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〈安土桃山時代(1)〉

1570(永禄13、元亀01・04/23)【正親町】 庚午(かのえうま)

  03/大友宗麟軍と龍造寺隆信軍との間に佐嘉で今山の戦いがはじまる
     大友宗麟は龍造寺を討伐するため、弟の大友親貞を総大将とする6万の大軍を龍造寺領に送り込む
     対する龍造寺隆信は5千の兵力しか集められず、佐嘉城に立て籠もる
     大友軍は圧倒的兵力を背景にして、遮二無二佐嘉城を攻める
     龍造寺軍の士気は高く、大友軍はなかなか佐嘉城を落とすことはできず
     龍造寺軍には援軍の見込みが無く、落城は必至の状況
     のち筑後の高良山に布陣する大友宗麟は勝報が届かないことに業を煮やし、援兵を送り親貞に総攻撃命令を下す
     親貞は09/19《08/20》に佐嘉城への総攻撃を決定
     総攻撃の前日夜、親貞は今山の本陣で勝利の前祝いとして酒宴を開き、軍の士気を緩める
     これを知った龍造寺氏の武将・鍋島信生(直茂)は今山の敵本陣に対して夜襲をかけることを隆信に進言
     初めは危険だとしてみな否定的。隆信の生母・慶_尼が叱咤し隆信が奇襲を認める
     直茂をはじめとする奇襲部隊は城を抜け出し、今山の敵本陣の背後に近づく
     09/19《08/20》早朝、今山の大友軍本陣は鍋島直茂率いる奇襲部隊に襲われる
     総大将の大友親貞は乱戦の最中に討死。大友親貞軍は総崩れとなり、今山の戦いは龍造寺軍の勝利に終わる
     大友軍の死者は2千人以上に及ぶ
  春/コメス・デ・トーレスが長崎の小さくて美しい「諸聖人に捧げる教会」に移り住む
     試練を乗り越えて信仰を守り続けた大村純忠が、トーレス神父を見舞いに訪れる
  06/18《05/15》ポルトガル船が天草の志岐(苓北町)に入港
     イエズス会日本布教長トーレスの後任としてフランシスコ・カブラル神父が来日
  06/下旬天草の志岐(苓北町)で宣教師会議が開催される
     カブラルは会議で府内(大分)のフィゲイレド神父を福田の司祭に任命
     会議後天草の志岐(苓北町)での宣教師会議後、カブラルは樺島、福田を経て大村に入り、純忠妻子に洗礼を授ける
     妻おえんはドンナ・マリア、息子喜前はドン・サンチョの洗礼名を受ける
     福田に入港したポルトガル船が祝砲を放つ
  10/トーレス神父が志岐で病死
  10/頃フィゲイレドは福田停泊中のポルトガル船船長トラバソスとともに長崎の入江で港を探す
     のち新しい港の位置を決定
     のち長崎開港協定が成立する
  冬/カブラルが大村をでて純忠から領内各地の領主にあてた書簡を携え巡歴布教をする
     まず長崎郊外の戸町を布教。領主戸町総兵衛(長崎氏の一族)夫妻はすでに受洗、住民のほとんどが信者に
     のち手隈、式見、三重、神浦、長与を巡歴布教。各領主たちの夫人や子女が改宗する
     のち大村の全領内がキリシタン化となる
  領主大村純忠は隣国領主との抗争を止めるため長崎をイエズス会へ寄進
     イエズス会領となった長崎には全国各地からキリスト教徒や商人が集まり急速に発展
  大村純忠の臣下、朝長対馬、長崎甚左衛門、宣教師フォゲレード等により新しい町造りがはじまる
  新大工町〜馬町間に「郭門・画棟・朱欄・金碧交々輝」く木廊橋が架かる
     1647(正保04)竹橋となる
     1650(慶安03)10/堂門川(西山川)の新大工町〜馬町間に、唐商高一覧が石橋の大手橋(堂門橋)を創建
     1721(享保06)閏07/28「享保の大水害」大洪水で破損
     掛り町の北馬町、南馬町、新大工町銀1貫500目を拝借し修理
     1740(元文05)再架
     1934(昭和09)国道から市道になり当初の石造アーチ部分の上に鉄筋コンクリート橋が架かる。長さ12.5米

1571(元亀02)【正親町】 辛未(かのとひつじ)

  03/大村純忠の家老朝長対馬守が長崎村の森崎と堀の間に6丁の町を拓いて町を建てる
     トーレス神父が大村純忠と会談した時、他の地で迫害されていた信者たちに分け与えるためひとつの土地を頼む
     《嶋原町》《大村町》《平戸町》《横瀬浦町》《文知町(分知町)》《外浦町》ができる
     「島原町」は有馬修理太輔義純、「大村町」は大村理専、「平戸町」は日浦与左衛門、
     「横瀬浦」「外浦町」は横瀬浦与五左衛門、「文知町」は則文知による
     岬が賑やかになる。戸数400余。人口1千〜1500
     長崎の静かな海に突き出ていた松と薮で覆われた細長い崎。区域面積は約8千坪、2.6ha
     6町の場所「カリアン書簡」には草原、「長崎剳記」には麦畑、「イエズス会士日本通信」には森林と記録
  03/12ポルトガル国王ドン・セバスチアンは東インド地方でポルトガル人が日本人男女を売買することを厳禁に
     違反したポルトガル人は財産没収、日本人は放免と布告
  夏ポルトガル船2隻が初めて長崎に入港。以後、ポルトガル船はほとんど定期的に入港する
     長崎が日本の布教と貿易の根拠地に。外国との交流が多くなり南蛮時代がはじまる
  司令官トリスタン・デ・ウエガ率いるポルトガル船3隻が長崎に入港
  フィゲイレド神父が町の突端の波止場の傍の岬の先端に小さな聖堂「サン・パウロ教会(岬の教会)」を建てる
     長い航海を終えた異国の船員にとって、船上から眺める教会の姿は夢みるような美しい光景だった
     のち聖母マリアに捧げられたこの教会は次第に大きくなり、日本の教会の中心となるまでに発展
     1581(天正09)増改築される
     1585(天正13)すぐに手狭になって更に大きな教会の建設のため工事がすすめられる
     1587(天正15)工事半ばにして豊臣秀吉の禁教令が発布
     1587(天正15)岬の新しい教会が完成
     1589(天正17)秀吉の命令によって取り壊される
     1590(天正18)岬の教会が閉鎖
     イエズス会員はトードス・オス・サントスとミゼリコルディアの組の教会を利用
     1590(天正18)再び許されて建て直される
     傍らにはイエズス会の本部が出来上がる
     1601(慶長06)セルケイラ司教の司式により「サン・パウロ教会(岬の教会)」の献堂式が挙行される
     「サン・パウロ教会(岬の教会)」はヴァリニャーノの指導の下で改築
     またセルケイラ司教は岬の教会に日本司教区大神学校を設立
     1602(慶長07)長崎で一番大きな準司教座教会「被昇天のサンタ・マリア」となる
     敷地内にはイエズス会本部や学校があり、初期キリスト教文化の中心地となる
     イエズス会本部には会員約50人、学校には生徒約80人、職員約40人
     十年制大学校は、キリスト教の他、日本の歴史、礼法、仏教概論、ラテン語、
     音楽、絵画、天文学、数学、暦学を教え、オルガン時計、印刷機や天文器機等も製作
     1603(慶長08)塔(やぐら)が建ち3つの鐘と珍しい時計がつけられる
      大時計の文字盤には時刻がローマ数字と干支の2通りに記されている
      陰陽両式の日を示すカレンダー時計で、3つの鐘が音を奏するチャイム時計
     市民たちは時間ごとにここに来て文字盤を見ながらチャイムを聞くのを楽しみにしていた
     時計の製作はジョワンニ・ニコラオ神父。イタリアルネサンス派の画家で教会の祭壇の絵や壁画を描くために派遣
     1614(慶長19)09/禁教令による切支丹弾圧により破却される
  町の発展とともに、佐賀の龍造寺、深堀の深堀氏などとの紛争が激しくなる
  純忠の庇護のもとキリスト教は盛んになり、一方神社仏閣は布教の妨げになるとして、次々に焼き払われ壊滅の状態に
  南蛮船入津根拠地の福田の浦のキリシタン信徒数が1250人に
  イエズス会宣教師が開いた長崎湊は「三方山高く海深く風波穏やかにしてこれに過たる湊なし」と報告書に記される
     それまでのキリシタン時代、宣教師の報告書によると平戸、口之津、横瀬浦、七釜などの湊が著名
  長崎に逃れてきた志岐(天草)のキリシタン20人が志岐領主が派遣した刺客により殺される
  フィゲレイド神父とキリシタンらが長崎に家を建てる
     のち家族とともに大村家の武装船に護衛され福田から長崎に移る
     キリシタンの多くは諸地方から追放され、領主より追放され、棄教を欲せずして自ら本国を去りたる者たち
     また戦争により故郷が破壊されこれを離れる者
     彼らは島原、志岐、五島、平戸、博多、山口などよりくる者
  ポルトガル国王のドン・セバスチャンはポルトガル人が日本人を購い、また誘拐することを厳禁する勅令をだす
  伊王島が長崎に入港する外国船の目印の島「ガバロス島(ロバの背)」と呼ばれる
  雲仙満明寺にて雲仙古湯の僧坊の稚児「学一丸」が可愛がる1羽の白雀をめぐり
     別所の僧坊の稚児「宝寿丸」と「白雀を貸せ貸さぬ」という争いに。「宝寿丸」が誤って白雀を殺す
     2人の喧嘩は僧坊同士の対立に。2派に別れた数百人は3日間にわたり刀槍を使った乱闘となる「白雀の乱」
     ついには満明寺が放火される事件に発展
     のち原城にいた有馬義直は300の兵を派遣して鎮定
     争いの原因が稚児にあるとして有馬義直は全坊の稚児を滝に落として処分
     のち再建される
     1637(寛永14)島原の乱により焼き払われ打撃を受ける
  日本全国のキリシタンの数が約3万人に増える
     1579(天正07)約10万人に

長崎開港まもなく

  末次氏が博多より移住
     のち末次興善が私財を投じて本博多町の北側に1町を開く。のちの興善町
     1592(文禄01)秀吉から朱印状を得る
     1604(慶長09)08/家康より安南渡航の朱印状を得て盛んに貿易を行なう
     1616(元和02)12/01《10/26》末次興善の子、末次平蔵政直が長崎代官に。末次家が代官を世襲することに
     代官の村山等安がキリシタンであることが発覚したため
     1676(延宝04)代官末次家4代平蔵茂朝と嫡子平兵衛の国禁品の密貿易が発覚
     父子は隠岐に流罪、一類は斬罪その他に処せられる
     前年、禁を犯し密かに商船を唐国へ遣わし、日本の絵図、刀剣など国禁品を輸出
     末次家の資産60万石の大名に匹敵する財産はことごとく
     長崎代官の制度がなくなる

1572(元亀03)【正親町】 壬申(みずのえさる)

  07/後藤貴明が松浦と西郷の援兵を得て大村の三城を急襲する
     大村方では内通するものが多く、純忠はわずか7騎他に男45人と純忠夫人以下女27人で城門を固める。三城7騎籠り
     落城寸前に援軍が遂に到着し西郷勢と松浦勢は退却。貴明も援兵の総崩れで撤退する

1573(元亀04、天正01)【正親町】 癸酉(みずのととり)

  夏/マカオ出帆のポルトガル船が天草付近で暴風にあい沈没。2人のみが救助される
  08/25《07/26》15代将軍足利義昭が宇治填島城を明け渡して降伏。織田信長に追放される
     足利将軍家が歴代相伝する山城国及び丹波国の御料所を織田政権に奪われたことで事実上崩壊。室町幕府の滅亡
  冬/大村に邪宗侵入して寺社を毀し仏像を破壊する。正法寺住職徳雲(幸崎氏)は阿弥陀仏の像を携え武雄に逃れる
     救護を後藤貴明に求める
  諫早の豪族西郷純堯が長崎に攻め入り長崎甚佐衛門純景の領地を荒らす。岬の6か町まで攻撃を加える
  フィゲイレド神父が大村と長崎に布教。九州地区修院長ガスパル・コエリヨが大村に駐在し伝道
  南蛮菓子の輸入盛んになる。主なものはカスティラ、パン、ボーロ、金平糖、有平糖、カルメラ、ビスカウト、鶏卵素麺等

1574(天正02)【正親町】 甲戌(きのえいぬ)

  03/西郷純堯、深堀純賢の連合軍が長崎を攻撃
     長崎甚左衛門純景の砦と城下の村、トードス・オス・サントス教会を焼く
     キリシタン達は6町の外側に木の柵をつくり堀をほり防備を固め撃退
     のちトードス・オス・サントス教会が再建される
  岩屋山神宮寺がキリスト教徒による破却にあい廃滅
     1660(萬治03)領主・大村純長が大村家の祈願所として再興。2人扶持を給し岩屋山神通寺と改称
  滑石平宗寺の境内に建立されていた石地蔵をキリシタンが破却
     1625(寛永02)キリシタンに破却された六地蔵が村人により赤迫の岸壁に再興
  大村純忠が大改宗運動を展開。領内すべての神社仏閣を破壊し、全領民6万人をキリシタン化
     それまでは改宗後も伊勢神宮の神符を受けていたり、真言僧との交渉を保っていた
     純忠は自分の周囲をとりまく神仏信仰という従来からの宗教的環境を、改宗後約10年をかけて徐々にとり払う
  大村領内に約6万人の信徒を数え、そのほとんどがキリシタンとなる

1575(天正03)【正親町】 乙亥(きのとい)

  05/06平戸の松浦隆信、鎮信父子が龍造寺隆信、鎮賢(政家)あてに、今後の和通を誓った起請文を入れる
     松浦氏の屈服により龍造寺は勢力を伸ばす
  06/29《05/21》三河国長篠城をめぐり、織田信長・徳川家康連合軍3万8千と武田勝頼軍1万5千との間で行なわれる
     信長の鉄砲隊が武田の騎馬軍団を撃破。長篠の戦い
  秀吉が多田銀山で1598(慶長03)までの23年間に7億2千万両の金銀銅を産出させる
     1588(天正16)諸国銀座を設けて天正大判、天正小判を鋳造。商業の発展をうながす
     黄金5千枚、銀3万枚を全国の大名、公卿に与える。聚楽第「太閤の金配り」を行なう
     1598(慶長03)金3397枚、銀79415枚が大阪城に備蓄される
  織田信長の時代に2度目の象が日本に渡来
     享保13(1728)3度目の象が渡来

1576(天正04)【正親町】 丙子(ひのえね)

  03/有馬義貞(義直)が夫人や重臣30人とともに口之津にて洗礼を受ける
     義貞の洗礼名はドン・アンデレ
     のち有馬領内の信徒が一層増加
     のちこの年の暮れまでに2万人になる
  05/ポルトガルのジャンクが口之津に入港する
  06/16大村純忠が龍造寺隆信・鎮賢父子に対して大友氏のような勢力とは結ばないよう3項目からなる起請文をささげる
  08/15都の南蛮寺、正式名「被昇天の聖母教会」の献堂ミサが会堂の落成に先立つ聖母被昇天の祝日に行なわれる
     教会堂の建設にはオルガンティノが指揮
     高山図書(ずしょ、洗礼名ダリオ)をはじめ畿内のキリシタン有力者の協力と寄進が寄せられる
     寄進とイエズス会の出費をあわせた総工費約3千クルザードに達し、日本に建てられた教会堂でも最大級の規模に
     木造瓦葺3層楼閣風の建物で屋根は最上層が入母屋造で1、2層は寄棟造
     2層の周囲には見晴らし用の廊下と手すりが配される
     日本人大工や職人の手により和風を基本にイタリアの建築様式やキリスト教に関連するモチーフが加味される
     1587(天正15)豊臣秀吉による伴天連追放令後に破壊される
  12/26有馬義直(義直)が56才で死去。次子晴信が有馬13代領主となる【12/27?】
  12/龍造寺隆信が鍋島豊前守を代将として大村を討つが純忠は撃退
  ポルトガル船により日本に初めて玉蜀黍(とうもろこし)がもたらされる
  トードス・オス・サントス教会の傍らの薬草園にポルトガル人が初めてじゃがいも(オランダイモ)を植える
     【1598(慶長03)ジャガタラから南蛮船で長崎にもたらす】
     1624〜1644(寛永年間)長崎で食用に栽培
  織田信長が安土城を築城

1577(天正05)【正親町】 丁丑(ひのとうし)

  03/龍造寺軍が有馬征伐のため島原半島に入るが失敗。退く
  06/龍造寺隆信は麾下の佐嘉勢と新しく服属した後藤、平戸松浦氏に対しその領地の武士を率いて参陣
     海陸両路から大村にむかわせる
     のち大村純忠は降伏し隆信は三城攻撃を中止する
  06/龍造寺隆信が大村より諫早に入る。佐嘉勢を主力として大村氏にも出陣を命じる。深堀純賢も出陣
     諫早の諸城は遂次陥落、西郷氏が降伏する
     10/西郷一門26人は連署の神文を隆信に差し出す
     西郷純堯の子純尚を隆信の婿として信尚と改名。純堯は小野へ隠居
  11/08《09/29》「信長公記」に彗星が出現の記事
  11/龍造寺隆信が有馬領の七浦に攻め入る
  12/龍造寺隆信が2万とも3万ともいわれる大軍を以て島原半島神代へ上陸。有馬軍と交戦
     軍を二手に分け、嫡男政家に1万数千の軍勢を与えると千々石へ向かわせ釜蓋城に攻め寄せる
     城主千々石直員(なおかず)は、父晴信と島原方面に展開中で不在。釜蓋はを包囲され、攻撃が開始される
     城将千々石大和守は村人を避難させたうえで籠城。徹底抗戦の構を見せるが自刃。時に25才
     老臣木戸萬九郎は自刃。町田兵七郎は敵中で割腹など主だった重臣家臣も奮闘するが討死あるいは自刃
     子息千々石清左衛門(ミゲル)は大村へ脱出。釜蓋城は落城し、晴信は龍造寺隆信と和議を結ぶ
  大村純忠が龍造寺隆信と和睦し起請文を納める
     純忠は長女を隆信の次男江上又四郎家種の室となし、やむを得ず龍造寺の味方となり有馬晴信と交戦
  明るい彗星が現れ数か月間にわたり肉眼で観察
     デンマークの天文学者ティコ・ブラーエは彗星に測定可能な視差が無いことを確かめる
     彗星の位置を自分で測定し、遠く離れた場所の観測者にも測定させる
     正確な測定の結果は彗星が少なくとも月より4倍以上遠くにあるということを示す

1578(天正06)【正親町】 戊寅(つちのえとら)

  01/龍造寺隆信が再び有馬氏を攻める
  深堀勢が長崎に侵入。長崎甚左衛門純景がかろうじて撃退
  大友宗麟が宣教師ガブリエルにより洗礼を受ける。名はフランシスコ

1579(天正07)【正親町】 己卯(つちのとう)

    07/25《07/02》決裁権をもつイエズス会の日本巡察師ヴァリニアーノがポルトガル船で口之津に上陸
     長崎でなく口之津に入港したのは風波のため。また深堀軍の長崎攻撃で危機が予知されたため
     有馬晴信は大いに歓待
     ヴァリニアーノは宣教師を集めて布教会議(口之津会議)を開く
     ヨーロッパの学校制度を導入したセミナリヨ、コレジヨの設立を提案
      キリシタンの増加で宣教師が不足、日本司祭を養成するため高等教育機関を作ろうとするが他の神父の反対にあう
      長崎に入港しなかったのは深堀氏による長崎攻撃の危険を避けるため
     1579(天正07)セミナリヨ、コレジヨの設立を計画
     1580(天正08)セミナリヨ、コレジヨの設立を決断
     1582(天正10)01/184人の天正遣欧少年使節とともに長崎を出帆
     日本人の若者をキリシタン大名の使節としてヨーロッパに派遣することを企てる
     ヨーロッパのキリスト教文化の偉大さを目の当たりにさせ、帰国後、日本人の口から同胞に伝えさせる目的
     1590(天正18)06/20インド副王の使節の資格を持ち天正遣欧少年使節一行とともに長崎に戻る
     1591(天正19)閏01/08聚楽第で豊臣秀吉に謁見、インド副王の書状や贈物を奉呈
     1592(文禄01)09/04長崎を出帆。中国布教に努めるためマカオに滞在
     1598(慶長03)06/24新しい司教ドン・ルイス・セルケイラとともに長崎に着く
     ヴァリニャーノは3度目の来日
     1601(慶長06)岬の突端に「岬の教会」を再建
     1603(慶長08)マカオに戻る
     1606(慶長11)マカオにて67才で死去
  大村純忠がヴァリニアーノの大村訪問に際して長崎をイエズス会に寄進したいと申し出る
     長崎は西郷や深堀氏により繰り返し攻撃を受ける。龍造寺に脅される
     有馬氏は口之津にポルトガル貿易を誘引しようと図るなどの実情のなかで
     肥前の地で勢力を保とうとする大村氏は長崎をイエズス会の所領とする
     このことが軍事的、経済的な利益上、考えられる最も安全な唯一の道
     長崎6町の知行をイエズス会に寄託すれば、隆信はポルトガルに敵対することとなり奪うことはないと考える
     1580(天正08)04/大村純忠は、長崎6町と茂木の町をイエズス会の知行地として寄進し教会領とする
     【1579(天正07)?】
     イエズス会に譲ったのは知行権だけで領土権と司法権は大村氏が握る
     寄進した理由
     ○日本側…軍費に窮していた長崎純景は南蛮人から莫大な借銀をする
       しかし返済できず保証人の大村純忠は調停に当たった有馬鎮純の勧告により担保としての土地を引き渡した
     ○イエズス会側…反キリストの龍造寺一族から大村純忠や有馬晴信の有する土地を奪われないようにするため
       大村純忠の強敵龍造寺隆信から攻撃を受けなくてすむ
       イエズス会に譲渡すれば龍造寺から土地も自分の身も守ることが出来ると考えた
     純忠は軍事的経済的な安全策と考え、入港税と貿易の利益を安定確保できることに
     教会の発展は更に大きくなる
     その他の条件(1)純忠は年々1千ドカドの船舶税をポルトガル人から徴収
     (2)日本人に対する裁判は大村側の手で行なう…など
     年収1千ドカドは一部を長崎に居住する神父達の生活維持費に
     一部を長崎・茂木2か所の要塞設備の費用に充当。残りを大村家、有馬家において分配
     1588(天正16)04/02豊臣秀吉が長崎の他、茂木、浦上のイエズス会知行所を没収し公領とする
  ヴァリニアーノは他の神父の反対にあうキリシタン布教を目的に日本を3地区に分けコレジヨ、セミナリヨ設立計画
     1580(天正08)セミナリヨ、コレジヨの設立を決断
  ポルトガル人がインドシナ半島のカンボジアから日本に初めて南瓜(かぼちゃ)の種子をもたらす
  ポルトガル人が日本に初めて西瓜(すいか)の種子をもたらす
     【スイカが長崎に渡来。オランダ船から種子を購入する】
     【一説に1654(承応03)隠元が種を持参し長崎で栽培したとも】
  龍造寺隆信が有馬晴信を口之津で攻める。ヴァリニアーノは有馬勢に武器や食糧などを援助
     のち攻防5か月で撃退する
  日本全国のキリシタンの数が約10万人に増える
     1582(天正10)約15万人に
  長崎の戸数400余、人口約2千人

1580(天正08)【正親町】 庚辰(かのえたつ)

  02/有馬義貞の子、晴信が夫人とともにヴァリニアーノから洗礼を受ける
     子の教名はドン・プロタジオ。ときに13歳
     のちキリシタンになった晴信は短期間に領内の神社仏閣を破却し、神官仏僧を追放する
  04/大村純忠は、軍事的、宗教的な理由から長崎6町と茂木の町をイエズス会の知行地として寄進し教会領とする
     【1579(天正07)?】
     イエズス会に譲ったのは知行権だけで領土権と司法権はは大村氏が握る
     寄進した理由
     ○日本側…軍費に窮していた長崎純景は南蛮人から莫大な借銀をする
       しかし返済できず保証人の大村純忠は調停に当たった有馬鎮純の勧告により担保としての土地を引き渡した
     ○イエズス会側…反キリストの龍造寺一族から大村純忠や有馬晴信の有する土地を奪われないようにするため
       大村純忠の強敵龍造寺隆信から攻撃を受けなくてすむ
       イエズス会に譲渡すれば龍造寺から土地も自分の身も守ることが出来ると考えた
     純忠は軍事的経済的な安全策と考え、入港税と貿易の利益を安定確保できることに
     教会の発展は更に大きくなる
     その他の条件(1)純忠は年々1千ドカドの船舶税をポルトガル人から徴収
     (2)日本人に対する裁判は大村側の手で行なう…など
     年収1千ドカドは一部を長崎に居住する神父達の生活維持費に
     一部を長崎・茂木2か所の要塞設備の費用に充当。残りを大村家、有馬家において分配
     1588(天正16)04/02豊臣秀吉が長崎の他、茂木、浦上のイエズス会知行所を没収し公領とする
  西郷、深堀の連合軍が、ふたたび長崎を攻める
     大村純忠は田中、朝長、福田、神浦、東(神浦、東は西彼杵半島外海側の領主)に兵150を授け長崎純景を助ける
     純景は300余人を率いて森崎の6町北側で深堀勢を破る。勝山の由来
  ヴァリニアーノがセミナリヨ、コレジヨの設立を決断
  イエズス会の初等教育機関として聖職者の養成学校のセミナリヨがミヤコ(安土)とシモ(有馬)に設立
     ミヤコ地区は京都を中心にした近畿。織田信長の希望による。シモ地区は長崎、西九州を含め有馬(北有馬町)日野江城下に
     セミナリヨ…中学と工芸学校、小神学校を兼ねた教育施設。語学や音楽教育が重視
      日本語、算数、ローマ字、ラテン語、ポルトガル語、キリスト教、仏教、日本史、声楽、器楽、
      油絵、水彩画、銅版画、銅版彫刻、オルガン製作、時計製作、天文器械制作等を教える
     カリキュラムはイエズス会学事規則に準じて運営
     ミヤコ(安土)、府内(豊後)、シモ(豊後以外の九州)の3布教区に分けて1校ずつ設立
     シモ(有馬)のセミナリヨの最初の入学生は22人。なかにはミゲル千々石、ジュリアノ中浦、マルチノ原もいる
     ラテン語は作文のほか、ラテン語で演説をし、ときには討論もあった
     のち戦乱と追害で各地を転々とすることに
       ミヤコ(安土)の変遷
       1582(天正10)高槻に移る1585(天正13)大阪に移る
       1587(天正15)浦上のセミナリヨと合併し有馬に移転
     1586(天正14)島津氏に頼っていた有馬晴信は政治的危機に立たされシモ(有馬)のセミナリヨを浦上に避難させる
     豊臣秀吉による九州出兵の動員令による
     1587(天正15)浦上のセミナリヨと大坂[旧ミヤコ(安土)]のセミナリヨが合併し有馬に移転。生徒は70人を数える
     1588(天正16)有馬の神父、修道士の数が増え目立ち、八良尾(北有馬町)に移転
     1589(天正17)加津佐に移転
     1591(天正19)八良尾(北有馬町)に移転
     1595(文禄04)有家に移転
     1597(慶長02)長崎のトードス・オス・サントス教会内にコレジヨ、ノビシアード(修練院)とともに移転
     活字印刷所などの施設も併設
     1598(慶長03)長崎の被昇天の聖母教会(岬の教会)内にコレジヨ、印刷所とともに移転
     1601(慶長06)有馬に移転
     1612(慶長17)有馬の宣教師が追放される。長崎のトードス・オス・サントス教会内に移転
     1614(慶長19)閉鎖
     【一説には合併後、浦上平戸有馬八良尾加津佐八良尾[1592(文禄01)]志岐(天草)
       大江有家トードス・オス・サントス(長崎)[1597(慶長02)]閉鎖[1614(慶長19)]】
     【一説には山口生月長崎(浦上)有馬八良尾加津佐八良尾有家長崎(サントス)
       天草志岐長崎(岬)有馬長崎(サントス)長崎(岬)マニラマカオ】
  イエズス会の大学に相当する高等教育機関としてコレジヨが府内(豊後)に設立
     コレジヨ…大学と神学校を兼ねた高等教育機関。神学や哲学、語学教育が重視
      人文、社会、自然の3系列をおく、4年の一般教育課程
      日本宗教、日本語、日本文学、民族学、数学、天文学、地理学、法律、ラテン語、ポルトガル語を教授
      この後に4年の哲学、神学の専門課程を置く
     カリキュラムはイエズス会学事規則に準じて運営
     ミヤコ(安土)、府内(豊後)、シモ(豊後以外の九州)の3布教区に分けて1校ずつ設立
     のち戦乱と追害で各地を転々とすることに
     1586(天正14)山口に移転
     1587(天正15)山田(生月島)に移転
     1588(天正16)千々石に移転
     1589(天正17)有家に移転
     1590(天正18)加津佐に移転
     1591(天正19)天草に移転
     1597(慶長02)長崎のトードス・オス・サントス教会内にセミナリヨ、ノビシアード(修練院)とともに移転
     活字印刷所などの施設も併設
     1598(慶長03)長崎の被昇天の聖母教会(岬の教会)内にセミナリヨ、印刷所とともに移転
     1614(慶長19)閉鎖
     【一説には設立後、平戸[1587(天正15)]千々石[1588(天正16)]有家[1589(天正17)]
       加津佐[1590(天正18)]天草[1591(天正19)]長崎[1597(慶長02)]閉鎖[1614(慶長19)]】
  ヴァリニャーノ神父が臼杵にノヴィシャード(修練院)を設立
     ミヤコ(安土)、府内(豊後)、シモ(豊後以外の九州)の3布教区に分けて1校ずつ設立
     のち戦乱と追害で各地を転々とすることに
  アレッサンドロ・ヴァリニヤーノ神父が長崎を訪れる

1580(天正08)頃

  サン・ジュアン・パウチスタ寺(筑後町、現本蓮寺)、サンタ・マリア寺、サンタ・クルス寺(炉粕町)、
     サント・ドミンゴ寺(勝山町、旧勝山小学校)、サン・フランシスコ寺(桜町、牢屋、現市役所別館)、
     サン・アントニオ寺(本大工町、現長崎市公会堂)、サン・アウグスチノ寺(本古川町、中島川傍)、
     サン・チャゴ寺(酒屋町、現長崎相互銀行)、サン・ペトロ寺(今町)、オーガスチン寺他が建設

1581(天正09)【正親町】 辛巳(かのとみ)

  07/26オランダが独立を宣言する
  10/キリシタン宗徒が崇嶽の神宮寺を焼く
     のち崇嶽廃寺。80余所に散在していた支院末坊も次第に廃絶
     1624(寛永01)八幡町に開かれた真言僧長慶の吉祥院が讃岐の金比羅大権現を勧請
  岬の先端の「サン・パウロ教会(岬の教会)」が増改築される
     1585(天正13)すぐに手狭になって更に大きな教会の建設のため工事がすすめられる
  オランダがイスパニアの覊絆を脱して独立を宣言
  日本イエズス会がインド管区の副管区に昇格する。初代副管区長ガスパル・コエリヨが長崎に本部を置く
     1613(慶長18)日本管区として独立する。管区本部は従来通り長崎に置く
  万福寺、鎮道寺、宗源寺、浄源寺など神社仏閣がキリシタンの放火により焼失

1582(天正10)【正親町】 壬午(みずのえうま)

  02/03《01/01》安土城に諸将ら多数が参賀。人の重みで石垣が崩れ死者がでる
     織田信長自ら見物料を取り、本丸や御幸の間などを一般公開する
  02/20《01/18》ポルトガル・イエズス会巡察使ヴァリニャーノが計画した遣欧少年使節4人がポルトガル船で出帆
     【《01/28》?】
     目的はヨーロッパの卓越した文化・文明を目の当たりに体験させ
      帰国後、日本人の口から同胞に伝えさせ布教を容易にすること
      ローマ法王や王侯貴族に会わせて日本布教の援助を引きだすこと
     使節はすべて有馬セミナリヨの1期生生徒
      大友宗麟の名代の遠縁のマンショ伊東祐益(14・日向出身)、
      有馬晴信・大村純忠の名代として2人の親族のミゲル千々石直員(13・大村純忠の甥・有馬鎮貴の従弟)
      純忠の家臣の子、ジュリアノ中浦甚五郎(14・中浦出身)とマルチノ原(13・波佐見出身)に副使を命じる
     通訳兼監督としてメスキータ神父が引率し、コンスタンチノ・ドラード(15)が4人の従者として同行
     1583(天正11)ヴァリニャーノはゴアまで同行
     1584(天正12)リスボンに到着。マドリードから地中海を経てイタリアへ
    ※1585(天正13)03/23《02/22》ローマで法王ゴリウス13世に公式謁見
     1586(天正14)スペインを経てリスボンより帰国の途につく
     のちマカオで豊臣秀吉の宣教師追放令を聞く
     日本入国はインド副王使節の資格で許可される
    ※1590(天正18)07/21《06/20》長崎に戻るが秀吉の伴天連追放令により静かな帰国
    ※1591(天正19)ヴァリニャーノは少年使節と豊臣秀吉に謁見
  02/24ローマ教皇グレゴリウス13世がユリウス暦を改良してグレゴリオ暦を制定
     同年の10月4日(木曜日)の翌日が10月15日(金曜日)とすることに
     また400年に3日だけうるう日を設けない日を設ける
  06/21《06/02》夜明け前、桂川を渡り京に入ろうとするとき明智光秀は「敵は本能寺にあり」と
     本能寺と妙覚寺へ攻撃命令をくだす
     早朝、2手に分かれた1万3千の明智軍が本能寺を包囲、突入
     織田信長は100人たらずのわずかな兵とともに戦うが脱出が不可能と悟り自害
     07/02《06/13》山崎の合戦で羽柴秀吉が明智光秀を破る
     主君を殺した明智光秀に味方する信長の旧臣は少なく、兵数差を覆す事ができずに敗れる
     深夜、明智光秀は坂本を目指す途中、小栗栖で落ち武者狩りの百姓・中村長兵衛に竹槍で刺し殺される
  08/06《07/08》羽柴秀吉が山城国で指出検地に着手する
     それまでの検地とは違い、検地尺と京枡を使い田畑の広さや収穫量を算定する単位を全国統一する
     有力な農家や地侍が途中で年貢を搾取しないよう耕作者(小作農家)を年貢の納入者にする
     調査された全国各地の田畑の広さや収穫量、耕作者名などを台帳の検地帳で管理
  10/15グレゴリオ暦が導入される。前日はユリウス暦の10月4日
     グレゴリオ暦はローマ教皇グレゴリウス13世がユリウス暦を改良して制定した暦
  11/20《10/15》秀吉が大徳寺で織田信長の葬儀を執行
  大村純忠が龍造寺隆信に対する忠誠の保証として長男喜前のほか2人を人質として差し出す
     1585(天正13)喜前が釈放される
  ミヤコ(安土)のセミナリヨが高槻に移転
     1585(天正13)大阪に移転
  日本全国のキリシタンの数が約15万人に増える
     1587(天正15)約20万人に

1583(天正11)【正親町】 癸未(みずのとひつじ)

  08/02肥前武雄の城主後藤貴明(50)が没する
     貴明は大村17代純前の庶子で城主後藤純明の養嗣子となる。しばしば大村純忠を攻める
  09/01石山本願寺の跡地の上町台地に豊臣秀吉が大坂城の築城を開始する
     設計は築城名人の黒田官兵衛。30数か国から3〜5万人が動員される
     1615(慶長20)05/08大坂夏の陣で大坂城は燃え上がり落城。豊臣家は滅亡
     1620(元和06)2代将軍徳川秀忠によって大坂城の再建がはじまる
     1629(寛永06)3期にわたる工事を経て完成
  秋/日本イエズス会副管区長コエリヨが口之津に滞在中のフロイスに「日本史」の編述を命じる
     1584(天正12)脱稿する
  ポルトガルにならって「他者への愛」を実行する団体「ミゼリコルジアの組」が設立
     一般に慈悲屋、慈悲の兄弟会と呼ばれる。長崎における社会事業の起源
     堺出身の金銀細工職人ジョスティノ・カサリア(ジュスチノ・カザリヤ?)が長崎へ
     福祉事業団体の組が本博多町に発足。聖堂ができる
     会員らが私財を投じ救済を行なう。のち広範囲の社会事業など相互扶助で実行
     医療、ハンセン病病院、老人病院、死者埋葬、孤児養老院、未亡人保護、救貧、矯風活動、高利貸禁止など
     町田宗賀、後藤宗印など長崎の最高指導者も名を連ねるほどに
     1585(天正13)100人の会員を有する団体に。ハンセン病病院2、養老院男女各1、孤児院1、墓地1を経営
     1608(慶長13)本博多町のミゼリコルジアの組の本部に教会が建つ
     1614(慶長19)7つの病院を有することに
     1619(元和05)禁教令による切支丹弾圧により破却される
  イタリア人修道士ジョバンニ・ニコラオが聖堂の祭壇画や壁画を描くために日本に派遣される
     長崎のセミナリヨの画学舎で洋画の手法を生徒に教える
  ルイス・デ・アルメイダは熱心にみちた布教活動を続けていたが、天草河内浦の藁葺きの貧しい住院で死亡
     帰国しなかったのは、ユダヤ人(新キリスト教徒)の出身でありながらカトリックに改宗したことで
     ユダヤ教信仰の大罪を犯し、帰国後の処刑を恐れ、日本を安住できる幸せの島と選んだこと

1584(天正12)【正親町】 甲申(きのえさる)

  03/24島原半島で戦国大名龍造寺隆信(1万8千〜6万)・鍋島連合軍と有馬晴信・島津家久連合軍(8千余)の合戦が勃発
     沖田畷の戦い。沖田畷は森岳城の北側に位置。畷は湿地帯の中に延びた小道の意
     島津家久は沖田畷に龍造寺勢を誘い込む
     龍造寺勢は1本の畦道を縦に長く進む形となり、側面から島津隊の鉄砲が火を噴く
     午後2時頃、島津勢の川上忠智隊が隆信本陣に奇襲攻撃をかけ、総大将の隆信の首をとる。享年56才
     隆信が討ち死にすると龍造寺軍は敗走、本拠地の佐賀城に向けて撤退する
     隆信の戦死で龍造寺の九州制覇の夢が破れる
     のち敗戦により龍造寺氏の勢力は衰退、その後の九州では島津氏が急速に版図を広げていくことに
  03/26龍造寺軍に属した深堀純賢が深堀に帰る
     のち島津方が長崎から兵船14〜15隻で小が倉、土井の首に攻めよる。深堀氏が防戦して撃退させる
  08/《07/》イスパニアのジャンク船が平戸に入港。イスパニアの神父4人が来日
     フランシスコ会員2人、アウグスチノ会員2人
     のち英西戦争の敗北により数年で平戸を去る
  島原領主の有馬晴信は、勝利の記念に自領の浦上の村をイエズス会の知行地として寄進する
     晴信は宿敵の龍造寺隆信を破ったことをデウス(天主)に感謝するため
     浦上の村々がキリシタンとなる
     イエズス会は年収500クルザード(銀200貫目)が増え、長崎と茂木をあわせて800クルザード余(銀320貫目)の収入を得る
     多くの教会が建ち並び南蛮貿易の港として繁栄を誇る。ポルトガル人は町に自由に住み、交易を行なう
  フロイスが長崎で「日本史総論」を脱稿する
  島津義久が戦勝の余勢をかって長崎の町に進駐
     1587(天正15)までの3年間、長崎、浦上を占領する
  ローマ教皇グレゴリオ13世が日本の伝道はイエズス会に限る勅書を発布

1584(天正12)頃

  里郷(長崎大医学部から大学病院あたり)に教会堂とハンセン病病院ができる

1585(天正13)【正親町】 乙酉(きのととり)

  03/23《02/22》遣欧少年使節がローマで法王ゴリウス13世に公式謁見
     1590(天正18)07/21《06/20》変わり果てた長崎に帰る
  04/対立が激化する薩摩の島津と豊後の大友両軍に秀羽柴吉が私戦の停止を命じる
     のち島津義久は応じず
     10/02秀吉が島津と大友に対し、朝廷権威を以て停戦を命令。惣無事令
     島津は黙殺して九州統一戦を進める。秀吉は大友の手引きにより九州攻めに踏み切る
     1586(天正14)04/臣従を誓った大友宗麟が秀吉に対し九州出兵の要請を進言
     秀吉が毛利輝元に対し、九州出陣のための人員・城郭・兵糧などの準備を指示
     のち秀吉は再度停戦を勧告。島津側は聞き入れず
     06/豊後進攻の兵を挙げる
     09/豊臣方の先鋒隊仙石秀久、10月に毛利輝元が九州入り
     12/仙石軍も毛利軍も島津勢の猛攻に大敗
     1587(天正15)01/宇喜多秀家、2月には豊臣秀長が出兵
     03/01秀吉の本隊が出兵。総勢18万超の大軍が出兵したことに
     03/28秀吉軍が長門赤間関を経て小倉に上陸
     05/08九州各地での連戦の末、島津義久が泰平寺に赴き、正式に降伏して和平が成立
     秀吉は義久を赦免する
     06/07筑前箱崎にて戦後の論功行賞を加味して九州国分を決定
  06/秀吉が高野山の僧侶に対して武装放棄を確約させる。刀狩の最初とする見方も
     1588(天正16)08/29《07/08》豊臣秀吉が全国に刀狩を命じ大規模に政策を推進
     百姓身分の者の帯刀権を剥奪する兵農分離政策。同時に海上賊船禁止令
     一般的には百姓身分の者の武器所有を禁止し、それらを没収して農村の武装解除を図った政策
  岬の先端の「サン・パウロ教会(岬の教会)」がすぐに手狭になり更に大きな教会の建設のため工事がすすむ
     1587(天正15)工事半ばにして豊臣秀吉の禁教令が発布
  ミゼリコルジアの組が100人の会員を有する団体に。ハンセン病病院2、養老院男女各1、孤児院1、墓地1を経営
     1608(慶長13)本博多町のミゼリコルジアの組の本部に教会が建つ
  佐嘉の龍造寺氏に人質にされていた大村純忠の子喜前が釈放される
  マカオから渡来するポルトガル船の貿易がいよいよ繁盛してくる
     生糸、●子(●…糸篇に段・どんす)、●香(●…鹿冠に射・じゃこう)その他豊富な貨物を積みくる
     毎年50万クルザードの銀を輸出するため全国の大都市として、港には諸国から異教徒の商人たちが雲集する
     多くは家族とともに移りきて定住。うち平均300人は毎年洗礼を受け人口はいよいよ増加
  秀吉の使者杉本藤蔵が上使として大村純忠のもとへ御教書を届ける。純忠は忠誠を誓う
     有馬、平戸もこれにならう
  長崎には神父4人、修道士2人が駐在
  高槻のセミナリヨ[旧ミヤコ(安土)のセミナリヨ]が大阪に移転
     1587(天正15)浦上のセミナリヨと合併し有馬に移転。生徒は70人を数える

1586(天正14)【後陽成】 丙戌(ひのえいぬ)

  01/18《天正13-11/29》天正大地震が起きる。白川地震とも、震源地は飛騨あたり。マグニチュードは7.9〜8.1と推定される
     地震は亥刻に発生し翌日の丑刻にも大規模な余震が発生。のち震は続き、翌月23日まで1日を除いて地震が続く
     近畿から東海、北陸にかけての広い範囲に跨って甚大な被害を及ぼす。地震は複数の断層がほぼ同時に動いたものと推定
  04/臣従を誓った大友宗麟が秀吉に対し九州出兵の要請を進言
     秀吉が毛利輝元に対し、九州出陣のための人員・城郭・兵糧などの準備を指示
     のち秀吉は再度停戦を勧告。島津側は聞き入れず
     06/豊後進攻の兵を挙げる
     09/豊臣方の先鋒隊仙石秀久、10月に毛利輝元が九州入り
     12/仙石軍も毛利軍も島津勢の猛攻に大敗
     1587(天正15)01/宇喜多秀家、2月には豊臣秀長が出兵
  08/15ポルトガル船がマカオ経由で平戸に入港。イエズス会士の長崎入津勧告が無駄に
     島津氏の長崎占領がイエズス会士に大きい不安と困惑をあたえる
     南蛮船は長崎に島津氏の兵士が駐留し従来とは勝手が違うと、長崎を見捨て平戸に入港
  09/長与太郎左衛門純一が兄純平の後室と共謀し大村氏に叛く
     純忠は兵を派遣し長与の浜の唾飲城を攻める
     城は陥落して純一は深堀に出奔
     1587(天正15)樒伝助が長与純一に味方し敗れて深堀に逃げる
  10/03大村氏と松浦氏の領域協定がなる
     大村氏は隣接諸大名との抗争の過程で早岐、折尾敷、針尾、日宇、佐世保の5か村を平戸松浦氏に
     喜々津ほか4か村を龍造寺氏に、古賀村を有馬氏にそれぞれ割譲する
  12/19藤原(羽柴)秀吉(50)が太政大臣の任官を契機として朝廷から豊臣姓を賜る
     【1585(天正13)09/09?】
  福田忠兼の子半兵衛尉兼親が大村純忠の娘を嫁にする
  福田大和守忠兼が砦・手熊館を築く
     1644(寛永21)跡地に白髭大明神を勧請して白髭神社を創建
  島津氏に頼っていた有馬晴信は政治的危機に立たされシモ(有馬)のセミナリヨを浦上に避難させる
     豊臣秀吉による九州出兵の動員令による
     1587(天正15)浦上のセミナリヨがミヤコ(安土)とセミナリヨが合併し有馬に移転。生徒は70人を数える
  府内(豊後)のコレジヨが山口に移転
     1587(天正15)山田(生月島)に移転

1587(天正15)【後陽成】 丁亥(ひのとい)

  01/九州島津の圧迫回避に豊臣秀吉は前年の進攻より、さらに1月に宇喜多秀家勢を、2月に豊臣秀長勢を出兵させる
     03/01秀吉の本隊が出兵。総勢18万超の大軍が出兵したことに
     03/28秀吉軍が長門赤間関を経て小倉に上陸
     05/08九州各地での連戦の末、島津義久が泰平寺に赴き、正式に降伏して和平が成立
     秀吉は義久を赦免する
     06/07筑前箱崎にて戦後の論功行賞を加味して九州国分を決定
  05/02《03/25》秀吉下関着の報せで日本イエズス会副管区長コエリヨはただちに武装させたフスタ船に乗り長崎を出発
     フスタ船は長崎のイエズス会が所有していた武装船。帆と櫓の両様の航行具を有し、狭長な底の浅い200〜300瓲の船
  05/18大村家第18代の大村純忠(55)が坂口館で死去
     純忠は有馬晴純の二男で大村純前の養嗣子。坂口館は郡川に沿う純忠の別荘。肺結核
  05/23キリシタン大名の大友宗麟(58)が没する
  06/07秀吉が筑前の箱崎で戦後の論功行賞を加味して九州の国割りを行なう
     大村、松浦、宗(対馬)、有馬、宇久(五島)、深堀、龍造寺などの諸氏には旧領を安堵
     帰順しなかった西郷純堯の領地は没収、龍造寺家晴に与える
  07/24《06/19》織田信長の後を受け継ぎ、天下統一を果たした豊臣秀吉は、突然に「伴天連追放令」を出す
     20日以内に日本からの撤退を命令する
     上使として藤堂佐渡守高虎を派遣し、イエズス会の長崎、茂木、浦上を接収
     有馬、大村領内の教会をはじめ領主の居城を破壊し長崎のキリスト教徒には多額の罰金をはたす
     伴天連追放令要旨
     (1)日本は神国たる処、キリシタン国より邪法をもたらしたことは、はなはだよろしくない
     (2)人々を信者として、神社や仏閣を破壊させたことは、前代未聞のことである
     (3)バテレンたちが、仏法を破ったことは罪悪であり、バテレンは日本の地に留め置かぬことにしたから、
      今日から20日以外に用意して帰国せよ
     (4)黒船は商売のことだから、今後とも来るがよい。また仏教の妨げをしないものなら商人は言うまでもなく、
      誰でもキリシタン国から渡って来てもよろしい
     宣教師の日本退去は現実には実行されず
     のちコエリヨは即時退去が不可能なことを理由に6か月の猶予を願う
     各地駐在の宣教師を平戸に召集し協議
     1588(天正16)02/伴天連追放令をうけイエズス会の3人がマカオへ退去
     残る110人の伴天連は九州各地に潜在し一般農民を対象に教化に従事
     結果として、却って布教が地につくことに
  09/山城国京都の内野、平安京大内裏の跡地に豊臣秀吉が政庁兼邸宅の聚楽第を建てる
     本丸を中心に北の丸・西の丸・南二の丸などの曲輪を持つ。堀を巡らせた平城
     建物には金箔瓦が用いられ白壁の櫓や天守のような重層な建物
     東西600米、南北700米。建て方は城郭風で聚楽城とも呼ばれる
     九州征伐を終えた秀吉が大坂より移り政務をみる
     1588(天正16)05/09《04/14》秀吉が後陽成天皇の行幸を聚楽第に迎えて饗応する
     1591(天正19)12/秀吉が関白職を甥(姉・日秀の子・23)豊臣秀次に譲り聚楽第も秀次の居城に
     1592(天正20)01/再度、後陽成天皇の行幸を聚楽第に迎える
     1595(文禄04)08/聚楽第が徹底的に破却
     前月、秀吉が秀次を和歌山県の高野山に追放して切腹させたことによる
     のち聚楽第の建造物の多くは伏見城内へ移築
     1596(慶長01)09/05慶長伏見桃山地震で倒壊
  長崎がイエズス会領であることを知った豊臣秀吉は6町、茂木、浦上を接収
  豊臣秀吉の禁教令が下り、平戸領主松浦隆信の子鎮信が禁教に踏みきる
  岬の先端の「サン・パウロ教会(岬の教会)」が工事半ばにして豊臣秀吉の禁教令が発布
     1587(天正15)岬の新しい教会が完成
     1589(天正17)秀吉の命令によって取り壊される
  豊臣秀吉の九州征伐にあたり、4人の長崎頭人が生まれ行政が委任され統治せしめる
     幕府時代、最高の地位にあった町人で世襲を例とする
     高木勘右衛門、高島了悦、後藤惣太郎、町田宗賀
     1592(天正20)秀吉は4人の町人・頭人の名称を町年寄と改める
     外国へ渡航して貿易をすることを許す
     町年寄は内町の行政を実質的に支配する有力な町人
     彼らのほとんどがキリシタンの有力者で、のち改宗。富んだ貿易商人が多い
  樒伝助が長与太郎左衛門純一に味方し大村氏に敗れて深堀に逃げる
     1586(天正14)09/長与氏が大村氏に叛くが純忠に攻められ純一は深堀に出奔
  豊後府内のアルメイダの病院が焼失
     豊臣秀吉が行なった九州平定の際、島津義久の軍が府内を陥れたとき兵火による
  長崎と平戸で日本人の奴隷売買が盛んに行なわれる
     ポルトガル商人は人妻を奪い妾とし児童を拐して船に連れいき奴隷とする。多数の人は死を選び自決する
  松浦隆信が日本船1隻をマニラに派遣する
  14代長崎甚左衛門純景が故あって長崎を退去【1578(天正06)?】
  キリシタン政策のため5人組制度が強化
     5人組のなかにキリシタンがいると分かれば、早く訴えないと全員が処罰
     元はキリシタンと知っていても信仰を守っているかどうか分からなくなっていた
  西郷信尚が豊臣秀吉の島津攻略の命令に従わず筑後柳川の龍造寺家晴に攻め滅ぼされる
   龍造寺家晴は初代諫早藩主として2万2千石を領する
  浦上のセミナリヨと大坂[旧ミヤコ(安土)]のセミナリヨが合併し有馬に移転。生徒は70人を数える
     1588(天正16)有馬の神父、修道士の数が増え目立ち、八良尾(北有馬町)に移転
  山口のコレジヨが山田(生月島)に移転
     1588(天正16)千々石に移転
  都の南蛮寺、正式名「被昇天の聖母教会」が豊臣秀吉による伴天連追放令後に破壊される
  博多でキリシタン大名の高山右近は豊臣秀吉から、信仰か領地かを選べと迫られ、ためらわず信仰を選ぶ
  日本全国のキリシタンの数が約20万人に増える
     1605(慶長10)約75万人に

1588(天正16)【後陽成】 戊子(つちのえね)

  《奉行》鍋島飛騨守信生(のち直茂)(04/02→)

  01/大村喜前が長崎、茂木、浦上の領地権を主張。秀吉はこれを返す
     大村氏は従来通りイエズス会に知行させる
  02/伴天連追放令をうけイエズス会の3人がマカオへ退去
     残る110人の伴天連は九州各地に潜在し一般農民を対象に布教教化に従事
     結果として、却って布教が地につくことに
  04/02秀吉は改めて長崎、茂木、浦上の3領地をイエズス会知行所を没収し公領とする
     豊臣秀吉は長崎を蔵入領と定め、没収した旧キリシタン知行地の代官に鍋島飛騨守信生を代官に任ずる
  05/09《04/14》秀吉が後陽成天皇の行幸を聚楽第に迎えて饗応する
     1591(天正19)12/秀吉が関白職を甥(姉・日秀の子・23)豊臣秀次に譲り聚楽第も秀次の居城に
  05/18秀吉が浅野弾正少弼、戸田民部少輔に長崎支配を委任し支配の条目を定める
  閏05/16秀吉は長崎惣中にあて外国との貿易は従来通りであること、長崎の地子(土地税)を免除することを申し渡す
     秀吉は南蛮貿易の独占を企て布教と貿易を分離。前者を禁じ、後者を許す
     のち禁教策が不徹底となり宣教師の日本潜入は助長することに
  08/29《07/08》豊臣秀吉が全国に刀狩を命じ大規模に政策を推進
     百姓身分の者の帯刀権を剥奪する兵農分離政策。同時に海上賊船禁止令
     一般的には百姓身分の者の武器所有を禁止し、それらを没収して農村の武装解除を図った政策
  秀吉は深堀純賢の非行を怒り所領を没収。純賢は在所深堀を去り、佐嘉嘉世床に移る
     純賢の非行は領海権を主張し長崎来往の大坂、堺、博多他の商船に礼物を要求し、まただ捕するなどの不法行為
     1592(文禄01)深堀氏は独立した大名であることを断念、鍋島直茂の家臣となる
  秀吉は小西行長の父隆佐に20万クルザード(天正黄金で4650枚、銀にして2千貫目)を持たせ長崎に派遣
     この年入港した南蛮船舶載の生糸を買占める
  有馬のセミナリヨで神父、修道士の数が増え目立ち、八良尾(北有馬町)に移転
     1589(天正17)加津佐に移転
  山田(生月島)のコレジヨが千々石に移転
     1589(天正17)有家に移転
  イギリスがイスパニアの無敵艦隊を打ち破りアジアへの道を開く
     1600(慶長05)イギリス東インド会社を設立
  秀吉が諸国銀座を設けて天正大判、天正小判を鋳造。商業の発展をうながす
     黄金5千枚、銀3万枚を全国の大名、公卿に与える。聚楽第「太閤の金配り」を行なう
     1598(慶長03)金3397枚、銀79415枚が大阪城に備蓄される

1589(天正17)【後陽成】 己丑(つちのとうし)

  《奉行》鍋島飛騨守信生(のち直茂)

  04/15《03/01》前年11月からこの日までに島原で1千人以上が受洗する
  09/秀吉は諸国大名に妻子の在京を命じる
  11/豊臣秀吉はキリシタンを厳禁、宣教師を捕えて長崎へ送る
  岬の先端の「サン・パウロ教会(岬の教会)」が秀吉の命令によって取り壊される
     1590(天正18)岬の教会が閉鎖
     イエズス会員はトードス・オス・サントスとミゼリコルディアの組の教会を利用
     1590(天正18)再び許されて建て直される
     傍らにはイエズス会の本部が出来上がる
  八良尾(北有馬町)のセミナリヨが加津佐に移転
     1591(天正19)八良尾(北有馬町)に移転
  千々石のコレジヨが有家に移転
     1590(天正18)加津佐に移転

1590(天正18)【後陽成】 庚寅(かのえとら)

  《奉行》鍋島飛騨守信生(のち直茂)

  02/豊臣秀吉が西国の諸大名を率いて後北条氏の居城小田原城を包囲。北条氏政・北条氏直父子を降す。小田原の役
     小田原城の攻囲戦だけでなく平行して行われた北条氏領土の攻略戦も、戦役に含む
     日本統一が成る
  07/05天下統一を目指す豊臣秀吉に最後まで抵抗していた北条氏がついに屈する
    7/13秀吉は北条氏の本拠地小田原城に入城。全国統一がほぼ完成
     この日、北条氏の領地関東の6か国(伊豆、相模、武蔵、上野、上総、下総)を徳川家康に与える
  07/21《06/20》ヴァリニアーノがインド副王の使節の資格を持ち天正遣欧少年使節一行とともに長崎に戻る
    長崎はキリスト教が禁じられ、宣教師に国外退去を命じた変わり果てたあとの姿に
    1591(天正19)閏01/08天正遣欧少年使節一行は聚楽第で豊臣秀吉に謁見、インド副王の書状や贈物を奉呈
     洋楽器[フラウト(フルート)、レベカ(小型バイオリン)、ラウテ(リュート)、クラボ(鍵盤楽器)]を演奏
     少年たちはジョスカン・デ・プレ作曲の恋の歌「ミュ・ルグレ(千々の悲しみ)」を歌う
    のち4人とも天草のイエズス会修練院に入る
      ミゲルは途中で棄教、千々和清左衛門として大村喜前に仕える
      マンショは1612(慶長17)11/13司祭として長崎のコレジヨで病死
      マルチノは1614(慶長19)禁教令がでたときにマカオへ追放、1929(寛永06)病死
      ジュリアノは日本で信徒の世話を続け1633(寛永10)10/21西坂で殉教
      太い棒に吊るされる前に「私はローマに行った中浦神父です」と叫ぶ
    1592(文禄01)09/04ヴァリニアーノは長崎を出帆。中国布教に努めるためマカオに滞在
  07/21《06/20》遣欧少年使節が長崎に帰ったとき、巡察使ヴァリニャーノは印刷機を持ち込む
     我が国最初の金属活字印刷機械で梱包されたまま加津佐のコレジヨへ送られる
     ヴァリニアーノの指示で日本語の活字製造が研究
     のち戦乱と追害でセミナリヨやコレジヨとともに各地を転々
     1591(天正19)ローマ字つづりの和文による聖人伝「サントスの御作業の内抜き書物第一」が刊行
     我が国初の西洋印刷機による金属活字本で欧文の翻訳出版
     1591(天正19)加津佐で片仮名体の木活字の見本が作られる
     平仮名体の木活字で教理書「どちりなきりしたん」が作られる
     他にパンフレットや「加津佐物語」などが印刷
     のち金属活字印刷機械は加津佐→天草→長崎などへ移される
     1614(慶長19)金属活字印刷機械がマカオへ渡る
     出版活動によって生まれたキリシタン版は宗門書、文典、文学書など約50種となる
  フロイスが天草から長崎に移る。定住する
  白亜の美しサンタ・マリア教会が立山に建つ
     ポルトガルの船員の航海の安全を願って港に面した山にサンタ・マリア教会を建てる習慣から
     岬の被昇天サンタ・マリア教会に対し山のサンタ・マリア教会と呼ばれる
     【設立は1591(天正19)、1594(文禄03)、1600(慶長05)とも】
     のち小聖堂が市民の憩いの場所となる
     1614(慶長19)09/禁教令による切支丹弾圧により破却される
     内町と外町の境界が明瞭となる
  岬の先端の「サン・パウロ教会(岬の教会)」が閉鎖
     イエズス会員はトードス・オス・サントスとミゼリコルディアの組の教会を利用
     1590(天正18)再び許されて建て直される
     傍らにはイエズス会の本部が出来上がる
     1601(慶長06)サン・パウロ教会(岬の教会)」が、セルケイラ司教の司式により献堂式が挙行
     ヴァリニャーノの指導の下で改築していた
     1601(慶長06)セルケイラ司教が岬の教会に日本司教区大神学校を設立
  布教にあたる宣教師ルイス・フロイスがイエズス会の本部に報告書を送る
     文中、島原の日野江城と場内の屋敷の様子を伝えるくだり
     「この建物の美しく雅やかなたたずまいは一同に気は入った。
     大小の部屋はすべて黄金の品や典雅で華麗な絵画で飾られていた。
     この屋敷は最近建てられ見事な出来栄えとなった城郭の中にある。
     その城郭を見たポルトガル人たちは、日本にこれほど壮麗な建造物があるなどと考えてもみなかった」
  有家のコレジヨが加津佐に移転
     1591(天正19)天草に移転
  徳川家康が江戸入府の折、たまたま増上寺の前を通りかかる
     源誉存応上人と対面し菩提寺となるきっかけに
     のち増上寺が貝塚から、一時、日比谷へ移る
     1598(慶長03)江戸城の拡張に伴い、徳川家康により芝へ移される
     のち徳川将軍15代のうち6人(秀忠、家宣、家継、家重、家慶、家茂)が葬られる
  長崎の人口約5千人に

1591(天正19)【後陽成】 辛卯(かのとう)

  《奉行》鍋島飛騨守信生(のち直茂)

  04/《02/》秀吉の勘気に触れ、堺に蟄居していた千利休が京都に呼び戻される。聚楽屋敷内で切腹を命じられる
     千利休は中世末期、戦国時代、安土桃山時代の茶人。今井宗久、津田宗及とともに茶湯の天下三宗匠と称せられる
     緊張感をつくりだすわび茶(草庵の茶)の完成者として知られる
     04/21《02/28》千利休(70)が切腹
     切腹に際して弟子の大名たちが利休奪還を図る恐れがあり、秀吉の命令を受けた上杉景勝の軍勢が屋敷を取りかこむ
     利休の首は一条戻橋で梟首。首は賜死の一因ともされる大徳寺三門上の木像に踏ませる形でさらされる
  06/豊臣秀吉が長崎における喧嘩刃傷と度量衡器の不正使用と偽貿易の売買を禁止する
  07/01ポルトガル船が多量の金塊を積んで長崎に入港
     鍋島直茂、毛利壱岐守吉成は金を安価に手に入れようと番船で包囲して、一般商人の交通を遮断する
     秀吉はポルトガル人の直訴を取り上げ商品売却の自由を許す
  10/06《08/19》ヴァリニアーノがキリシタン版の印刷が好調の旨をマニラに報じる
  12/秀吉が関白職を甥(姉・日秀の子・23)豊臣秀次に譲り聚楽第も秀次の居城に
     1592(天正20)01/再度、後陽成天皇の行幸を聚楽第に迎える
  ポルトガルの船長ロケ・デ・メロ・ペレイラが長崎へくる
     1592(天正20、文禄01・12/08)船長の寄付により筑後町(本蓮寺)にサン・ジョアン・バプチスタ教会が建つ【1605(慶長10)】
     教会はサン・ラザロ病院(ハンセン病病院)の付属で慈善団体ミゼリコルディアの組により運営
     社会的に放置されたハンセン病患者を救護治療したとされるが、収容規模や医療実績の記録は確認されず
     ハンセン病や重い皮膚病などの患者を救護するためキリスト教関係者が設けた医療施設。大分、京都、大阪などにも設置
     1614(慶長19)09/禁教令による切支丹弾圧により破却される
     1620(元和06)大村本経寺の僧日慧【日恵?】がキリスト教徒の迫害を受けながら教会跡に聖林山本蓮寺を建立
     1641(寛永18)大村氏などが支援して寺地を拡大。皓台寺、大音寺とともに長崎三大寺のひとつに
     1945(昭和20)08/09原爆ですべて焼失
     戦後本堂、書院、庫裏などが規模を縮小して再建
  閏01/08天正遣欧少年使節一行が聚楽第で豊臣秀吉に謁見、インド副王の書状や贈物を奉呈
     洋楽器[フラウト(フルート)、レベカ(小型バイオリン)、ラウテ(リュート)、クラボ(鍵盤楽器)]を演奏
     少年たちはジョスカン・デ・プレ作曲の恋の歌「ミュ・ルグレ(千々の悲しみ)」を歌う
     1592(文禄01)09/04ヴァリニアーノは長崎を出帆。中国布教に努めるためマカオに滞在
  加津佐のセミナリヨが八良尾(北有馬町)に移転
     1595(文禄04)有家に移転
  加津佐のコレジヨが天草に移転
     1597(慶長02)長崎のトードス・オス・サントス教会内にセミナリヨ、ノビシアード(修練院)とともに移転
     活字印刷所などの施設も併設
  ローマ字つづりの和文による聖人伝「サントスの御作業の内抜き書物第一」が刊行
     我が国初の西洋印刷機による金属活字本で欧文の翻訳出版
     金属活字印刷機械は1590(天正18)07/21《06/20》ヴァリニャーノが遣欧少年使節と帰国したときに長崎に持ち込む
  加津佐で片仮名体の木活字の見本が作られる
     平仮名体の木活字で教理書「どちりなきりしたん」が作られる
     他にパンフレットや「加津佐物語」などが印刷
     のち金属活字印刷機械は戦乱と追害でセミナリヨやコレジヨとともに加津佐天草長崎などへ移される
     1614(慶長19)金属活字印刷機械がマカオへ渡る
     出版活動によって生まれたキリシタン版は宗門書、文典、文学書など約50種となる


天正年間(1573〜1592)

  戸町村雄浦郷に大浦諏訪神社が開創
     1693(元禄06)10/17大村藩22代領主大村純長が社殿を建立
  竹の久保(現淵町)の妙見社がキリシタンの社地破壊により焼失
     1634(寛永11)延命寺の僧龍宣により浦上淵村竹久保郷に能満院万福寺が建立
     1647(正保04)弁財天を合祀。稲佐弁天社とも呼ばれるようになる
     1868(明治01)淵神社
  福田城が築かれる
  種子に先立ちタバコそのものが伝来
     のち喫煙の風習が急速に広まる
  諌早地区で本格的な干拓がはじまる

元亀年間(1570〜1572)〜天正年間(1573〜92)

  ポルトガル人により後の長崎代官伊藤小七郎がカステラの製造を試みる

1592(天正20、文禄01・12/08)【後陽成】 壬辰(みずのえたつ)

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