が参加する
     平民文庫、平民新聞や社会主義の檄などを販売、配布しながらの遊説となる
     02/30この日まで
  02/11日露戦争における大本営が設置される
     1905(明治38)12/20日露戦争の大本営が解散
  02/13第2回社会主義婦人講演会が開かれる
     堺利彦「家庭に於ける階級制度」、西川光二郎「婦人問題の中心点」
     幸徳秋水「婦人と戦争」、村井知至「日本婦人に対する二大迷想」
     03/12第3回社会主義婦人講演会が開かれる
  02/14幸徳秋水が『平民新聞』第14号1ページに「戦争来」「兵士を送る」「戦争の結果」を発表する
  02/21『平民新聞』第15号1ページに「兵士の謬想」が掲載される
  02/21「直行団」の事務所「直行社」が京橋区築地2丁目20番地から京橋区木挽町6丁目10番地の加藤病院内に移転
     「直行団」は1903(明治36)10月10日に加藤時次郎により結成される
     04/事務所がいったん日本橋区牡蠣殻町の磯部検三宅に移される
     08/ふたたび加藤病院内に戻される
  02/26「直行団」の第2回団員会が加藤病院で開かれる
     第1回は1903(明治36)12月15日に加藤病院で開かれる。事実上の「直行団」の発会式
     加藤の開会の辞につづき田川、幸徳、堺、原、石川、山根が講演
     03/23第3回団員会が直行社の事務所で開かれる
     05/06第4回団員会が山城屋で開かれる
     06/14第5回団員会が加藤病院で開かれる
     08/05第6回団員会が加藤病院で開かれる
     09/07第7回団員会が加藤病院で開かれる
     10/06第8回団員会が加藤病院で開かれる
     11/09加藤病院で開かれるも来会者が少なく四方山話をして散会
     11/19初期の理事島本清隠の送別会を兼ねた臨時団員会が開かれる。場所は不明
     12/12消費組合員総会をかねる。場所は加藤病院
     1905(明治38)01/21直行団1周年記念会が加藤病院で開かれる
     山田道兄、加藤時次郎、西川光二郎、安部磯雄、斯波貞吉、岡千代彦ら12人が参加
     西川、安部、斯波の演説と岡の落語、加藤の浄瑠璃、社会劇が催される
  02/小川芋銭が『いばらき新聞』の主筆佐藤秋蘋のあっ旋で『平民新聞』に寄稿するようになる
  02/田添鉄二が社主との主義上の衝突で『鎮西日報』を退社
     1904(明治37)03/社会主義のため一身を犠牲にする覚悟で上京、平民社に参加する
     田添鉄二は前年の8月に社会主義遊説のため長崎を訪れた西川光二郎と会談
  03/03朝7時、小田頼造が平民社発行の平民文庫第1段『社会主義入門』を赤塗りの平民車に積み千葉県の伝道行商に出発する
     のち3月10日頃まで。失敗に終わる
  03/05平民社同人の編集による『社会主義入門』が平民文庫の第1巻として刊行。実際は3月1日発行
     ファザー・マックグラヂー著、西川光二郎訳「共同生産」、ジョン・スパルゴ著、堺枯川訳「階級戦争」
     チャールス・ヴェイン著、幸徳秋水訳「社会党の運動」、ハーモン・チタス著、石川三四郎訳「社会主義のイロハ」
     堺枯川の「社会主義と中等社会」、安部磯雄の「社会主義論」の6編を収録
     四六半截版76ページ、定価10銭。初版は2千部
     編集兼発行人は堺利彦、印刷人は幸徳伝次郎、印刷所は国光社、発行所は平民社
     1910(明治43)09/03発売禁止の処分を受ける
  03/06幸徳秋水が『平民新聞』第17号1ページに「戦争と新聞紙」を発表する
  03/06『平民新聞』第17号6ページに「平民社籠城の記」が記される
  03/09エドワード・ベラミー原著の社会主義理想小説『百年後の世界』が平民文庫5銭本の第1巻として刊行
     堺枯川抄訳。原題は「Looking backward」(1887)
     菊版30ページ、定価5銭。初版は1千部
     著作兼発行人は堺利彦、印刷人は幸徳伝次郎、印刷所は国光社、発行所は平民社
     もとは1903(明治36)9月発行の『家庭雑誌』第1巻第6号に掲載
     1911(明治44)04/04発売禁止の処分を受ける
  03/11「直行団」が民衆に直接訴え社会問題に対処するため芝区兼房町玉翁亭で公開演説会を開く
     原霞外が開会主旨を述べ、山口孤剣「資本家の犬と戦争狂」、白柳秀湖「争童の悪口に似たり」、石川三四郎「兵士の家族」、
     山根吾一「兵士と細君」、岡千代彦「戦争労働者」、磯部検三「文明と人種」、加藤時次郎「戦時貧民救済法」のほか
     吉田●(王偏に幾)、松崎源吉が飛び入りで参加する
  03/12第3回社会主義婦人講演会が開かれる
     午後2時、神田美土代町の神田教会で開会。聴衆は16人
     村井知至「日本婦人に関する二大迷想」、石川三四郎「婦人の天職」、堺利彦「親子の関係」
     04/10本社で社会主義婦人講演が開かれる
  03/12高野房太郎が日本に戻ることなく青島のドイツ病院で肝臓の膿瘍で客死。36才
     [1969・01/06《明治01・11/24》生]
  03/13幸徳秋水の「与露国社会党書(露国社会党に与うるの書)」が『平民新聞』第18号1ページの社説に掲載
     のち感銘を受けた欧米各国の社会党がそれぞれの機関紙に訳載
     ニューヨークのドイツ語新聞『フォルクス・ツァイトゥング』は1面全面を写真版にして掲載【英国で発行?】
     07/24回答の「露国社会党より」全文が『平民新聞』第37号5ページに訳載される
     在ジュネーブの露国社会民主党機関紙『イスクラ』が応答。アメリカの新聞に英訳されたものを邦訳
  03/20日本の社会主義者たちが東京で開かれた会合でロシアの同志たちに同志的交情の挨拶を送ることを決議する
  03/27幸徳秋水の「嗚呼増税!」が『平民新聞』第20号1ページに掲載
     のち新聞紙条例違反で発売を禁止。発行兼編集人の堺利彦が告発される
     04/05東京地方裁判所第1刑事部の今村恭太郎裁判長は堺を軽禁錮3か月、『平民新聞』の発行を禁止に
     弁護人は今村力三郎、花井卓蔵、木下尚江ら
     未決囚のあいだは牛込区市谷富久町の東京監獄に拘禁される
     のち堺が控訴
     04/12午前10時、控訴審は東京控訴院第2号法廷で常松英吉裁判長、小畔検事係りで開廷
     第1審では弁護人なし、第2審では今村力三郎、木下尚江、花井卓蔵、高木金之助らの弁護が行なわれる
     04/16判決が言い渡される。『平民新聞』の発行禁止は棄却、軽禁錮は2か月に
     04/20堺利彦が「嗚呼増税!」の筆禍を受け入獄【04/21?】
     判決がおり巣鴨監獄へ移され囚人番号は「一九九〇号」
     社会主義運動史上、初の犠牲となる。社会主義者と当局との闘いのはじまり
     06/20午前5時、出獄する
     6時出獄の予定が典獄殿の思し召しで1時間早めての釈放に。混乱を回避するための処置
     杉村縦横、木下尚江、斎藤兼次郎ら20人ばかりが集まる
     なかには堺宅のとなりに住む福田英子の手にひかれた1才5か月になる堺の娘、真柄の姿も
     堺の妻、美知は病気のため迎えにはでられず、夫のため好物の豆飯を炊いて待つ
  03/『二六新報』の秋山定輔が代議士を辞任、『二六新報』の勢いが失われる
     04/『東京二六新聞』と改題
     のち『二六新報』『二六新聞』『世界新聞』『二六新報』と改題をかさねる
     1940(昭和15)09/新聞の戦時統制で『日刊工業新聞』と合併
  03/社会問題講究会が日露開戦まもなく消滅
     社会問題講究会は1901(明治34)5月、矢野文雄、田川大吉郎、加藤時次郎、国木田独歩らが組織
     安部磯雄、片山潜、幸徳徳次郎らも支援する
  03/東京電車鉄道会社(東電)が総延長17.0キロの旧馬車鉄道の路線を電化
     1906(明治39)09/11東京市街鉄道会社と東京電気鉄道会社とあわせて3社が合併、東京鉄道会社に改称
  04/01永岡鶴蔵が足尾銅山で日本労働同志会を組織【大日本労働同志会?】
     のち演説会などをもって活動。飯場頭役らの妨害があるも会員が1400人に達する
     1906(明治39)01/01日本労働同志会が飯場頭主導の共和会【協和会?】と合同して日本鉱山労働会を結成
     共闘方針を打ち出す
     日本労働同志会は会社や警察、頭役らの圧力により会員が減少していた
  04/03森近運平と岡山監獄の教誨師鷲尾敬導が中心となり岡山いろは倶楽部を結成する
  04/10本社で社会主義婦人講演が開かれる
     聴衆は婦人8人、男子7人
     木下尚江「理想の婦人」
     以下、幸徳秋水、堺利彦の講話は都合により中止
     05/08平民社の楼上で社会主義婦人講演が開かれる
  04/114月12日に横浜労働者同盟会が発行する伊藤友次郎(呑舟)の『救世之教義 第1篇』が発売頒布禁止の処分を受ける
  04/14小野丑郎が群馬県、長野県へ伝道行商の旅に出発する
     上州の前橋、磯部、安中、簗瀬、原市、信州の小諸、上田とまわる
     途中簗瀬の機業家吉川清十郎宅で講演会を開き「競争の弊害」の演題で資本家を攻撃、吉川と口論となり追い出される
     のち4月19日まで
  04/16春陽堂が堺枯川の『労働問題』を発行する
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  04/17幸徳秋水が『平民新聞』第23号1ページに「社会党の将来」を発表する
     本篇は9日に錦輝館で催された平民新聞演説会の幸徳秋水の演説の大意
  04/27社会主義協会が社会主義茶話会を開く
     「地方遊説を盛んにする事、殊に会員中の学生諸君は夏期休業を遊説に利用する事」を決議する
  04/片山潜派の伊藤友治郎が横浜に労働者同盟会を組織する
  05/08平民社の楼上で社会主義婦人講演が開かれる
     午後2時開会。来会者は20余人
     万朝報の斯波貞吉「将来の理想的婦人」と幸徳秋水
     06/12平民社の楼上で社会主義婦人講演が開かれる
  05/10平民社が平民文庫から木下尚江の『火の柱』を発行する
     1906(明治39)07/20金尾文淵堂が木下尚江の『火の柱』を発行する
     1908(明治41)10/20栄江堂が木下尚江の『火の柱』を発行する
     1910(明治43)09/03平民社平民文庫と金尾文淵堂と栄江堂の『火の柱』が発売頒布を禁止する処分を受ける
  05/15木下尚江が『平民新聞』第27号1ページに「五月廿日を迎ふ」を発表する
     副題には「社会民主党禁止の第四周年」
  05/15『平民新聞』第27号の3ページ世界之新聞欄に「露国社会民主党の檄文」が掲載
     ウラジミル・イリッチ・レーニンが起草したアピール文を訳載。万国労働者の国際的連帯を強調する
  05/15『平民新聞』第27号3ページに幸徳秋水が一記者の筆名で「筆のしづく」を発表する
  05/20社会主義大演説会を開催
     社会主義運動の気運が急速な盛り上がりを示す
  05/20石川旭山著の『消費組合(一名購買組合)之話』が平民文庫から刊行
     四六半截版130ページ、定価12銭。初版は1千部
     著作兼発行人は石川三四郎、印刷人は幸徳伝次郎、印刷所は国光社、発行所は平民社
  05/22『平民新聞』第28号4ページに「一看守」による「獄裡の枯川先生」が掲載される。看守は岡野辰之助
     のち岡野は看守をやめて社会主義運動に加わる
  05/27警視庁が記者会見を開く。今後大いに社会主義を取り締まる方針を明らかにする
     政府は社会主義者の運動に対する取り締まりを積極的に打ち出すことに
  05/28安部磯雄著の『地上の理想国 瑞西』が平民文庫から刊行
     ヴヰンセントの「瑞西の政治」とドウソンの「社会的瑞西」から抜粋して著わす
     四六半截版152ページ、定価15銭。初版は2千部
     著作兼発行人は安部磯雄、印刷人は石川三四郎、印刷所は国光社、発行所は平民社
     1947(昭和22)05/大原社会問題研究所から「社会問題名著選」の1冊として再版。解説は権田保之助
  05/頃東京市街鉄道会社(街鉄)が日比谷〜小川町〜万世橋〜両国〜茅場町〜日比谷の循環運転を開始
     のち3社合併までの間に総延長36.5キロを開業する
     1906(明治39)09/11東京電車鉄道会社と東京電気鉄道会社とあわせて3社が合併、東京鉄道会社に改称
  06/初山川が仮出獄する
     1900(明治33)5月初旬発行の月刊『青年の福音』第3号掲載記事による筆禍事件
     山川と守田有秋は刑法第117条第1項、第119条、第120条が適用される
     丁年(20才)未満で罪1等が減じられ重禁固3年6か月、罰金120円、監視1年に処せられる
     1901(明治34)7月10日の控訴判決も1審に同じ、7月14日に巣鴨監獄に入る
  06/05『平民新聞』第30号1ページに「政府に忠告す」が掲載される
  06/05大日本労働至誠会の南助松が北海道内遊説のため夕張を離れる
  06/仮出獄した山川均が数寄屋橋の平民社を訪ねる。幸徳秋水とあう
     06/11東京を離れ生まれ故郷の倉敷にもどる
     1906(明治39)10/『平民新聞』の創刊に編集部員として参加するよう幸徳秋水に招かれる
     12/中任されていた義兄林源十郎の薬店岡山支店を辞し上京
     錦町に下宿し新富町の平民社で初めて堺利彦に会う
  06/12平民社の楼上で社会主義婦人講演が開かれる
     午後2時開会。来聴者は婦人14、5人、男子14、5人、計30人ばかり
     はじめに来遊中のハンガリー社会党員のポラチエクが挨拶
     安部磯雄「革命運動と婦人」。村井知至は病気のため登壇できず
     4時半閉会
     のち7月、8月は暑中につき休止
     09/11平民社の楼上で社会主義婦人講演が開かれる
  06/19『平民新聞』が第32号1ページで社説「敬愛なる朝鮮」を掲載。朝鮮をするどく批判する
  06/20午前5時、堺利彦が出獄する
     6時出獄の予定が典獄殿の思し召しで1時間早めての釈放に。混乱を回避するための処置
     杉村縦横、木下尚江、斎藤兼次郎ら20人ばかりが集まる
     なかには堺宅のとなりに住む福田英子の手にひかれた1才5か月になる堺の娘、真柄の姿も
     堺の妻、美知は病気のため迎えにはでられず、夫のため好物の豆飯を炊いて待つ
     3月27日発行の『平民新聞』第20号1ページに掲載された幸徳秋水の「嗚呼増税!」が筆禍を受け4月20日に入獄
     堺の入獄は社会主義運動史上、初の犠牲となる
  06/20出獄後の堺利彦は自分の家へ戻るより先に病気で寝ている幸徳秋水を訪ねる
  06/22西村伊作が和歌山県へ伝道行商の旅に出発する
     平民社とは連絡をとらず独自で自転車に乗り新宮から和歌山まで熊野の沿岸を走る。西村の叔父は大石誠之助
     和歌山から京都までは汽車のなかで売りさばく
     06/29同志社大学生の弟大石真子の下宿に到着
  06/26淀橋浄水工場の後方、角筈十二社、梅林亭で堺利彦の出獄歓迎会をかねた園遊会が催される【06/29?】
     くもり空ながら男女あわせて150人が集まる大宴会に
     発起人総代の安部磯雄は「若し吾党の士の中に出獄者ある毎に歓迎会を開くことゝすれば、
     今後何百回こゝで歓迎会を開かなければならぬかも知れぬ」と述べる
     友人の寄付によるおでん屋。加藤時次郎寄付の団子屋
     花井、卜部、今村、高木らと朝報社の斯波、徳永の寄付によるビアホールなどが開店
     岡、原、加藤、清田、山田が余興をし、最後に加藤時次郎の浄瑠璃のあと4時に散会
  07/03『平民新聞』第34号から堺利彦が「一空々零生」の筆名で獄中体験記の「獄中生活」の連載を始める
     初回掲載は6ページ。「一空々零生」は自身の囚人番号「一九九〇号」から
     07/10第2回は第35号7ページに
     07/17第3回は第36号7ページに
     07/24第4回は第37号7ページに
     07/31第5回は第38号7ページに
     08/07第39号は休載
     08/14第40号の6ページまで6回にわたり連載
  07/10『平民新聞』第35号1ページに「平民新聞直接読者統計表」が載る
     直接購読者は全1376人【実際の平民新聞には合計1403とある?】
     内訳は東京が453。北海道97、群馬55、長野44、高知37、新潟35、千葉34、静岡34、兵庫34、
     茨城29、福岡28、神奈川27、秋田26、京都25、長崎24、福島22、岐阜22、岡山21、和歌山20
     埼玉18、青森17、栃木16、島根16、大阪15、山口14、愛知12、石川10、熊本10、
     山梨9、岩手9、広島9、佐賀9、宮城8、富山8、三重8、奈良8、愛媛8、宮崎8、
     鳥取6、鹿児島6、大分5、山形4、滋賀4、福井3、徳島3
     海外では欧米40、台湾14、清国5、韓国4。他に在外軍隊3
     地方の社会主義団体として札幌平民倶楽部、下野同胞会、両毛同志会、北総平民倶楽部、横浜曙会、
     名古屋社会主義研究会、大阪平民社、神戸平民倶楽部、岡山いろは倶楽部、熊本評論社など
  07/10西川生が『平民新聞』第35号7ページに「戦勝は何を持来すべき乎」を発表する
  07/16木下尚江、西川光二郎、石川三四郎、幸徳秋水、山口義三、斎藤兼次郎が夏期遊説を行なう
     茨城県、横浜市、群馬県、長野県、埼玉県など16か所で演説会や談話会を開催
     水戸で800人、長野で600人の聴衆を動員する
     07/31この日まで
  07/17『平民新聞』第36号2ページに無著名の記事「朝鮮併呑論を評す」が発表される
  07/18直行団消費組合演説会を開催。加藤時次郎、原霞外、堺利彦ほかが参加
     11/28直行団による消費組合の設立総会が開かれる
  07/232人の学生、野村生と阿南生が夏期休暇を利用し茨城県、栃木県へ伝道行商の旅に出発する
     07/25土浦で3円73銭の売り上げ
     07/26・27・28水戸で4円2銭5厘の売り上げ
     07/30・31下館で1円97銭5厘の売り上げ
     08/01結城で1円53銭5厘の売り上げ
     08/02小山で1円42銭の売り上げ
     08/04・05・06栃木で1円9銭5厘の売り上げ
     伝道行商の旅は終わりに。総計14円28銭に
  07/24「与露国社会党書」に対する在ジュネーブの露国社会民主党機関紙『イスクラ』が応答
     回答の「露国社会党より」全文が『平民新聞』第37号5ページに訳載される
     「与露国社会党書」は3月13日発行の『平民新聞』第18号1ページの社説に掲載
  07/木下尚江、西川光次郎、石川三四郎、幸徳秋水、山口義三、斎藤兼次郎が茨城、神奈川、群馬、長野、埼玉に遊説する
     08/さらに同じメンバーで岐阜、愛知、静岡、神奈川を遊説する
  07/管野すがが矯風会大会に大阪代表として出席する。平民社に堺利彦を訪ね指導を受ける
  08/022人の学生、西島生と権田生が夏期休暇を利用して神奈川県へ伝道行商の旅に出発する
     国分寺から府中、本宿、保谷、立川【日野?】、八王子、厚木、平塚、茅ケ崎、藤沢まで
     のち8月4日まで
     3日間の売りさばきは平民文庫『火の柱』5冊1円75銭、『地上の理想国瑞西』7冊1円5銭、
     『社会主義入門』9冊90銭、『消費組合の話』4冊48銭、『百年後の新社会』9冊45銭
     『平民新聞』25部87銭5厘。総額5円50銭5厘に
  08/07『平民新聞』第39号に「トルストイ翁の日露戦争論〈爾曹(なんじ)ら悔い改めよ〉」の論文を8ページにわたり全文掲載
     「トルストイ翁の日露戦争論」は6月27日付『ロンドンタイムス』の論文を幸徳秋水、堺利彦が訳載
  08/07中里介山が『平民新聞』第39号7ページに詩「乱調激韵」を発表する
  08/12西川光二郎が警察の尾行つきで東海道遊説を行なう
     岐阜、愛知、静岡、神奈川の4県にわたり9か所で演説会を開く。約1760余人の聴衆を集める
  08/14『平民新聞』第40号1ページの社説に幸徳秋水が「トルストイ翁の非戦論を評す」を掲載する
     幸徳は唯物論者の立場、社会主義者の立場からトルストイを批判
  08/14〜20片山潜がアムステルダムで開かれた第二インターナショナル万国社会党第6回大会に、日本の代表として出席
     大会代表者は各自国の政府に圧力を加え、日露戦争の終結に努力するよう求める決議案を提出
     日露戦争まっただなか、片山は交戦国ロシア代表のプレハーノフと1千余の代表者を前に握手を交わす
  08/15木下尚江が『毎日新聞』に「良人の自白」の連載を開始。〜11月10日
     1905(明治38)04/01「良人の自白」続篇の連載を開始。〜6月3日
     07/01「良人の自白」後篇の連載を開始。〜10月16日
  08/病弱の堺利彦の妻・美知子の持病の肺患が急激に悪化。加藤病院神奈川分院に入院加療
     のち堺が活動しやすいように真柄を加藤病院小田原分院がひきとる
     08/18美知子が入院先の加藤病院神奈川分院で肺患のため死去。享年35才
     美和子は1906(明治39)9月に大杉栄(21)と結婚する堀保子の姉
     08/20堺が夫人の遺骨を携え帰社
     08/21葬儀が白金三光町の重秀寺で営まれ葬られる
     安部磯雄が社会主義協会を代表し悲壮な弔辞を述べる
     1905(明治38)08/18「故堺みち子氏追悼会」が芝浦の大光館で開かれる
     発起人は女性ばかり逸見菊枝、福田英、延岡ため、幸徳千代、熊谷かつ、木下操ら。のち堺夫人となる延岡為子も名を連ねる
     加藤時次郎、安部磯雄、木下尚江、久津見蕨村が演説。加藤は公席を賑わそうと義太夫を披露する
  08/18荒畑寒村が横浜平民結社の茶話会を開催
  08/21甲武鉄道が飯田町〜中野間に電車の運転を開始する
  08/21『平民新聞』第41号1ページに「社会党の戦争観」が発表される
  08/28堺利彦が『平民新聞』第42号5ページに「晩夏初秋の感」を発表する
     妻美知子の死に対して心境を語る
  08/29横浜電鉄の車掌運転手がストライキを起こす
  09/01平民文庫が幸徳秋水著の『社会民主党建設者ラサール』を発行する
     四六半截版137ページ、定価15銭。初版は2千部
     著作兼発行人は幸徳伝次郎、印刷人は石川三四郎、印刷所は国光社、発行所は平民社
     もとは1902(明治35)4月13日の『労働世界』第6年第2号から9月13日の第6年第15号まで連載
     タイトルは「社会民主党建設者血性男児」
     1910(明治43)09/03発売禁止の処分を受ける
  09/03小田頼造が3月3日に続いて再度、千葉県へ伝道行商の旅に出発する
     コースは東京から佐久良、八街、成東、松尾、横芝、八日市、旭、銚子、佐原、成田、松戸、東京まで
     のち9月21日まで。18日間に1回の演説会、8回の談話会、102冊の本の売り上げ
  09/05加藤時次郎が『直言』第1巻第10号に堺利彦の妻・美知子の死を悼み「嗚呼堺夫人」を寄せる
  09/09与謝野晶子が「君死に給ふことなかれ」を『明星』に発表する
  09/10西川光二郎著の『土地国有論』が平民文庫から刊行
     四六半截版94ページ、定価10銭。初版は1500部
     著作兼発行人は西川光二郎、印刷人は石川三四郎、印刷所は国光社、発行所は平民社
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  09/11平民社の楼上で社会主義婦人講演が開かれる
     午後2時開会。来会者は女11人、男15人
     堺利彦「身上話」
     4時半散会
     10/09本社楼上で社会主義婦人講演が開かれる
  09/16夜、YMCAで「社会主義大演説会」が開かれる
  09/18幸徳秋水が『平民新聞』第45号1ページに「日露社会党の握手」を発表する
     第二インターナショナル万国社会党第6回大会の模様を報告
  09/18旭山生が『平民新聞』第45号1ページに「自由恋愛私見」を発表する
  09/西川光次郎著『人道の戦士社会主義の父カール・マルクス』を平民社が定価10銭で販売
     もとは中庸堂書店が1902(明治35)4月10日に定価15銭で発行【04/18?】。平民社が版権と残本300部を引き受ける
     日本初のマルクス伝
     1905(明治38)02/西川の2月の新聞条例違反での入獄を記念し平民文庫の1冊に加えられる
     四六半截版104ページ、定価10銭
  10/01田添鉄二著の『経済進化論』が平民文庫から刊行
     四六半截版154ページ、定価15銭。初版は1500部
     著者は田添鉄二、発行者は堺利彦、印刷者は幸徳伝次郎、印刷所は国光社、発行所は平民社
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  10/02『平民新聞』第47号2ページに「電車開通と車夫」が掲載される
  10/02『平民新聞』第47号4ページに山口義三、小田頼造の檄文「伝道行商の為めに京を発するに臨みて」が発表される
  10/05朝7時、小田頼造、山口義三が赤塗の箱車に社会主義の出版物を満載し「伝道行商」に出発
     東海道から山陽道を下る
     のち途中の小田原では加藤病院小田原分院に宿泊する
     1905(明治38)01/正月を岡山の同志森近運平宅で迎える
     01/26114日かけて下関に到着。行程は約300里に
     談話会13回、演説会5回の計18回を開く。会場は談話・演説会の会場は同志宅6回、貸席6回、寺院4回、教会2回
     社会主義協会員25人、社会主義者40人の計65人の同志を獲得する
     113日の宿泊状況は同志関係者宅が60回、宿屋42回、木賃宿8回、不明3回
     平民文庫858冊で売上高137円46銭
      木下尚江著「火の柱」(定価35銭)127冊、安部磯雄著「地上の理想国瑞西」(定価15銭)119冊、
      田添鉄二著「経済進化論」(定価15銭)97冊、平民社同人編「社会主義入門」(定価10銭)92冊、
      堺枯川抄訳「百年後の新社会」(定価5銭)73冊、幸徳秋水著「社会民主党建設者ラサール」(定価15銭)68冊、
      西川光次郎著「土地国有論」(定価10銭)66冊、西川光次郎著「富の圧制」(定価12銭)49冊、
      西川光次郎著「カール・マルクス」(定価10銭)46冊、堺枯川抄訳「理想郷」(定価5銭)43冊、
      木下尚江著「良人の自白」(定価35銭)39冊、石川三四郎著「消費組合の話」(定価12銭)39冊
     平民社取次書類239冊で売上高43円85銭
      村井知至著「社会主義」(定価15銭)138冊、片山潜著「我社会主義」(定価25銭)85冊
      安部磯雄著「社会主義論」(定価10銭)10冊、西川光次郎「社会党」(定価15銭)6冊
     合計1097冊を売りさばき181円31銭を得る。半分の90円66銭を平民社に納入し、残り半分が山口、小田の経費となる
  10/09堺利彦が『平民新聞』第48号6ページに「共産党宣言に就いて」を書く
  10/09本社楼上で社会主義婦人講演が開かれる
     午後2時開会。婦人の来会者おおよそ10人
     第1席に安藤兎毛喜、第2席は幸徳伝次郎の「娼妓と社会制度」
     珍客に政治家の立川雲平、自由民権運動の闘士・安芸喜代香
     立川は島崎藤村の「破壊」の市村代議士のモデル
     11/06本社楼上で社会主義婦人講演が開かれる
  10/16『平民新聞』第49号7ページの「同志の運動」欄に小田頼造と山口義三の「伝道行商日記」が掲載
     連載がはじまる。第1報は相州鎌倉より
     10/23第50号7ページ「同志の運動」欄に第2報。箱根大平台より
     10/30第51号5ページ「同志の運動」欄に第3報。駿河岩淵より
     11/06第52号7ページ「同志の運動」欄に第4報。静岡市より
     11/13第53号は休載
     11/20第54号6ページ「同志の運動」欄に第5報。天龍川畔より
     11/27第55号7ページ「同志の運動」欄に第6報。三河岡崎より。名古屋市より
     12/04第56号7ページ「同志の運動」欄に第8報。美濃関ケ原より
     12/11第57号7ページ「同志の運動」欄に第7報。京都より
     【実際の『平民新聞』で第7報と第8報の順番が逆】
     12/18第58号7ページ「同志の運動」欄に第10報。大阪より
     【実際の『平民新聞』で第9報が欠番】
     12/25第59号7ページ「同志の運動」欄に第11報。神戸より
     1905(明治38)01/01第60号7ページに第12報。備前和気より
     01/08第61号7ページ「同志の運動」欄に第13報。岡山より
     01/15第62号7ページ「同志の運動」欄に第14報。備中笠岡より
     01/22第63号7ページ「同志の運動」欄に第15報。広島より
     01/29第64号(『平民新聞』最終号)7ページに第16報。周防富海より
     02/05引き続き「伝道行商の記」の第17報が『直言』第2巻第1号7ページ「同志の運動」欄に掲載される
     最終回は下関より
  10/16『平民新聞』第49号1ページに論説「先づ政権を取れ」が掲載される
     副題には「社会運動の第一着手」「普通選挙の請願」。普通選挙制に対する期待を持つ
  10/25福田英子が『妾の半生涯』を出版する
     著作兼発行者は東京府豊多摩郡淀橋町字角筈738番地の福田英
     大売捌所は東京市の東京堂と大阪市の吉岡書店
     内容は「最近の撮影」と題する英子の肖像が1葉、「はしがき」4頁、目次9頁、本文が14章159頁で全文にふり仮名付。菊版
  10/30幸徳秋水が『平民新聞』第51号1ページの社説に「危険なる法律」を発表する
  10/労働新聞社から刊行した西川光二郎著の『英国労働界の偉人ジヨン・バアンス』が品切れ絶版状態に
     もともとは1902(明治35)7月17日、四六版47ページ、定価12銭で刊行
     1905(明治38)03/24西川の2月の新聞条例違反での入獄記念として平民文庫5銭本の1冊として増補再版
     菊版20ページ、定価5銭
     著作兼発行人は西川光二郎、印刷人は石川三四郎、印刷所は国光社、発行所は平民社
  11/02夜、「社会主義協会」が神田青年会館で大演説会を開く。1千人の会衆が集まる
     まず田添鉄二が起って中止、次に佐治実然が起って中止、3番目に幸徳秋水が起って中止となり警察は解散を命じる
     納得しない聴衆は騒ぎ大混乱に。拍手と万歳が30分ほど続くも警察はなにもできず、聴衆は凱歌をあげて解散に
     11/06『平民新聞』第52号に「社会主義大演説会の記」を掲載
  11/06本社楼上で社会主義婦人講演が開かれる
     午後2時開会。来聴者は婦人だけでも30余人に
     第1席に菅谷いわ子、第2席に寺本みち子、最後に松岡ふみ子
     散会前に神川松子の挨拶、吉川吉子の話など弁士はすべて女性
     12/11午後、平民社にて社会主義婦人講演が開かれる
  11/06『平民新聞』第52号が教育を批判する形をとる
     1ページに石川三四郎他の「小学教師に告ぐ」、4ページに西川光次郎の「社会主義者の教育観」、
     5ページに堺枯川の「小学修身漫評」、6ページに無価珍子の「戦争に対する教育者の態度」を掲載
     11/09内務大臣の命令で発売が禁止となる
     編集発行人の西川光二郎、印刷人の幸徳秋水は新聞条例の朝憲紊乱の罪名で起訴される
     弁護人は花井卓蔵、今村力三郎、木下尚江、卜部喜太郎
     11/19第1審で西川と幸徳はそれぞれ禁錮5か月、罰金50円に
     さらに西川は評論が社会の秩序を乱したという理由で、別に禁錮2か月の刑に
     『平民新聞』の発行禁止と印刷機械没収の判決
     1905(明治38)01/11幸徳、西川らに対する新聞紙条例違反事件の第2審が控訴院にて判決
     禁錮、罰金、『平民新聞』の発行停止など第1審と同じ
     02/23印刷業者国光社所有の印刷機械が犯罪用具として没収される
     02/23大審院に上告するも破却される
     西川の軽禁錮7か月と罰金50円、幸徳の軽禁錮5か月と罰金50円の原判決が確定する
     02/28幸徳と西川は日比谷公園で見送りの人々と記念撮影
     12時過ぎ、堺利彦、木下尚江ら多くの同志や友人に見送られ裁判所に出頭する。東京巣鴨監獄に入獄
     04/中幸徳が腸胃加答児(カタル)を病み病監に移される
     07/28幸徳が出獄
     09/26西川が出獄
  11/06『平民新聞』第52号2ページに11月2日に開かれた「社会主義大演説会に就いて」を掲載
     「社会主義協会」が神田青年会館で開いた大演説会を描く。演説会には1千人の会衆が集まる
     まず田添鉄二が起って中止、次に佐治実然が起って中止、3番目に幸徳秋水が起って中止となる
  11/13幸徳秋水と堺利彦が共訳した「共産党宣言」が『平民新聞』1周年記念号の第53号7ページにわたり訳載
     ドイツ語からの翻訳ではなく、小島龍太郎が提供したサミュエル・ムーアの英語訳からの重訳
     発行即日、発売禁止に
     正午、麹町署の警部が2人の部下を連れ平民社へ。第53号が発禁になったことを告げ、残部40部を押収
     のち西川、幸徳、堺の3人が起訴される
     12/13東京地方裁判所で公判が開かれる。西川、幸徳、堺におのおの罰金80円に処せられる【12/20?】
     裁判所は「歴史的文書として研究に供するのは差支えないが、宣伝の具に供したから有罪だ」と判断
     判決文には「たんに歴史上の事実とし、また学問研究の資料として新聞雑誌に掲載するは単純に歴史的文書たるに止まり、
     社会の秩序を壊乱する記事というあたわざるのみならず、むしろ正当なる行為というべし」という文章が含まれる
     1906(明治39)03/15『社会主義研究』の創刊号に「共産党宣言」の全文を改訳掲載
     裁判での判決を逆手にとっての掲載。ときの政府は黙認せざるを得ず
  11/14『平民新聞』創立1周年記念を記念する東京市外瀧の川の紅葉寺での大園遊会が半ばにして解散に
     大園遊会は団子屋、おでん屋、甘酒屋などを設け記念撮影を行なう。解散がなければ500余人の大会に
     「人形ポンポコ踊り」「仮装行列」などの余興を弁当を食べながら楽しむもの
     堺利彦と石川三四郎はヒゲをそりめかしこむ。仮装行列で女学生役で登場する予定
     解散後100数十人が平民社に引き返し小集会を催しす。また解散命令
     飯を食べるあいだだけと猶予を乞い、直時中に余興をはじめる
     余興の途中で三度目の解散命令がでて役者も見物人も総立ち
     のち日比谷公園の北隅の小丘で記念写真を撮ろうと集合。そこでまた大騒動に
  11/16第1次桂内閣により結社が禁止され「社会主義協会」が解散に
     治安警察法第8条により「安寧秩序に妨害あり」として解散が命じられる
     『平民新聞』は「明治31年以来、今に至るまで6年、常に日本社会主義の急先鋒として、多大に貢献する所ありし
     同会は、斯くして空しく歴史の物となりぬ、嗚呼、噫嗟、事茲に至る、吾人また何をか言はん」と慨嘆する
     「社会主義協会」は1900(明治33)1月28日に旧社会主義研究会[1898(明治31)10月18日創立]が改組して結成される
  11/25石川三四郎、斎藤兼次郎が警視庁に『日本平民新聞』の発行届を提出するが受理を拒まれる
     12/01学術雑誌『平和』の発行届をだすが再び差し戻される
     1905(明治38)01/18さらに『曙新聞』の発行届をだすが同じ結果に
  11/27幸徳秋水が『平民新聞』第55号1ページに「社会党の鎮圧」を発表する
  11/28〜30永岡鶴蔵が平民社から西川光次郎、松崎源吉を招き演説会を開催
     1905(明治38)01/20〜28平民社からふたたび松崎源吉を招き演説会を開催する
  11/平民社が『平民新聞』創立1周年記念を記念して絵はがきを発行する
     マルクス、エンゲルス、ラサール、ベーベル、クロポトキン、トルストイの6枚1組の肖像入り絵はがき
     肖像は平福百穂の筆による。「粗野な平民社の製作品としては存外の好評」をはくす
     6人の選び方に平民社の思想的内容が示される
     マルクス派の正統社会主義、ドイツ派の社会民主主義、トルストイの人道主義、クロポトキンの無政府共産主義
     のち6人の配合が種々な対立となり発展とつながることに
  11/『渡米雑誌』「社会主義協会」の解散と同時に発行禁止
     1897(明治30)12月1日『労働世界』創刊、1902(明治35)1月1日『内外新報』に改題、
     1902(明治35)4月3日『労働世界』に改題、1903(明治36)3月3日『社会主義』に改題、
     1904(明治37)1月『渡米雑誌』に改題ののち
  12/04『平民新聞』第56号1ページに無名氏による「社会主義の歌」が発表される
     軍歌「日本海軍」の替え歌としてうたい継がれる
     一般にはうたい出しの歌詞から「富の鎖り」というタイトルがつけられる
  12/08東京電気鉄道会社(外濠線)が路面電車の土橋〜お茶の水を開業
     1905(明治38)10/11循環線が開通、いわゆる外濠線の運転がはじまる
     土橋〜呉服橋〜駿河台下〜お茶の水〜飯田橋〜四谷見付〜赤坂見付〜虎ノ門〜土橋
     のち3社合併までの間に総延長16.8キロを開業する
     1906(明治39)09/11東京電車鉄道会社と東京市街鉄道会社とあわせて3社が合併、東京鉄道会社に改称
  12/11午後、平民社にて社会主義婦人講演が開かれる
     第1席に石川三四郎「春日局の話」
     第2席に山路愛山「予は婦人諸君が善く自己の力を考へんことを望む」
     最後に松岡文子「静御前の話」
     1905(明治38)02/05平民社楼上で社会主義婦人講演が開かれる
  12/18『平民新聞』第58号1ページに「非戦論を止めず」が掲載
     社会に声明して政府の横暴を世論に訴える
  12/20木下尚江の『良人の自白』上篇が平民社より刊行
     1905(明治38)07/02『良人の自白』中篇が平民社より刊行
     11/12『良人の自白』下篇が由分社より刊行
     1910(明治43)09/03平民社、由分社版が発禁処分となる
  12/25『平民新聞』第59号1ページに西川光次郎が「日本社会主義1ケ年間の発達」を発表
     活動実績として社会主義運動の足跡を記す
     同志の舌をもって
     △集会数―総数120回。うち演説会・地方17回、東京44回。茶話会その他・地方4回、東京16回
     社会主義研究会30回、社会主義婦人講演会13回
     △地方遊説―遊説の任は木下尚江、野上啓之助、松崎源吉、山口義三らと本社の堺利彦、幸徳秋水、石川三四郎、西川光次郎
     遊説の地方は伊豆、茨城、群馬、埼玉、東海道、千葉、神奈川と府下。遊説中の演説会は40余回
     △伝道行商―この任は小田頼三、山口義三、小野五郎、権田生ら
     まわった地方は千葉、信州、越後、近畿、関東、武州、相州、東海道、山陽道
     同志の筆をもって
     △社会主義拡張の檄―配布総数3万2千枚
     △普通選挙の檄―配布総数7千枚
     △普通選挙請願用紙―配布総数3千枚
     △平民文庫の販売冊数―8種総計1万5270冊。うち社会主義入門2301冊、百年後の新社会2598冊、火の柱3469冊、
     消費組合1410冊、瑞西1932冊、ラサール1613冊、土地国有論1116冊、経済進化論831冊。ほかに平民社絵ハガキ650組
     △社会主義書類取次販売―総数19種998冊
     △平民新聞―1か年の販売紙数は約20万部
     △各地方にできた社会主義の団体―岡山市、札幌、佐賀市、信州上田、信州神川村、名古屋市、水戸市、駿州吉原町、
     丹後峯山、紀州田辺町、夕張炭鉱、長野市、下関、横浜市、函館、上州名和村、宇都宮市、足尾銅山、飛騨高山、
     信州諏訪、越後長岡、出雲安来町、大阪市、高知市、米国桑港
     △社会党の裁判事件―総数9件。平民新聞3回(発行人堺利彦1回、裁判進行中2回)、
     社会主義雑誌1回(裁判進行中)、木下尚江1回(毎日新聞)、佐渡新聞1回、函館朝日1回、京都朝報1回
  12/25『平民新聞』第59号4ページに日本に亡命していた支那の孫逸仙が「革命潮」を寄せる
  12/25ヰリアム・モリス原著、堺枯川抄訳の社会小説『理想郷』が原稿を訂正添削し平民文庫5銭本として刊行
     菊版38ページ、定価5銭。初版2千部
     著作兼発行人は堺利彦、印刷人は石川三四郎、印刷所は国光社、発行所は平民社
     もとは『平民新聞』の1904(明治37)1月3日の第8号から4月17日の第23号まで
     3月6日発行の第17号をのぞく毎号で15回連載
     1910(明治43)09/03発売禁止の処分を受ける
  12/28西川光次郎と松崎源吉が足尾銅山遊説を行なう
     大日本労働同志会足尾支部の応援のため
     12/30この日まで。成果を収める
  暮/平民社のまかないを務めていた清田伝右衛門老夫婦が故あって故郷に帰ることになる
     堺利彦の依頼で松岡文子が平民社の勝手方を任される
     松岡文子(22)は25才で病死した早稲田大学学生の同志松岡荒村の未亡人
     1905(明治38)01/01文子1人では手が足りず『平民新聞』第60号6ページの紙上で女性を募集する
     平民社勝手方松岡文子の名で掲載
     02/07広告をみた延岡為子が母の同意を得て金沢から上京。その足で有楽町の平民社へ【02/08?】
     為子の弟常太郎は『平民新聞』の購読者。平民社の温かい雰囲気にひかれ裏方募集の広告を見て上京
  山路愛山が1903(明治36)1月1日に創刊した『独立評論』が休刊となる
  松尾卯一太が月刊『九州家禽雑誌』を発刊する
  河上肇が『日本尊農論』を刊行
  樋口勘次郎が『教育者と国家社会主義』を刊行
  樋口勘次郎が『国家社会主義新教育学』を刊行

1905(明治38)

  01/小田頼造、山口義三の東海道から山陽道を下る「伝道行商」の旅が正月を岡山の同志森近運平宅で迎える
     前年の10月5日、赤塗の箱車に社会主義の出版物を満載し出発
     01/26114日かけて下関に到着。行程は約300里に
     談話会13回、演説会5回の計18回を開く。会場は談話・演説会の会場は同志宅6回、貸席6回、寺院4回、教会2回
     社会主義協会員25人、社会主義者40人の計65人の同志を獲得する
     113日の宿泊状況は同志関係者宅が60回、宿屋42回、木賃宿8回、不明3回
     平民文庫858冊で売上高137円46銭
      木下尚江著「火の柱」(定価35銭)127冊、安部磯雄著「地上の理想国瑞西」(定価15銭)119冊、
      田添鉄二著「経済進化論」(定価15銭)97冊、平民社同人編「社会主義入門」(定価10銭)92冊、
      堺枯川抄訳「百年後の新社会」(定価5銭)73冊、幸徳秋水著「社会民主党建設者ラサール」(定価15銭)68冊、
      西川光次郎著「土地国有論」(定価10銭)66冊、西川光次郎著「富の圧制」(定価12銭)49冊、
      西川光次郎著「カール・マルクス」(定価10銭)46冊、堺枯川抄訳「理想郷」(定価5銭)43冊、
      木下尚江著「良人の自白」(定価35銭)39冊、石川三四郎著「消費組合の話」(定価12銭)39冊
     平民社取次書類239冊で売上高43円85銭
      村井知至著「社会主義」(定価15銭)138冊、片山潜著「我社会主義」(定価25銭)85冊
      安部磯雄著「社会主義論」(定価10銭)10冊、西川光次郎「社会党」(定価15銭)6冊
     合計1097冊を売りさばき181円31銭を得る。半分の90円66銭を平民社に納入し、残り半分が山口、小田の経費となる
  01/01日露戦争において旅順要塞司令官ステッセルが降伏の申し入れ
     01/02旅順開城規約が調印される
     09/05日露戦争の講和条約(ポーツマス条約)が調印される
     11/25批准書が交換され終戦を迎える
  01/01香音児が『平民新聞』第61号3ページに詩「戦争讃美の歌」を発表する
  01/01平民社の勝手方が松岡文子1人では手が足りず『平民新聞』第60号6ページの紙上で女性を募集
     平民社勝手方松岡文子の名で掲載
     02/07広告をみた延岡為子が母の同意を得て金沢から上京。その足で有楽町の平民社へ【02/08?】
     為子の弟常太郎は『平民新聞』の購読者。平民社の温かい雰囲気にひかれ裏方募集の広告を見て上京
     文子は1904(明治37)暮から平民社のまかないを務める
     10/09政府の弾圧が厳しくなり平民社が解散となる
     平民社楼上に同志70余人が集まり悲壮な解散式となる
  01/01『平民新聞』第60号7ページの「同志の運動」欄に小田頼造と山口義三の「伝道行商日記」第12報が掲載
     第12報は備前和気より
     第1報は前年10月16日発行の第49号。以降、引き続き連載
     01/08第61号7ページ「同志の運動」欄に第13報。岡山より
     01/15第62号7ページ「同志の運動」欄に第14報。備中笠岡より
     01/22第63号7ページ「同志の運動」欄に第15報。広島より
     01/29第64号(『平民新聞』最終号)7ページに第16報。周防富海より
     02/05引き続き「伝道行商の記」の第17報が『直言』第2巻第1号7ページ「同志の運動」欄に掲載される
     最終回は下関より
  01/05加藤時次郎が「直行団」から発行した雑誌『直言』が第14号を発行し終刊となる
     02/05『直言』が平民社の機関紙に。第2巻第1号より『平民新聞』の後継紙となる
  01/08山口孤剣が『平民新聞』第61号5ページに詩「マザージョーンズ」を発表する
  01/11『平民新聞』の幸徳秋水、西川光二郎に対する新聞紙条例違反事件の第2審が控訴院にて判決
     幸徳秋水は禁錮5か月、罰金50円。西川が禁錮7か月、罰金50円
     『平民新聞』の発行停止など1904(明治37)11月19日の第1審と同じ
     02/23印刷業者国光社所有の印刷機械が犯罪用具として没収される
     02/23大審院に上告するも破却される
     西川の軽禁錮7か月と罰金50円、幸徳の軽禁錮5か月と罰金50円の原判決が確定する
     02/28幸徳と西川は日比谷公園で見送りの人々と記念撮影
     12時過ぎ、堺利彦、木下尚江ら多くの同志や友人に見送られ裁判所に出頭する。東京巣鴨監獄に入獄
     04/中幸徳が腸胃加答児(カタル)を病み病監に移される
     07/28幸徳が出獄
     09/26西川が出獄
  01/15『平民新聞』第62号1ページの社説に「朝憲紊乱とは何ぞ(1月6日東京控訴院に於ける木下尚江弁論)」が掲載される
  01/18石川三四郎、斎藤兼次郎が警視庁に『曙新聞』の発行届をだすが受理を拒まれる
  01/20〜28永岡鶴蔵が平民社からふたたび松崎源吉を招き演説会を開催する
     松崎は前年11月28日から30日まで西川光次郎とともに招かれ演説会をする
  01/21「直行団」の1周年記念会が加藤病院で開かれる
     山田道兄、加藤時次郎、西川光二郎、安部磯雄、斯波貞吉、岡千代彦ら12人が参加
     西川、安部、斯波の演説と岡の落語、加藤の浄瑠璃、社会劇が催される
     結成は1903(明治36)10月10日に京橋区木挽町の加藤時次郎宅で
     第1回団員会は1903(明治36)12月15日に行なわれ、事実上の「直行団」の発会式となる
  01/22幸徳秋水が『平民新聞』第63号1ページに「社会主義者に対する迫害とその効果」を掲載
     副タイトルに「1月13日神田青年会館に於ける幸徳生演説の大要」
     政府に真正面から抗議をする
  01/23西川光次郎の『富の圧制』が平民文庫の1冊に加えられる【01/25?】
     西川の2月の新聞条例違反での入獄を記念して
     四六半截版102ページ、定価10銭
     著作兼発行人は西川光次郎、印刷人は石川三四郎、印刷所は国光社、発行所は平民社
     もとは1903(明治36)4月27日に社会主義図書部から定価12銭で刊行【04/30?】
     1910(明治43)09/03社会主義図書部版と平民社版がともに発売頒布を禁止する処分を受ける
  01/23夜、早稲田社会学会の有志による「幸徳・西川入獄送別会」が開かれる。出席者は25人
     安部磯雄が「西川や浜の真砂はつきるとも世に幸徳の種はつきまじ」と吟じて励ます
  01/24志知ふみ子(のちの西川光次郎夫人)と神崎順一の連名で雑誌『新社会』の発行届をだすが受理されず
  01/29東京平民社発行の『平民新聞』が第64号(最終号)で発行禁止は避けられないとして刑の執行を待たず自発的廃刊を決意
     マルクス、エンゲレスらの『新ライン新聞』の終刊にならい全紙面を赤刷り
     『新ライン新聞』廃刊号に掲載されたフライヒラートの詩を訳載
     巻頭には幸徳秋水の「吾人は涙をふるうて、ここに平民新聞の廃刊を宣言す」と冒頭する「終刊の辞」を掲げる
     第2面には「露国革命の火」と題したロシア革命の状況が詳しく報道される
     6ページには「本紙廃刊に就ての注意」として『直言』に引き継がれることが明記される
     『平民新聞』の創刊は1903(明治36)11月15日
  01/29白柳秀湖が『平民新聞』第64号7ページに「革命時代と文学」を発表する
  01/堺利彦の企画で「第1回社会主義婦人問題講演会」を開催
     主な講演は堺利彦の「家庭における階級制度」、西川光次郎の「婦人問題の中心点」
     幸徳秋水の「婦人と戦争」、村井知至の「日本婦人に対する二大迷想」など
     のち講演会は毎月公演される
  01/治安警察法第5条の改正を求める請願が議会に提出される。法改正には至らず
     出願は延岡ため、福田英子、松岡文子、管野すが、遠藤清子ら平民社に集う女性たち
  01/大阪同志会が設立される
  02/03函館平民倶楽部の渡邊佐吉らが『新福音』を発行する
  02/05加藤時次郎の雑誌『直言』が平民社の機関紙に
     もともとは1904(明治37)1月5日に発行された消費組合運動の啓蒙推進のために組織した直行団の機関紙
     第2巻第1号より『平民新聞』の後継紙となり、月刊が週刊に
     『直言』の発行は1月29日『平民新聞』終刊したわずか1週間後。題号をかえてあらわれたに過ぎず
     発行所/京橋区木挽町6の11の直行社、発売所/平民社、印刷所/国光社、発行/毎週日曜日
     主宰/平民病院長加藤時次郎、発行兼編集人/原真一郎(霞外)、印刷人/山田金市郎、30号〜斎藤兼次郎
     定価/1部3銭5厘、20部前金65銭、50部前金1円60銭
     体裁/四六倍判、紙幅/縦=約37.6糎、横=26.6糎、頁建/8頁(創刊号12頁)
     09/10第2巻第32号の社説「政府の猛省を促す」が筆禍をこうむり新聞紙発行停止条項にふれ発行停止に
     のち発行停止命令が解除されないまま廃刊となる
     09/26西川光次郎が7か月の獄中生活を終え出獄
     歓迎会ののち、堺利彦、幸徳秋水、西川光次郎、石川三四郎、木下尚江の5人が協議、善後策を講じる
     平民社の解散と『直言』の廃刊が決定
  02/05『直言』第2巻第1号7ページ「同志の運動」欄に小田頼造と山口義三の「伝道行商の記」の第17報が掲載される
     最終回は下関より
     第1報は前年10月16日発行の『平民新聞』第49号。以降、引き続き連載
  02/05平民社楼上で社会主義婦人講演が開かれる
     午後1時半開会
     松岡文子、木下尚江「貞操に対する迷信及疑問」、今井歌子は自己の経験談を語る
     男子の入場を無制限にし会場は男子ばかりで、婦人は片隅に追いやられることに
     4時半頃閉会
     03/05平民社で社会主義婦人講演が開かれる
  02/19山口孤剣の『社会主義の歌』が刊行
  02/28幸徳秋水と西川光次郎は日比谷公園で入獄見送りの人々と記念撮影
     2人は12時過ぎ、堺利彦、木下尚江ら多くの同志や友人に見送られ裁判所に出頭する。東京巣鴨監獄に入獄
     ○体重12貫の幸徳は『平民新聞』第52号「小学教師に告ぐ」その他の筆禍事件で禁錮5か月と罰金50円の刑をうける
     獄中でクロポトキンの『田園・製造所および工場』、Draperの『宗教科学衝突史』
     ルナンの『耶蘇伝』、エンゲレスの『フォイエルバッハ論』を読み無政府主義に関心をいだく
     07/28午前5時30分、満5か月の刑期を終え、大勢の同志に迎えられ出獄。体重10貫300目に
     ○西川は『平民新聞』第52号「小学教師に告ぐ」その他の筆禍事件のため。禁錮7か月と罰金50円の刑をうける
     09/26出獄
  02/西川光次郎の『人道の戦士社会主義の父カール・マルクス』が平民文庫の1冊に加えられる
     西川の2月の新聞条例違反での入獄を記念して
     四六半截版104ページ、定価10銭
     もともとは中庸堂書店が1902(明治35)4月10日に定価15銭で発行【04/18?】
     1904(明治37)9月には平民社が版権と残本300部を中庸堂書店から引き受け定価10銭で販売
     日本初のマルクス伝
     1910(明治43)09/03中庸堂書店版と平民社平民文庫版がともに発売頒布を禁止する処分を受ける
  02/夕張炭鉱でストライキが起きる
  02/頃加藤時次郎の誕生祝いの余興に社会劇会のメンバーが「良人の自白」2幕を上演する
     社会劇会のメンバーは原霞外、加藤龍彦、大亦墨水、岩本真吾ら
  03/05『直言』第2巻第5号1ページに「明治時代の政教史」が発表される
  03/05平民社で社会主義婦人講演が開かれる
     午後2時開会。前回の入場をふまえ男子は必ず婦人に同伴のことに
     来聴者は婦人18人、男子もほぼ同数
     第1席は急きょの堺利彦、第2席に菅谷岩子「源氏物語に於ける女性」、
     第3席に木下尚江「解放時代の女子の危機」
     04/09平民社で社会主義婦人講演が開かれる
  03/12『直言』第2巻第6号5ページに片山潜の「労働者諸君に告ぐ」が『渡米雑誌』から転載される
  03/12平民社の研究会で石川三四郎が「社会主義伝道隊」の組織を提唱
     発議は同志の賛成を得て即座に加盟者20人に達する
     03/19同じ研究会で「伝道隊」のために西洋音楽隊用の大太鼓購入を発議。資金はただちに集まる
     赤旗を立てることを提唱。長さ6尺の赤布を求め石川が「社会主義伝道隊」と書きいれる
     03/26午後、大赤旗を掲げ芝、新網の貧民窟に宣伝にでかける。太鼓は誰もたたかず
     夜の研究会は石川が太鼓をたたいて開会を宣する
  03/19『直言』第2巻第7号5ページに石川生の「社会主義者の愛国心」が発表される
  03/19小田頼造が『直言』第2巻第7号5ページに論壇「思想の革命」を発表する
  03/24西川光二郎著の『英国労働界の偉人ジヨン・バアンス』が平民文庫5銭本の1冊として増補再版
     西川の2月の新聞条例違反での入獄記念として。菊版20ページ、定価5銭
     著作兼発行人は西川光二郎、印刷人は石川三四郎、印刷所は国光社、発行所は平民社
     もともとは1902(明治35)7月17日に発行。1904(明治37)10月には品切れ絶版状態に
     1910(明治43)09/03労働新聞社版と平民社平民文庫版ともに発売頒布を禁止する処分を受ける
  03/26『直言』第2巻第8号1ページに「日本紳士閥の解剖」が発表される
  03/26白柳秀湖が『直言』第2巻第8号5ページに小説「畜生恋(上)」を発表する
     04/02『直言』第9号5ページに小説「畜生恋(下)」を発表する
  03/末森近運平が岡山から大阪に移り大阪平民社を設ける【03/20?】
     東京平民社発行の新聞書籍の販売社会主義研究会の開催など運動に専念
     10/東京平民社が解散すると大阪平民社も崩壊
     森近は一家をあげて上京。原霞外、山口孤剣が経営する神田三崎町の平民舎ミルクホールを譲り受け、生活の根城に
     1906(明治39)02/24「日本社会党」が結成される。森近が幹事になり、社会党本部が置かれる
  04/01木下尚江が『毎日新聞』に「良人の自白」続篇の連載を開始。〜6月3日
     正篇の連載は1904(明治37)8月15日〜11月10日
     07/01「良人の自白」後篇の連載を開始。〜10月16日)
  04/02社会主義伝道隊の30数人が有楽町の平民社から銀座、京橋、今川橋を経て上野公園へ
     「社会主義万歳」「社会主義伝道隊」と記した赤旗を立て、大太鼓を打ち鳴らし、社会主義の檄を撒布する
     上野公園竹の台で開かれる労働者懇桜会の会場へ
     懇桜会で先頭に立ち大太鼓をたたいたのは桜井松太郎
     公園で待ち構えていた警官隊と衝突。その場で31人が逮捕され下谷警察署に拘引される
  04/03上野の労働者懇親会が解散され、青年会館で社会主義大演説会が挙行される
  04/03小田頼造が門司を皮切りに九州一帯の社会主義伝道行商に出発
     のち小倉、福岡、久留米、佐賀、熊本、宮崎、大分、宇佐、小倉とまわる
     07/0594日間の九州伝道行商を果たし下関の山口義三宅につく
     談話会6回(同志宅4回、神社1回、貸席1回)。社会主義書籍1,266冊【1254冊?】をさばき売上高179円95銭に
  04/0517才の荒畑寒村が東北地方へ社会主義伝道行商に東京を出発
     のち千葉、茨城、栃木、福島、山形、宮城、岩手、青森、秋田、新潟、長野、群馬の12県をめぐる
     05/13水戸で車のバネが故障し汽車に巡査2人が同乗し上野に戻り、夜平民社に帰る
     07/10ふたたび旅立つ
     07/14谷中村を訪ねて2泊。田中正造に近く接する
     07/19足尾銅山で労働至誠会の永岡鶴蔵を相知る
     07/29横浜の知人鈴木秀男の戦死を知る
     08/06鈴木の葬儀には間に合わずも追悼会に参列
     秋/『直言』の廃刊、平民社の解散で伝道行商が中止に。東京に戻る
     60日間の伝道行商のなかで330冊の書を売る。2回の演説会と5回の談話会を開く(同志宅で5回、教会で2回)
     全59泊のうち同志宅、同情者宅で29泊、宿屋で20泊、木賃宿で10泊
  04/09『直言』第2巻第10号1ページに「労働運動の復活期」が発表される
  04/09平民社で社会主義婦人講演が開かれる
     午後2時開会。来会者は婦人16、7人、男子10余人
     第1席は石川旭山「独逸軍人の結婚」、第2席に神川松子「独身に対する我見解」、
     第3席に堺利彦「女らしきとは何ぞや」、第4席に木下尚江「良人の自白の苦心談」
     最後に吉崎吉子が提言
     05/07平民社楼上で社会主義婦人講演が開かれる
  04/10午後1時半、原子基、深尾韶が甲信地方へ社会主義伝道行商に平民社を出発
     04/13府中町に至った2人に府中警察署は検来を命じる。1夜警察署に留置
     箱車1台、幻燈器械1個、書籍372冊、社会主義の歌880枚、社会主義の檄1911枚を差押え
     30日間これを領置する胸を申し渡し。2人は行商を中止
     04/14警官2人に送られ平民社に戻る
     戦績としては幻燈会2回、社会主義書類の販売25冊のみ
     05/162人は府中警察署に領置された箱車をとりにいく
  04/中巣鴨監獄に入獄中の幸徳秋水が腸胃加答児(カタル)を病み病監に移される
     07/28幸徳が出獄
  04/20牛込の清風亭で火鞭会創立第1回の会が開かれる
     牛込署の警部が巡査2人を連れ臨監にくるが聴衆のほとんどは社会主義とは無縁の者で呆れる
     白柳秀湖が「火鞭会の告白」を説明、児玉花外と山口孤剣が詩を吟詠、
     堺利彦が「ゾラの晩年」について述べ、久津見蕨村がニーチェについて概観
     聴衆60人
  04/23『直言』第2巻第12号を全ページ緑色で印刷した「婦人号」を発行
     1ページ左上欄外の「本紙は日本社会主義の中央機関紙なり!!」が「社会主義の理想は婦人のやさしき心の発展なり!!!」に
     1ページの社説には木下尚江が「醒めよ婦人」を発表。英文欄には「婦人の状態」が掲載される
     堺利彦は2面にわたり「婦人問題概説」を掲載
     1、生物界の男女両性 2、結婚制度の歴史 3、現在社会の男女関係
     4、婦人解放、社会主義 5、自由恋愛の説 6、将来社会の男女関係、7、結論
  04/23堺利彦と結婚する前の延岡為子が『直言』第2巻第12号「婦人号」7ページに「探偵さんとお花見」を書く
  04/23与謝野晶子の詩「君死に給ふことなかれ」が『直言』第2巻第12号「婦人号」9ページに転載される
  04/274月28日に嵩山房が発行する田岡佐代治(嶺雲)の『壺中観』が発売頒布禁止の処分を受ける
  04/安部磯雄が早稲田大学野球部をひきいてアメリカに遠征する
  05/01東京の平民社でメーデーの茶話会が開かれる。石川三四郎、堺利彦、木下尚江らが記念講演を行なう
     日本最初のメーデーの催し
  05/05入獄中の幸徳秋水、西川光次郎あてに万国社会党幹事ユイスマンからの慰問状がブラッセルより発せられる
  05/07平民社楼上で社会主義婦人講演が開かれる
     午後2時開会。来会者は婦人20人、男子ほぼ同数
     第1席は堺利彦「ベーベルの婦人論(第1回)」、第2席に白柳武司「婦人犯罪の二方面」
     堺がふたたび立ち「衆議院議員補充選挙に木下尚江を推薦する議」
     休憩ののち松岡ふみ子の「現今社会主義婦人の使命」
     主義の歌をうたい5時過ぎに閉会
     06/04平民社楼上で社会主義婦人講演が開かれる
  05/07平民社婦人講演会が開かれる。席上で同志から東京市の衆議院議員補欠選挙の候補者をだすことに
     木下尚江を推す事に決定する。選挙委員長は堺利彦。日本社会主義同志の推薦を得る
     社会主義者による初の国会選挙運動となる
     候補者の主張は「普通選挙の実行」。社会主義者が議会に進出するには普通選挙が第1歩と考える
     以下、木下の政見発表演説会はことごとく中止、解散させられ、会場は断られることに
     同日夜ただちに神田三崎町の吉田屋で演説会が開かれるが解散させられる
     05/08芝兼房町の玉翁亭の演説会も解散
     05/11夜、神田今金の演説会も解散させられる
     05/16選挙が施行される
     人口180万の東京市に16万の有権者のうち32票を獲得
  05/07『直言』第2巻第14号6ページにメーデーの紹介記事が掲載される
     石川旭山(三四郎)の署名記事で「万国労働者記念日五月一日(メーデー)」が載る
  05/07『直言』第2巻第14号6ページに山口孤剣の詩「労働の赤旗」が載る
  05/13平民社同人の編集による『革命婦人』が平民文庫から刊行【05/14?】
     四六半截版105ページ、定価12銭
     著作兼発行人は志津野又郎、印刷人は石川三四郎、印刷所は国光社、発行所は平民社
     志津野は堺利彦の従弟で早稲田出身の同志。奈良の新聞社をやめて平民社にくる
     第壱章 プレシコウスキイ
     (一)活ける革命史 (二)革命運動の起因 (三)『人民の中に行け』 (四)良人を棄てて革命運動に加はる
     (五)一千余名の大捕縛 (六)西比利亜女囚の十余年 (七)『革命社会党』の創立 (八)『革命の祖母』万歳
     第弐章 ルイズミツシエル
     (一)小学教師より革命党員 (二)『我を死刑に処せよ』 (三)『善良なるルイズ』
     第参章
     (一)嬋娟花の如き少女(ウエラ、フイグネル) (二)西比利亜獄中の烈婦 (三)カラの女囚の飢餓同盟
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  05/14東京市の衆議院議員補欠選挙に立候補した木下尚江が『直言』第2巻第15号1ページに「宣言書」を発表
  05/16社会主義者の木下尚江が東京市で衆議院議員補欠選挙に立候補
     人口180万の東京市に16万の有権者のうち32票を獲得
  05/16平民社の加納豊スパイ嫌疑査問会が開かれる
  05/21『直言』第2巻第16号2ページに「秘密探偵嫌疑者処分(加納豊氏、吾党の運動より退隠す)」が掲載される
     平民社内部で起きた加納豊によるスパイ事件の顛末記事
  05/23伝道行商は困難と悟った原子基、深尾韶が自活のため北海道に平民農場を拓くため出発
     虻田郡真狩村に開設。同年越冬者は8人
  05/下東京市街鉄道の雇人100人が上野公園でストを協議。電車の運転が一時中止され会社は180人を解雇。沈静化
  06/04平民社楼上で社会主義婦人講演が開かれる
     午後2時開会。来会者は婦人14、5人、男子20人ばかり。初めて警部巡査の臨監にあう
     第1席は堺利彦「ベーベルの婦人論(第2回)」、第2席に菅谷いわ子が立つ
     のち、2、3の感話がありヴァイオリンの奏楽、5時頃散会
  06/18荒畑寒村の紹介で竹久夢二(21)のコマ絵が平民社発行『直言』第20号に掲載される
     赤十字のマークのついた白衣の骸骨とならんで丸髷の若い女が泣いている挿絵
     最初に印刷に附された夢二の絵となる
     のち『光』、日刊『平民新聞』に諷刺画などの絵を掲載。社会主義者らとの親交も深める
  07/01木下尚江が『毎日新聞』に「良人の自白」後篇の連載を開始。〜10月16日
     正篇の連載は1904(明治37)8月15日〜11月10日
     続篇の連載は1905(明治38)4月1日〜6月3日
  07/02木下尚江の『良人の自白』中篇が平民社より刊行
     上篇は1904(明治37)12月20日に平民社より刊行
     11/12『良人の自白』下篇が由分社より刊行
     1910(明治43)09/03平民社、由分社版が発禁処分となる
  07/02白柳武司が『荒村遺稿』を発行する。発行所は不明
     07/10発売頒布を禁止する処分を受ける
  07/09『直言』第23号5ページの「平民社より」で堺利彦が「枯川」の雅号を廃すると宣言
  07/14荒畑寒村が東北伝道行商の途次、谷中村を訪ねて2泊。田中正造に近く接する
     07/19〜23足尾銅山に入り各坑や街頭で宣伝、行商
     07/28『直言』第26号6ページに荒畑寒村の「忘れられたる谷中村」が掲載される
     1906(明治39)04/28紀伊田辺から帰って早々に谷中村を再訪
     05/05『光』第12号2ページに「棄てられたる谷中村」が掲載される
     1907(明治40)03/26〜31『平民新聞』に「谷中村の強奪」「無法なる瀦水池設計」が連載される
     03/26第58号2ページに「谷中村の強奪」、03/27第59号2ページに「谷中村の強奪 承前」、
     03/28第60号2ページに「谷中村の強奪 承前」、03/29第61号2ページに「谷中村の強奪 承前」、
     03/30第62号2ページに「無法なる瀦水池設計」、03/31第63号2ページに「無法なる瀦水池設計」
     06/10『社会問題辞典』取材のため田中正造を同道、谷中村を訪ねる
     田中正造から谷中村についての書を著わすことを懇請される
     06/23『社会新聞』第4号5ページに「谷中村を訪ふの記」が掲載される
  07/15山口弧剣著の『社会主義と婦人』が平民文庫から刊行
     四六版140ページ、定価20銭
     著作権発行人は山口義三、印刷人は原真一郎、印刷所は日本印刷株式会社、発行所は平民社
     07/18安寧秩序を妨害するとの理由で発売禁止の処分を受ける
     平民社出版の平民文庫のなかで平民社時代に発禁になった唯一の著書
  07/23堺利彦が『直言』第25号4ページに「社会主義と海老名君」を発表
  07/27堺利彦と石川三四郎が幸徳秋水をで迎えるため、前の晩から巣鴨監獄前の茶店に泊まり込む
     07/28午前4時頃には70人余の同志が集まる
  07/28午前5時30分、幸徳秋水が満5か月の刑期を終え、大勢の同志に迎えられ巣鴨監獄を出獄
     幸徳はイガグリ頭で羽織袴姿。体重は10貫300目に
     迎えた千代子夫人と人力車に乗り柏木の居へ、20余人の同志が車の前後につき添う
     家では幸徳の周囲から茶の間、縁側までならび赤飯の接待を受け、記念撮影をし散会
     『平民新聞』第52号「小学教師に告ぐ」その他の筆禍を受ける。入獄は同年2月28日、体重12貫
     獄中でクロポトキンの『田園・製造所および工場』、Draperの『宗教科学衝突史』
     ルナンの『耶蘇伝』、エンゲレスの『フォイエルバッハ論』を読み無政府主義に関心をいだく
     しばらく加藤時次郎の小田原の別荘で療養することに
  07/287月30日発行の『直言』第2巻第26号を2日繰り上げて「幸徳君出獄歓迎号」として発行
     堺利彦は「幾ら痩せて居ても善い、病うて居ても善い、君が出て着て呉れさへすれば、それで僕は千人力だ」
  08/01木下尚江と山田滴海が東北遊説を行なう
     郡山、山形、楯岡、鶴岡、福島、宇都宮などを遊説
     官憲の弾圧は苛烈をきわめ、なかなか会場を借りることもできず。キリスト教会の牧師の協力を得て借りる
     社会主義演説会の名をさけ、宗教演説、文学演説、婦人演説など苦肉の策で遊説を続けることに
     08/14この日まで
  08/06堺利彦が『直言』第2巻第27号1ページに「難者に答ふ」を発表する
  08/14桂首相と内相原敬が会談。政友会の講和条約賛成と西園寺を後継首相に推薦することをそれぞれ確約
     1906(明治39)01/07第1次西園寺公望内閣が成立する
  08/15山路愛山、斯波貞吉、中村大八郎、山口弾正、山根吾一らが「国家社会党」を設立【08/25?】
     国家の力により社会政策の徹底化を期した社会改良主義の政党
     綱領は「吾人は富豪の専制を抑圧せんとする目的をもって国家社会党を組織す」というもの
     「大日本の国家は家人父子の情を以て君臣団結し国家の権力に依りて共同生活の大義を遂行するに在り」と主張
     のち板垣退助、松平正直、桑田熊蔵らが入党を申し込む
     山路は「君らのような微温的改良主義者はまっぴらお断りだ」と断乎として拒絶
  08/18「故堺みち子氏追悼会」が芝浦の大光館で開かれる
     発起人は女性ばかり逸見菊枝、福田英、延岡ため、幸徳千代、熊谷かつ、木下操ら。のち堺夫人となる延岡為子も名を連ねる
     加藤時次郎、安部磯雄、木下尚江、久津見蕨村が演説。加藤は公席を賑わそうと義太夫を披露する
  08/20堺利彦が妻美知子の一周忌を追悼してへ平民書房から『半生の墓』を刊行する
  08/29石川三四郎、木下尚江、堺利彦、幸徳秋水が平民社で相談会を開く【09/03?】
     4人の合議制と連帯責任制で平民社を経営することに、具体的には西川光次郎出獄後に
     09/26西川光次郎が7か月の獄中生活を終え出獄
     歓迎会ののち、堺利彦、幸徳秋水、西川光次郎、石川三四郎、木下尚江の5人が協議、善後策を講じる
     経済的行き詰まりと人間関係の不調和は平民社の継続を不可能にしていると判断
     平民社の解散と『直言』の廃刊が決定
     10/09夜、政府の弾圧が厳しくなり平民社が解散となる
     平民社楼上に同志70余人が集まり悲壮な解散式となる
  08/木下尚江、山田滴海が福島、山県、栃木に遊説する
  09/03『直言』第31号6ページに石川三四郎、幸徳秋水、木下尚江、堺利彦が連名で「今後の平民社」について報告
  09/03『直言』第31号6ページに堺利彦と延岡為子の結婚の報告記事が掲載される
     友人として幸徳伝次郎、幸徳千代子、山路彌吉、山路多年子、永島今四郎、永島千代子、木下尚江、木下操子の名が連なる
  09/05日露戦争の講和条約(ポーツマス条約)が調印される
     11/25批准書が交換され終戦を迎える
  09/05講和の内容に憤慨した国民は、全国で反対ののろしをあげる
     各地で講和反対の市民大会が開かれる
     東京では日比谷公園で講和問題同志連合会主催の講和条約反対国民大会が催される。日比谷焼き打ち事件
     政府は治安警察法により集会を禁止するが、怒った群衆は会場になだれ込み大会を強行
     国民新聞や内相官邸をはじめ警察署2、交番219、教会13、民家53、電車15台が焼き払われ無警察状態になる
     夜11時、事態は収まらず政府は官報号外をもって緊急勅令を発し
     東京市と府下の荏原郡、豊多摩郡、北豊島郡、南足立郡、南葛飾郡の5郡に戒厳令を施行
     また内務大臣による新聞雑誌の規制体制を敷く
     09/07東京は近衛、第1師団の軍事支配となり、検問体制が実施される
     夕方、事態は沈静化に向かう
     11/29戒厳令が解除される
  09/05講和に反対し政府を非難した新聞『萬朝報』『都新聞』『二六新報』がそれぞれ処分を受ける
     警視総監の行政処分として2日間の発行停止
     以降、講和に反対し政府を非難した新聞社が相次いで発行停止の処分を受けることに
      09/08日本     1     警視総監の行政処分
      09/08人民     1         〃
      09/08東京朝日   14         〃
      09/08京都朝報   4     内務大臣より行政処分
      09/08大阪日報   5         〃
      09/08関門毎日   4         〃
      09/08大阪朝日   5         〃
      09/10直言     ●     警視総監の行政処分
      09/10対馬町報   5     内務大臣より行政処
      09/11二六     28     警視総監の行政処分
      09/11小樽朝報   4     内務大臣より行政処
      09/12東京新聞   27     警視総監の行政処分
      09/12東北評論   6     内務大臣より行政処
      09/12山梨民報   5         〃
      09/13滑稽新聞   ●         〃
      09/14丹州時報   4         〃
      09/15京都朝報   14         〃
      09/16大阪日報   17         〃
      09/18実業法律新聞 3回    警視総監の行政処分
      09/21大阪朝日   16     内務大臣より行政処
      09/23丹州時報   16         〃
      09/25伊勢朝報   5         〃
      09/29北辰日報   5         〃
      10/01東京電報   16     警視総監の行政処分
      10/06誠友     ●         〃
      10/06大阪日報   24     内務大臣より行政処
      10/10下野新聞   4         〃
      10/10新総房    4         〃
      10/11      15     警視総監の行政処分
      10/11丹州時報   24     内務大臣より行政処
      10/18芝公報    2回    警視総監の行政処分
      10/24大阪朝日   14     内務大臣より行政処
      10/24滑稽新聞   ●         〃
      11/15読売     11     警視総監の行政処分
      11/15帝国文学   ●         〃
      11/20人民     5         〃
  09/05堺利彦(36)と延岡為子(34)の結婚の宴が催される
     媒酌人は前婚と同じ水島今四郎夫妻。列席者は木下尚江、同操子、山路彌吉、福田英子、幸徳伝次郎、
     加藤時次郎、同さき子、堀成之(前妻の兄)、志津野又郎(堺の従弟)ら10数人の親戚友人を得る
     09/10『直言』第2巻第32号3ページで堺利彦は「破鍋綴蓋(われなべとじぶた)の記」を記す
     延岡為子と結婚したことを報告
  09/10『直言』第2巻第32号1ページの社説「政府の猛省を促す」が筆禍をこうむり新聞紙発行停止条項にふれ発行停止に
     のち発行停止命令が解除されないまま廃刊となる
     『直言』は消費組合運動の啓蒙推進のために組織した直行団の機関紙として1904(明治37)1月5日に創刊
     1905(明治38)2月5日に平民社の機関紙として『平民新聞』の後継紙となる
     09/26西川光次郎が7か月の獄中生活を終え出獄
     歓迎会ののち、堺利彦、幸徳秋水、西川光次郎、石川三四郎、木下尚江の5人が協議、善後策を講じる
     平民社の解散と『直言』の廃刊が決定
  09/10幸徳秋水が『直言』32号2ページに「書空語」を発表する
     政府が官報の号外で緊急勅令を発し東京に戒厳令を施行した事態に対し鋭くつく。一部には伏せ字もあり
  09/10平民社を中心に集まる社会主義的青年文学者の結社火鞭会の機関誌『火鞭』が創刊される
     主宰は白柳秀湖。安成貞雄、山口孤剣、宮田暢、中里介山らが同人。小川芋銭画
     1906(明治39)05/第9号で廃刊に
     1906(明治39)07/01継続誌として『ヒラメキ』が創刊。編集兼発行人は島中雄三(翠湖)
  09/26西川光次郎が7か月の獄中生活を終え出獄。午後、歓迎会が開かれる
     歓迎会ののち、堺利彦、幸徳秋水、西川光次郎、石川三四郎、木下尚江の5人が協議、善後策を講じる
     経済的行き詰まりと人間関係の不調和は平民社の継続を不可能にしていると判断
     平民社の解散と『直言』の廃刊が決定
     10/09夜、政府の弾圧が厳しくなり平民社が解散となる
     平民社楼上に同志70余人が集まり悲壮な解散式となる
  09/26堺利彦、幸徳秋水、西川光次郎、石川三四郎、木下尚江の会合は新しい運動の発展となる
     幸徳は獄中で損なった体を癒すため渡米を計画。堺は由分社の事業に復帰
     木下の思いつきから石川とともに、キリスト教社会主義の雑誌の発行を計画
     西川は木下らの新雑誌創刊に刺激を受ける。のちに山口孤剣と『直言』の後継紙を発行することになる
  09/26西川光次郎は出獄すると松岡文子と結婚
     松岡文子は25才で病死した早稲田大学学生の同志松岡荒村の未亡人
     松岡文子は岐阜県安八郡南杭瀬村外野の旧姓志知文子
     本郷は駒込動坂の新居で新生活がはじまる
     09/28木下尚江や斎藤兼次郎夫妻の世話で堺利彦夫妻や加藤時次郎をまねき正式の披露をすませる
  10/07・08山口義三と西川光二郎が北総平民倶楽部の招きで北総遊説を行なう
  10/09政府の弾圧が厳しくなり平民社が解散となる
     夜、平民社楼上に同志70余人が集まり悲壮な解散式となる
  10/09荒畑寒村が堺利彦の紹介で和歌山県田辺町の地方新聞『牟婁新報』に入社
     1906(明治39)04/上『牟婁新報』を退社して上京
     兇徒聚衆の突発で結成後まもない社会党の同志が多数検挙されたため堺に呼び戻される
     堺家に寄宿、党の機関紙『光』の編集を手伝い『家庭雑誌』『社会主義研究』の事務に従う
  10/11東京電気鉄道会社(外濠線)の循環線が開通、いわゆる外濠線の運転がはじまる
     土橋〜呉服橋〜駿河台下〜お茶の水〜飯田橋〜四谷見付〜赤坂見付〜虎ノ門〜土橋
     のち3社合併までの間に総延長16.8キロを開業する
     1906(明治39)09/11東京電車鉄道会社と東京市街鉄道会社とあわせて3社が合併、東京鉄道会社に改称
  10/129月5日の暴動を煽動した疑いで平民社をはじめ東京市内の社会主義者宅をいっせいに家宅捜査
     しかし証拠はあがらず、まったくの言いがかり
  10/山口義三、西川光次郎が千葉に遊説する
  10/藤岡勝二、前島密、田丸卓郎、田中館愛橘らが「ローマ字ひろめ会」(RHK)をつくる
  10/10月9日の東京平民社解散を受け森近運平が設けた大阪平民社も崩壊
     大阪平民社では東京平民社発行の新聞書籍の販売社会主義研究会の開催など運動に専念
     森近は一家をあげて上京。原霞外、山口孤剣が経営する神田三崎町の平民舎ミルクホールを譲り受け、生活の根城に
     1906(明治39)02/24「日本社会党」が結成される。森近が幹事になり、社会党本部が置かれる
  11/10安部磯雄、石川三四郎、木下尚江らが新紀元社よりキリスト教社会主義の機関誌として『新紀元』を創刊
     『新紀元(ニュー・エラ)』の名付け親は安部磯雄
     11月20日創刊の『光』とは異なる精神主義的色彩が濃厚な機関紙
     発行所/淀橋町角筈762番地の新紀元社、印刷所/国光社、発行/月刊
     発行兼編集人/石川三四郎、印刷人/神崎順一
     定価/1部12銭、6部前金70銭、12部前金1円35銭
     紙幅/縦=27糎強、横=19糎弱、頁建/48頁
     徳富蘆花、田添鉄二が計画に賛同し執筆にも携わる、内村鑑三は創刊号に祝辞を送る
     1906(明治39)11/10第13号を最後に廃刊
  11/12木下尚江の『良人の自白』下篇が由分社より刊行
     上篇は1904(明治37)12月20日に平民社より刊行
     中篇は1905(明治38)7月2日に平民社より刊行
     1910(明治43)09/03平民社、由分社版が発禁処分となる
  11/14午後2時、幸徳秋水が戒厳令下の東京を離れ横浜から伊予丸で渡米【10/28?、11/04?】
     赤旗を押し立てた一団の「幸徳君万歳」「社会党万歳」の声に送られる
     2人の少年、アメリカへ留学する加藤時次郎の長男時也、画家を志望する幸徳の甥幸衛を同行
     渡米費として加藤時次郎が船賃170円と渡米中毎月50円を送ることを約束
     幸徳駒太郎が260円、細野次郎200円、竹内虎治200円、福田和五郎100円、小島竜太郎50円、大石誠之助30円が餞別に拠出
     病気治癒のため、アメリカにいる日本人社会主義者を組織するため
     11/29シアトル着
     12/01シアトル市の日本人会堂で「戦後の日本」と題して第一声をあげる
     12/05サンフランシスコに着き桑港平民社支部の岡繁樹、夫人敏子、岩佐、市川、中村、倉持らに迎えられる
     アナーキストのアルバート・ジョンソン翁や露国社会革命党のフリッチ夫人らを紹介される
     幸徳は活動の拠点にフリッチ夫人の寓居の一室を借り受ける
     12/06夜、サター街のゴールデンゲートホールで演説をする
     「戦後に於ける日本国民について」
     1906(明治39)01/21夜、オークランドのメールホールでロシア革命の同情集会が開かれる。幸徳も講演
     I・W・W(世界産業労働組合)代表アンソニー・オリーブ・ジョンソン夫人、アメリカ社会党のアウスチン・ルイスに交じり
     04/18サンフランシスコ大地震で下町の数か所に火災が発生。桑港平民社付近にまでおよぶ
     幸徳は見聞を「無政府共産制の実現」と題し『光』に寄稿する
     05/02サンフランシスコからオークランドに移る
     (印の事象は以降の記述なし)
     06/01夜、テレグラフ街の白人社会党本部で在米日本人同志50余人が集まり「社会革命党」の結党式が行なわれる
     幸徳も参加。重要メンバーは倉持善三郎、岩佐作太郎、竹内鉄太郎、岡繁樹ら
     06/05幸徳が香港丸に乗船。サンフランシスコを出港
     印刷機を仕入れに日本に帰る桑港平民社の岡繁樹も同船
     06/23午前8時頃、横浜港イギリス波止場に着
     幸徳千代子、堺夫妻、加藤時次郎夫妻や赤旗をふる横浜曙会の同志に迎えられる
  11/17由分社が幸徳伝次郎の『社会主義神髄』を発行する
     もとは1903(明治36)7月5日に朝報社が発行、11月15日に博文館、東京堂が発行する
     1910(明治43)09/03朝報社版と博文館、東京堂版の『社会主義神髄』が発売頒布を禁止する処分を受ける
  11/20西川光次郎、山口義三、森近運平らが凡人社より『直言』の後継紙として『光』を創刊
     旧平民社同人のうち科学的社会主義を奉ずる者たちで発行
     アメリカへ渡った幸徳秋水や由分社をおこした堺利彦は外部から応援する
     発行所/荏原郡品川町南品川5の171の光雑誌社、申込所/本郷区駒込動坂町544西川方の凡人社、
     印刷所/国光社、発行/月2回(30号〜月3回)、発行兼編集人/荒木脩精、3号〜山口義三
     定価/1部3銭5厘、20部前金65銭、50部前金1円60銭
     体裁/タブロイド版(四六倍判)、頁建/8頁
     1906(明治39)02/24日本社会党の結成後は、その機関紙に
     12/25日刊『平民新聞』発行のため第31号をもって発展的廃刊となる
  11/20幸徳秋水が『光』第1号5ページに「予の感懐―平民社解散に就いて」を発表する
  11/25日本とロシアの間に批准書が交換され終戦を迎える
  12/05山口孤剣が『光』第2号1ページに論説「凡人主義とは何ぞや」を発表する
  12/06「普通選挙連合会」が8団体の代表により創立する
     代表メンバーは斯波貞吉(理想団)、加藤時次郎(直行団)、木下尚江(新紀元社)、
     中村大八郎、青地晁太郎(普通選挙同盟会)、馬場力、山根吾一(国家社会党)、
     岡千代彦(印刷工組合誠友会)、藤原謙兄、服部豊吉(青年同志会)、西川光次郎、森近運平(光社)など
     1906(明治39)初/各所で宣伝演説会を開く
     02/11東京両国の伊勢平楼で普通選挙全国同志大会を開催
     加藤時次郎が座長をつとめる
     委員は加藤のほか、山路愛山、中村太八郎、小手川豊次郎、田中弘之、田川大吉郎、松田源治、堺利彦、馬場力
     青池晁太郎、田中弘之、高橋秀臣が決議朗読、動議提出。西川光二郎、楠目玄、田川大吉郎、山路愛山、
     松田源治、小手川豊次郎、江良直三郎、牧内元太郎、高橋秀臣、木下尚江、山口弾正が演説をする
     02/20代表委員ら60余人が日比谷公園に集合。衆議院に向かう
     奥野市次郎、森本駿、上野安太郎、吉植庄一郎の4代議士を通じて2400余人が署名した普通選挙請願書を提出する
  12/10木下尚江が『新紀元』第2号8ページに社説「新国民の熱望の声を聴け」を発表する
  12/10加藤一骨が『新紀元』第2号21ページに「鉱毒問題の悲劇」を発表。田中正造の鉱毒反対に全力を挙げて支援
     1906(明治39)02/10第4号12ページの時事評論欄に「ああ、義人の声」が掲載
     03/10第5号29ページに加藤一骨が戦争文学「革命の洗礼」を発表
     05/10第7号10ページには田中正造の新紀元説教会での演説が「土地兼併の罪悪」と題し全19ページにわたり掲載
     田中の演説の姿が絵入りで載る
  12/1512月17日に由分社が発行する深尾韶の『社会主義の話』が発売頒布禁止の処分を受ける
  12/15由分社が堺利彦の『通俗社会主義』を発行する【12/17?】
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  12/20日露戦争の大本営が解散
  12/20西川生が『光』第3号1ページに「失業者問題」を発表する
  12/20堺利彦が『光』第1巻第3号2ページに「『国家社会主義梗概』を読む」を発表する
     山路愛山の国家社会主義に対する批判を記す
  12/24〜26サンフランシスコで片山潜と幸徳秋水が会談する
  12/福田英子の小説『わらはの思ひ出』が平民書房から刊行
  12/隆文館が児玉花外の『ゆく雲』を発行する【1906(明治39)01/?】
  ロシア社会民主労働党の機関紙『イスクラ』が廃刊となる
     『イスクラ』の平均発行部数は約8千部に。名称はプーシキンの言葉「火花よりぞ焔は燃え立つ」から

1906(明治39)

  初/「普通選挙連合会」が各所で宣伝演説会を開く
     02/11東京両国の伊勢平楼で普通選挙全国同志大会を開催
     加藤時次郎が座長をつとめる
     委員は加藤のほか、山路愛山、中村太八郎、小手川豊次郎、田中弘之、田川大吉郎、松田源治、堺利彦、馬場力
     青池晁太郎、田中弘之、高橋秀臣が決議朗読、動議提出。西川光二郎、楠目玄、田川大吉郎、山路愛山、
     松田源治、小手川豊次郎、江良直三郎、牧内元太郎、高橋秀臣、木下尚江、山口弾正が演説をする
     02/20代表委員ら60余人が日比谷公園に集合。衆議院に向かう
     奥野市次郎、森本駿、上野安太郎、吉植庄一郎の4代議士を通じて2400余人が署名した普通選挙請願書を提出する
  01/01足尾銅山の日本労働同志会が飯場頭主導の共和会【協和会?】と合同して日本鉱山労働会を結成
     共闘方針を打ち出す
     日本労働同志会は会社や警察、頭役らの圧力により会員が減少していた
     日本労働同志会は1904(明治37)4月1日に設立
  01/01堺利彦が『家庭雑誌』第4巻第1号から「ローマ字欄」を設ける
  01/01堺利彦が『光』第4号6ページに「平民社解散の原因」を発表する
  01/04秋田県の院内銀山で坑内火災が発生。死者103人に
  01/07第1次西園寺公望内閣が成立する
     発足当時の第1次西園寺内閣の顔ぶれは内閣総理大臣の西園寺公望のほか
     外務大臣に加藤高明、内務大臣に原敬、大蔵大臣に阪谷芳郎、陸軍大臣に寺内正毅、
     海軍大臣に齋藤實、司法大臣に松田正久、文部大臣に西園寺公望 (臨時兼務)、
     農商務大臣に松岡康毅、逓信大臣に山縣伊三郎、内閣書記官長に石渡敏一、法制局長官に一木喜_郎
     それまでの官僚桂内閣にかわる政友会内閣の政策として穏健進歩的な社会主義政党が公認される
     社会主義の取締りに関して、みだりに警察力で弾圧すべきでなく穏健なものは善導するとの新方針を発表
     1908(明治41)07/14第1次西園寺公望内閣が赤旗事件をきっかけに総辞職する
     07/14第2次桂太郎内閣が成立する
     社会主義に対する弾圧が極めて厳しくなる
     演説に対しては中止、解散、会場謝絶を強化。出版物は発売禁止にするなど裁判、罰金責めに
     のち社会主義運動は非合法活動になる
  01/14西川光次郎、堺利彦が「日本平民党」の結社届を本郷署に提出。受理される
     綱領は「普通選挙の期成を図るを以て目的」とする。党の責任者は樋口伝と西川
  01/17西川光次郎、山口義三らが普通選挙演説会を開催する19日、27日にも開かれる
  01/18野声社の吉田敬次が『野乃声 第1巻第1号』を発行する。即日、発売頒布を禁止する処分を受ける
  01/181903(明治36)12月29日にアメリカに旅立った片山潜が横浜に帰着。第2回渡米
     アムステルダムで開催の第二インターナショナル万国社会党第6回大会に出席のため
  01/23凡人社が西川光次郎の『普通撰挙の話』を発行する
     1910(明治43)09/09発売頒布を禁止する処分を受ける
  01/28「日本平民党」の受理をうけて堺利彦、深尾韶が「日本社会党」の結社届を麹町署に提出。受理される
     綱領は「吾人は国法の範囲内において社会主義を主張す」とするもの
  01/救世軍が失業者救済のための無料宿泊、職業紹介をはじめる
  02/07・08山口義三と西川光二郎が足尾遊説を行なう
     日本鉱山労働会の支援をかねて
  02/10『新紀元』第4号12ページの時事評論欄に「ああ、義人の声」が掲載
     田中正造の鉱毒反対に全力を挙げて支援
     前年の12月10日発行『新紀元』第2号21ページの加藤一骨の「鉱毒問題の悲劇」に引き続き
     03/10第5号29ページに加藤一骨が戦争文学「革命の洗礼」を発表
     05/10第7号10ページには田中正造の新紀元説教会での演説が「土地兼併の罪悪」と題し全19ページにわたり掲載
     田中の演説の姿が絵入りで載る
  02/11社会党主催の「普通選挙全国同志大会」が両国の伊勢平楼で開かれる
     加藤時次郎を座長に堺利彦を司会者として、高橋秀臣、小手川豊次郎、田川大吉郎、松田源治らが気焔をあげる
     折からの降雪にもかかわらず300余人が集まる
     02/152月11日の継続大会が松本楼で開かれる
     02/20午後1時、同志60余人が日比谷公園音楽堂付近に集合し衆議院議会へ押しかける
     奥野市次郎、森本駿、上野安太郎、吉植庄一郎の4代議士に面会、紹介者になってもらい2404人分の請願書を提出
  02/21森近運平と山口義三が北総遊説を行なう。日本社会党として遊説
  02/24「日本平民党」「日本社会党」が35人の社会主義者を集めて京橋区木挽町の加藤病院で合同大会を開催
     合法政党の「日本社会党」が結成。結党式と第1回大会が開かれる
     竹内余所次郎が議長席につき綱領政策運動方法を討議、党則の起草は評議員の一任に
     02/27森近運平が経営する神田三崎町の平民社ミルク・ホールで日本社会党評議員会が開かれ党則と幹事を決める
     片山潜、堺利彦、西川光次郎、加藤時次郎、竹内余所次郎、斎藤兼次郎、樋口伝、岡千代彦、
     森近運平、深尾韶、山口義三、田添鉄二、幸内久太郎の13人を評議員(中執委)に選出
     堺、西川、森近が常任幹事に互選される
     1907(明治40)02/17日本社会党第2回大会(分派論争)が神田錦町の錦輝館で開かれる
     02/22西園寺内閣による「安寧秩序妨害」を理由とした結社禁止命令に伴い解散となる
  02/24光雑誌社発行の『光』が日本社会党の機関紙となる
     11/29日刊『平民新聞』発行のため第31号をもって発展的廃刊となる
  02/27加藤時次郎が普通選挙運動の院内協力者への感謝祭に参加
     出席代議士は奥野市次郎、上埜安太郎、板倉中。ほかに片山潜、斯波貞吉、山口孤剣、中村太太郎、田川大吉郎
  02/管野すがが京都から妹ひでを連れて和歌山県田辺町に移る。地方新聞『牟婁新報』に入社し留守編集主任に
     『牟婁新報』の社長毛利柴庵が官吏侮辱事件で入獄するため
     05/退社
  02/足尾銅山鉱夫のあいだで社会主義研究会が開かれる。20人ほどで毎月2回開催
  03/02東京ある3つの電車会社がともに乗車賃の値上げを府知事、警視総監に出願
     3つの電車会社は東京電車鉄道会社(東電)、東京市街鉄道会社(街鉄)、東京電気鉄道会社(外濠線)
     3社各別3銭均一制を改め3社共通5銭均一とする旨
     03/17内務大臣の原敬は電車賃値上げ出願に関して、警視総監、東京府知事、内務次官、警保土木両局長らと協議する
     03/23ことの事態を重くみた内相原敬の命令を受け、警視総監は3電車会社の重役を集める
     街鉄の吉田幸作、東電の牟田口元学、外濠線の浜政弘に対して「値上げ理由を是認せず」を申し渡す
     値上げの申請が却下される
     06/鉄道会社3社は合併による経営合理化を条件に、さらに東京府に値上げを申請
     08/01東京府知事が東京市3電車会社の合併を認可
     鉄道会社3社の合併による経営合理化を条件にした値上げ申請が受け入れられる
     内務大臣の原敬は合併後の電車賃を4銭均一とするよう指示する
     09/11東京電車鉄道会社(東電)、東京市街鉄道会社(街鉄)、東京電気鉄道会社(外濠線)の3社が合併
     東京鉄道会社に改称。運賃は4銭に値上げする
     1911(明治44)08/01東京市が東京鉄道会社を買収。東京市電気局が開設される
  03/03由分社が堺利彦の1枚ものの『社会主義』を発行する
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  03/033電車会社時代最後の路線延伸となる東京電気鉄道会社の信濃町と天現寺橋のあいだが開業
     04/13同じく東京市街鉄道会社の三原橋と蓬莱橋のあいだが開業【04/14?】
     08/02東京電車鉄道会社の路線延伸はなく上野と雷門のあいだが複線化
     上野と雷門のあいだの複線化に伴い下車坂町→合羽橋→田原町が廃止
     09/273社合併後、東京鉄道会社となり初めての路線延伸となる飯田橋と大曲のあいだが開業する
  03/05堺利彦が『光』第8号3ページに「同志諸君に訴う」を発表。日本社会党結成にあたり感慨を述べる
  03/05『光』第8号6ページに「日本社会党生る」が掲載される
  03/06嵩山房が田岡佐代治の『壺中我観』を発行する
     1910(明治43)09/09発売頒布を禁止する処分を受ける
  03/06日本社会党臨時評議員会が開かれる。東京市内電車値上げ反対運動への取り組み、演説会の開催を決定
     3月8日に玉翁亭で独自の演説会を開くことを決定
  03/08昼間、社会党同志10数人で演説会のチラシを配る
     夜、社会党主催の電車賃値上げ反対演説会が芝区兼房町の玉翁亭で開かれる
     山口義三、岡千代彦、斎藤兼次郎、堺利彦、西川光二郎、加藤時次郎、木下尚江らが弁士をつとめ市民の奮起を促す
     演説会は「新紀元」の木下尚江や、国家社会党の山路愛山、自由主義政治家の田川大吉郎らなど、べつ組織からの参加も
  03/08社会党員有志が「電車午前均一反対運動の記念」として自筆で寄書き
     深尾韶、森近運平、斎藤兼次郎、岡千代彦、竹内余所次郎、幸内純一、西川光次郎、樋口伝、堺利彦、加藤時次郎、加藤さき
  03/09社会党主催の電車賃値上げ反対演説会が神田区美土代町のYMCA基督教青年会館で開かれる
     田川大吉郎、堺利彦、山路愛山、木下尚江、加藤時次郎らが出席
     国家社会党などとの共闘により、11日に日比谷公園で山路を会主として市民大会の開催を決議する
     演説会は「新紀元」の木下尚江や、国家社会党の山路愛山、自由主義政治家の田川大吉郎らなど、べつ組織からの参加も
  03/10安部磯雄が『新紀元』第5号1ページに社説「社会主義と基督教」を発表。一派の共通認識が示される
  03/10新進書局が宮崎民蔵の『土地均享 人類乃大権』を発行する
     1910(明治43)09/09発売頒布を禁止する処分を受ける
  03/10翌11日に日比谷公園で開催する予定の市民大会の宣伝用チラシ5万枚を党員総出で東京市内に配付
     市民に参加を呼びかける
  03/10夜、神田区三崎町の吉田屋で第2回演説会が開かれる
     森近運平、山口義三、斎藤兼次郎、竹内余所次郎、深尾韶、西川光二郎、片山潜らが出席して熱弁をふるい反対の気勢は上昇
  03/11電車運賃値上げ反対の第1回市民大会が午後1時から、雨のなか日比谷公園の芝山で開催される。会主は山路愛山
     日本社会党を中心に山路愛山一派の国家社会党と田川大吉郎、細野次郎らの小ブルジョア自由主義者と共同戦線を張る
     大会は運賃値上反対の決議をなし内務大臣に警告を発する
     散会後に残った会衆150〜160人が社会党員を先頭に東京市街鉄道会社や人民、朝日、時事、万朝、読売などの新聞社へ
     社会党員は森近運平、深尾韶、堺利彦、山口義三、大杉栄、樋口伝、西川光二郎ら
     猛烈な罵声を浴びせるものの雨のために大きな問題も起きず、銀座通りにでて京橋際の凱旋門下に至り解散
  03/11夜、社会党員たちは、なおも浅草蔵前の植木屋で第3回反対演説会を催す
     山口義三、堺利彦、岡千代彦、岩本新吾、森近運平、西川光二郎が壇上にのぼる
  03/12夜、日本社会党を除く3者による反対演説会が本郷の中央会堂開かれる
     山路愛山らの国家社会党、木下尚江らの新紀元社、田川大吉郎ら自由主義政治家の組織
     山路、田川、山根吾一、中村太八郎、木下が演説を行なう
     木下尚江を会主とする上野公園から日比谷公園までの「電車賃銭値上反対東京市民大運動会」を18日に開く決定をする
     03/14夜にも、3者による反対演説会が神田の錦輝館で開かれ、世論を盛りあげる
  03/14堺利彦が森近運平あてにハガキを送る
     「明日は多少荒れるかも知れん。そこで自分は病気になるつもり、貴公も病気になってはいかが」
  03/15電車運賃値上げ反対の第2回市民大会が日比谷公園で開催される。参加者数千人
     芝山で西川光次郎、山口孤剣、岡千代彦、大杉栄、吉川守圀らが会主の堺利彦と待つ
     午後1時頃、芝山の向かいの藤棚のある丘で加藤時次郎、田川大吉郎が社会党と対峙した集会を開会
     「我々は市会の決議を無視す」「我々は飽く迄電車値上に反対す」
     「当局者若し値上を許可すれば我々は当局者を目して会社を重んじ市民を軽んずるものと認む」などを大書し掲揚
     藤棚側の集会が解散すると西川光次郎が立ちあがり参加者に示威行動をうながす
     群衆は電車会社から山下門をでて電車線路を占領、くる電車の運転手は、みな一目散に逃げ去る
     数寄屋橋にでると2組にわかれ、1組は鍛冶橋を左に折れ市会に殺到、1組は東京日日新聞と報知新聞の前へ
     2組は市会前で合流、数名が構内へ。馬場先門の線路工事夫が合流。警官隊と騎馬巡査があらわれ追い散らす
     散会後の示威運動が激化。警視庁は社会党党員と一般参会者あわせて18人を検挙し、兇徒嘯集罪で起訴
     社会党党員は西川光次郎、岡千代彦、山口義三、深尾韶、吉川守圀、斎藤兼次郎、樋口伝の7人
     一般参会者は松永敏太郎、鈴木高次、羽鳥瀧三、千葉操、饗庭久七、山本不美男、
     望月徳次郎、富澤巍一、中村治太郎、増山傳吉、藤井瀧次郎の11人
  03/15東京市街鉄道会社が市内全線にわたり午後5時以降の運転をとりやめ
     東京電車鉄道会社と東京電気鉄道会社はふだん通り運転を継続。外濠線は夜間、満員札を掲げるほどの盛況に
  03/15堺利彦が麹町元園町に由分社を起こす。平民社時代の出版活動を引き継ぐ
  03/15堺利彦が麹町元園町で、再び堺が『家庭雑誌』の出版経営にあたる
     「家庭雑誌」は1903(明治36)朝報社在社中の堺利彦が由分社から創刊
     のち、週刊『平民新聞』を起こすにあたり編集事務を西村渚山に託していた
     10/由分社を解散するとともに、「家庭雑誌」を大杉栄、堀保子夫妻に譲渡する
     1907(明治40)06/「家庭雑誌」の発行人が、平民書房の熊谷千代三郎にかわる
  03/15堺利彦が麹町元園町に由分社を起こし深尾韶とともに『社会主義研究』を創刊する。月刊、体裁は菊判、定価15銭
     運動機関としては『光』があり、「社会主義の理論、歴史、運動等につき、稍々精細深遠なる知識を供給せんとする」が目的
     第1号巻頭には「共産党宣言」の全文を改訳掲載する
     1904(明治37)11月13日発行の週刊『平民新聞』1周年記念号の第53号に「共産党宣言」を掲載するも発禁に
     12月13日の裁判では「歴史的文書として研究に供するのは差支えないが、宣伝の具に供したから有罪だ」と判断
     裁判での判決を逆手にとっての掲載。ときの政府は黙認せざるを得ず
     08/01第5号で発行を停止。その3つの原因は
     堺が日本社会党の評議員幹事として党の実務に当たるため
     堺が電車賃値上反対運動で西川光二郎らが検束され機関紙『光』の編集作業を行なうため
     『社会主義研究』そのものの財政難
  03/15『社会主義研究』創刊号に「共産党宣言」を捕捉する形で3つの文章が掲載される
     36ページにリープクネヒトの「マルクス伝」。訳は志津野又郎
     47ページにカール・カウツキーの「エンゲレス伝」。訳は堺利彦
     58ページに大杉栄の「万国社会党大会略史」
  03/15夜、樋口伝宅に刑事が踏み込み拘引。樋口の妻は先年に死別、ひとり6人の子供を育てる
     子供たちは父の拘引を知らず、樋口は子供たちの枕元にミカンを1個ずつならべる
     03/16子供たち6人は松崎源吉、福田保太郎、加藤時次郎、堺利彦の家に1人ずつ
     森近運平のミルクホールに1人、孤児院に1人と、それぞれ預けられることに
  03/16電車運賃値上げ反対運動の兇徒聚衆事件に対する第1回の予審が行なわれる。尋問は71項目に及ぶ
     03/18社会党党員の大杉栄を拘引。書類の名前違いで遅れる
     03/18午後3時頃、警視庁から東京監獄に移される
     03/20社会党党員の竹内余所次郎、半田一郎を拘引
     のち竹内と半田は附和随行罪とみなされ罰金刑に
     03/31第2回の予審が開かれる
     04/09竹内が責附となり出獄
     04/13予審終結の決定が下されました。被告21人全員が有罪となる
     社会党党員は西川光次郎、岡千代彦、山口義三、深尾韶、吉川守圀、
     斎藤兼次郎、樋口伝、大杉栄、半田一郎、竹内余所次郎の10人
     一般参会者は松永敏太郎、鈴木高次、羽鳥瀧三、千葉操、饗庭久七、山本不美男、
     望月徳次郎、富澤巍一、中村治太郎、増山傳吉、藤井瀧次郎の11人
     06/04第1回公判。午前9時、傍聴者多数を見越して特に広い控訴院第1部第3号法廷に開かれる。傍聴人は200人ほど
     裁判長は伊藤判事、陪席は須田、三浦の両判事、検事は青木某
     弁護人は今村力三郎、花井卓藏、卜部喜太郎、鹽谷恒太郎、鵜澤聰明、新井要太郎、牧野充安、小川平吉、櫻井熊太郎、
     平松市藏、宮島次郎、船曳濱二郎、石山彌平、信岡雄四郎、高木益太郎、布施辰治らの諸士と特別弁護人の田川大吉郎が揃う
     06/06第2回公判
     06/15第3回公判。第1回市民大会の会主でもある国家社会党の山路愛山や、同志の堺利彦らが証人に立つ
     06/20第4回公判
     06/21電車運賃値上げ反対運動の兇徒聚衆事件で起訴された吉川守圀と半田一郎を除く全員が保釈される
     06/22第5回公判
     06/25第6回公判
     06/26電車運賃値上げ反対運動の兇徒聚衆事件で起訴された吉川守圀と半田一郎がおくれて保釈される
     全員が市谷冨久町の東京監獄をあとにする
     06/29第7回公判で結審
     07/09東京地方裁判所は党員10人の被告に対し無罪判決を下す
     また党員外11人の被告のうち4人は無罪、3人が重禁錮各1年半、4人が罰金各10円に
     07/10検事局が判決を不当として控訴
     1907(明治40)10/09第1回控訴公判が東京控訴院第3法廷で開かれる
     藤沼裁判長に係り金子検事立ち会いで開かれる。深尾韶を除くいずれもが出廷
     10/11第2回控訴公判
     10/18第3回控訴公判。裁判長が転任のため開廷せず
     10/21第4回控訴公判
     10/30第5回控訴公判。傍聴席には足尾銅山の鉱毒事件を告発した田中正造の姿も
     11/13第6回控訴公判
     11/25東京控訴院の2審裁判が再び無罪判決を言い渡す
     のち検事局河村善益検事長は控訴院での無罪判決を不当としてさらに上告。大審院は検事局の不当請求を認め受理
     1908(明治41)01/28大審院第1号法廷で開廷される。判決は次回に持ち越しに
     02/07大審院の第1刑事部裁判長鶴丈一郎は検事局の不当を是として上告を受理し前判決を破棄
     宮城控訴院に移し再審とすることに
     03/25被告党員のうち、山口義三が巣鴨監獄を出立。上野駅をでる。26日には小山警察署に1泊
     「貧富の戦争」「新兵諸君に与ふ」「父母を蹴れ」の3つの筆禍事件で巣鴨の獄に
     03/27山口義三が宮城監獄分監に収監される
     03/31宮城控訴院での裁判が開廷の予定なるも、書類調査などの都合上、間に合わず延期に
     04/28開廷も延期となる
     05/18党員8人と松永敏太郎、鈴木高次ら党外の被告が、たくさんの同志に見送られ夜行列車で上野を発つ
     早朝仙台に到着し南町の堺屋に投宿
     西川光次郎、岡千代彦、吉川守圀、斎藤兼次郎、樋口伝、大杉栄、半田一郎、竹内余所次郎
     深尾韶は宮城控訴院での裁判前に病気を理由に退党。分離裁判で「今後社会主義運動と絶縁する」と誓い無罪に。郷里静岡へ
     05/19宮城控訴院での裁判がはじまる
     05/21第2回公判
     結審時間間際、弁護士鵜澤聰明が入廷。事件当時の被告の意志を、明確に確認するように求める
     さらに1891(明治24)年に起きた、大津事件での裁判所のまれにみる対応など、3時間にわたる大弁論を展開
     裁判長や判検事一同は首をたれ謹聴し、被告らに深い感銘を与える
     06/06予告していた判決の言い渡しが引き延ばされる。延期の原因は判事の意見の対立とうわさされる
     06/13宮城控訴院はついに最終判決をくだす
     西川光二郎が重禁錮2年。岡千代彦、吉川守圀、山口義三、樋口伝、大杉栄、松永敏太郎の6人が重禁錮1年6か月
     斎藤兼次郎、半田一郎、竹内余所次郎、増山伝吉の4人が罰金10円、鈴木高次が重禁錮6か月で執行猶予2年
     それまでの無罪判決が一転し、それぞれに有罪の判決が言い渡される
     06/15『東京社会新聞』第15号が第1ページ目に有罪判決の記事を置く
     07/046月22日の「赤旗事件」を理由に兇徒聚衆事件の保釈が取り消され拘引される
     07/14宮城控訴院の有罪判決を不当として上告裁判が行なわれる
     花井、鵜沢、今村、高木、新井、久保田、信岡、渡邊、井本の9弁護士が立ち宮城控訴院判決文の不備不当を弁駁
     07/17大審院は上告を却下しそれぞれに判決が確定、刑に服することになる
     07/26東京監獄の都合で西川光次郎、松永敏太郎、岡千代彦、山口義三、樋口伝が千葉監獄に移される
  03/17内務大臣の原敬は電車賃値上げ出願に関して、警視総監、東京府知事、内務次官、警保土木両局長らと協議する
     03/23ことの事態を重くみた内相原敬の命令を受け、警視総監は3電車会社の重役を集める
     街鉄の吉田幸作、東電の牟田口元学、外濠線の浜政弘に対して「値上げ理由を是認せず」を申し渡す
     値上げの申請が却下される
     06/鉄道会社3社は合併による経営合理化を条件に、さらに東京府に値上げを申請
  03/17電車運賃値上げ反対運動の兇徒聚衆事件の善後策を講じる社会党臨時評議会が加藤病院で開かれる
  03/17午後3時過ぎ木下尚江が18日に予定の第3回市民大会を下谷警察署に届け出
     第3回市民大会は上野公園から日比谷公園までの「電車賃銭値上反対東京市民大運動会」
     待ち受けていた署長からは禁止命令が交付
     「静粛なる威厳」を示そうとした「運動会」は15日の騒擾により禁止に
  03/20幸徳秋水が『光』第9号1ページに「一波萬波」を発表する。原稿は2月12日にサンフランシスコで記す
  03/20北上屋書店が田岡佐代治の『天鼓 第20号』を発行する。即日、発売頒布を禁止する処分を受ける
  03/22東亜堂書房が加藤熊一郎の『瞑想雑感 朝思』を発行する
     1910(明治43)09/06発売頒布を禁止する処分を受ける
  03/22東亜堂書房が加藤熊一郎の『瞑想雑感 朝思暮想』を発行する
     1910(明治43)09/06発売頒布を禁止する処分を受ける
  03/25島崎藤村が緑蔭叢書第1篇として書き下ろし長編の『破戒』を自費出版する
  03/28長崎の離島高島の蠣瀬炭坑でとてつもない大爆発事故が起きる。死者307人、重軽傷者数10人に及ぶ
     三菱高島坑業所はじまって以来の大惨事に
     04/20事故の模様が日本社会党の機関紙『光』第11号2ページで報じられる
     タイトルは「高島炭坑の大惨事」
     同じ4月20日発行の「光」第11号5ページに「高島炭坑の内面」と題する記事が組まれる
     副タイトルは「三菱会社の亡状」
     「坑夫の語る處によれば、一日二名の死者は會社の豫期する所なりと云ふ、嗚呼恐るべき資本家、
     彼は勞働者の生命の殞すことを以て、一塊の石炭を棄つるよりも輕しと思へるなり」
     人の命よりも石炭の方が大事と内情を伝える。檄文でもって三菱会社を糾弾し資本主義に対して批判
  03/31全国的な鉄道網を官設鉄道に一元化するため、私鉄を国有化することを定めた鉄道国有法が施行される
     順次、私営17社が国有化となる
     10/01北海道炭礦鉄道(室蘭〜手宮、岩見沢〜歌志内、砂川〜空知太、他)、甲武鉄道(お茶の水〜八王子)
     11/01日本鉄道(秋葉原〜青森、日暮里〜岩沼、品川〜田端、他)、岩越鉄道(郡山〜喜多方)
     12/01山陽鉄道(神戸〜下関)、西成鉄道(大阪〜安治河口)
     1907(明治40)07/01九州鉄道(門司〜八代、鳥栖〜長崎、他)、北海道鉄道(函館〜小樽)
     08/01京都鉄道(京都〜園部)、阪鶴鉄道(尼崎〜福知山)、北越鉄道(直江津〜新潟)
     09/01総武鉄道(両国橋〜銚子)、房総鉄道(千葉〜大原)、七尾鉄道(津幡〜矢田新)、徳島鉄道(徳島〜船戸)
     10/01関西鉄道(名古屋〜湊町、加茂〜大阪、王寺〜和歌山、他)、参宮鉄道(津〜山田)
  04/上荒畑寒村が和歌山県田辺町の地方新聞『牟婁新報』を退社して上京
     兇徒聚衆の突発で結成後まもない社会党の同志が多数検挙されたため堺利彦に呼び戻される
     堺の家に寄宿、党の機関紙『光』の編集を手伝い『家庭雑誌』『社会主義研究』の事務に従う
     入社は前年の10月9日、堺の紹介による
  04/01愛媛の別子鉱山で坑内火災が発生。坑口閉鎖。2人が窒息死、5人惨死
  04/10『新紀元』第6号11ページの時事評論欄に「日本社会党の組織」が掲載。社会党成立までの経緯が記される
  04/11由分社が『社会主義の詩』を発行する
     編集兼発行人は堺利彦。価格5銭。15編が収録
     堺利彦の「別荘と公園」、原霞外の「血祭」、木下尚江の「ポンポコの歌」、木下尚江の「戰爭の歌」、
     読者の「富の鎖」、中里介山の「亂調激韵」、無名氏の「我が行く道」、武蔵野守の「ラサール」、
     某氏作の「血染の赤旗」、堺利彦の「獄中の音樂」、幸徳秋水の「赤色旗」、西川光次郎の「巣鴨の歌」、
     山口孤剣の「秋水兄を迎ふる歌」、無名氏の「自然の潮流」、一讀者の「我等が世界」
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  04/14由分社が堺利彦の『社会主義問答』を発行する
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  04/15管野すがが『牟婁新報』に第580号に「肱鉄砲」を発表する
  04/15『社会主義研究』第2号が「無政府主義」の特集を組む
     白柳秀湖がクロポトキンの「無政府主義の哲学」を訳す。久津見蕨村が「無政府主義の二派」「クロポトキンの特色」を著す
  04/16相隣社が川口清栄の『革新之一鞭』を発行する
     1910(明治43)09/09発売頒布を禁止する処分を受ける
  04/20一同志が『光』第11号1ページに「日本社会党に餞す」を発表する
  04/28紀伊田辺から帰った荒畑寒村が早々に谷中村を再訪
     05/05『光』第12号2ページに荒畑寒村の「棄てられたる谷中村」が掲載される
     1907(明治40)03/26〜31『平民新聞』に「谷中村の強奪」「無法なる瀦水池設計」が連載される
     03/26第58号2ページに「谷中村の強奪」、03/27第59号2ページに「谷中村の強奪 承前」、
     03/28第60号2ページに「谷中村の強奪 承前」、03/29第61号2ページに「谷中村の強奪 承前」、
     03/30第62号2ページに「無法なる瀦水池設計」、03/31第63号2ページに「無法なる瀦水池設計」
  04/春陽堂がエミール・ゾラ著、堺枯川訳の『労働問題』を発行する
  04/青森県の弘前で竹内兼七、笹森修一らが渋茶会を組織する
     のち社会主義研究会となる
     のち弘前労働協会へと発展する
  05/06木下尚江の母くみが死去。木下の心に動揺が生じる
     のち『新紀元』が計画していた北海道遊説が中止に
     また『新紀元』の編集に支障がきたすようになる
     09/11木下尚江が幸徳秋水、堺利彦と会談、社会主義運動から分離する
     10/10木下尚江が『新紀元』第12号17ページから4ページにわたり「旧友諸君に告ぐ」を発表
     社会主義運動から離脱する意志を表明する
  05/09北輝次郎(一輝・23)が自費で『国体論及び純正社会主義』を発行する
     発行所は有斐閣、同文館、東京堂
     05/14発売頒布を禁止する処分を受ける
  05/10石川三四郎が『新紀元』第7号1ページに社説「階級戦争論」を発表
     副タイトルに「マルクスの主張マツジニーの批判」とつく
     『新紀元』の石川と『光』の堺利彦とのあいだで論争が交わされる
     06/05対して『光』第14号1ページで堺が「階級戦争論に就いて」で批判を加える
     副タイトルに「山路愛山君と石川三四郎君とに質す」がつく
     06/202人の論争に紀州新宮の医者大石誠之助(禄亭)が加わる
     『光』第15号4ページに「階級闘争非乎」を書き石川を批判
     08/10石川は『新紀元』第10号18ページに「堺兄に与えて政党を論ず」で反論を加える
     09/05堺は『光』第20号6ページに「石川三四郎君に告ぐ」を発表し論争を打ち切る
  05/10『新紀元』第7号10ページに田中正造の新紀元説教会での演説が全19ページにわたり掲載
     タイトルは「土地兼併の罪悪」。田中の演説の姿が絵入りで載る
  05/10流行していた添田唖蝉坊の「ラッパ節」の替え歌を同志から募集
     たくさんの投稿作品が集まり原霞外、岩本無縫、堺利彦、森近運平らが選考会を開く
     05/20『光』第13号5ページに25節からなる「社会党ラッパ節」が掲載される
  05/11永岡鶴蔵が1枚ものの『稼ぎ人目ざまし数へ歌』を発行する。発行所は不明
     1910(明治43)09/16発売頒布を禁止する処分を受ける
  05/11永岡鶴蔵が1枚ものの『稼ぎ人目ざまし軍歌』を発行する。発行所は不明
     1910(明治43)09/16発売頒布を禁止する処分を受ける
  05/15『社会主義研究』第3号に著名な社会主義者の略伝がカーカップの『社会主義史』から紹介される
     サン・シモン、フーリエ、ルイ・ブラン、プルードン、ロバート・オーエン、ラサール、ロドベルツス、マルクスら
  05/20片山潜が『光』第13号1ページに「労働者の地位」を発表する
  05/23平民舎が森近運平の『社会主義小話』を発行する
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  05/前年9月10日に創刊した社会主義的青年文学者の結社火鞭会の機関誌『火鞭』が第9号で廃刊に
     主宰は白柳秀湖。安成貞雄、山口孤剣、宮田暢、中里介山らが同人。小川芋銭画
     07/01継続誌として『ヒラメキ』が創刊。編集兼発行人は島中雄三(翠湖)
  06/01夜、桑港のテレグラフ街の白人社会党本部で「社会革命党」の結党式が行なわれる
     在米日本人同志50余人が集まる
     幸徳秋水も参加。重要メンバーは倉持善三郎、岩佐作太郎、竹内鉄太郎、岡繁樹ら
  06/04電車運賃値上げ反対運動の兇徒聚衆事件に対する第1回公判
     午前9時、傍聴者多数を見越して特に広い控訴院第1部第3号法廷に開かれる。傍聴人は200人ほど
     裁判長は伊藤判事、陪席は須田、三浦の両判事、検事は青木某
     弁護人は今村力三郎、花井卓藏、卜部喜太郎、鹽谷恒太郎、鵜澤聰明、新井要太郎、牧野充安、小川平吉、櫻井熊太郎、
     平松市藏、宮島次郎、船曳濱二郎、石山彌平、信岡雄四郎、高木益太郎、布施辰治らの諸士と特別弁護人の田川大吉郎が揃う
     06/06第2回公判
     06/15第3回公判。第1回市民大会の会主でもある国家社会党の山路愛山や、同志の堺利彦らが証人に立つ
     06/20第4回公判
     06/21電車運賃値上げ反対運動の兇徒聚衆事件で起訴された吉川守圀と半田一郎を除く全員が保釈される
     06/22第5回公判
     06/25第6回公判
     06/26電車運賃値上げ反対運動の兇徒聚衆事件で起訴された吉川守圀と半田一郎がおくれて保釈される
     全員が市谷冨久町の東京監獄をあとにする
     06/29第7回公判で結審
     07/09東京地方裁判所は党員10人の被告に対し無罪判決を下す
     また党員外11人の被告のうち4人は無罪、3人が重禁錮各1年半、4人が罰金各10円に
     07/10検事局が判決を不当として控訴
     1907(明治40)10/09第1回控訴公判が東京控訴院第3法廷で開かれる
  06/04日本社会党大演説会が神田錦輝館で開かれる
     荒畑寒村、吉瀬才市郎、森近運平、片山潜、加藤時次郎が登壇する
     加藤は「生理と道徳の関係」を語る
  06/05渡米していた幸徳秋水が帰国のため香港丸に乗船。サンフランシスコを出港
     渡米の理由は病気治癒のため、アメリカにいる日本人社会主義者を組織するため
     日本に印刷機を仕入れに帰る桑港平民社の岡繁樹も同船
     06/23午前8時頃、横浜港イギリス波止場に着
     幸徳千代子、堺夫妻、加藤時次郎夫妻や赤旗をふる横浜曙会の同志に迎えられる
  06/05金尾文淵堂が山路弥吉の『社会主義管見』を発行する
     1910(明治43)09/06発売頒布を禁止する処分を受ける
  06/07本郷で『新紀元』の大演説会が開かれる。田中正造が谷中村問題を演説。聴衆400人
  06/08社会主義研究所東海矯風団が添田平吉の『社会党喇叭節』を発行する
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  06/08東海矯風団が添田平吉の『社会燈』を発行する
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  06/09文部大臣牧野伸顕が教育当局者、各学校長、教員に対して訓令
     極端な社会主義を鼓吹する者に教員生徒は惑わされてはならぬ
  06/10木下尚江が『新紀元』第8号4ページの時事評論欄に「軍隊主義教育とは何ぞ」を発表する
     木下は教育についても発言する
  06/10赤羽巌穴が『新紀元』第8号9ページに時事評論「谷中の廃村を訪ふ記」を発表する
  06/鉄道会社3社は合併による経営合理化を条件に、さらに東京府に値上げを申請
     3つの電車会社は東京電車鉄道会社(東電)、東京市街鉄道会社(街鉄)、東京電気鉄道会社(外濠線)
     08/01東京府知事が東京市3電車会社の合併を認可
     鉄道会社3社の合併による経営合理化を条件にした値上げ申請が受け入れられる
     内務大臣の原敬は合併後の電車賃を4銭均一とするよう指示する
     09/11東京電車鉄道会社(東電)、東京市街鉄道会社(街鉄)、東京電気鉄道会社(外濠線)の3社が合併
     東京鉄道会社に改称。運賃は4銭に値上げする
     1911(明治44)08/01東京市が東京鉄道会社を買収。東京市電気局が開設される
  06/18鉄道会社3社による合併と再度の運賃値上げの申請を受けて日本社会党が評議員会を開く
     再び電車賃値上げ反対運動を起こす決定をする
  06/21電車運賃値上げ反対運動の兇徒聚衆事件で起訴された吉川守圀と半田一郎を除く全員が保釈される
     西川光次郎、岡千代彦、山口義三、深尾韶、斎藤兼次郎、樋口伝、大杉栄、竹内余所次郎
     06/26保証金の工面ができずにいた吉川守圀と半田一郎がおくれて保釈される
     全員が市谷冨久町の東京監獄をあとにする
  06/23午前8時頃、6月5日に香港丸でサンフランシスコを発った幸徳秋水が横浜港イギリス波止場に着
     幸徳千代子、堺夫妻、加藤時次郎夫妻や赤旗をふる横浜曙会の同志に迎えられる
     出港は1905(明治38)11月14日【10/28?、11/04?】
  06/25片山潜宅で同志茶話会が開かれる。安部磯雄、石川三四郎を除く旧平民社の主だった人物が顔をそろえる
     幸徳秋水と木下尚江が日本社会党に入党
     09/25『光』第22号7ページ記載の社会党公報で木下の脱党を伝える
     原因は5月6日の木下の母の死去にともなう心の動揺
  06/28日本社会党主催の大演説会が幸徳秋水の歓迎演説会として神田錦輝館で開かれる
     聴衆は700人以上、会場は超満員に
     幸徳は森近運平、堺利彦、木下尚江、加藤時次郎とともに久しぶりに壇上へ立つ
     森近「牧野文相の訓練を評す」、堺「模範的奴隷」、木下「思想界の中心点」、
     加藤「幼時町人の家に生れて武士に侮辱されしより大に発憤して遂に今日の如き社会主義者となれるに至れる経歴」
     幸徳秋水が「世界革命運動の潮流」を演説する。幸徳帰国後の第一声
  07/01堺利彦が『社会主義研究』第4号の巻頭でエンゲレスの「空想から科学への社会主義の発展」を訳出する
     タイトルは「科学的社会主義」
  07/01『社会主義研究』第4号79ページの新刊所見の書評欄で北輝次郎の「国体論及純正社会主義」が論じられる
  07/011905(明治38)9月10日に創刊した『火鞭』の継続誌として『ヒラメキ』が創刊
     編集兼発行人は島中雄三(翠湖)、下中弥三郎との共同経営
     『火鞭』は平民社を中心に集まる社会主義的青年文学者の結社火鞭会の機関誌
     09/第2号を発行。「本邦唯一の革命的文学雑誌」とうたい発行禁止に
  07/04国家社会党、新紀元社共催の電車賃値上反対講演会が200人の聴衆を集め神田錦輝館で開かれる
     山根吾一、山路愛山、中村太八郎、山口弾正、田中弘之、木下尚江らのほか、日本社会党の片山潜も壇上へ
  07/046月23日に帰国した幸徳秋水が静養のため郷里の高知中村へ帰省
     09/07幸徳が帰京
  07/05幸徳秋水が『光』第1巻第16号1ページに論説「世界革命運動の潮流」を発表
     副タイトルに「錦輝館に於ける演説の大要」とつく
  07/05横浜曙会の1枚ものの『起てよ我友』が発売頒布禁止の処分を受ける。発行日は不明
  07/05夜、日本社会党が片山潜宅で電車賃問題に関する評議員例会を開催
     保釈で出獄した田添を除く全員が出席
  07/09国家社会党、新紀元社、日本社会党共催の連合演説会が日本橋常盤木倶楽部で150人の聴衆を集め開かれる
     山根吾一、木下尚江、石川三四郎、堺利彦、森近運平が演説
  07/09電車運賃値上げ反対運動の兇徒聚衆事件に対する判決。東京地方裁判所は党員10人の被告に対し無罪判決を下す
     また党員外11人の被告のうち4人は無罪、3人が重禁錮各1年半、4人が罰金各10円に
     4月13日の予審終結ののち6月4日の第1回公判から、6日の第2回公判、15日の第3回公判、
     20日の第4回公判、22日の第5回公判、25日の第6回公判、29日の第7回公判の結審と続いた末
     07/10検事局が判決を不当として控訴
     1907(明治40)10/09第1回控訴公判が東京控訴院第3法廷で開かれる。深尾韶を除くいずれもが出廷
  07/13北輝次郎(一輝)が自費で『純正社会主義の哲学(生物進化論より説明せる社会進化の理法及び理想)』を発行
     著者兼発行者/北輝次郎。印刷者/山田英二。印刷所/博文館印刷所。発売所/由分社
     1910(明治43)09/06発売頒布を禁止する処分を受ける
  07/13今年1月18日にアメリカから帰ったばかりの片山潜が3度目の渡米
     岩崎清七らの出資で大日本興農株式会社が設立され、その事業監督のため
     1907(明治40)02/19テキサスの農場経営が中止となり帰国
  07/20片山潜が『光』第17号4ページに「日本に社会主義を行ふは安し」を発表する
  07/20パンフレット『電車値上反対意見』が出版される
     森近運平の「市内鉄道の性質」、片山潜の「電車値上反対意見」、堺利彦の「反対運動の方法」を収める
     発行所は日本社会党本部。発行兼編輯人は森近運平、印刷人は堺利彦。大きさは菊半截判で本文15ページ、定価1銭
     片山潜「電車値上反対意見」2〜9ページ、堺利彦「反対運動の方法」9〜13ページ、森近運平「市内鉄道の性質」13〜16ページ
     新運動の一方法として此小冊子を数万部印刷
  07/20金尾文淵堂が木下尚江の『火の柱』を発行する
     もとは1904(明治37)5月10日に平民社が平民文庫から発行
     1908(明治41)10/20栄江堂が木下尚江の『火の柱』を発行する
  07/25木下尚江の『良人の自白』続篇が金尾文淵堂より刊行
     07/30上巻、中巻が刊行
     09/30下巻が刊行
     1910(明治43)09/13発禁処分となる
  07/永岡鶴蔵が夕張から同志の南助松を足尾に呼び寄せる。足尾労働者の状況を視察
  08/01東京府知事が東京市3電車会社の合併を認可
     3つの電車会社は東京電車鉄道会社(東電)、東京市街鉄道会社(街鉄)、東京電気鉄道会社(外濠線)
     鉄道会社3社の合併による経営合理化を条件にした値上げ申請が受け入れられる
     内務大臣の原敬は合併後の電車賃を4銭均一とするよう指示する
     09/11東京電車鉄道会社(東電)、東京市街鉄道会社(街鉄)、東京電気鉄道会社(外濠線)の3社が合併
     東京鉄道会社に改称。運賃は4銭に値上げする
  08/01堺利彦が同年3月15日に由分社より創刊した『社会主義研究』が創刊第5号で発行を停止
     その3つの原因は
     堺が日本社会党の評議員幹事として党の実務に当たるため
     堺が電車賃値上反対運動で西川光二郎らが検束され機関紙『光』の編集作業を行なうため
     『社会主義研究』そのものの財政難
  08/01『社会主義研究』第5号で国際社会主義運動の理論的問題点を展開
     1ページにM・ビーアの「総同盟罷工の歴史的意義」。白柳秀湖訳
     11ページにオーグズト・ベーベルの「政治的総同盟罷工論」。堺利彦訳
     25ページに志津野又郎によるジョーレ、ベーベルらの「社会党硬軟二派の主張」などを掲載
  08/01東京小石川の砲兵工廠でスト
  08/02麹町区会協議会が東京市電の運賃値上げ反対を決議
  08/05社会党は3社合併と運賃値上げの報を受けて評議員会を開く
     堺利彦の発意により新たに電車に「乗らぬ同盟」のボイコット運動を計画
     運動として電車ボイコット運動、電車に乗らぬ運動を進めることに
  08/07午後4時より皇室社会主義を唱える松本道別らの発起で電車賃値上反対市民大会が日比谷公園で開かれる
     来集者には電車のため職業を奪われた人力車夫も少なからず
     社会党員は一部保釈されるも関係なく催される
  08/10日本社会党の同志14人が神田三崎町の党本部を出発、数万枚のボイコット運動のチラシを配布する
     ボイコット運動は堺利彦の発意による
     森近運平、野澤重吉、添田平吉、村田四郎、堺利彦、菊江正義、幸内順一、坪井降吉、藤田四郎、堺ため子、添田たけ子ら
     午前9時、本部を出発、九段坂、麹町富士見町、市ケ谷見付、市ケ谷堀側、四谷見付、麹町通り、元園町由分社にて昼食、半蔵門、
     三宅坂、日比谷公園、内幸町、烏森、新橋、銀座、京橋、日本橋、須田町、万世橋、下谷五軒町、上野、本郷切通し、本郷通り
     午後5時頃、本郷3丁目で解散
  08/10夜、社会党同志15人が『日本社会党』と銘打つ赤提燈を手に持ち、5隊に分れそれぞれが日比谷公園に向けて出発
     ボイコット運動のチラシをまきながら各々電車線路に沿い行進
      本郷方面から原霞外、谷村釣雪、宇都宮卓爾
      両国方面から藤田四郎、荒畑勝三、安成貞雄
      下谷方面から添田平吉、座間鍋司、菊江正義
      品川方面から坪井次郎、安仲一平、野澤重吉
      新宿方面から森近運平、竹内善作、堺ため子
     5隊は日比谷公園で落ちあい1隊となる。さらに銀座通りにでてチラシを配布
     雨がふり人手も少なく野次馬騒ぎもなく無事に運動を終える
  08/18呉の海軍工廠のストで暴動化
  08/20社会党同志が数万枚のチラシを配布。市民は同情を寄せ、『二六』『都』など諸新聞も賛意を表わすことに
  08/26『新紀元』の石川三四郎と木下尚江が谷中村の同志からの依頼で地方遊説を行なう
     『新紀元』派唯一の遊説となる
  08/29社会党員の菊江正義が、単独で日本橋で電車値上げ反対の小冊子をくばり演説
     群衆1千人が集まり、電車をおそい警官と衝突する
  08/堺利彦が由分社より1903(明治36)4月に創刊した『家庭雑誌』が第5巻10号で廃刊に
  09/03大和田忠太郎が1枚ものの『社会主義ヲ記述セル一枚摺印刷物』を発行する。発行所は不明
     1910(明治43)09/19発売頒布を禁止する処分を受ける
  09/05宮崎滔天(寅蔵)らが『革命評論』を創刊。毎月2回、5、20日の発行
     中国とロシアの革命の元朝を紹介し革命を鼓吹。中国同盟会の機関誌『民報』を側面から援助するもの
     発行所/東京府下豊多摩郡内藤新宿番集町34番地の革命評論社。印刷所/東京市神田区中猿楽町4番地の秀光社
     べつに神田区美土代町3丁目1番地に、革命評論社事務所をおく。新聞紙条例が規定する保証金の問題によるもの
     発行兼印刷人は青梅敏雄、編輯人は宮崎寅蔵(滔天)。体裁は縦39センチ、ヨコ27センチ
     同人は宮崎滔天、池亨吉、和田三郎、萱野長知、平山周、清藤幸七郎、北輝次郎(一輝)ら
     のち11月10日発行の第5号より10日、25日の発行に変更。12月には1回の刊行もなく
     のち明治40年1月は1日と25日の2回。2月、3月はいずれも25日に1回ずつ発行
     1907(明治40)03/25第10号で廃刊に
  09/0511日の電車運賃値上げを前に、値上反対市民大会が日比谷公園で開催される。主催は皇室社会主義を唱える松本道別
     16時50分頃に散会。のち会衆は松本の制止を聞き入れず暴動化。事実上の焼打煽動を行って公園外へ繰り出す
     数千の群衆は激怒し警官隊と各所で衝突。一部は東京市街鉄道会社を襲い、付近に停車中の電車に投石破壊する
     9月5日の拘引者は160余人。8日までに器物破毀や電車妨害で検挙された者は94人にのぼる
     7日までに電車54台が騒擾により破損、10数両もの電車が焼打ちにあう。8日には市街電車の夜間運転が中止に
     9月5日の騒擾行動は明治38(1905)年9月5日のポーツマス講和条約締結のときに起きた日比谷焼き打ち事件の1周年記念
     集まる市民の高揚も加わってのことが最大の要因に
     のちことの事態を重くみた原敬内相は、寺内陸相に軍隊出動を要請200人が出動して鎮圧するという事態に
     のち松本は兇徒聚衆罪で捕えられ、西川光二郎より重い2年半の刑が言い渡される
  09/05本郷座で諸団体連合の市民大会が開かれる
     森近運平が「乗らぬ同盟」の緊急動議を提出。大会の可決することになる
  09/05堺利彦が『光』第20号6ページに「基督教に対する予の態度」を発表する
  09/077月4日に静養のため郷里の高知中村へ帰省していた幸徳秋水が帰京
  09/08奥宮健之、石井保男らが「労働党」を結成する
     岩本新吾、吉瀬才一郎、桜井松太郎は社会党を脱党。ほか小林樟雄、土肥新、池田秀ら党員11人を擁す
     事務所は下谷区上野広小路11番地の石井保男宅におく
     主義としては「天賦人権ヲ全スルヲ以テ主義トス」ように自由党左派の系譜に立つもの
     09/09午後6時半より両国館で「労働党創立会兼電車値上反対演説会」が開かれる
     入場料8銭、傍聴者約400人
  09/1015人の党員が「日本社会党」と書かれた紅提灯を持ち、本郷、両国、下谷、品川、新橋の各方面から5隊に分かれて出発
     電車線路に沿って行進。ボイコットのチラシをまく
  09/11社会党による「電車に乗らぬ同盟」が組織される。独自の不乗電車同盟大会を日比谷公園で予定
     雨がひどく警察の威圧が激しく、開会できず不成功に終わる
     党員たちは、神田の錦輝館で開かれている諸団体連合の第2回市民大会に、市民として出席
  09/11神田の錦輝館で第2回市民大会が開かれる
     党員たちは前回の大会で可決を得た「電車に乗らぬ同盟」の発言を求めるが、許されず退場させられる
     社会党以外の団体は社会党を敬遠するようになる
  09/11木下尚江が幸徳秋水、堺利彦と会談。社会主義運動から分離する
     原因は5月6日の木下の母の死去にともなう心の動揺
     10/10木下尚江が『新紀元』第12号17ページから4ページにわたり「旧友諸君に告ぐ」を発表
     社会主義運動から離脱する意志を表明する
  09/11東京電車鉄道会社(東電)、東京市街鉄道会社(街鉄)、東京電気鉄道会社(外濠線)の3社が合併
     東京鉄道会社に改称。運賃は4銭に値上げする
     1911(明治44)08/01東京市が東京鉄道会社を買収。東京市電気局が開設される
  09/15座間止水(鍋司)が東海道、山陽地方への日本全国遊説の旅にでる
     のち神奈川、静岡、愛知、岐阜、滋賀、京都、岡山、広島の8府県に及ぶ
     演説会を13回。聴衆は約3860余人を集める。遊説の旅は警察の干渉や圧迫にあいながらも75日間に及ぶ
     警察の干渉により演説の開催が困難となり、広島を最後にひとまず切り上げ
     11/26帰京
  09/189月20日にヒラメキ会の島中雄三が発行する『ヒラメキ 第2号』が発売頒布禁止の処分を受ける
  09/18大杉栄らが翌年にかけて東京本郷の習性小学校にエスペラント学校を開校
  09/24電車ボイコット運動で『光』の号外「貧富の戦争」を配布。朝憲紊乱となる
     09/28『光』号外「貧富の戦争」が新聞紙条例違犯に問われる
     山口孤剣が『光』の発行編輯人として発売頒布の禁止命令を受ける
     10/11東京地方裁判所で無罪の言い渡しを受ける
     12/18東京控訴院で原判決通り無罪の言い渡しを受ける
     1審の高木益太郎をはじめ鵜沢総明、桜井熊太郎、今村力三郎が弁護に
     1907(明治40)02/05大審院で軽禁錮1か月15日、執行猶予3年の判決を受ける
     1908(明治41)06/18山口孤剣がすべての刑期を終え宮城監獄を放免される
     「貧富の戦争」「新兵諸君に与ふ」「父母を蹴れ」の筆禍事件
  09/25荒畑寒村が『光』第22号6ページに論壇「インバネス物語」を発表する
  09/26広小路両国館で社会党の演説会が開かれる
  09/27芝区兼房町の玉翁亭で社会党の演説会が開かれる
     加藤時次郎が「人口問題」、森近運平が「非軍縮論」、荒畑寒村が「電車事件の教訓」、原霞外が「電車事件の説明」、
     堺利彦が「貧富の戦争」、谷村釣雪が「彼岸の感」、原子基が「社会主義と殖民問題」、山本利一が「足尾坑夫の状態」を演説
     26、27日の演説会で電車運賃値上げ反対運動のホコを納めることに
  09/273社合併後、東京鉄道会社となり初めての路線延伸となる飯田橋と大曲のあいだが開通する
  09/279月28日にうしほ会が発行する添田平吉(不知山人)の『寸鉄』が発売頒布禁止の処分を受ける
  09/28凡人社が西川光次郎の『改革者の心情』を発行する。即日、発売頒布を禁止する処分を受ける【09/30?】
  09/28凡人社が山口義三の『革命家の面影』を発行する
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  09/保釈後の大杉栄(21)が堀紫山の妹堀保子と結婚。市谷田町に住む
     保子は堺利彦の最初の妻美知[1904(明治37)9月18日死去。享年35才【08/18?】]子の妹
  09/小松丑治、岡林寅松らが神戸平民倶楽部を結成。非戦運動、社会主義の研究をすすめる【1905(明治38)?】
  10/10安部磯雄が『新紀元』第12号1ページに「東京市電市有論」を発表する
  10/10木下尚江が『新紀元』第12号7ページの時事評論に「日本国民の大誘惑」を発表する
     天皇制を批判しながら家族主義と国家を結びつける
  10/10木下尚江が『新紀元』第12号17ページに「旧友諸君に告ぐ」を発表
     社会主義運動から離脱する意志を表明する
     原因は5月6日の木下の母の死去にともなう心の動揺
  10/18社会党の演説会が開かれる。弁士9人のうち7人が中止をさせられるという事態に
     弁士は菊江正義、森近運平、矢木健次郎、松崎源吉、堺利彦、加藤時次郎、荒畑寒村、幸徳秋水、田添鉄二
  10/19日本鉱山労働会が永岡鶴蔵の『足尾銅山ラッパ節 第1回』を発行する
     1907(明治40)01/21日本鉱山労働会が永岡鶴蔵の『足尾銅山ラッパ節 第2回』を発行する
     1910(明治43)09/03『第1回』『第2回』ともに発売頒布を禁止する処分を受ける
  10/20足尾の日本鉱山労働会が機関紙『労働者の友』を発行する
  10/24岡山いろは倶楽部員の『私製葉書(社会主義ヲ記述セルモノ)』1枚が発売頒布を禁止する処分を受ける。発行日は不明
  10/25『光』第25号1ページに『平民新聞』発行の予告記事が掲載される
     「同志諸君に告ぐ(日刊平民新聞の発刊に就て)」「日刊平民新聞出んとす」
     同時に新たな平民社の組織化を予告し社員を募集
     以降第31号まで毎号に予告記事「日刊平民新聞彙報」が掲載される
     11/15第27号5ページ、11/25第28号5ページに(3)、
     12/05第29号5ページ、12/15第30号5ページに(5)、12/25第31号5ページに「発刊予告」
     のち発刊までに社員24人、印刷部員30人、寄稿家60余人に達する
  10/27永岡鶴蔵が南助松を足尾に呼び労働者組織の再建策をはかる
     南は夕張の至誠会を高橋信二らに任せ、18才の白井操を伴い足尾へ
  10/3111月1日に孔孟社が発行する北輝次郎(一輝)の『純正社会主義の経済学』が発売頒布禁止の処分を受ける
     副タイトルに(旁「社会経済学」と「最近経済論」に対する弁妄)がつく
  10/堺利彦が由分社を解散するとともに、『家庭雑誌』を大杉栄、堀保子夫妻に譲渡する
     「家庭雑誌」は1903(明治36)朝報社在社中の堺利彦が由分社から創刊
     1907(明治40)06/「家庭雑誌」の発行人が、平民書房の熊谷千代三郎にかわる
  10/山川均が『平民新聞』の創刊に編集部員として参加するよう幸徳秋水に招かれる
     山川は1904(明治37)6月、『青年の福音』筆禍事件で服役ののち仮出所
     6月11日には東京を離れ生まれ故郷の倉敷に戻る
     12/中任されていた義兄林源十郎の薬店岡山支店を辞し上京
     錦町に下宿し新富町の平民社で初めて堺利彦に会う
  秋/添田平吉の発案で運動会が開かれる。場所は戸山が原
     写真には戸恒保三、渡辺政太郎、岩崎吉勝、南操子、吉川操、師岡千代子、安成貞雄、中里介山、柴田三郎、
     堺利彦、堺ため子、福田英子と千秋、西川文子と満児、添田唖蝉坊、添田ため子、添田知道、ほかに竹久夢二、竹久彦乃の姿も
  11/05西川生が『光』第26号1ページに「社会主義と農民」を発表
  11/05『光』第26号4ページに講演「社会主義と無政府主義」の大要を掲げる
     内容は10月13日に開かれた茶話会講演の大要
     堺利彦はディツゲンの立場で社会主義と共産主義の差異をなるべく少なくしようと折衷的態度をとる
  11/101905(明治38)11月10日に創刊したキリスト教社会主義の機関誌『新紀元』が第13号を最後に廃刊
  11/13前川文栄閣が笹島天空の『唯神論』を発行する
     11/19発売頒布を禁止する処分を受ける
  11/16平民書房が久津見息忠【蕨村?】の『無政府主義』を発行する
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  11/24宮武外骨が吉岡哲夫、中井隼太、乾吉次郎、日野国明とともに「社会主義研究会」の設立をはかる
     宮武外骨は大阪で『滑稽新聞』を発行
     「平民社一派の極端なる社会主義を採らず穏健で実行のできる社会主義を主張」する
     1907(明治40)04/12宮武外骨が「社会主義研究会」を設立
     研究会の顧問、『活殺』の編集人として東京から社会主義者の森近運平を招く
     05/15大阪の「社会主義研究会」が機関誌『活殺』を創刊
     編集は森近運平、発行資金は宮武外骨がだす
     執筆は森近、宮武のほか安部磯雄、島田三郎、大谷誠夫、河野広中、村松恒一郎などが寄稿
     発行後森近の「宗教の堕落」が会の綱領に反すると日野国明が強硬に異議
     研究会で内部分裂、社会主義研究会は解散し『活殺』は創刊号のみで廃刊に
     06/01組織をかえて新たに『大阪平民新聞』を創刊
  11/25『光』第1巻第28号4ページに掲載の大杉栄訳「新兵諸君に与ふ」が朝憲紊乱に
     「新兵諸君に与ふ」はフランスの無政府主義の週刊新聞『ラナルシィ』に掲載の反軍国主義の論文
     発売を停止、秩序壊乱の告発をうける
     11/28「新兵諸君に与ふ」が新聞紙条例違反に問われる
     山口孤剣が『光』の発行編輯人として発売頒布の禁止命令を受ける
     1907(明治40)02/05「新兵諸君に与ふ」筆禍事件は東京地方裁判所で軽禁錮2か月の判決を受ける
     04/06東京控訴院で軽禁錮2か月の判決を受ける
     04/10倉富検事長が上告する
     05/31大審院で軽禁錮8か月、罰金100円を言い渡される
     山口は「父母を蹴れ」筆禍事件で入獄中。そのまま引き続きの在獄となる
     1908(明治41)06/18山口孤剣がすべての刑期を終え宮城監獄を放免される
     「貧富の戦争」「新兵諸君に与ふ」「父母を蹴れ」の筆禍事件
  11/25『革命評論』第6号付録1ページの土地復権会記事の内に桃中軒牛右衛門(宮崎滔天)の「落花の歌」が掲載される
  11/26座間止水が東海道、山陽地方の75日間に及ぶ遊説の旅から帰京
     神奈川、静岡、愛知、岐阜、滋賀、京都、岡山、広島の8府県に及び演説会を13回。聴衆はおよそ4千人を集める
  11/28日本鉱山労働会が永岡鶴蔵の『坑夫に与ふるの書』を発行する
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  11/30小木曾助次郎が1枚ものの『社会主義とはドンナもの』を発行する。発行所は不明
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  12/02大阪の砲兵工廠で賃上げスト
  12/05永岡鶴蔵、南助松らにより大日本労働至誠会足尾支部が結成する
     夜、足尾の通洞金田座で坑夫500人を組織し結成大会兼演説会が盛大に開かれる
     運動の本拠が夕張から足尾に移る
  12/07大日本労働至誠会足尾支部がいろは座で演説会を開く
     12/24金田座で演説会を開く
     1907(明治40)01/08金田座で演説会を開く
     のち1月9日にはいろは座で、11日には花柄平で演説会を開く
     01/26金田座での演説会で南は千人を超える聴衆を前に資本家などの不正を糾弾
     01/29いろは座での労働問題演説会は600余人の聴衆を集め、足尾銅山所長南挺三に対する弾劾演説会に
     02/01古足尾の鶴屋では足尾全山の山中当番総代会が開かれる
     待遇改善など請願24か条を決め、6日の午前9時から至誠会の総会にて坑夫一同で請願することになる
  12/18「貧富の戦争」筆禍事件の被告山口孤剣が東京控訴院で原判決通り無罪の言い渡しを受ける
     1審の高木益太郎をはじめ鵜沢総明、桜井熊太郎、今村力三郎が弁護に
     「貧富の戦争」は1906(明治39)9月24日に『光』の号外として発行。28日に新聞紙条例違犯に問われる
     1907(明治40)02/05「貧富の戦争」筆禍事件は大審院で軽禁錮1か月15日、執行猶予3年の判決を受ける
  12/20アメリカ、オークランドの「社会革命党」の機関紙として日英両語の新聞『革命』が発刊される
     1907(明治40)02/10第2号が発行
     04/01第3号が発行され廃刊に
     11/03『暗殺主義』が発行される
  12/25日本社会党の機関紙『光』が日刊『平民新聞』発行のため第31号をもって発展的廃刊となる
     創刊は1905(明治38)11月20日
  12/29うしほ会が添田平吉の『新俗躰詩 嗚呼金の世』を発行する
     1910(明治43)08/10発売頒布を禁止する処分を受ける
  12/29うしほ会が添田平吉の『新俗体詩 あゝ金の世』を発行する
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  12/管野すがが妹ひでを連れて上京。すがは毎日電報社の社会部に就職
  12/管野すがと先に東京にきていた荒畑寒村が堺利彦の仲介で結婚
     1908(明治41)05/管野と荒畑の仲が冷え、一時別居
  12/加藤時次郎がさき夫人とヨーロッパの医療事情視察を名目に日本を離れる
     1907(明治40)08/18シュトゥットガルトで開催中の第二インターナショナルに日本代表として参加。〜8月24日
     現実的な社会改良主義の必要性を痛感して帰国
  河上肇が『社会主義評論』を刊行

1907(明治40)

  01/01横田兵馬、岩崎吉勝、遠藤無水らが福田英子を助け半月刊の日本初の社会主義の女性新聞『世界婦人』を創刊
     寄稿者は石川三四郎、安部磯雄らを中心とした『新紀元』のメンバー
     キリスト教社会主義の立場から家族制度を批判し、婦人に自我の確立を呼びかける
     また堺利彦、幸徳秋水、木下尚江、小野吉勝(有香)、遠藤友四郎、神川松子、長加部寅吉、
     高畠素之、深尾韶、赤羽一(巌穴)、白柳秀湖、内山愚童、大石誠之助(禄亭)、久津見蕨村、
     西川文子など様々な傾向の社会主義者、無政府主義者が寄稿する
     1908(明治41)01/月刊となる
     1909(明治42)01/05経済的窮乏のため保証金を取り下げ新聞から学術雑誌に変更する
     07/05第38号掲載の石川三四郎「墓場」、晩菫「我が野女」、添田生(添田義雄)「人生の目的」が筆禍発禁に
     新聞紙法違反で編集兼発行人の石川が裁判に問われ終刊に
     1910(明治43)01/22東京控訴院で石川に禁錮4か月、罰金60円『世界婦人』の発行禁止が言い渡される
     03/28筆禍事件の判決が確定し石川が入獄する
     07/28石川が出獄。福田英子の家に帰る。まもなく家宅捜索を受ける
  01/08大日本労働至誠会足尾支部が金田座で演説会を開く
     のち1月9日にはいろは座で、11日には花柄平で演説会を開く
     01/26金田座での演説会で南は千人を超える聴衆を前に資本家などの不正を糾弾
     01/29いろは座での労働問題演説会は600余人の聴衆を集め、足尾銅山所長南挺三に対する弾劾演説会に
     02/01古足尾の鶴屋では足尾全山の山中当番総代会が開かれる
     待遇改善など請願24か条を決め、6日の午前9時から至誠会の総会にて坑夫一同で請願することになる
  01/15平民新聞社より『平民新聞』が創刊される
     『光』を刊行していた西川光次郎らと、『新紀元』を刊行していた石川三四郎らを幸徳秋水と堺利彦が説得して合同
     発行所/東京市京橋区新富町6丁目7番地平民社、発行/日刊。月曜休刊
     発行兼編集人/石川三四郎、印刷人/深尾韶
     定価/1部1銭、1か月25銭、地方直送郵税共1か月32銭、半年1円85銭、1年3円30銭
     体裁/新聞紙大、紙幅/縦=約52糎、横=約37糎、頁建/4頁
     事務所は築地新富座の北隣の元芝居茶屋の1戸
     創立者は幸徳秋水、堺利彦、西川光次郎、石川三四郎、竹内兼七
     社員24人の部署
     ○庶務会計部 幸徳伝次郎[主任]、村田四郎[会計]、森近運平[売捌]、椎橋重吉[広告主任]、
     斎藤兼次郎[発送]、神崎順一[同]、宇都宮卓爾[同]、矢木健次郎[発送集金]、吉川守圀[広告]
     ○編集部 赤羽巌穴、石川三四郎、西川光次郎、岡千代彦、原霞外(真一郎)、幸徳秋水、山川均、荒畑寒村、
     堺利彦、深尾韶、山口孤剣(義三)、小川芋銭、岡野辰之介[校正]、徳永保之助[同]、百瀬晋[給仕]
     04/13東京裁判所が発行禁止を宣言
     『平民新聞』は平民新聞社が同年1月15日に創刊
     04/14第75号を全紙赤版にして廃刊に
  01/15木下尚江が『平民新聞』創刊号4ページに「山居雑感」を寄稿
  01/15荒畑寒村が『平民新聞』創刊号7ページに「舞ひ姫」を発表
  01/15原霞外が『平民新聞』創刊号から小説「新派講談・舶来乞食」の連載を開始する【原真一郎?】
     03/26第58号まで全54回にわたり連載される
  01/19岩手の鉱山でストライキが起こる
  01/20石川三四郎と幸徳秋水が『平民新聞』第2号から「日本社会主義史」の連載を開始する
     03/24第57号まで全33回の連載となる
  01/21日本鉱山労働会が永岡鶴蔵の『足尾銅山ラッパ節 第2回』を発行する
     『足尾銅山ラッパ節 第1回』は1906(明治39)10月19日に発行
     1910(明治43)09/03『第1回』『第2回』ともに発売頒布を禁止する処分を受ける
  01/26山川均が『平民新聞』第8号1ページに論評「男女関係の解放」を発表する
  01/平民書房が児玉花外の『天風魔帆』を発行する
  02/01幸徳秋水が『平民新聞』第13号1ページに「独逸総選挙と欧州社会党」を発表する
  02/03奥宮健之が『平民新聞』に通俗講話「治国平天下はパン問題の解決にあり」を発表する
     02/03第15号1ページに(上)、02/06第17号1ページに(下)
  02/04午前9時15分、足尾銅山の通洞の坑内見張所を坑夫が襲い暴動化。足尾銅山暴動事件が起きる
     永岡鶴蔵と南助松が説得し鎮撫する
     02/05簀子橋にて見張所の破壊暴動がおこる。永岡と南が説得、坑夫らはハチマキをはずし一礼して鎮まる
     本山での騒ぎは永岡らがむかう前に収まる
     平民社特派員として西川光次郎が足尾に入る
     02/06午前9時。全鉱夫3600余人の名で、賃銀増加など全24か条の請願書は平静な小滝坑場のみで提出
     本山と通洞では、頭役により簡略化した請願書が提出される
     午前10時、永岡鶴蔵、南助松ら至誠会の主要メンバー8人が林屋で西川と会談中に拘束され、午後2時日光に送られる
     本山坑で暴動が本格化。至誠会メンバーがいなくなり、さらに激化
      突如として起こった暴動は本山全体に波及し1200余人が大活動をはじめる。足尾は無警察状態に
      事務所、役宅、倉庫などに火がつけられる。電線を切断し、書類を焼き、建物を打ち壊しに
      鉱山内の48棟が焼き払われ、倉庫から酒を盗んだ鉱夫らは所長の南挺三宅に押し寄せ瀕死の重傷を負わせる
      鉱山本事務所を襲い、金庫をあけて日露戦争の公債や重要書類を引きさく
      建物を打ちこわす前、明治天皇の肖像と古川市兵衛の肖像だけは、大切にはずし警察に渡す
      選鉱場を焼き、石油庫と火薬庫にダイナマイトを投げ込む
     午後1時すぎ、寺内陸相に軍隊の出動を要請。高崎歩兵第15連隊第2大隊長吉野少佐率いる3個中隊が派遣される
     02/07午前3時、西川が拘束される
     午後1時15分軍隊が足尾に到着
     軍兵士は本山方面に2個小隊、小瀧方面に1個小隊、細尾に1個分隊、通洞に1個小隊とわかれる
     本部が松原町の泉屋旅館に置かれる
     午後4時、戒厳令がしかれ警察官、軍隊、憲兵隊により騒ぎが鎮静化
     02/07午後3時、西川のかわりとして「二六新報」の名刺を携えた荒畑寒村が上野を出発
     02/07夜8時、日光に到着。1泊する
     02/08朝、荒畑が足尾に到着
     02/08夜、荒畑が同志早瀬健次郎宅に泊まる。11時頃、警官4、5人が同宅へ踏み込み早瀬を拘引
     荒畑は奥の1室で布団をかぶり潜伏、難を逃れる
     02/09午後10時、荒畑が足尾をはなれ無事に帰社
     02/10すべての暴動が鎮圧。逮捕拘引は数百人に
     02/11銅山側の重役会は小滝を除く坑夫全員を解雇。希望誓約者には再雇用を通知する【02/10?】
     05/05宇都宮監獄で未決監生活を3か月送った西川が出獄する
  02/05幸徳秋水が『平民新聞』第16号1ページに論評「余が思想の変化(普通選挙に就いて)」を掲載
     日本社会党の方針であった普通選挙権獲得を目的とする議会主義を否定
     世界革命運動の潮流となりつつある全労働者のゼネラル・ストライキによる直接行動を主唱する
     日本社会主義運動の方向転換を強く同志に訴える
     02/10堺利彦が「社会党運動の方針」を『平民新聞』第21号1ページに掲載。幸徳に対し反論
     02/14田添鉄二が「議会政策論(上)」を『平民新聞』第24号1ページに掲載。堺と同意見を発表
     02/15「議会政策論(下)」を『平民新聞』第25号2ページに掲載
     社会党内部で「直接行動」論争がはじまる。軟派(議会政策派)と硬派(直接行動派)の分派抗争が激化する
     官憲は「直接行動」の語を「暴力革命」と同義と歪曲され理解される
  02/05「貧富の戦争」筆禍事件の被告山口孤剣が審院で軽禁錮1か月15日、執行猶予3年の判決を受ける
     「貧富の戦争」は1906(明治39)9月24日に『光』の号外として発行。28日に新聞紙条例違犯に問われる
     1906(明治39)12月18日には東京控訴院で原判決通り無罪の言い渡しを受ける
     「新兵諸君に与ふ」筆禍事件と同日裁判
     1908(明治41)06/18山口孤剣がすべての刑期を終え宮城監獄を放免される
     「貧富の戦争」「新兵諸君に与ふ」「父母を蹴れ」の筆禍事件
  02/05「新兵諸君に与ふ」筆禍事件の被告山口孤剣が東京地方裁判所で軽禁錮2か月の判決を受ける
     「新兵諸君に与ふ」は大杉栄の訳で1906(明治39)11月25日発行『光』第28号4ページに掲載
     フランスの無政府主義の週刊新聞『ラナルシィ』に掲載の反軍国主義の論文
     「貧富の戦争」筆禍事件と同日裁判
     04/06東京控訴院で軽禁錮2か月の判決を受ける
  02/06足尾暴動事件で拘引された当日、早くも取り調べがはじまり調書がつくられる
     被告は暴動を煽動したとされた大日本労働至誠会のメンバー
     蒔沢秀判事により第1回の予審調書がつくられる
     03/04望月判事により第2回の予審調書がつくられる
     第3回、第4回は不明
     05/21望月判事により第5回の予審調書がつくられる
     05/22第6回の予審で審理調書がつくられる
     05/23引き続いて予審がある
     06/05予審が終結。永岡らは兇徒聚衆罪で起訴され公判を受けることに
     08/01宇都宮地裁で足尾暴動事件の公判はじまる。南助松に対して審問が行なわれる
     08/02公判で永岡鶴蔵に対する審問が行なわれる
     09/07宇都宮地方裁判所休暇部裁判長判事の宮本力之助が判決を言い渡す
     足尾騒擾事件の第1審判決。南、永岡以下8人は無罪に。他22被告に1〜12年の有期刑の判決が下る
     8人は井守伸午、林小太郎、山本利一郎、國本浅五郎、大谷由太郎、山中金五郎、山本久吉、山口榮太郎
     裁判では至誠会が暴動を示唆したとする検察の主張は認められず
     暴動が発展した直接のきっかけは、飯場頭による労働者側への挑発
     のち検事が控訴する。永岡、南、井守、林、山本など首魁、教唆者の身柄が東京に移される
     12/14控訴院公判がはじまる
     12/16控訴院公判で永岡に対する尋問が行なわれる
     1908(明治41)02/08控訴院が控訴破棄の判決。控訴公判で無罪判決。永岡は1年ぶりに出獄
     検察が上告する
     04/大審院は無罪を判決
  02/07午後4時半頃、東京の平民社に裁判所判事の小林義夫、検事の金子富次郎、警視庁警部巡査ら10余人が家宅捜査に
     足尾の騒擾事件の余波によるもの。堺利彦らは書類を提出、押収
     のち堺利彦、幸徳秋水、西川光二郎、斎藤兼次郎、石川三四郎、竹内余所次郎らの自宅をも捜索される
  02/07九州社会主義協会が野波鎮人の『社会主義とは何ぞ』を発行する
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  02/09『平民新聞』第20号1ページに論評「労働者と軍隊」が発表される
  02/10堺利彦が『平民新聞』第21号1ページに論評「社会党運動の方針」を発表する
  02/10アメリカ、オークランドの「社会革命党」の機関紙で日英両語の新聞『革命』の第2号が発行
     創刊は1906(明治39)12月20日
     04/01第3号が発行され廃刊に
     11/03『暗殺主義』が発行される
  02/11福田英子の大阪事件出獄19年記念の夕食会が開かれる
     『平民新聞』編集者一同が招かれる
     山口弧剣は筆禍事件に対する心労から茶碗酒をあおり酔いつぶれる
     介抱役にまわった山川均は山口を下宿先まで送り届ける
  02/19才の南操子と加藤藤子が宇都宮監獄に収監された操子の夫南助松、藤子の夫加藤栄松ら至誠会メンバーを見舞う
     差し入れはすますが、面会は許されず。その足で上京、平民社を訪ねる
     南操子は足尾暴動事件で起訴された南助松の妻、加藤藤子は同じく加藤栄松の妻
     02/12『平民新聞』第22号3ページに南操子のことを書いた記事「革命婦人と語る」が掲載
     02/13『平民新聞』第23号3ページには南操子、加藤藤子の写真が大きく掲げられる
  02/12福田英子、管野すが、堺為子らが治警法第5条改正請願を議会提出する
     03/16衆議院で可決する
     03/27貴族院で否決される
  02/12東京青年倶楽部が添田平吉の1枚ものの『警世諷俗わからない 附あきらめ賦詩』を発行する
     1908(明治41)08/10発売頒布を禁止する処分を受ける
  02/14田添鉄二が『平民新聞』第24号1ページに論評「議会政策論(上)」を発表する
     02/15『平民新聞』第25号2ページに「議会政策論(下)」を発表する
  02/15石川の遊泉寺銅山でストライキが起きる
  02/16石川三四郎が『平民新聞』第26号1ページに論評「社会党員諸君に告ぐ」を発表する
  02/16竹内余所次郎が『平民新聞』第26号2ページに「運動方針に就いて」を発表する
  02/16〜19長崎造船所の木工の待遇改善のストライキが起きる
  02/17日本社会党第2回大会が神田錦町の錦輝館で開かれる。分派論争
     午後1時50分、堺利彦の開会の辞にはじまり、竹内が座長となり議事が進められる
     出席の党員は地方支部代表者をあわせて60余人、来賓数十人。なかには徳富健次郎(蘆花)、奥宮健之の姿も
     1、党務報告 森近運平
     1、緊急動議 石川三四郎
     足尾事件のため獄中にある西川光次郎、南助松、永岡鶴蔵に慰問電報を打つことを満場一致で可決
     1、党則改正
     党則を「国法の範囲内に於て社会主義を実行する」から「社会主義の実行を目的とする」に改める
     1、役員選出
     新評議員20人は堺利彦(平民記者・38)、幸徳伝次郎(同・37)、西川光次郎(同・32)、斎藤兼次郎(毛筆用金櫛職・46)、
     野沢重吉(人力車夫・50前後)、藤田四郎(牛乳店主・44)、田添鉄二(英語塾経営・33)、松崎源吉(売薬業・35)、
     椎橋重吉(平民社員・31)、森近運平(同、元岡山県属官・28)、深尾韶(平民記者、元小学校教員・28)、
     岡千代彦(印刷工、労働組合運動先達・35)、竹内余所次郎(薬剤師・43)、幸内久太郎(親方金物職・44)、
     石川三四郎(平民記者・32)、山口義三(同・25)、樋口伝(書画販売・35)、安井有恒(青山学院事務員・44)、
     安中逸平(葉茶屋・44)、添田平吉(唖蝉坊、流行歌呼売・30)
     堺利彦、石川三四郎が幹事に互選
     1、萬国社会党大会に関する件 堺利彦
     8月に開かれる大会に出席する代議員は渡欧の途にある加藤時次郎に
     「宣言及決議」
     審議で堺利彦提出の評議員案をめぐり幸徳秋水と田添鉄二が論争
     幸徳は田添の議会政策論に反対し直接行動論を唱え激しい論戦を展開する
     大会は幸徳、田添の討論のほか、赤羽一、石川三四郎、松崎源吉、金子新太郎、竹内善朔らが発言、活発な討論に
     採決では田添案2票、幸徳案22票、堺(評議員原案)案28票で原案を可決し解散
     日本社会党第2回大会で田添鉄二、片山潜らの議会政策に反対した幸徳秋水らが直接行動論を主唱し論争となる
     袂を分けることに
  02/17『平民新聞』第27号2ページに「社会党大会」が掲載される
     02/19続けて『平民新聞』第28号3ページにも「社会党大会」が掲載される
  02/19『平民新聞』第28号に日本社会党第2回大会の決議、田添鉄二と幸徳秋水の演説を掲載
     「田添鉄二氏の演説要領(一昨日社会党大会に於ける)」1ページ
     「幸徳秋水氏の演説(一昨日社会党大会に於ける)」2ページ
     社会の秩序を乱すものとして発売禁止を命じ、編集発行人の石川三四郎を起訴
  02/19前年7月13日に3度目の渡米をした片山潜がアメリカから帰国
     岩崎清七らの出資で大日本興農株式会社が設立され事業監督のため向かうが、テキサスの農場経営が中止となったため
  02/20山川均が『平民新聞』第29号1ページに論評「社会党大会の成蹟」を発表する
  02/22堺利彦と石川三四郎が本郷署から呼び出される。堺は都合がつかず石川のみが出頭
     話の内容は社会党則改正届け出の遅延に対するお叱り
     石川が退出しようとすると警部が呼び止め「是は少し御迷惑かも知れぬが」と1枚の用紙をさし出す
     「日本社会党主幹者
           堺  利彦
           石川三四郎
      日本社会黨ハ安寧秩序ニ妨害アリト認ムルヲ以テ治安警察法第八條第二項
      ニヨリ其結社ヲ禁スル旨内務大臣ヨリ達セラレタリ 右傳達ス
        明治四十年二月二十二日
           警視總監 安樂兼道 印」
     「日本社会党」が結社禁止を命じられる
     「日本社会党」は1906(明治39)2月24日に「日本平民党」「日本社会党」が合併し合法政党として結成
  02/22・23岐阜の高根山鉱山でストライキが起きる
  02/23赤羽厳穴が『平民新聞』第32号1ページに「現社会の三奴隷」を発表する
  02/23『平民新聞』第32号1ページに「欧洲の直接行動」が掲載される
  02/24『平民新聞』第33号1ページに論評「治安警察法(上)」が発表される
     02/26『平民新聞』第34号1ページに論評「治安警察法(下)」が発表される
  02/252月27日に平民社が発行する鈴木楯夫の『社会主義の話』が発売頒布禁止の処分を受ける
  02/25〜28宮崎の槇峯鉱山で紛争が起こる。警官と衝突
  02/『世界婦人』の同人が治安警察法の一部改正請願書を提出する
  03/02『平民新聞』第38号1ページに無署名の論評「人民の中に」が発表される。じつは幸徳秋水の作
  03/04山崎今朝弥が平民社の幸徳秋水を訪ねる。幸徳おらず名刺を渡す
     「法学博士 医学博士 哲学博士 其の他種々 英米伊拉典に通ず 米国伯爵 山崎今朝弥 未婚者 財産合計百万弗」
  03/05片山潜が『平民新聞』第40号1ページに論評「労働者諸君に告ぐ」を発表
     03/07『平民新聞』第42号2ページに一労働者の筆名で「片山先生に告ぐ」が掲載される
     03/08『平民新聞』第43号2ページに片山潜が「一労働者に答ふ」を発表
     03/10『平民新聞』第45号2ページに一労働者の「再び片山先生に」が掲載される
  03/08栃木の大谷石山で賃上げのストライキが起きる
  03/10片山潜が『平民新聞』第45号1ページに論評「労働問題の前途」を発表する
  03/13『平民新聞』第47号1ページに論評「警官と同盟罷工」が発表される
  03/15『平民新聞』第49号から原子基の「北海道移民の悲惨」の連載がはじまる。初回は49号3ページ
     03/16第50号3ページ、03/19第52号3ページ、03/21第54号3ページの4回にわたり掲載
  03/15山口孤剣が『平民新聞』第49号3ページに「噫三月十五日」を発表する
  03/20東京の上野公園で東京勧業博覧会がはじまる
     07/31最終日。680万人の見物客で賑わう
  03/21『平民新聞』第54号1ページに論評「日本の基督教(上)」が発表される
     03/22『平民新聞』第55号1ページに論評「日本の基督教(下)」が発表される
  03/23秀湖生が『平民新聞』第56号1ページに「直接行動の意義」を発表する
  03/23ロシアの無政府主義者クロポトキンが幸徳秋水に書簡を送る
  03/24白柳秀湖が『平民新聞』第57号1ページに「総同盟罷工の倫理」を発表する
  03/25宮崎滔天(寅蔵)らが1906(明治39)9月5日に創刊した『革命評論』が第10号で廃刊に
     中国とロシアの革命の元朝を紹介し革命を鼓吹。中国同盟会の機関誌『民報』を側面から援助するもの
  03/26〜31荒畑寒村が『平民新聞』に「谷中村の強奪」「無法なる瀦水池設計」を連載する
     03/26第58号2ページに「谷中村の強奪」、03/27第59号2ページに「谷中村の強奪 承前」、
     03/28第60号2ページに「谷中村の強奪 承前」、03/29第61号2ページに「谷中村の強奪 承前」、
     03/30第62号2ページに「無法なる瀦水池設計」、03/31第63号2ページに「無法なる瀦水池設計」
     06/10『社会問題辞典』取材のため田中正造を同道、谷中村を訪ねる
     田中正造から谷中村についての書を著わすことを懇請される
     06/23週刊『社会新聞』第4号5ページに「谷中村を訪ふの記」が掲載される
  03/27山口孤剣が『平民新聞』第59号1ページに論評「父母を蹴れ」を発表する
     秩序壊乱の罪に問われる
     家族制度を批判したとして起訴、発売頒布の禁止命令を受ける
     04/06東京地方裁判所で第1審がはじまる
     「新兵諸君に与ふ」筆禍事件と同日裁判
     04/13「新兵諸君に与ふ」筆禍事件の4月10日の上告により「父母を蹴れ」筆禍事件の裁判が先となる
     山口は軽禁錮3か月の判決を受ける
     石川三四郎は編輯人として軽禁錮3か月、発行人として同じく3か月の計6か月
     山口と石川は控訴を断念する
     04/25東京監獄に入獄する
     執筆者の山口弧剣と編輯兼発行者の石川三四郎
     1908(明治41)05/15石川三四郎が出獄。福田英子の家に同居する
     06/18山口孤剣がすべての刑期を終え宮城監獄を放免される
  04/04片山潜が『平民新聞』第66号1ページに「社会雑感」を発表する
  04/05昭文堂が木下尚江の『飢渇』を発行する
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  04/05うしほ会が添田平吉の『平民あきらめ賦詩』を発行する
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  04/06堺利彦、幸徳秋水が平民社財政難のため同社を退く
  04/06「新兵諸君に与ふ」筆禍事件の被告山口孤剣が東京控訴院で軽禁錮2か月の判決を受ける
     「新兵諸君に与ふ」は大杉栄の訳で1906(明治39)11月25日発行『光』第28号4ページに掲載
     フランスの無政府主義の週刊新聞『ラナルシィ』に掲載の反軍国主義の論文
     「父母を蹴れ」筆禍事件と同日裁判
     04/10倉富検事長が上告する
     05/31大審院で軽禁錮8か月、罰金100円を言い渡される
     山口は「父母を蹴れ」筆禍事件で入獄中。そのまま引き続きの在獄となる
  04/07山口弧剣、大杉栄の送別会が平民社主催で開かれる
     前日の「新兵諸君に与ふ」の裁判で実刑判決が下り大審院で争うことなく入獄するため
     山口は「父母を蹴れ」の告発もあり上告を断念
  04/08山口孤剣が足尾事件で宇都宮の獄中にある西川光次郎を見舞う
  04/11堺利彦が自宅の小宴で山口と大杉夫妻の慰労につとめる
  04/12宮武外骨が吉岡哲夫、中井隼太、乾吉次郎、日野国明とともに「社会主義研究会」の設立
     宮武外骨は大阪で『滑稽新聞』を発行
     「平民社一派の極端なる社会主義を採らず穏健で実行のできる社会主義を主張」する
     研究会の顧問、『活殺』の編集人として東京から社会主義者の森近運平を招く
     05/15大阪の「社会主義研究会」が機関誌『活殺』を創刊
     編集は森近運平、発行資金は宮武外骨がだす
     執筆は森近、宮武のほか安部磯雄、島田三郎、大谷誠夫、河野広中、村松恒一郎などが寄稿
     発行後森近の「宗教の堕落」が会の綱領に反すると日野国明が強硬に異議
     研究会で内部分裂、社会主義研究会は解散し『活殺』は創刊号のみで廃刊に
     06/01組織をかえて新たに『大阪平民新聞』を創刊
  04/13東京裁判所が日刊『平民新聞』の発行禁止を宣告
    『平民新聞』は平民新聞社が同年1月15日に創刊
     04/14第75号を全紙赤版にして廃刊を宣言
  04/13片山潜が自派の同志と相談しキングスレー館に「労働奨励会」をつくる
     労働者の啓蒙と結束に役立て会員相互の親睦、扶助、修養をはかる目的
     05/01第1回演芸会が開かれる
  04/14山口孤剣が『平民新聞』第75号(最終号)1ページ「廃刊の辞」の下段に論説「君よ泣くこと勿れ」を発表する
  04/15午前10時、平民社社員が総出社。日刊平民新聞社の解散式が行なわれる
     社屋前には「暴横なる政府、遂に本紙の発行を禁止したり」と大書した真紅の大看板2枚がでる
     正午を期して悲壮な「埋棺式」が挙行される
  04/25「父母を蹴れ」筆禍事件で執筆者の山口弧剣と編輯兼発行者の石川三四郎が東京監獄に入獄する
     「父母を蹴れ」は1907(明治40)3月27日発行『平民新聞』第59号1ページに掲載
     家族制度を批判したとして起訴、発売頒布の禁止命令を受ける
     山口と石川は控訴を断念し入獄
     1908(明治41)05/15石川三四郎が出獄。福田英子の家に同居する
     1908(明治41)06/18山口孤剣がすべての刑期を終え宮城監獄を放免される
     「貧富の戦争」「新兵諸君に与ふ」「父母を蹴れ」の筆禍事件
  04/25隆文館が幸徳秋水の『平民主義』を発行する。即日、発売頒布を禁止する処分を受ける
  04/25関西教育新聞社の加藤虎雄が『関西教育新聞 第12号』を発行する
     04/29発売頒布を禁止する処分を受ける
  04/28、29北海道の幌内炭鉱で争議が起こりストライキから暴動に発展する。軍隊が出動
  04/欧文植字工団体「欧友会」が結成される
     のち事実上の解散
     1916(大正05)11/03欧文植字工組合親友会が組織される。欧文植字工団体「欧友会」の復活
  04/〜05/片山潜がキングスレー館の仕事として労働奨励会や奮学会(新聞売子や苦学生)を組織する
  05/05足尾銅山で拘束され宇都宮監獄で未決監生活を3か月送った西川光次郎が出獄する
  05/10幸徳秋水と堺利彦が西川光次郎と片山潜に対して「一緒に提携して新聞をだしたらどうか」と勧める
     のち18日までに3回の会見がもたれる
     片山、西川の共同事業で週刊『社会新聞』が発行されることに
     のち吉川守圀が書肆隆文館を辞め、仲間に加わることに
     同人は片山、西川のほか神崎順一、斎藤兼次郎、赤羽一、吉川守圀の6人
  05/20京華堂書店が原真一郎の『舶来乞食』を発行する【原霞外?】
     1910(明治43)12/23発売頒布を禁止する処分を受ける
  05/22也奈義書房が岩本無縫篇の『煩悶記』を発行する
     内容は藤村操が生き延びて書いたとする偽書
     藤村は自殺未遂ののち下山、海賊船で世界をめぐりパリで悟りを開く。それまでのことを原稿にまとめて知人に託す
     05/24発売頒布を禁止する処分を受ける
  05/28平民書房が熊谷千代三郎の『海外より見たる社会問題』を発行する
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  05/31「新兵諸君に与ふ」筆禍事件の被告山口孤剣が大審院で軽禁錮8か月、罰金100円を言い渡される
     「新兵諸君に与ふ」は大杉栄の訳で1906(明治39)11月25日発行『光』第28号に掲載
     フランスの無政府主義の週刊新聞『ラナルシィ』に掲載の反軍国主義の論文
     山口は「父母を蹴れ」筆禍事件で入獄中。そのまま引き続きの在獄となる
     1908(明治41)06/18山口孤剣がすべての刑期を終え宮城監獄を放免される
     「貧富の戦争」「新兵諸君に与ふ」「父母を蹴れ」の筆禍事件
  05/和歌山の麻生津鉱山で労働者が暴動を起こす
  06/01大阪平民社より『大阪平民新聞』が創刊される
     森近運平が大阪で『滑稽新聞』を発行していた宮武外骨から5千円の資金の提供を得て創刊。直接行動派の社会主義新聞
     宮武は「自分は社会主義者という訳ではないが、極端なる社会主義は政府を恐喝(きょうかつ)するの用に適す」と称し援助
     発行所/上福島町3の185の大阪平民社、印刷所/岩城印刷所、発行/月2回
     発行兼編集人/森近運平、印刷人/南不●(穴の下に瓜が2つ)夫
     定価/1部5銭、12部前金・半年55銭、24部前金・1年1円5銭
     体裁/菊倍判、紙幅/縦=約31糎弱、横=約22糎強、頁建/原則16頁
     11/05第11号で『日本平民新聞』と改題
     1908(明治41)05/05第23号の付録の『労働者』第4「農民のめざまし」収録の3編が秩序壊乱の罪に問われる
     山川均「百姓はなぜ苦しいか」、堺利彦「貧乏人と金持の喧嘩」、原霞外「血まつり」
     発行兼編集人の森近が新聞紙条例違反に。秩序紊乱として起訴される
     05/07夜、森近が曽根崎署に拘引
     05/08森近が堀川監獄に送られる
     05/14午前9時、大阪地方裁判所刑事第2部で公判が開廷。検事は禁錮と発行停止処分を申請
     05/19発行並びに編集人として森近に合計60円の罰金の判決が下る。体刑と発行禁止は免れることに
     05/202ページの「休刊の号外」を発行し暫時休刊の旨を発表
     大阪平民社を閉じ本社を東京府下淀橋町柏木926番地の山川均宅に移す
     のち森近は病気で紀伊国新宮町の大石誠之助方へ転地保養することに
     のち同志の経済的ひっ迫により同紙の再起はならず
  06/02片山潜、西川光次郎のほか神崎順一、斎藤兼次郎、赤羽一、吉川守圀が社会新聞社より『社会新聞』を創刊
     議会政策派の機関紙で社会政策主義の傾向。社会主義の中央機関として
     発行所/神田三崎町3の1日本大学裏の片山潜宅 社会新聞社、発行/週刊
     定価/1部3銭5厘、20部前金65銭(税共)
     体裁/四六倍判、頁建/8頁
     のち断続的に発行
     のち「愛国的平民主義」の名に隠れて命脈を維持
     1908(明治41)04/25田添鉄二の死により第43号より月刊となる
     1911(明治44)08/03第80号で廃刊となる
  06/02『大阪平民新聞』『社会新聞』の発行で軟派と硬派の分別が顕著にあらわれる
     軟派…(社会新聞)片山潜、西川光次郎、神崎順一、斎藤兼次郎、赤羽一、田添鉄二ほか
     硬派…(大阪平民新聞)幸徳秋水、堺利彦、森近運平、山川均、大杉栄、荒畑寒村ほか
  06/02『社会新聞』が主催の「社会主義研究会」が毎週開かれることに
  06/04〜09別子銅山の鉱夫約200人が待遇問題に対する不平から大挙、暴動を起こす
     兇器をたずさえ、鉱業所、社宅、消防屯所などを襲撃、火を放ち鎮撫につとめる警官を殺傷
     事態が重大化し丸亀の歩兵第43連隊から1個中隊を派兵して鎮定する
  06/05『滑稽新聞』第140号から森近運平の論説が掲載される
  06/05金尾文淵堂が木下尚江の『霊か肉か 上篇』を発行する
     1908(明治41)01/04梁江堂が木下尚江の『霊か肉か 下篇』を発行する
     1908(明治41)05/04梁江堂が木下尚江の『霊か肉か 上篇』を発行する
     1910(明治43)09/14金尾文淵堂版の上篇、梁江堂版の下篇と上篇が発売頒布を禁止する処分を受ける
  06/10荒畑寒村が『社会問題辞典』取材のため田中正造を同道、谷中村を訪ねる
     田中正造から谷中村についての書を著わすことを懇請される
     06/23『社会新聞』第4号5ページに荒畑寒村の「谷中村を訪ふの記」が掲載される
  06/15山川均が『大阪平民新聞』第2号12〜13ページに「別子銅山騒擾事件の教訓」を発表する
  06/16『社会新聞』第3号1ページに「暴動の原因」が掲載される
  06/16片山潜が『社会新聞』第3号4ページに「団結と罷業の自由」を発表する
  06/20松尾卯一太、新見卯一郎が中心となり『熊本評論』が創刊される
     タブロイド8ページで月2回刊の新聞。発行所は熊本評論社。発行兼編集人は新見卯一郎
     松尾卯一太、新見卯一郎のほかには田村次夫、松岡貞三などがいた
     1908(明治41)09/20赤旗事件の報道などで筆禍を受け赤刷りの第31号をもって終刊に
     【1908(明治41)07/20第27号に赤旗事件の14人を救援する寄付金募集のアピールが新聞紙条例に問われる
      08/17被告の松尾に罰金80円、『熊本批評』は発行禁止に】
  06/23片山潜が『社会新聞』第4号1ページに「労働者向上の途」を発表する
  06/25片山潜、田添鉄二の2人名義で「日本社会平民党」を届出る
     幸徳秋水になんら相談することもなく届出る
     憲法の範囲内に於て社会主義を主張し、労働者の当然享受すべき権利の拡張を図る穏健なもの
     06/27禁止となる
  06/25西川光次郎らが「日本社会党」を届出るが禁止となる
  06/25うしほ会が添田武子(唖蝉坊)の『魔風』を発行する。即日、発売頒布を禁止する処分を受ける
  06/29栃木県当局が谷中村残留民16戸に対して警官200余人を動員
     遊水池を建設する名目で強制立ち退きを執行、強制破壊を開始
     木下尚江が来村
  06/大杉栄が新聞紙条例違反で入獄
  06/『家庭雑誌』の発行人が、大杉栄、堀保子夫妻から平民書房の熊谷千代三郎にかわる
     「家庭雑誌」は1903(明治36)朝報社在社中の堺利彦が由分社から創刊
     08/第5巻10号の全54冊で廃刊になる
     1909(明治42)04/大杉の妻堀保子が「家庭雑誌」を復刊する
  07/01『大阪平民新聞』第3号1ページ掲載の「更に一歩を進めよ」が筆禍に
  07/011906(明治39)3月31日の鉄道国有法の施行をうけて、全国的な鉄道網を官設鉄道に一元化するため私鉄を国有化
     九州鉄道(門司〜八代、鳥栖〜長崎、他)、北海道鉄道(函館〜小樽)
     08/01京都鉄道(京都〜園部)、阪鶴鉄道(尼崎〜福知山)、北越鉄道(直江津〜新潟)
     09/01総武鉄道(両国橋〜銚子)、房総鉄道(千葉〜大原)、七尾鉄道(津幡〜矢田新)、徳島鉄道(徳島〜船戸)
     10/01関西鉄道(名古屋〜湊町、加茂〜大阪、王寺〜和歌山、他)、参宮鉄道(津〜山田)
  07/07田添生が『社会新聞』第6号1ページに「第二平和会」を発表する
  07/11岡山の吹屋銅山、愛媛の西ノ川銅山でストライキが起きる
  07/11〜13岡山の吉岡鉱山で賃上げストが起きる
  07/15『大阪平民新聞』第4号1ページに「憲法遵守の拒絶」が掲載される
  07/15森近運平が『大阪平民新聞』第4号4〜5ページに「大阪巡航会社の亡状」を発表
     08/01第5号4ページ、08/20第6号4ページにも続けて掲載
     のち大阪平民社の森近と小野木守一、百瀬晋が治安警察法違反で拘引、起訴される
     10/21大阪地裁で森近に重禁錮1か月、罰金3円の判決
     のちただちに控訴
     1908(明治41)02/17大阪控訴院で重禁錮15日、罰金2円に減刑
     のち大阪監獄に下獄
     入獄に際し発行人変更の手続きをとらず10円の罰金刑を受けることに
  07/18夕張炭鉱で紛議とストライキが起きる。26人が解雇に
  07/21長岡の新聞記者が発起人となり片山潜が越後長岡遊説を行なう
  07/27時局諷刺週刊誌『団団珍聞』がこの日発売の号で一時休刊に
     「団団珍聞」は1877(明治10)2月25日に広島出身の士族野村文夫が、東京神田雉子町31番地に団団社を設立し創刊
     「団団珍聞」は「まるまるちんぶん」と読む。通称「団珍(まるちん)」
     のち月刊誌として復活する
     1908(明治41)1月号で終刊となる
  07/28平民書房が持原皿山の『弱者』を発行する
     1910(明治43)09/09発売頒布を禁止する処分を受ける
  07/28片山潜が『社会新聞』第9号4ページに「職工の待遇問題」を発表する
  08/01山川均が『大阪平民新聞』第5号1ページに「社会政策と社会主義鎮圧(上)」を発表する
     08/20『大阪平民新聞』第6号11ページに「社会政策と社会主義鎮圧(下)」を発表する
  08/01宇都宮地方裁判所で足尾暴動事件の公判はじまる。南助松に対して審問が行なわれる
     被告は暴動を煽動したとされた大日本労働至誠会のメンバー
     08/02公判で永岡鶴蔵に対する審問が行なわれる
     09/07宇都宮地方裁判所休暇部裁判長判事の宮本力之助が判決を言い渡す
     足尾騒擾事件の第1審判決。南、永岡以下8人は無罪に。他22被告に1〜12年の有期刑の判決が下る
     8人は井守伸午、林小太郎、山本利一郎、國本浅五郎、大谷由太郎、山中金五郎、山本久吉、山口榮太郎
     裁判では至誠会が暴動を示唆したとする検察の主張は認められず
     暴動が発展した直接のきっかけは、飯場頭による労働者側への挑発
     のち検事が控訴する。永岡、南、井守、林、山本など首魁、教唆者の身柄が東京に移される
     12/14控訴院公判がはじまる
  08/01〜10東京九段下のユニテリアン教会で議会政策派と直接行動派が連合で社会主義に関する夏期講習会を開く
     【ユニバサリスト教会?】
     毎晩7時からの3時間。発起人は片山潜。聴講料は1回10銭、10回分80銭
     「社会主義倫理学」幸徳秋水
     「社会主義の歴史」田添鉄二
     「社会の起源」堺利彦
     「社会主義の経済学」山川均
     「ストライキの話」西川光次郎
     「労働組合運動の歴史」片山潜
     議会政策派、直接行動派が協同で開催するも都合よく会合を利用しようと競い合い、両派の離間を広げるだけに
  08/05隆文館が幸徳秋水訳のレオ・ドウヰッチ著『革命奇談 神愁鬼哭』を発行する
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  08/06森近運平が大阪の堀川監獄を出獄し上京。森近の歓迎会をかねた懇親会が淀橋十二社の梅林亭で開かれる
     午後1時開会、田添鉄二、幸徳秋水、森近が廊下の手すりにもたれ挨拶
     参集の同志は庭で会費7銭の折詰弁当を食べる。弁天池で泳いだり滝に打たれたり、辺りを散歩したり
     吉見写真店主の厚意で一同の記念撮影をして散会に
  08/11金尾文淵堂が堺利彦の『婦人問題』を発行する
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  08/11片山潜が『社会新聞』第11号6ページに「労働問題の発達」を発表する
  08/18加藤時次郎がシュトゥットガルトで開催中の第二インターナショナルに日本代表として参加。〜8月24日
     加藤時次郎はヨーロッパの医療事情の視察中
     現実的な社会改良主義の必要性を痛感して帰国
  08/19英国独立労働党の党首ケアー・ハーディ(51)が世界漫遊の途上に来朝【07/18?、08/21?、08/22?】
     旧知の片山潜の案内で新聞社などを訪ねる
     08/22日本の社会主義者100余人集まり、午後2時から神田錦輝館で両派合同の歓迎会を開く【150人?】
     田添鉄二が歓迎のあいさつを述べ、席上1時間半に及ぶ演説を行なう。通訳は片山潜
     幸徳秋水、山川均、幸徳千代子、堺真柄、深尾韶、野沢重吉、荒畑寒村、守田有秋、渡辺政太郎、椎橋重吉、
     藤田貞治、堀保子、堺為子、福田英子、管野すが、岡千代彦、幸内久太郎、逸見斧吉、安中逸平、堺利彦、
     宇都宮卓爾、片山潜、富藤某、添田平吉、築比地仲助、西川光次郎、柴田三郎、田添鉄二ら
     のちハ翁は野沢重吉の俥で鮫ケ橋の貧民窟や鐘ケ淵の工場などを観察。堺と片山宅でそれぞれ1泊
     09/05幸徳秋水は『大阪平民新聞』第7号8ページの「東京の社会運動(第1信)」のなかで反対意見を述べる
     「ハーディの演説に賛成したわけではない」と反論
  08/20議会政策派(軟派)の片山潜、田添鉄二、西川光次郎らが「社会主義同志会」を結成【08/28?、08/31?】
     「我々は萬国社会党の主義綱領に則って進ものなる事」をあらためて宣言
     硬派と事実上の分裂、別行動の意志を明らかにする
     毎週日曜日に研究会を開き、出版や全国遊説のプランを立てる
     メンバーは赤羽、渡邊、幸内、野沢、神崎、西川、片山、藤田(四郎)、田添、座間、斎藤、松崎、吉川ら
     のち「金曜会」とのあいだに絶えず分派争いが繰り返される
     のち西川が本郷に住み新聞社から本郷団と呼ばれるようになる
     対して硬派の「金曜会」は堺利彦が淀橋柏木に住み柏木団と呼ばれる
  08/20『大阪平民新聞』が紙上で「唱歌」を募集する
     08/20第6号13ページに「唱歌を募る」、09/05第7号1ページに「唱歌募集」
     選者は幸徳秋水、堺利彦、深尾韶の3人、懸賞はなし
     1908(明治41)01/01『大阪平民新聞』第15号11ページに入賞3作を発表
     応募は10数作。選者は幸徳、深尾が病のため故郷に帰り堺のみ
     入賞は城山の「白雨下る」、岳南生の「赤旗」、築比地仲助の「革命の歌」
     「革命の歌」には一部伏せ字あり
     のち「革命の歌」を掲載した理由で発売禁止に
     のち禁止になったことで逆に、こぞってうたわれるようになる
     「革命の歌」は第一高等学校寮歌「ああ玉杯」の節にはめてうたわれる
  08/2520才の荒畑寒村が平民書房から処女作となる『谷中村滅亡史』を刊行【08/26?】
     四六版、並製。本文174頁(口絵写真1葉・序文9頁・目次3頁)。定価35銭
     即日、発売頒布を禁止する処分を受ける
  08/288月29日に同志出版会が発行する深尾韶の『車夫諸君に申す』が発売頒布禁止の処分を受ける
  08/30〜09/10兵庫の生野銀山でストライキが起きる
  08/31在京支那学生社会主義の講習会に幸徳秋水が出席
  08/野沢重吉、片山潜、西川光次郎の3人が発起人となり老俥夫救済会を組織、反対運動をはじめる
     55歳以上の老俥夫の鑑札を警視庁が取り上げるのに反対するもの
     老人が牛馬のように働いている姿は見るに堪えないとして営業禁止令を10月15日から実施するもの
     吉川守圀の宿所を事務所としてチラシを作成
     08/30第1回老車夫問題演説会が開催される
     野沢、西川らが演説
     のち警視庁はその非を悟り庁令を撤回。老俥夫の勝利となる
  09/01長岡遊説の成功に気をよくした『社会新聞』が第14号2ページで全国遊説の計画を発表
     「吾等は全国各地に向って社会主義遊説の必要を感じ、明年より向ふ二三年間吾等の主力を遊説に注がんと決心した」
     1908(明治41)06/15『社会新聞』第45号5ページに片山潜が「全国の同志に訴ふ」を書く
     「遊説にては到底主義伝道の望み」はないとの結論に達し「貴重なる時間と多大なる運動費を要する遊説」は一時中止と訴える
  09/05幸徳秋水が『大阪平民新聞』第7号8ページに「東京の社会運動(第1信)」(8月23日記)を発表する
     「ハーディの演説に賛成したわけではない」と反対意見を述べる
     09/20『大阪平民新聞』第8号2ページに「東京の社会運動(第2信)」(9月12日記)を発表する
     10/05『大阪平民新聞』第9号1ページに「東京評論(第3信)」(9月25日記)を発表する
     10/20『大阪平民新聞』第10号9ページに「東京評論(第4信)」(10月13日記)を発表する
     11/05『大阪平民新聞』第11号5ページに「東京評論(第5信)」(10月22日記)を発表する
  09/06直接行動派(硬派)の幸徳秋水、山川均、堺利彦らにより「金曜会」が組織される
     メンバーは堺、幸徳、山川、守田、宇都宮、佐藤、戸恒、森岡、坂本、荒畑、竹内(善)、大杉ら
     のち「社会主義同志会」とのあいだに絶えず分派争いが繰り返される
     のち堺利彦が淀橋柏木に住み新聞社から柏木団と呼ばれるようになる
     対して軟派の「社会主義同志会」は西川光次郎が本郷に住み本郷団と呼ばれる
  09/08『社会新聞』第15号1ページに無政府主義を批判する片山潜の「社会主義鄙見る(上)」が発表される
     09/15続けて第16号4ページに「社会主義鄙見る(下)」が発表される
  10/02〜12片山潜が「脳を使うな」との医師のすすめで伊豆の温泉に静養する
  10/09電車運賃値上げ反対運動の兇徒聚衆事件に対する第1回控訴公判が東京控訴院第3法廷で開かれる
     藤沼裁判長に係り金子検事立ち会いで開かれる。深尾韶を除くいずれもが出廷
     10/11第2回控訴公判
     10/18第3回控訴公判。裁判長が転任のため開廷せず
     10/21第4回控訴公判
     10/30第5回控訴公判。傍聴席には足尾銅山の鉱毒事件を告発した田中正造の姿も
     11/13第6回控訴公判
     11/25東京控訴院の2審裁判が再び無罪判決を言い渡す
  10/18金曜講演会第6回の例会が病気静養のため帰郷する幸徳秋水の送別会に。90人が集まる盛大な別れの会に
     硬派の同志はもとより軟派の片山潜、田添鉄二も顔を見せる
     また中国の革命家の張継、インドのス・ホーレスなども出席
          ↓同じ? べつ?↓
     10/20病気静養のため帰郷する幸徳秋水の送別会が神田の吉田屋で開催
      片山潜が私情を離れ出席、送別の辞を述べる
  10/20森近運平が『大阪平民新聞』第10号4ページに「通俗講話 労働者の誤解」を発表する
  10/25共同出版組合が西川光次郎の『ケヤ、ハーデーの演説』を発行する
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  10/27病気療養を理由に幸徳秋水が母多治、妻千代子を連れ故郷の高知中村に帰省
     のち富山、大阪、別府に立ち寄り中村に着いたのは11月24日
     のち赤旗事件や内閣の総辞職から新内閣成立にいたる状況下、次々に上京を促す手紙が舞い込む
     1908(明治41)07/21単身、中村を発つ
     のち7月25日に和歌山県新宮町。8月12日に箱根大平台林泉寺を訪ねる
     08/14幸徳秋水が岡野辰之助の名を借り守田有秋の旧宅、豊多摩郡淀橋町柏木926番地に住み平民社とする
  10/28日高有倫堂が田岡嶺雲の『霹靂鞭』を発行する
     10/30発売頒布を禁止する処分を受ける
  10/片山潜が『万国社会党』を刊行
  10/隆文館が白柳秀湖の『離愁』を発行する
  10/堺利彦が有楽社と『平民科学』6冊の叢書の発行を取りつける。全巻翻訳もの
     麹町有楽町3の1の有楽社を同叢書の発行所に。四六版200ページほどで定価は1冊30銭
     有楽社は北沢楽天の漫画雑誌東京パックの発行所でも
     11/第1編は堺利彦の「人間発生の歴史」
     12/第2編は山川均の「植物の精神」
     1908(明治41)06/05第3編は堺利彦の「男女関係の進化」
     06/第4編は山川均の「動植物の道徳」
     08/第5編は志津野又郎の「地球の生滅」
     08/第6編は大杉栄述、堺利彦編の「万物の同根一族」
     1910(明治43)09/03堺利彦の第3編「男女関係の進化」が発売頒布を禁止する処分を受ける
  11/03桑港の邦人社会主義者により組織する「社会革命党」『暗殺主義』第1巻第1号を発行
     ビラはタブロイド版ミネオクラフ印刷
     内容は「日本皇帝睦仁君足下に与う」と題した明治天皇への公開質問状
     天皇は神ではないサルの子孫であると説き起こす
     檄文の起草は社会革命党員竹内鉄五郎で小成田恒郎が教唆、岩佐作太郎や倉持善三郎も関係
     桑港日本領事館の正面玄関のポーチ、オークレーやバークレーの日本人街の学校、銀行、集会所などに貼りだす
     のちアメリカ社会党の機関紙『コール』に全文が掲載
     のちビラはさまざまなルートから日本内地の社会主義者にも密送される
  11/03社会主義同志会大会で「従来より執り来りたる万国社会党の主義綱領を以て進むものなること」を宣言
     あわせて「あらゆる無政府主義的傾向」に反対する
  11/03平民書房が相沢●(熈の左上がノでなくン)の『ガボン長老自叙伝』を発行する
     1910(明治43)09/06発売頒布を禁止する処分を受ける
  11/05森近運平が大阪で1907(明治40)6月1日に創刊した『大阪平民新聞』が第11号で『日本平民新聞』と改題
     1908(明治41)05/05第23号の付録の『労働者』第4「農民のめざまし」収録の3編が秩序壊乱の罪に問われる
     山川均「百姓はなぜ苦しいか」、堺利彦「貧乏人と金持の喧嘩」、原霞外「血まつり」
     発行兼編集人の森近が新聞紙条例違反に。秩序紊乱として起訴される
  11/05堺利彦と幸徳秋水が連名で『日本平民新聞』第11号10〜11ページに「社会新聞と小生等との関係」を発表
  11/11由分社が堺利彦の『社会主義大意 附社会主義書類一覧』を発行する
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  11/12片山潜が主筆となる『渡米』が創刊される
  11/17『社会新聞』第25号の発行で社会主義運動の軟派硬派の分裂が決定的なものになる
     田添鉄二が2ページに「社会党・無政府党 分裂の経過」を発表する
     片山潜が3ページに「自然の結果(幸徳 堺両君と予の立場)」を発表する【本紙では5ページ(まちがい)】
     西川光次郎が4ページに「幸徳、堺両氏に答え、併せて其の弁明を求む(上)」を発表する
     5ページに「幸徳、堺両氏に答え、併せて其の弁明を求む(下)」が載る
  11/20禄亭生が『日本平民新聞』第12号5ページに「ストライキ論」を発表する
  11/20山川均が『日本平民新聞』第12号から「通俗講話 同盟罷工の話」の連載を開始
     11/20第12号4ページ(1)、12/05第13号4ページ(2)、12/20第14号4ページ(3)
     1908(明治41)01/01第15号4ページ(4)、01/20第16号4ページ(5)
     1908(明治41)01/20『日本平民新聞』第16号まで5回にわたり連載
  11/20鶏声堂が堺利彦と森近運平の共著『社会主義綱要』を発行する
     序 第1章 社会の経済的基礎 第2章 生産方法の変遷 第3章 現代経済論 第4章 社会主義の主張
     第5章 社会主義と農業 第6章 社会主義と婦人 第7章 社会主義富者(付・中等社会)
     第8章 社会主義と国際戦争 第9章 社会主義の反対論 第10章 社会主義略史 第11章 社会主義運動の現状
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  11/22在京社会主義者有志の協議会が分派問題に関して片山、西川派と幸徳、堺派の感情的な対立反対を決議する
  11/25電車運賃値上げ反対運動の兇徒聚衆事件に対する東京控訴院の2審裁判が、再び無罪判決を言い渡す
     のち検事局河村善益検事長は控訴院での無罪判決を不当としてさらに上告。大審院は検事局の不当請求を認め受理
     1908(明治41)01/28大審院第1号法廷で開廷される。判決は次回に持ち越しに
  11/28原霞外と信州傍陽村出身の半田一郎が長野遊説を行なう
     11/30この日まで
  12/05西川光二郎、添田唖蝉坊の2人が東北、北海道の遊説へ。午後7時35分の汽車で上野を出発
     各所で演説会を催す
     12/11夜6時半開会。会場は青森青港館、来会者100余人
     添田「何故に困るものが殖へる乎」、西川「國力の發展と平民階級」
     12/12夜開会。会場は青森青港館、来会者90余人
     添田「社會雜感」、西川「成功主義を評す」「東北振興策に就て」
     12/17夜6時開会。会場は函館弁天町弁天亭、来会者100余人
     添田「國民の生活状態」「凾館の物價騰貴に就て」、西川「國力の發展と平民階級」「凾館の社會問題」
     12/18夜9時半閉会。会場は函館新蔵前勉強亭、来会者120余人
     添田「金の世か人の世か」、西川「社會腐敗の原因」を2回
     12/19夜2時間半にわたり開会。会場は函館鶴岡町錦亭、来会者不明
     添田「遊説所感」「アキラメ道徳」、西川「何故に困るものが殖へる乎」「社會主義は何人にも必要なり」
     12/24倶知安では警察が干渉し会場を得ることができず
     12/29夜6時開会。会場は札幌亭、来会者300余人うち50人くらいは農学校の学生
     貴志忠憲の開会の辞、添田が進歩と貧困を演じ、碧川朝日は八錢になつたを談り、
     ふたたび貴志が高利貸しと社會主義に就ての辨、西川が社會腐敗の原因を論じて小休止
     竹内余所次郎の演説奇なるかな現社會、西川による引き続いての演説を終え、10時に閉会
     1908(明治41)01/04夜6時開会。会場は小樽壽亭、吹雪のなか来会者150人
     碧川、添田、西川が演説。添田は演歌「わからない節」をうたう。客のなかには石川啄木の姿も
     01/08夜6時開会。会場は旭川倶楽部、来会者350余人
     吉田●(王偏に幾)の開会の辞、中島包州、添田、馬塲奏次郎、廣瀬無端、石井武峰、西川の順に各1席ずつ演説、閉会は10時半に
     01/09夜6時開会。会場は旭川倶楽部、来会者200余人
     吉田●(王偏に幾)、杉本沖濤、中島包州、添田、石井武峰、西川の順に演説、10時に閉会
     のち遊説の途中、東京での急用のため予定を変更し急きょ帰京する。理由は東京で起きた片山潜の暴挙
     幾春別、幌内、夕張、室蘭、弘前、盛岡、佐沼、仙台ほかの開催をとりやめ
     01/13午後7時、上野に着く
  12/14足尾暴動事件で煽動したとされた大日本労働至誠会のメンバーの控訴院公判が東京はじまる
     12/16控訴院公判で永岡に対する尋問が行なわれる
     1908(明治41)02/08控訴院が控訴破棄の判決。控訴公判で無罪判決。永岡鶴蔵は1年ぶりに出獄
     検察が上告する
  12/22片山潜、鈴木楯夫らが「平民協会」の届を提出する
     労働者をして労働組合を組織せしめ、以てその経済的独立を図り、国家産業の基礎を強固にすることを努める
     12/25禁止となる
  12/22第1回「日本社会政策学会」大会が開催される
  12/宮下太吉が大阪で『日本平民新聞』を主宰する森近運平を訪ねる
     社会主義文献を読みはじめていた宮下が日本の天皇制に疑問を感じ反逆を志すきっかけに
  12/幸徳秋水が『経済組織の未来』を秘密出版する
  宮下太吉、高木伴助ら名古屋亀崎鉄工場職工100人が友愛義団を結成する
     1908(明治41)01/18片山潜、鈴木楯夫を招き演説会を開催、来会者350人
  内村鑑三が『基督教と社会主義』を刊行

1908(明治41)

  西川光次郎の留守中。赤羽一が片山潜の論文にケチをつけ添削、激論となる
     01/片山はにわかに赤羽に退社を命じる
     01/13東北、北海道遊説の途にある西川光次郎が急きょ帰京
     のち片山は小石川久堅町の光円寺に病臥中の田添鉄二と密議
     01/30片山宅に西川を招き「赤羽と手を切り片山、西川、田添の三頭政治で雑誌をやろう」と提議
     のち西川は条理を尽くして片山に反省を促すも頑として聞かず
     02/16社会主義同志会会合が開かれ、会合の席上、全員一致で会長格の片山潜の除名を可決
  01/01『大阪平民新聞』第15号11ページで募集していた「唱歌」の入賞3作を発表する
     募集は前年8月20日発行の第6号13ページ、9月5日発行の第7号1ページ
     応募は10数作。選者は3人のうち幸徳秋水、深尾韶が病のため故郷に帰り堺利彦ひとり
     入賞は城山の「白雨下る」、岳南生の「赤旗」、築比地仲助の「革命の歌」
     「革命の歌」には一部伏せ字あり
     のち「革命の歌」を掲載した理由で発売禁止に
     のち禁止になったことで逆に、こぞってうたわれるようになる
     「革命の歌」は第一高等学校寮歌「ああ玉杯」の節にはめてうたわれる
  01/01片山潜が『社会新聞』第31号1ページに「天下の労働者諸君に告白す」を発表する
  01/04昨年12月5日からはじまった西川光二郎、添田唖蝉坊の2人が東北、北海道の遊説の続き
     夜6時開会。会場は小樽壽亭、吹雪のなか来会者150人
     碧川、添田、西川が演説。添田は演歌「わからない節」をうたう。客のなかには石川啄木の姿も
     1908(明治41)01/08夜6時開会。会場は旭川倶楽部、来会者350余人
     吉田●(王偏に幾)の開会の辞、中島包州、添田、馬塲奏次郎、廣瀬無端、石井武峰、西川の順に各1席ずつ演説、閉会は10時半に
     1908(明治41)01/09夜6時開会。会場は旭川倶楽部、来会者200余人
     吉田●(王偏に幾)、杉本沖濤、中島包州、添田、石井武峰、西川の順に演説、10時に閉会
     のち遊説の途中、東京での急用のため予定を変更し急きょ帰京する。理由は東京で起きた片山潜の暴挙
     幾春別、幌内、夕張、室蘭、弘前、盛岡、佐沼、仙台ほかの開催をとりやめ
     1908(明治41)01/13午後7時、上野に着く
  01/04片山潜と鈴木楯夫が東海道遊説を行なう
     竜王、飯野、甲府、日下部、鰍沢、静岡、江尻、明島、亀崎、半田、名古屋、岐阜、田原、三倉の14市町村
     16回の演説を開き聴衆約3200人を集める
     01/25この日まで
  01/04梁江堂が木下尚江の『霊か肉か 下篇』を発行する
     もとは1907(明治40)6月5日に金尾文淵堂が木下尚江の『霊か肉か 上篇』を発行
     1908(明治41)05/04梁江堂が木下尚江の『霊か肉か 上篇』を発行する
  01/10木下尚江の『良人の自白』上巻、中巻、下巻が梁江堂より刊行
     1909(明治42)06/01続巻が刊行
     1910(明治43)09/13発禁処分となる
  01/12添田竹子、西川文子、島勝子らが社会主義婦人講演会を開催する
  01/17夜、本郷区元町【弓町?】の平民書房で第20回金曜会演説会が開かれる
     堺利彦が2階の窓から顔をだし演説、次いで山川均、大杉栄が演説
     演説を終えると階上で「富の鎖」をうたいだす。平民書房の前は黒山の人だかりに
     屋上からこもごも街上の群衆に演説。これが無届屋外集会となり、解散の命令も応じず
     定例のような臨監の警官から解散を命じられ憤慨し応じず。警察側は警官を動員、野次馬も集まる
     多勢の警官隊が群衆を追い散らしながらやってくる
     窓から首をだして演説をするのは屋外集会として、中止解放を命じられる
     路上に飛び出した堺利彦らはいっせいに検挙。屋上演説会事件
     堺利彦、山川均、大杉栄、森岡栄治、竹内善作、坂本清馬の6人が検挙される
     同夜、本郷警察署へ拘引
     のち治安警察法違反の罪に問われ、警視庁を経て東京監獄に押送
     のちそれぞれが1か月ないし1か月半の禁錮に処せられる
  01/18宮下太吉、高木伴助ら名古屋亀崎鉄工場職工100人が結成した友愛義団が演説会を開催
     片山潜、鈴木楯夫を招く。来会者350人
  01/20『日本平民新聞』に連載していた山川均の「通俗講話 同盟罷工の話」が第16号で最終回に
     1907(明治40)11月20日発行の第12号4ページ(1)、12月5日発行の第13号4ページ(2)、
     12月20日発行の第14号4ページ(3)、1908(明治41)1月1日発行の第15号4ページ(4)、
     1月20日発行の第16号4ページ(5)で最終回
  01/23藤田四郎が『社会主義一名くらしを楽にする法』を発行する。発行所は不明
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  01/28電車運賃値上げ反対運動の兇徒聚衆事件の裁判が大審院第1号法廷で開廷される。判決は次回に持ち越しに
     02/07大審院の第1刑事部裁判長鶴丈一郎は検事局の不当を是として上告を受理し前判決を破棄
     宮城控訴院に移し再審とすることに
     03/25被告党員のうち、山口義三が巣鴨監獄を出立。上野駅をでる。26日には小山警察署に1泊
     「貧富の戦争」「新兵諸君に与ふ」「父母を蹴れ」の3つの筆禍事件で巣鴨の獄に
     03/27山口義三が宮城監獄分監に収監される
     03/31宮城控訴院での裁判が開廷の予定なるも、書類調査などの都合上、間に合わず延期に
     04/28開廷も延期となる
     05/18党員8人と松永敏太郎、鈴木高次ら党外の被告が、たくさんの同志に見送られ夜行列車で上野を発つ
     早朝仙台に到着し南町の堺屋に投宿
     西川光次郎、岡千代彦、吉川守圀、斎藤兼次郎、樋口伝、大杉栄、半田一郎、竹内余所次郎
     深尾韶は宮城控訴院での裁判前に病気を理由に退党。分離裁判で「今後社会主義運動と絶縁する」と誓い無罪に。郷里静岡へ
     05/19宮城控訴院での裁判がはじまる
  01/福田英子らが1907(明治40)1月1日に創刊した日本初の社会主義の女性新聞『世界婦人』が月刊となる
     1909(明治42)01/05経済的窮乏のため保証金を取り下げ新聞から学術雑誌に変更する
  02/01鶏声社が杉村広太郎の『七花八裂』を発行する
     1910(明治43)09/06発売頒布を禁止する処分を受ける
  02/05森近運平が『日本平民新聞』第17号4〜5ページに「通俗講話 ストライキと法律と警察」を発表する
  02/05守田有秋が『日本平民新聞』第17号8、14ページに「金曜講演迫害記」を発表する
     屋上演説事件の模様を堺利彦の演説とあわせて掲載
  02/05山川均が『日本平民新聞』第17号11ページに「平民協会の綱領を読む」を発表する
  02/08控訴院が足尾暴動事件の控訴を破棄する判決
     控訴公判で暴動を煽動したとされた大日本労働至誠会メンバーに無罪の判決。永岡鶴蔵は1年ぶりに出獄
     検察が上告する
     04/大審院は無罪を判決
  02/10校友会が宮本慶一郎の『校友会雑誌 第4号』を発行する
     03/18発売頒布を禁止する処分を受ける
  02/11日比谷公園で主催者不明の増税反対国民大会が開かれる
  02/12潮会が添田平吉の『警世諷俗わからない』を発行する
     08/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  02/16本郷金助町31番地の西川光次郎宅で社会主義同志会会合が開かれる。同志30人のうち25人が出席【02/06?】
     斎藤兼次郎、幸内久太郎、櫻井松太郎、野沢重吉、藤田四郎、添田平吉、渡邊政太郎、牧野新一、松崎源吉、
     西川光二郎、岡千代彦、大脇直寿、赤羽一、村田四郎、西村久蔵、高木平蔵、吉川守圀、樋口伝、加山助男、
     坪井隆吉、堀尾友治、渋井福太郎、谷田徳蔵、藤田貞二、神崎順一
     会合の席上、全員一致で会長格の片山潜の除名を可決
     「片山潜氏の性格は社会主義者として有るまじき点少なからず、氏の行動は将来吾党の運動に
     多大の妨害を与うるものを認め茲に氏を社会主義同志会より除名する事を決議す」
     のち『社会新聞』は片山、田添鉄二、白鳥健らが続刊する
     03/15片山潜と別れた西川光次郎、赤羽一、斎藤兼次郎らは『東京社会新聞』を創刊
  02/17大阪平民社の森近運平が大阪控訴院で重禁錮15日、罰金2円に減刑される
     『大阪平民新聞』掲載の「大阪巡航会社の亡状」が治安警察法違反で起訴
     1907(明治40)7月15日発売の第4号4〜5ページ、
     8月1日発売の第5号4ページ、8月20日発売の第6号4ページに掲載
     大阪地裁では重禁錮1か月、罰金3円の判決を受けるも控訴し減刑される
     のち大阪監獄に下獄
     入獄に際し発行人変更の手続きをとらず10円の罰金刑を受けることに
  02/20大杉栄が『日本平民新聞』第18号1ページに「非軍備主義運動」を発表
     「非軍備主義運動」は『熊本評論』第15号より転載
  03/01田添鉄二が『社会新聞』第37号1ページに「全国の同志諸君へ」を発表する
  03/01片山潜が『社会新聞』第37号2ページに「自然の結果のみ」を発表する
  03/07普選国民大会が禁止される
  03/09東京小石川で借家同盟演説会が開かれる。片山潜、鈴木楯夫らが演説し80余人参加
  03/12藤田貞二が東部遊説を行なう
     03/15田添鉄二の死によりいったん帰京
     03/22鈴木楯夫が加わり再び千葉県下に東部遊説
     03/25この日まで
  03/15永岡鶴蔵が鉱夫組合を結成する
  03/15『社会新聞』第39号1ページに「吾徒今後の方針」が掲載される
     片山潜、田添鉄二、白鳥健の連名で3月14日の記
  03/15『社会新聞』第39号7ページに「鉱夫組合の趣旨」が掲載される
  03/15東京社会新聞社より『東京社会新聞』が創刊される
     片山潜と別れ再分裂した西川光次郎、赤羽一、斎藤兼次郎らが発行
     発行所/東京社会新聞社、印刷所/浩文社、発行/月3回(5の日)
     発行兼編集人/松崎源吉、14号〜赤羽一、印刷人/赤羽一、14号〜渡辺政太郎
     体裁=四六倍判、紙幅=週刊『平民新聞』などとほぼ同様、頁建/8頁
     定価/1部3銭5厘、20部前金60銭、50部前金1円60銭
     社員は他に松崎源吉、渡辺政太郎、添田平吉、岡千代彦、大脇直寿、吉川守圀ら20余人
     07/0315、6人ほどが編集部に集まり今後の方針を決定
     『東京社会新聞』を月1回5の日に発行にする。運動方針をなるべく着実穏健にするなど
     08/21発売頒布禁止の処分にあう
     09/15第15号に終刊の辞を掲げ自ら廃刊に
     10/08渡辺政太郎が主となり旧販売所で廃刊式が行なわれる
     斎藤兼次郎、藤田四郎、大脇直寿、谷田徳三、原真一郎、金子末吉、加藤重太郎、
     車隆三、堀尾友治、富山仙次郎、野沢重吉、須田直太郎、坪井隆吉が出席
  03/15『東京社会新聞』創刊号に赤羽の筆による長文「片山潜氏除名の顛末」が載る
     4ページに(上)、5ページに(下)
  03/19田添鉄二[1875(明治08)07/24生]が肺患で32年8か月のみじかい生涯をとじる
     小石川久堅町の光円寺の一室にて
     7才年上の妻幸枝と満5才にみたない長男一、1才9か月の次男明が残される
     04/05論敵となる幸徳秋水が『日本平民新聞』第21号2ページに「田添鉄二君を悼む」を発表
     その死を愛惜する
  03/20森近運平が『日本平民新聞』第20号1ページに「社会新聞派の分裂を評す」を発表
     社会主義軟派内での片山派と西川派の分裂を批判
     「日本社会主義運動に一大汚点を記したる者なりと言うに躊躇せざるなり」と述べる
     社会主義同志会からの片山潜の除名、『社会新聞』から『東京社会新聞』の分立
  03/31好文館が好文館編輯所、池亨吉のトルストイ伯著『露西亜革命ノ意義』を発行する
     04/24発売頒布を禁止する処分を受ける
  04/03両毛同志大会第2回大会が栃木県佐野町で開催。山川均、大杉栄、田中正造ら35人が参加
  04/03大阪平民社が大滝寅太郎の1枚ものの『平民はやり歌第1集 嗚呼金の世』を発行する
     05/04『平民はやり歌』第1集から第3集まですべて発売頒布を禁止する処分を受ける
  04/03大阪平民社が大滝寅太郎の1枚ものの『平民はやり歌第2集 嗚呼わからない』を発行する
     05/04『平民はやり歌』第1集から第3集まですべて発売頒布を禁止する処分を受ける
  04/03大阪平民社が大滝寅太郎の1枚ものの『平民はやり歌第3集 平民ラッパ節』を発行する
     05/04『平民はやり歌』第1集から第3集まですべて発売頒布を禁止する処分を受ける
  04/10好文館が和田三郎、池亨吉のトルストイ伯著『民権之帰趣』を発行する
     04/21発売頒布を禁止する処分を受ける
  04/25週刊の『社会新聞』が田添鉄二の死により第43号より月刊となる
     『社会新聞』は社会新聞社より1907(明治40)6月2日に創刊される
     1911(明治44)08/03第80号で廃刊となる
  04/25西川生が『東京社会新聞』第5号4ページに「土地の公有(上)」を発表する
     05/05『東京社会新聞』第6号4ページに「土地の公有(下)」を発表する
  04/28相愛社が田添鉄二の『近世社会主義史』を発行する
     1910(明治43)09/13発売頒布を禁止する処分を受ける
  04/上野沢らが東京老車夫救済会を結成
  05/02片山潜らが浦賀でメーデー演説をする。聴衆は浦賀船渠職工ら600人
  05/03山川均が1枚ものの『社会主義とは何でしやう乎』を発行する。発行所は不明
     05/04発売頒布を禁止する処分を受ける
  05/04梁江堂が木下尚江の『霊か肉か 上篇』を発行する
     もとは1907(明治40)6月5日に金尾文淵堂が木下尚江の『霊か肉か 上篇』を発行
     1908(明治41)1月4日に梁江堂が木下尚江の『霊か肉か 下篇』を発行
     1910(明治43)09/14金尾文淵堂版の上篇、梁江堂版の下篇と上篇が発売頒布を禁止する処分を受ける
  05/05中央新声会が添田平吉の『社会の燈』を発行する
     08/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  05/05山川均が『日本平民新聞』第23号1ページに「農村と革命(両毛大会に於ける講演)」を発表する
  05/05『日本平民新聞』第23号の付録の『労働者』第4「農民のめざまし」収録の3編が秩序壊乱の罪に問われる
     山川均「百姓はなぜ苦しいか」、堺利彦「貧乏人と金持の喧嘩」、原霞外「血まつり」
     発行兼編集人の森近が新聞紙条例違反に。秩序紊乱として起訴される
     森近運平が大阪で1907(明治40)6月1日『大阪平民新聞』を創刊、同年11月5日に第11号で『日本平民新聞』と改題
     05/07夜、森近が曽根崎署に拘引
     05/08森近が堀川監獄に送られる
     05/14午前9時、大阪地方裁判所刑事第2部で公判が開廷。検事は禁錮と発行停止処分を申請
     05/19発行並びに編集人として森近に合計60円の罰金の判決が下る。体刑と発行禁止は免れることに
     05/202ページの「休刊の号外」を発行し暫時休刊の旨を発表
     大阪平民社を閉じ本社を東京府下淀橋町柏木926番地の山川均宅に移す
     のち森近は病気で紀伊国新宮町の大石誠之助方へ転地保養することに
     のち同志の経済的ひっ迫により同紙の再起はならず
  05/09片山潜、鈴木楯夫、藤田貞二の3人が全国遊説を試みる
     三重、奈良、大阪、京都、石川をすすむが、警察の干渉、弾圧により演説会を開いたのは最初の四日市のみ
     05/20資金がつき帰京
  05/15高畠素之が中心となり群馬県を本拠地に『東北評論』を創刊【08/?】
    「上州新報」記者の遠藤友四郎の他、築比地仲助、茂木一次、阿部米太郎の群馬県人に長野県から新村忠雄が参加
     のち第3号まで発行
  05/15『平民新聞』の編集兼発行人として入獄していた石川三四郎が出獄。福田英子の家に同居する
     1907(明治40)3月27日発行の『平民新聞』第59号1ページ掲載の「父母を蹴れ」で筆禍事件。4月25日に入獄
  05/19電車運賃値上げ反対運動の兇徒聚衆事件に対し、宮城控訴院での裁判がはじまる
     05/21第2回公判
     結審時間間際、弁護士鵜澤聰明が入廷。事件当時の被告の意志を、明確に確認するように求める
     さらに1891(明治24)年に起きた、大津事件での裁判所のまれにみる対応など、3時間にわたる大弁論を展開
     裁判長や判検事一同は首をたれ謹聴し、被告らに深い感銘を与える
     06/06予告していた判決の言い渡しが引き延ばされる。延期の原因は判事の意見の対立とうわさされる
     06/13宮城控訴院が最終判決をくだす。それまでの無罪判決が一転し、それぞれに有罪の判決が言い渡される
     西川光二郎が重禁錮2年。岡千代彦、吉川守圀、山口義三、樋口伝、大杉栄、松永敏太郎の6人が重禁錮1年6か月
     斎藤兼次郎、半田一郎、竹内余所次郎、増山伝吉の4人が罰金10円、鈴木高次が重禁錮6か月で執行猶予2年
     06/15『東京社会新聞』第15号が第1ページ目に有罪判決の記事を置く
     07/046月22日の「赤旗事件」を理由に兇徒聚衆事件の保釈が取り消され拘引される
     07/14宮城控訴院の有罪判決を不当として上告裁判が行なわれる
     花井、鵜沢、今村、高木、新井、久保田、信岡、渡邊、井本の9弁護士が立ち宮城控訴院判決文の不備不当を弁駁
     07/17大審院は上告を却下しそれぞれに判決が確定、刑に服することになる
     07/26東京監獄の都合で西川光次郎、松永敏太郎、岡千代彦、山口義三、樋口伝が千葉監獄に移される
  05/24うしほ会が添田平吉の1枚もの『社会主義早わかり 平民の目さまし』を発行する
     08/24発売頒布を禁止する処分を受ける
  05/25鈴木楯夫が『社会新聞』第44号7ページに「五月一日」を発表する
  05/30石川三四郎出獄歓迎会が開かれる。西川光次郎一派が主催し上野の三宜亭で開催
     西川をはじめ赤羽厳穴、片山潜、田添鉄二、高島米峰、永岡鶴蔵、南助松ら40余人が出席
     堺利彦一派の幸徳秋水、大杉栄、荒畑寒村、山川均らは出席せず
     高島は「石川君の同じ友人であり同志である堺君等がこの席に列らないのは甚だ淋しい。
     議論は議論として、このような場合には皆な一同に会して共同の友を迎えたらどうだ」
     06/20斎藤兼次郎、石川三四郎が吉川守圀を訪ねる
     「山口君の歓迎会は両派合同で開いたらどうか。両方別々に開くのも費用損だし、
     山口は分派以前から入獄しているのだから、別々に歓迎会を開かれても当人も疲れていることだし迷惑だろう」
     06/22同罪で入獄していた山口孤剣の出獄歓迎会が石川三四郎を発起人として開かれる
  05/末山川均が大須賀里子と結婚する
     1913(大正02)05/大須賀里子と死別する
  05/管野すがと荒畑寒村の仲が冷え、一時別居
     2人は1906(明治39)12月に堺利彦の仲介で結婚
  06/05巌子が『東京社会新聞』第9号1ページに「女子諸君に告ぐ」を発表する
  06/05有楽社が『平民科学』6冊の叢書のうち堺利彦の第3編「男女関係の進化」を発行する。全巻翻訳もの
     麹町有楽町3の1の有楽社を同叢書の発行所に。四六版200ページほどで定価は1冊30銭
     有楽社は北沢楽天の漫画雑誌東京パックの発行所でも
     第1編は堺利彦の「人間発生の歴史」を1907(明治40)11月に発行
     第2編は山川均の「植物の精神」を1907(明治40)12月に発行
     06/第4編は山川均の「動植物の道徳」
     08/第5編は志津野又郎の「地球の生滅」
     08/第6編は大杉栄述、堺利彦編の「万物の同根一族」
     1910(明治43)09/03堺利彦の第3編「男女関係の進化」が発売頒布を禁止する処分を受ける
  06/05新思潮社が石巻良夫の『経済史論第1編 原始的共産制』を発行する
     1910(明治43)09/06発売頒布を禁止する処分を受ける
  06/08添田平吉が『社会党喇叭節』を発行する。発行所は不明
     08/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  06/15『社会新聞』第45号5ページに片山潜が「全国の同志に訴ふ」を書く
     「遊説にては到底主義伝道の望み」はないとの結論に達し「貴重なる時間と多大なる運動費を要する遊説」は一時中止と訴える
     1907(明治40)9月1日の『社会新聞』第14号2ページでは全国遊説の計画を発表
  06/15『東京社会新聞』第10号3ページに「社会主義と職業」が発表される
  06/15新社会発行所の島中雄三が『新社会 第1号』を発行する。即日、発売頒布を禁止する処分を受ける
  06/15欧友会が峯岸正夫の『欧友 第10号』を発行する
     06/18発売頒布を禁止する処分を受ける
  06/18山口孤剣が「貧富の戦争」「新兵諸君に与ふ」「父母を蹴れ」の筆禍事件のすべての刑期を終え宮城監獄を放免される
     06/19午前9時半、上野着の汽車で無事帰京。出迎えの同志70余人が集まる
     出迎えの西川光次郎は山口を人力車に乗せ東京社会新聞社へ
     残った同志は「山口君歓迎」「社会主義」「革命」などと書かれた旗を先頭に革命家をうたいながらデモ行進
     下谷署の警官と小ぜりあいに
  06/22山口孤剣の出獄歓迎会が神田錦輝館で開催。赤旗事件が起こる
     歓迎会の発起人は野沢重吉、斎藤兼次郎、石川三四郎、幸内久太郎
     会場は上野公園内の三宜亭が下谷署に邪魔され、付近の東花亭に借り換えるが駄目に。そこで神田錦輝館に
      1907(明治40)3月27日の『平民新聞』第59号1ページに論文「父母を蹴れ」が掲載
      安寧を乱すものとして執筆者の山口孤剣が投獄。新聞紙条例違反で1年2月の禁錮刑を受け入獄、その出獄記念
      山口は「父母を蹴れ」で3か月、「貧盲の戦争」で1か月半、大杉栄の「新兵諸君に与ふ」で8か月の刑
      歓迎会の発起人は同罪で入獄し5月30日に出獄していた石川三四郎
     午後1時、開会。会場には70余人の盛況に
     発起人代表として石川が開会の辞。次いで西川と堺が双方を代表し歓迎の辞を述べる
     継いで山口が来会の同志に沈痛な一場の謝辞を述べる。そして有志者寄付の余興に
     伊藤痴遊が講演「来島恒喜談」、寺尾彭が薩摩琵琶で「大塔ノ宮吉野落」、端山静得が同じく薩摩琵琶で「川中島」と続き
     木島正道が剣舞「捨児行」を終え「本能寺」の「敵在備中汝能備」のとき
     宇都宮卓爾、村木源太郎、佐藤悟らが叫びながら場内片隅の旗をふり駈けまわる
     西川光次郎、赤羽一ら議会政策派本郷団の同志は静粛に着席したまま
     旗をふり駈けまわる直接行動派柏木団の同志は階段をおり戸外へ
     そのまま同志が街なかで白文字で無政府と書かれた赤布の旗を掲げる
     大杉栄、荒畑寒村、宇都宮卓爾らは革命歌「富の鎖」をうたいはじめる
     警戒中の警察官が注意。突然50人の警官があらわれる
     警官隊と社会主義者との間で乱闘がはじまる。結果、警察官や巡査らに負傷者がでて、社会主義者14人が拘束される
     とめに入った堺利彦、山川均も拘束
     荒畑寒村(22)、宇都宮卓爾(26)、大杉栄(24)、村木源次郎(20)、佐藤悟(26)、
     徳永保之助(20)、森岡栄治(24)、百瀬晋(19)、山川均(29)、堺利彦(39)
     ほか女性4人。大須賀里子(27)、管野すが(28)、小暮礼子(19)、神川松子(23)
     官吏抗拒罪と治安警察法違反で起訴される
     のち神田署内留置場の板壁に「一刀両断天王首 落日光寒巴黎城」の落書きが発見される
     佐藤悟が嫌疑を受け不敬罪に。冤罪の可能性
     08/15上京翌日の幸徳秋水が公判廷を訪ねる
     08/29午前11時、東京控訴院で官吏抗拒罪の罪名で赤旗事件の判決が言い渡される
     大杉は重禁錮2年6か月・罰金25円、前刑1年6か月通算。堺、山川、森岡は重禁錮2年、罰金20円
     荒畑、宇都宮は重禁錮1年6か月、罰金15円。佐藤、村木、百瀬、徳永、大須賀、小暮は重禁錮1年、罰金10円
     徳永、小暮、大須賀は執行猶予5年。管野、神川は無罪
     加えて佐藤は落書事件の冤罪で不敬罪にかかり重禁錮3年9か月、罰金150円に
     09/05東京監獄に収監されていた被告が1審で服罪。千葉監獄に移される
     のち山川は家の関係で、一度控訴
     まもなく控訴を取り下げて服罪
  06/24うしほ会が添田平吉の『我利我利盲者』を発行する
     08/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  06/25山口孤剣が『東京社会新聞』第11号5ページに獄中作の「病囚苦語」を発表する
  07/02福田武三郎が1枚ものの『社会主義』を発行する。発行所は不明
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  07/03東京社会新聞社より創刊された『東京社会新聞』の15、6人ほどが編集部に集まり今後の方針を決定
     『東京社会新聞』を月1回5の日に発行にする。運動方針をなるべく着実穏健にするなど
     07/25赤羽一が『東京社会新聞』第13号(入獄記念号)1ページに「社会党入獄史」を発表する
     のち新聞紙条例にふれ赤羽が軽禁錮2か月、発行人の松崎源吉が軽禁錮4か月の判決を受ける
     08/21発売頒布禁止の処分にあう
     09/15第15号に終刊の辞を掲げ自ら廃刊に
     10/08渡辺政太郎が主となり旧販売所で廃刊式が行なわれる
     斎藤兼次郎、藤田四郎、大脇直寿、谷田徳三、原真一郎、金子末吉、加藤重太郎、
     車隆三、堀尾友治、富山仙次郎、野沢重吉、須田直太郎、坪井隆吉が出席
  07/06山口孤剣が電車運賃値上げ反対運動の兇徒聚衆事件に対する上告を取り下げ東京監獄に入獄する
     07/26千葉監獄に押送される
     1909(明治42)年中、山口孤剣は千葉監獄において刑に服する
     1910(明治43)01/03山口孤剣が満期出獄。両国駅で同志の出迎えを受ける
  07/09堺タメ子が1枚ものの『社会主義 女の身の上』を発行する。発行所は不明
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  07/09堺タメ子が1枚ものの『社会主義』を発行する。発行所は不明
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  07/10照文堂が木下尚江の『小説 乞食』を発行する
     1910(明治43)09/14発売頒布を禁止する処分を受ける
  07/11東京青年苦学会が五島鯨波の1枚ものの『警世風俗 あきらめ 続篇壱号』を発行する
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  07/14第1次西園寺公望内閣が赤旗事件をきっかけに総辞職する
     第1次西園寺公望内閣は1906(明治39)1月7日に成立
     それまでの官僚桂内閣にかわる政友会内閣の政策として穏健進歩的な社会主義政党が公認される
     西園寺内閣の総辞職により第2次桂太郎内閣が成立する
     社会主義に対する弾圧が極めて厳しくなる
     演説に対しては中止、解散、会場謝絶を強化。出版物は発売禁止にするなど裁判、罰金責めに
     新たに第2次桂太郎内閣が成立する
     のち社会主義運動は非合法活動になる
  07/17電車運賃値上げ反対運動の兇徒聚衆事件に対し、大審院は上告を却下
     それぞれに判決が確定、刑に服することになる
     西川光二郎が重禁錮2年。岡千代彦、吉川守圀、山口義三、樋口伝、大杉栄、松永敏太郎の6人が重禁錮1年6か月
     斎藤兼次郎、半田一郎、竹内余所次郎、増山伝吉の4人が罰金10円、鈴木高次が重禁錮6か月で執行猶予2年
  07/20土佐中村で静養中の幸徳秋水が赤旗事件を知り『熊本評論』第27号に論評「南海評論」を発表
  07/21幸徳秋水が単身、中村を発つ
     赤旗事件や内閣の総辞職から新内閣成立にいたる状況下、次々に上京を促す手紙が舞い込んだため
     07/25和歌山県新宮町の大石誠之助を訪ねる。8月8日まで
     官憲によって「大逆陰謀の発端」とされる
     08/12箱根大平台林泉寺を訪ねる
     08/14幸徳秋水が岡野辰之助の名を借り守田有秋の旧宅、豊多摩郡淀橋町柏木926番地に住み平民社とする
  07/23隆文館が白柳秀湖著、伊藤元治郎編の『鉄火石火』を発行する
     1910(明治43)12/11発売頒布を禁止する処分を受ける
  07/25赤羽一が『東京社会新聞』第13号(入獄記念号)1ページに「社会党入獄史」を発表する
     のち新聞紙条例にふれ赤羽が軽禁錮2か月、発行人の松崎源吉が軽禁錮4か月の判決を受ける
     08/21発売頒布禁止の処分にあう
  08/01真人界発行所の井伏太郎が『真人道 第63号』を発行する
     08/05発売頒布を禁止する処分を受ける
  08/10東京青年倶楽部の添田平吉の1枚もの『警世諷俗わからない 附あきらめ賦詩』が発売頒布を禁止する処分を受ける
     [1907(明治40)02/12刊]
  08/14幸徳秋水が高知中村から上京
     岡野辰之助の名を借り守田有秋の旧宅、豊多摩郡淀橋町柏木926番地に住み平民社とする
     09/30平民社が豊多摩郡巣鴨村大字巣鴨2040番地へ移転【09/31?】
     1909(明治42)03/18平民社が豊多摩郡千駄ケ谷町903番地へ移転、管野すが、新村忠雄が平民社に住み込む
     官憲が幸徳宅前の道路の両側にテントを張り日夜尾行巡査が詰めることに
     1910(明治43)03/22平民社が解散。幸徳と管野が湯河原へ向かう
  08/15上京翌日の幸徳秋水が赤旗事件の公判廷を訪ねる
  08/26愛媛の別子鉱山付近の住民煙害問題で鉱山事務所へおしかける
  08/29赤旗事件の判決が言い渡される
     大杉栄は重禁錮2年6か月・罰金25円、前刑1年6か月通算。堺利彦、山川均、森岡栄治は重禁錮2年、罰金20円
     荒畑寒村、宇都宮卓爾は重禁錮1年6か月、罰金15円
     佐藤悟、村木源次郎、百瀬晋、徳永保之助、大須賀里子、小暮礼子は重禁錮1年、罰金10円
     加えて佐藤は落書事件の冤罪で不敬罪にかかり重禁錮3年9か月、罰金150円に
     徳永保之助、小暮礼子、大須賀里子は執行猶予5年。管野すが、神川松子は無罪
     禁錮刑の被告は東京監獄に逮捕入獄。 幸徳らの「大逆事件」に関連した取調べを受けるが弾圧は免れることに
     09/05東京監獄に収監されていた被告が千葉監獄に移される
     1910(明治43)02/上荒畑が宇都宮とともに出獄
     08/29赤旗事件の被告山川均が出獄、倉敷に帰郷【09/27?】
     09/22堺が出獄
     09/大杉が千葉監獄から東京監獄に移される
     11/29大杉が出獄
  08/29赤旗事件で無罪となった管野すがが執拗に警察の尾行にあう
     のち「毎日電報」を馘となる
     1909(明治42)02頃/持病の肺結核がすすみ幸徳秋水の経済的援助に頼り鎌倉の寺に転地療養する
  09/079月5日発行『世界婦人』第28号4ページに掲載の革田命作の「最初の敵」が新聞紙条例第33号違反に
     社会秩序の紊乱を理由に発売禁止、告発される
     1909(明治42)05/11編集兼発行人の神崎順一に罰金100円の判決
  09/13夜、夏目漱石の「吾輩は猫である」のモデルの三毛猫が死ぬ
     モデルになった猫は漱石37歳の年に夏目家に迷い込んで住みつく
     猫の墓をたて一句を添える。親しい人達に猫の死亡通知をだす
  09/15東京社会新聞社より創刊された『東京社会新聞』が第15号1ページに「終刊之辞」を掲げ自ら廃刊に
     創刊は1908(明治41)3月15日
     10/08渡辺政太郎が主となり旧販売所で廃刊式が行なわれる
     斎藤兼次郎、藤田四郎、大脇直寿、谷田徳三、原真一郎、金子末吉、加藤重太郎、
     車隆三、堀尾友治、富山仙次郎、野沢重吉、須田直太郎、坪井隆吉が出席
  09/15木下尚江が『東京社会新聞』第15号3ページに「廃刊を祝す」を発表する
  09/159月20日に世界婦人社が発行する石川三四郎の『虚無の霊光』が発売頒布禁止の処分を受ける
     製本中に押収される
  09/20『熊本評論』赤旗事件の報道などで筆禍を受け赤刷りの第31号をもって終刊に
     『熊本評論』は1907(明治40)6月20日に松尾卯一太、新見卯一郎が中心となり創刊される
     【1908(明治41)07/20第27号に赤旗事件の14人を救援する寄付金募集のアピールが新聞紙条例に問われる
      08/17被告の松尾に罰金80円、『熊本批評』は発行禁止に】
  09/30平民社が豊多摩郡巣鴨村大字巣鴨2040番地へ移転【09/31?】
     1909(明治42)03/18平民社が豊多摩郡千駄ケ谷町903番地へ移転、管野すが、新村忠雄が平民社に住み込む
     官憲が幸徳宅前の道路の両側にテントを張り日夜尾行巡査が詰めることに
  09/嵩山房が田岡嶺雲・小川芋銭の『有声無声』を発行する
  10/20『滑稽新聞』第173号が「自殺号」と銘うち、「本誌受罰史」を4ページ掲載して廃刊に
     『滑稽新聞』は1901(明治34)1月に宮武外骨(35)が印刷業を営む福田友吉とともにを創刊
     10/24「自殺号」が発売停止処分を受ける
     11/03天長節のこの日、新たに『大阪滑稽新聞』を創刊する
  10/20栄江堂が木下尚江の『火の柱』を発行する
     これまでに1904(明治37)5月10日に平民社が平民文庫を、1906(明治39)7月20日に金尾文淵堂が発行する
     1910(明治43)09/03平民社平民文庫と金尾文淵堂と栄江堂の『火の柱』が発売頒布を禁止する処分を受ける
  10/23幌別鉱山で暴動がおきる
  11/03赤旗事件記念として『入獄記念 無政府共産 小作人はなぜ苦しいか』が出版される
     箱根太平台、林泉寺の内山愚童が秘密出版する
  11/10片山潜が『社会新聞』第49号8ページに「日本の社会主義者は何を要求すべきか」を発表する
  11/19新宮の大石誠之助が幸徳秋水を訪ねる
  11/20国民後援会が加藤清(内山愚童)の『帝国軍人 座右之銘』を発行する
     1909(明治42)07/16発売頒布を禁止する処分を受ける
  11/週刊『サンデー』が創刊される
     四六4倍判の大きさ。表紙つき20数ページの中綴じ、カラーページや写真や絵画を中心とするページもある
  12/02内山愚童の『入獄記念無政府共産』が発売頒布を禁止する処分を受ける。発行日、発行者ともに不明
  12/17新世紀8年2月15日に発行する(した?)秀湖原のマラテスタ著『無政府主義』が発売頒布禁止の処分を受ける
  12/24東京市会が1銭の電車賃値上げ案を可決
  12/26片山潜、石川三四郎らが電車賃値上げ反対第1回演説会を開催
     12/27、29同様に演説会を開催
  12/幸徳秋水がクロポトキンの『麺麭の略取』の翻訳を完成させ、全国の有志に予約出版の案内状を発送
     定価1円、予約者は80銭の前払い。1千部の限定出版で、予約の締切は1909(明治42)1月15日
     菊版本文366ページ、前書18ページ。訳者兼発行人は平民社、代表者は坂本清馬、印刷人は戸垣保三、印刷所は秀英社
     1909(明治42)01/末出版の届け出を提出
     01/29出版法第19条による発売頒布禁止、刻版並印本差押処分を以て警視庁が発売直前の巣鴨平民社で20部を差押え
     01/30自費で秘密出版
     03/09東京地裁で罰金30円を科せられる
  12/管野すがが幸徳秋水に心のうちを明かす「爆裂弾をつくって大逆罪を犯し大仕掛けの革命を起こしたい」
     幸徳は同意するも、同志のいない寂しさに大きな行き詰まりを背負う
  12/昭文堂が木下尚江の『墓場』を発行する
  時局諷刺週刊誌『団団珍聞』が1月号で終刊となる
     「団団珍聞」は1877(明治10)2月25日に広島出身の士族野村文夫が、東京神田雉子町31番地に団団社を設立し創刊
     「団団珍聞」は「まるまるちんぶん」と読む。通称「団珍(まるちん)」

1909(明治42)

  年中、西川光次郎、堺利彦、山川均、荒畑寒村、大杉栄らは獄中にあり
  年中、山口孤剣は千葉監獄において電車運賃値上げ反対運動の兇徒聚衆事件の刑に服する
     1910(明治43)01/03山口孤剣が満期出獄。両国駅で同志の出迎えを受ける
  01/02日本社会党同志の名で電車賃値上げ反対の市民大会が開かれる。数百人集まるが弾圧で流会に
  01/05日本初の社会主義の女性新聞『世界婦人』が経済的窮乏のため保証金を取り下げ新聞から学術雑誌に変更する
     『世界婦人』は福田英子らが1907(明治40)1月1日に創刊した日本初の社会主義の女性新聞
     1908(明治41)1月には月刊となる
     07/05第38号掲載の石川三四郎「墓場」、晩菫「我が野女」、添田生(添田義雄)「人生の目的」が筆禍発禁に
     新聞紙法違反で編集兼発行人の石川が裁判に問われ終刊に
  01/12東京明治座で高木益太郎、蔵原惟郭らの電車値上げ反対市民大会が開かれる。続いて値上げ反対大演説会が開催
     値上反対が決議される
  01/中旬土佐に残る幸徳秋水の妻千代子が上京
     03/上荊棘の道を進ますのは忍びないと幸徳は妻千代子と離別
  01/231月25日に社会主義青年団が発行する臼倉甲子造の『平民の友くらしを楽にする法』が発売頒布禁止の処分を受ける
  01/末幸徳秋水がクロポトキンの『麺麭の略取』を翻訳し出版の届け出を提出
     定価1円、予約者は80銭の前払い。1千部の限定出版で、予約の締切は1909(明治42)1月15日
     菊版本文366ページ、前書18ページ。訳者兼発行人は平民社、代表者は坂本清馬、印刷人は戸垣保三、印刷所は秀英社
     01/29出版法第19条による発売頒布禁止、刻版並印本差押処分を以て警視庁が発売直前の巣鴨平民社で20部を差押え
     01/30自費で秘密出版
     03/09東京地裁で罰金30円を科せられる
  02/15片山潜が『社会新聞』第52号1ページに「議会と労働者」を発表する
  02/宮下太吉が上京、巣鴨の平民社を訪ねる
     宮下は幸徳秋水に天皇を倒す決意を打ち明ける。幸徳は積極的に計画へ参加するとは言わず
     また、宮下は旧知の森近運平に相談するも計画参加を断られる
  02/管野すがは持病の肺結核がすすみ幸徳秋水の経済的援助に頼り鎌倉の寺に転地療養する
  03/01荊棘の道を進ますのは忍びないと幸徳秋水は妻千代子と協議離婚
  03/10幸徳秋水、松尾卯一太らが『平民評論』を発行する。月2回刊。発禁の連続に幾号も出ず倒れる【創刊号のみ?】
  03/18平民社が豊多摩郡千駄ケ谷町903番地(二子新町裏)へ移転、管野すが、新村忠雄が平民社に住み込む
     官憲が幸徳宅前の道路の両側にテントを張り日夜尾行巡査が詰めることに
     1910(明治43)03/22平民社が解散。幸徳と管野が湯河原へ向かう
  04/15ほのほ会が勝屋英造の『火柱 第2巻第4号』を発行する
     04/16発売頒布を禁止する処分を受ける
  04/28クロポトキン著『法律と強権』が発売頒布を禁止する処分を受ける。発行日、発行者、著者すべて不明
  04/大杉栄の妻堀保子が『家庭雑誌』を復刊する
     「家庭雑誌」は1903(明治36)朝報社在社中の堺利彦が由分社から創刊
     1907(明治40)8月に第5巻10号の全54冊で廃刊になっていた
     07/01第4号で発行停止、その幕を閉じる
  05/04東京フレンド倶楽部が渋井福太郎の1枚ものの『破棄余勢』を発行する
     1910(明治43)09/16発売頒布を禁止する処分を受ける
  05/06新聞紙法の成立により新聞紙条例が失効となる
     権力による新聞弾圧の意図が一層拡大、さらに統制が強化される
     新聞紙条例の成立は1875(明治08)6月28日
  05/07林泉寺住職の内山愚童が発行した『無政府主義 道徳非認論』が発売頒布を禁止する処分を受ける
     発行日、発行者はともに不明
  05/09谷田徳三が発行した1枚ものの『真に人類の幸福を計るものは何乎』が発売頒布を禁止する処分を受ける
     発行日、発行者はともに不明
  05/11『世界婦人』編集兼発行人の神崎順一に罰金100円の判決
     1908(明治41)9月5日発行『世界婦人』第28号掲載の革田命作の「最初の敵」が新聞紙条例第33号違反に
  05/25幸徳秋水が管野すがらと警視庁の警戒網を潜り『自由思想』を創刊する
     古河力作、村田四郎、戸恒保三、竹内善朔らの協力を得る
     発行は東京府下千駄ケ谷903の幸徳方
     新聞半切判4ページ、定価4銭、月2回刊。発行兼編集人は管野すが、印刷人は古河力作
     警察は政府の高圧的な社会主義取締方針に従い「幸徳などの書いたものは絶対に禁止する方針」
     発禁の連続に幾号も出ず倒れる
     06/10第2号が発行。即日差し押さえられる。廃刊となる
     発禁の理由のひとつに掲載された大石誠之助が無門庵主人の筆名で書いた「家庭破壊論」
     07/10第1号が新聞紙法違反で東京地裁から発行人兼編輯人の管野に各50円、計100円の罰金が言い渡される
     発行禁止に
     07/13『自由思想』の廃刊届を提出
     07/15平民社を家宅捜索、諸帳簿を押収し、病床の管野が拘引される
     08/10第2号の出版法違反で幸徳秋水に70円、管野に140円の罰金刑の判決が下る
     09/01東京地裁が『自由思想』を発禁後に頒布した罪で管野に罰金400円の判決。管野は保釈され平民社にもどる
     罰金は総計710円に
     09/06管野が控訴を申し立てる
     1910(明治43)04/15幸徳、管野が『自由思想』の件について控訴を取り下げる
     05/18管野が『自由思想』発禁の罰金が払えず換金刑に服するために入獄
  05/29林泉寺住職の内山愚童が発行した『来るべき革命ハ無政府共産』が発売頒布を禁止する処分を受ける
     発行日、発行者はともに不明
  06/05『貧乏人の福音』が発売頒布を禁止する処分を受ける。発行日、発行者、著者すべて不明
  06/07、08杉村楚人冠が『東京朝日新聞』に「幸徳秋水を襲う」を書く
  06/28東京フレンド倶楽部が岩田専助の1枚ものの『うき世』を発行する
     1910(明治43)09/06発売頒布を禁止する処分を受ける
  07/01家庭雑誌社の中原幸吉が『家庭雑誌 第6巻第4号』を発行する
     07/09発売頒布を禁止する処分を受ける
  07/05『世界婦人』第38号掲載の石川三四郎「墓場」、晩菫「我が野女」、添田生(添田義雄)「人生の目的」が筆禍発禁に
     『世界婦人』は福田英子らが1907(明治40)1月1日に創刊した日本初の社会主義の女性新聞
     1908(明治41)1月には月刊となる
     新聞紙法違反で編集兼発行人の石川が裁判に問われ終刊に
  07/11東京青年苦学会が五島鯨波の1枚ものの『警世風俗 四季の歌 壱号』を発行する
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  07/11東京青年苦学会が五島鯨波の1枚ものの『警世風俗 浮世』を発行する
     1910(明治43)09/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  07/16国民後援会の加藤清(内山愚童)著『帝国軍人 座右之銘』が発売頒布を禁止する処分を受ける
     [1908(明治41)11/20刊]
  07/17『赤旗記念 暴力と無政府主義』が発売頒布を禁止する処分を受ける。発行日、発行者、著者すべて不明
  07/18東京朝日新聞が豊多摩郡千駄谷の幸徳秋水の家が家宅捜索をうけたと報じる
     幸徳秋水主宰の平民社発行『自由思想』の内容が当局の忌諱に触れたことによる
  07/20学友会の杉山伊三郎が『学友会雑誌 第26号』を発行する
     07/27発売頒布を禁止する処分を受ける
  07/入獄中の荒畑寒村と内縁関係にあった管野すがと、幸徳秋水との恋愛問題が同志のあいだで物議をかもすことに
     在京の青年主義者のうち幸徳から離反する者が多くなる
     幸徳と管野は孤立状態に立つ
  07/黒白社がゴルキー著、田岡嶺雲訳の『三人』を発行する
  夏/片山潜が東洋経済新報に入社。働きながら運動を続ける
  08/01良友会が田島竜夫の『良友 第95号』を発行する
     10/05『良友 第96号』『良友 第97号』とともに発売頒布を禁止する処分を受ける
  08/11岐阜の神岡鉱山で暴動が起きる
  08/14管野すがが獄中から荒畑寒村に幸徳秋水との結婚通知をだす
     荒畑は「僕はここで謹んで秋水兄とアナタとの新家庭の円満、幸福ならんことを祈るのみです」と返事
  09/01東京地裁が『自由思想』を発禁後に頒布した罪で管野すがに罰金400円の判決。管野は保釈され平民社にもどる
     罰金は総計710円に
     09/06管野が控訴を申し立てる
     1910(明治43)04/15幸徳、管野が『自由思想』の件について控訴を取り下げる
  09/01保釈された管野すがは幸徳秋水、新村忠雄と天皇暗殺について協議
     10/上幸徳は奥宮健之に爆裂弾の製造法をたずねる。奥宮は友人の西内正基から聞きだし幸徳に伝える
     幸徳は新村に伝え、新村は宮下に伝える
     11/03宮下は爆裂弾の実験に成功する
  09/01良友会が田島竜夫の『良友 第96号』を発行する
     10/05『良友 第95号』『良友 第97号』とともに発売頒布を禁止する処分を受ける
  09/04ドイツの新聞記者ウエルト・ハイメルが千駄ケ谷の幸徳秋水を訪問
     ハイメルは幸徳と管野すがとの関係について質問すると、幸徳は管野はわが妻で、恋愛は自由であると答える
     日本の結婚制度の弊害について、また無政府主義運動と日本の現状について論じる
     09/05ハイメルからお礼の意味で菓子折が送られる。また写真が欲しいとの手紙がそえられる
     09/08幸徳秋水は管野すが、新村忠雄、福田武三郎、百瀬晋、村木源次郎を連れ小石川区大和町の吉見写真館へ
     記念撮影をする
  09/金尾文淵堂が白柳秀湖の『新秋』を発行する
  10/01良友会が田島竜夫の『良友 第97号』を発行する
     10/05『良友 第95号』『良友 第96号』とともに発売頒布を禁止する処分を受ける
  10/26伊藤博文がハルビン駅頭で暗殺される
  11/02室蘭の日本製鋼で暴動が起きる
  11/03爆裂弾の製法を研究した宮下太吉が明科の山奥、会田川沿いの通称継子落しで爆発の実験に成功する【11/10?】
     実行の時期を1910(明治43)の秋と決める
  11/新村忠雄や管野すがらは幸徳秋水を文筆の人であるとして意識的に宮下の計画から遠ざけるようにする
     幸徳秋水自身も心境の変化をきたし、ひそかに前線的な直接行動より身を引き、著述に専念する意を抱く
  12/01至人利真人道発行所の井伏太郎が『至人道 真人道 第95号』を発行する
     1910(明治43)01/19発売頒布を禁止する処分を受ける
  12/10遊星社が堀江定四郎の『小説 嗚呼九年 上』を発行する
     1911(明治44)01/14発売頒布を禁止する処分を受ける
  12/15文光堂の野口安治が『秀才文壇 第9巻第27号』を発行する
     12/17発売頒布を禁止する処分を受ける

1910(明治43)

  01/01宮下太吉が東京平民社を訪問。2つの空罐を持参
     幸徳秋水、管野すが、新村忠雄、宮下太吉は空罐をかわるがわるに投げて実験
     01/23管野すが、新村忠雄、古河力作の3人が天皇暗殺計画を協議
     天皇の馬車に対して誰がどう投げるかなど
     幸徳秋水は乗り気がせず不参加。暗殺計画から除外することに
     05/17管野、新村、古河が暗殺実行の順番をくじ引き
  01/01井伏太郎真人道発行所の井伏太郎が『井伏太郎 真人道 第96号』を発行する
     01/19発売頒布を禁止する処分を受ける
  01/03電車運賃値上げ反対運動の兇徒聚衆事件の被告山口孤剣が満期出獄。両国駅で同志の出迎えを受ける
  01/13明け方近く、吉川守圀が千葉監獄を満期出獄する
     門外には父と千葉警察署から差し向けの刑事が2人
     両国駅には同志数人が出迎える
  01/19片山潜、中村太八郎らが普通選挙協議会の開催を決定
     02/03片山ら12人が築地精養軒にて協議会を開催
  01/19至人利真人道発行所の井伏太郎の『至人道 真人道 第95号』が発売頒布を禁止する処分を受ける
     [1909(明治42)12/01刊]
  01/203日出獄の山口孤剣と13日出獄の岡千代彦、吉川守圀、樋口伝とともに出獄者歓迎新年宴会が開かれる
     みな電車運賃値上げ反対運動の兇徒聚衆事件の被告として入獄
  01/22東京控訴院で石川三四郎に禁錮4か月、罰金60円、『世界婦人』の発行禁止が言い渡される
     1909(明治42)7月5日発行の第38号掲載の石川「墓場」、晩菫「我が野女」、添田生「人生の目的」が筆禍発禁に
     『世界婦人』は福田英子らが1907(明治40)1月1日に創刊した日本初の社会主義の女性新聞
     1908(明治41)1月には月刊となる
     03/28筆禍事件の判決が確定し石川が入獄する
     07/28石川が出獄。福田英子の家に帰る。まもなく家宅捜索を受ける
  02/上赤旗事件で収監されていた荒畑寒村が宇都宮卓爾とともに出獄。入獄は1908(明治41)8月29日
     荒畑は入獄中に幾千足もの横鼻緒をつくるが監獄からの工賃は大枚1円数10銭に過ぎず
  02/05明道会の植松直信が『明道 第47号』を発行する
     02/25発売頒布を禁止する処分を受ける
  02/11京都電気鉄道会社の車掌、運転士が長時間労働の反対スト
  02/28片山潜らが田川大吉郎らの普選法案を議会に提出
     03/06呼応して上野精養軒で普通選挙大会を開催。300人
  03/07総人の至利真人道発行所の井伏太郎が『総人の至利 真人道 第121号』を発行する
     03/16発売頒布を禁止する処分を受ける
  03/13黒瀬春吉が『長編小説 沙漠(分本第1(前付))』を発行する。発行所は不明
     03/16発売頒布を禁止する処分を受ける
  03/22平民社が解散。家財を処分し東京を引きあげる幸徳秋水と管野すがが伊豆湯河原へ向かう
     伊豆湯河原温泉天城屋旅館に逗留
     友人小泉三申の勧告で『通俗日本戦国史』を執筆する
     歴史書『通俗日本戦国史』は全10巻、各巻1千ページ、編集経費約6千円という構想
     のち『通俗日本戦国史』の出版が頓挫。小島が出版資金をだせなくなる
     05/01管野が著作作業に従事しはじめた幸徳のもとを去る
  03/28石川三四郎が編輯兼発行人を務める『世界婦人』の筆禍により入獄
     1909(明治42)7月5日発行の第38号掲載の石川「墓場」、晩菫「我が野女」、添田生「人生の目的」が筆禍発禁に
     『世界婦人』は福田英子らが1907(明治40)1月1日に創刊した日本初の社会主義の女性新聞
     07/28石川が出獄
     福田英子の家に帰る。まもなく家宅捜索を受ける
  03/幸徳秋水が伊豆湯河原の天野屋旅館で高島米峰主宰の『新仏教』から依頼の「基督抹殺論」の執筆をはじめる
     11/20獄中で「基督抹殺論」を脱稿。堺利彦に出版を依頼する
     1911(明治44)02/01高島米峰主宰の丙午出版社より『基督抹殺論』が刊行する
     三宅雪嶺の序文は警察により掲載差し止め
     のちベストセラーに
  04/15幸徳秋水、管野すがが『自由思想』の件について控訴を取り下げる
     05/18管野が『自由思想』発禁の罰金が払えず換金刑に服するために入獄
     正午近い頃、管野は新村、渡邊、吉川とともに検事局へ
     管野はいつになく血色もよく極めて元気で銀杏返しに黒斜子の被布をつける
     午後4時半頃、裁判所の裏庭から監獄行きの馬車にのる管野を物陰から3人が見送る
     管野は「やあ今頃までここにいらして下さったのですか」
     400円と140円の刑のうち400円が払えず換刑のため労役場へ
     05/31管野はそのまま出獄することなく大逆事件で起訴
  04/27片山潜らが1907(明治40)設立の労働奨励会の後身として「労働倶楽部」をつくる
     【11/片山潜、藤田貞二、池田平右衛門らが「労働倶楽部」をつくる?】
     下谷の竜和泉寺で第1回演芸会を開く
     05/15倶楽部茶話会が開催
     06/18第2回茶話会が開催
  04/神近市子(22)が津田女子英語塾に合格
     神近は麹町に新居をかまえたばかりの竹下夢二と環夫人の厚意で階下に住む
  05/01管野すがが著作作業に従事しはじめた幸徳秋水のもとを去る
     2人は東京を引きあげ伊豆湯河原温泉天城屋旅館に逗留中
  05/09荒畑寒村が懐中に拳銃を忍ばせ、幸徳秋水、管野すがのいる伊豆湯河原温泉の天城屋旅館に向かう
     国府津館に1泊した翌日、天城屋を訪ねるも、2人は数日前に前後して帰京
  05/17管野すが、新村忠雄、古河力作の3人が天皇暗殺実行の順番をくじ引き
  05/20信濃明科の宮下太吉の部屋が捜索。ブリキ罐2個が押収される
     勤め先の製機所からも薬品や罐が発見される
     05/25告訴状がだされ、宮下が大逆事件最初の検挙者となり拘引される
     同日、新村忠雄、新村善兵衛も検挙される
  05/225月25日発行の赤羽一の『農民の福音』が発売頒布を禁止する処分を受ける
     菊半截判、仮装、共表紙、86ページ
     のち朝憲紊乱罪で著者の赤羽一が入獄
     1912(明治45)03/01千葉監獄で獄中死
  05/25宮下太吉、新村忠雄、新村善兵衛が逮捕
     05/28古河力作が東京から長野へ連行される
     05/31新田融が秋田から長野へ連行される
     幸徳伝次郎、新村忠雄、古河力作、管野すが(入獄中)、宮下太吉、新村善兵衛、新田融が予審請求される
     06/01幸徳伝次郎が逮捕される
     06/03新宮の大石誠之助らの家宅捜査
     06/05新宮の大石誠之助が予審請求される
     06/21岡山の森近運平が予審請求、逮捕される【06/11?】
     06/26成石平四郎が爆発物取締罰則で起訴
     06/27成石平四郎が逮捕
     06/27東京の奥宮健之が予審請求される
     07/07新宮高木顕明、峰尾節堂、崎久保誓一が予審請求される
     07/10成石勘三郎が予審請求される
     07/14成石平四郎が改めて大逆罪で予審請求される
     07/26坂本清馬が浮浪罪で拘留される
     08/03熊本の松尾卯一太(入獄中)、新見卯一郎、佐々木道元、飛松与次郎(入獄中)が予審請求される
     08/09東京の坂本清馬が予審請求される
     08/28大阪の武田九平、岡本頴一郎、三浦安太郎が予審請求される
     09/28神戸の岡林寅松、小松丑治が予審請求される
     10/18内山愚堂(入獄中)が予審請求される
  05/28吉川守圀のもとに幸徳秋水から手紙がとどく
     「運動をはじめたいと思うから適当の家を探してくれ。6月1日には上京する」意味のことが書かれる
  05/31検事総長が宮下太吉らの行動を刑法73条の大逆罪に該当すると判断
  06/01幸徳秋水が湯河原の天野屋旅館を出立した直後、東京の判検事一行に拘引される
     東京監獄に収容される。刑法第73条の罪として起訴
     刑法第73条(旧刑法第2篇第1章「皇室ニ対スル罪」)
     「天皇、大皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加エ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」
     07/29和歌山、岡山、熊本で社会主義者の逮捕あいつぐ
     08/21大阪で社会主義者の逮捕あいつぐ
     のち全国にわたる大捜索の結果、数百人の社会主義者が検挙される
     管野すが、宮下太吉、森近運平、新村忠雄、古河力作、新田融、新村善兵衛、奥宮健之、新見卯一郎、
     佐々木道元、飛松与次郎、内山愚堂、武田九平、岡本頴一郎、三浦安太郎、岡林寅松、坂本清馬、大石誠之助、
     成石平四郎、高木顕明、峰尾節堂、崎久保誓一、成石勘三郎、松尾卯一太、小松丑治の24人が縛につく
     のち全26人が起訴される
  06/02『夕刊やまと』が幸徳秋水の逮捕を伝える。逮捕後最初の報道
     「社会主義者の主領幸徳伝次郎一日正午相州湯ケ原天野屋において捕縛されたり。本事件の内容に至りてはもとより知るに
     由なしといえどもある種の社会主義的一大陰謀が発見せられたる結果なるがごとし。その策源地は遠く東京を距る数十里の
     山谷に在りといい、その関係範囲に至りてはすこぶる広大なるものありと伝う、はたして信か、事もし明らかなるの日に達
     せばおそらく現在の社会主義者は一網にして打尽せらるるに至らんか。吾人は今この警報を諸子に致すの義務なるを信ず。」
  06/02東亜堂書房が山路弥吉の『長思短言』を発行する。即日、発売頒布を禁止する処分を受ける
  06/03『牟婁新報』の毛利柴庵宅が大逆事件容疑で大石誠之助らの逮捕に関連して家宅捜査を受ける
     06/29ふたたび家宅捜査を受ける
  06/09『牟婁新報』に毛利柴庵の「家宅捜査大賛成論」が掲載される
     のち6月12日号、15日号、21日号と4回連載される
  06/14弘学館書店が木下尚江の『小説 火宅』を発行する
     09/06発売頒布を禁止する処分を受ける
  06/27片山潜らが南千住で社会主義政談演説会を開催【05/27?】
  07/01精美堂の大橋光吉が『ハガキ文学 第7巻第8号』を発行する
     07/05発売頒布を禁止する処分を受ける
  07/10広文堂書店が赤司繁太郎の『心霊私語』を発行する
     07/18発売頒布を禁止する処分を受ける
  07/15欧友会秀英会との間にクローズド・ショップ制が締結
  07/15北上屋書店の太田貞吉が『中学文壇 第294号』を発行する
     07/16発売頒布を禁止する処分を受ける
  07/17西川光次郎が出獄。電車運賃値上げ反対運動の兇徒聚衆事件で重禁錮2年の判決を受けた
     社会主義運動離脱を宣言し過去の仕事を完全に否定する。宗教、修養方面へ転向
     「心懐語」の執筆に入る。8月31日脱稿
     10/15新渡戸稲造の序文を得て警醒社書店が『心懐語』を発行【10/16?】
  07/20玄黄社が田岡佐代治の『病中放浪』を発行する。即日、発売頒布を禁止する処分を受ける
  07/22春陽堂が小山内薫の『笛』を発行する
     07/26発売頒布を禁止する処分を受ける
  07/28『世界婦人』の筆禍事件で3月28日に入獄した石川三四郎が出獄。入獄は同年3月28日
     福田英子の家に帰る。まもなく家宅捜索を受ける
     1909(明治42)7月5日発行の第38号掲載の石川「墓場」、晩菫「我が野女」、添田生「人生の目的」が筆禍発禁に
     『世界婦人』は福田英子らが1907(明治40)1月1日に創刊した日本初の社会主義の女性新聞
  08/02最高無上善真人道発行所の井伏太郎が『最高無上善 真人道 第136号』を発行する
     08/03発売頒布を禁止する処分を受ける
  08/10うしほ会の添田平吉著『新俗躰詩 嗚呼金の世』[1906(明治39)12/29刊]が発売頒布を禁止する処分を受ける
  08/11日本列島に近づいた台風が房総半島をかすめて太平洋へぬける
     そのとき各地に集中豪雨をもたらす。利根川、荒川水系の各河川は氾濫、各地で堤防が決壊
     死者・行方不明者数は1379人に。全壊・流出家屋約5千戸、床上・床下浸水約51万8千戸、堤防決壊7266か所
     東京では下町一帯が冠水して浅草寺に救護所がつくられる
  08/17横須賀の海軍工廠の工員紛争
  08/29赤旗事件の被告山川均が出獄、倉敷に帰郷【09/27?】
  08/29韓国併合に関する宣言を発表する。朝鮮総督府が設置される
     寺内統監が朝鮮総督に任命される
  09/01ほとゝぎす発行所の高浜清が『ホトヽギス 第13巻第14号』を発行する。即日、発売頒布を禁止する処分を受ける
  09/03社会主義のたくさんの文献が発売頒布を禁止する処分を受ける
     出版法第19条「安寧秩序ヲ妨害シ又ハ風俗ヲ壊乱スルモノト認ムル文書図画ヲ出版シタルトキハ
     内務大臣ニ於テ其ノ発売頒布ヲ禁シ其ノ刻印及印本ヲ差押フルコトヲ得」が適用される(以降の発禁も同じ)
     以下の一連の発禁は大逆事件に連動しての取り締まり
     幸徳秋水の『廿世紀之怪物 帝国主義』[1901(明治34)04/20刊]
     内外出版協会の西川光次郎著『社会党』[1901(明治34)10/16刊]
     西川光次郎の『人道の戦士社会主義の父カール・マルクス』
      中庸堂書店版[1902(明治35)04/10【04/18?】刊]
      平民社版[1904(明治37)09/刊]
      平民文庫版[1905(明治38)02/刊]
     平民社平民文庫の田添鉄二著『経済進化論』[1904(明治37)10/01刊]
     西川光二郎著の『英国労働界の偉人ジヨン・バアンス』
      労働新聞社版[1902(明治35)07/17刊]
      平民社平民文庫版[1905(明治38)03/24刊]
     片山潜の『社会講演』[1902(明治35)11/23刊]。発行所は不明
     西川光次郎の『富の圧制』
      社会主義図書部版[1903(明治36)04/27【04/30?】刊]
      平民社平民文庫版[1905(明治38)01/23【01/25?】刊]
     博文館のドン・ネリー著、磯野徳三郎訳『社会主義新小説 文明の大破壊』[1903(明治36)06/06刊]
     安部磯雄の『社会主義論』[1903(明治36)07/05刊]。発行所は不明
     社会主義図書部の片山潜著『我社会主義』[1903(明治36)07/08刊]
     鉄鞭社の山口孤剣(義三)著『破帝国主義論』[1903(明治36)12/05刊]
     警醒社書店の社会主義理想小説『社会小説 百年後之社会』[1903(明治36)12/31刊]
      著者はエドワード・ベラミー、平井広五郎の全訳。原名ルツキング、バツクワード
     平民社同人の編集による『社会主義入門』[1904(明治37)03/05刊]
     春陽堂の堺枯川著『労働問題』[1904(明治37)04/16刊]
     木下尚江の『火の柱』
      平民社平民文庫[1904(明治37)05/10刊]
      金尾文淵堂[1906(明治39)07/20刊]
      栄江堂[1908(明治41)10/20刊]
     平民文庫の幸徳秋水著『社会民主党建設者ラサール』[1904(明治37)09/01刊]
     平民社平民文庫の西川光二郎著『土地国有論』[1904(明治37)09/10刊]
     平民社同人の編集による『革命婦人』[1905(明治38)05/13【05/14?】刊]
     由分社の堺利彦著『通俗社会主義』[1905(明治38)12/15【12/17?】刊]
     由分社の堺利彦の1枚もの『社会主義』[1906(明治39)03/03刊]
     由分社の『社会主義の詩』[1906(明治39)04/11刊]。編集兼発行人は堺利彦
     由分社の堺利彦著『社会主義問答』[1906(明治39)04/14刊]
     平民舎の森近運平著『社会主義小話』[1906(明治39)05/23刊]
     社会主義研究所東海矯風団の添田平吉著『社会党喇叭節』[1906(明治39)06/08刊]
     東海矯風団の添田平吉著『社会燈』[1906(明治39)06/08刊]
     凡人社の山口義三著『革命家の面影』[1906(明治39)09/28刊]
     日本鉱山労働会の永岡鶴蔵著『足尾銅山ラッパ節』
      『足尾銅山ラッパ節 第1回』[1906(明治39)10/19刊]
      『足尾銅山ラッパ節 第2回』[1907(明治40)01/21刊]
     平民書房の久津見息忠【蕨村?】著『無政府主義』[1906(明治39)11/16刊]
     日本鉱山労働会の永岡鶴蔵著『坑夫に与ふるの書』[1906(明治39)11/28刊]
     小木曾助次郎の1枚もの『社会主義とはドンナもの』[1906(明治39)11/30刊]
     うしほ会の添田平吉著『新俗体詩 あゝ金の世』[1906(明治39)12/29刊]
     九州社会主義協会の野波鎮人著『社会主義とは何ぞ』[1907(明治40)02/07刊]
     昭文堂の木下尚江著『飢渇』[1907(明治40)04/05刊]
     うしほ会の添田平吉著『平民あきらめ賦詩』[1907(明治40)04/05刊]
     平民書房の熊谷千代三郎著『海外より見たる社会問題』[1907(明治40)05/28刊]
     隆文館の幸徳秋水訳のレオ・ドウヰッチ著『革命奇談 神愁鬼哭』[1907(明治40)08/05刊]
     金尾文淵堂の堺利彦著『婦人問題』[1907(明治40)08/11刊]
     共同出版組合の西川光次郎著『ケヤ、ハーデーの演説』[1907(明治40)10/25刊]
     由分社の堺利彦著『社会主義大意 附社会主義書類一覧』[1907(明治40)11/11刊]
     鶏声堂の堺利彦、森近運平著『社会主義綱要』[1907(明治40)11/20刊]
     藤田四郎の『社会主義一名くらしを楽にする法』[1908(明治41)01/23刊]
     有楽社の堺利彦著『平民科学題3編 男女関係の進化』[1908(明治41)06/05刊]
     福田武三郎の1枚もの『社会主義』[1908(明治41)07/02刊]
     堺タメ子の1枚もの『社会主義 女の身の上』[1908(明治41)07/09刊]
     堺タメ子の1枚もの『社会主義』[1908(明治41)07/09刊]
     東京青年苦学会の五島鯨波の1枚もの『警世風俗 あきらめ 続篇壱号』[1908(明治41)07/11刊]
     東京青年苦学会の五島鯨波の1枚もの『警世風俗 四季の歌 壱号』[1909(明治42)07/11刊]
     東京青年苦学会の五島鯨波の1枚もの『警世風俗 浮世』[1909(明治42)07/11刊]
  09/03朝報社版と博文館、東京堂版の幸徳伝次郎著『社会主義神髄』が発売頒布を禁止する処分を受ける
     もとは1903(明治36)7月5日に朝報社が発行、11月15日に博文館、東京堂が発行する
     1910(明治43)09/13由分社版が発売頒布を禁止する処分を受ける
     由分社版は1905(明治38)11月17日に発行
  09/03平民文庫の1冊、ヰリアム・モリス原著、堺枯川抄訳の社会小説『理想郷』が発売禁止の処分を受ける
     1920(大正09)『百年後の世界』と合綴してアルス社より出版
  09/03木下尚江の『良人の自白』の平民社版(上、中)と由分社版(下)が発禁処分となる
  09/06社会主義のたくさんの文献が発売頒布を禁止する処分を受ける
     人文社の幸徳秋水著『長広舌』
      [1902(明治35)02/18【02/20?】刊]
      [1902(明治35)03/15刊]
     博文館の幸徳伝次郎著『兆民先生』[1902(明治35)05/31刊]
     東亜堂書房の加藤熊一郎著『瞑想雑感 朝思』[1906(明治39)03/22刊]
     東亜堂書房の加藤熊一郎著『瞑想雑感 朝思暮想』[1906(明治39)03/22刊]
     金尾文淵堂の山路弥吉著『社会主義管見』[1906(明治39)06/05刊]
     北輝次郎(一輝)の『純正社会主義の哲学(生物進化論より説明せる社会進化の理法及び理想)』[1906(明治39)07/13刊]
     平民書房の相沢●(熈の左上がノでなくン)著『ガボン長老自叙伝』[1907(明治40)11/03刊]
     鶏声社の杉村広太郎著『七花八裂』[1908(明治41)02/01刊]
     新思潮社の石巻良夫著『経済史論第1編 原始的共産制』[1908(明治41)06/05刊]
     東京フレンド倶楽部の岩田専助の1枚ものの『うき世』[1909(明治42)06/28刊]
     『将来の経済組織』。発行日、発行者、著者すべて不明
  09/06新思潮社の小山内薫が『新思潮 第1号』を発行する
     09/09発売頒布を禁止する処分を受ける
  09/09社会主義の文献が発売頒布を禁止する処分を受ける
     民雄社の石巻良夫著『労働運動の変遷』[1903(明治36)05/20刊]
     凡人社の西川光次郎著『普通撰挙の話』[1906(明治39)09/09刊]
     嵩山房の田岡佐代治著『壺中我観』[1906(明治39)03/06刊]
     新進書局の宮崎民蔵著『土地均享 人類乃大権』[1906(明治39)03/10刊]
     相隣社の川口清栄著『革新之一鞭』[1906(明治39)04/16刊]
     平民書房の持原皿山著『弱者』[1907(明治40)07/28刊]
  09/13木下尚江の『良人の自白』の金尾文淵堂版(上、中、下、続)と梁江堂版(上、中、下、続)が発禁処分となる
  09/13社会主義の文献が発売頒布を禁止する処分を受ける
     文学同志会の久松義典著『社会学講義』[1902(明治35)08/23刊]
     由分社の幸徳伝次郎著『社会主義神髄』[1905(明治38)11/17刊]
      1903(明治36)7月5日発行の朝報社版、11月15日発行の博文館、東京堂版は1910(明治43)9月3日に処分済
     相愛社の田添鉄二著近世社会主義史』[1908(明治41)04/28刊]
  09/14社会主義の文献が発売頒布を禁止する処分を受ける
     木下尚江の『霊か肉か』
      金尾文淵堂版の上篇[1907(明治40)06/05刊]
      梁江堂版の下篇[1908(明治41)01/04刊]
      梁江堂版の上篇[1908(明治41)05/04刊]
     照文堂の木下尚江著『小説 乞食』[1908(明治41)07/10刊]
  09/15加藤時次郎が内山愚童の『入獄記念無政府共産』の郵送をうけたとして捜索を受ける
  09/16社会主義の文献が発売頒布を禁止する処分を受ける
     永岡鶴蔵の1枚もの『稼ぎ人目ざまし数へ歌』[1906(明治39)05/11刊]
     永岡鶴蔵の1枚もの『稼ぎ人目ざまし軍歌』[1906(明治39)05/11刊]
     東京フレンド倶楽部の渋井福太郎の1枚もの『破棄余勢』[1909(明治42)05/04刊]
  09/19社会主義の文献が発売頒布を禁止する処分を受ける
     横浜曙会が発行した1枚ものの印刷物が発売頒布禁止の処分を受ける。発行日、著者ともに不明
      タイトルは『「社会主義」と標目シテ社会主義ヲ記述セル印刷物(封筒裏面ニ印刷セルモノ)』
     大和田忠太郎の1枚もの『社会主義ヲ記述セル一枚摺印刷物』[1906(明治39)09/03刊]
  09/20『嗚呼祖国』が鳴皐書院版、一二三館版がともに発売頒布を禁止する処分を受ける
     鳴皐書院版は本名の赤羽一名義[1902(明治35)08/31刊]
     一二三館版は号の赤羽厳穴名義[1904(明治37)01/25刊]
  09/22赤旗事件の被告堺利彦が出獄
     四谷第1小学校1年生になる堺の娘、真柄は学校を欠席し母為子と迎えにいく
     服役中の工賃1円30銭は全額をはたいて子供用の傘を真柄に買い与える
  09/27赤旗事件の被告山川均が出獄。生まれ故郷の倉敷に帰る
  09/1908(明治41)6月22日の赤旗事件とそれまでの量刑も含み収監中の大杉栄が千葉監獄から東京監獄に移される
     幸徳らの「大逆事件」に関連した取調べを受けるが弾圧は免れる
     11/29出獄
  10/15警醒社書店が西川光次郎の『心懐語』を発行【10/16?】
       7月17日、出獄と同時に書きはじめ、8月31日に脱稿
  10/16週刊『サンデー』第98号から馬岳隠士の訳による「探偵奇談 予告の大盗」の連載がはじまる
     原作はモーリス・ルブランの「アルセン、ルーピン」。馬岳隠士は堺利彦のこと
     1911(明治44)04/02第222号で連載が終了
  11/01大審院長に対して東京地裁の3予審判事が大逆事件の「意見書」を提出する
     12/10幸徳秋水ほか起訴された26人に関する大逆事件の大審院第1回公判が非公開で開廷される
     幸徳秋水、管野すが、森近運平、宮下太吉、新村忠雄、古河力作、新田融、新村善兵衛、奥宮健之、新見卯一郎、
     佐々木道元、飛松与次郎、内山愚堂、武田九平、岡本頴一郎、三浦安太郎、岡林寅松、坂本清馬、大石誠之助、
     成石平四郎、高木顕明、峰尾節堂、崎久保誓一、成石勘三郎、松尾卯一太、小松丑治の26人
     検察当局は宮下らが爆裂弾で天皇暗殺を計画したものとして刑法第73条の大逆罪を適用
     弁護人は磯部四郎、花井卓蔵、今村力三郎、鵜沢総明、平出修、宮島次郎、吉田三市郎、
     川島仟司、尾越辰雄、半田幸助、安村竹松の11人。幸徳の担当は磯部、花井、今村の3人
     大逆罪は天皇・皇族に対し危害を加え、または危害を加えようとした者は死刑に処す
     大逆罪には控訴も上告もなく1回の裁判で有罪か無罪かが決定し、有罪の場合はすべて死刑に
     12/15検事が全員に死刑を求刑
     12/29最終となる第16回目の公判で裁判長が結審を宣言し閉廷に
     1911(明治44)01/15大審院特別裁判の判事7人が判決文に署名
     01/18大逆事件で判決が下る。24人が死刑の判決を受ける
     新田融は懲役11年、新村善兵衛は懲役8年の判決。1審限りで控訴なし
  11/12アナキストのエマ・ゴールドマンら5人が連名で駐米全権大使の内田康哉宛に大逆事件の不当逮捕への抗議文を送付
     11/22エマ・ゴールドマンらがニューヨークで最初の抗議集会をひらく
     12/12エマ・ゴールドマンらがニューヨークの抗議集会で桂太郎首相宛の抗議文を採択する
  11/20幸徳秋水が獄中で予審終結と公判開始の中間に「基督抹殺論」を脱稿。堺利彦に出版を依頼する
     1911(明治44)02/01高島米峰主宰の丙午出版社より『基督教抹殺論』が刊行する
     三宅雪嶺の序文は警察により掲載差し止め
     のちベストセラーに
  11/29赤旗事件の被告大杉栄が出獄
     1908(明治41)6月22日の赤旗事件とそれまでの量刑も含み収監される
     幸徳らの「大逆事件」に関連した取調べを受けるが弾圧は免れる
  11/30岐阜の高根山鉱山で暴動が起きる
  11/末幸徳秋水の母多治が養子駒太郎にともなわれ高知より上京。四谷永住町の旅館に泊まる
     のち堺利彦の案内で市谷監獄で秋水に面会
     のち小泉三申を訪ねるが不在で小泉夫人が応対
     のち母多治は思い残すことはないと帰郷
     12/27多治が高知で病没
  11/片山潜、藤田貞二、池田平右衛門らが庶民協会を設立
  12/06フランスの社会主義者らが大逆事件の不当逮捕に抗議してパリの日本大使館に大デモを行なう
  12/11隆文館の白柳秀湖著、伊藤元治郎編の『鉄火石火』[1908(明治41)07/23刊]が発売頒布を禁止する処分を受ける
  12/17関谷竜十郎の『社会主義とは果して如何なる性質の者なる乎』が発売頒布を禁止する処分を受ける
     1枚もので発行日、発行所は不明
  12/18幸徳秋水が獄中から3弁護士宛に無政府主義についての陳弁書を送る
  12/23京華堂書店の原真一郎著『舶来乞食』[1907(明治40)05/20刊]が発売頒布を禁止する処分を受ける【原霞外?】
  12/24赤旗事件の刑期を終えて9月22日に出獄した堺利彦が自宅の門柱に「売文社」の看板を掲げる
     「売文社」の事務所は自宅と兼用で四谷南寺町6番地
  12/31『東京朝日新聞』の1面に初めて売文社の広告が掲載される
  12/31堺利彦が自宅で「売文社」を創業
     全国の社会主義者間の連絡を維持・確保するために設立した、代筆・文章代理を業とする団体
     社長は堺利彦、理事に高畠素之と山川均。社員をおかず、特約補助とした社外ライターに依頼
     堀紫山、山崎今朝弥、大杉栄、荒畑寒村、百瀬晋、馬場孤蝶、白柳秀湖、安成貞雄、
     安成二郎、生田長江、杉村楚人冠、山口孤剣、宮嶋資夫、山川菊枝、生田春月ら
     日本文は400字詰め1枚につき50銭、英文も同じく、仏独文その他は60銭
     大杉栄、荒畑寒村、高畠素之、山川均、橋浦時雄、和田久太郎などが参加
     1917(大正06)01/「売文社」を社会主義運動から分離、堺の自宅に再興した由分社で引き継ぐ
     1918(大正07)06/「売文社」が堺利彦、高畠素之、山川均の3人の共同経営に
     同時に、分離していた由分社から「売文社」を戻す
     1919(大正08)03/07高畠らが国家社会主義を唱えたことで内部分裂がおこり「売文社」が解散する事態に

1911(明治44)

  01/01幸徳秋水が獄中で母多治の訃報に接する
  01/03石川啄木が弁護士の平出修から大逆事件の話を聞き、知ることになる
  01/14遊星社の堀江定四郎著『小説 嗚呼九年 上』[1909(明治42)12/10刊]が発売頒布を禁止する処分を受ける
  01/14堺利彦が大阪から上京した宮武外骨にあう
  01/15社会主義各派合同の茶話会が神田で開かれる。神田で開催、片山潜、吉川守圀、渡辺政太郎らが出席
     02/13ふたたび合同茶話会を開く。片山、藤田貞二、堺利彦らが出席
  01/15大審院特別裁判の判事7人が判決文に署名
     01/18大逆事件で判決が下る。26人のうち24人が死刑に
     幸徳伝次郎、新見卯一郎、奥宮健之、成石平四郎、内山愚堂、宮下太吉、森近運平、大石誠之助、
     新村忠雄、松尾卯一太、古河力作、管野すが、高木顕明、三浦安太郎、佐々木道元、岡本頴一郎、
     峰尾節堂、飛松与次郎、成石勘三郎、武田九平、崎久保誓一、岡林寅松、小松丑治、坂本清馬
  01/18大逆事件での判決で新田融は懲役11年、新村善兵衛は懲役8年に
     1審限りで控訴なし2人は大逆罪でなく爆発物取締罰則違反
     1915(大正04)07/24新村善兵衛が千葉監獄を仮出獄する
      1920(大正09)04/0240才のとき大阪で死去
     1916(大正05)10/10新田融が千葉監獄を仮出獄する
      1938(昭和13)03/2059才のとき東京で死去
  01/18管野すがが手記「死出の道艸」を綴りはじめる
     死刑執行の前日1月24日まで
    01/19大逆事件で明治天皇の特赦減刑の恩名があり24人のうち12人は特に死一等を減ぜられ無期懲役の刑に
     高木顕明、三浦安太郎、佐々木道元、岡本頴一郎、峰尾節堂、飛松与次郎、
     成石勘三郎、武田九平、崎久保誓一、岡林寅松、小松丑治、坂本清馬
     01/2112人が千葉監獄、秋田監獄、長崎諫早監獄に分かれあわただしく送監
     仲間が監獄を襲い囚人を奪い返そうとするのを恐れたため
     ○特赦無期刑で獄死したのは5人
     1914(大正03)06/24高木顕明は僧籍削除を苦に51才のとき秋田監獄で服役中に自殺
     1916(大正05)05/18三浦安太郎は29才のとき諫早監獄で服役中に自殺
     1916(大正05)07/15佐々木道元は28才のとき千葉監獄で服役中に病死
     1917(大正06)07/27岡本頴一郎は諫早監獄で服役中に病死
     1919(大正08)03/06峰尾節堂は35才のとき千葉監獄で服役中に病死
     ○仮出獄できたのは7人
     1925(大正14)05/10飛松与次郎が秋田刑務所を仮出獄
      1953(昭和28)09/1064才のとき熊本県山鹿村で死去【65才?】
     1929(昭和04)04/29成石勘三郎が武田とともに長崎刑務所を仮出獄
      1931(昭和06)01/0352才で病死する
     1929(昭和04)04/29武田九平が成石とともに長崎刑務所を仮出獄
      1932(昭和07)11/2958才のとき大阪市東区北浜3丁目で交通事故で死亡
     1929(昭和04)04/29崎久保誓一が秋田刑務所を仮出獄
      1955(昭和30)10/3070才のとき市木村で死去
     1931(昭和06)04/29岡林寅松が小松とともに長崎刑務所を仮出獄
      1948(昭和23)09/0173才のとき高知で死去
     1931(昭和06)04/29小松丑治が岡林とともに長崎刑務所を仮出獄
      1945(昭和20)10/04困窮のなか70才で死去
     1934(昭和09)11/03坂本清馬が高知刑務所を仮出獄
      1931(昭和06)10/01秋田刑務所から高知刑務所へ移送される
      1975(昭和50)01/1589才で死去【84才?】
  01/22堺利彦は大杉栄夫妻、石川三四郎、吉川守圀の5人で幸徳秋水ほか数人と面会する
     典獄から「あとは明日にしたまえ」といわれ、あきらめて帰るも23日は日曜日で面会できず
     01/24朝10時頃、ふたたび行くと面会はできないとのこと
     面会できない理由をたずねても返事がなく、堺はただならない様子を察する
     吉川は看守から「じつは執行命令がきて今頃はもう四人目あたりをやってゐると思います」と聞く
  01/23司法大臣が死刑執行の指令を東京監獄に伝える【年齢の違いは満年令と数え年令の違い?】
     01/24朝から死刑が執行される
     午前08時06分、幸徳伝次郎(高知41[1871(明治04)11/05《09/23》生])【39才?】
     午前08時55分、新見卯一郎(熊本33[1880(明治13)01/12生])【32才?】
     午前09時42分、奥宮健之(東京55[1857(安政04)12/27《11/12》生])【53才?】
     午前10時34分、成石平四郎(和歌山30[1882(明治15)08/12生])【28才?】
     午前11時23分、内山愚堂(神奈川38[1874(明治07)05/17生])【36才?】
     午後00時16分、宮下太吉(山梨37[1875(明治08)09/30生])【35才?】
     午後01時45分、森近運平(岡山31[1881(明治14)01/20生])【30才?】
     午後02時23分、大石誠之助(和歌山45[1867(慶応03)11/29生])【43才?】
     午後02時50分、新村忠雄(長野25[1887(明治20)04/26生])【27才?】
     午後03時28分、松尾卯一太(熊本33[1879(明治12)01/27生])【31才?】
     午後03時58分、古河力作(福井28[1884(明治17)06/14生])【26才?】
     01/25午前08時28分、管野すが(京都31[1881(明治14)06/07生])【29才?】
  01/大逆事件の死刑執行に対し各国の社会主義者より抗議が集中する
  01/24死刑の前日、獄中の管野すがが堺利彦の娘で7才の真柄あてに惜別の手紙をしたためる
  01/24死刑執行の夜、堺利彦は石川三四郎、大杉栄とともに悲痛を紛らすために酒を飲み泥酔【01/25?】
     ステッキで往来のガス灯を片っ端から叩きこわす
     尾行の巡査は恐怖を感じ同行の石川三四郎に「どうか堺さんを家に送ってください」と頼む
  01/25午前11時、堺利彦ら数人の同志が処刑者の一部の親族と遺体を引き取る
     堺のほかには堺為子、石川三四郎、大杉栄、堀保子、吉川守圀、福田英子、加藤時次郎ら
     第1回死体搬出。夕方、東京監獄で6人の棺が引き渡される。落合火葬場へ
     幸徳伝次郎、奥宮健之、大石誠之助、内山愚堂、森近運平、古河力作の遺体
     01/26夕方、堺、大杉らが東京監獄で管野すがら4人の棺が引き渡される。落合火葬場へ
     のち引き取りてのない遺骨をしばらく売文社で預かることに
     のち引き取りてのない宮下太吉と新村忠雄の遺体は雑司ケ谷監獄墓地へ
     新村はまもなく染井霊園へ、宮下は遺族のもとへ
     売文社の最初の機会が大逆事件で処刑された人々の遺体引き取りと葬儀ということに
  01/25敬業社の磯部久作著『地主ハ盗賊』[1901(明治34)01/05刊]が発売頒布を禁止する処分を受ける
  01/25在米日本人社会主義者・無政府主義者の19人がサン・フランシスコ朝日印刷所で幸徳事件死刑者等追悼会をひらく
     「在米日本革命党」の名をもって声明を公開。1月24日を革命記念日とすることを宣言する
  01/30遺体の引き取りに協力した同志たちを堺利彦が自宅に招待して慰労
     大杉栄、堀保子、岡野辰之助、半田一郎、斎藤兼次郎、吉川守圀、渡辺政太郎、石川三四郎、福田英子、熊谷千代三郎
  02/01高島米峰主宰の丙午出版社より幸徳秋水の『基督教抹殺論』が刊行する
     初版は1千部
     三宅雪嶺の序文は警察により掲載差し止め
     のち重版は7、8千部に達しベストセラーに
  02/07幸徳秋水の遺骨が中村町の正福寺墓地に埋葬される
  02/10縦横社の戸谷一郎が『縦横 第3巻第2号』を発行する
     02/22発売頒布を禁止する処分を受ける
  02/21堺利彦と藤田四郎が発起人となり社会主義各派の「合同茶話会」が開かれる【02/13?】
     場所は牛込区の神楽坂倶楽部
     堺為子、堺真柄、大杉栄、堀保子、石川三四郎、吉川守圀、片山潜のほか木下尚江、添田唖蝉坊など22人が出席
     のち3月24日、4月26日にも開催
     3月24日には出席者が記念の寄せ書きをする
     大杉栄は「春三月縊(くび)り残され花に舞ふ」を詠む
  03/05我生活社の伊藤證信が『無我の愛 第28号』を発行する
     03/08発売頒布を禁止する処分を受ける
  03/05新思潮社の小山内薫が『新思潮 3月号』を発行する
     03/17発売頒布を禁止する処分を受ける
  03/22普選同盟会が演説会を開催。片山潜らが大衆活動の強化をめざす
  03/22堺利彦の自宅に突然、山口孤剣から白米3俵が届く
     堺は同志たちに米を配る
  03/31堺利彦が大逆事件の遺家族慰問の旅をする。旅行費用は岩崎革也が用立てる
     のちまず、京都にむかい岩崎を訪ねる
     のち岡山に行き森近運平の遺族に会う
     のち九州まで足をのばし熊本で松尾卯一太、新見卯一郎の遺族、佐々木道元の家族を見舞う
     のち途中、福岡の豊津に立ち寄る
     のち四国へわたり高知で幸徳秋水の遺族、岡林寅松の家族に会う
     のち本州にもどり兵庫で小松丑治の家族、大阪で武田九平、岡本頴一郎、三浦安太郎の家族、
     和歌山で大石誠之助の遺族、高木顕明、峯尾節堂の家族、三重では崎久保誓一の家族を慰問
     都合がつかない成石勘三郎、平四郎兄弟の家族に詫び状を送る
     05/08帰京
     東京以北の各地、新潟の内山愚童、長野の新村忠雄、山梨の宮下太吉の遺族ものとへは訪問せず
  04/02週刊『サンデー』で連載していた「探偵奇談 予告の大盗」が第222号で終了
     「探偵奇談 予告の大盗」は堺利彦が馬岳隠士の筆名で訳
     原作はモーリス・ルブランの「アルセン、ルーピン」
     1910(明治43)10月16日発行の第98号から連載開始
  04/04平民文庫の社会主義理想小説『百年後の世界』が発売禁止の処分を受ける
     エドワード・ベラミー原著、堺枯川抄訳。原題は「Looking backward」(1887)
     1920(大正09)『理想郷』と合綴してアルス社より出版
  04/04前川文栄閣の正岡芸陽著『新時代の道徳』[1903(明治36)06/17刊]が発売頒布を禁止する処分を受ける
  04/09午前11時35分、吉原で大火が起こる
     吉原江戸町2の20貸席美華登楼より出火、南の強風により、火はまたたく間に燃え広がる
     廓内は全滅、廓外にも延焼する大火事となり午後8時に鎮火。全焼家屋6550戸、焼死者4人、負傷者131人
     原因は美華登楼の娼妓が長襦袢の衿を揮発油でふき、その濡れた衿を火で乾かしていて引火
  04/20板垣退助が月刊『社会政策』を創刊する
  04/21矯風会主催の廃娼演説会が開かれる。島田三郎、山室軍平、木下尚江、安部磯雄ら参加
     6月3日まで東京市内で5回開催
  04/23堺利彦が亡き友幸徳秋水の墓を詣でたとき「行春の若葉の底に生残る」を詠む
  05/08堺利彦が大逆事件の遺家族慰問の旅からもどる。出発は3月31日
     その日のうちに同志へ旅の報告をする
     集まったのは大杉栄、堀保子、岡野辰之助、田島梅子、斎藤兼次郎、吉川守圀、藤田の7人
  05/29社会主義の文献が発売頒布を禁止する処分を受ける
     労働新聞社の村井知至著『社会主義』[1899(明治32)07/12刊]
     信州普通撰挙同盟会の片山潜著『社会改良手段 普通撰挙』[1901(明治34)10/28刊]
     新声社の佐藤儀助著『弱者の声』[1901(明治34)11/08刊]
  06/丙午出版社が堺利彦の『楽天囚人』を発行する
  07/07東京市有反対市民大会が開かれる
     07/09東京市会が電車市有案を可決
  07/08廃娼運動の全国組織廓清会の発会式。神田青年会館で開催会に長島田三郎、副会長に安部磯雄、矢島楫子
  08/01東京市が東京鉄道会社を買収。東京市電気局が開設される
  08/03社会新聞社より1907(明治40)6月2日に創刊された月刊の『社会新聞』が第80号で廃刊となる
  09/01平塚らいてうらが女性による月刊誌『青鞜』を発行
     創業時の社員は、岩野清子(岩野泡鳴の内縁の妻)、茅野雅子、田村とし子、野上八重子、水野仙子ら18人
     賛助員は、長谷川時雨、与謝野晶子、森しげ子(森鴎外の妻)、小金井喜美子、岡田八千代、国木田治子ら7人
     社員は会費を納め平塚の母が資金を援助
     1914(大正03)11/11月号から伊藤野枝が編集長に
     1916(大正05)02/伊藤野枝が大杉栄に走り2月号で無期休刊に。創刊より52冊発行される
  09/歌人で岡野辰之助の妻の田島梅子が23才で病没する
     田島は売文社に入り大杉栄、荒畑寒村らと活動をともにする
  10/堺利彦が幸徳秋水、大石誠之助、管野すがらの書籍をもとに大逆文庫を作る
  11/07幸内久太郎らが「独立労働党」を結成。すぐ禁止となる
  12/05片山潜、藤田四郎らが「政社・社会党」を結成。すぐ禁止となる【10/25?】
     社会の革新を期し普選の実行を計る
     12/27禁止となる【10/27?】
  12/24大逆事件の容疑で幸徳秋水ら12人の命が奪われた年の年末。堺利彦宅で忘年会が催される
     記念写真が撮られる。写っているのは堺利彦、堺真柄、堺為子のほか、安成二郎、片山潜、渡辺政太郎、堀保子、
     師岡千代子、岡野辰之助、松崎源吉、安成貞雄、大杉栄、吉川守圀、荒畑寒村、江渡狄嶺、久坂卯之助、高畠素之、
     原子基、幸内久太郎、平間某、斉藤兼次郎、添田平吉らメンバー24人
  12/30三田の寄席大黒亭で「政談演説」を開く。片山潜が市電の車掌、運転手に対し演説
  12/31〜翌年01/02旧東京鉄道株式会社の市へ移管の際の解散手当分配金をめぐり労働争議が勃発
     従業員総罷業を決行する
     片山潜指導のもとに6千余人参加。大晦日の夜、市内電車の全線が運転不能に陥る
     1912(明治45・大正01)01/01罷業が解決する

1912(明治45・大正01 07/30〜

  01/01前年12月31日から続いた東京鉄道株式会社の罷業が解決する
     東京鉄道株式会社の解散手当をめぐり労働争議が勃発。従業員総罷業を決行していた
     片山潜指導のもとに6千余人参加。市内電車の全線が運転不能に陥る
  01/15片山潜が東京市電ストライキの指導を行なったとして早朝検挙、家宅捜索され即日起訴
     03/01市が谷未決監で毎日2枚「自伝」を書きはじめる
     05/07巣鴨監獄に入る
     05/21千葉監獄に移る
     08/28大正天皇即位の大赦によって出獄。大杉栄が両国停車場にて出迎える【09/27?】
  01/丙午出版社が堺利彦の訳で『ルソー自伝 赤裸乃人』を発行する
  03/01赤羽一が千葉監獄で獄中死[1875(明治08)04/05生]
     1910(明治43)5月25日発行の赤羽一の『農民の福音』が発売頒布を禁止する処分を受け朝憲紊乱罪で入獄
  03/29呉の海軍工廠でスト
  04/13石川啄木(本名石川一)が東京は小石川区久堅町にて肺結核のため死去。享年27[1886(明治19)02/20生]
  04/29北海道の夕張炭坑で爆発事故が起こる276人死亡【278人?】
  05/05丙午出版社が堺利彦の『売文集』を発行する
     四六版箱入、定価1円
     写真1枚、地図1ページ、序14ページ、目次10ページ、本文562ページ、奥付1ページ、広告13ページ
     「巻頭の飾」には62人の寄稿で154ページを飾る
     ルソー誕生二百年記念式(三宅雪嶺)、識らざる神(福田徳三)、べろ煎餅の春(小川芋銭)、旅人の心(上司小剣)、
     明暗二つの影法師(小泉策太郎)、売文社御中(秋田清)、北京より(石川半山)、梁塵飛ぶ光景(逸見斧吉)、
     ヒヨツト何かの掛合(安岡秀夫)、過褒(花井卓蔵)、堺利彦君(伊藤證信)、特別大割引の大奮発(山口孤剣)、
     提灯(松本道別)、人の書ける文字(中里介山)、鰯の卵(若宮夘之助)、三才子の末路(白河鯉洋)、
     わからずや(安藤保太郎)、圓(石川三四郎)、一ツ橋の寄宿舎(菊池忠三郎)、売りことば(杉村楚人冠)、
     ヂツケンス趣味(坂口二郎)、運命の奇(島村抱月)、一月廿二日の因縁(平出修)、憐殺長安軽薄子(広岡宇一郎)、
     笑売文(堀紫山)、公娼と売文(加藤時次郎)、云つて置きたい事が二つ(岩野泡鳴)、京城より(山縣五十雄)、
     ムザと死ぬもので無い(伊藤痴遊)、懐かしい伯父さん(安藤現慶)、病後乱筆(黒坂勝美)、獄中より(片山潜)、
     本を買ふが大分別(相島勘二郎)、富士の初日影(安部磯雄)、なまけるの致す所(徳富健次郎)、米国伯爵(山崎今朝弥)、
     超善悪、超人間(久津見蕨村)、売文社長足下(木下尚江)、一筆啓上(西川光次郎)、堺利彦論(守田有秋)、
     人間の生活を呪う(田岡嶺雲)、白米一斗、味噌五百目(佐治実然)、無政府主義者天下に充満す(野依秀一)、
     簡明叙述の特技(松井柏軒)、売文集に題す(伊藤銀月)、諛辞(清水友次郎)、僕は神樣仏様(伊井蓉峰)、
     融通の利かぬ男(今村力三郎)、著作の人(斯波貞吉)、常夏の花(笹川臨風)、売文の弁(田中治六)、
     拈華微笑(境野黄洋)、鼻哲学(松居松葉)、恬淡と剛情(島中翠湖)、小肥りにして丈低く色浅黒き人(白柳秀湖)、
     捨て身の生活(加藤咄堂)、石が飛ぶ時代(千葉秀甫)、社会党の亡者(高島米峰)、北海道より(加藤眠柳)、
     友情より物好(暁島敏)、追憶(土肥春曙)、売文の自負を破す(江渡狄嶺)
     本文は第1篇 剣と針 第2篇 露と雫 第3篇 谷川の水 第4篇 未来と過去
  06/28三宅雪嶺の発案で堺利彦、高島米峰が発起となり「ルソー生誕200年記念会」の会を開く
     晩餐会を神田淡路町の多賀羅亭で開き、講演会を青年会館で開く。200人が参加する
     高島米峰、生田長江、福本日南、三宅雪嶺らの講演のあと堺利彦が挨拶
  07/30明治天皇が崩御
  08/01鈴木文治ら15人が労働者団体の「友愛会」を結成する
     労働組合というよりは労働者同士の相互扶助が目的。性格は共済組合
  08/28東京市電ストライキの指導を行なったとして逮捕、投獄された片山潜が大正天皇即位の大赦によって出獄【09/27?】
     大杉栄が両国停車場にて出迎える
  09/30東京、青山の帝国陸軍練兵場にて大喪の礼が執り行なわれる
  09/30陸軍大将で学習院院長の乃木希典が、妻の静子とともに自殺
     乃木は享年62才。乃木の介添えで静子が胸を突き、つづいて乃木が割腹
     衣服を整えたうえで、自ら頸動脈と気管を切断して絶命
     遺書には明治天皇に対する殉死であり、西南戦争時に連隊旗を奪われたことを償うための死である旨が記される
  10/01大杉栄、荒畑寒村らが月刊『近代思想』を発刊
     大杉や荒畑らの「時機は待つべきではなく作るべきだ」という主張により計画、刊行
     発行所は近代思想社、発行兼編集人/大杉栄、印刷人/荒畑寒村、広告担当/堀保子
     定価/金10銭、頁建/32頁
     保証金を入れない非時事雑誌として発行
     クライアント/雑誌『実業之世界』の野依秀市、丸善の顧問内田魯庵、
     出版店文淵堂の金尾種次郎、三越デパートの松宮三郎、ライオン歯磨の中尾傘瀬
     常連寄稿者/堺利彦、安成貞雄、安成二郎、高畠素之、小原慎三、伊庭孝、上山草人、土岐哀果、佐藤緑葉、若山牧水、
     山本飼山、和気律次郎、上司小剣、久津見蕨村、相馬御風、仲木貞一、生方敏郎、小山内薫、岩野泡鳴など
     のちアナキズムの立場を鮮明にしてきた大杉の態度に荒畑や古くからの同志が反発
     1914(大正03)09/01第23号で自発的に廃刊にする
     1915(大正04)09/28『近代思想』が復刊する【10/07?】
     1916(大正05)01/復活させた『近代思想』が第4号を発行して廃刊に
  10/01『近代思想』創刊号に堺利彦が人物批評「大杉と荒畑」を掲載する
  10/01『近代思想』創刊号に大杉栄が「本能と創造」を発表する
  11/03友愛会の機関紙『友愛新報』が創刊される
  11/荒畑寒村が『近代思想』に「鑑底」を発表する
  年末/石川三四郎が獄中で書いた『西洋社会運動史』を自費出版
     ほとんど全部を同志の渡辺政太郎と大雪のなか荷車で築地活版所から日本橋の友人宅3階に運搬
     奥付では大正1年12月25日印刷、大正2年1月1日発行
     内務省検閲課には大晦日に届くよう発送
     発禁は免れないものと官僚たちの年末の多忙と年始の屠蘇酔いを逆手にとる
     1913(大正02)屠蘇酔いがさめたころ発禁の命令が横浜警察署に届く
     石川が横浜警察署に拘引される

1913(大正02)

  屠蘇酔いがさめたころ昨年末に『西洋社会運動史』を自費出版した石川三四郎が石川が横浜警察署に拘引される
  01/04荒畑寒村、大杉栄らが第1回近代思想社小集会を開催。10月11日の第7回まで
     馬場孤蝶、生田長江、岩野泡鳴らが参会する
  01/26大杉栄が大逆事件での刑死者の墓碑を訪ねる
  02/15青鞜社初の公開講演会が開かれる。伊藤野枝、生田長江、岩野泡鳴らが演説を行ない、平塚らいてうが閉会の辞を述べる
  02/下西川文子、吉岡弥生、奥むめおらが新真婦人会を結成する
     03/16第1回婦人雄弁会を開催
     05/01『新真婦人』を創刊
  03/01大逆事件に衝撃を受けた石川三四郎が巨船ポール・ルカ号に乗り横浜から日本を脱出
     内情を打ち明けた14、5人という極めて少数の友人親戚に送られる
  03/31永岡鶴蔵が「貨幣偽造行使」の容疑で懲役3年6か月、罰金20円の判決があり千葉監獄に収監される
  04/16堺利彦が野沢重吉らの呼びかけで平民会を開催。片山潜、大杉栄らが参加する
  05/27長崎三菱造船所立神工場の労働者500人が賃金算定法に反対しスト
  05/山川均が妻大須賀里子と死別する
  06/01大杉栄が『近代思想』第1巻第9号に「征服の事実」を発表する
  06/28〜30川崎市の日本蓄音機会社の争議を友愛会の鈴木文治が初調停し、勝利する
  07/大杉栄、荒畑寒村らがサンディカリスム研究会を結成する
  09/04午後0時50分、田中正造が足利郡吾妻村下羽田の支援者庭田清四郎宅で永眠
     死因は胃癌。享年73才[1841(天保12)12/15《11/03》生]
     財産は鉱毒反対運動などに使いはたし無一文。死亡時の全財産は信玄袋1つ
     中身は書きかけの原稿と新約聖書、鼻紙、川海苔、小石3個、日記3冊、帝国憲法とマタイ伝の合本だけ
     09/06雲龍寺で密葬が行なわれる
     10/12佐野町惣宗寺で本葬が行なわれる。参列者は数万人に
  10/10桂太郎が胃がんで死去[1848・01/04《弘化04・11/28》生]
     日露戦争を勝利に導いた総理大臣にもかかわらず国葬はなし
     のち増上寺で行なわれた葬儀の会葬者は数千人にのぼる。8か月前に桂を倒したはずの民衆までも大挙して押し寄せる
  12/石川三四郎が着のみ着のままの状態でフランスに亡命

1914(大正03)

  01/10鹿児島の桜島で噴火の予兆ともいえる有感地震がおきる
     01/12噴火がはじまりまる
     のち噴火と地震、津波が頻発し交通や通信網が破壊される。溶岩が流出し集落を埋没させる
     01/29溶岩流が瀬戸海峡を閉鎖。桜島が大隅半島と陸続きになる
     火山灰の総量は約6億2千万トン、噴出した溶岩の量は約15億6千万トン。死者35人、行方不明23人の災害に
  01/27堺利彦が「売文社」の機関誌として文学雑誌『へちまの花』を刊行
     主筆は堺利彦、編集長は貝塚渋六
     小型新聞版4ページ、定価1部3銭、1年分30銭。広告料1行(5号18字詰)20銭、1段(60行)7円
     社員(現役社員、予備社員、後備社員)…高畠素之、小原慎三、相坂佶、百瀬晋、橋浦時雄、
     幸内秀夫、大杉栄、荒畑寒村、佐藤悟、岡野辰之助、徳永保之助、荒川義英、堺利彦
     特約寄書家、社友諸名家…土岐哀果、和気律次郎、安成二郎、安成貞雄、久津見蕨村、寒川鼠骨、
     白柳秀湖、上司小剣、杉村楚人冠、高島米峰、伊庭孝、山田枯柳、寺田よし子、誉田よし子、劉朗山、
     鮑愛公、池田永治、石川半山、石川旭山、堀紫山、寺内純一、片山潜、その他かずかず
     1915(大正04)09/01機関誌『へちまの花』を改題して社会主義を標榜する新雑誌の月刊『新社会』を発行
     定価/1部5銭、創刊号の印刷部数/1500部
     体裁/薄黄色のザラ紙の菊判、頁建/32頁
     創刊号に堺利彦「小さき旗上げ」を掲載
     1916(大正05)07/『新社会』の組織を改編
     堺利彦、山川均、高畠素之、山崎今朝弥、吉川守圀、渡辺政太郎、荒畑寒村の共同経営に
     法律上の発行編集責任者/荒畑寒村、印刷人/吉川守圀
     編集/堺利彦、山川均、高畠素之、荒畑寒村
     1917(大正06)01/売文社が社会主義運動から分離、由分社で引き継いだため、『新社会』の発行も由分社に
     08/『新社会』の組織を改編して、発行所を由分社から吉川守圀の自宅兼用事務所の世民社に移す
     1918(大正07)06/『新社会』の発行を世民社から売文社に戻す
  02/10永岡鶴蔵が急なゼンソクで千葉監獄にて52才で死去する[1864・01/17《文久03・12/09》生]
     前年1913(大正02)3月31日「貨幣偽造行使」の容疑で収監、服役中
  02/10加藤時次郎が月刊『生活(くらし)の力』を創刊する
     発行所は加藤病院内の生活社。1部5厘(1銭)。B5判、原則8ページ。4万部発行(5万部)
     発行兼編輯人は渡辺估三郎(梶文五郎)、印刷人は岩本菊雄(畑中為之助渡辺素一)
     堺利彦、岡鬼太郎、白柳秀湖、所金蔵が相談役に。編集は白柳(堺)
     1915(大正04)02/20第14号から第74号までは月2回の発行となる
     のち第75号、第76号は月刊に
     1917(大正06)10/10『生活の力』第77号を『平民』と改題する
     発行所は加藤病院内の生活社。1部1銭(3銭5銭)。B5判、8ページ
     発行兼編輯人は梶文五郎(中神美三郎榊原龍之輔)、印刷人は渡辺素一(越後屋吉太郎中川二郎岡千代彦)
     編集は堺利彦(堀伏峰原霞外岡野霞村岡野辰之介)
     寄稿者には堺、佐治実然、山崎今朝弥、岡野辰之介、石川半山、青池晁太郎、小生夢坊、加藤勘十ら社会主義者、社会運動家
     1925(大正14)04/10『平民』第222号を『凡人の力』と改題する
     発行所は加藤病院内の生活社。月1回発行、B6判14ページ建て。紙質をあげ1部10銭に
     発行兼編輯人は榊原龍之輔、印刷人は岡千代彦、編集には守屋貫教があたる
     1930(昭和05)05/10加藤が関与するのは第283号まで
     05/30加藤が死去するも『凡人の力』は刊行される
     1943(昭和18)09/10『凡人の力』が第441号で廃刊となる
  04/11明治天皇の皇后、昭憲皇太后が崩御
  06/24高木顕明が僧籍削除を苦に51才のとき秋田監獄で自殺[1864(文久04・元治01)06/24《05/21》生]
     大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役で服役中
  06/片山潜が8月23日にウィーンで開催される国際社会党大会の通知を受け渡航を決意する
     08/第1次世界大戦の勃発での社会党大会の延期と糖尿病のため渡航は延期に
     09/東京築地の青柳亭で堺利彦、荒畑寒村ら同志24人が片山潜の送別会を開催
     09/09片山潜が佐渡丸で横浜を出帆。4回目の渡米となる
     日本での逆境にたえないのが最大の理由。病身の妻と3人の子供を残し出発
  07/28オーストリアがセルビアに宣戦布告し、第1次世界大戦がはじまる
     大戦中戦闘機、戦車、潜水艦、毒ガスが戦場に初めて登場する
     1918(大正07)11/11ドイツが休戦協定に調印し第1次大戦が終結
  08/23日本が日英同盟を名目としてドイツに宣戦布告。第1次世界大戦に参戦
  09/01大杉栄、荒畑寒村らが発行する『近代思想』を第23号で自発的に廃刊にする
     発刊は1912(大正01)10月1日
     1915(大正04)09/28『近代思想』が復刊する【10/07?】
  09/01『近代思想』廃刊号に堺利彦が短いエッセイ「大杉君と僕」を掲載
  09/09片山潜が佐渡丸で横浜を出帆。4回目の渡米となる。最後の渡米で、事実上の亡命
     日本での逆境にたえないのが最大の理由。病身の妻と3人の子供を残し出発
     09/24シアトル着
     09/28サンフランシスコに上陸
     1916(大正05)12/ロスアンゼルスへ
     1917(大正06)09/アメリカ政府が反戦運動に対する弾圧を開始
     片山らも機関誌郵送停止の圧迫を受ける
     1920(大正09)04/末ニューヨークへ
     1921(大正10)03/下メキシコに移る
     11/メキシコを発ち、アメリカ、フランス、ドイツを経てソビエトに向かう
     12/14大歓迎を受けソビエトに入る
     12/23第9回ソビエト全ロシア大会にて初めてレーニンと会う
     1922(大正11)01/21第1回極東諸民族大会がモスクワ、ペトログラートで開かれる。2月2日まで
     日本からは片山潜ら13人が参加
     1925(大正14)01/〜03/ウラジオストックから日本海を経て上海へ
     04/北京からモンゴルのウランバートルへ
     1926(大正15・昭和01)08/モスクワへ戻る
     1933(昭和08)11/05片山潜(74)が敗血症のためモスクワクレムリン病院で死去
     (印の事象は以降の記述なし)
  10/15大杉栄が荒畑寒村とともに月刊『平民新聞』を発刊。『大杉版平民新聞』とも呼ばれる
     定価/1部3銭5厘、体裁/四六倍判、頁建/10頁
     保証金を納め時事問題を論じる資格を備える
     第1号は即日発禁処分に。幸徳秋水の墓の写真を大きく第1面中央に掲げる
     発禁の理由は部分的なものではなく、全紙を通じて安寧秩序に有害で如何とも策の施しようがないため
     10/20第2号発行10/22発禁処分に
     12/18第3号発行12/19発禁処分に
     1915(大正04)01/15第4号発行
     司法大臣の尾崎行雄、安部磯雄、川合貞一教授らの時局評論を転載8頁の紙面を埋めることに
     02/16第5号が印刷中に発禁処分となり押収される
     のち4頁建の第6号も発禁に
     03/20頃15日発行の第6号が4、5日遅れて発行
     大杉は正妻保子、神近市子、伊藤野枝との四角関係におちいり内紛のため廃刊となる
  10/渡辺政太郎、臼倉甲子造らが『微光』を創刊する
     1915(大正04)06/終刊となる
  11/28新夕張若鶴炭坑で爆発。死者437人
  11/女性による月刊誌『青鞜』の編集長が11月号から伊藤野枝に
     『青鞜』は平塚らいてうらが1911(明治44)9月1日に創刊
     1916(大正05)02/伊藤野枝が大杉栄に走り2月号で無期休刊に。創刊より52冊発行される
  12/15午前9時40分、福岡の三菱方城炭鉱で炭塵大爆発が発生
     ガス爆発で死者671人という数をだし、日本の近代史上最悪の事故になる
  神近市子が尾竹紅吉の紹介で『東京日日新聞』に入社。珍しい婦人記者となる
     のち神近は記者時代に宮嶋資夫を仲介に山川均、辻隆、安成兄弟、大杉栄らと知り合い社会主義思想に共鳴する

1915(大正04)

  01/15大杉栄、荒畑寒村らが月刊『平民新聞』第4号を発行する
     定価/1部3銭5厘、体裁/四六倍判、頁建/10頁
     創刊は前年10月15日
     司法大臣の尾崎行雄、安部磯雄、川合貞一教授らの時局評論を転載8頁の紙面を埋めることに
     02/16第5号が印刷中に発禁処分となり押収される
     のち4頁建の第6号も発禁に
     03/20頃15日発行の第6号が4、5日遅れて発行
     大杉は正妻保子、神近市子、伊藤野枝との四角関係におちいり内紛のため廃刊となる
  01/23馬場孤蝶が第12回総選挙に東京より立候補
     東京社会主義者有志の堺利彦、高畠素之、山崎今朝弥が『万朝報』に推薦広告をだす
  01/『青鞜』の編集が平塚らいてうから伊藤野枝に移る
  02/20加藤時次郎の『生活(くらし)の力』が第14号から第74号までは月2回の発行となる
     『生活の力』の創刊は1914(大正03)2月10日
     のち第75号、第76号は月刊に
     1917(大正06)10/10『生活の力』第77号を『平民』と改題する
     発行所は加藤病院内の生活社。1部1銭(3銭5銭)。B5判、8ページ
     発行兼編輯人は梶文五郎(中神美三郎榊原龍之輔)、印刷人は渡辺素一(越後屋吉太郎中川二郎岡千代彦)
     編集は堺利彦(堀伏峰原霞外岡野霞村岡野辰之介)
     寄稿者には堺、佐治実然、山崎今朝弥、岡野辰之介、石川半山、青池晁太郎、小生夢坊、加藤勘十ら社会主義者、社会運動家
  02/伊藤野枝の『貞操に就ての雑感』が発売禁止となる
  03/15大杉栄が荒畑寒村とともに1914(大正03)10月に発刊した月刊『平民新聞』が第6号をもって廃刊に
     大杉版『平民新聞』とも呼ばれる。第1号(発禁)では幸徳秋水の墓の写真を大きく第1面中央に掲げる
     第4号を除いて第1、2、3、5、6号が発禁に
     大杉は正妻保子、神近市子、伊藤野枝との四角関係におちいり内紛のため廃刊となる
  06/03横山源之助が小石川白山御殿御前町にて死去する。享年45才[1871(明治04)04/10《02/02》生]
  06/渡辺政太郎、臼倉甲子造ら1914(大正03)10月に創刊した『微光』が終刊となる
  07/24新村善兵衛が千葉監獄を仮出獄
     大逆事件での判決で懲役8年。大逆罪でなく爆発物取締罰則違反に
     1920(大正09)04/0240才のとき大阪で死去
  09/01堺利彦が「売文社」の機関誌『へちまの花』を改題、社会主義を標榜する新雑誌の月刊『新社会』を発行
     『へちまの花』は1914(大正03)1月27日に創刊
     定価/1部5銭、創刊号の印刷部数/1500部
     体裁/薄黄色のザラ紙の菊判、頁建/32頁
     1916(大正05)07/『新社会』の組織を改編
     堺利彦、山川均、高畠素之、山崎今朝弥、吉川守圀、渡辺政太郎、荒畑寒村の共同経営に
     法律上の発行編集責任者/荒畑寒村、印刷人/吉川守圀
     編集/堺利彦、山川均、高畠素之、荒畑寒村
  09/281914(大正03)9月に第23号で自発的に廃刊した『近代思想』を大杉栄が復刊する【10/07?】
     もともとは大杉栄、荒畑寒村らが1912(大正01)10月1日に発刊
     1916(大正05)01/復活させた『近代思想』が第4号で廃刊に
  11/02渡辺政太郎、久板卯之助らが『労働青年』を発刊
  11/05『新社会』への改題を機に第1回「社会主義座談」が売文社で開催される
     それまでの「座談会」を発展、毎月1回の開催に
     出席者は堺利彦、伊庭孝、百瀬晋、斎藤兼次郎、添田唖蝉坊、吉川守圀、西村陽吉、
     和気律次郎、宮島資夫、高畠素之、米倉松太郎、山鹿泰治、原子基などが参加
  11/神近市子と大杉栄との恋愛がはじまる
     1916(大正05)02/神近市子が大杉栄から伊藤野枝との恋愛関係を告白される
  11/加藤時次郎が加藤病院を改組して平民病院を開設する
     加藤病院は1890(明治23)、東京市京橋区水谷町に開院
  12/15堺利彦、山川均、高畠素之らを講師とする労働青年講演会を開始。毎月1回、10数人出席
  大杉栄がチャールズ・ダーウィンの『The Origin of Species』を『種の起原』のタイトルで翻訳出版

1916(大正05)

  01/25山川均が足かけ6年ぶりに上京。売文社に入社
  01/大杉栄が1915(大正04)10月に復活させた『近代思想』が第4号で廃刊となる
     もともとは大杉栄、荒畑寒村らが1912(大正01)10月1日に発刊し、1914(大正03)9月に自発的に廃刊
  02/伊藤野枝が大杉栄に走り、女性による月刊誌『青鞜』の編集長が2月号で無期休刊に
     創刊より52冊発行される
  02/大杉栄が伊藤野枝との恋愛関係を神近市子に告白する
  03/15大杉栄が東雲堂から『労働運動の哲学』を刊行するも発禁となる
  04/18荒畑寒村が近藤憲二の熱心な援助でタブロイド版4頁のリーフレット『労働組合』を発行
     労働組合の組織を鼓吹するささやかな運動を開始
     初号は『新社会』の臨時増刊号として発行
     のち本誌の附録として10枚10銭で配付用に頒布
     のち6号くらいで潰れる
     1918(大正07)03/15荒畑寒村が山川均と協力し近藤憲二の援助を得てリーフレット『青服』『新社会』の附録として発行
     『青服』は作業服を意味する
     のち毎号連続して発禁に
     07/18第4号で廃刊となる
  04/伊藤野枝が辻潤の家をでる
  05/01片山潜がサンフランシスコで『平民』を発行
     1919(大正08)07/22号をもって終刊
  05/18三浦安太郎が29才のとき諫早監獄で自殺[1888(明治21)02/10生]
     大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役で服役中
  07/15佐々木道元が28才のとき千葉監獄で病死[1889(明治22)02/10生]
     大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役で服役中
  07/月刊『新社会』が組織を改編
     『新社会』は1914(大正03)1月に創刊した「売文社」の『へちまの花』を1915(大正04)9月に改題した機関誌
     堺利彦、山川均、高畠素之、山崎今朝弥、吉川守圀、渡辺政太郎、荒畑寒村の共同経営に
     法律上の発行編集責任者/荒畑寒村、印刷人/吉川守圀
     編集/堺利彦、山川均、高畠素之、荒畑寒村
     1917(大正06)01/売文社が社会主義運動から分離、由分社で引き継いだため、『新社会』の発行も由分社に
  09/01西尾末広らが職工組合期成同志会を結成する
  10/10新田融が千葉監獄を仮出獄
     大逆事件での判決で懲役11年。大逆罪でなく爆発物取締罰則違反に
     1938(昭和13)03/2059才のとき東京で死去
  10/久坂卯之助らが『労働青年』を創刊
     1917(大正06)11/終刊となる
  11/03山川均と森田菊枝(青山菊枝・満26)が結婚
     仲人は馬場孤蝶。馬場は山川夫妻の終生の師
  11/03欧文植字工組合親友会が組織される
     1907(明治40)4月に結成され、のちに解散した欧文植字工団体「欧友会」の復活となる
  11/09午前2時3分頃、東京日日新聞の記者・神近市子(26)が社会主義者の大杉栄(32)を刺傷
     場所は相州三浦郡葉山村の日蔭茶屋
     長さ8寸あまりの短刀をもって左頸部にひと突きついてえぐり、深さ2寸の重傷をおわせる。日蔭茶屋事件
      1906(明治39)、大杉は堀保子と結婚
      1915(大正04)、神近と炎のように燃え
      1915(大正04)2月、辻潤の妻伊藤野枝と恋愛関係に
      1915(大正04)4月、伊藤が辻の家をでる
      1915(大正04)11月、神近と大杉との恋愛がはじまる
      1916(大正05)2月、神近が大杉から伊藤との恋愛関係を告白される
      その複雑な女性関係を新聞でなじられ騒がれることに
      事件の発端は伊藤野枝、神近市子、堀保子(大杉の内妻)の大杉に対する多角的恋愛のもつれ
     11/06午後2時頃、大杉は2月頃から恋仲の伊藤野枝を引き連れ日蔭茶屋に投宿
     11/07午後4時頃、神近が茶屋を訪ねる。神近は女中より大杉に婦人の同伴者があると聞く
     不快な面持ちながら案内される
     伊藤は神近の存在を知るとその場をはずす
     午後9時、伊藤は逗子発の汽車で東京へ帰ると装い、途中、鎌倉で引き返す
     その夜は、3人枕をならべて寝る
     11/08伊藤は午前7時逗子発の汽車で帰京
     のち大杉と神近は変わった様子もなく過ごす
     11/09午前2時3分頃、神近が狂気に及ぶ
     神近は雨中をはだしで葉山派出所に自首
     のち神近は2年間にわたり服役する
     1919(大正08)10/出獄する

1917(大正06)

  01/26堺利彦が東京市から総選挙に東京市選出議員として立候補
     山崎今朝弥、吉川守圀、高畠素之が選挙委員に。日本社会党有志の名で各紙に推薦広告が載る
     のち8回の演説会は大入り満員
     04/20投票が行なわれ、翌日開票
     東京市人口、約230万人のうち有権者数は3万7203人。定数は11
     東京市でのトップ当選は2676票を獲得した鳩山一郎
     堺の獲得票数は25票で落選
  01/「売文社」を社会主義運動から分離、堺の自宅に再興した由分社で引き継ぐ
     「売文社」は堺利彦が1910(明治43)12月31日に創業
     全国の社会主義者間の連絡を維持・確保するために設立した、代筆・文章代理を業とする団体
     1918(大正07)06/「売文社」が堺利彦、高畠素之、山川均の3人の共同経営に
     同時に、分離していた由分社から「売文社」を戻す
  01/売文社が社会主義運動から分離、由分社で引き継いだため、『新社会』の発行も由分社に
     『新社会』は1914(大正03)1月に創刊した「売文社」の『へちまの花』を1915(大正04)9月に改題した機関誌
     08/『新社会』の組織を改編して、発行所を由分社から吉川守圀の自宅兼用事務所の世民社に移す
  01/『新社会』第3巻第5号で日蔭茶屋事件の原因となる大杉栄の女性問題を特集する
  03/14室蘭日本製鋼所3千人賃上げ要求スト。友愛会が計画した最初のスト
  03/15山路愛山[1865・01/23《元治01・12/26》生]が54才で病死
  03/08首都ペトログラードで約8万人の労働者がストライキを行ない、「パンをよこせ」「戦争反対」を掲げ大規模なデモが行なわれる
     03/09ストライキに参加する労働者の数は約15万人に。デモのスローガンには「専制打倒」も現われる
     03/10ストライキは全市をおおい、ストライキに参加する労働者の数は20万人を超える
     03/12首都の軍隊の多くが革命側につき政治犯を釈放、政府の要人が続々と逮捕
     わずか1週間で首都は完全に労働者と反乱軍によって占拠される
     労働者、兵士は1905年の第一革命の例にならいソヴィエト(会議の意味、労働者と兵士の代表による評議会)を結成
     ときに皇帝ニコライ2世は革命勃発時、前線の大本営に
     03/12事態の深刻さを認識したニコライ2世は軍に首都進撃の命令を下したが遅く
     03/15ニコライ2世は退位勧告を受け入れて弟のミハイルに譲位。翌日、ミハイルは辞退
     300年続いたロマノフ朝は崩壊。三月革命
     三月革命後旧帝国領土には数多の国家が乱立し、外国の干渉軍も加わって激しいロシア内戦に
     十一月革命後ニコライ2世は監禁、内戦中に家族とともに革命派によって処刑される
     10/20フィンランドに亡命していたレーニンがペトログラードに戻る。十一月革命がはじまる
  07/27岡本頴一郎が諫早監獄で病死[1880(明治13)09/12生]
     大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役で服役中
  08/『新社会』の組織を改編して、発行所を由分社から吉川守圀の自宅兼用事務所の世民社に移す
     『新社会』は1914(大正03)1月に創刊した「売文社」の『へちまの花』を1915(大正04)9月に改題した機関誌
     1918(大正07)06/『新社会』の発行を世民社から売文社に戻す
  10/10加藤時次郎の『生活(くらし)の力』第77号を『平民』と改題する
     『生活の力』の創刊は1914(大正03)2月10日
     発行所は加藤病院内の生活社。1部1銭(3銭5銭)。B5判、8ページ
     発行兼編輯人は梶文五郎(中神美三郎榊原龍之輔)、印刷人は渡辺素一(越後屋吉太郎中川二郎岡千代彦)
     編集は堺利彦(堀伏峰原霞外岡野霞村岡野辰之介)
     寄稿者には堺、佐治実然、山崎今朝弥、岡野辰之介、石川半山、青池晁太郎、小生夢坊、加藤勘十ら社会主義者、社会運動家
     1925(大正14)04/10『平民』第222号を『凡人の力』と改題する
     発行所は加藤病院内の生活社。月1回発行、B6判14ページ建て。紙質をあげ1部10銭に
     発行兼編輯人は榊原龍之輔、印刷人は岡千代彦、編集には守屋貫教があたる
  10/20フィンランドに亡命していたレーニンがペトログラードに戻る。十一月革命がはじまる
     10/23党中央委員会でレーニンの主張する武装蜂起の方針が決定される
     10/26ペトログラード=ソヴィエト内に軍事革命委員会が組織され、蜂起は11/06に決行
     11/06早朝、ケレンスキーは軍事革命委員会の委員の逮捕を命じる
     蜂起を煽動したとしてボリシェヴィキの機関誌発行所を襲撃
     対してボリシェヴィキはレーニン・トロッキー指導のもとで武装蜂起
     夜半までに駅、郵便局、電信局、国立銀行など首都の主要な拠点をほとんど抵抗を受けることなく占拠
     11/07午前10時、臨時政府が打倒したことでペトログラード=ソヴィエト軍事革命委員会は権力を掌握したと宣言する
     11/07午後9時、臨時政府の閣僚たちがこもる冬宮への攻撃が始まる
     11/08午前2時、冬宮を占領し全閣僚が逮捕される。ケレンスキー首相は脱出
     冬宮を攻撃する砲声がとどろく中、第2回全ロシア=ソヴィエト大会が開かれる
     大会の代議員650人のうちボリシェヴィキは390人を占める
     メンシェヴィキと社会革命党が武装蜂起を非難し退場、新政権の成立が宣言され「平和に関する布告」「土地に関する布告」が採択
     人民委員会議(ソヴィエト政府)の議長(首相)にレーニンが、外務委員(外務大臣)にトロッキーが選出される
     1922(大正11)12/30ロシアなど4つのソビエト共和国からなるソビエト社会主義共和国連邦の成立が宣言される
     世界初の社会主義国となる
  10/24クロポトキンの『相互扶助論』を大杉栄が訳して刊行
  11/1916(大正05)10月に久坂卯之助らが創刊した『労働青年』が終刊となる
  雑誌『中外』の創刊にかかわった堺利彦が、第1号から第8号までジャック・ロンドンの「野性の呼び声」を訳載
     1919(大正08)05/叢文閣より単行本が刊行。あとがきは作家の有島武郎

1918(大正07)

  01/01大杉栄が伊藤野枝と『文明批評』を創刊
     のち第3号で廃刊に
  02/月2回の無政府主義に関する研究会を開始。20人内外が参加
  03/15荒畑寒村が山川均と協力し近藤憲二の援助を得てリーフレット『青服』を『新社会』の附録として発行
     『青服』は作業服を意味する
     のち毎号連続して発禁に
     07/18第4号で廃刊となる
  03/渡辺政太郎らのアナキズム研究会と大杉栄らの労働問題座談会が合同して「北風会」を結成
  04/07大杉栄を事実上の発起人とする露国革命記念会が開催。28人出席
  05/大杉栄が終生の同志となる和田久太郎らと『労働新聞』を創刊
     発行人/久板卯之助、編集兼印刷人/和田久太郎、大杉栄が協力
     労働新聞社は南葛飾郡亀戸町2400
     のち米騒動のあおりを受け停刊したままに
     08/014号で終刊。新聞紙法違反で発禁処分が続く 久板5か月、和田10か月の禁錮刑に
  06/「売文社」が堺利彦、高畠素之、山川均の3人の共同経営に。同時に、分離していた由分社から「売文社」を戻す
     「売文社」は堺利彦が1910(明治43)12月31日に創業
     全国の社会主義者間の連絡を維持・確保するために設立した、代筆・文章代理を業とする団体
     1919(大正08)03/07高畠らが国家社会主義を唱えたことで内部分裂がおこり、売文社が解散する事態に
  06/『新社会』の発行を吉川守圀の世民社から売文社に戻す
     『新社会』は1914(大正03)1月に創刊した「売文社」の『へちまの花』を1915(大正04)9月に改題した機関誌
  07/22夜、富山県下新川郡魚津町の漁民女房ら10数人が、北海道への米の輸送を中止し、住民に販売するよう嘆願
     巡回中の警官の説諭により解散となる
     のち住民らは集会をはじめる。米の販売を要望する人数はさらにふえる
     08/03中新川郡西水橋町で200人弱の町民が集結。米問屋や資産家に対して米の移出を停止し、販売するよう嘆願
     08/04『高岡新報』に「女軍、米屋にせまる」の記事が掲載される
     『高岡新報』は県外への情報発信で大きな役割をはたす
     08/06運動がさらに激しくなる。東水橋町、滑川町の住民も巻き込み1千人を超える事態に
     住民らは米の移出を実力行使で阻止し、1升40銭から50銭相場の米を35銭で販売させる
     08/07『高岡新報』を発売禁止処分に
     のち全国の新聞に「越中女一揆」として報道されることに。米価格の急騰に伴う暴動事件の発端となる
     石川県の『北陸毎日』『北国新聞』、大阪の『大阪朝日新聞』『大阪毎日新聞』、東京の『東京朝日新聞』『東京日日新聞』など
     08/09『高岡新報』が社説「われらは信ず」発売禁止処分に対し抗議
     08/14深夜、米騒動に関する一切の報道を禁じる記事差止命令を報道各社へ通達する
     魚津での騒動以降米騒動が全国に広がる
      08/09愛知、広島、和歌山
      08/10京都、和歌山、岡山
      夜、名古屋鶴舞公園で米価問題の市民大会が開かれると噂が広まり約2万人の群集が集結
      京都では柳原町で騒動がはじまり米問屋を打ちこわすなどして1升30銭での販売を強要
      08/11大阪、広島、岡山
      08/12京都、東京、和歌山、愛知、広島、岡山、兵庫、奈良、三重、静岡、石川
      『大阪朝日新聞』が神戸の鈴木商店のことを米の買い占めを行なう悪徳業者と捏造記事を書いたため焼き打ちにあう
      08/13京都、大阪、東京、和歌山、岡山、滋賀、岐阜、福島、福井、山口
      08/14大阪、東京、和歌山、愛知、広島、岡山、兵庫、奈良、三重、静岡、岐阜、福島、愛媛、香川
      08/15京都、和歌山、三重、静岡、岐阜、福島、大分、愛媛、山梨、宮城、高知、神奈川
      08/16福島、山口、福岡、神奈川
      08/17東京、和歌山、福島、山口、福岡、新潟、長野、宮崎
      米騒動が炭坑の騒動へと飛び火。山口や福岡の炭坑で炭坑夫の賃上げ要求の暴動に転化
      山口の沖の山炭坑の騒動は付近住民を加え数千人規模の騒動に発展
      米問屋や屋敷の打ちこわし、遊郭への放火などが起こる
      出動した軍隊に対してダイナマイトで対抗、死者13人の惨事に
      08/18大阪、岐阜、福島
      08/19京都
      09/12三池炭鉱の騒動で全国50日間にわたる米騒動が終息
     米騒動は1道3府37県にわたり38市153町178村、計369か所にのぼる。参加者の規模は数百万人に
     軍隊が出動した市町村は3府23県、100以上に。出兵ピークの総数は2万2千人以上、出動総人数は延べ5万7千人以上
     検挙された人員は2万5千人を超え、8253人が検事処分を受ける。7786人が起訴され、うち700余人が騒乱罪により起訴
     第1審での無期懲役が12人、10年以上の有期刑が59人
     米騒動に統一的な指導者はないものの一部民衆を扇動したとして、和歌山県で2人が死刑の判決を受ける
  08/19東京市神田区錦町3丁目の錦輝館が火災で焼失する
     錦輝館は1891(明治24)10月9日に開業
  09/21第18代内閣総理大臣の寺内正毅が米騒動の責任をとり総辞職
  11/11ドイツが休戦協定に調印し第1次大戦が終結
     はじまりは1914(大正03)7月28日にオーストリアがセルビアに宣戦布告

1919(大正08)

  03/01大阪の岩出金次郎によって月刊『日本労働新聞』が創刊される。荒畑寒村も制作に加わる
     タブロイド版8頁
  03/06峰尾節堂が35才のとき千葉監獄で病死[1885(明治18)04/01生]
     大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役で服役中
  03/07堺利彦が1910(明治43)12月31日に創業した「売文社」が解散する
     全国の社会主義者間の連絡を維持・確保するために設立した、代筆・文章代理を業とする団体
     高畠素之、山川均、大杉栄、荒畑寒村、橋浦時雄、和田久太郎などが参加
  04/21堺利彦、山川均らが月刊『社会主義研究』を創刊する
     1923(大正12)04/4月発行の44号まで
  05/叢文閣よりジャック・ロンドンの『野性の呼び声』が単行本で刊行。あとがきは作家の有島武郎
     訳は堺利彦。1917(大正06)雑誌『中外』の創刊にかかわった堺利彦が第1号から第8号まで訳載
  07/17売文社主催の労働問題演説会が開かれ800人が集まる。弁士は荒畑寒村、大杉栄、吉田一ら
  07/片山潜がサンフランシスコで1916(大正5)5月1日に創刊した『平民』が22号をもって終刊となる
  08/08平民大学夏期講演会が開かれる。8月15日まで。講師は堺、山川、大杉、大庭、荒畑ら
  09/18神戸川崎造船所の労働争議で初めてサボタージュ戦術が用いられる
     賃上げに成功してから一般的に使われるようになる
     サボタージュは「仕事などを意図的に行なわないこと」を意味するフランス語“sabotage”
     フランスはストライキの多い国で主にストライキの際に使われる言葉。木靴(サボ)で機械を壊したことから
     サボ-るの語源
  10/06大杉栄らが第1次『労働運動』を創刊【10/10?】
     1920(大正09)06/6月発行まで
  10/24日本労働新聞社が大阪で労働問題講演会を開催。3千人が参加。講師は堺、生田、賀川、高山ら
  10/大杉栄を刺し服役していた神近市子が出獄する。日蔭茶屋事件は1916(大正05)11月9日に起こる
  11/24婦人の社会的、政治的権利獲得を目指した日本初の婦人団体新婦人協会が結成される
     理事/平塚明(平塚らいてう)、市川房枝、奥むめお
     評議員/坂本真琴、加藤さき子、平山信子、山田わか、吉田清子、田中孝子、矢部初子、塚本なか子、山田美都
     1922(大正11)12/08臨時総会を開き解散

1920(大正09)

  02/14西川文子、吉岡弥生、奥むめおらの新真婦人社婦人社会問題研究会を結成し第1回講演会を開く。1300人が参加
  04/02新村善兵衛が40才のとき大阪で死去[1881(明治14)03/16生]
     大逆事件での判決で懲役8年。大逆罪でなく爆発物取締罰則違反に
     1915(大正04)7月24日に千葉監獄を仮出獄
  06/大杉栄らが1919(大正08)10月6日【10/10?】に創刊した第1次『労働運動』が6月発行で廃刊に
  06/高畠素之が『資本論』第1巻第1分冊を大鐙閣から出版
     のち第1巻第2分冊以下を順調に刊行
     のち第3巻が刊行
     1924(大正13)07/関東大震災の余波で大鐙閣が倒産。大鐙閣の元社員が作っていた而立社で第2巻が出版
     日本で初めて『資本論』が完訳される
     1926(大正15)10/新潮社から改訳『資本論』全4冊が刊行
     新潮社版初回刊行は1925(大正14)10月
     1928(昭和03)04/改造社から改訳『資本論』全5冊が刊行
     改造社版初回刊行は1927(昭和02)10月。戦前の翻訳『資本論』の定本となる
  09/02持病の腎臓病が悪化し山口義三(孤剣)[1883(明治16)04/19生]が37才で没す
  12/15堺利彦宅に兵士(森下軍曹)が訪れる。堺と兵士は玄関で話をする。為子とたまたまいた真柄は台所で支度中
     叫び声をきき為子と真柄は玄関へ。兵士は逃げ、真柄は追いかける
     兵士は三ツ目錐で堺の胸をひと突き。堺は錐をもぎ取り放る。兵士は短剣をぬき刺そうとするも堺にうばわれる
     為子は医者へ電話するも往診中。歯医者にきてもらうと「大丈夫、肋骨を突いたので、あぶなく助かっています」と
     真柄は兵士に振り返られ恐れをなし家に帰る。兵士は剣なしの鞘をぶら下げうろつくなか、四谷見付の交番で捕えられる
  12/労働組合、学生団体、さまざまな思想的立場にある社会主義者を集めて「日本社会主義同盟」が結成される
     発起人は島中雄三、荒畑寒村、大杉栄、堺利彦、山川均ら
  『百年後の世界』『理想郷』が合綴してアルス社より出版
     『百年後の世界』はエドワード・ベラミー原著、堺枯川抄訳。原題は「Looking backward」(1887)
      1904(明治37)3月9日、平民文庫5銭本の第1巻として刊行
      1911(明治44)4月4日、発売禁止の処分を受ける
     『理想郷』はヰリアム・モリス原著、堺枯川抄訳。原題は「News from Nowhere」(1892)
      1904(明治37)12月25日、平民文庫5銭本として刊行
      1910(明治43)9月3日、発売禁止の処分を受ける

1921(大正10)

  02/01評論雑誌の月刊『六合雑誌』が481号をもって終刊となる
     『六合雑誌』は1880(明治13)10月11日に小崎弘道、植村正久、田村直臣らが創刊
     政治、思想、社会問題などについて、キリスト教社会主義など進歩的立場から論じる
  04/24日本初の女性による社会主義団体の赤瀾会が結成される
     主な中心人物:顧問格/伊藤野枝(大杉栄の妻)、山川菊栄(山川均の妻)
     世話人/九津見房子(30・労働運動社の社員)、秋月静枝(中名生幸力の妻)、
     橋浦はる子(22・橋浦泰雄・時雄の妹)、堺真柄(18・堺利彦の娘)、
     岩佐しげ(岩佐作太郎の妻)、 北川千代(江口渙の妻)会計、高津多代子(高津正道の妻)、
     堺為子(堺利彦の妻)、仲宗根貞代(仲宗根源和の妻)、中村志げ(望月桂の義妹)、
     中村みき(中村還一の妻)、橋浦りく(橋浦時雄の妻)、堀保子(堺利彦の先妻の妹で大杉栄の前妻)、
     望月ふく子(望月桂の妻)、吉川和子(吉川守圀の妻)
     「私達は私達の窮乏と無知と隷属に沈淪せしめたる一切の圧制に対して、断乎として宣戦を布告するものであります」
     4月21日に宣言し綱領に定める
     1923(大正12)おもなメンバーの離脱、検挙、起訴、投獄により壊滅状態となり自然解消に
     03/08第1回国際女性デー演説会にて赤瀾会は八日会に改組される
  04/堺利彦、山川均、近藤栄蔵、橋浦時雄、渡辺満三、高津正道らが東京の大森駅近くで会合をひらく
     「日本共産党準備会」(コミンテルン日本支部準備会)を秘密裡に発足させる
     1922(大正11)07/15東京府豊多摩郡渋谷町にて堺、山川、近藤、吉川守圀、橋浦、浦田武雄、渡辺、高瀬清が会合
     非合法(治安警察法違反)の党として日本共産党「第1次共産党」を創立する
     委員長を堺とし、堺、山川、荒畑寒村、近藤、高津、橋浦、徳田球一の7人を中央委員に選出
     幹部には野坂参三、徳田球一、佐野学、鍋山貞親、赤松克麿ら
     コミンテルンで活動していた片山潜の援助も結成をうながす
     11/コミンテルン第4回大会に代表を派遣して、コミンテルン日本支部として正式に承認される
     1923(大正12)06/佐野学の隠匿党内文書が発見。主要党員が検挙される。第1次共産党事件
     起訴された者は堺利彦(無産社)、近藤栄蔵(暁民会)、佐野学(鉱夫総連合、早大教授)、高津正道(暁民会)、
     田所輝明(建設者同盟)、浦田武雄(農民運動社)、市川正一(無産階級社)、渡辺満三(時計工組合)、
     杉浦啓一(関東機械工組合)、上田茂樹(無産者同盟)、高瀬清(暁民会)、渡辺誠之輔(南葛労働会)、
     猪俣津南雄(文化同盟、早大教授)、徳田球一(水曜会)、小岩井浄(社会思想社)、荒畑勝三(無産者同盟)、
     辻井民之助(労働総同盟)、市川義雄(出版従業員組合)、川内唯彦(無産社)、高野武二(暁民会)、
     山本懸蔵(総同盟)、山川均(水曜会)ら
     共産党は一斉検挙を事前に察知し、佐野、高津、近藤など幹部5人を中国へ亡命させることに成功
     1924(大正13)03/東京府荏原郡森ケ崎の温泉宿で佐野文夫、荒畑、徳田球一、野坂参三らが会議
     党の自主的な解体を決定し、ビューロー(残務整理委員会)を設置する。森ケ崎会議
     2月から3月の会合で荒畑を除くほとんどの幹部が提案に同意し「解散声明」を決議。第1次共産党は解散する
  05/01第2回メーデー。東京、大阪、神戸、足尾で挙行
  05/01第2回メーデーで赤瀾会の参加者が全員検束される
  11/04原敬が内閣総理大臣在任中に東京駅で中岡艮一に刺殺される。ほぼ即死。65年の生涯を閉じる
     [1856(安政03)03/15《02/09》生]
     原敬は関西での政友会大会に出席のため東京駅に着いた直後。中岡艮一は山手線大塚駅の転轍手
  11/片山潜がメキシコを発ち、アメリカ、フランス、ドイツを経てソビエトに向かう
     12/14大歓迎を受けソビエトに入る
     12/23第9回ソビエト全ロシア大会にて初めてレーニンと会う
     1925(大正14)01/〜03/ウラジオストックから日本海を経て上海へ
     (印の事象は以降の記述なし)

1922(大正11)

  01/社会主義者新年会で堺利彦が右翼の大塚某から暴行を受ける
     12/15堺が自宅で陸軍鍛工長の森下某に錐と佩剣(はいけん)で胸など数か所を刺される
  03/03京都の岡崎公会堂で全国水平社の創立大会が開かれる
     全国の被差別部落から約3千人が集まる
     日本最初の人権宣言といわれる水平社宣言を駒井喜作が読み上げ、採択される
  05/01第3回メーデー。東京、京都、大阪、横浜、神戸、尼崎、足尾、広島、因島、八幡で挙行される
  07/15東京府豊多摩郡渋谷町にて堺利彦、山川均、近藤栄蔵、吉川守圀、橋浦時雄、浦田武雄、渡辺満三、高瀬清が会合
     非合法(治安警察法違反)の党として日本共産党「第1次共産党」を創立する
     委員長を堺とし、堺、山川、荒畑寒村、近藤、高津正道、橋浦、徳田球一の7人を中央委員に選出
     幹部には野坂参三、徳田球一、佐野学、鍋山貞親、赤松克麿ら
     コミンテルンで活動していた片山潜の援助も結成をうながす
     11/コミンテルン第4回大会に代表を派遣して、コミンテルン日本支部として正式に承認される
     1923(大正12)06/佐野学の隠匿党内文書が発見。主要党員が検挙される。第1次共産党事件
     起訴された者は堺利彦(無産社)、近藤栄蔵(暁民会)、佐野学(鉱夫総連合、早大教授)、高津正道(暁民会)、
     田所輝明(建設者同盟)、浦田武雄(農民運動社)、市川正一(無産階級社)、渡辺満三(時計工組合)、
     杉浦啓一(関東機械工組合)、上田茂樹(無産者同盟)、高瀬清(暁民会)、渡辺誠之輔(南葛労働会)、
     猪俣津南雄(文化同盟、早大教授)、徳田球一(水曜会)、小岩井浄(社会思想社)、荒畑勝三(無産者同盟)、
     辻井民之助(労働総同盟)、市川義雄(出版従業員組合)、川内唯彦(無産社)、高野武二(暁民会)、
     山本懸蔵(総同盟)、山川均(水曜会)ら
     共産党は一斉検挙を事前に察知し、佐野、高津、近藤など幹部5人を中国へ亡命させることに成功
  12/06宮崎滔天[1871・01/23《明治03・12/03》生]が腎臓病による尿毒合併症により東京で病没
  12/08日本初の婦人団体新婦人協会が臨時総会を開き解散
     新婦人協会は1919(大正08)11月24日に平塚らいてう、市川房江、奥むめおらにより結成される
  12/14大杉栄に国際無政府主義(アナーキスト)大会の招待状が届く
     出席のためイギリスの船で神戸を出発、上海からパリへ密航する
     1923(大正12)05/パリ郊外のメーデー集会で演説し逮捕される
     06/フランスを追放される
     07/帰国
  12/15堺利彦が自宅で陸軍鍛工長の森下某に錐と佩剣(はいけん)で胸など数か所を刺される
  12/30ロシアなど4つのソビエト共和国からなるソビエト社会主義共和国連邦の成立が宣言される
     世界初の社会主義国となる
  ジャン・アンリ・ファーブルの『昆虫学的回想録』を大杉栄が日本で初めて翻訳出版。『昆虫記』のタイトルをつける

1923(大正12)

  03/08第1回国際女性デー演説会にて赤瀾会八日会に改組される
     赤瀾会は1921(大正10)4月24日に結成した日本初の女性による社会主義団体
  04/堺利彦、山川均らが1919(大正8)4月21日に創刊した月刊『社会主義研究』が4月発行の44号で廃刊に
  05/1922(大正11)12月に密航し日本を離れた大杉栄がパリ郊外のメーデー集会で演説し逮捕される
     密航の目的は国際無政府主義(アナーキスト)大会の招待状が大杉のもとに届き出席のため
     06/フランスを追放される
     07/帰国
  06/佐野学の隠匿党内文書が発見。「第1次共産党」の主要党員が検挙される。第1次共産党事件
     起訴された者は堺利彦(無産社)、近藤栄蔵(暁民会)、佐野学(鉱夫総連合、早大教授)、高津正道(暁民会)、
     田所輝明(建設者同盟)、浦田武雄(農民運動社)、市川正一(無産階級社)、渡辺満三(時計工組合)、
     杉浦啓一(関東機械工組合)、上田茂樹(無産者同盟)、高瀬清(暁民会)、渡辺誠之輔(南葛労働会)、
     猪俣津南雄(文化同盟、早大教授)、徳田球一(水曜会)、小岩井浄(社会思想社)、荒畑勝三(無産者同盟)、
     辻井民之助(労働総同盟)、市川義雄(出版従業員組合)、川内唯彦(無産社)、高野武二(暁民会)、
     山本懸蔵(総同盟)、山川均(水曜会)ら
     共産党は一斉検挙を事前に察知し、佐野、高津、近藤など幹部5人を中国へ亡命させることに成功
     「第1次共産党」の創立は1921(大正10)7月15日
     1924(大正13)03/東京府荏原郡森ケ崎の温泉宿で佐野文夫、荒畑、徳田球一、野坂参三らが会議
     党の解体を決定し、ビューロー(残務整理委員会)を設置する。森ケ崎会議
     2月から3月の会合で荒畑を除くほとんどの幹部が提案に同意し「解散声明」を決議。第1次共産党は解散する
  09/01午前11時58分44秒、関東を中心に静岡、長野まで広い範囲に激震。関東大震災
     東大理学部の地震計だけでマグニチュード7.9を記録
     被害数は日本の災害史上最悪。死者9万9331、負傷者10万3733、行方不明4万3476
     全壊家屋12万8266、半壊家屋12万6233、火災焼失約44万7100
     火災によって東京全戸数の70%(都内の130カ所以上で火災発生)、横浜では60%が焼失
     本所横綱町・陸軍被服廠跡の空地では、避難した民衆約3万8千人が四方からの火に巻かれ焼死
     暴徒取締りに自警団が各所に生まれたが、自警団員による暴行や殺人が横行
     朝鮮人暴動のデマが流れ約6000人の朝鮮人が虐殺される
     地震の2日後には警視庁が、5日後には内閣が、朝鮮人迫害を戒める掲示を発表
  09/01関東大震災により、東京浅草の12階建て凌雲閣の8階部分より上が崩壊
     凌雲閣は1890(明治23)11月11日に開業
     09/23経営難から復旧が困難となり陸軍工兵隊が爆破解体
  09/16関東大震災の混乱に乗じて甘粕正彦憲兵大尉により、大杉栄が伊藤野枝、橘宗一とともに虐殺される
     大杉の弟家族を鶴見に見舞った帰り。橘宗一は大杉の妹の子
     大杉栄[1885(明治18)01/17生]
     伊藤野枝[1895(明治28)01/21生]
  10/08大杉事件の甘粕正彦憲兵大尉に対する軍法会議が開始
     1923(大正12)9月16日、甘粕らは関東大震災の混乱に乗じて大杉栄、伊藤野枝、橘宗一を虐殺
     12/08懲役10年の判決が下る
     1926(大正15)10/01仮釈放される
  11/『改造』で「大杉栄追悼」の特集が組まれる
  12/081923(大正12)9月16日の大杉事件の甘粕正彦憲兵大尉に懲役10年の判決が下る
     甘粕らは関東大震災の混乱に乗じて大杉栄、伊藤野枝、橘宗一を虐殺
     1926(大正15)10/01仮釈放される
  12/16大杉栄、伊藤野枝、橘宗一の葬儀が行なわれる
     自連系の労働組合や思想団体の合同葬で谷中斎場で無宗教
     3人の遺骨が右翼団体大化会会員によって強奪され、遺骨なしの葬儀となる
  12/27難波大助が摂政の皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)に対して近接狙撃。虎ノ門事件
     失敗し「革命万歳」と叫び逃走をはかる。周囲の群衆の暴行を受けるなか警備の警官に現行犯逮捕される
     1924(大正13)11/15難波が大逆罪で死刑に処せされる
  20才の堺真柄が高瀬清と結婚する
     1935(昭和10)32才の堺真柄が高瀬清と離婚後、近藤憲二と結婚

1924(大正13)

  01/〜03/片山潜がウラジオストックから日本海を経て上海へ
     04/北京からモンゴルのウランバートルへ
     1926(大正15・昭和01)08/モスクワへ戻る
  03/東京府荏原郡森ケ崎の温泉宿で佐野文夫、荒畑寒村、徳田球一、野坂参三らが会議
     「第1次共産党」の解体を決定し、ビューロー(残務整理委員会)を設置する。森ケ崎会議
     2月から3月の会合で荒畑を除くほとんどの幹部が提案に同意し「解散声明」を決議。第1次共産党は解散する
     「第1次共産党」の創立は1921(大正10)7月15日
  05/19才の高橋貞樹が『被差別部落一千年史』を更生閣から発行する
  07/関東大震災の余波で高畠素之の『資本論』第1巻、第3巻を出版していた大鐙閣が倒産
     大鐙閣の元社員が作っていた而立社で第2巻が出版
     日本で初めて『資本論』が完訳される
     1926(大正15)10/新潮社から改訳『資本論』全4冊が刊行
     新潮社版初回刊行は1925(大正14)10月
     1928(昭和03)04/改造社から改訳『資本論』全5冊が刊行
     改造社版初回刊行は1927(昭和02)10月。戦前の翻訳『資本論』の定本となる
  09/01和田久太郎が大杉栄ら虐殺の報復として、福田雅太郎陸軍大将を狙撃するも未遂に
  11/15難波大助が大逆罪で死刑に処せされる[1899(明治32)11/07生]
     難波は1923(大正12)12月27日に摂政の皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)に対して近接狙撃。虎ノ門事件
     失敗し「革命万歳」と叫び逃走をはかる。周囲の群衆の暴行を受けるなか警備の警官に現行犯逮捕される

1925(大正14)

  04/10加藤時次郎の『平民』第222号を『凡人の力』と改題する
     創刊は1914(大正03)2月10日の『生活の力』、1917(大正06)10月10日に『平民』と改題
     発行所は加藤病院内の生活社。月1回発行、B6判14ページ建て。紙質をあげ1部10銭に
     発行兼編輯人は榊原龍之輔、印刷人は岡千代彦、編集には守屋貫教があたる
     1930(昭和05)05/10加藤時次郎が関与するのは第283号まで
  05/10飛松与次郎が秋田刑務所を仮出獄
     大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1948(昭和23)06/26崎久保誓一とともに刑の言い渡しの効力を失わせる「復権」が確定する
     1953(昭和28)09/1064才のとき熊本県山鹿村で死去【65才?】
  07/改造社が細井和喜蔵の『女工哀史』を発行する

1926(大正15・昭和01 12/25〜

  08/片山潜が中国、モンゴルからモスクワへ戻る
     1933(昭和08)11/05片山潜(74)が敗血症のためモスクワクレムリン病院で死去
  10/011923(大正12)9月16日の大杉事件の甘粕正彦憲兵大尉が仮釈放される
     甘粕らは関東大震災の混乱に乗じて大杉栄、伊藤野枝、橘宗一を虐殺
  10/新潮社から高畠素之が大鐙閣・而立社版の改訳『資本論』全4冊を刊行
     新潮社版初回刊行は1925(大正14)10月
     1928(昭和03)04/改造社から改訳『資本論』全5冊が刊行
     改造社版初回刊行は1927(昭和02)10月。戦前の翻訳『資本論』の定本となる

1926(大正15・昭和01)頃

  和歌山県田辺町で毛利柴庵を社長、主筆として1900(明治33)4月4日【04/14?】に創刊した地方新聞『牟婁新報』が廃刊となる

1927(昭和02)

  05/02午後6時5分、景山英子(福田英子)[1865(元治02・慶応01)11/22《10/05》生]が61才で没す

1928(昭和03)

  04/改造社から高畠素之が大鐙閣・而立社版、新潮社版の改訳『資本論』全5冊を刊行
     改造社版初回刊行は1927(昭和02)10月。戦前の翻訳『資本論』の定本となる

1929(昭和04)

  02/堺利彦が東京市会議員選挙に牛込区から立候補し、最高得票での当選を果たす
  04/29崎久保誓一が秋田刑務所を仮出獄
     大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1948(昭和23)06/26飛松与次郎とともに刑の言い渡しの効力を失わせる「復権」が確定する
     1955(昭和30)10/3070才のとき市木村で死去
  04/29成石勘三郎が武田九平とともに長崎刑務所を仮出獄
     大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1931(昭和06)01/0352才で病死する
  04/29武田九平が成石勘三郎とともに長崎刑務所を仮出獄
     大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1932(昭和07)11/2958才のとき大阪市東区北浜3丁目で交通事故で死亡

1930(昭和05)

  03/28内村鑑三が朝「非常に調和がとれて居るがこれでよいのか」の言葉を最後に昏睡状態におちいる
     午前8時51分に家族に見守られて死去[1861(万延02)03/23《02/13》生]
  05/10加藤時次郎が関与するのは『凡人の力』第283号まで
     創刊は1914(大正03)2月10日の『生活の力』
     1917(大正06)10月10日に『平民』と改題、
     さらに1930(昭和05)4月10日に『凡人の力』に改題
     05/30加藤が死去するも『凡人の力』は刊行される
     1943(昭和18)09/10『凡人の力』が第441号で廃刊となる
  05/30加藤時次郎が73才で死去する[1858(安政05)02/14《01/01》生]
     06/01芝二本榎承教寺で密葬
     06/05芝二本榎承教寺で本葬と告別式が営まれる
     杉田日布(身延山法王)、山田三良(法華会代表)、清水牧三郎(信行会総代)、
     北里柴三郎(東京府医師会長)、金杉英五郎(東京市医師会長)、松曄(京橋区医師会長)、
     麻生久(日本大衆党)、荻野庫三(社会政策実行団)らが弔辞を述べる
     06/29池上本門寺の墓所に埋骨され黒田忠悳が墓誌を記す。戒名は本時院医王日遠居士
  11/16午前5時頃、神奈川県川崎市の富士瓦斯紡績川崎工場の労働争議で、男が工場の煙突にのぼる
     煙突は排出口付近の周囲に足場があり、男は足場に陣取り頂上の避雷針に赤旗を結びつける
     小旗を振りながら争議を扇動する演説を行なう。長期滞在を見込み5日分の食料を用意
     日曜日ながら工場は仕業日で、男の出現に一時騒然となる。警官が警戒するなか平常通り操業が行なわれる
     居合わせた争議団員は警察に検束される
     男は睡眠時には油紙と外套をかぶり、起きているときは折をみて演説や軽口を繰り返す
     11/17夜、警察が見守るなか、争議団と男が会話を交わす。煙突からの煙で男の顔や旗は真っ黒に
     男の出現は17日の各新聞で報じられ野次馬が集まりはじめる。会社側は急きょ周囲に電灯を増設する
     11/18朝、争議団と警察が協議。争議団代表が水や食糧を持って煙突にのぼり男におりるよう説得。不調に終わる
     男は争議団からの説得により食料を受け取るのと引き替えに、避雷針にくくりつけていた赤旗をはずす
     夕方警察が争議団の申し出た再度の食料補給を拒否
     会社側は男の説得に成功した者に報奨金を出すと表明
     11/19失業者数名が煙突に上ることを申しでる
     警察と会社側は男を実力で地上に下ろす方法を検討するが妙案はでず
     昭和天皇が中国地方での陸軍特別大演習視察から帰京
     お召し列車が11月21日午後、近くの東海道線を通過する予定に
     警察は赤旗が通過時に掲げられ、列車に乗る天皇から見えることを恐れる
     夜7時頃、時事新報の新聞記者加藤重六が煙突の梯子をのぼり、25分にわたり男と会見
     男は鎌倉町鵠沼に住む田辺潔と名乗り、防寒用に記者からチョッキを借り受ける
     男は「解決するまで決して下りない」と答える。会見内容は翌日の時事新報に掲載、男の名前が明らかに
     11/20再度争議団関係者が煙突に上るが、田辺は改めて争議の完全解決を要求。滞在を続けることに
     午後、田辺の実兄、社会学者の田辺寿利がもう1人の兄とともに現場におもむく
     田辺を弟と確認した寿利は川崎警察署長と面談。行為が不敬行為にあたらないことを確認し、生命の保障を署長に依頼
     争議の解決と弟の生命の問題を切り離し、後者について署長、工場長、争議団責任者での会談を開くことを提案
     提案は署長の同意を得、寿利は工場長と争議団を説得して同意を取りつける
     夜11時、署長に開催を求めるが「必要を認めない」と拒絶。警察は会社側に争議解決を働きかける方針に転る
     11/21未明、東京から労農党本部の関係者が争議の支援に訪れる。警察側は検束せずに会社側との交渉にあたらせる
     11/216日目。近隣の川崎大師の縁日と重なり群衆は1万人近くに
     正午から川崎警察署長が会社と争議団の調停に入ると、覚書が取り交わされ午後1時半頃に争議は妥結する
     内容は争議者への一時金の支給、除名者の復職と給与の支給、社宅や寮に居住していた解雇者への移転料の支給など
     妥結が伝えられると男は午後3時22分に地上に下り立つ。ただちに工場付属の病院に入院
     煙突男の滞在時間は130時間22分に
     11/28田辺は退院後、住居侵入罪で検束される
     のち釈放後は労農党の演説会で弁士として活動
     のち労農党から離れ日本共産党系の日本労働組合全国協議会(全協)にかかわり活動
     1933(昭和08)02/14横浜市中区の川から遺体で発見される。事故死として報じられる
     共産党機関紙「赤旗」第122号は、1月に伊勢佐木警察署に逮捕され拷問を受けて「虐殺された」と伝える

1931(昭和06)

  01/03成石勘三郎が52才で病死する[1880(明治13)02/05生]
     大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1929(昭和04)4月29日に武田九平とともに長崎刑務所を仮出獄
  04/29小松丑治が岡林寅松とともに長崎刑務所を仮出獄
     大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1945(昭和20)10/04困窮のなか70才で死去
  04/29岡林寅松が小松丑治とともに長崎刑務所を仮出獄
     大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1946(昭和21)02/24坂本清馬とともに刑の言い渡しの効力を失わせる「復権」が確定する
     1948(昭和23)09/0173才のとき高知で死去
  10/01坂本清馬が秋田刑務所から高知刑務所へ移送される
     大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1934(昭和09)11/03高知刑務所を仮出獄
  12/03花井卓蔵が東京神田の自宅兼事務所の寝室にてガス中毒により死去[1868(慶応04)07/31《06/12》生]
     就寝中にガス火鉢のガス管が何らかの理由で外れる
     のち通夜、葬儀には多くの法曹関係者が駆けつけ、いくつかの重要裁判の公判が延期となる

1932(昭和07)

  11/29武田九平が58才のとき大阪市東区北浜3丁目で交通事故で死亡[1875(明治08)02/20生]
     大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1929(昭和04)4月29日に成石勘三郎とともに長崎刑務所を仮出獄

1933(昭和08)

  01/23堺利彦[1871・01/15《明治03・11/25》生]が脳溢血で死去。享年64才【01/13?、62才?】
     枕下には妻為子、娘真柄、女中おふみ、荒畑寒村の4人がつく
     01/27告別式が青山斎場で行なわれる
     山川均が葬儀委員長、服部浜次が司会。山川の挨拶にはじまり荒畑寒村が堺の略歴を述べる
     石川三四郎、長谷川如是閑、馬場孤蝶、鈴木茂三郎、葉山嘉樹らが挨拶
     さらに安部磯雄、杉山元治郎、島上善五郎、河野密、松岡駒吉、赤松常子、浅沼稲次郎、麻生久が弔辞を述べる
     現職の拓務大臣永井柳太郎も出席
     告別式には臨官がいて参列者の弔辞に「注意!」「中止!」の声がかかる
     娘真柄の謝辞の「父は、父は」で「中止、解散」と飛び出してきた警官に告別の会衆は追い散らされる
  02/14煙突男こと田辺潔が横浜市中区の川から遺体で発見される
     田辺は事故死として報じられる
     共産党機関紙「赤旗」第122号は、1月に伊勢佐木警察署に逮捕され拷問を受けて「虐殺された」と伝える
     1930(昭和05)11月16日、煙突男は富士瓦斯紡績川崎工場の労働争議で、工場の煙突に上り争議の支援活動を行なう
     6日目の11月21日、妥結が伝えられ男は午後3時22分に地上に下り立つ。ただちに工場付属の病院に入院
     煙突男の滞在時間は130時間22分に
     11月28日、退院後、田辺は住居侵入罪で検束され、のち釈放
     労農党の演説会で弁士として活動するも離れ、日本共産党系の日本労働組合全国協議会(全協)にかかわり活動をしていた
  02/20築地署の特別高等警察に検挙された小林多喜二が3時間にわたる拷問を受け息絶える
     [1903(明治36)10/13生]
     指と前歯が折られ蹴り上げられた睾丸と陰茎は通常の3倍にまで膨れ上がる
     こめかみや二の腕には焼け火鉢を突き刺した跡。太股には錐か千枚通しで刺されたような穴が15、6か所も残る
     凄惨なリンチが死をもたらしたのは誰に目にも明らか。でも警察は死因を心臓麻痺と発表
     多喜二の関係者が望んだ遺体解剖については、どの医療機関もかかわりを恐れて引き受けず
  05/10中央公論社が『堺利彦全集』の刊行を開始。10/18まで、全6巻
     編集は荒畑寒村、白柳秀湖、大森義太郎、山川均
  11/05片山潜[1859(安政06)12/26《12/03》生]が敗血症のためモスクワクレムリン病院で死去。74才
     11/09葬儀には15万人のソビエト市民やコミンテルン指導者らが集まる
     棺にはカリーニン、ヨシフ・スターリン、ヴィルヘルム・ピーク、ベーラ・クン、野坂参三ら14人が付き添う
     遺骨はクレムリン宮殿の壁に他の倒れた同志たちと共に埋葬される

1934(昭和09)

  09/01竹久夢二(本名竹久茂次郎)が長野県八ケ岳山麓の富士見高原療養所で死去。49才[1884(明治17)09/16生]
  11/03坂本清馬が高知刑務所を仮出獄
     大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1946(昭和21)02/24岡林寅松とともに刑の言い渡しの効力を失わせる「復権」が確定する
     1975(昭和50)01/1589才で死去【84才?】

1935(昭和10)

  32才の堺真柄が高瀬清と離婚後、近藤憲二と結婚
     高瀬との結婚は1923(大正12)、真柄が20才のとき

1936(昭和11)

  02/26陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが武力による政治改革を目ざし1483人の兵を率いてクーデターを起こす
     二・二六事件(不祥事件、帝都不祥事件)
  12/吉川守圀の『荊逆星霜史』が不二屋書房より300部で限定刊行する
     のちすぐ発売禁止の処分を受ける
     1957(昭和32)08/15青木書店の文庫版「資料日本社會運動思想史明治後期第9集(別巻)」に他3篇と収録される
     定価140円。解説は岸本英太郎
     他3篇は、吉川の「兇徒聚集事件の思ひ出話」(「労働雑誌」昭和11年7月)、
     「電車値上反對兇徒聚集事件判決」(「光」明治39年8月5日号、第一審判決)、
     山口孤剣の「日本社會主義運動史」(「改造」大正8年10月)

1937(昭和12)

  08/14北一輝(52)が軍法会議で二・二六事件の理論的首謀者とされ死刑判決[1883(明治16)04/03生]
     08/19元騎兵少尉で愛弟子の西田税(34)とともに処刑される
  11/05木下尚江が69才で没する[1869(明治02)10/12《09/08》生]

1938(昭和13)

  03/20新田融が59才のとき東京で死去[1880(明治13)03/12生]
     大逆事件での判決で懲役11年。大逆罪でなく爆発物取締罰則違反に
     1916(大正05)10月10日に千葉監獄を仮出獄

1939(昭和14)

  08/14吉川守圀[1883(明治16)02/18生]が57才で死去

1940(昭和15)

  09/秋山定輔の日刊『二六新報』が新聞の戦時統制で『日刊工業新聞』と合併
     日刊『二六新報』は1893(明治26)10月26日、秋山定輔(26)が中心となり東京は神田で創刊される
     1895(明治28)5月に資金難と日清戦争後の対外政策に反対する論陣を張り休刊に追い込まれる
     1900(明治33)2月、秋山の同郷岡山の友人の資金援助を得て復刊する
  10/01「朝報社」発行の『万朝報』『東京毎夕新聞』に吸収され廃刊となる
  10/23西川光次郎[1876(明治09)04/29生]が醸母菌脳膜炎で64才で没する
     10/27遺言により神式にて告別式を行なう
  11/24西園寺公望が享年92、満90才で死去する[1849(嘉永02)12/07《10/23》生]
  福岡の『九州日報』が読売新聞社に買収される
     『九州日報』は1877(明治20)8月11日に玄洋社の頭山満を中心に刊行した『福陵新報』を1898(明治31)に改題
     1942(昭和17)08/10新聞統制により「福岡日日新聞」と合同し『西日本新聞』に改められる

1942(昭和17)

  08/10福岡の『九州日報』が新聞統制により「福岡日日新聞」と合同し『西日本新聞』に改められる
     『九州日報』は1877(明治20)8月11日に玄洋社の頭山満を中心に刊行した『福陵新報』を1898(明治31)に改題
     1940(昭和15)には読売新聞に買収される

1943(昭和18)

  09/10加藤時次郎の『凡人の力』が第441号で廃刊となる
     加藤は1930(昭和05)5月10日に死去するも『凡人の力』は刊行される
     創刊は1914(大正03)2月10日の『生活の力』、
     1917(大正06)10月10日に『平民』と改題、
     さらに1930(昭和05)4月10日に『凡人の力』に改題

1944(昭和19)


1945(昭和20)

  03/10午前0時07分、B-29爆撃機325機(うち爆弾投下機279機)による爆撃が東京の深川地区へ初弾が投下
     城東地区にも攻撃が開始される
     0時15分空襲警報が発令
     0時20分浅草地区や芝地区でも爆撃が開始。「東京大空襲」
     火災の煙は高度1万5千米の成層圏にまで達し、秒速50米以上、竜巻並みの暴風が吹き荒れる
     午前2時37分アメリカ軍機は退去し空襲警報は解除される
     警視庁調査の被害数は死亡8万3793人、負傷者4万918人、被災者100万8005人、被災家屋26万8358戸
     民間団体や新聞社の調査では死者行方不明者は10万人以上
     わずか1回の空襲で東京市街地の東半分、実に東京35区の3分の1以上の約41平方粁が焼失
     空襲での爆弾の制御投下弾量は38万1300発、1783瓲
     アメリカ側の損害は撃墜・墜落が12機と、撃破が42機
  10/04小松丑治が困窮のなか70才で死去[1876(明治09)04/15生]
     大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1931(昭和06)4月29日に岡林寅松とともに長崎刑務所を仮出獄
  11/21GHQの指令に基づく「治安警察法廃止等ノ件(勅令第638号)」により治安警察法が廃止となる
     公布は1900(明治33)3月10日

1946(昭和21)

  02/24岡林寅松が坂本清馬とともに刑の言い渡しの効力を失わせる「復権」が確定する
     岡林は大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1931(昭和06)4月29日に小松丑治とともに長崎刑務所を仮出獄
     1948(昭和23)09/0173才のとき高知で死去
  02/24坂本清馬が岡林寅松とともに刑の言い渡しの効力を失わせる「復権」が確定する
     坂本は大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1934(昭和09)11月3日に高知刑務所を仮出獄
     1975(昭和50)01/1589才で死去【84才?】

1947(昭和22)

  05/03GHQの指示で公示により金鵄勲章の制度が廃止となる
     金鵄勲章は1890(明治23)2月11日の紀元節のこの日、「金鵄勲ノ等級製式佩用式」の勅令11号をもって制定される
     金鵄勲章は武功抜群な陸海軍人に与えられる勲章。功1級から功7級まで
  05/安部磯雄著の『地上の理想国 瑞西』が大原社会問題研究所から「社会問題名著選」の1冊として再版。解説は権田保之助
     『地上の理想国 瑞西』は1904(明治37)5月28日に平民文庫から刊行
     ヴヰンセントの「瑞西の政治」とドウソンの「社会的瑞西」から抜粋して著わす
     四六半截版152ページ、定価15銭。初版は2千部
     著作兼発行人は安部磯雄、印刷人は石川三四郎、印刷所は国光社、発行所は平民社
  10/09田川大吉郎が衆議院議員在職中に死去[1869(明治02)11/29《10/26》生]

1948(昭和23)

  06/26飛松与次郎が崎久保誓一とともに刑の言い渡しの効力を失わせる「復権」が確定する
     飛松は大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1925(大正14)5月10日に秋田刑務所を仮出獄
     1953(昭和28)09/1064才のとき熊本県山鹿村で死去【65才?】
  06/26崎久保誓一が飛松与次郎とともに刑の言い渡しの効力を失わせる「復権」が確定する
     崎久保は大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1929(昭和04)4月29日に秋田刑務所を仮出獄
     1955(昭和30)10/3070才のとき市木村で死去
  09/01岡林寅松が73才のとき高知で死去[1876(明治09)01/30生]
     大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1931(昭和06)4月29日に小松丑治とともに長崎刑務所を仮出獄

1949(昭和24)

  02/10安部磯雄が85歳で没する[1865(元治02)03/01《02/04》生]

1953(昭和28)

  03/木下尚江の『良人の自白』が岩波文庫から上、中、下、続と順次復刻される
  09/10飛松与次郎が64才のとき熊本県山鹿村で死去【65才?】[1889(明治22)02/26生]
     大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1925(大正14)5月10日に秋田刑務所を仮出獄

1955(昭和30)

  10/30崎久保誓一が70才のとき市木村で死去[1885(明治18)10/12生]
     大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1929(昭和04)4月29日に秋田刑務所を仮出獄

1956(昭和31)

  11/28石川三四郎(旭山)が80歳で没する[1876(明治09)05/23生]
     12/07しのぶ会が開かれる。友人や同志、後輩など二百数十人が集まる
     旧い同志、添田唖蝉坊、柴田三郎、西川光二郎、及川鼎寿、大杉栄、堺利彦の息子、娘の姿も
     ヴァイオリンをひく、詩をよむ、思い出をかたる、礼賛する、思想的解剖をする、素破ぬきをするなど

1957(昭和32)

  08/15青木書店から文庫版「資料日本社會運動思想史明治後期第9集(別巻)」が発行される
     定価140円。解説は岸本英太郎
     収録は吉川守圀の『荊逆星霜史』のほか、「兇徒聚集事件の思ひ出話」(「労働雑誌」昭和11年12月)、
     「電車値上反對兇徒聚集事件判決」(「光」明治39年8月5日号、第一審判決)、
     山口孤剣の「日本社會主義運動史」(「改造」大正8年10月)

1958(昭和33)

  01/22山川均が終日臥床の状態に、病状は悪化
     03/23午前6時7分、死去。解剖の結果、主として膵臓癌と判定される[1880(明治13)12/20生]
     04/02青山斎場にて日本社会党葬。倉敷市前神町長連寺の山川家墓地に埋葬

1964(昭和39)

  06/07高群逸枝[1894(明治27)01/18生]が77歳で没する
  09/木下順次の戯曲「冬の時代」が劇団民藝により東京で初演。演出は宇野重吉
     のち大阪、京都、神戸、名古屋を巡演し70回ほどの公演
     パンフレットには木下順次のほか向坂逸郎、猪野謙二、荒畑寒村、松本清張、橋浦時雄、山川菊枝、近藤真柄らが寄稿
     主なキャストは滝沢修(堺利彦・渋六)、小夜福子(堺夫人・奥方)、鈴木瑞穂(大杉栄・飄風)、
     芦田伸介(荒畑寒村・ショー)、大滝秀治(高畠素之・ノギ)、山内明(橋浦時雄・不敬漢)、
     松下達夫(白柳秀湖・デブ)、堀井永子(伊藤野枝・エンマ)、水谷貞雄(山川均・二銭玉)、
     阪口美奈子(寺本みち子・テの字)、北林谷栄(お婆さん)など
     11/第19回芸術祭公演として東京の日経ホールで再演される
  10/15南助松が91歳で没する【1965(昭和40)93才で没?】
     [1873(明治06)08/10生【1872(明治05)生?】]

1973(昭和48)

  02/24古河鉱業足尾銅山が操業を停止し閉山となる【02/28?】

1975(昭和50)

  01/15坂本清馬が89才で死去【84才?】[1885(明治18)07/04生]
     大逆事件に連座したとされ捕らわれるも、特赦減刑の恩名があり特に死一等を減ぜられ無期懲役に
     1934(昭和09)11月3日に高知刑務所を仮出獄

1980(昭和55)

  11/02山川菊枝が死去[1948(昭和23)11/03生]

1981(昭和56)

  01/24「大逆事件の真実をあきらかにする会」が大逆事件処刑70周年を記念して堺利彦の『大逆帖』を復刻出版する
     『大逆帖』は堺が被告からの手紙を集めてつくった1冊のスクラップブック
  03/06荒畑勝三(寒村)[1887(明治20)08/14生]が96才で死去
  08/01午後5時、神近市子[1888(明治21)06/06生]が93歳で没する

1983(昭和58)

  03/18堺利彦の長女、堺真柄が80才で死去[1903(明治36)01/30生]


創刊の辞と廃刊の辞

電車賃値上反対運動の記事

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東京の電車略年表(3社合併まで)

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