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〈明治時代(4)〉

1879(明治12)【明治】 己卯(つちのとう)

  《知事》[第6代(官選)]内海忠勝

  01/01明治政府には国営で整備する余裕がなく広島県が広島測候所を創設。気象観測を開始
     1939(昭和14)11/01国営移管。中央気象台広島測候所となる
  01/04太政官布告第1号によって犯罪者で死刑になった者のさらし首が廃止となる
  01/21夕方、英国の帆船「スター・クイーン号」が石炭を積み上海へ向けて出港
     乗員乗客は女性2人、子供2人を含む33人(マレーシア人、中国人の乗組員の他、数人の欧州人の客)
     船長は英人アンガス・F・マッキントッシュ。ジャーディン・マセソン商会がチャーター
     午後8時頃、伊王島灯台を通過
     五島列島南方に差しかった頃、折からの強い南東の風にあおられ船は操舵不能に
     みぞれ混じりの豪雨の中、五島列島南端の黄島沖で座礁、最初の衝撃でトップマストが折れ海中に落下
     救命ボートは荒波に持っていかれ、海水が船内になだれ込む
     マッキントッシュ船長は落下していたマストに当たり即死。夜明けまでに死者は22人に
     五島住民は遭難した乗員乗客を自宅に向かえ援助。生存者は1週間後に長崎へ戻る
     のちマッキントッシュの遺体は大浦国際墓地54番の2に埋葬
  01/25朝日新聞社が大阪江戸堀南通に創立。「朝日新聞」創刊第1号を発行
     総ふりがな、さし絵入り小型4ページ、定価1部1銭、1か月18銭、1日平均部数は約1千部
     創始者は村山龍平で、従業員約20人、1〜4号は3千部印刷
     「朝日」の由来は「旭日昇天 万象惟明」をもとに、編集主幹津田貞の「毎朝、早く配達され、何よりも早く人が手にするもの」
     1888(明治21)07/10東京の「めさまし新聞」を買収。改題し「東京朝日新聞」を創刊
     社屋は京橋区元数寄屋町。号数は自由燈、燈新聞、めさまし新聞を引き継ぎ1076号からスタート
     1889(明治22)大阪本社発行の新聞を「大阪朝日新聞」と改題
     1940(昭和15)09/01大阪朝日新聞と東京朝日新聞の題号を「朝日新聞」に統一
  02/15第九十九国立銀行が平戸に創業
     創業の主旨は旧藩士族や藩民の窮乏を救い新時代への順応の道を拓こうとする旧藩士への思いやりから
     1896(明治29)第九十九国立銀行佐世保支店が開業
     1907(明治40)佐世保銀行と改称。本店を佐世保に移転
     1910(明治43)04/佐世保銀行長崎支店を築町に開設
     1922(大正11)08/築町の佐世保銀行長崎支店を本紺屋町に移転
     のち本紺屋町の佐世保銀行長崎支店を●●●町(現賑町)に移転
     1939(昭和14)09/佐世保商業銀行と佐世保銀行が合併
     親和銀行が創立。資本金310万円
     1940(昭和15)05/志佐銀行を合併
     1941(昭和16)04/大村銀行、玖島銀行、九十九銀行を合併
     1943(昭和18)10/佐世保貯蓄銀行を合併
     1969(昭和44)04/佐世保市に本店を完工
     1976(昭和51)03/本店にCD機が設置
     2001(平成13)九州銀行との経営統合を発表
     2002(平成14)九州初の銀行持ち株会社として株式会社九州親和ホールディングスを設立
     両行合わせ預金量約2兆5千億円、業務純益約200億円の県内最大の金融グループが誕生
     2003(平成15)九州銀行との合併。銀行名は親和銀行に
  03/07長崎県庁が電信線障害防止のため市内はもとより周辺部でのハタ揚げを全面禁止する
     1873(明治06)05/08の布達でもハタ揚げはやまず架線障害が続出していたため
     1899(明治32)あらためて長崎市内全域にハタ揚げの禁止令がだされる
     長崎で電話交換がはじまり電信線の他に電話線が張りめぐらされ規制が厳しくなる
  03/17長崎県会の臨時会が桶屋町の中島川端、光永寺を仮議場にして開会
     堂々の県庁舎はあったが議事堂はなく、庁舎にも適当な部屋はなく光永寺を家賃月85円の割で借用
     午前10時開会。全議員の起立に迎えられ盛装した壮年の内海県令が高橋新吉大書記官以下の属僚を従え入場
     内海は演壇に立ち、長崎県会開設についてあいさつ
     最年長の西彼杵郡選出藤瀬円二議員を座長に抽選で議員の席次番号を決める
     仮議長の選考は開票の結果小城郡選出の松田正久に決定
     臨時会は県会運営の根本となる議事細則案を審議、会期は4日間。03/20散会
  03/22第1回通常県会が開かれる。初代議長に正式に松田正久が選出
     副議長の江口六蔵をはじめ議案修正のために選任される委員など、議会内人事がほとんど佐賀組に独占される
     内海県令、高橋大書記官以下県の最高幹部は議場を退出、傍聴席に移る
     県令が代理者と指名した上村一等属、笠原五等属の2人が議長に残り、議員の質疑に対する答弁はいっさい2人に任される
     県会という新機構を与えられ取り扱いに自信がなく答弁を属官に任せ、高位高官意識が強い最高幹部は傍聴席で責任を回避
      松田は西園寺公望の随員としてフランスに留学、帰朝後は板垣退助の自由民権運動に投じ
      愛国社を中心とした国会期成同盟会の重要人物であったため、全国の注目を集め見学者が多数
  03県令の内海忠勝は県会の権威を形の上でも示さねばと通達をだす
     「長崎で県会を開催するので各議員は3月15日までに来集、姓名、宿所などをすみやかに県庁へ届けること、
     各議員は礼服を携持すること、礼服を持たないものは羽織ハカマを代用してもさしつかえない」
  03/丸山町の妓楼「引田屋」が町内の大火で類焼
     1880(明治13)花月の名称が引田屋の一部に移転
  03/長崎司薬場のオランダ人のエイクマンが東京司薬場で満期解任となったオランダ人プリュヘ P.C. Pluggy の後任として東京に赴く
     のち長崎司薬場の場長に辻岡精輔、桜井小平太らが就任
  05/21政府の支持を得て長崎造船所に東洋一の立神船渠(現第1ドック)完成
     総長140米、幅入口にて37.17米、内部の幅31米、深さ10.40米、費用総計40万2600余円
     のち500瓲クラスの船舶までは小菅修船場(通称ソロバンドック)で引き受ける
     それ以上の内外国船は立神ドックを使用
  06/04九段坂上の東京招魂社の社号が靖国神社と改称。別格官幣社に列せられる
  06/21来日中のアメリカ合衆国第18代大統領グラント将軍が長崎へ
     日本初の元首クラス国賓として夫妻で来日
     06/22丸馬場で開催中の博覧会を視察。記念に夫妻でアコウの木を植樹
     福済寺において大歓迎会が開かれる。町芸者30人が音曲歌舞を演じる
     揃いの衣装は特別に京都に注文し新調した紫縮緬にぼかしの模様
     グランド将軍は西洋料理店「福屋」にて西洋料理を準備
  07/09コレラ予防検疫のため西濱町411番地にコレラ予防検疫事務所を開設
  07/10長崎港船舶検按規則を定め検疫実施
  07/14伝染病予防の法令「海港虎列刺(コレラ)病伝染予防規則」が公布される
     日本最初の統一された国内予防規則
     07/21「検疫停船規則」(太政官布告29)に改正し公布
     規則に基いて設立された長崎及び神奈川の両地方検疫局が業務を実施
     わが国における来航船舶に対する海港検疫の初め
  09/20県下のコレラ患者5585、うち死亡2469
  10/01長崎商法会議所を築町に創立する
     初代会頭に松田源五郎が就任
     1883(明治16)12/長崎商法会議所を改組、桜町に長崎商工会が設立
     1893(明治26)12/商業会議所条例に基づき長崎商工会を長崎商業会議所に改組。事務所を大村町に置く
     1901(明治34)04/第2代会頭に岩田清秋が就任
     1903(明治36)02/第3代会頭に的野市二が就任
     1903(明治36)07/第4代会頭に森喜智郎が就任
     1905(明治38)02/第5代会頭に永見寛二が就任
     1908(明治41)08/09初代会頭松田源五郎翁の銅像が諏訪公園の丸馬場に建立
     荒川知事、北川市長、永見商業会議所会頭ら官財界の知名士1200余人が参列して盛大に挙行
        第二次世界大戦中金属供出のため撤去
        戦後長崎商工会議所と十八銀行が中心になり再建が進められる
        1963(昭和38)04/05長崎市出身の彫刻家・日展審査員の富永直樹の彫塑により復元
     1909(明治42)01/第6代会頭に橋本辰二郎が就任
     1919(大正08)11/桜町1番地に所屋を買収。大村町の旧所屋から移転
     煉瓦造2階建の長崎税務監督局の内外を改装      1925(大正14)04/第7代会頭に松田精一が就任
     1928(昭和03)08/長崎商業会議所を長崎商工会議所に改組
     1933(昭和08)02/第8代会頭に脇山啓次郎が就任
     1937(昭和12)02/第9代会頭に山田鷹治が就任
     1943(昭和18)05/第10代会頭に松田一三氏就任
     1943(昭和18)09/第11代会頭に橋本辰二郎氏就任
     1943(昭和18)09/新法に基づき長崎商工会議所が長崎県商工経済会に統合
     1946(昭和21)10/長崎県商工経済会が解散
     商工経済会は戦時中に、商工会議所に代わり国策協力機関として各都道府ごとに設立
     のち時を移さず、全国各地で商工会議所の設立があい次ぐ
     長崎県内でも長崎をはじめ佐世保・諫早・大村・島原の各市に新商工会議所が次々に誕生
     民法に基づく社団法人長崎商工会議所が設立
     第12代会頭に中部悦良が就任
     1947(昭和22)01/14長崎県商工会議所連合会が設立
     長崎商工会議所で各会議所の代表者が出席して開かれる
     規則、事業計画、収支予算を議決。会長に中部長崎会頭、副会長に北村佐世保会頭を選出し、新体制による連合会の発足をみる
     1947(昭和22)04/公職追放令により第12代中部会頭が辞任
     1947(昭和22)04/第13代会頭に脇山勘助が就任
     1950(昭和25)03/11煉瓦造り地下1階、地上2階建、延べ630坪の所屋が全焼
     1950(昭和25)11/(社団法人)商工会議所法に基づき長崎商工会議所改組
     1951(昭和26)11/第14代会頭に中部悦良が就任
     1954(昭和29)07/新法に基づく特殊法人として長崎商工会議所が発足(特定商工業者の登録開始)
     1963(昭和38)01/第15代会頭に山田博吉が就任
     1964(昭和39)03/22国道34号拡張のため桜町1番地の旧所屋を解体(敷地は長崎市が買収)
     大黒町の「長崎交通産業ビル」に新所屋完成
     1976(昭和51)12/第16代会頭に清島省三が就任
     1979(昭和54)06/長崎商工会館の新所屋が桜町で着工
     1979(昭和54)12/清島省三会頭が再選
     1980(昭和55)12/05鉄骨鉄筋コンクリート造地上9階、地下2階の長崎商工会館完工式が挙行
     商工会議所創立100周年を記念し、総事業費約25億6千万円で建設
     桜町4番1号に大黒町の「長崎交通産業ビル」から移転
     1982(昭和57)12/清島省三会頭が3選
     1985(昭和60)12/清島省三会頭が4選
     1988(昭和63)12/第17代会頭に中部長次郎が就任
     1991(平成03)12/第18代会頭に松田●(白篇に高)一が就任
     1994(平成06)12/議員改選、松田●(白篇に高)一会頭が再選
     1997(平成09)12/第19代会頭に野崎元治が就任
     2001(平成13)11/野崎元治が会頭再任
     2004(平成16)11/第20代長崎商工会議所会頭に松藤悟
     2007(平成19)11/松藤悟が会頭再任
  10/22トーマス・エジソンが炭化した紙を使用したフィラメントで白熱電灯の実験に成功
     12/31公開実験で40時間の点灯に成功する
  10/28札幌測候所が国営移管。文部省所管となり、中央気象台札幌支台へ改称
  10/「長崎くんち」(1)…寄合町、船津町、本博多町、平戸町、
     樺島町、八幡町、麹屋町、万屋町、西浜町、銀屋町、諏訪町
     西浜町の傘鉾の町名をノルデンシェルドがローマ字で書く
  12/01活水女学校が東山手16番地に設立
     教師はエリザベス・ラッセル女史と協力者ジーン・M・キール2人、生徒は官梅能ただ1人
     ギール女史は福音奉仕活動を得意とし、教育活動を主とするラッセル女史を助ける
     「祈りと奉仕」の校風を培う基礎をつくる
     1880(明治13)04/南山手リンガー館(旧オルト邸)に移設
     07/生徒は7人
     1981(昭和56)活水女子大学が開校
  12/27長崎居留外国人の遊歩範囲がかなり拡張される
     1873(明治06)02/にキリスト教が解禁されたことによる
  12/31籠町生まれの杉亨二が人口調査の必要性を説く
     国勢調査の試験調査とも言うべき「甲斐国現在人別調」を実施
     「現在人別調の調査は根本である。国家必要なる事である」として全国総人員の現在調査を計画
     実施の前に、具体的な実施方法、調査の問題点、調査経費等の大体の目途を知るため甲斐国で実施調査
     甲斐国を選んだ理由は
     (1)人口の規模が適当である
     (2)管内の人口の移動が比較的少ない
     (3)東京に近く指導、連絡等が便利である
     戸籍法の戸口調査が戸籍編成のために戸籍上の人を実地に点検調査したのと異なり、実際の住人を調査
     地域こそ甲斐国に限られたが、近代センサスとして我が国の国勢調査の先駆をなすもの
     「我が国における国勢調査の最初の試験調査」と位置づけられる
       調査員=2千人、1人の調査員=1日平均39軒調査
       結果(甲斐国現在人数)=39万7416人
       調査費用=5759円99銭5厘8毛(1人当たりの費用=1銭4厘4毛9絲)
  12/橘周太が中学校の学期末試験終了、のち陸軍幼年学校入校を父に申し出て単身上京
     叔父本多潤の家に寄寓(15歳)
     【以降、詳しくは1865(慶応01)09/15の項目に】
     1904(明治37)03/06第2軍(司令官:奥大将)動員の際、橘少佐は軍管理部長として出征
  長崎造船所に東洋一の立神船渠(現第1ドック)が完成
  初代稲田沢吉が時計店を浜町に創業
  はじめフランス人のために建てられた大浦天主堂がポワリエ神父の監督のもと施工拡張
     創建時の天主堂が大風により一部損壊し、また切支丹開放令以降に急増する日本人信徒による狭隆を解消するため
     ベルナルド・タデ・プチジャン司教によって祝別
     増改築を担当しのは浦上随一の大工といわれた溝口市蔵、天草の大工棟梁丸山佐吉、伊王島出身の大工棟梁大渡伊勢吉
     初代天主堂を包み込みつつ四方へ拡張し外壁を煉瓦造とする大規模な増改築を行なう。煉瓦造平屋で525平方米
     祭壇部分の奥行きも深くし当初の2倍の大きさに拡張3本の尖塔が1本になる
     クリヤーストーリーを除き、間口を左右に1間ずつと前後もに増築され3廊が5廊に
     バロック、ギリシア様式がなくなり、外壁の木造漆喰塗りが煉瓦構造の純然なゴチック建築様式になる
     内部の木造ゴシック風の洋式は創建当初の洋式を残す
     1933(昭和08)01/23大浦天主堂が日本洋風建築の初期を飾る代表的な建造物として、国宝に指定
  県立缶詰試験場が炉粕町通り沿いにできる。松田雅典は主任に
     外国から缶詰製造機械を買い入れ、伝習生6人を採用し試作
     製品は海外にも送られ好評を得た
     1882(明治15)缶詰試験場が廃止
  浦上四番崩れの「旅」から戻った信徒が浜口の土井に仮教会(聖ヨハネ堂)を建てる
     1880(明治13)キリシタン弾圧の見張所だった山里の庄屋、高谷氏の屋敷を買収、仮教会堂を建築
  八坂神社の本殿、拝殿の改修工事竣工に際し宮司、小西成則(易堂)により扁額を手書き
     人が集まる里の意を込めてコザト偏の「八阪神社」に改める
     明治期現應寺(祇園社)の鐘楼が清水寺に移される
     明治期宮司小西成則の身内・十四世忍達恵等大和尚が清水寺住職として就任
     全国でも稀な神社と寺の境内が結ばれる参道が整備
     1924(大正13)昭和天皇御成婚記念により狛犬が替わる
  シーボルトが1825(文政08)に建てたケンペルとツユンベリの功績を顕彰する記念碑が出島から長崎公園に移される
     隣には賛同者を記す石碑(建施君記念碑題名)が建つ
     中央・地元の顕官や全国医学関係者152人の氏名などが彫り込まれる
     有栖川宮熾仁親王、伏見宮嘉彰親王、三条実美、岩倉具視、吉田健康、金井俊行…
     1956(昭和31)出島に植物園跡が復元され、庭園の1隅に移設される
  稲佐お栄(道永エイ)が稲佐の西洋料理店ボルガを営む諸岡まつの紹介で近所のロシア将校クラブの雇い人に
     1881(明治14)ロシア艦隊旗艦の船長に気に入られボーイの名目で乗艦。ウラジオストクに渡る
     1890(明治23)帰国
     1891(明治24)04/27ロシア皇太子ニコライが甥のギリシア親王ジョージとともに極東訪問
     途中、艦隊を率いて長崎へ
     お栄が県当局の依頼で皇太子をもてなす
     05/03夜志賀の波止の将校クラブで丸山の芸妓を呼び遊興
     ロシア語で挨拶をしジョージとダンスを踊る
  伊王島、沖ノ島の信者が自由に祈りができる場所として大明寺集落に大明寺教会が建てられる
     建築は1879(明治12)に大浦天主堂を増改築した中のひとり、伊王島出身の大工棟梁大渡伊勢吉
     1994(平成06)愛知県の明治村に移築完成「大明寺聖パウロ教会堂」として公開
  生月でカトリック布教の効果があらわれ、22人がカトリックに戻る
  五島、玉之浦町に西洋式の大瀬埼灯台が完成。総工費3万円
     1971(昭和46)改築、白い円塔の灯台となる。光力は200万カンデラ、光達距離は50粁に及ぶ日本屈指の灯台となる
     初代の灯台は解体される
     旧大瀬崎灯台の灯ろう部と北海道の稚内灯台の第3等回転レンズおよび回転機械を用いて東京の「船の科学館」に移築
  プチジャン司教は外海地区にも多く信者がいることを知る
     ド・ロ神父をやせたわずかな耕地があるだけの出津・黒崎地区の主任司祭として寒村、黒崎村出津に赴任させる
     復活した貧しい信徒たちを霊的、物質的に救う
     村の貧窮を救うため機織り、染物、パン、マカロニなどの製法を教える
     また多品種栽培の有利さを教え小麦、トマト、イチゴ、茶、綿栽培を指導。授産場を設ける
     1883(明治16)庄屋、代官、足軽等の詰所跡を購入し救助院を設ける
     製粉、機織、裁縫、そうめん、パン、醤油、搾油技術、日記、算術を教える
     1885(明治18)診療所を設立、薬局を置く
     1886(明治19)聖ヨゼフ修道院と伝導婦養成所(お告げのマリア修道院・女部屋とも)を設ける
     貧農の青年には農業の近代化を図る
     水車による製粉、農業機具の改良、原野の開墾、イワシ網工場や堤防建設を行なう
  初の内国博覧会で上野彦馬が鳳紋賞を受賞、名声を決定的なものとする

1879(明治12)頃

  長崎から帰った島原の森川三吉がザボン漬けを発明
     ザボンの果肉が食べられず、その実は捨てて、皮を食べようと厚皮の砂糖漬けを考案
     のち鹿児島などでもこの菓子を作り始める

1880(明治13)【明治】 庚辰(かのえたつ)

  《知事》[第6代(官選)]内海忠勝

  02/28長崎病院長の吉田健康が初代長崎県衛生課長に任命される
  春板垣退助らが大阪で第4回愛国社大会を開催
     これを国会期成同盟会と改称、国会開設請願の猛運動を展開する
     大会には2府22県から114人が出席
     長崎県からも島原士族真田幸勝が肩怒らせて参加する
     長崎の自由民権運動は、まず不平士族のなかから芽生える
  04/22日本薬学会が創立
  04/活水女学校が南山手リンガー館(旧オルト邸)に移設
     07/生徒は7人
     1882(明治15)10/東山手13番地に新校舎ラッセル館が落成し移転。生徒は43人に
  08/05前島密ほか明治政府の要人や海運界首脳約50名が発起人となり「海員掖済会」が設立される
     わが国海運の振興を図るため、海員に対する福利厚生を目的として
     掖済の「掖」はたすける、よい方へ導く、「済」はたすける、救うの意である
     1881(明治14)06/東京府南品川の心海寺の一部を借り受け「海員寄宿所」を開設。実質的な事業の開始となる
     海員の寄宿と乗船の斡旋事業を開始、高等海員養成所を併設し高等海員の養成に着手する
     のち横浜、大阪、神戸、長崎と相次いで海員寄宿所を設ける。主要な港に配置し終える
     1886(明治20)03/有栖川宮威仁親王を本会総裁に。会名を「日本海員掖済会」と改称する
     1898(明治31)10/20民法施行法の規定により社団法人の認可を受け、法人登記第1号となる【10/27?】
     掖済会は民法施行前からの独立の財産を有する社団として、民法施行法の規定により第1号に
     のち海員に対する宿泊、職業紹介や、海員の養成、表彰、援護、医療等海員の福利厚生に関する事業を網羅的に行なう
     戦後医療と社会福祉活動に重点を置き、対象を海員に限らず広く地域社会とすることに
     ○1896(明治29)06/01横浜寄宿所内に病室を新築し日本海員掖済会として最初の医療施設、横浜掖済会病院をつくる
     ○1902(明治35)11/長崎海員病院開設。病床数30床
     ○1902(明治35)09/門司市ケンメイ迫(八幡町)に門司出張所が創立、船員の養成救護事業を始める
     ○1908(明治41)小樽に海員寄宿所を開設。船員とその家族の診療を始める
     ○1913(大正02)11/日本海員掖済会が大阪診療所を開設
     ○1914(大正03)11/神戸市東川崎町に神戸掖済会病院が開設
     ○1946(昭和21)01/26日本海員掖済援護会において名古屋に病院建設を決定
     ○1949(昭和24)10/東北海運局内に宮城利府掖済会病院塩釜診療所として発足
  08/28東京深川の楽器職人松永定次郎が初の国産バイオリンを制作
     お茶の水のニコライ堂の楽士デミチリーが持つバイオリンを研究した末の作
     のち提琴(ていきん)と呼ばれ上流階級の子女が習い広まる
  10/「長崎くんち」(2)…丸山町、榎津町、西古川町、本紙屋町、新大工町、
     磨屋町、新橋町、出来鍛冶屋町、大村町、本五島町、今町、金屋町
     榎津町と磨屋町、祭礼の節行違いあり、世話町が仲裁せし
  11/03天長節御宴会において宮内省雅楽部吹奏楽員により「君が代」の初演奏が行なわれる。評判は上々
     【天長節前の10/30}】
  12/17元秋月藩士の臼井六郎(22)が東京上等裁判所判事一瀬直久を東京京橋三十間堀の旧秋月藩主黒田邸で殺害
     最後の仇討事件
     臼井は6歳のとき、勤王倒幕の思想に反対。佐幕派の父、母、妹を勤皇派の一瀬直久に惨殺される
     一瀬は無罪放免、逆に臼井家は新政府に反逆したとして国賊扱いにされ減禄処分に
     臼井は自首する。仇討禁止令がでて7年後の事件
  12/来航船舶に対する海港検疫の初めとして長崎港口・女神に検疫所を設置
     1899(明治32)04/13女神検疫所が内務省直轄の長崎海港女神検疫所として常置される
  12/小曾根町の私立小曾根小学校が公立となり公立中等小曾根小学校と改称
     1886(明治19)06/小学校令改正により尋常小曾根小学校と改称
  丸山町の妓楼「引田屋」の茶屋「花月」の名称が引田屋の一部に移転
     1926(大正15)引田屋が廃業。料亭となり経営者も替わる。花月の名称と引田屋の庭園・家屋は継承
  宣教師ボアリアの斡旋により旧浦上山里村庄屋の高谷官十郎邸屋敷跡を買い、仮教会堂を建築
     この屋敷では、かつて絵踏みが行なわれていた
     1881(明治14)頃宣教師フレノが新教会堂設計計画を進める
     パリ・ミッション会のフレノ師は1888(明治21)初代主任司祭として着任
     1895(明治28)02/フレノ神父の指揮の下、浦上天主堂が起工
     設計施工のフレノ神父は毎月日を決めて地区毎に積立金を集めてまわる
     資金が集まると石や煉瓦を購入し信徒たちが労働奉仕をする
     のち苦しい生活の中、信徒たちは金を積み立て石や煉瓦を買い労働奉仕で建設を進める
     資金難から工事は大幅に遅れる
     1895(明治28)半分の高さまで出来上がった頃、フレノ神父が過労で死去
     日露戦争工事が一時中断
     1911(明治44)02/急逝したフレノー神父の業を継いでラゲ神父が浦上教会主任司祭に命じられる
     後任のベルギー人のラゲ神父は、天主堂を早く完成させるために、屋根を木造瓦ぶきに設計を変更。資金難は続く
     1913(大正02)宣教師ラゲにより再び竣工
     1914(大正03)03/17中央ドームは造らず、双塔は未完成のまま献堂式(竣工)を挙げる
     床面積1162平方米(352坪)の東洋一の大天主堂となる
     1925(大正14)05/ヒュ−ゼ神父のとき正面双塔が竣工
     フランスから取り寄せた2個のアンゼラスの鐘を取り付ける
     外部正面が西方を向き左右に四角形の双塔を設けドームをおいて縦に3分し双塔の間に切妻屋根を配する
     6千人収容、東洋一の大会堂が完成。請負は鉄川与助
     1945(昭和20)08/09原爆で堂は全壊。ドーム部分は地上に落下
     双塔につく鐘楼のうち小さい方は壊れるが、大きい方はほぼ完全な形で残る
     戦後すぐ木造仮聖堂が建てられ本聖堂建設計画が持ち上がる
     長崎県原爆資料保存会から廃虚を原爆遺構として保存して欲しいという要望がだされる
     12/24永井隆の提案により急ごしらえのアンゼラス鐘が被爆後初めて鳴り響く
     「長崎の鐘」と呼ばれる
     1946(昭和21)11/神父と信徒たちの努力で木造の仮聖堂が落成
     原子野に再建された最初の公共建造物で聖堂建立の熱意は信者でない長崎の原爆罹災者たちをも勇気づける
     中田藤太郎神父を中心に焼跡の瓦礫が整理され西側玄関の一部と南側入口は残されたまま
     1947(昭和22)中島万利神父を中心に本聖堂再建計画が立つ
     信徒たちが再建資金の積み立てをはじめる
     1954(昭和29)浦上天主堂再建委員会が発足。具体的な再建計画が進む
     1958(昭和33)天主堂の再建着工を知った原爆資料保存委員会が廃虚は貴重な資料とし保存を要望
     残すか壊すか世論も揺れ山口愛次郎司教を中心に検討し廃虚の取り壊しはやむを得ないと結論
     のち保存委員会が再度保存を申し入れ、市議会でも取り上げられる
     廃虚全てを移築することは資金的、技術的に困難であるとし側壁一部を原爆中心地に移築保存することで決着
     1958(昭和33)04/14ハンマーによる人力取り壊し作業がはじまる
     1959(昭和34)11/01原爆被災以前の天主堂をモデルに鉄筋コンクリート造りの天主堂が再建
     受難に耐えた信徒の歴史を物語る同じ場所に再建する事が意義あるものとし新聖堂が建立
     床面積1679平方米、塔高29米。献堂式が行なわれる
     双塔にあったフランス製の聖鐘の原爆でも壊れずに残ったひとつが、新天主堂の右側の塔につるされる
     1962(昭和37)特別な聖堂として大浦天主堂に代わり司教座聖堂(Cathedral)に指定される
     1980(昭和55)04/ローマ法王の訪日要請を契機に、今までの不足を補って鉄筋による改装工事が着工
     外装を赤レンガ造りに、窓をすべてステンドグラスに
     1980(昭和55)10/崩壊前と同じ赤煉瓦造りの御堂が蘇る
     1996(平成08)聖堂2階に英国製パイプオルガンを設置
  シーボルトの記念碑が建立
     幹事役に戸塚春山、伊藤圭介などがあたり三条実美、徳川家達、黒田長浄ら知名の士が賛同者となる
  イタリア人の船員カルロ・フィオラヴァンテ・ウルソが来崎
     のち外商の許で働く
     のち大浦36番地に荷役と買弁業の事務所を開設。イタリア、フランスなど南欧諸国の海運業者を客先に
     1918(大正07)03/29南山手26番地Aの自宅で68才で死去
        遺体は新坂本国際墓地43番に埋葬
  フランスから来日したイエズス会の修道士達により、南山手の丘の上に日本に於けるイエズス会修道院本部が創設
     布教や貧者の救済などを目的とする。当初は木造
     1898(明治31)フランス人でマリア会修道士センネツの設計により煉瓦造建物に建て替えられる
     建物は3階建であるが2階までが煉瓦造、3階は小屋裏をうまく利用した木造
     銅板張りのマンサード屋根と白い鎧戸と、煉瓦壁面が静寂な林間にとけ込み美しい風景を醸しだす
     1950(昭和25)同修道会本部が兵庫県に移転
     女子修道院「マリア園」となり幼稚園、養護学校が併設されて修道女による運営が行なわれる
  ドクトル・ジャーランに清涼飲料製法を学んだ天草出身の古田勝次が大村町で「御手引ラムネ」の製造販売を開始
     1971(昭和46)03/製造は中止されるが、後継者の熱意で大阪にて委託製造がはじまる
  パリ外国宣教会のマルマン神父が五島福江島の平蔵郷大泊に養護施設を建てる
     孤児や病弱な子供を救済する養護施設。五島で最初の児童福祉施設
     すぐ堂崎に移転
     1894(明治27)奥浦湾入口近くの丘の上に移転
  三池石炭海外輸出港として栄える口之津港に近代的な灯台として口之津灯台が点灯

1881(明治14)【明治】 辛巳(かのとみ)

  《知事》[第6代(官選)]内海忠勝

  02/28ウラジオストク〜長崎の航路が日本郵船の前身・郵便汽船三菱会社により開設
     汽船1隻で3週に1回、両港を出港。朝鮮の釜山や元山に寄港。冬季は元山止り
     長崎で横浜上海線、長崎天津線に連絡
     1889(明治22)神戸まで延長
     1907(明治40)04/敦賀起点の直行便が大阪商船により開設。長崎線が大きく後退
  04/武家の商法で借金漬けの後藤象二郎の高島炭坑を岩崎彌太郎が買収。三菱の経営に移る
     高島は最新技術の導入により、後年三菱のドル箱に
     1892(明治25)南洋井坑が終堀
  04/農商務省が設置される
  06/25新橋〜日本橋間に東京馬車鉄道会社が路線を開通する
     人口125万の東京市唯一の市街鉄道
     車は縦12呎、横9呎の大きさで、両端に乗降口があり2頭のらばが引く馬車
     前方の乗降口には洋風の制服を着用し、片手に手綱をもう片方の手に鞭を持った御者が立つ
     うしろの乗降口には肩からつり下げ腰につけた皮鞄をもつ車掌が立つ
     10/01日本橋〜上野〜浅草〜本石町〜日本橋のの循環線が開通
     のち線路が延長される
     1903(明治36)08/22品川八ツ山〜新橋間の5・6キロメートルが電化
     東京馬車鉄道会社が東京電車鉄道会社と改名
  06/県社の諏訪社が準国幣社となる
     1895(明治28)07/05国幣小社となる
  06/「海員掖済会」が東京府南品川の心海寺の一部を借り受け「海員寄宿所」を開設。実質的な事業の開始となる
     海員の寄宿と乗船の斡旋事業を開始、高等海員養成所を併設し高等海員の養成に着手する
     のち横浜、大阪、神戸、長崎と相次いで海員寄宿所を設ける。主要な港に配置し終える
     1886(明治20)03/有栖川宮威仁親王を本会総裁に。会名を「日本海員掖済会」と改称する
  07/22司薬場の利用価値の漸減により新橋町の長崎司薬場が廃止となる
     のち長崎県が司薬場の建物および試験設備の使用を引き継ぎ、県民の請願に応じて薬品試験を行なうことに
  07/福澤諭吉門下の阿部泰蔵らにより有限明治生命保険会社が設立される
     わが国最初の近代的生命保険会社として開業。三菱財閥系
  07/札幌農学校の演武場が玄関正面部と鐘楼を取り壊し、骨組みを強化して時計を設置。改修費は1329円
     開拓長官黒田清隆の発案による。札幌時計台
  09/桜町の長崎監獄が狭くなり、片淵郷乃武館跡に新築移転。未決監を収容(現原爆病院の地)
  09/長崎蓄積銀行が東濱町に開業
     1885(明治18)05/廃業
  09/全国14番目のキリスト教系学校として東山手にカブリュー学校(加伯利英和学校)が開校
     アメリカ人のロングとデビソン新婦の協力によるミッションスクール
     創設当時の生徒数12人、生徒の中には倉場富三郎もいた
     1889(明治22)鎮西学館と改称
     1906(明治39)私立鎮西学院に
     1911(明治44)鎮西学院新校舎落成
     1930(昭和05)竹の久保に移転
  10/29板垣退助を総裁とする急進主義の自由党が結成される
     我が国最初の組織政党として全国の農村に根を張ることに
  10/「長崎くんち」(3)…寄合町、油屋町、下筑後町、今鍛冶屋町、西中町、
     東中町、豊後町、今籠町、本下町、外浦町、萬歳町(奉納順不明)
  10/上西山町の諏訪公園内に西洋造2階建県議会議事院兼外賓接待所が落成(現県立図書館の地)
     煉瓦造2階建で建坪205坪余、1階・議事院、2階・交親館(外賓接待所)
     1907(明治40)廃止
     1915(大正04)11/28大正天皇大典記念事業として上西山町の跡地に煉瓦造2階建の長崎県立図書館が完成
  浦上の主任司祭ユーゼーヌ・プト神父の発案で浦上信徒仙右衛らが本原郷辻の丘に十字架を建てる
     本原郷辻の丘がエルサレム郊外のカルウァリオの丘に似て、十字架山、クルス山と呼ばれるように
     1923(大正12)木製の十字架が石製に
     1950(昭和25)西坂殉教地とともに、ローマ教皇によって公式巡礼地に指定
     1952(昭和27)日本最初の屋外「十字架の道」が設置
  活水学院の創立者ギール女史が活水女学校音楽科でオルガンピアノの指導を始める
  フレノー神父が長崎に戻り2年間に渡り長崎公教神学校の校長を務める
     のち豊後地方で巡回宣教に従事
     1885(明治18)4年間に渡り再び五島で布教
  宣教師フレノーが浦上の地に新教会堂設計計画を進める
     パリ・ミッション会のフレノ師は1888(明治21)初代主任司祭として着任
     1895(明治28)02/浦上天主堂が起工
  大浦41番地Aの「ゲルマニア・ホテル」が「インペリアル(帝国)ホテル」と改称
     「プロシャ・イーグル・ホテル」の名称で1866(慶応02)に創業
     ドイツ人のヨハネス・M・ウムランドとハインリッヒ・A・ショネック2人の共同経営
  浦上の信者たちが本原郷辻の丘に大きな十字架を建てる
     丘がゴルゴタの丘に似ており「十字架山」と名づける
     1950(昭和25)ローマ教皇ピオ12世により公式巡礼地に指定される
     1952(昭和27)日本最初の屋外「十字架の道」が設置
  出津・黒崎地区の主任司祭ド・ロ神父が私財を投じ活動の拠点として出津に煉瓦造り平屋(436平方米)の小さな聖堂を建てる
     1882(明治15)献堂式を行なう
     1891(明治24)信者が増え祭壇方向に1.5倍広げ、十字架を頂く小塔を建てる
     1909(明治42)正面玄関部を増築。四角の鐘塔を建て鐘を吊るしフランスから取り寄せたマリア像を塔上に据える
     戦時中鐘が供出される
  小曽根町22番に三菱合資会社経営の高島炭鉱の連絡所を置く
     1901(明治34)同じ場所に三菱高島炭鉱長崎駐在員事務所が建つ。通称炭礦舎
     木造2階建で寄棟造り、各階南西北3面にベランダ、1階ベランダは有田焼のタイル張り
     ベランダが周囲を取り巻く建築様式は、植民地風建築物として貴重な存在
     建物裏の桟橋は、高島、端島へ行く夕顔丸の発着場として長いあいだ親しまれる
     1971(昭和46)02/06小曽根町の三菱高島炭坑の長崎駐在員事務所、通称炭礦舎が火災により2階一部が焼失
     1985(昭和60)01/老朽化のため惜しまれながら解体される
  下五島久賀島の田ノ浦に浜脇教会が建つ
     1931(昭和06)潮風に曝され激しく痛み五島で最初の鉄筋コンクリートづくりの教会に建て替えられる
     解体された旧聖堂が久賀島の五輪地区に移設
  神ノ島の仮聖堂がラゲ神父により木造の聖堂として建つ
     1897(明治30)デュラン神父が私財を投じ信者と協力して煉瓦造り平屋(290平方米)の聖堂・神ノ島教会が建つ
     正面に特徴的な八角ドームの大きな鐘塔をもつ
  ド・ロ神父は私財を投じ活動の拠点として出津に煉瓦造り平屋(436平方米)の小さな聖堂を建てる
     1882(明治15)献堂式を行なう
  矢野龍渓は大隈重信と謀って「郵便報知新聞」を発行する報知社を買収
     犬養毅・尾崎行雄らが入社し立憲改進党の機関紙になる。記者の原敬はこれに反発して退社
     のち政論新聞(大新聞)が自由民権運動の退潮とともに人気低下
     1886(明治19)報知社に迎えられた三木善八は漢字の制限や小説の連載などを行ない、新聞の大衆化を図る
  警視庁通達で、人は左側を通行するようにと告知される
     1947(昭和22)占領下、道路交通取締法が制定され「人も車も左側通行」と決められる
     1949(昭和24)05/04GHQの指導により道路交通取締法で「車の通行は左、人の通行は右」と規定
  国道・日見新道会社が日見峠に馬車を通すため日見峠を開削、起工
     1882(明治15)07/30峠の中央を深さ20米、幅4米余り山腹を開削
     我国初の有料道路日見峠一等県道が開通
     08/10工事費1万8千円償却のため道銭の徴収を開始
     1889(明治22)07/道銭の徴収を終了
     通行料・人1人5厘、人力車2銭、荷車3銭、牛馬1銭5厘、乗馬3銭、駕籠2銭、馬車5銭
  初代川口栄蔵が船大工町に川口べっ甲店を創業
     1934(昭和09)商店街の繁栄が本籠町・船大工町から浜町に移行、川口べっ甲店も浜町に移転

1881(明治14)頃

  グラバーが高島炭坑で洋式採炭法の採炭を始めた際、南山手の居宅から高島の寓居まで日本で初めて電話線を架設
  宣教師フレノが旧浦上村庄屋の地に新教会堂設計計画を進める
     パリ・ミッション会のフレノ師は1888(明治21)初代主任司祭として着任
     1895(明治28)02/浦上天主堂が起工
     設計施工のフレノ神父は毎月日を決めて地区毎に積立金を集めてまわる
     資金が集まると石や煉瓦を購入し信徒たちが労働奉仕をする

1882(明治15)【明治】 壬午(みずのえうま)

  《知事》[第6代(官選)]内海忠勝

  02/大阪で立憲政党が結成される。総理は中島信行
  03/14大隈重信らの東洋議政会が嚶鳴社合同して立憲改進党の趣意書を発表
     04/16大隈重信を盟主とする漸進主義の立憲改進党が商工業者を母体に都市中心の政党として発足
  03/18長崎出身の福地源一郎、島原出身の丸山作楽らが立憲帝政党を組織する
  03/20農商務省博物局付属の動物園が東京上野に開園
     日本初の近代動物園として上野動物園が上野恩賜公園内にできる
  03/26有力な長崎県会議員を中心とした数10人が精洋亭に集まり肥前改進党結成の気勢をあげる
     05/筑後町の福済寺にて肥前改進党長崎部会を結成
     代言人(弁護士)の家永芳彦(のち市会議員、衆議院議員)、
     元西海新聞の編集主任で医師の西道仙(西南の役の頃、長崎自由新聞を発行)ら70人が集まる
     次第に衰退する長崎港貿易を挽回するため農村組織の自由党より都市政党の性格をもつ改進党を選んだもの
     幹事役は豪商岸川才一郎
     05/島原でも肥前改進党島原部会が結成式を挙げる
     1883(明治16)02/700余人の同志を獲得して大村改進党が誕生
  03/九州改進党が結成される
  04/06自由党党首の板垣退助が岐阜の中教院で遊説中に暴漢の相原尚●(耳火の下に衣)に襲われ負傷する
     「板垣ハ死ストモ自由ハ死セズ」と叫ぶ
     板垣を診察した医者は後藤新平。板垣は後藤の才を見抜き「彼を政治家にできないのが残念だ」と語る
     のち後藤は板垣の希望通り政治家となる
  04/15西海新聞の紙面に広告が載る
     「来る18日正午より十善寺郷高木文章方において、東洋社会党第一部第一同盟会相開き候条、
     同盟諸君に報ず。ただし当日来会致しがたき諸君は、袋町24番戸へ通報ありたし」
     日本で初めて「社会党」と名づけた政党が出現する
     のち広告の波紋は以外に大きく中央の有力紙は筆をそろえて「九州に社会党起こる」と報じ明治政府にも衝撃を与える
  04/18樽井藤吉らが十善寺郷で日本初の社会主義政党「東洋社会党」を結成
     綱領
     ○道徳を言行の規準とする○平等を主義とする○社会公衆の最大福利を目的とする
     綱領をみると社会主義的な面がとくに打ちだしているわけではない
     のち党員が各地に遊説。3〜4千人の同志を獲得する
     のち遊説と雑誌の発行で党勢を拡張。清国や韓国へも党の趣旨を普及させるほど
     のち樽井が社会党の政策をかかげる
     ○土地その他あらゆる自然物の共有○協同社会○児童の国家養育○優生学的生殖
     明治政府の弾圧の手がのびてくる
     長崎警察署は社会党の中心人物達を次々に呼びだし、署長の野田警部自身が直接尋問をはじめる
     07/07長崎警察署長が内務卿命により結社を禁止、解散を命じられる
  05/嘉納治五郎が東京下谷区北稲荷町の永昌寺に講道館をひらく
     わずか12畳の道場と9人の入門生からはじまる
  07/09長崎区会が開かれ初代の長崎区会議長に開業医の西道仙が選任
  07/30日見峠の中央を深さ110尺(33米)、幅4米余り山腹を開削。我国初の有料道路日見峠一等県道が開通
     08/10工事費1万8千円償却のため日見と本河内の2か所で道銭の徴収を開始
     1889(明治22)07/道銭の徴収を終了
     通行料・人1人5厘、人力車2銭、荷車3銭、牛馬1銭5厘、乗馬3銭、駕籠2銭、馬車5銭
  07/中学校として再出発した長崎県立長崎中学校が長崎外国語学校と改称
     1884(明治17)04/学校を分割。長崎中学校を再設
     同一校舎に2つの学校が廊下続きで存在することに。教師は掛け持ちで教授
  09/16県下にコレラ流行、患者48、うち死亡28(初発〜09/14)
  09/新聞「西海日報」が創刊。発行所は新町
     創立者は松田正久、西道仙、松田源五郎、渡辺元、牛島秀次郎ら。社長は伊藤欽亮
     「西海新聞」から改題した「鎮西日報」が政治的に保守的色彩を鮮明になったことに対応して創刊
     1884(明治17)廃刊
  10/12「西海新聞」が本博多町で「鎮西日報」と改題
     元西彼杵郡長の佐々木澄治が経営を引き継ぎ、それまでの隔日刊が日刊に
     佐々木は県令内海忠勝の勧奨に従い現職をなげうち立つ
     近来の急進的な外来思想の動揺を防ぎ、民心の混乱を鎮むることを理念とする保守色彩の強い新聞に
     のち社長は佐々木から井上英雄、高見松太郎と続く
     1910(明治43)廃刊
  10/10東京の永代橋にて日本銀行が業務を開始
     政府が発行したお札を回収し、お札の発行を1か所で行なうことを目的として設立される
     預金取引、貸出等を開始
  10/「長崎くんち」(4)…丸山町(本踊)、東浜町(本踊)、築町(御座船)、
     東古川町(御座船)、本古川町(川船)、八坂町(小薩摩人形)、興善町(小薩摩四季花)、
     今下町(本踊)、大黒町(唐人船)、馬町(獅子踊)、東上町(唐人船・本踊)
  10/日本銀行が開業する
  10/活水女学校の新校舎ラッセル館が東山手13番地に落成し移転。生徒は43人に
  11/01東京銀座で米国製のブラッシュ発電機を使った2千燭光のアーク灯が点灯される
     市民は「日月と光を争う」と驚嘆
  11/大浦7番館にベルギー領事館を設置。のちリンガー商会のエフ・リンガーが代理領事を務める
     1905(明治38)11/ノルウェー
     1919(大正8)スウェーデンの代理領事を兼ねる
  12/07西彼杵郡淵村の淵神社社務所に淵小学校の分校として稲佐小学校が創立
     生徒11人。民家や神社のお堂が校舎代わりに
     1896(明治29)09/立派な新校舎が落成。校長は坂本国五郎
     1898(明治31)長崎市に編入し長崎市立小学校に
  それまで通称・俗称で一定していなかった100余の橋名が統一され正式な橋名が決定
     長崎区常置委員会の委嘱によって常置委員で漢学者の西道仙が命名。橋柱の橋名は能筆家でもある道仙の書
  第1期長崎港湾改良工事が起工
     港内の海底が河川より流入した土砂で浅くなり、船舶に出入りに支障をきたしていたため
     大規模な浚渫・砂防・中島川変流工事
     中島川は江戸町と出島の間に迂回させ、西浜町と築町、築町と出島が陸続きに
     長崎港沿岸を浚渫した土砂で大波止から大黒町にかけての沿岸を埋立てる
     1893(明治26)落成
     膨大な支出のため工事は中止という形での落成。工事費は31万1261円
     中島川筋3642坪、江戸町岸傍715坪、出島新橋傍1050坪、大波止沿岸643坪、突堤傍1906坪の計7956坪を埋立て
  興善小学校の校舎が改築落成
     名称を中等興善小学校と改める
     1886(明治19)尋常興善小学校と改称
  西道仙が県内の進歩主義政党として同志会(改進党)を結成。会長となる
  炉粕町通り沿いの缶詰試験場が廃止
     のち松田雅典は缶詰製造に専念しようと官職を去る
     試験場を支払い下げてもらい松田缶詰工場として自営
     のち清国へ輸出し、ロシア東洋艦隊へ納入
  ド・ロ神父が出津に建てた煉瓦造り平屋(436平方米)の小さな聖堂の献堂式を行なわれる
     1891(明治24)信者が増え祭壇方向に1.5倍広げ、十字架を頂く小塔を建てる
  上五島中道島の江袋地区に江袋教会が建つ。五島に残る現役木造教会の最古のもの
     木造の変形寄棟造平家建てで、中は横に幾分張り出した四角形の三廊式、
     中央祭壇には尖頭アーチの縦長窓と丸窓、側面にも尖頭アーチ形の鎧戸付きの窓、
     入口の上には楽廊もあり主廊側廊とも板張りのリブ・ヴォールト天井
     1996(平成08)秋/老朽化が進み修復工事が行なわれる。窓とステンドグラスが取り替えられる
     それまでの内部は築当時のもの。天井はコウモリ天井、窓は洋式のアーチ型。外に鎧戸、内にフランス製の色ガラスをはめた扉など
     内陣中央の上部に設置されている3つの窓と色ガラスは比較的保存状態が良く、当時を偲ばせるものとして保存
     2007(平成19)02/12火災により大部分を焼失
     2007(平成19)04/26新上五島町の有形文化財に指定される
     未指定の建造物が火災後に文化財指定を受けるのは、全国にも例がなく初めて

1883(明治16)【明治】 癸未(みずのとひつじ)

  《知事》[第6代(官選)]内海忠勝(→03/08)、[第7代(官選)]石田英吉(03/08→)

  01/27伊勢新聞と三重日報に中尾勝三郎による求婚広告が掲載される
     「先頃女房を離縁して不自由勝ゆえ、貧富を論ぜず、十七歳以上二十五歳にて嫁にならうと思ふ物は紹介あれ」
     のち近くに住む19歳の女性が応募。みごと結婚
  01/旧「長崎新聞」「西海新聞」が日刊の「鎮西日報」(本社本博多町)となる
     1910(明治43)廃刊
  02/16日本で初めて天気図が作られる
     ドイツ人の気象学者エリヴィン・クニッピングの指導のもと7色刷りの天気図となる
     全国11か所の観測所から電報データを集めクニッピングが英文でかき馬場信倫が訳して天気図にする
     03/01毎日発行されるようになる
     08/23新橋と横浜の停車場に掲示される
  02/三友銀行が平戸に開業。長崎に支店をおく
     1885(明治18)07/本店が長崎に移る
  02/700余人の同志を獲得して大村改進党が誕生
  03/01福岡の石丸國吉が勝山町に筆、墨の製造販売を中心とした文具店の店舗を開店
     国吉は長崎に憧れ筆、墨、大福帳、巻紙などを加工し小売り、官公庁や学校へ納品
     1904(明治37)09/東浜町16番地の土地を購入し移転
     1909(明治42)忠兵衛を養子に迎え、三菱造船所にも出入りが許され、舶来の事務用品を多量に扱う
     1933(昭和08)03/2代目石丸忠兵衛が清水建設株式会社に店舗建築を依頼
     清水建設株式会社の長崎進出第1号工事として鉄筋3階建の店舗が東浜町に完成
     1階が店舗、2階が倉庫、3階が応接室など。入口両側のショーウインドに施されたステンドグラスが好評
     長崎でも2番目の鉄筋コンクリート造り3階建店舗を新築。話題を呼ぶ
     当時、浜市商店街の中で3階建は林田洋傘店と二枝鼈甲店(ともに木造)だけ
     1935(昭和10)法人組織に改め、合名会社石丸文行堂設立。石丸忠兵衛(2代目)代表社員に就任
     1959(昭和34)02/万屋町95・96番地の土地を購入裏通りまで拡張
     1959(昭和34)09/合名組織を株式会社に変更
  04/長崎貿易会所が設立
  04/長崎市に製靴会社が設立され本格的に靴の生産がはじまる
     代表金尾長次郎の更盟社、商人か士族授産者(?)部落の資本ではない
  05/09長崎県が旧佐賀県を分割。現在の長崎県域となる
  05/26日本初の暴風警報が発令される。四国南岸を中心の745mHg(993ヘクトパスカル)の低気圧
  06/03隅田川言問橋近くで天皇臨席のもと海軍軍艦乗組員によるカッター競漕大会が開催される
     日本初のボートレースとなる
  10/04動く社交界としてオリエント急行の運行が開始
     夜にパリ・ストラスブール駅を発車し、6日かけてコンスタンティノープル(イスタンブル)に到着
     経路はパリ(フランス)〜シュトラスブルク(ドイツ帝国、現ストラスブール)〜ミュンヘン〜
     ウィーン(オーストリア=ハンガリー帝国)〜ブダペスト〜オルソヴァ(ルーマニア王国)〜ブカレスト〜
     ジュルジュ〜[船でドナウ川を渡る]〜ルセ(大ブルガリア公国)〜
     ヴァルナ〜[汽船で黒海を渡る]〜コンスタンティノープル(オスマン帝国)
     車両は寝台車2両、食堂車1両、荷物車(兼乗務員車)2両の編成で寝台車には4人用個室3室と2人用個室4室
  10/「長崎くんち」(5)…寄合町、桜町、小川町、内中町、西上町、
     矢幹町、八百屋町、勝山町、恵美須町、紺屋町、炉粕町、伊勢町
  11/28東京麹町山下町に、西洋社交クラブ「鹿鳴館」がオープン。建設費は18万円
     鹿鳴館は外国からの賓客や外交官を接待するために明治政府によって建てられた社交場
     「鹿鳴」は詩経の「鹿鳴の詩」に由来、来客をもてなすことを表わす語。オープン当日は井上馨の誕生日
     落成の祝宴が1200人を招待して行なわれる【600人?】
     パーティは深夜にまでおよび午前1時新橋発横浜行の臨時列車が運行される
     1887(明治20)04/09井上馨が外務大臣を辞任。鹿鳴館時代は井上とともにその歴史に幕をおろす
     1890(明治23)鹿鳴館の建物が宮内省に払い下げられ、華族会館が一部を使用
     1894(明治27)06/20明治東京地震で被災
     のち修復後、土地・建物が華族会館に払い下げられる
     1927(昭和02)徴兵生命保険(のちの大和生命保険)に売却される
     1940(昭和15)取り壊される
  12/長崎商法会議所を改組、桜町に長崎商工会が設立
     1893(明治26)12/商業会議所条例に基づき長崎商工会を長崎商業会議所に改組。事務所を大村町に置く
  銀屋町に糸岐千代蔵が糸岐商店を開店
     のち船大工町にも支店をだす
     1924(大正13)糸岐千代蔵が死去。2人の息子が後を継ぐ
     のち店は三菱長崎造船所から記念品などの注文を受けるなど順調に
     1933(昭和08)昭和恐慌を境に状況は一変、船大工店が閉店
     1943(昭和18)銀屋町の本店が閉鎖に追い込まれる
  南山手にロシア正教会が建立。俗に「ロシア寺」「森の教会」と呼ばれる
     ウラジオ港が氷結のため越冬が出来ず、毎年、来崎するロシア艦隊のため
     1942(昭和17)長崎要塞司令部が、外浪町からこの地に移転。教会は撤去
  10才の松尾サダ(愛八)が丸山の芸者置屋・島田屋に預けられる
     1933(昭和08)12/23座敷の帰りに倒れる
     1933(昭和08)12/30意識不明のまま眠り続け60才で死去
     古賀十二郎が葬儀の一切の面倒をみる
     葬儀には多くの知名士が参列、新聞も詳報をするほど盛大に行なわれる
  ナタネ油、ツバキ油、ゴマ油の商いとして松早石油が創業
  正覚寺境内の廣済寺が独立、現在の中新町に移転
  松尾孫八が稲佐に松尾鉄工所を設置
     1904(明治37)香焼に進出
  中国から工匠を招き興福寺の本堂の大雄宝殿が再建
     中国清朝の華南系の建築様式をよく伝える
  出島教会隣の英学校が出島聖公会神学校となる
     西側(左側)部分に鐘塔を有する木造2階切妻造りの優雅な洋風建築
     1889(明治22)隣接の教会が解体
  第三海軍区、軍港選定のため、東郷平八郎少佐を艦長とする軍艦第二丁卯が 大村湾測量班を乗せて佐世保に
     佐世保村はわずか戸数800、人口3700ほどの農漁村
     1886(明治19)第三海軍区、西海鎮守府が2年余の実地調査の末、佐世保に決定
     候補地には平戸島の江袋湾、佐賀県の伊万里湾もあった
     佐世保村民は狂喜して、2万数千坪の用地買収に坪当たり10銭〜25銭という破格の安い値段で応じる
     1887(明治20)建設工事が始る。全国各地から人夫が集まり、商人が殺到。
     1888(明治21)人口が一挙に倍増。佐世保には新興の活気がみなぎる
     80余人に上る犠牲者を出しながらも突貫工事が進む
     1889(明治22)05/佐世保鎮守府所轄の第三海軍区の区域が公示
     区域は九州沿岸と壱岐・対馬・沖縄諸島の海上
     1889(明治22)07/佐世保鎮守府が開庁。初代鎮守府司令長官には赤松則村中将が任命
     のち鎮守府司令長官には連合艦隊司令長官となる東郷平八郎中将や第1級の海軍指導者が歴任
     佐世保市民は、県知事の名を知らなくても鎮守府司令長官の 名は知っていた
     1889(明治22)12/海兵団の第1回新兵入団をみる
     1890(明治23)はじめて所轄の軍艦が湾内に姿を浮かべる
  ド・ロ神父が黒崎村出津で庄屋、代官、足軽等の詰所跡を購入し救助院を設ける
     製粉、機織、裁縫、そうめん、パン、醤油、搾油技術、日記、算術を教える
     1885(明治18)診療所を設立、薬局を置く
  長与専斎らが大日本私立衛生会を興す
  横浜の貸自転車業屋が大火により自転車を全て焼失、廃業となる
  坂本屋が本博多町に開業。土佐屋とならんで野口某が営む
     1926(昭和01)金屋町に新築移転。旅館は野口の妹坂本さだが引き継いで経営
     坂本さだは1920(大正09)福岡県宇美町生まれ
     先祖は黒田藩52万石の家老、粕屋郡宇美の城主。その末久野直隆の二女に生まれる
     学生時代は水泳で福岡県のレコードを持つ。また長崎の女性で初めて車の免許を取得
     県立香椎高女を卒業し専攻科をでて20才で長崎に嫁ぐ
  雲仙に純洋式の下田ホテルが新築される
  雲仙の緑屋ホテルが外国人向きに設備を改める

1884(明治17)【明治】 甲申(きのえさる)

  《知事》[第7代(官選)]石田英吉

  01/01南高来郡加津佐村に天然痘流行、死者40
  01/江戸町に石油会社が開業。石油ランプの普及が始まる
  03/17早朝、ホワイトと日本人乗組員5人が上海からの米国船「ワトソン号」を誘導するため小型帆船で出港
     夜明け、「ワトソン号」の船影を認めるが、海は荒れ狂いホワイトと部下を乗せた船が転覆
     海は凍てついており、日本人1人が荒海の藻くずに
     「ワトソン号」の救助ボートは2往復し日本人4人を救助
     3往復目にホワイトを救助するときには転覆から3時間が経過、ホワイトは生きているが精神錯乱状態に
     「ワトソン号」に引き揚げられると寒さと極度の疲労から42才で息を引き取る
     英国領事館で審問ののち遺体は大浦国際墓地29番に埋葬される
      アイルランド出身のジョン・ホワイトは1874(明治07)頃に来崎。長崎港の水先案内人となる
      のちに日本人女性と結婚、南山手の洋館に居を構え4人の子供をもうけた
     数日後ホワイトの妻が居留地住民の弔意に感謝する小記事を英字新聞に掲載
  04/01長崎外国語学校内(立山屋敷の一部)に県内唯一の長崎県中学校が設立
     06/04生徒59人にて授業開始
     1901(明治34)06/30長崎県中学校を長崎県立長崎中学校と改称
     1908(明治41)03/長崎市福富町に移転
     1913(大正02)07/22鳴滝校舎が新築落成し移転
     1948(昭和23)04/県立長崎高等学校と改称
     1948(昭和23)11/01県立瓊浦高等学校、県立長崎女子高等学校、市立女子高等学校とともに統廃合
     長崎県立長崎西高等学校長崎県立長崎東高等学校となる
     鳴滝町の旧県立長崎高等学校の校舎に長崎県立長崎西高等学校
     西山町の旧県立長崎女子高等学校の校舎に長崎県立長崎東高等学校
  04/13大浦お慶が56才で没する
  04/長崎外国語学校が学校を分割。長崎中学校を再設
     同一校舎に2つの学校が廊下続きで存在することに。教師は掛け持ちで教授
     1885(明治18)11/15公立長崎商業学校が大村町11番地の旧商業会議所跡に開校
  06/12日本最初のバザー「婦人慈善会」が3日間にわたり東京日比谷の鹿鳴館で開かれる
     会場の2階2室に飾りつけられた陳列棚は13。緑葉で装飾し日章旗を交叉させ1棚に30〜40種の諸品を載せる
     値段を記した紅白の札を付け、出品総数は3千有余
     棚ごとに貴族や政界の夫人総出の受持ち係が配置される
     第1番の松方夫人他、第2番の西郷夫人他、第3番の大山夫人他から第13番の長岡夫人他まで
     出品物は、手袋、靴足袋、巾着、人形、扇子、手巾、襟巻など多種
     陳列室のほかに書画展観席があり、客の休憩所には階下の食堂があてられ喫煙、茶菓の店が設けられる
     集客は新聞広告、前例のない斬新な試みとして世の耳目を集め、錦絵の題材にも
     3日間の入場者は実に約1万2千人、売上は約8千円(現在の金額で1憶7千万円)に達し、大盛況のうちに終了
     収益は看護婦養成所に寄付される   06/中旬長崎で第1回医術開業試験を施行
  06/28西浜町の付属小学校の一部に長崎県女子師範学校が新設
     1886(明治19)04/01長崎県師範学校に合併
     長崎県立師範学校女子部と改称。校舎は西浜町の付属小学校内のまま
  07/07「郵便汽船三菱会社」社長の岩崎弥太郎が政府共同運輸会社との戦いの真最中
     基幹産業として着目していた官営長崎造船所を政府から25年間借り受けることにけ
     政府共同運輸会社との戦いの真最中に基幹産業として着目
     工部省長崎造船局(官営長崎造船所)廃止、郵便汽船三菱会社に貸し下げ長崎造船所と改称
     岩崎彌太郎が所有する37隻の修理と造船所経営の必要に迫られて官が設立し民に移譲
     急速な近代化を図るパターン。背景には官営事業の失敗もある
     1887(明治20)04/三菱社社長岩崎彌之助が大蔵大臣伯爵松方正義に長崎造船局の払下げを申請
  07/17本石灰町70番地の金剛院如意輪寺跡地に木造2階建、寄棟造の「二宮病院」が建つ
     屋根下の欄間には唐草模様の彫刻があり、和洋折衷様式の構造
     シーボルトの娘、楠本イネが開業していたという噂も
     1935(昭和10)頃廃業、のち賃貸アパートに
     1987(昭和62)解体
  08/19県令石田英吉が開業医組合設置法を布達
  10/01帽子商小山梅吉の手により国産の蝶ネクタイ第1号が誕生
  10/07渡御。「長崎くんち」が日程変更10/11還御となる
     (6)…丸山町、本大工町、今博多町、本紺屋町、今魚町、
     本籠町、材木町、古町、上筑後町、江戸町、本興善町
     今魚町は上の切、下の切と2つの傘鉾をだす
  10/31長崎医会が結成される
     1885(明治18)02/25長崎医会第1回通常会を開き会長に吉田健康を選任
     1890(明治23)02/01初めて長崎県医会(長崎県医師会の前身)を開く
     議長に 吉田健康(長崎病院長)、副議長に 西道仙(開業医)が当選
     1890(明治23)03/長崎医会が東京で開催の第1回日本医学会に出席する長崎県医会総代として吉田健康、西道仙を選出
     長崎県医会が組織される
     1892(明治25)06/02長崎医会が開かれる
     1898(明治31)08/15医会事務所を東中町60番戸に置く
     1903(明治36)09/長崎県医会(市医会)事務所が東中町60番戸から金屋町2番戸に移転
     1909(明治42)02/20長崎県医師会総会が開催。県医師会設立の件を建議し可決。長崎県医師会が設立される
     1912(明治45)05/18長崎県医師会(市医師会)事務所が金屋町2番戸から袋町39番地へ移転
     1925(大正14)05/30長崎県医師会(市医師会)事務所が中島川端の袋町23番地に移転
     1935(昭和10)09/13長崎市医師会館の移転新築落成式、袋町23番地から榎津町55番地に移る
     県医師会事務所も同会館内に移転
     1948(昭和23)02/12新制社団法人長崎県医師会の定款が成立する
     1961(昭和36)12/07長崎県医師会の事務所が長崎市榎津55番地の市医師会館から袋町の元町村会館跡へ独立移転
     1980(昭和55)07/17長崎県医師会館の新築工事起工式が行なわれる
     1981(昭和56)04/25長崎県医師会館の新築落成式が行なわれる
     旧三菱長崎製鋼跡地に鉄筋コンクリート造4階建て、総事業費約11億5000万円
  10/31埼玉県秩父郡の農民が政府に対して武装蜂起を起こす。秩父事件
     蜂起の目的は暴力行為を行なわず高利貸や役所の帳簿を滅失し、租税の軽減等につき政府に請願すること
     下吉田(旧吉田町)の椋神社において決起集会が行なわれ、蜂起が開始される
     11/01秩父郡内を制圧して、高利貸や役所等の書類を破棄
     一部には指導部の意に反して暴力行為や焼き討ち等を行なった者も
     電信によりいち早く蜂起と規模を知った政府は一部汽車をも利用して警察隊・憲兵隊等を送り込むが苦戦
     最終的には東京鎮台の鎮台兵を送り郡境を抑える
     11/04秩父困民党指導部は事実上崩壊、鎮圧される
     一部の急進派は長野県北相木村出身の菊池貫平を筆頭に農民を駆り出して十石峠経由で信州方面に進出
     11/09一隊は佐久郡東馬流で鎮台兵の攻撃を受け壊滅
     のちおもだった指導者・参加者は各地で次々と捕縛される
     のち事件後、約1万4千人が処罰
     首謀者とされた田代栄助、加藤織平、新井周三郎、高岸善吉、坂本宗作、菊池貫平、井上伝蔵には死刑判決が下される
  10/アメリカで万国子午線会議が開催。グリニッジ子午線を国際的な本初子午線に制定する
     1886(明治19)07/13東経135度の兵庫県明石市の時刻を日本の標準時とすると勅令が公布される
      明治十九年勅令第五十一号(本初子午線経度計算方及標準時ノ件)
     東経135度の子午線を太陽が通過する時刻が正午となり、明石市の正午が日本全国の正午に
     グリニッジから整数の時間差で自国の標準時を決定する。経度が15度毎に時差は1時間。明石市は9時間進む位置に
  10/上野不忍池を埋め立て、池を周回する形で競馬場を開場
     桜並木の左側柵の中が距離1マイルの競馬場
     共同競馬会社が交通不便な戸山の戸山学校競馬場から集客アップをねらい移転
     競馬はギャンブルではなく見世物として興行
     11/01天皇臨席のもと第1回秋季競馬が開催
     以降春と秋の2回、競馬大会が行なわれる
     内務省農務局から毎回賞金が出されるなど、非常に大きなイベントに
     1892(明治25)経営難のため解散
  12/旅回り演奏家の一座が来崎。オペレッタや演奏による余興を大浦31番地の公会堂で披露
     リードテナーはイタリア出身の欧州では名のあるオペラ歌手アゴスティノ・パンニョニ(66)
     12/15パンニョニは一座とともに「ベル・ヴュー・ホテル」滞在中に急病のため死去
     遺体は大浦国際墓地25番に埋葬
  12/24新地警察署が梅ケ崎に新庁舎が完成し移転する。梅香崎警察署と改称
     1940(昭和15)06/25松ケ枝町42番地の旧香港上海銀行社屋に移る
     1954(昭和29)07/大浦警察署と改称
     1974(昭和49)03/08松ケ枝町7番2号の新庁舎に移る
  大浦外国人墓地が諸外国領事からの要請で墓地の左手に新しい区画(1〜15番)を増設
     1880年代後半事実上満杯状態になる
     大浦国際墓地の埋葬者数(208)
       イギリス(133)、アメリカ(30)、ドイツ(15)、フランス(8)、
       ポルトガル(6)、オランダ(5)、イタリア(2)、ノルウェー(2)、
       オーストリア(1)、スウェーデン(1)、デンマーク(1)、ベルギー(1)、不明(3)
  山浦治吉が西浜町68番地(現在ユニード所在)に個人経営の西洋レストラン「清洋亭」を開業
     他に市内の西洋料理店は福屋(小島郷)、外国亭(外浦町)、自由亭(馬町)
     1907(明治40)金子謙三郎が西洋料理店「清洋亭」を譲り受け「精洋亭」に改称
     のち相場に失敗し倒産
     1930(昭和05)06/代表藤木喜平が株式会社「精洋亭」を設立
     1947(昭和22)05/レストラン「精洋亭」を継承
     1959(昭和34)06/原爆による補修修理と共に県側の要請により「精洋亭」を改装
     階下をレストラン、2階を18室25人収容の洋式ホテル「精洋亭ホテル」として業務開始
     1960(昭和35)08/外浦町の長崎観光ホテル(七條達夫経営)を買収。新ホテル建設決定
     1962(昭和37)11/長崎グランドホテル」と改称し外浦町にて営業開始
     地下2階、地上7階の全60室。社名は(株)精洋亭のまま
     ホテル専用のビルとしては九州熊本のキャッスルホテルに次いで2番目
     1963(昭和38)04/03商号を長崎グランドホテルへ変更
     1975(昭和50)10/客室126室でリニューアルオープン
     1993(平成05)03/立体駐車場・客室改装[客室105室(洋室97、和室8室)]が竣工
  諏訪町に中華菓子店「萬順製菓」が創業
     のち螺旋状の揚げ菓子マファールに「よりより」の名称をつける
  林昭夫の祖父が新地にて菓子業「萬順」をはじめる
     のち林昭夫の父は継がず貿易をし砂糖やメリケン粉などの卸問屋「萬順号」を経営
     第2次世界大戦中輸入が中断され「萬順号」は廃業
     1954(昭和29)林昭夫が祖父からの屋号「萬順」を継ぎ中華菓子をはじめる
     祖父が菓子を作った新地に店舗を構え金銭餅を看板に売り出す
  (株)諫早銀行が創業
     1929(昭和04)03/(株)諫早商業銀行と(株)喜真銀行を合併する
     1942(昭和17)株式会社十八銀行に買収される
  ルーマニア生まれのジークムント・D・レスナーが父リオ、母ハンナとともに来崎
     家族で梅香崎9、10番地に食料品の小売と卸売の店を開店
     のち梅香崎6番地に大店舗を構える
     1887(明治20)妻ソフィ・レヴァーをめとる
     1892(明治25)坂本国際墓地内にユダヤ人墓地を作るための資金調達に奔走
     1893(明治26)09/03梅香崎11番地にユダヤ教会を建立
     1894(明治27)02/11母ハンナが心臓病のため66才で死去
     遺体は坂本国際墓地27番に埋葬
     のち南山手15番地に私邸を建設
     1904(明治37)10/04ジークムント・D・レスナーの父リオが88才で死去
     父は長崎ユダヤ教博愛協会の名誉会員、ユダヤ教会ラビの(宗教的指導者)だった
     遺体は坂本国際墓地26番に埋葬
     1914(大正03)07/28第一次世界大戦勃発
     オーストリア市民権を持つレスナーが敵国民と見なされ営業停止処分に
     1919(大正08)末営業再開を許される
     1920(大正09)02/24南山手の自邸から梅香崎の事務所に着いたレスナー(61)が急死
     原因は心臓発作。葬儀はユダヤ協会で行なわれ遺体は坂本国際墓地内ユダヤ人墓地IVに埋葬
     新聞「ナガサキ・プレス」に記事
     「知名度、人望共に余人の追随を許さない故人のために、
     あらゆる国籍、業種、宗教の外国人たちが葬儀に参列した…」
     のち墓石の上にはレスナーの胸像(国際墓地で唯一)がすえられる
  御船蔵町3番地に長崎紡績所が設立
     1886(明治19)08/工場内にて近代的な工場照明の初めとして自家発電の電灯を点灯
  「西海日報」が廃刊
  プチジャン神父が長崎で死去。大浦天主堂に埋葬

1884〜1885(明治17〜18)頃

  大阪で本格的なタマネギの栽培に成功

1885(明治18)【明治】 乙酉(きのととり)

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