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〈昭和時代(10)〉

1950(昭和25)【昭和】 庚寅(かのえとら)

  《総理大臣》[第49代]第3次吉田茂内閣
  《知事》[第39代(公選1代)]杉山宗次郎
  《市長》[第17代]大橋博

  01/04長崎県営バスが網場〜小浜〜京泊間に竹島丸の運航を開始
     1951(昭和26)01/01竹島丸運航休止
  01/10戦後の財閥解体により三菱重工業株式会社が解散。3社に分割
     「東日本重工業株式会社」「中日本重工業株式会社」「西日本重工業株式会社として発足
     「西日本重工業株式会社長崎造船所」が発足
     1952(昭和27)05/27「三菱造船株式会社長崎造船所」と改称
  01/11数隻の漁船が済州島南方で国籍不明船から砲撃、拿捕される。怪船は韓国監視船
     1950(昭和25)暮〜1951(昭和26)03/東シナ海で拿捕された漁船は長崎の14隻を含め32隻に
     怪船は中国、韓国、台湾の武装船艇と判明
     1951(昭和26)03/15第3雲仙丸が長崎港に帰国
     台湾軍遊撃隊が乗船した第18雲仙丸に襲撃され甲板長が死亡
     1951(昭和26)06/19漁船12隻が2人の遺骨を抱いて帰国
     無灯火で近づき、いきなり発砲した中国船に拿捕されていた
     1952(昭和27)03/04中国に抑留された漁船員293人を乗せたボロボロの第5次送還船2隻が長崎港に帰国
     1955(昭和30)日中民間漁業協定が締結。時代錯誤の海賊行為がやむ
  01/12仁田小学校が招魂社境内に鉄筋コンクリートの校舎第1期工事を起工
       以降1953(昭和28)02/28の第2期工事(19教室)、
         1955(昭和30)03/の第3期工事(6教室、管理室、玄関)
         1958(昭和33)03/の第4期工事(3教室及び階段)、
         1959(昭和34)03/08の第5期工事(理科室及び便所)まで随時、工事を続行
     1963(昭和38)10/01体育倉庫の改造、陸橋の架設工事に着手。12/21竣工
  01/長崎バス(株)が長崎県営バスとの間に市内線相互乗り入れを開始。●●〜●●線
  02/01西海町営船が瀬川丸、大八丸の2船で月40回の運航に
     1950(昭和25)04/西岡商会の勢幸丸が寄船〜横瀬西〜横瀬東〜佐世保航路に就航
  02/11県立長崎工業高校が大村市から長崎家野町に移転
     1971(昭和46)岩屋町に移転
  02/20長崎市大黒町に長崎県公共事業部(長崎県営バス)の本部庁舎が落成
     08/12長崎県公共事業部を長崎県交通部と改称
     1961(昭和36)05/10長崎県営バス本局用地一部買収(大黒町588.38平方米)
  03/01日本の政治政党自由党が発足する。民主自由党と民主党連立派の合同、初代総裁に吉田茂
  03/11煉瓦造り地下1階、地上2階建、延べ630坪の長崎商業会議所が全焼
    1950(昭和25)11/(社団法人)商工会議所法に基づき長崎商工会議所改組
  03/14活水女子短期大学、長崎外国語短期大学、県立女子短期大学が開校
  03/14長崎純心女子短期大学が開校。社会科学科を開設
     1951(昭和26)全国で唯一のカトリック系の幼稚園教員育成校として保育科を開設
     1975(昭和50)家野町の長崎純心女子短期大学が三ツ山町に移転
     2006(平成18)02/26長崎純心大学短期大学部が4年制大学への完全移行に伴い56年の歴史に幕を閉じる
     閉学式が長崎市三ツ山町の学舎で行なわれる
     短期大学部は1950(昭和25)に社会科、翌年に全国で唯一のカトリック系の幼稚園教員育成校として保育科を開設
     これまでに社会科、保育科など合わせて1万0441人を社会に送りだす
     03/14保育科の最後の卒業生61人が社会に巣立つ
  03/31恵美須町5-100の瓊の浦公園(4088平方米)が、桜町10-1000に桜町公園(2349平方米)が
     岩川町2400に山王公園(2480平方米)が、城山町2400に城山公園(3582.72平方米)が開設
  03/「産業経済新聞」が東京で印刷発行を開始。経済紙から一般全国紙への基礎を固める
     1955(昭和30)11/東京発行の「産業経済新聞」が「時事新報」を買収。「産経時事」と改題
  04/01長崎市の第4次市域拡張により西彼杵郡福田村大浦郷字網場を市域に編入
     90.60平方粁、戸数5万7081、人口24万7248となる[1950(昭和25)12/31現在]
     福田村の一部0.06平方粁25戸106人(男56・女50)[1950(昭和25)01/20現在]
     1955(昭和30)01/01長崎市の第5次市域拡張により西彼杵郡福田村と深堀村を市域に編入
     114.23平方粁、戸数6万4231世帯、人口29万2765となる[1955(昭和30)01/31現在]
     福田村21.47平方粁、992世帯、5431人(男2641・女2790)
     深堀村21.8平方粁、1222世帯、6097人(男3026・女3071)
     [拡張区域は1954(昭和29)03/31現在]
  04/17放浪作家の林芙美子が来崎。東上町の福島旅館に投宿
     世界最小の高級腕時計と現金5万円を盗まれる
  04/21戦後初めてハワイ観光団第1陣24人が来崎
  04/27長崎開港380周年を迎え「ながさきみなとまつり」が復活
     記念式典、のど自慢大会、仮装行列、魚供養など多彩な行事が繰り広げられる
     04/30閉幕
  04/日本商工会議所が国際商工会議所に再加入
  04/長崎醤油味噌工業組合」が長工醤油味噌有限会社へ商号変更
     1966(昭和41)04/長工醤油株式会社へ組織変更
  04/長崎市街地信用組合が信用組合に
     1951(昭和26)10/20信用金融金庫法に基づく信用金庫に改組
  04/長崎商工会議所が長崎開港記念会復活総会を開催
  04/西岡商会の勢幸丸が寄船〜横瀬西〜横瀬東〜佐世保航路に就航
     1950(昭和25)11/01沢山商事が大村〜佐世保航路権を10万円で買収。畑下、杉崎寄港
  04/千々石に雲仙食品が創立
     ざぼん漬、ざぼん羊羹、雲仙飴の詰合せを以てみやげ品界に進出
     もともとは戦後に砂糖の統制でつくった雲仙食品株式会社がきっかけ
     1963(昭和38)ヨーグルト、ミルクコーヒー、なまジュースなどの飲料水部門を併営
  05/01長崎大学の大村一般教養部と長崎一般教養部が統合され長崎大学大村分校に
     のち転々とする。大村分校大村教室下久原の元師範校舎大村分校長崎校舎
     1954(昭和29)長崎市大橋町に移転し長崎大学長崎分校と改称
  05/01西彼杵郡福田村の一部が長崎市に編入される
     1951(昭和26)12/01西彼杵郡時津村に町制が敷かれ時津町となる
  05/03北松浦郡小佐々村に町制が敷かれ小佐々町となる
     1951(昭和26)12/01北松浦郡福島村に町制が敷かれ福島町となる。人口は1万1千人を数える
     北松浦郡吉井村に町制が敷かれ吉井町となる
  05/木造2階建て「長崎県立盲学校」復旧校舎の落成祝賀会開催。永井隆博士が祝いの色紙を送る
     1975(昭和50)児童生徒数の増加と復旧浦上校舎の老朽化にともない、時津町に校舎・寄宿舎が新築され移転
  05/長崎大学の水産学部が大村市から佐世保市崎辺に移転
     1961(昭和36)08/佐世保市崎辺から長崎市文教地区に移転
  06/07三光商事が(株)中山洋行へ商号を変更
     1950(昭和25)米進駐軍からの払い下げコーヒーを販売
     1952(昭和27)コーヒー自家焙煎を開始
  06/20岩波書店から岩波写真文庫が創刊
     「木綿」「昆虫」「南太平洋の捕鯨」「魚の市場」「アメリカ人」の5冊が同時刊行
     「物語る写真」「眼でみる百科」などのスローガンをかかげて各冊ワンテーマで200枚前後の写真をつめこむ
     1958(昭和33)10/「新風土記・京都府」など5冊をもって終刊
     8年半のあいだに286冊が刊行される
  06/25朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が軍事境界線を越えて大韓民国(韓国)に侵攻。朝鮮戦争が勃発
     成立したばかりの韓国と北朝鮮の間で朝鮮半島の主権を巡って争われる
     1953(昭和28)07/27朝鮮休戦協定が調印される。全土が戦場となり荒廃する
     朝鮮半島は開戦前と同様に南北2国に分断された状態のままに
  06/26イギリスの作家D・H・ロレンスの小説「チャタレイ夫人の恋人」の翻訳書が押収される
     訳者の伊藤整と版元の小山書店社長がわいせつ容疑で起訴
     のちわいせつと表現の自由の関係が問われる
     1957(昭和32)03/13最高裁判所による上告棄却により訳者、版元社長に対し有罪が確定する
  06/朝鮮動乱が勃発したことで安定恐慌下のわが国経済に特需ブームをもたらし、経済界は予期しない好況に沸く
     1951(昭和26)07/反動を受けて再び深刻な不況に陥り商社や問屋の倒産が続発、中小商工業の経営は苦境に
  06/佐世保市が市民97%の支持率を得て平和宣言を採択
     「佐世保市を永久に平和港として育成する」
  07/02未明、京都の鹿苑寺、通称・金閣寺から出火
     消防隊が駆けつけると、既に舎利殿から猛烈な炎が噴出して手はつけられない状態
     国宝の舎利殿(金閣)46坪が全焼。足利義満の木像、観音菩薩像、阿弥陀如来像など文化財6点が焼失
     現場検証の結果、普段は火の気がないこと、なぜか寝具が付近に置かれ不審火の疑い
     見習い僧侶で大谷大学学生の林承賢(21)の行方を捜索
     夕方、金閣寺の裏の山中で薬物のカルモチンを飲み切腹してうずくまっていた林を発見、放火の容疑で逮捕
     1955(昭和30)国や京都府の支援、地元経済界などからの浄財により再建される
     明治時代に大修理が施され、詳細な図面が残されておりきわめて忠実な再現が可能に
  07/09八学会連合の対馬学術調査に参加した民俗学者の宮本常一が厳原に着く
     宮本の民俗学の軸は、柳田国男が定住型水田稲作農民を対象にしたのに対し、海の民の生き方に視点をあてる
     07/13バスで豆酘村の浅藻に80才を超える梶田富五郎翁に会いに行く
  07/30長崎県営バスが橘湾で納涼遊覧船の営業開始(〜08/27)
     網場〜東望浜〜牧島〜戸石〜網場3Hコース
  07/キングから岡晴夫の歌による「長崎の花売娘(C603)」が発売される
     作詞は村松又一、作曲は上原げんと
     1939(昭和14)にヒットした「上海の花売娘」に続く花売娘シリーズのひとつ
     歌詞も「上海の〜」や「東京の〜」に似たフレーズが多く、意図して作られた感が深い
     片面は後藤良子の歌による「オランダ坂の夜は更けて」。作詞は石本美由起、作曲は上原げんと
     のち岡晴夫が長崎で公演「長崎は本当に夢の港、恋の町」と印象を語る
  08/01市立公園ができる
     長崎公園(上西山町)、湊公園(新地町)中川公園(本河内町)、丸山公園(寄合町)、
     国際平和公園(松山町)、飽ノ浦公園(飽ノ浦町)、立神公園(東立神町)、水ノ浦公園(水ノ浦町)
  08/12長崎県営バスの大村営業所落成
     1970(昭和45)10/25大村営業所女子職員寮が新築落成
  08/13国家警察予備隊の人員受付が長崎の各警察暑ではじまる
     マッカーサーにより国家警察予備隊(7万5千人)の創設が指令されたため
     長崎では定員1470人のところ2500人が志願
  08/長崎県立長崎西高等学校が竹の久保町の新築校舎に移転完了
     創立時[1948(昭和23)11/01]は鳴滝町の旧県立長崎高等学校の校舎を使用
  08/朝鮮動乱により「興安丸」が国連軍に傭船され兵士や傷病兵を輸送。以降、引揚輸送に従事する
     1953(昭和28)03/23中国引揚再開、帰国第1船として舞鶴入港
  09/13唐人屋敷内の土神堂を老朽化のため石殿のみを残し解体
     1978(昭和53)05/10長崎市が復興工事
  09/16長崎電鉄が大橋〜住吉に路線(1550米)を延長
  09/長崎バス(株)の整備工場が松ケ枝町から岩川町に移転
     1955(昭和30)10/05岩川町から茂里町に移転
     新工場の面積4800平方米、1日の整備能力30両
  10/07渡御。「長崎くんち」10/09還御
     (1)…寄合町(本踊)、樺島町(太鼓山)、八幡町(山伏剣舞)、麹屋町(本踊)、
     万屋町(鯨潮吹き)、西浜町(蛇船・本踊)、銀屋町(本踊)、諏訪町(蛇踊)
     *出場辞退…船津町、本博多町、平戸町
     長崎くんちプログラム」(赤本)を山下誠が創刊
     御旅所は万才町長崎地裁前空地
     くんち振興会が花電車や花バスを走らせ景気を添える
  10/10日本観光地選定会議と毎日新聞が全国民の投票で選ぶ「日本観光地百選」を実施
     長崎が第1位となる。戦災年から立ち直り観光都市に生まれ変わる景気に
     長崎市は都邑の部での百選運動本部を設け市民に協力を呼びかける
     結果95万0532票で、秩父の94万票に大差をつけて首位に
  10/29水の浦町4に水の浦公園(1916平方米)が開設
  10/29船橋オートレース場開設。千葉県営にて全国初の車券つき小型自動車競走が開催
     初興行の船橋オートレース第1日は3万人余のファンを集める人気ぶり
     興行先立ち、模擬レースが開かれる
     出場したのは小型自動車6台、オートバイ116台で、小型自動車は1万米、オートバイは5600米を走行
     紅一点として川名八千代選手(24)も参加。爆音の中で壮烈なレースを展開する
     高松宮殿下の来臨を仰ぎ、開場のテープは宮様の手により、天地を轟かす爆音とともに華々しくスタート
     メインは4輪車のレース、余興として2輪車レースが行なわれる。ダート800米、幅員50米、曲率半径20米
  11/01沢山商事が大村〜佐世保航路権を10万円で買収。畑下、杉崎寄港
     1951(昭和26)12/03西海町営船が第3瀬川丸を467万3千円で建造
  11/02長崎・佐世保(早岐)〜東京に客車急行「雲仙」が誕生
     1954(昭和29)10/01長崎本線経由の長崎〜東京のみに
     1961(昭和36)10/01長崎・佐世保〜東京「西海」と併結
     1968(昭和43)10/01長崎〜京都に単独2往復
     1970(昭和45)10/01長崎〜京都に単独3往復
     1975(昭和50)03/10長崎・佐世保〜新大阪「西海」と併結
     1980(昭和55)10/01廃止
  11/23西彼杵半島と針尾島の間の針尾瀬戸を結ぶ橋の起工式が挙行。架橋建設は建設省の直営事業に
     占領軍のシングルトン中佐も参列。両岸から橋桁工事に着手
     1951(昭和26)「対日見返り資金」打ち切りと県の公共事業切り替え
     国道でない道路が半額県費負担となり猛運動が繰り広げられる
  11/25茂里町の西日本重工業長崎造船所幸町工場の一部用地を買収し長崎市営塵芥焼却場ができる
     工費821万余円、1日焼却能力56.2瓲の塵芥焼却炉を建設
  11/(社団法人)商工会議所法に基づき長崎商工会議所を改組
     1951(昭和26)11/第14代会頭に中部悦良が就任
  12/合資会社「田中長一商店」が本社を長崎から東京に移す
     1964(昭和39)07/木枠窓に代わるアルミサッシの需要の拡大と相まって、不二サッシ販売(株)の代理店となる
  長崎バス(株)が貸切事業の免許を取得
     事業区域は長崎市と西彼杵郡一円で3台からスタート
  ローマ教皇ピオ12世が西坂の地をカトリック教徒の公式巡礼地と定める
  長崎市で本格的ないちご栽培を開始
  それまで平地の田んぼばかりだった地域(現チトセピア)にアパート群が建ち並ぶ
     駒場町の競輪事業の収益により建てられ、別名競輪アパートと呼ばれた
     それぞれ4階建アパート9棟には隼、燕、千鳥、鴎、鳩、鴬、孔雀、雲雀、鳳と名前が付けられた
     1991(平成03)地上13階、地下1階、延べ面積6万平方米のチトセピアがオープン
     公営住宅268戸、長崎市役所西浦上支所、ユニード等専門店、銀行が入居
  ラッキー自動車(株)が佐世保でタクシー業務を開業
     1953(昭和28)長崎に進出
  中島川の袋橋のたもとに中華料理店の共楽園が創業
  G.H.Qより医薬分業の勧告あり、賛否両派が対立
     1954(昭和29)07/11長崎市袋町・カトリックセンターにて長崎県医師大会が開催。強制医薬分業に絶対反対など決議
  長崎駅前に木造2階建の県営バスターミナル本部庁舎が落成
  本原郷辻の丘(十字架山、クルス山)が西坂殉教地とともに、ローマ教皇ピオ12世によって公式巡礼地に指定
     1952(昭和27)日本最初の屋外「十字架の道」が設置
  諏訪荘の田中作太郎が国際観光旅館連盟九州支部の結成につくし、初代九州支部長に推される
     国観連は戦後、外人観光客が増え、その宿泊対策のために生まれた
     のち日本観光旅館連盟長崎支部を組織づくる
     のち長崎県環境衛生旅館組合を組織づくる
  雲仙が戦後の観光対策に、それまでの旅館組合とホテル組合とが合併。ひとつになる
     初代組合長は古湯の富貴屋旅館の代表・内田繁光
  清月堂の小松清が唐人せんべいの権利を譲り受け館内町に工場を建て長崎名物として売り出す
     のち名所せんべいを創案して売り出し基盤をつくる
     のち清月食堂を経営し、さらに観光ガイド社をつくる
     1959(昭和34)稲垣屋を借りてカステラ業界に進出。220円のカステラを売り名を知られる
  銭座町で三宅豊之がざぼん漬製造の三宅三七三(ミナミ)堂を創業
     三宅豊之は1913(大正02)生まれ、関西大学をでて満州に渡りハルビンの満州馬事公会経理課長を務める
     1944(昭和19)に召集されフィリピンから復員
     のち小浜にある父親の菓子工場で湯せんべいやざぼん漬の製造に携わる
  深堀健一郎が出島で文化タクシーの営業をはじめる
     車両は三輪車にボディーを取り付けた5人乗りの文化タクシー
  小浜にて1924(大正13)島原生まれの伊藤譲が岩見屋タクシーを経営
     のち岩見屋旅館を併営するが1958(昭和33)旅館を閉じる
     1967(昭和42)経営を旅館一本に切り替え、いとう旅館を建てる
     建物は洋館造り、各部屋は和室。熊本の五つ木から運んだ石でつくった岩風呂が特徴
  雲仙の有明ホテルがアメリカ軍の接収から解かれ従来のホテル経営に復する
     終戦直前には他のホテルとともに佐世保海軍病院の保養施設となり、終戦後はアメリカ軍将校のレストハウスとなっていた
     1956(昭和31)政府登録ホテルとなる
  雲仙新湯の九州ホテルの内部改装工事、一部新築工事に着手
     改装工事は、日本人客に敬遠される洋風ホテルから、和室の旅館へ転換し集客力を上げるため
     1974(昭和49)全館の工事が終了
  南山手の丘の上のイエズス会修道院本部が兵庫県に移転
     女子修道院「マリア園」となり幼稚園、養護学校が併設されて修道女による運営が行なわれる
  戦災復興事業の一環として佐世保市により、旧刑務所後を利用して佐世保競輪場が開設される
     市営佐世保競輪が初開催される
  長崎観光ホテルが開業
  穴見栄七が長崎駅前で営む果物店が、区画整理で駅前別の場所に新築移転。土産品店たちばなやを開業
  原爆で焼失した長崎駅前の太田屋旅館が新築再開。屋号を新成館に変更
     1958(昭和33)樺島町に移転
  不二家が「ママの味・ミルキー」を売りだす。ミルキーの顔としてペコちゃんがデビュー
     アメリカの雑誌広告に載っていた女の子をモデルに、漫画的な誇張を加え生みだされる
     永遠の6才。身長100センチ、体重15キロ。名前の由来は子牛の愛称「べこ」を西洋風にアレンジ
  キングにて岡晴夫が「長崎の精霊祭り」を吹き込む
     作詞は石本美由起、作曲は上原げんと
     直後石本と上原がキングからコロムビアに移籍
     岡晴夫の歌は日の目を見ず
     1951(昭和26)11/コロムビアから鶴田六郎の歌による「長崎の精霊祭り(1238)」が発売される
  長崎公園内の呑江(港)茶屋近くに「お菊さん」の記念碑が建立。ロチの生誕100年を記念して
     フランス文学者辰野隆の碑文が刻まれる
     「仏国文豪ピエール・ロチ、かつて海軍士官としてこの港に寄港、美しい風景と旅愁が詩魂をかって哀切傷心の情話をつづらせた」
     呑江(港)茶屋はピエール・ロチ作の「お菊さん」の舞台に
  キッコーマンのキャラクターとしてキッコちゃんが初登場
     設定はパーマネントにロングスカート、流行の最先端を行く明るく健康的な若いお嬢さんで20才
     配給統制の醤油自由販売が復活し、若い女性に親近感を感じてもらおうと、人気のサザエさんにヒントを得る
  栄町の料亭松楽を浜口しづが名義を継いで桶屋町に開業
  中島川畔のカルルス公園に建つ旅館虎屋の、駐留軍の接収が解かれ料亭はし本を新築開業。敷地約1千坪
     部屋は豪華な純和風だがカギ1本で自由に振る舞えるようにホテル洋式を採り入れる
     経営者の理念「外観は鉄筋の建物でも、旅館はあくまで古来のサービスと情緒とに徹しなければならない」
     屋上は長崎の夜の展望所、地階はクラシックな和風レストラン虎茶屋と駐車場
     「虎茶屋」では1品料理から天ぷら、鍋物料理、しっぽく料理、名物の虎鍋桜の葉で巻いたさくら寿司などを提供
     建設は西日本菱重興産(三菱造船一環の事業)第1回の建設として施工
  長崎市内の映画館が9館になる
     1956(昭和31)06/映画ブームで映画館が急造に増え21館を数える
     東宝宝塚、大洋映劇(以上本石灰町)、松竹国際映劇、第1映画、東宝富士館(以上西濱町)、東宝喜楽館(東濱町)、
     中央映劇、長崎大映(以上銅座町)、東映映劇、新世界(以上梅香崎町)、新大映劇、諏訪名画(以上新大工町)、
     榎津東映(榎津町)、千日映劇(出来大工町)、東館(船大工町)、戸町大東映劇(戸町)、みなと映劇(大浦町)、
     大橋平和(大橋町)、住吉公楽映劇(住吉町)、平和劇場(浜口町)、月館(稲佐町)
  戦後の観光ブームで樺島町にある港温泉の2階を改装、旅館業を始める
     浴場と旅館を併営して人気を集める
     のちボーリングを手がけ水脈を掘り当て港温泉と旅館経営がプラスとなる
     のち本格的な旅館経営に取り組み増築を重ねる
     1965(昭和40)港洋館を新築
  袋町橋たもとの地蔵(地蔵菩薩半跏像)に本下町町民より「幔幕」の寄進を受ける
     1982(昭和57)07/23長崎大水害で中島川に架かる石橋群が流失
     地蔵他を西古川町町内で仮安置する
  小松清が清月堂の唐人せんべいの権利を譲り受け、館内町に工場を建て長崎名物として売り出す
     のち名所せんべいを創案して売り出し基盤をつくる
     のち清月食堂を経営し、さらに観光ガイド社をつくる
     1959(昭和34)稲垣屋を借りてカステラ業界に進出。220円のカステラを売り名を知られる
  平坂製薬株式会社が全国に宣伝カーのマイク放送による宣伝活動を開始する
     1970(昭和45)「頭いた〜い・歯いた〜い…」のインディアンをキャラクターとしたテレビCMを開始
  浜屋で開かれた全国みやげ品展示会にて大村の菓子「ばってん」がトップで入賞
     のち政治に干渉し失敗、無一物で長崎に
     のち未経験ながらざぼん漬の製造に成功
     のち蝶々柑、唐ざぼん、輪ざぼん、若ざぼん、切ざぼんなど次々と生み出す
  暮/〜1951(昭和26)03/東シナ海で国籍不明船から砲撃、拿捕された漁船は長崎の14隻を含め32隻に
     怪船は中国、韓国、台湾の武装船艇と判明
     1951(昭和26)03/15第3雲仙丸が長崎港に帰国
     台湾軍遊撃隊が乗船した第18雲仙丸に襲撃され甲板長が死亡
  この年、長崎市の赤痢発生状況43(死亡3)
  雲仙の県有地(ゴルフ場、テニスコート)や各ホテル等の米駐留軍による接収が解除される
  第6回日本ユネスコ大会開催が雲仙で開催

1950(昭和25)頃

  「長崎平和の折り鶴会」が発足。前身は「城山平和子ども会」
     1968(昭和42)「平和を祈る子」像が建立される
     原子雲の下で
     母さんにすがって泣いた
     ナガサキの子供の悲しみを
     二度とくり返さないように
     大砲の音が
     二度と鳴りひびかないように
     世界の子供のうえにいつも
     太陽が輝いていますように
  銅座〜船大工町に架かる鉄筋コンクリート造の大正橋の上流側が暗渠となり銅座市場となる
  銅座〜本石灰町に架かる鉄桁橋の浜崎橋が上流下流暗渠となり高欄を取除き下流は銅座市場となる

1951(昭和26)【昭和】 辛卯(かのとう)

  《総理大臣》[第49代]第3次吉田茂内閣
  《知事》[第39代(公選1代)]杉山宗次郎(→05/05)、[第40代(公選2代)]西岡竹次郎(05/06→)
  《市長》[第17代]大橋博(→04/03)、[第18代]田川務(04/27→)

  01/01長崎県営バスが網場〜小浜〜京泊間の竹島丸の運航を休止
     1952(昭和27)10/25網場〜小浜〜京泊定期航路廃止
  01/03東京市京橋区木挽町に第4代の歌舞伎座が復興した建物で開場式(こけら落し)
     戦禍をまぬがれた第三期の建物の基礎や側壁の一部を利用して改修。設計は吉田五十八
     外観は戦前の歌舞伎座を踏襲し、奈良及び桃山の優雅な趣はほぼ再現、同時に近代的な設備が取り入れられる
     客席数は桟敷、一幕見を含めて約2千席
     舞台間口15間(約27.6米)、廻り舞台の直径60尺(約18米)、大小合わせて4か所にセリがつく
  01/03ラジオ放送で午後8時から1時間「第1回紅白歌合戦」が放送される
     司会は白組が藤倉修一アナウンサー、紅組は加藤道子
     白組/近江俊郎「湯の町エレジー」、楠木繁夫「紅い燃ゆる地平線」、東海林太郎「赤城かりがね」、
      鈴木正夫「常磐炭坑節」、鶴田六郎「港の恋唄」、林伊佐緒「銀座夜曲」、藤山一郎「長崎の鐘」
     紅組/赤坂小梅「三池炭坑節」、暁テル子「リオのポポ売り」、菊池章子「母紅梅の唄」、菅原都々子「憧れの住む町」、
      二葉あき子「星のためいき」、松島詩子「上海の花売り娘」、渡辺はま子「桑港のチャイナタウン」
  01/04長崎県営バス雲仙営業所に2人組ピストル強盗(01/06に逮捕)
  01/長崎大学の水産学部で実習船「朝霧」(初代、水産学部最初の動力船、3.9瓲)が進水
     1952(昭和27)06/練習船「長崎丸」(初代、103総瓲)が竣工
     1956(昭和31)07/練習船「長崎丸」で初の外航遠洋実習を航海(香港及び台湾)
     1964(昭和39)03/2代目「長崎丸」(562.98総瓲)が竣工
     1968(昭和43)03/実習船「鶴水」(19.95瓲〉が新造
     1975(昭和50)06/練習船「鶴洋丸」(1044.38総瓲)が新造
     1982(昭和57)03/2代目実習船「鶴水」(27.8総瓲)が竣工
     1986(昭和61)02/3代目「長崎丸」(842総瓲)が竣工
  02/20外浦町に長崎県庁舎を起工。工費約4億円
     1953(昭和28)03/31鉄筋コンクリート造5階建、総面積1万4500平方米の長崎県庁舎が完成
     1953(昭和28)05/18立山庁舎から移転完
  03/02長崎大学の経済学部の前身、長崎経済専門学校の最後の卒業式が行なわれる
     長崎大学に新たに経済学部が設立されたため
  03/15中国、韓国、台湾の武装船艇に拿捕された第3雲仙丸が長崎港に帰国
     台湾軍遊撃隊が乗船した第18雲仙丸に襲撃され甲板長が死亡
     06/19漁船12隻が2人の遺骨を抱いて帰国
     無灯火で近づき、いきなり発砲した中国船に拿捕されていた
     1952(昭和27)03/04中国に抑留された漁船員293人を乗せたボロボロの第5次送還船2隻が長崎港に帰国
  03/20日本コロムビアからLPレコードが「長時間レコード」のタイトルで初めて発売される
  03/31長崎大学の学芸学部の前身、師範学校最後の卒業式が行なわれ、師範学校が廃止
     1952(昭和27)06/大村市乾馬場から長崎市大橋町200番地への移転を開始1953(昭和28)03/31移転完了
     附属中学校が長崎市昭和町863番地に移転
  03/31平和町2400-1他に天主公園(3765平方米)が、松山町2400-1他に平和公園(15万6700平方米)が
     川口町2400に川口公園(2493平方米)が開設
  03/浜町の東洋美装店がモデル50人による春のファッションショーを開く。長崎初のファッションショー
  03/長崎県営バスによる宣伝カーが登場
  03/長崎大学の薬学部の前身、長崎医科大学附属薬学専門部が廃止となる
     長崎大学に新たに薬学部が設立されたため
  04/03市営大橋球場が完成
  04/11トルーマン米・大統領によりダグラス・マッカーサーがGHQ最高司令官を罷免
     後任にリッジウェイ中将が就任
     マッカーサーは1945(昭和20)08/30専用機バターン号で神奈川県の厚木海軍飛行場に到着
     連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の総司令官として日本占領にあたる
     1952(昭和27)04/28午後10時30分、対日講和条約(サンフランシスコ平和条約)・日米安全保障条約が発効
     GHQ、対日理事会、極東委員会が廃止
     敗戦から6年8か月ぶりの主権回復(独立)し、国際社会に復帰(占領時代の終焉
     発効が午後10時30分なのは、時差のためにアメリカが28日をむかえるのを待つ
     独立式典は行われず、5月3日に日本国憲法施行5周年記念式典と抱き合わせで開催
  04/24午後1時45分頃、国鉄東海道支線の桜木町駅で列車火災事故が発生
     碍子交換工事中、不注意により架線が垂れ下がり、そこへ5両編成の京浜線が進入
     架線とパンタグラフがからまり激しい火花ののち屋根の可燃性塗料に着火、木製の車両が燃えはじめる
     先頭車が全焼、2両目が半焼。わずか10分ほどのあいだに焼死者106人、重軽傷者92人をだす大惨事に
     のち自動扉つきの車内には非常ドアコックの設置と表示が義務化され、車両の鉄鋼化が促進される
  04/26稲佐町、大浜町、水の浦町、淵町他に稲佐山公園(92万7600平方米)が開設
  05/01長崎医大放射線科前教授の永井隆博士が長崎大学医学部付属病院に入院
     午後09時50分、慢性骨髄性白血病で逝去、享年46歳【43歳?】
     05/14名誉市民・故永井隆の長崎市公葬が浦上天主堂で執行。坂本町国際外人墓地入口付近に妻緑と葬られる
     墓石に、パウロ永井隆、マリナ永井緑と刻まれる
  05/04長崎港外神の島に真性天然痘が発生
  05/12新聞「夕刊長崎タイムス」が廃刊
  05/13「夕刊日日新聞」が創刊
  05/16日本がWHO(世界保健機構)に正式加盟
  05/作家の坂口安吾が「安吾新日本地理」の「長崎チャンポン」の取材で来崎
  05/東京都新宿区角筈の大衆劇場ムーランルージュ新宿座がストリップショーなど新しいジャンルの娯楽に押され閉館
     育った多数の人材は映画や放送界に流れる
  06/07度量衡法は廃止。日本国憲法の地方自治の精神を取り込んだ計量法が制定される
     1959(昭和34)01/01土地・建物の表記を除きメートル法が完全実施
  06/15長崎県営バスが特急バスの運行を開始
  06/「長崎日日新聞」の桑原用二郎が読売系の持株を譲り受け完全に独立
     1953(昭和28)県内紙で初めて高速輪転機、写真電送機などを導入
  06/島原タクシーが設立
  06/コロムビアから藤山一郎の歌による「長崎の雨(A1114)」が発売される
     作詞は丘灯至夫、作曲は古関裕而
     「長崎の鐘」から2年後、藤山一郎2曲目の長崎もの
     片面は二葉あき子の歌による「ぎやまん月夜」。作詞は丘灯至夫、作曲は古関裕而
     のち「長崎の雨」は「鐘」の続編ともいえる詞と曲で「鐘」とならぶ長崎の代表曲に
  06/ビクターから小畑実の歌による「長崎のランタン娘(40610)」が発売される
     作詞は佐伯孝夫、作曲は佐々木俊一
     キングからコロムビア、そしてビクターに移った小畑実の第1段
     片面は作詞は佐伯孝夫、作曲は佐々木俊一の「高原の駅よさようなら」
  07/朝鮮動乱の反動を受けて再び深刻な不況に陥り商社や問屋の倒産が続発、中小商工業の経営は苦境に
  07/「長崎精機製作所(旧長崎三菱兵器製作所)」が三菱関連各社に吸収され工場は閉鎖
     1956(昭和31)技術を引き継いだ三菱長崎造船所が防衛庁の注文で54式魚雷を生産
     1956(昭和31)01/21西彼杵郡長与町堂崎の施設で航海発車試験を行なう
  08/05長崎駅前道路改修工事が完工
  08/08城山小学校で「少年平和像」の除幕式が行なわれる
     等身大のブロンズ像で正門中庭に建立。富永直樹作
     自主制作による歌「子らのみ魂よ」が作られ除幕式で発表
     作詞は島内八郎、作曲は木野普見雄
  09/02片淵中学校の校舎が完成。戦後初の鉄筋コンクリート造3階建
  09/03長崎市内でスクールバスの運行を開始
  09/07三木鶏郎企画・制作による小西六提供のラジオ番組「冗談ウエスタン」がはじまる
     CBC中部日本放送、NJB新日本放送で流れる
     民放第一声で新番組を始めたいという小西六が30分の番組枠を買い、三木鶏郎に委嘱
     番組テーマソングのあと、灰田勝彦の明るい歌声でコマーシャルソング「僕はアマチュアカメラマン」が流れる
     会社名、商品名を入れず、アマチュアカメラマンがカメラをもつ心境をコミックソング風に作詞
     もと歌は三木鶏郎の流行歌「僕は特急の機関士で」
  09/08サンフランシスコ講和条約により小笠原諸島がアメリカ海軍の統治下に置かれる
     1968(昭和43)06/26南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定が発効
     小笠原諸島が日本に返還。東京都小笠原支庁設置。東京都小笠原村に属することに
     戦前の旧大村、旧扇村、袋沢村、旧北村、旧沖村および旧硫黄島村は、小笠原村に
     かつて小笠原支庁直轄だった北硫黄島、南鳥島、沖の鳥島および西之島も小笠原村の区域となる
  09/25西坂町2400に西坂公園(7064平方米)が開設
  09/26四海樓が籠町(旧広馬場町)で2代目のもと再び開業
     1973(昭和48)11/14観光業も取入れた営業拡大に伴い、松が枝町4番5号に新築移転
     大宴会場4、小宴会場13、大ホール2の設備で1700人収容の日本の代表的な中華料理店に発展
  09/今籠町の市営旅館「万歳」が所期の目的に達し廃止
  09/対日講和条約・日米安全保障条約が調印
     1952(昭和27)04/対日講和・安保両条約が発効される
     6年余にわたる占領行政からようやく開放され独立を回復することに
     政府は政治的独立とともに経済の自立を期することになり、
     基幹産業の生産拡充と輸出産業の国際競争力強化をはかるため積極的な政策を推進。経済界にも活気がよみがえる
  10/07渡御。「長崎くんち」10/09還御
     (2)…丸山町(本踊・段尻)、榎津町(川船)、西古川町(櫓太鼓)、本紙屋町(龍踊)、
     新大工町(曳段尻・剣舞)、磨屋町(本踊)、新橋町(阿蘭陀萬歳)、大波止町(入船祭)
     *元船町と玉江町で大波止町に
     御旅所は大村町長崎地裁前空地
     市民運動場(のち公会堂前広場)に踊り場を開設
     阿蘭陀萬歳は1934(昭和09)の長崎国際産業観光博覧会演芸館で上演されて以来17年ぶりに復活
     くんちの奉納踊では初演
  10/16西中町教会が残った礎石、外郭の壁と尖塔を生かして手作業で聖堂を修復再建
     屋根は単層、堂内は単廊式平面のロマネスク様式の建物に再建
     改めて「殉教者の元后」に捧げる献堂式が行われる
     1987(昭和62)聖トマス西と15人の殉教者が二十六聖人以来、125年ぶりに聖人の列に上げられる
     生月出身の司祭・聖トマス西ほか女性2人を含む16人が1633(寛永10)〜1637(寛永14)に西坂などで殉教
  10/20長崎信用組合が信用金融金庫法に基づく信用金庫に改組
     のち壱岐、対馬を除く長崎一円に営業区域を拡大
     1999(平成11)11/01諌早信用金庫が長崎信用金庫との合併により「たちばな信用金庫」と名称変更
  10/20相互銀行法が公布され長崎無尽株式会社が株式会社長崎相互銀行と社名を変更
     1952(昭和27)04/熊本中央信用組合を吸収合併
  10/20長崎市が機構改革。観光係が観光課に昇格し、なかに企画と宣伝の2係を設ける
  10/銅座町の長崎電鉄軌道上の春雨通り露店の移転先として思案橋以南の銅座川暗渠工事が完成
     2階建木造モルタル塗マーケット街ができる。工費500万円、54世帯収容
     1953(昭和28)03/長崎電鉄が西濱町〜思案橋を工費1200万円で着工
  11/10茂木町田上に米国対日援助見返資金で建設され国立診療所が開所
  11/19東京銀座7丁目にキャバレー「銀巴里」が開店
     のち美輪明宏、戸川昌子、クミコ、仲マサコ、金子由香利、戸山英二、大木康子らを輩出
     三島由紀夫、なかにし礼、吉行淳之介、寺山修司、中原淳一らが集い演出に尽力する
     1990(平成02)12/29惜しまれつつ閉店に
     閉店日には銀巴里の名が記されたコーヒーカップや食器類がすべて常連客によって持ち帰られる
  11/アメリカの対日援助見返資金で桜木町に国立療養所長崎病院が完成
     工費3千万円、病床数・数100、職員46人
  11/長崎商工会議所の第14代会頭に中部悦良が就任
     1954(昭和29)07/新法に基づく特殊法人として長崎商工会議所が発足(特定商工業者の登録開始)
  11/長崎・沖縄貿易始まる
  11/尾上町岸壁の南西海面に突堤(中ノ島)を築造工事中の突堤東側約100米が突如崩壊する事故が発生
     当初の完成時期より若干の遅延に
     1956(昭和31)03/2万平方米を埋立て長さ200米、幅100米の中ノ島突堤がようやく完成
     中ノ島魚市場もほぼ完成し年間25万瓲の水揚可能な市場施設となる
     総工費9億円、うち国庫補助2億円、残りは県・市が折半
  11/コロムビアから鶴田六郎の歌による「長崎の精霊祭り(1238)」が発売される
     作詞は石本美由起、作曲は上原げんと
  12/01西彼杵郡時津村に町制が敷かれ時津町となる
     1955(昭和30)01/01西彼杵郡深堀村と福田村が長崎市に編入される
  12/01北松浦郡福島村に町制が敷かれ福島町となる。人口は1万1千人を数える
     北松浦郡吉井村に町制が敷かれ吉井町となる
     1954(昭和29)04/01北松浦郡南田平村、田平村が合併し町制が敷かれ田平町となる
     北松浦郡上志佐村、志佐町が合併し志佐町となる
     北松浦郡柚木村、黒島村が佐世保市に編入される
  12/03西海町営船が第3瀬川丸を467万3千円で建造
     1952(昭和27)05/19第2瀬川丸(大八丸)を7万円で売却
  12/06稲佐町に木造2階建の稲佐保健所が開設される。工費377万円
     1969(昭和44)川口町に移転
  12/24新興善小学校に鉄筋の仮校舎が復帰
     1982(昭和57)07/26〜/29長崎大水害のごみ集積場となる
  市内の公園・道路・河川にバラックが激増3千戸にのぼる。市は不法建築物の退去に手を焼く
     県下の巷には戦災や引揚で肉親を失った孤児が2千人を超える
     飢えの恐怖に追われ住居に困窮する市民に希望の光はない
  「長崎民友新聞」の西岡竹次郎が県知事に就任し夫人のハルが経営に携わる
     1959(昭和34)01/「長崎日日新聞」と合併、「長崎新聞」と改題。夕刊を復刊
  菓子製造業同和甘味(株)の村木覚一社長が自分たちで山を切り開く工事に着手
     風頭山中の八太郎岳に旅館を築くためで、バスが通る道をつくり、水道を引く
     1954(昭和29)09/27木造3階建、客室7室、広間1室の旅館矢太樓を造る。バスは木炭車バス
     名前の由来は県下に広く公募。地名(八太郎岳)がつく
  高島秋帆旧宅の土地が10数筆に分筆販売され旧態を失う
  原爆で被害を受けた大浦天主堂の修理工事が始まる
       1952(昭和27)06/30国庫補助を受け修復工事が完了修復される
  長大付属病院を興善町35番地へ移転。新興善小学校が復帰
  長崎純心女子短期大学に全国で唯一のカトリック系の幼稚園教員育成校として保育科を開設
     1975(昭和50)家野町の長崎純心女子短期大学が三ツ山町に移転
  西彼杵半島と針尾島の間の針尾瀬戸を結ぶ橋の架橋建設が国道でないため半額県費負担に
     「対日見返り資金」打ち切りと県の公共事業切り替えとなり猛運動が繰り広げられる
     1952(昭和27)「道路整備特別措置法」により工事費の15か年償還を期限とした有料道路に指定
     工事は続行されることに
  福田実が雲仙の新湯入口にみやげ品店をかまえる
     戦後の観光ブームで繁昌する
     雲仙観光写真の草分けともなり、絵葉書に目をつける
     のちタバコ、酒、薬、また真知子漬の発売本として土産品店の2軒を経営
     ゴルフ場にレストハウスを併営
     1968(昭和43)ホテル経営に踏み切りホテルニュー雲仙をオープン
  田中秀則が小浜で製塩工場をはじめる
     田中秀則は1918(大正07)生まれ、朝鮮羅南公立中学卒
     戦後、シベリアで4年間にわたり捕虜になるが1948(昭和23)無事生還
     1960(昭和35)旅館田中荘を創業
     1968(昭和43)鉄川工務店の施工で鉄筋3階建、大浴場をもつ新館を増設
  1912(明治45)に島原で料亭一冨士をはじめた本多キリが63才で他界。次の女将が旅館に切り替える
  島原の藤田チェリー豆が会社組織を変更。合資会社藤田チェリー豆本舗となる
     1959(昭和34)藤田安市が死去。藤田チェリー豆が2つに割れる
     安市の長男昌之が突然、藤田チェリー豆本舗と称して高島町に独立
     藤田貞行と貞行の長男実は藤田チェリー豆総本店に社名を変える
      もともとは藤田貞行が大正時代半ばに藤田チェリー豆を創業、のち弟の藤田安市を呼び寄せ兄弟が協力して経営
  築町市場内で蒲鉾の製造販売をする石橋蒲鉾店が新地町に移転
  本多新次郎が雲仙ことぶき旅館の経営を引き継ぐ。本多は1906(明治39)愛野生まれ
     ことぶき旅館は松永東が1934(昭和09)10月に創業。のち、県の教職員組合が経営
     のち先妻が死去、後添いを迎える
     1960(昭和35)本多が死去。夫人が経営を引き継ぐ
  長崎駅の輸送人員は709万4千人、貨物輸送は72万瓲
     1955(昭和30)輸送人員が589万7千人、貨物輸送はトラック輸送が急激に発達し57万9千瓲に減少
     1964(昭和39)輸送人員が271万4千人と半減
  この年、長崎市の赤痢発生状況188(死亡7)
  国際ゴルフ大会と国際テニス大会が雲仙で再開される

1952(昭和27)【昭和】 壬辰(みずのえたつ)

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