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〈鎌倉時代〉

1329(嘉暦04、元徳01・08/29)【後醍醐】 >己巳(つちのとみ)


1331([南朝]元徳03、元弘01・08/09【後醍醐】)([北朝]元徳03【光厳】)以降 辛未(かのとひつじ)

  地名として「長崎」の字が定着するようになる
     それまでは深江浦や瓊の浦の名称が史料に見られ、ときに永崎浦とも記されるようになる
  松浦党が第10代大村澄遠、第11代純興を後醍醐天皇方に応ずる
     松浦党は海上勢力を増大、大陸貿易の主力となる。平戸は貿易港として重要な位置を占める


〈室町時代〉

1333([南朝]元弘03【後醍醐】)([北朝]正慶02【光厳】癸酉(みずのととり)

  03/江串三郎入道が尊良親王を奉じ千綿に挙兵する
  05/22新田義貞が上野国で挙兵し、これに呼応した関東の御家人らと鎌倉を攻略
     北条氏は滅亡し、鎌倉幕府は幕を閉じる。元弘の乱
  05/大友、少弐、島津ら九州の有力な守護が鎮西探題を攻める。北条英時は自刃し探題は滅びる
     この戦で彼杵、高来の武士は少弐方に参陣。深堀時継、深堀仲家、深堀光仲、高浜政綱、福田兼信らの名がみられる


〈室町時代〉1・南北朝時代

1336([南朝]建武03、延元01・02/29【後醍醐】)([北朝]建武03【光明】丙子(ひのえね)

  03/朝廷軍に敗れた足利尊氏が九州に逃れ、諸国の武士に菊池氏らを討つことを命じる
     深堀一族と伊佐早荘の江浦氏は一色軍に属し豊後国などに転戦。尊氏に忠節をつくす
     松浦、千葉、大浦氏らは阿蘇氏とともに菊池武敏に従い足利軍と戦うが阿蘇氏は討たれ大村純興も敗北
     純興は山谷に身をかくし、大村領は一時足利の領地となる
  04/足利尊氏が一色範氏を留守として博多に置く。自らは九州の兵を率いて東上
     深堀時通、時広や龍造寺家親らは博多を警固する。菊池武敏は再起し大村氏はこれに従う
     のち九州を重視した尊氏は仁木義長、一色範氏らを九州に残留させ、九州武士団の統轄にあたらせようとする
     のち九州探題の創設へとつながる
  08/佐竹氏義、今川助時の命令で深堀時通、時広や福田兼信、兼秀らが出陣。菊池武敏と戦う
  足利尊氏が光明天皇を践祚、後醍醐天皇の吉野転居により天皇王朝が分裂
     ○足利尊氏は三種の神器を接収し持明院統の光明天皇を京都に擁立(北朝)
      その上で建武式目を制定し、施政方針を定め正式に幕府を開く
     ○後醍醐天皇は京都を脱出して奈良の吉野へ逃れる
      「北朝に渡した神器は贋物であり光明天皇の皇位は正統ではない」と主張して吉野に南朝(吉野朝廷)を開く
     南朝(大和国吉野行宮)と北朝(山城国平安京)に2つの王朝が存在することに
     1392(南/元中09・北/明徳03)南北両王朝が合一する
     南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)間で和議と皇位継承が協定で結ばれる。明徳の和約
     11/19《閏10/05》和約に従い、南朝の後亀山天皇が吉野から京都に帰還、北朝の後小松天皇に三種の神器を譲り退位
     南北朝の合一が図られ1336(南/建武03、延元01・北/建武03)以来の朝廷の分裂状態が終了する

1338([南朝]延元03【後醍醐】) ([北朝]建武05、暦応01・08/28【光明】戊寅(つちのえとら)

  08/11足利尊氏が北朝の光明天皇から征夷大将軍に任じられる。室町幕府が名実ともに成立

1346([南朝]興国07、正平01・12/08【後村上】)([北朝]貞和02【光明】丙戌(ひのえいぬ)

  島原半島一円に勢力を伸ばす有馬連澄が日野江城を築く
     60〜70米の台状台地の上にあった山城で、本丸を中心に南東部に二の丸、北西部には三の丸が築かれる
  赤松貞範により姫路城が築城

1350([南朝]正平05【後村上】) ([北朝]貞和06、観応01・02/27【崇光】庚寅(かのえとら)

  将軍足利氏が岩屋山神宮寺を修復し寺領若干を付す
     1555(弘治01)有馬軍勢が乱入、風上から放火したため本坊、別院など諸堂宇がことごとく全焼
  崇嶽の神宮寺が征西将軍懐良親王により修復。5千貫の地を付与
     1581(天正09)10/切支丹宗徒の放火により焼亡

1354([南朝]正平09【後村上】) ([北朝]文和03【後光厳】甲午(きのえうま)

  田上に皆行庵として創建
     1663(寛文03)島原藩主高力摂津守忠房が再興し田上寺と改称

1363([南朝]正平18【後村上】)([北朝]貞治02【後光厳】癸卯(みずのとう)

  08/大村南方36騎の党盟がなされ長崎氏第7代矢上八郎重純が参加
     南北朝の内乱を契機に拡大した守護勢力の侵入に対し彼杵地方に割拠する在地領主が独自で阻止する力を持たず
     一揆をむすび連判状に署名して地域的結束をかためる。正平の一揆連判状

1368([南朝]正平23【長慶】) ([北朝]貞治07、応安01・02/18【後光厳】戊申(つちのえさる)

  紅巾軍の一方の将領で貧農出身の朱元●(王篇に章、太祖・洪武帝)が南京を根拠に長江流域の統一に成功
     明を建国
     のち洪武帝は北伐を始め、順帝(トゴン・テムル・ハーン)は大都(北京)を放棄して北に逃れる
     万里の長城以南の中国が明に統一される。江南から誕生した王朝が中国を統一したのは明が初めてで唯一

1372([南朝]建徳03、文中01・04/?【長慶】)([北朝]応安05【後円融】壬子(みずのえね)

  09/大村南方75騎の党盟がなる。応安の一揆連判状。一揆の連署者は東西彼杵の全域に及ぶ
     早岐村、針尾、宮村、川棚村、波佐見村、彼杵村、壱岐力(伊木力)村、時津村、浦上村、大浦村、戸町村、
     樒(式見)村、雪浦村、あるいは浦上村の中野、家野、淵、また深堀、高浜、野茂(野母)など
     村名、地名を名乗る多数の在地領主が名を連ねる
     なかには長崎村の第7代長崎矢上八郎平重純、第8代周防権守入道の名も

1373([南朝]文中02【長慶】)([北朝]応安06【後円融】癸丑(みずのとうし)

  九州探題の今川了俊(貞世)の軍が高来郡の宇木(有喜)城、西郷藤三郎、神代城、有家城などを攻める
     深堀時広・時澄、福田兼澄・兼愛らは今川軍に従い各地で戦う。時広は筑後、肥後にも出陣し功をたてる


〈室町時代〉2・足利時代

1392([南朝]元中09【後亀山】) ([北朝]明徳03【後小松】)閏10/05南北合一 壬申(みずのえさる)

  南北両王朝が合一する
     南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)間で和議と皇位継承が協定で結ばれる。明徳の和約
     11/19《閏10/05》和約に従い、南朝の後亀山天皇が吉野から京都に帰還、北朝の後小松天皇に三種の神器を譲り退位
     南北朝の合一が図られ1336(南/建武03、延元01・北/建武03)以来の朝廷の分裂状態が終了する

1393(明徳04)【後小松】 癸酉(みずのととり)

  酉誉聖聡が武蔵国貝塚(千代田区麹町、紀尾井町)の光明寺を真言宗から浄土宗に改宗。三縁山広度院増上寺となる
     光明寺は空海の弟子・宗叡が建立。増上寺の実質上の開基は聖聡
     1590(天正18)徳川家康が江戸入府の折、たまたま増上寺の前を通りかかる
     源誉存応上人と対面し菩提寺となるきっかけに
     のち貝塚から、一時、日比谷へ移る
     1598(慶長03)江戸城の拡張に伴い、徳川家康により芝へ移される
     のち徳川将軍15代のうち6人(秀忠、家宣、家継、家重、家慶、家茂)が葬られる

1397(応永04)【後小松】 丁丑(ひのとうし)

  04/16室町幕府3代将軍足利義満が自邸の山荘北山殿を改築。立柱上棟式が行なわれる
     義満の死後禅寺に改め法名をとり鹿苑寺と名づく。鹿苑寺の通称は金閣寺
     1950(昭和25)07/02未明、鹿苑寺から出火
     消防隊が駆けつけると、既に舎利殿から猛烈な炎が噴出して手はつけられない状態
     国宝の舎利殿(金閣)46坪が全焼。足利義満の木像、観音菩薩像、阿弥陀如来像など文化財6点が焼失
     現場検証すると普段は火の気がないこと、なぜか寝具が付近に置かれ不審火の疑い
     見習い僧侶で大谷大学学生の林承賢(21)の行方を捜索
     夕方、金閣寺の裏の山中で薬物のカルモチンを飲み切腹してうずくまっていた林を発見、放火の容疑で逮捕
     1955(昭和30)国や京都府の支援、地元経済界などからの浄財により再建される
     明治時代に大修理が施され、詳細な図面が残されておりきわめて忠実な再現が可能に

1399(応永06)【後小松】 己卯(つちのとう)

  足利義満が相国寺に七重大塔を6年の歳月をかけ落慶。高さ360尺(109.1米)。史上最も高い日本様式の仏塔
     1470(文明02)雷火により焼失

1408(応永15)【後小松】 戊子(つちのえね)

  足利義持の時代に日本に初めて象が渡来
     1575(天正03)2度目の象が渡来
     1728(享保13)3度目の象が渡来
     1816(文化13)甲比丹ヘンドリキ・ドーフが 将軍家へ象の献上を申し出たが、その儀に及ばずと謝絶

1428(応永35、正長01・04/27)【後花園】 戊申(つちのえさる)

  08/農民が初めて一揆をおこす。正長の土一揆
     凶作、流行病、将軍の代替わりなどの社会不安が高まる中、近江坂本や大津の馬借が徳政を求める
     一揆は畿内一帯に広がり、各地で借金苦に苦しんだ農民たちが酒屋、土倉、寺院(祠堂銭)を襲い私徳政を行なう
     幕府は窮し、管領畠山満家に命じて制圧に乗り出す。侍所所司赤松満祐も出兵。 しかし一揆の勢いは衰えず
     09/京都市中にも乱入。奈良にも波及
     のち室町幕府は徳政令をださず、土倉らが持つ借金の証文が破棄され私徳政が行われたのと同じ状態に
     また大和では、国内のほぼ全域を自己の荘園化、かつ幕府から同国守護にも補任されていた興福寺が徳政令を認める
     公式な拘束力をもったものとして施行される

1431(永享03)【後花園】 辛亥(かのとい)

  05/30ジャンヌ・ダルクが異端者として教会から破門、イングランド軍による即時死刑を宣告される
     ルーアン市内のヴィエ・マルシェ広場で火刑に処される

1467(文正02、応仁01・03/03)【後土御門】 丁亥(ひのとい)

  05/268代将軍・足利義政の後継者争いから、室町幕府管領の細川勝元と山名持豊らの有力守護大名が対立。応仁の乱
     のち東西両軍の戦いは膠着状態に
     長引く戦乱と盗賊の跋扈により何度も放火された京都の市街地は焼け野原と化して荒廃
     のち地方へ戦線が拡大。細川による西軍諸大名に対する後方撹乱策が原因
     範囲は奥羽・関東・越後・甲斐を除くほぼ全国に広がる
     戦国時代に突入するきっかけとなる
     1477(文明09)12/16《11/11》諸大名が撤収したことで西軍が事実上解体。京都での戦闘は収束


〈室町時代〉3・戦国時代

1468(応仁02)【後土御門】 戊子(つちのえね)

  桜島が噴火。被害の記録がなく詳細は不明
     1471(文明03)10/25《09/12》大噴火が起こり、北岳の北東山腹から溶岩(北側の文明溶岩)が流出。死者多数
     1473(文明05)噴火がある
     1475(文明07)08/15桜島南西部で噴火が起こり溶岩(南側の文明溶岩)が流出する
     1476(文明08)09/12桜島南西部で再び噴火が起こり死者多数をだす。沖小島と烏島が形成される
     1779(安永08)11/08《10/01》桜島で大噴火(安永大噴火)が起きる
     朝、井戸水が沸き立ち海面が変色するなどの異変が観察。正午頃、南岳山頂付近で白煙が目撃される
     昼過ぎ、桜島南部から大噴火がはじまる。直後、桜島北東部からも噴火がはじまる
     夕方、南側火口付近から火砕流が流れくだる
     夕方から翌朝、大量の軽石や火山灰を噴出、江戸や長崎でも降灰する
     11/09《10/02》北岳の北東部山腹と南岳の南側山腹から溶岩の流出がはじまる
     11/10《10/03》溶岩が海岸に達する(安永溶岩)
     1780(安永09)08/06《07/06》桜島北東海上で海底噴火が発生
     1781(安永10)04/11《03/18》昨年とほぼ同じ場所で海底噴火、津波が発生し被害が報告される
     一連の海底火山活動により桜島北東海上に燃島、硫黄島、猪ノ子島など6つの火山島が形成。安永諸島と名づけられる
     一連の火山活動による噴出物量は溶岩が約1.7立方粁、軽石が約0.4立方粁に
     薩摩藩の報告によると死者153人、農業被害は石高換算で合計2万3千石以上となる

1470(文明02)【後土御門】 庚寅(かのえとら)

  相国寺の七重大塔が雷火により焼失
     七重大塔は高さ360尺(109.1米)。史上最も高い日本様式の仏塔

1471(文明03)【後土御門】 辛卯(かのとう)

  10/25《09/12》桜島で1468(応仁02)以来の大噴火が起こり、北岳の北東山腹から溶岩(北側の文明溶岩)が流出。死者多数
     1473(文明05)噴火がある

1473(文明05)【後土御門】 癸巳(みずのとみ)

  桜島で1471(文明03)以来の噴火がある
     1475(文明07)08/15桜島南西部で噴火が起こり溶岩(南側の文明溶岩)が流出する

1474(文明06)【後土御門】 甲午(きのえうま)

  12/第16代大村純伊が大村領萱瀬村島甲中岳での戦いで有馬貴純に敗れる。中岳合戦
     結果、大村領の長崎、浦上、茂木方面は有馬領となり第11代長崎純俊が稲佐に移る
     1480(文明12)大村純伊が有馬勢を撃退。純俊が稲佐から離れる
     のち純伊は敗北後、松浦郡に逃げのび加々良島にひそむ

1474(文明06)頃

  有馬氏が平戸松浦氏の所領を除いて肥前地方に勢力圏を確立。最盛期を迎える

1475(文明07)【後土御門】 乙未(きのとひつじ)

  08/15桜島南西部で1473(文明05)以来の噴火が起こり溶岩(南側の文明溶岩)が流出する
     1476(文明08)09/12桜島南西部で再び噴火が起こり死者多数をだす。沖小島と烏島が形成される

1476(文明08)【後土御門】 丙申(ひのえさる)

  09/12桜島南西部で1475(文明07)以来、再び噴火が起こり死者多数をだす。沖小島と烏島が形成される
     1779(安永08)11/08《10/01》桜島で大噴火(安永大噴火)が起きる
     朝、井戸水が沸き立ち海面が変色するなどの異変が観察。正午頃、南岳山頂付近で白煙が目撃される
     昼過ぎ、桜島南部から大噴火がはじまる。直後、桜島北東部からも噴火がはじまる
     夕方、南側火口付近から火砕流が流れくだる
     夕方から翌朝、大量の軽石や火山灰を噴出、江戸や長崎でも降灰する

1477(文明09)【後土御門】 丁酉(ひのととり)

  12/16《11/11》応仁の乱で諸大名が撤収し西軍が事実上解体。京都での戦闘は収束

1477(文明09)頃

  この頃の豪族。大村氏、有馬氏のほか、平戸に松浦氏、諫早に西郷氏、武雄に後藤氏、佐嘉に龍造寺氏など
     長崎の近隣には深堀氏、福田氏、樒(式見)氏、浦上氏、戸八氏、矢上氏、古閑(賀)氏らの豪族が居館を構える

1480(文明12)【後土御門】 庚子(かのえね)

  08/第16代大村純伊が川棚に上陸し島原諫早の有馬軍を撃破。大村館に入り有馬貴純の女を室として和する
     貴純の三男が第11代長崎純俊の養子となり長崎氏第12代左馬太夫康純となる。甚佐衛門の祖父
     有馬氏は大村氏と和睦後、長崎を引き揚げる。浦上の淵村、山里村、茂木村は有馬領となり長崎氏は長崎村だけの支配に
  大村藩主の大村純伊が島原諫早の有馬軍に勝利して領地を奪回
     突然の勝利の祝いの席に急きょ寿司をふるまい領主や将兵に喜ばれる
     もろぶたを箱にして炊立てのご飯をのせ、上に魚の切り身や野菜、錦糸玉子をのせ味をつけた押し寿司
     寿司は脇差により角切りに切り分けられ「角ずし」とも呼ばれる。「大村寿司」の発祥

1492(延徳04、明応01・07/19)【後土御門】 壬子(みずのえね)

  08/03クリストファー・コロンブスがスペインのパロス港を出航。第1回航海
     スペインのイサベラ女王の支持を得て大西洋からインドを目指す
     編成はキャラベル船のニーニャ号とピンタ号、ナオ船のサンタ・マリア号の3隻
     総乗組員数は約90人【120人?】
     10/12先住民のアラワク族が定住していた土地に到着。コロンブスはサン・サルバドルと名づける
     現在のバハマ諸島のワットリング島、現地でのグアナハニ島
     10/28先住民のタイノ、アラワクが住んでいたキューバ島着
     コロンブスはイサベラ女王の名にちなみフアナ島と名づける
     12/06イスパニョーラ島に到着
     住民たちから話を聞くと、奥地に「シバオ」があるという。「ジバオ」=黄金の国ジパング
     12/24夜中サンタ・マリア号が座礁沈没
     1493(明応02)01/04微風のなかシバオへ。しかしそれらしい町は見つからず
     01/142隻イスパニョーラ島を出帆。スペインのパロス港へと帰国の途につく
     03/15パロス港へ帰還

1493(明応02)【後土御門】 癸丑(みずのとうし)

  01/04クリストファー・コロンブスの船団が微風のなかイスパニョーラ島からシバオへ
     「ジバオ」=黄金の国ジパング。しかしそれらしい町は見つからず
     01/142隻イスパニョーラ島を出帆。スペインのパロス港へと帰国の途につく
     03/15パロス港へ帰還

1496(明応05)【後土御門】 丙辰(ひのえたつ)

  有馬氏8代目領主有馬貴純が日乃江城の支城として平城の原城を築城
     有明海を臨む本丸を中心に二の丸、三の丸、天草丸の4つの曲輪が配され、別名「日暮城」とも呼ばれる
     本丸は30米の断崖に建ち空堀は満潮時に水堀となる天然の要害
     のち有馬晴純の代に至り、有馬氏の全盛時代となるが、次第に衰退
     のち有馬義直の時代には佐賀の龍造寺に再三侵略される
     島津氏の救援で島原沖田畷にて勝利をおさめ、島原半島の南部をかろうじて維持
     1612(慶長17)有馬晴信は岡本大八事件に連座し配流・切腹
     のち岡本大八事件により一時有馬領は没収される
     のち家康の命により、嫡子直純に有馬領4万石が下賜される
     父が処刑されたにも拘わらず14代城主となれたのは異例
     理由には15歳の時から側近として仕えていたこと、家康の曾孫国姫を妻にしていたこと
     のち直純は2年後、日向に転封に
     1616(元和02)大和五条から松倉重政が入封
     1618(元和04)1615(元和01)の一国一城令により日乃江城と原城が廃城。新たに島原城(森岳城)を築く
     1637(寛永14)12/11《10/25》島原一揆が起こる。一揆軍が原城に籠城

1497(明応06)【後土御門】 丁巳(ひのとみ)

  07/08ポルトガル王マヌエル1世によるインド航路開拓の命を受け、ヴァスコ・ダ・ガマ率いる4隻の船団がリスボンを出航
     11/22アフリカ南端の喜望峰を通過し、アラブ人支配下にあったモザンビークに到達する
     アラブ人がインド洋のアフリカ東岸の貿易を支配しており、ダ・ガマは水先案内人イブン・マージドを雇い入れる
     1498(明応07)05/20インド南西のカリカットに到達する
     カリカットはアラブ人との貿易で潤っており、ヨーロッパ人のダ・ガマとアラブ人商人とは対立関係に
     カリカットのサモリン王は双方との取引を望み、いささか不明瞭ながら貿易許可状を与える
     のち3か月滞在し、ダ・ガマは数人のポルトガル人を残して帰路につく
     帰路は生鮮食料品の不足のため壊血病になる者が続出し、180人の船員の内30〜100人が病気にかかって死亡
     ダ・ガマの兄パウロも死亡し、乗員の足りなくなった船1隻を放棄するなど苦しい航海に
     1499(明応08)ザンジバル島(現在はタンザニア領)に寄航
     09/ポルトガルに帰還

1498(明応07)【後土御門】 戊午(つちのえうま)

  05/20ヴァスコ・ダ・ガマ率いる4隻の船団がインド南西のカリカットに到達する
     船団はポルトガル王マヌエル1世によるインド航路開拓の命を受け航海
     カリカットはアラブ人との貿易で潤っており、ヨーロッパ人のダ・ガマとアラブ人商人とは対立関係に
     カリカットのサモリン王は双方との取引を望み、いささか不明瞭ながら貿易許可状を与える
     のち3か月滞在し、ダ・ガマは数人のポルトガル人を残して帰路につく
     帰路は生鮮食料品の不足のため壊血病になる者が続出し、180人の船員の内30〜100人が病気にかかって死亡
     ダ・ガマの兄パウロも死亡し、乗員の足りなくなった船1隻を放棄するなど苦しい航海に
     1499(明応08)ザンジバル島(現在はタンザニア領)に寄航
     09/ポルトガルに帰還
  08/25地震(明応の大地震)による津波で浜名湖の水面が1米以上沈下。結果、湖と外海の水面が直接つながる
     それまで浜名湖は外海よりも水位が高い湖のため津波は湖に浸水することはなくすむ

1499(明応08)【後土御門】 己未(つちのとひつじ)

  ヴァスコ・ダ・ガマ率いる3隻の船団がザンジバル島(現在はタンザニア領)に寄航
     船団はポルトガル王マヌエル1世によるインド航路開拓の命を受け航海
     09/ポルトガルに帰還

1500(明応09)【後柏原】 庚申(かのえさる)

  04/22ペドロ・アルヴァレス・カブラルの艦隊が第2回インド遠征隊の航海途中でブラジルを発見する
     ペドロ・アルヴァレス・カブラルはポルトガル王マヌエル1世に顧問官として仕えたキリスト騎士団の一員

1503(文亀03)【後柏原】 癸亥(みずのとい)

  イタリアの美術家レオナルド・ダ・ヴィンチが24才のモナ・リザを描きはじめる
     制作に3〜4年かける

1507(永正04)【後柏原】 丁卯(ひのとう)

  玉之浦納が主君の宇久家に対して玉之浦納の反乱を起こす

1510(永正07)【後柏原】 庚午(かのえうま)

  朝鮮で三浦の乱が起こり日本との国交断絶。それまでの倭館(三浦=釜山浦・塩浦・薺浦)が閉鎖
     1512(永正09)永正条約を締結。薺浦のみ再開
     1609(度長14)慶長条約で釜山浦に倭館が再設、接待貿易と対馬島民の居留に供される
     日本から銀、銅、胡椒、明ばんなどが輸出、朝鮮からは朝鮮人参、生糸、米などが輸入された
     1678(延宝06)草梁項(現釜山)に李氏朝鮮政府が日本からの通交特使のために設けた客館・新倭館が落成
     その大きさは東西450間、南北250間【規模は諸説あり一定しない】。全面積は約10万坪(出島の25倍)
     高さ6尺の石垣の外側には堀をめぐらし、門が2か所がある
     東に守門(平常の通用門)、北の宴席門は平常は開かず、れん官が来るときだけ開く
     中央に龍頭山、その東に館主館、接礼や貿易のための大庁、裁判所、代官屋、通詞屋が並び、寺院(東向寺)もある
     滞留の日本人(すべて対馬人)は館主以下の役人を含め約600人
      長崎の出島とは正反対に、日本から朝鮮におもむき、対馬藩のみの人たちが鎖国下に堂々と貿易に従事した
     1873(明治06)02/新政府外務省が接収

1512(永正09)【後柏原】 壬申(みずのえさる)

  日本と朝鮮の間に永正条約が締結。倭館・薺浦のみ再開
     1609(度長14)慶長条約で釜山浦に倭館が再設、接待貿易と対馬島民の居留に供される
     日本から銀、銅、胡椒、明ばんなどが輸出、朝鮮からは朝鮮人参、生糸、米などが輸入された
  京都で梅毒が大流行。日本国内で最古の発症事例
     交通の未発達な時代に。コロンブスによるヨーロッパへの伝播からわずか20年でほぼ地球を1周したことに
     沖縄においては、激烈な流行となる

1517(永正14)【後柏原】 丁丑(ひのとうし)

  10/31ドイツの大学の神学教授マルティン・ルターがローマ教会の堕落、免罪符の販売に抗議
     「95か条の意見書」をだす
     ルターは「人は信仰によってのみ救われ、聖書こそ信仰のよりどころである」と説き、宗教改革の口火を切る
     【11/01?】

1520(永正17)【後柏原】 庚辰(かのえたつ)

  10/21フェルナン・デ・マガリャンイスが神業に近い7日間の航海で南米の海峡を通過
     のち彼の名前をとり「マガリャネス海峡」と呼ばれるようになる
     日本語名の「マゼラン海峡」はマガリャンイスの英語呼称を用いた名に基づく慣用表記

1526(大永06)【後奈良】 丙戌(ひのえいぬ)

  石見(島根県大田市)で銀山が発見

1534(天文03)【後奈良】 甲午(きのえうま)

  08/15イグナチオ・デ・ロヨラとパリ大学の学友6人の同志がパリ郊外のモンマルトルの丘の中腹のサン・ドニ聖堂に集まる
     スペイン出身のフランシスコ・ザビエル、アルフォンソ・サルメロン、ディエゴ・ライネス、ニコラス・ボバディリャ、
     ポルトガル出身のシモン・ロドリゲス、サヴォイア出身のピエール・ファーヴル
     ミサにあずかって生涯を神にささげる誓いを立てる。イエズス会が創立
     彼らは清貧・貞潔の誓いとともに誓いを立てる
     「エルサレムへの巡礼と同地での奉仕、それが不可能なら教皇の望むところへどこでもゆく」

1538(天文07)【後奈良】 戊戌(つちのえいぬ)

  有馬晴純の次男純忠(6)が第17代大村純前の養子となる
     1551(天文20)06/15大村純前が没し第18代純忠があとを継ぐ

1540(天文09)【後奈良】 庚子(かのえね)

  王直が東シナ海沿岸海域の貿易を広げるため福江に来航
     領主宇久盛定は喜んで通称を許し江川城下高台に居住地を与える
      王直は玄界灘から東シナ海の広い海洋で最も勢力のある海賊の首領。自ら明儒五峯と名のり暴威を奮う
      呂宋(ルソン)、安南、暹羅(シャム)、マラッカなどに禁制貨物の密貿易をして巨万の富をなす

1541(天文10)【後奈良】 辛丑(かのとうし)

  04/07フランシスコ・ザビエルがポルトガル国王の援助を得てリスボンを出帆し東洋へ向かう旅にでる
  バチカン宮殿内システィーナ礼拝堂の壁画にミケランジェロが「最後の審判」を5年の歳月をかけて完成
  ネーデルラントの地理学者ゲラルドゥス・メルカトルが地球儀を作る

1542(天文11)【後奈良】 壬寅(みずのえとら)

  平戸松浦家第25代松浦隆信は中国の海商王直を誘致、彼を仲介とする中国との交易を行なう

1543(天文12)【後奈良】 癸卯(みずのとう)

  05/23ニコラウス・コペルニクスが死の前日に「天体の回転について」を刊行
     「天体の回転について」では地動説をもとに実際に星の測定方法や軌道計算を行ない発表
     地動説は地球ではなく太陽が宇宙の中心に静止、地球や月や惑星は太陽の周りをまわっているとする説←→天動説
     それまでの地球中心説(天動説)をくつがえす説で天文学史上最も重要な再発見とされる
     1616(元和02)ガリレオ・ガリレイが第1回異端審問所審査でローマ教皇庁検邪聖省から地動説を唱えないよう注意を受ける
     コペルニクスの『天体の回転について』、ローマ教皇庁より閲覧一時停止となる
     1633(寛永10)06/22第2回異端審問所審査でローマ教皇庁検邪聖省から有罪の判決を受ける
     自説の地動説を撤回する異端誓絶文を読み上げさせられる。終身刑を言い渡される
     直後にトスカーナ大公国ローマ大使館での軟禁に減刑される
  08/末乗組員100余人の大船が種子島に漂着
     07/末にマカオを出帆、途中、他の海賊船と一戦を交え、台風にあい漂流していた王直の船
     漂流船に毛色の変わった乗組員がおり、村主は王直と筆談の結果、南蛮人(ポルトガル人)とわかる
     王直が筆談役となり島主種子島時尭(ときたか)が引見する
     南蛮人が携えていた細長い一物。のち戦国諸大名が垂涎の的となる鉄砲
  1隻の唐船が種子島に漂着
     船には国際貿易を口実に、植民地獲得に熱心だったポルトガル人2人が乗船
     鉄砲を伝える

1547(天文16)【後奈良】 丁未(ひのとひつじ)

  ザビエルがマラッカで鹿児島出身の日本人ヤジロウと出会う
     日本人が優秀なことを知り日本への布教を決意

1549(天文18)【後奈良】 己酉(つちのととり)

  08/15《07/22》トレイス一行が鹿児島に上陸。島津貴久に謁見し布教許可を得る。フランシスコ・ザビエルも同行
     フランシスコ・ザビエルはカステラ、ボール、金平糖、有平糖、ビスカウトなどを携行
     1550(天文19)08/上来崎。樺島から平戸に渡る
     1550(天文19)09/松浦隆信は多いに歓待。火器製造などと引き換えに布教許可を得る
      ザビエルの宿主となった木村家をはじめ100人余りに洗礼を授ける
     1551(天文20)01/日本全国へ布教しようと天皇へ謁見するため山口を経て京都へ
     都の荒廃ぶりに落胆。小京都といわれた山口に戻り、大内義隆に謁見、城下に布教を開始
     1551(天文20)09/豊後の大友宗麟の招きで府内におもむく
     1551(天文20)11/インドに戻る
     1552(天文21)12/03中国布教のため上陸した上川島の地で熱病にかかり死亡

1550(天文19)【後奈良】 庚戌(かのえいぬ)

  08/聖フランシスコ・ザビエルを乗せたポルトガル船が鹿児島から船で西九州の海岸に沿って樺島に着き平戸へ赴く
     平戸藩主松浦隆信に招かれ約1か月の滞在。盛んな歓迎をうける
     平戸では数人に洗礼を授け、その信者の共同体をコスメ・デ・トーレス神父に任せる
     ザビエルはその道を開拓し、トーレスは最初の牧者となる
     続いてバルタザル・ガゴ、ガスパル・ヴィレラ、イルマン、ルイス・デ・アルメイダなどがその教会を育てる
     ガゴ神父から洗礼を受けた籠手田家は、平戸の教会の柱となる
     平戸で布教、信者約180人を得る【100人?】
     09/下旬将軍に謁見するため平戸を去る
  王直の手引きによりドワルテ・ダ・ガマ率いるポルトガル船が平戸に入港
     平戸白狐山城城主松浦隆信とのあいだに通商交渉が成立
  ポルトガル人が平戸商館員のためにパンをもたらす
     パンはポルトガル語で(pao)、英語で(bread)、漢字で(麺麭)

1551(天文20)【後奈良】 辛亥(かのとい)

  04/フランシスコ・ザビエルが周防の戦国大名大内義隆に2度目の拝謁を行い、布教の許可を得る
     大内義隆は廃寺の大道寺をザビエルに与えたことで宣教師たちの住居兼布教の拠点に
     のち建て直しが行なわれ日本最初のキリスト教教会となる。南蛮寺のひとつ
     のちザビエルが周防を去る。コスメ・デ・トーレスらは残り布教を続ける
     のち日本で初めてのクリスマス行事が行なわれる
     1557(弘治03)戦乱により大内氏が滅亡。トーレスが去り、教会としての活動は終わりを迎える
  06/15大村純前が没し第18代純忠があとを継ぐ
  フランシスコ・ザビエルが周防の守護大名で戦国大名の大内義隆に時計メガネを献上する
  日本全国のキリシタンの数が1千人〜1千5百人くらいに増える
     1571(元亀02)約3万人に
     1579(天正07)約10万人に
     1582(天正10)約15万人に
     1587(天正15)約20万人に
     1605(慶長10)約75万人に

1552(天文21)【後奈良】 壬子(みずのえね)

  ルイス・デ・アルメイダが医師、貿易商人として日本平戸に初めて渡来。香料貿易に従事
     アルメイダはポルトガル人。リスボンの裕福な貴族の子で宣教師・医療伝導師(外科医)
     1555(天文24、弘治01・10/23)アルメイダが再渡来、豊後府内でイエズス会に入り慈恵病院を建てる
     また豊後の府内に乳牛牧場を付設した育児院を建て、間引きされる乳児の救済事業を起こす
     1556(弘治02)イエズス会に入会しイルマン(修道士)として九州北部で活動
     1557(弘治03)私財を投じ豊後府内にわが国最初の洋式病院を開設
     また江州伊吹山に薬園を設けポルトガルより3000種の薬草を移植
     のち初めて牛乳を飲ませ、病人の滋養食にカステラを焼いて与える
     1562(永禄05)07/アルメイダ、トーレス、イルマン、ジョアン・フェルナンデスが横瀬浦の教会を育てる
     のち島原、口之津などで布教、島原半島に教会となるべき寺を与えて布教を許す
     1563(永禄06)02/初めて島原半島の有馬領へ布教に行く
     1563(永禄06)04/有馬領内に入り、島原と口之津に教会を開く
     1565(永禄08)アルメイダとイルマン、ロレンソによって五島の福江と奥浦に教会が建つ
     1566(永禄09)冬の五島灘を渡り布教
     五島藩主五島純定や島民の病気を治療。祈梼などに頼っていた島民から感謝される
     1567(永禄10)長崎に派遣、布教を開始
     1568(永禄11)長崎へのキリスト教布教がヴィレラに引き継がれる。〜1570(元亀01)
     1583(天正11)熱心にみちた布教活動を続けていたが、天草河内浦の藁葺きの貧しい住院で死亡
     帰国しなかったのは、ユダヤ人(新キリスト教徒)の出身でありながらカトリックに改宗したことで
     ユダヤ教信仰の大罪を犯し、帰国後の処刑を恐れ、日本を安住できる幸せの島と選んだこと

1554(天文23)【後奈良】 甲寅(きのえとら)

  肥後の雄・菊地氏が大友宗麟に討たれ滅亡
  島原での布教がはじまる。信者1500人

天文年間(1532〜1555)

  平戸に渡来したフランシスコ教会の神父がカステラの製法を伝授

1555(天文24、弘治01・10/23)【後奈良】 乙卯(きのとう)

  05/04「ミシェル・ノストラダムス師の予言集」がリヨンで出版される
     占星術師ノストラダムスによる四行詩集の初版
  第14代長崎甚左衛門純景の弟、織部亮為英が京都から東山(長照寺付近)の地に諏方明神を分霊勧請
     1609(慶長14)キリシタンによる迫害により諏方明神を祀った社が破壊され御神体が廃棄される
     1623(元和09)佐嘉の修験道者、金重院の修験道(山伏)青木賢清(かたきよ)が長崎にはいる【肥前唐津】
     長崎はキリシタンの全盛期、賢清は神道の再興に乗りだす
     公文九郎左衛門より別々に鎮座し、キリシタンに破壊された三神の祭祀を譲り受ける
     *東山の地に打ち捨てられた「諏方(すわ)大明神」と刻まれた碑石
      1555(弘治01)に織部亮為英が京都から諏方明神を分霊勧請したもの
     *小島かみなり岡の小祠に祀られた小島大王ともいわれた「住吉大明神」【小島郷尾崎(正覚寺付近)】
     *長崎6町を構築する際に壊された天満天神「森崎大権現(杵崎大明神)」を祀る
  ルイス・デ・アルメイダが再渡来。豊後府内でイエズス会に入り慈恵病院を建てる
     また豊後の府内に乳牛牧場を付設した育児院を建て、間引きされる乳児の救済事業を起こす
     1556(弘治02)イエズス会に入会しイルマン(修道士)として九州北部で活動
  有馬軍勢が岩屋山神宮寺に乱入、風上から放火したため本坊、別院など諸堂宇がことごとく全焼
     のち里人が相寄って跡地に小堂が建つ
     1574(天正02)キリスト教徒による破却にあい廃滅

1556(弘治02)【後奈良】 丙辰(ひのえたつ)

  ルイス・デ・アルメイダがイエズス会に入会しイルマン(修道士)として九州北部で活動
     1557(弘治03)私財を投じ豊後府内にわが国最初の洋式病院を開設
     のち初めて牛乳を飲ませ、病人の滋養食にカステラを焼いて与える
     1562(永禄05)07/アルメイダ、トーレス、イルマン、ジョアン・フェルナンデスが横瀬浦の教会を育てる

1557(弘治03)【正親町】 丁巳(ひのとみ)

  ルイス・デ・アルメイダが私財を投じ豊後府内にわが国最初の洋式病院を開設
     大友宗麟の広大な館の近く、南北80米、東西60米、およそ1600坪の敷地
     住院、孤児院、牛小屋、十字架、司祭住院、ハンセン病棟、使用人の小屋、
     切支丹墓地、外科・内科病棟、天主堂、神父住院。天主堂などがの中に順次建設されたる
     アルメイダが豊後府内にわが国最初の洋式医学校を創立
     日本人医師の養成も行ない、西洋医術の導入者・社会福祉事業家として知られる
     西洋文明に関心をよせていた織田信長も宣教師を保護し教会堂(南蛮寺)、安土に学校(セミナリオ)の建設を許可
     宣教師は布教活動の傍ら医療活動も行ない、グレゴリアとルイは病人に投薬と治療を施す
     また江州伊吹山に薬園を設けポルトガルより3000種の薬草を移植
     1559(永禄02)07/日を追うごとに患者数が増加、病院が増改築
     新病棟ができたことで外来患者が1日200人、入院患者が100人を超えることに
     1560(永禄03)アルメイダたちのもとに欧州のイエズス会本部から医療禁令が届く
     聖職者の地位にある者は、人間の生命に直接かかわる医療施術、生死の判決にかかわる裁判官の職に就いてはいけない
     のちアルメイダをはじめとするイエズス会士たちは命令に従う
     病院から一切の手を引き、九州一円や畿内を中心とした本来の布教活動に専念
     病院は日本人の医療従事者へと引き継がれるが、財政難なども重なり衰退の一路をことに
     1587(天正15)豊臣秀吉が行なった九州平定の際、島津義久の軍が府内を陥れたとき兵火により焼失
  戦乱により周防の戦国大名大内氏が滅亡
     トーレスが去り、大道寺が教会(南蛮寺)としての活動は終わりを迎える

1558(弘治04、永禄01・02/28)【正親町】 戊午(つちのえうま)

  西洋文明に関心をよせていた織田信長も宣教師を保護し教会堂(南蛮寺)、学校(セミナリオ)の建設を許可
  ガスパル・ヴィレラ神父の活躍で平戸のキリシタンが1500人を数える
     またヴィレラ神父はガーコ神父の支援で度島を訪れ信者を獲得
     信徒らは仏像を焼き神社を破却し寺院を教会に改造
     仏教徒の反対がだんだんと激化し会堂や祭壇などを破壊。領主を動かし神父を追放
  唐船が初めて長崎にくる
     【永禄05(1562)、慶長05(1600)諸説あり】

1559(永禄02)【正親町】 己未(つちのとひつじ)

  07/豊後府内のアルメイダの病院が日を追うごとに患者数が増加。増改築をする
     新病棟ができたことで外来患者が1日200人、入院患者が100人を超えることに
     1560(永禄03)アルメイダたちのもとに欧州のイエズス会本部から医療禁令が届く
     聖職者の地位にある者は、人間の生命に直接かかわる医療施術、生死の判決にかかわる裁判官の職に就いてはいけない

1560(永禄03)【正親町】 庚申(かのえさる)

  06/12《05/19》桶狭間の戦いで、尾張の小大名・織田信長が東海の雄・今川義元の大軍を破る
     駿河の戦国大名・今川義元は2万5千といわれる大軍を引き連れて尾張に侵攻する
     対して尾張の大名・織田信長は10分の1ほどともいわれる軍勢で本陣を強襲
     今川義元を討ち今川軍を潰走させる。日本の歴史上最も華々しい逆転劇といわれる有名な戦い
     のち東海道に君臨した今川氏は戦いを契機に没落。勝利した織田氏は以降畿内の制圧に向かって急成長
  アルメイダたちのもとに欧州のイエズス会本部から医療禁令が届く
     聖職者の地位にある者は、人間の生命に直接かかわる医療施術、生死の判決にかかわる裁判官の職に就いてはいけない
     のちアルメイダをはじめとするイエズス会士たちは命令に従う
     豊後府内の病院から一切の手を引き、九州一円や畿内を中心とした本来の布教活動に専念
     病院は日本人の医療従事者へと引き継がれるが、財政難なども重なり衰退の一路をことに
     1587(天正15)豊臣秀吉が行なった九州平定の際、島津義久の軍が府内を陥れたとき兵火により焼失

1561(永禄04)【正親町】 辛酉(かのととり)

  10/17《09/09》武田信玄と上杉謙信による川中島の戦いのうち第4次合戦が起こる
     千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地の川中島を中心に合戦が行なわれる
     規模は武田2万に対し上杉1万3千
     前半は上杉軍勝利、後半は武田軍勝利。北信濃の地は武田が制圧する
     武田方は武田信繁、諸角虎定、山本勘助など名立たる武将が討ち死。上杉方は名立たる被害はなし
     戦いによる死者は、武田軍が4千余、上杉軍が3千余とたがいに多数の死者をだす激戦に
  長崎の湊、戸町の浦に唐船が入津
     交易のためではなく風波を避けるために寄港
  度島、生月に熱心なキリシタン信者が多くなる
     度島では約500人の住民全員が信者に、生月では住民1500人の内半数以上が信者に
  平戸にてポルトガル船乗組員と平戸町人の間に大乱闘が起こる
     絹糸の取引値段の設定が原因で口論となり仲裁に入った武士をポルトガル人が斬りつける
     双方に死傷者がでる。ポルトガル人は船長をはじめ14人が死亡。「宮ノ前事件
  キリスト教の布教が大きな傷害となり平戸のポルトガル貿易がいったん頓挫する
  大村純忠がポルトガル船の横瀬浦入港の誘致を企てる

1562(永禄05)【正親町】 壬戌(みずのえいぬ)

  02/18《01/15》尾張の戦国大名織田信長と三河の戦国大名徳川家康との間で軍事同盟・清洲同盟が結ばれる
  06/日本布教長のトルレスがルイス・デ・アルメイダに命じて大村純忠と交渉をさせ横瀬浦の港を開港
     大村純忠は平戸に代わる港として横瀬浦を開港する。大村純忠とキリスト教が出会う
     [開港協定]・布教の自由・会堂の建設・横瀬浦港町の半分の土地と農民を教会に治めさせる
     李・朱医学の祖、田代三喜が活躍
     ・宣教師の同意なしに異教徒を居住させない・ポルトガル貿易のために来る商人は10年間の免税
     有馬藩主義直は口之津を貿易港として開くため、横瀬浦から修道士アルメイダを招く
     修道士アルメイダは島原、口之津などで布教、島原半島に教会となるべき寺を与えて布教を許す
     のち賑やかな開港地となり日本キリスト教の中心地に
     のちトルレスは横瀬浦で数百人に洗礼を授ける
     京都、豊後、博多、平戸などから信徒が移住。会堂が建てられ日曜日には信徒であふれる
     1563(永禄06)06/初大村純忠が重臣一同を従え横瀬浦にトーレス神父を訪ねる
     純忠が横瀬浦の教会で重臣25人とともに洗礼
     純忠はドン・バルトロメオの洗礼名を受ける。日本最初のキリシタン大名となる
     重臣のひとり豪族長崎甚左衛門純景も洗礼を受ける。洗礼名はベルナルド
     ほかに福田の領主福田ジョアキムや純景の婦人とら(純忠の娘)、弟の為英、重方もキリシタンになる
     1563(永禄06)07/義弟ら大村家の反純忠派が武雄の後藤貴明を擁してクーデターを起こす
     貴明は軍を2手にわけて横瀬浦と大村城を急襲
     11/末横瀬浦の会堂をはじめ民家が焼き払われ、ほぼ壊滅状態に。「横瀬浦焼き打ち事件」
     のちフロイスは逃れ、トーレスは口之津に移り住み、布教活動に対して指導を与える
  07/ルイス・デ・アルメイダ、トーレス、イルマン、ジョアン・フェルナンデスが横瀬浦の教会を育てる
     のち島原、口之津などで布教、島原半島に教会となるべき寺を与えて布教を許す
     1563(永禄06)02/初めて島原半島の有馬領へ布教に行く
  年の暮/平戸の根獅子、生月、度島に布教
  有馬義直が口之津を貿易港として開港
  キリスト教が布教されるようになり雲仙満明寺が次第に衰退
     島原領主有馬義直がルイ・アルメーダを招いて、キリスト教が盛んになったため
     1571(元亀02)雲仙古湯の僧坊の稚児「学一丸」が可愛がる1羽の白雀をめぐり
     別所の僧坊の稚児「宝寿丸」と「白雀を貸せ貸さぬ」という争いに。「宝寿丸」が誤って白雀を殺す
     2人の喧嘩は僧坊同士の対立に。2派に別れた数百人は3日間にわたり刀槍を使った乱闘となる「白雀の乱」
     ついには満明寺が放火される事件に発展

1563(永禄06)【正親町】 癸亥(みずのとい)

  01/大村純忠が横瀬浦のトーレス神父を訪ねる
     清酒6樽、鮮魚、猪1頭、銭3貫文などを贈る
  02/トーレス神父が横瀬浦で数100人に洗礼を授ける
  02/京都、豊後、博多、平戸などから横瀬浦にたくさんの信徒が移住する
     豊後の建物と同じ大きさの会堂が立てられ、日曜日は信徒であふれる
  02/初めて島原半島の有馬領へ布教に行く
     04/有馬領内に入り、島原と口之津に教会を開く
     1565(永禄08)アルメイダとイルマン、ロレンソによって五島の福江と奥浦に教会が建つ
  06/初大村純忠が重臣一同を従え横瀬浦にトーレス神父を訪ねる。純忠が横瀬浦の教会で重臣25人とともに洗礼
     純忠はドン・バルトロメオの洗礼名を受ける。日本最初のキリシタン大名となる
     重臣のひとり豪族長崎甚左衛門純景も洗礼を受ける。洗礼名はベルナルド
     ほかに福田の領主福田ジョアキムや純景の婦人とら(純忠の娘)、弟の為英、重方もキリシタンになる
  07/06《06/16》イエズス会の司祭ルイス・フロイス(31)がポルトガル船で神父として横瀬浦に上陸
  マラッカのカピタン、ドン・フランシスコ・デ・サの弟デン・ペドロ・ダ・ゲーラが横瀬浦に到着
     ゲーラは大村純忠に数々の南蛮渡りの土産とともに葡萄酒の大瓶を贈呈
     大村純忠のキリスト教への改宗に対する喜びを表すため
     大村純忠は答礼として船を訪ね、ポルトガル人は多いに歓迎。船を旗で飾り、礼砲を放ち、大祝宴を開きもてなす
  横瀬浦から宣教が広がり、西彼杵半島の村々の主だった人々が洗礼を受ける
  07/義弟ら大村家の反純忠派が武雄の後藤貴明を擁してクーデターを起こす
     貴明は軍を2手にわけて横瀬浦と大村城を急襲
     11/末横瀬浦の会堂をはじめ民家が焼き払われ、ほぼ壊滅状態に。「横瀬浦焼き打ち事件
     のちフロイスは逃れ、トーレスは口之津に移り住み、布教活動に対して指導を与える

1564(永禄07)【正親町】 甲子(きのえね)

  06/ポルトガル船3隻が横瀬浦に来航するが焼失後で入港はできず平戸に寄港
     松浦隆信は好意的に迎え神父の出入りを許す
  横瀬浦に代わる貿易港の候補としては3港があがる
     長崎外港の福田、 天草の志岐とともに、有馬義貞により原半島の南端口ノ津にも誘致
  大村純忠が大村に三城を築き防備を固める
     1598(慶長03)大村に玖島城を築く
  福田と平戸に教会が完成する

1565(永禄08)【正親町】 乙丑(きのとうし)

  06/大村領福田にポルトガル船が入港、貿易港となる
     大村純忠は福田に教会と司祭館を建てさせる
  松浦隆信はポルトガル船が平戸を去り福田に入港したのを怒る
     艦隊を繰りだし福田のポルトガル船を襲撃するが敗れる。「南蛮船襲撃事件」
     松浦水軍の戦死者80人、負傷者120余人。ポルトガル戦死者8人、負傷者1人
  福田の信仰の火が戸町へと飛ぶ
  トレイス神父が口之津を布教の本拠地「日本教会の本部」とする
  ルイス・デ・アルメイダとイルマン、ロレンソによって五島の福江と奥浦に教会が建つ
     1566(永禄09)冬の五島灘を渡り布教
     五島藩主五島純定や島民の病気を治療。祈梼などに頼っていた島民から感謝される

1566(永禄09)【正親町】 丙寅(ひのえとら)

  07/後藤貴明が大村を攻めるが敗れ、松原から乗船して武雄に退却
  ポルトガル船が福田に入港
  ルイス・デ・アルメイダが冬の五島灘を渡り布教
     五島藩主五島純定や島民の病気を治療。祈梼などに頼っていた島民から感謝される
     1567(永禄10)長崎に派遣、布教を開始
  松平元信(家康)が東三河・奥三河(三河国北部)を平定し三河国を統一
     1567-02/08《永禄09-12/29》朝廷から従五位下、三河守の叙任を受け、徳川に改姓する
     改姓に伴い、新田氏支流得川氏系統の清和源氏であることも公認させる

1567(永禄10)【正親町】 丁卯(ひのとう)

  02/08《永禄09-12/29》松平元信(家康)が朝廷から従五位下、三河守の叙任を受け、徳川に改姓する
     改姓に伴い、新田氏支流得川氏系統の清和源氏であることも公認させる
  08/23加里用陀船がくる
  大村純忠が口之津のトーレス神父を訪れる
     話合いの結果、口之津のトルレス、ルイス・デ・アルメイダを長崎に派遣、布教を開始させる
  冬/ルイス・デ・アルメイダが長崎に派遣される。アルメイダは長崎の町にきた初めての西欧人
     長崎の領主長崎甚左衛門純景に保護され純景の館の近くに居住
     布教所を設けて医療とともにキリスト教を広めるため布教を開始する
     1568(永禄11)長崎へのキリスト教布教がヴィレラに引き継がれる。1570(元亀01)
  ポルトガル船が初めて有馬領の口之津に入港。貿易港となる
  ルイス・デ・アルメイダはすでに信者のベルナルド長崎甚左衛門から自館の近くに土地と小さな寺を受ける
     寺に布教所(現春徳寺)を設け布教と医療を行う
     1569(永禄12)09/長崎甚左衛門純景が夫婦川町の丘の仏寺を改造
     【11/01?】
     ガスパル・ヴィレラ神父の宣教は効果的で長崎初の教会トードス・オス・サントス(諸聖人教会堂)を建設
     1574(天正02)03/深堀勢の攻撃を受け焼失
     1597(慶長02)セミナリヨやコレジヨ、ノビシアード(修練院)が設置され活字印刷所なども併設
     1598(慶長03)頃コレジヨ、印刷所、セミナリヨが岬の教会に移る
     1612(慶長17)トードス・オス・サントス教会が増改築される
     庭内には八代の殉教者の遺骨を納める小さな聖堂も造られる。この場所も巡礼地になる
     1619(元和05)破壊
     のち東土参台(とうどのさんだい)、トードノサンタと記憶され唐渡山(とうどさん)と呼ばれる
     いまの城の古址のこと
     1643(寛永20)教会跡地に春徳寺が創建


〈安土桃山時代〉

1568(永禄11)【正親町】 戊辰(つちのえたつ)

  夏/ポルトガル船が2年ぶりに福田港に入港
  12/08トーレスと大村純忠が三城城の麓の広場に無原罪の聖母に捧げられた教会を開く。初めての教会
  八剱神社が神南の地に創建
     1661(寛文01)現在の地に
     のち小島郷の鎮守社となる
     【1663(寛文3)創建?】
  伴天連のヴィレラが教会を造るために来崎
  トーレスが長崎を訪れ、福田の宣教師ヴィレラ神父を長崎に任命し、トーレス自身は大村に移る
  ルイス・デ・アルメイダによる長崎へのキリスト教布教がヴィレラに引き継がれる。1570(元亀01)
     1583(天正11)熱心にみちた布教活動を続けていたが、天草河内浦の藁葺きの貧しい住院で死亡
     帰国しなかったのは、ユダヤ人(新キリスト教徒)の出身でありながらカトリックに改宗したことで
     ユダヤ教信仰の大罪を犯し、帰国後の処刑を恐れ、日本を安住できる幸せの島と選んだこと
  日見嶺に初めて路を開く
     佐嘉・高来の要所也 東西に七面の坂路ありて頂上に至る。此嶺上にて日を見ること早きを以て此名あり……
  口之津のキリスト教信者1200人に
  オランダ独立戦争が勃発
     ネーデルランド北部地方のカルヴァン派とカトリックを強制する宗主国スペインとの対立
     1581(天正09)07/26オランダ独立宣言

1569(永禄12)【正親町】 己巳(つちのとみ)

  09/長崎甚左衛門純景が夫婦川町の丘の仏寺を改造【11/01?】
     ガスパル・ヴィレラ神父の宣教は効果的で長崎初の教会トードス・オス・サントス(諸聖人教会堂)を建設
     1574(天正02)03/西郷純堯、深堀純賢の連合軍が長崎を攻撃
     長崎甚左衛門純景の砦と城下の村、トードス・オス・サントス教会を焼く
     キリシタン達は6町の外側に木の柵をつくり堀をほり防備を固め撃退
     のち再建される
  長崎のキリシタンが約1500人に
  キリシタンにより長崎の神社や寺は破壊、焼き払われる
     1609(慶長14)頃キリシタンによる迫害により領地内の社寺は全て破壊、神社の御神体まで廃棄される
  原城を構築した有馬貴純の族臣、千々石淡路守の命により、島原半島の西を固めるため、千々石へ
     千々石氏の根拠地・小倉城山に釜蓋城を築城
     のち千々石淡路守の死後、有馬晴純が実子千々石大和守直員(なおかず)を送り千々石氏を継がせる
     1577(天正05)12/九州は龍造寺、大友、島津の有力諸侯が覇権を争う時代
     佐賀の龍造寺隆信が数万の兵を以て島原半島神代へ上陸。有馬軍と交戦し勝利
     軍を二手に分け、嫡男政家に1万数千の軍勢を与えると千々石へ向かわせ釜蓋城に攻め寄せる
     城将大和守は頗る胆力がり、急を村民に伝えて堅く守り老臣木戸萬九郎、町田兵七郎と力戦大いに勉める
     しかし衆寡敵せず、刃折れ矢尽きて自刃。ときに25歳
  ポルトガル人の宣教師ルイス・フロイスが京都二条城で信長にギャマンの壺入りの金米糖を贈る
  フロイスが二条城で信長に謁する
     のち信長はフロイスに京都での布教をゆるす
  フロイスやロレンソらが信長の面前で日乗上人と宗教論争をする

永禄年間(1559〜1570)

  平戸城下の天門寺を中心に教会堂14、信者5千をかぞえる

1570(永禄13、元亀01・04/23)【正親町】 庚午(かのえうま)

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