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〈明治時代(10)〉

1907(明治40)【明治】 丁未(ひのとひつじ)

  《総理大臣》[第12代]西園寺公望
  《知事》[第14代(官選)]荒川義太郎
  《市長》[第4代]横山寅一郎(→02/21)、[第5代]北川信従(06/03→)

  01/02神田今川橋の松屋呉服店(現在の松屋銀座)が初めて福袋を販売する。価格は2円、1日限定2千個
     【1908(明治41)?】
     同年松鶴マーク導入し3階建洋風に増築、東京で初の本格的デパートメントストアに
  02/14東洋日の出新聞が「縣内一階級の生活状態」の見出しで県内の被差別部落について概観を掲載
     戸数695、人口3990
  03/松本庫治、脇山啓次郎、納富甚吉の諸氏が鉄道、稲佐線の敷設を出願
  03/「ウオーア(自由)」と題する新聞が領事館からの干渉圧迫があり廃刊【1910(明治43)?】
     露字日刊新聞。ロシアの革命党員の手による
     ロシアの革命党はその運動の根拠地を自国領内に置くことは危険として、世界の諸地方に根拠地を構える
     シベリア、浦塩方面の同志は、日本長崎の地を選び新根拠地をつくる。長崎革命党の根拠となる
     ウォーアの主義はヴァデッキによる
  03/法律「癩予防ニ関スル件」が制定され放浪患者の隔離、収容が開始される
  03/佐世保駅に自動電話が開設される
     1908(明治41)03/21大波止に自働電話が開設される
  04/「帝国国防方針」が決定。攻勢国防論が採られ、仮想敵国の順は露・米・独・仏とされる
     ただし実際には、陸軍は露国を、海軍は米国を仮想敵視
     それぞれ平時25個師団編成(当時は17個師団編成)、8・8艦隊(戦艦8隻、装甲巡洋艦8隻)建設を目標とする
  04/敦賀起点の直行便が大阪商船により開設。ウラジオストク長崎線が大きく後退
  04/第2回九州商業会議所連合会が長崎で開催される
  07/01鉄道国有法に基づき国有化され帝国鉄道庁の所管となり九州鉄道が解散する
     距離442.8 哩(712.6粁)、買収価格1憶1885万6000円、機関車数256両、客車数391両、貨車数7148両
  07/09長崎市医師会臨時総会にて長崎市医師会を設立
     1912(明治45)05/18長崎市医師会(県医師会)事務所、金屋町2番戸から袋町39番地へ移転
     1925(大正14)05/30長崎市医師会(県医師会)事務所、中島川端の袋町23番地に移転
     1935(昭和10)09/13長崎市医師会館の移転新築落成式、袋町23番地から榎津町55番地に移る
     県医師会事務所も同会館内に移転
     1971(昭和46)12/18長崎市医師会が榎津町55番地から新地町に移転新築、落成
     名称を長崎市医師会医療センターと改める
     1975(昭和50)06/15長崎市医師会医療センター5階講堂の落成式が行なわれる
  07/26長崎医学専門学校に開設した精神病学教室の初代教授に石田昇が31才で就任
     東京帝国大学の医学部を卒業した石田は若い頃より文才にたける
     在学中には雄島濱太郎の名で「短編小説集」を執筆。ほかドン・キホーテの翻訳本を出版
     精神病学教室は、それまでの内科から独立して開講される
     1913(大正02)11/石田の構想を基に長崎県立病院(長崎医専の附属病院)に精神病室(定員14人)が落成
     臨床診療が石田を科長として開始
     のち教授在任中の長崎時代には「新撰催眠療法」「健全なる精神」などを執筆
     日本の精神医学の草創期に第一人者として活躍する
     初めて「Schizophrenie」の語を「分裂病」と訳す
     1917(大正06)12/文部省留学生としてアメリカのジョンズ・ホプキンス大学に2年間の予定で留学。春洋丸にて渡る
     当初は、それまでの呉門下生同様ドイツに留学予定。第一次世界大戦のため渡航できず、アメリカに変更される
     のち留学中に自らが精神を病む。妄想に犯されるようになる
     のち米国はボルチモアにある J.Hopkins大学 A.Meyer 教授のもとに留学して研究中に精神病を発病
     1918(大正07)12/21石田が被害妄想により見学先の病院で同僚の医師ウォルフを射殺
     事件当時、石田は心神耗弱、心神喪失など被害妄想からくる犯行で精神異常
     裁判では無期懲役刑(終身刑)の判決を受けてメリーランド刑務所に収容、服役する
     1925(大正14)病状悪化のため日本に送還される。かつて勤めていた松沢病院(旧巣鴨病院)に入院
     のち病状は回復することなく、むしろ統合失調症による精神荒廃が進むようになる
     1940(昭和15)05/31アメリカでかかっていた肺結核が悪化したため松沢病院内で死亡。享年64才
  07/北原白秋が与謝野鉄幹、平野万里、木下杢太郎、吉井勇を郷里の柳川に招く
     5人の詩人は博多、柳川、佐賀、唐津、佐世保、平戸、長崎、天草、島原、熊本、阿蘇をまわる
     旅行記はタイトル「五足の靴 五人づれ」で「東京二六新聞」に掲載
  08/17東京生まれの永井荷風が師匠の広津柳浪の葬儀のため客船で長崎入り
  09/13前島密が貴族院議員として神戸から日本郵船「山東丸」で長崎に入港
     09/15早稲田大学長崎校友会が西濱町の精洋亭で午餐会を催す
  09/30佐世保市浜田町の青木龍三郎出願の乗合自動車営業の許可が下りる
     米国製車両1両を購入。石橋〜大波止〜浦上の営業が開始
     11/02石橋〜大波止〜浦上の営業が開始
  09/佐世保市が海軍の水道水を貰い受ける形で水道管による市民への給水が始まる
     全国の自治体では10番目の早さ
  10/07渡御。「長崎くんち」が雨天のため日程変更10/11還御
     (1)…寄合町(本踊)、船津町(川船)、本博多町(本踊)、樺島町(太鼓山)、
     平戸町(本踊)、八幡町(本踊)、麹屋町(本踊)、万屋町(鯨潮吹き)、
     西浜町(本踊・龍船)、銀屋町(大名行列)、諏訪町(蛇踊)
  10/14北里柴三郎が3度目の来崎
  10/関西九州府県連合水産共進会が長崎で開催される
  12/30篠沢勇作が漢字タイプライターを発明し特許を取得
     邦文タイプ第1号となるが商品化はされず
  12/西浜町新地通り西浜町42番地の宮田博産場が廃業、落語音曲などの寄席「千鳥座」が開設
     1910(明治43)08/「千鳥座」がマス席を腰掛式に改築
     京都の横田商会(のち日活)が長崎初の常設活動写真館として「電気館」を開場。長崎の映画館のはじめ
     ユニバーサル・ユナイト、帝キネの作品を上映
     1945(昭和20)08/09原爆で無残な姿に
     1947(昭和22)09/松竹配給洋画系の「松竹国際映劇」が設立
     1966(昭和41)10/01東洋美装店が長崎松竹映画劇場跡に完成した地下1階から地上8階建の6階までをS東美と改称し開店
     7、8階は長崎松竹映画劇場
     2002(平成14)02/末長崎松竹映画劇場が閉館
  コンクリート製アーチ橋の梅香崎橋が銅座川に架かる(現湊公園西端付近)
  英国領事館が大浦6番館(赤煉瓦造瓦葺2階建)に移転、オーストリア、オランダの領事も代行
     上海の英国技師ウイリアム・コーワンの設計に基づき大浦町の後藤亀太郎が施工
     煉瓦造2階建、寄棟造、鉄板葺、各階正面と側面にベランダがあり中廊下式
     第二次世界大戦勃発と同時閉鎖
     1954(昭和29)09/公売にされる
     1955(昭和30)長崎市が1千万円で購入
     1957(昭和32)長崎市児童科学館に
  西浜町68番地の西洋料理店「清洋亭」を金子謙三郎が譲り受け「精洋亭」に改称
     のち相場に失敗し倒産
     1930(昭和05)06/代表藤木喜平が株式会社「精洋亭」を設立
  株式会社十八銀行がウラジオストクに松田銀行部(十八銀行支店)を開業
     ロシアは外国人法人による銀行支店の開設を認めず頭取松田庄三郎の個人名義とし実質的な支店
     [1916(大正05)第一次世界大戦に伴うルーブルの下落に災いされ朝鮮銀行に譲渡)]
     1914(大正03)株式会社十八銀行が長崎では初となる支店を開設する
     北支店(台場町・現大黒町、ホテルニュー長崎ビル1階)…尾上町に新魚市場開設のため
     稲佐支店(瀬ノ脇町・現丸尾町)…第一次世界大戦勃発により長崎三菱造船所が活況を呈したため
  第九十九国立銀行が佐世保銀行(のちの親和銀行)と改称。本店を佐世保に移転
     1910(明治43)04/佐世保銀行長崎支店を築町に開設
  大黒町の双信自動車商会が水産共進会開催を機に長崎で初めて乗り合い自動車を走らせる
     1908(明治41)01/採算が取れず廃業
  (株)口之津銀行が創業
     1919(大正08)株式会社十八銀行に合併される
  長崎で関西九州府県連合の水産共進会が催される
     本館が稲佐橋近くに建つ
  手作りの凧(ハタ)専門店「小川凧店」が●●町に創業
  組合員の漁獲物を集めて紺屋町に自営の共同販売所を開設
      材木町、万屋町市場の対立を更に深めることに
      新市場は立地条件が悪く漁業者は依然として問屋の仕込支配に縛られる
      やむなく旧市場(材木町・万屋町)に出荷を続ける
      出荷者の去就を巡る争いが加わり、三つ巴の確執が続く
     のち紺屋町共同販売所が経営不振に陥り、総額3万円余の負債を抱える
     1909(明治42)09/3市場の紛争を長崎県水産組合連合会(明治36年設立)が仲に入り決着
      3市場とは材木町・万屋町・紺屋町のこと
      3つを併合して新たに長崎魚類共同販売所を材木町河岸に設立
     県下西彼杵長崎水産組合の共同販売所業務が負債を引継ぎ旧市場は解散
      この頃、トロール漁業の台頭を引き金に荷捌き、輸送、市場移転、仕込支配等、全ての面で構造改革を迫られる
      新旧思想の衝突と反発が根強く、主導権争いが絡んでの複雑な展開となる
     販売所開設に際し旧3市場の問屋19店は販売取扱人(魚市場従業員)として個別に「セリ売り」をさせ報酬を支払う
      長崎魚類仲買(株)を併設し魚市場金融部に位置づけ、問屋が握る漁業仕込金の融資を代行問屋専属から切離す
      長崎魚類共同販売所と問屋は、雇従関係のまま尾上町に移転しても続く
  長崎県庁庁舎が老朽化のため立て替え
     1911(明治44)04/25山田七五郎の設計で壮麗なルネサンス様式で鉄骨造煉瓦仕上げ本館3階建の3代目の長崎県庁が落成
  上五島中道島の冷水地区に大崎八重神父、ペルー神父の指導により冷水教会が完成
     ペルー神父に大工として西洋建築技術をおそわり、その技術を認められた鉄川与助が設計施工
     長崎の教会建築の第1人者の鉄川与助にとって自身で設計施工した最初の教会建築となる記念すべき教会
  西山川の片淵町〜西山町、富貴楼前に鉄筋コンクリート橋の西山橋が架かる
     1919(大正08)改築
  元船町に木造2階建の長崎水上警察署が完成。地上2階、地下1階建
  佐賀県内に佐賀日日新聞発刊。ブロック紙へ
  諏訪公園内の西洋造2階建県会議事院、交親館(外賓接待所)が廃止
     1915(大正04)11/28御大典記念事業として跡地に長崎県立長崎図書館が建つ
  大村湾長島で西川藤吉、見瀬辰平が真円真珠の生産に成功
  万屋町に旅館中村屋が創業。初代経営者は中村ツネ
     1961(昭和36)●●●町に鉄筋5階建の新館を完成し移転開業
     高台にあり閑静、港内の眺望がよく新婚客向き家族連れやグループ向き旅館として堅実な経営を営む
  長崎で開催の第2回関西九州府県連合水産共進会に出展
     船大工町・糸岐千代蔵、本石灰町・安田謙吾、銀屋町・武藤倉吉、糸岐商店製作「銀製髪飾」
  倉場富三郎が長崎汽船漁業の専務取締役に就任
     1912(明治45)画家を雇い魚の写生を始める
     はじめ美校出身の小田紫星1人だったが萩原魚仙、女流の長谷川雪香、歌人の中村三郎が加わる
  県下の伝染病患者コレラ29(初発〜09/17)、ペスト25(〜11/27)、赤痢309(〜09/02)、腸チフス329、ジフテリア196
     長崎市内総児童数1万1千余うちトラホーム3879(35%強)、当局、その撲滅に苦悩
  西尾正左衛門(32)が東京本郷真砂町にて棕櫚製の亀の子束子(たわし)を発明
     南方繊維のパームに着眼し原材料として採用。西尾正左衛門商店として発足し発売。1個3銭
     1908(明治41)実用新案取得。亀の子束子、亀のマークの商標権を登録
     1915(大正04)好景気時代に売れ行きも商品名も順調に拡大したことで特許侵害者が続出
     1915(大正04)07/02特許として価値ありとの理由で新に特許権を付与。1個5銭に
     1918(大正07)特許侵害者があとを絶たず、新聞や婦人雑誌に広告をだし強くアピール
     商標の認識高揚に努め束子の包装を決断。1個10銭

1908(明治41)【明治】 戊申(つちのえさる)

  《総理大臣》[第12代]西園寺公望(→07/14)、[第13代]第2次桂太郎内閣(07/14→)
  《知事》[第14代(官選)]荒川義太郎
  《市長》[第5代]北川信従

  01/石橋〜大波止〜浦上の乗合自動車の採算が取れず廃業
  02/03永井隆、島根県松江市田野医院にて、父寛、母ツネとの間に出生
     1934(昭和09)08/森山緑と結婚
     1940(昭和15)長崎医科大学助教授、物理的療法科部長
     1944(昭和19)03/03医学博士授与
    ※1945(昭和20)06/白血病と判明、余命3年と診断
     白血球10万8千(正常値7千)赤血球300万(正常値500万)
    ※1945(昭和20)08/09原爆被災。右側頭動脈を切断してもなお救護活動を続ける
    ※1945(昭和20)08/10緑夫人は原爆により死亡
     自宅焼け跡から夫人の遺骨を拾って埋葬する
     1946(昭和21)01/28長崎医大教授に
     1946(昭和21)07/往診の帰り長崎駅頭で倒れる。以後、病床に伏す
    ※1948(昭和23)03/永井博士のため浦上の隣人たちが2畳一間の家を贈る
     この地は長いキリシタン弾圧に耐えた、浦上地区のキリスト教徒の惣頭の家「帳方屋敷」跡
     家を建てた人の心を忘れず、自分もこの愛に生きようと、聖書の「己の如く人を愛せよ」から「如己堂」に
     生涯を閉じるまで、書斎兼病室として2人の子供とともに住む
     1948(昭和23)08/長崎医大休職
    ※1948(昭和23)10/18ヘレン・ケラー女史如己堂を訪れ見舞いを受ける
    ※1948(昭和23)12/浦上を「花咲く丘」にしようと桜の苗木1千本を贈る
     浦上天主堂、山里小学校、城山小学校などに贈る
     1949(昭和24)05/27天皇陛下に拝謁
     1949(昭和24)05/30ローマ教皇特使ギルロイ枢機卿の見舞いを受ける
     1949(昭和24)09/30長崎医科大学教授退職
    ※1949(昭和24)12/03長崎市名誉市民の称号が贈られる
     1950(昭和25)05/14ローマ教皇特使フルステンベルグ大司教(駐日教皇特使)の見舞いを受ける
     教皇からロザリオを下詔
     1950(昭和25)06/01国会の表彰勧告に基づき吉田首相の表彰を受け天皇から銀盃一組を賜う
     1950(昭和25)08/松竹映画「長崎の鐘」如己堂で試写
     1950(昭和25)12/09教皇庁国務省長官モンティニ師教皇の意を体して書簡を送る
     1951(昭和26)02/03白血球39万にのぼる
     1951(昭和26)04/25右肩甲部に内出血 執筆ができなくなる
     1951(昭和26)04/30右大腿部に大量の内出血
    ※1951(昭和26)05/01長崎大学医学部付属病院に入院。午後09時50分逝去、享年46歳
     1951(昭和26)05/02遺体解剖される
     1951(昭和26)05/03教会葬が行なわれる
    ※1951(昭和26)05/14長崎市公葬、坂本町国際外人墓地入口付近に妻緑と葬られる
     墓石に、パウロ永井隆、マリナ永井緑と刻まれる
     1952(昭和27)12/25原爆後の子供たちに私財を投じて作られた読書室「うちらの本箱」を基に、
     ブラジル在留邦人の寄付金と長崎市費で永井図書館が建設
     1972(昭和47)04/崇高な精神と偉業を永く記念するために、永井図書館がと改称
     2000(平成12)04/永井記念館改築され長崎市永井隆記念館に。1階が展示室、2階が図書室となる
     【以降「※」のみを記載】
  03/05時事新報社が全国から「良家の淑女」を対象に写真を募集。その審査結果を公表する
     日本初のミスコンテスト
     審査員は、彫刻家の高村光雲、歌舞伎役者の中村歌右衛門、新派の河合武雄など各界の超一流が勢ぞろい
     女優・芸妓その他、容色を売る者は除外とされ、あくまで素人の未婚の女性が対象
     1等に選出されたのは小倉市長末弘直方の四女で学習院女子部3年に在学中のヒロ子(16)
     コンテスト参加は学習院で大問題となり、院長の乃木大将は激怒。彼女は退学処分に
     のち乃木は末弘ヒロ子の縁談をまとめ仲人をつとめる
  03/21大波止に自働電話が開設される
     1925(大正14)10/01自働電話を公衆電話と改称
  03/22豊多摩郡大久保村で銭湯帰りの女性(27)が殺害。手ぬぐいを口に押し込まれた状態で発見される
     03/31以前、女湯の覗き行為をしていた「出歯の亀吉」こと植木職人の池田亀太郎(35)が取り調べられる
     04/04強姦殺人の犯人として逮捕される
     のち犯行を自供するも公判では無実を主張
     地裁判決は無期懲役に。冤罪と主張する弁護団は控訴審を争うが判決は同様
     のち再度控訴するも大審院で上告が棄却。池田は服役することに
     1913(大正02)わずか5年で自由の身となる。冤罪の可能性あり
  03/長崎県立長崎中学校が長崎市福富町に移転
     旧長崎県中学校は1884(明治17)04/01創立
     1913(大正02)07/22鳴滝校舎が新築落成し移転
  04/01長崎女児磨屋小学校(磨屋小学校)が磨屋尋常小学校と改称
     1927(昭和02)03/15鉄筋コンクリート3階建校舎が改築竣工
  04/01佐世保港内火災を起こし沈没した戦艦「三笠」が第1艦隊に旗艦として復帰、編入
  04/01長崎県師範学校女子部が立山の県立長崎中学校跡地に移転。長崎県女子師範学校に改められる
     1912(大正01)10/14馬場郷の長崎県師範学校から出火。寄宿舎の一部を残して焼失
  04/01東山町の大浦尋常小学校が北大浦尋常小学校と改称
     1927(昭和02)03/校舎コンクリート3階建てが竣工
  04/01上田町の大浦女児尋常小学校が南大浦尋常小学校と改称し義務教育6か年制を実施
     1921(大正10)04/09南大浦小学校と改称
  04/01義務年限6か年となり鎮鼎高等小学校が浪平尋常高等小学校と改称
     1910(明治43)03/31高等科を大浦高等小学校へ移し浪平尋常小学校と改称
  04/01島嶼に町村制が施行され対馬島に下県郡ができる
     下県郡に与良、厳原、佐須、鶏知、竹敷、船越、仁位、奴加岳の8つの村ができる
     1912(大正01)04/01与良村が豆酘村と久田村に分割される
     1919(大正08)04/01厳原村に町制が敷かれ厳原町となる
     1932(昭和07)04/01竹敷村が鶏知村に編入される
     1940(昭和15)10/17鶏知村に町制が敷かれ鶏知町となる
     1955(昭和30)03/01鶏知町と船越村が合併し美津島町となる
     1955(昭和30)03/20仁位村と奴加岳村が合併し豊玉村となる
     1956(昭和31)09/30厳原町と久田村、豆酘村、佐須村が合併し厳原町となる
     1975(昭和50)04/01豊玉村に町制が敷かれ豊玉町となる
     2004(平成16)03/01下県郡の厳原町、美津島町、豊玉町と上県郡の峰町、上県町、上対馬町が合併し対馬市となる
  04/01島嶼に町村制が施行され対馬島に上県郡ができる
     上県郡に峰、仁田、琴、佐須奈、豊崎の5つの村ができる
     1948(昭和23)12/01豊崎村に町制が敷かれ豊崎町となる
     1955(昭和30)01/01豊崎町と琴村が合併し上対馬町となる
     1955(昭和30)04/15仁田村と佐須奈村が合併し上県町となる
     1976(昭和51)04/01峰村に町制が敷かれ峰町となる
     2004(平成16)03/01下県郡の厳原町、美津島町、豊玉町と上県郡の峰町、上県町、上対馬町が合併し対馬市となる
  04/05東大眼科教授の河本重次郎が来崎
  04/16長崎〜門司の急行に食堂車が連結
  04/22三菱造船所でわが国初の本格タービン客船天洋丸(東洋汽船)が完成
     全長168米、全幅19米、1万3454瓲、平均速力約20.608節、船価約4千万円
     大きさ、速力、設備、機関形式など、あらゆる新機軸を折り込んだ空前の優秀客船
     パーソンススチームタービン1万9千馬力を採用、燃料に初めて重油を使用
     初めて短波無線送受信装置を採用
     建造費は工賃のみを三菱が請け負い、材料は東洋汽船が英国から支給
     客室設備は特別室をはじめ、ロンジ・喫煙室・読書室・食堂など豪華を極める
     桑港航路に就航
     1908(明治41)11/21三菱造船所で地洋丸が完成
     1911(明治44)08/15三菱造船所で春洋丸が完成
     天洋丸、地洋丸、春洋丸の3姉妹船は大きさ、速力、設備の面で世界有数の大客船
     1926(大正15)03/10桑港航路が日本郵船に移譲。天洋丸、春洋丸も移籍
  04/28初のブラジル移民、158家族783人と自由渡航者10人を乗せた東洋汽船会社「笠戸丸」が神戸を出航
     06/18第1陣がサントス港に入港
  04/13才の伊藤野枝が福岡の周船寺高等小学校3年終了後、長崎へ
     口減らしのため長崎に住む叔母キチのもとへ。西山女児高等小学校に転校
     11/26叔父の代準介が事業をはじめるため上京
     伊藤野枝は今宿の実家に戻り周船寺高等小学校に転校
      1923(大正12)09/16大杉栄、大杉の甥・橘宗一とともに憲兵甘粕正彦大尉に連れ去られる
     憲兵構内で扼殺されて死亡。遺体は畳表で巻かれ、古井戸に投げ捨てられたる。伊藤野枝享年28才
     関東大震災の混乱を利用した、白色テロル(為政者が反政府運動や革命運動に対して行なう激しい弾圧)の犠牲に
  04/長崎市立飽浦尋常小学校の立神分教場が長崎市立立神尋常小学校として独立
  04/仁田小学校が改正小学校令を実施。5年生2個学級を増設
     1909(明治42)04/6年生2個学級を増設
  05/05島原鉄道(高来鉄道)株式会社創立
     創立総会を島原町快光院で開く。専務取締役に植木元太郎、木下吉之丞が就任
  05/フランス領事館が閉館しロシヤ領事館に委託
     1920(大正09)三度目の開館
     ロシヤ革命露国壊滅後ロシヤ領事館は閉鎖
  05/五島第2代主任司祭ペルー神父が福江島の奥浦に堂崎天主堂を完成
     赤煉瓦造りゴシック様式を持つ落ち着いた安定感があり、のち五島各地に建てられる天主堂のモデルに
  春下り松43〜45番地の「長崎ホテル」が閉業
     1914(大正03)第一次世界大戦で経済界は好況に恵まれ、邦人により再開。永続しなかった
  07/25池田菊苗が「グルタミン酸塩を主要成分とせる調味料製造法」の特許を取得
     08/池田菊苗は鈴木三郎助に「グルタミン酸ナトリウム」の事業化、商品化を依頼する
     のち安全性の問題を考慮し内務省の東京衛生試験所に無害評価試験を依頼
     新しい調味料ゆえ、万が一有害であれば人体に影響を及ぼす可能性が大きいと万全を期す
     10/13試験の結果、評価を得る
     「遂ケシ試験ノ成績ニ據レハ本品ハ之ヲ食物ノ調味料ニ供スレトモ衛生上無害ナリトス」
     のち商品化に成功
     1909(明治42)05/20味の素」の一般販売を開始。瓶入り3品種
  西尾正左衛門が発明した棕櫚製の亀の子束子(たわし)が実用新案を取得
     亀の子束子、亀のマークの商標権を登録
     1915(大正04)好景気時代に売れ行きも商品名も順調に拡大したことで特許侵害者が続出
  08/09初代会頭松田源五郎翁の銅像が諏訪公園の丸馬場に建立
     荒川知事、北川市長、永見商業会議所会頭ら官財界の知名士1200余人が参列して盛大に挙行
     第二次世界大戦中金属供出のため撤去
     戦後長崎商工会議所と十八銀行が中心になり再建が進められる
     1963(昭和38)04/05長崎市出身の彫刻家・日展審査員の富永直樹の彫塑により復元
  08/川添硝子が台湾、朝鮮、満州方面へ販路を拡張
  10/09渡御。「長崎くんち」が雨天のため日程変更10/11還御
     (2)…丸山町(本踊・段尻)、榎津町(川船)、西古川町(角力踊)、本紙屋町(本踊)、
     新大工町(剣舞・曳段尻)、磨屋町(本踊)、新橋町(本踊)、出来鍛冶屋町(本踊)、
     大村町(本踊)、本五島町(本踊)、今町(本踊)、金屋町(獅子踊)
  11/21三菱造船所で地洋丸(東洋汽船)が完成
     1911(明治44)08/15三菱造船所で春洋丸(東洋汽船)が完成
     天洋丸、地洋丸、春洋丸の3姉妹船は大きさ、速力、設備の面で世界有数の大客船
     1916(大正05)03/31地洋丸がニラより香港に向け航海
     途中、担杆(タンカン)島北東端で座礁、のちに解体
  11/22アメリカの大リーグ選抜チームと早稲田大学野球部の試合で大隈重信が始球式をつとめる
     投球はストライクゾーンから大きくはずれる
     早稲田の創設者、総長、政治家である大隈の投球を早稲田大学の1番打者はわざと空振り
     のち1番打者は投手役に敬意を表すため、始球式の投球を空振りすることが慣例に
  12/市内の人力車数がこれまでの最高1250両となる
  新坂本町外人墓地で初の埋葬が行なわれる
     新坂本外人墓地の埋葬者数(117)
     イギリス(31)、アメリカ(20)、日本(16)、イタリア(9)、オランダ(8)、
     ドイツ(8)、フランス(5)、ロシア(5)、オーストリア(3)、ポーランド(3)、
     ポルトガル(2)、スウェーデン(2)、デンマーク(2)、不明(3)
  新町6番地の新町高等小学校が新町尋常小学校と改称
  大黒町に寄席「大黒座」が完成。収容1578人
     大正期宮古座と改名
  「私立長崎盲唖学校」の新校舎が桜馬場町に落成
     1919(大正08)「長崎盲唖学校」と改称
  桜町1番地に煉瓦造2階建の長崎税務監督局が建つ
     1919(大正08)11/15長崎商業会議所が大村町から桜町1番地の内外を改装した長崎税務監督局跡に移転
     1950(昭和25)03/11全焼
     1964(昭和39)03/22国道34号拡張のため解体
  市内の伝染病患者175(腸チフス77、ジフテリア47、痘瘡26、赤痢21、猖紅熱4)
  初代瀬頭弥八(31)が肥前塩田から諫早にきて黎明酒造をたちあげる
     もともと瀬頭家は酒造業として栄え、本家は薄雪をつくり、新宅は東長を産して知られる
     のち諫早が大水害に見舞われる
     血のにじむ思いで造った酒の5尺桶が何本も洪水に流される
     酒の5尺桶は一升瓶にして2300本くらいの量になる
  本石灰町と船大工町の間を流れる仁田川をまたぐ丸山山ノ口の小橋「思切橋」が鉄橋となる
     のち幅7米のセメント踏面で橋面は土砂で覆われる
  田中穂積作曲の「美しき天然」に別の歌詞がのる
     やまと新聞の記者八雲山人の詞「夜半の追想(男三郎の歌)」のメロディーに使われる
     演歌師の添田唖蝉坊の詞「袖しぐれ(野口曾恵子の歌)」のメロディーに使われる
     「美しき天然」の作曲者・田中穂積は佐世保鎮守府の軍楽隊楽長。佐世保女学校の音楽教師の委嘱をうけ教材用に作曲
     西海の自然にあう武島羽衣の詩をのせ教材に使うと全国にひろがり「天然の美」の別名も
     1940(昭和15)01/コロムビアから二葉あき子の歌により「天然の美(30467)」が再発される
  三菱合資会社三菱造船所が国産初の舶用蒸気タービン(9千馬力)を製作
  ツシマヤマネコの生息が発表
     1949(昭和24)非狩猟鳥獣に指定され狩猟が禁止となる
     1971(昭和46)国の天然記念物に指定される
     1991(平成03)環境庁の「レッドデータブック」に「絶滅危惧」として記載
     1993(平成05)「ツシマヤマネコを守る会」が結成
     1994(平成06)種の保存法[1992(平成04)]に基づき「国内希少野生動植物種」に指定される
     2000(平成12)04/福岡市動物園において初の雌の仔ネコが誕生
  三菱合資会社三菱造船所がイギリスパーソンス社との技術提携により国産蒸気タービンを制作
     日本初の国産陸用蒸気タービン(発電用タービン)第1号機で出力500キロワットで中央発電所用に使用
     1920(大正09)使用が終わる
  小樽に海員寄宿所を開設。船員とその家族の診療を始める
     1944(昭和19)04/01日本海員掖済会小樽病院として開設する。25床
  米国のマルコム・アンダーソンらの東アジア動物探査の結果、ツシマヤマネコの生息が発表
     肉がおいしく狩猟の対象となる
     戦後広葉樹林の伐採がすすみ生息数が激減
     1971(昭和46)国の天然記念物に指定される
  西川藤吉が大串出身の渡辺理一と共同で大串村長島に長島真珠養殖所を設立
     西川の発明による真珠形成法の試験をはじめる
  ペルー神父のもと五島福江島の堂崎地区に煉瓦造りの堂崎教会が完成
     増えていく信徒のためにフランスからの援助金を投じる
     設計はペルー神父、福江の大工の棟梁野原与吉が施工
     このとき、のち教会建築の第1人者となる鉄川与助が野原与吉の下で修業
     日本大工の野原棟梁を指導するが、その下にいた鉄川与助が教会建築を学ぶ
  上五島野崎島の野首地区で18戸の信徒が結束し本格的な煉瓦造り平屋(140平方米)の野首教会が完成
     鉄川与助による初めての煉瓦造りで鐘塔は持たない。正面前面を玄関とする
     正面柱頭の頂部などには城壁の物見櫓のような装飾物、正面両脇の頂部には百合の紋章に似た装飾物を持つ
     1971(昭和46)野首地区の住人が全員移住し野崎島が無人島に
     のち野首教会が荒廃する。小値賀町が廃校を利用して研修施設をつくり教会を整備
  トーマス・ブレイク・グラバーに日本政府から外国人には破格の勲二等旭日重光章が贈られ、功績をたたえる
     1911(明治44)慢性腎炎の発作に襲われ息を引きとる
     東京の教会でしめやかな葬儀が執りおこなわれ、遺体は火葬に付され長崎へ。新坂本墓地5番の2に埋葬
     妻ツルの遺骨の一部がグラバーの墓へ分骨

1909(明治42)【明治】 己酉(つちのととり)

  《総理大臣》[第13代]第2次桂太郎内閣
  《知事》[第14代(官選)]荒川義太郎
  《市長》[第5代]北川信従

  01/長崎商業会議所の第6代会頭に橋本辰二郎が就任
     1919(大正08)11/桜町1番地に所屋(旧長崎税務監督局)を買収。大村町の旧所屋から移転
  02/20長崎県医師会総会が開催。県医師会設立の件を建議し可決。長崎県医師会が設立される
     1912(明治45)05/18長崎県医師会と市医師会の事務所、金屋町2番戸から袋町39番地へ移転
  02/大浦31番地の「ホテル・デ・フランス」が営業不振により閉業
     正式名称はHotel de Franceでフランス人のJ.Sirotが経営【孔子廟の北隣の大浦33番A】
     建物は煉瓦造りスタッコ仕上げの3階建で正面側には各階ともアーチ型列柱廊形式のヴェランダを取り付けた南欧風デザイン
     1963(昭和38)跡地に長崎逓信病院ができる
  02/露字新聞「ウオリア」が創刊
     のち1年足らずで廃刊
  03/21日本で最初の「マラソン」大会が開催される
     コースは大阪〜神戸の約32粁。主催は大坂毎日新聞社で20人が出場する
     優勝は岡山の軍人、金子長之助。タイムは2時間10分54秒
  04/仁田小学校が6年生2個学級を増設
     1921(大正10)03/2階建て4教室を増設し高等科を併設
  04/長崎商業会議所主催による長崎市製産品評会が開催される
  05/20味の素」の一般販売を開始。瓶入り3品種
  06/02両国国技館の開館式が行なわれる
     設計は辰野金吾と教え子の葛西萬司。「大鉄傘」の愛称は当初のデザインに由来
     工事費用は27万円。枡席約1千席を含む1万3千人が収容可能
     それまでの小屋掛け時代の3倍以上の収容能力となる。建物の内径は62米、中央の高さは25米
     国技館の名称は開館式の披露文にヒントを得て、年寄の3代尾車親方(大関:大戸平廣吉)が提案
     披露文は作家の江見水蔭が執筆した開館式の披露文で相撲節により相撲は国技であるという内容
     会長を板垣退助がつとめる命名委員会で了承される
  06/18本石灰町34番地に寄席「満知多座」が開設
     1916(大正05)05/15「三七三座」に改称
     1919(大正08)05/03「南座」に改称
     05/04こけら落とし興行は大阪歌舞伎の片岡仁左衛門一座。演し物は長崎ゆかりの松平長七郎など
     長七郎役の片岡我童が田上の長七郎の墓を参詣
     1942(昭和17)10/17大阪梅田映画劇場直営の演劇興行「長崎宝塚劇場」となる
     のち洋画常設館となる
     2005(平成17)02/18閉館となる
  06/23午前10時、日暮里の妾宅にいたスリの親分仕立屋銀次と子分8人が逮捕される
     子分が前新潟県知事の持つ伊藤博文から贈られた銀時計を電車内で盗んだことから発覚
  09/材木町・万屋町・紺屋町の3市場の紛争を長崎県水産組合連合会(明治36年設立)が仲に入り決着
      3つを併合して新たに長崎魚類共同販売所を材木町河岸に設立
     県下西彼杵長崎水産組合の共同販売所業務が負債を引継ぎ旧市場は解散
      この頃、トロール漁業の台頭を引き金に荷捌き、輸送、市場移転、仕込支配等、全ての面で構造改革を迫られる
      新旧思想の衝突と反発が根強く、主導権争いが絡んでの複雑な展開となる
     販売所開設に際し旧3市場の問屋19店は販売取扱人(魚市場従業員)として個別に「セリ売り」をさせ報酬を支払う
      長崎魚類仲買(株)を併設し魚市場金融部に位置づけ、問屋が握る漁業仕込金の融資を代行問屋専属から切離す
      長崎魚類共同販売所と問屋は、雇従関係のまま尾上町に移転しても続く
  09/長崎県警察部による活動写真劇の取締に関して台本の検閲が行なわれる
  10/02飽の浦町に劇場「亀岡座」開場
     1913(大正02)12/07要町(現NIB長崎国際テレビ所在地)に移転、「永久座」に改名
     1945(昭和20)08/廃座
  10/26伊藤博文(枢密院議長)が満州・朝鮮問題でロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフとの会談のためハルビンに赴く
     午前9時、ハルビン駅に到着し、車内でココツェフの挨拶を受ける
     駅ホームでロシア兵の閲兵を受けていた伊藤に群衆を装って近づいた安重根が放つ銃弾3発が命中
     伊藤は約30分後に死亡
     のち大韓帝国の民族運動家安重根はその場でロシア官憲に逮捕され2日間拘留
     日本の司法当局に引き渡される
     11/04日比谷公園で国葬が営まれる。享年69
     1910(明治43)03/26伊藤博文を暗殺した安重根が旅順刑務所内にて処刑される
  10/「長崎くんち」(3)…寄合町(本踊)、油屋町(本踊)、下筑後町(獅子踊)、
     今籠町(本踊)、今鍛冶屋町(本踊)、西中町(川船)、東中町(聯隊調練)、
     豊後町(本踊)、本下町(本踊・曳段尻)、外浦町(本踊)、萬歳町(本踊)
  11/11日本でカラットの単位が採用される
     カラットの語源は「イナゴ豆」のギリシャ語「ケレチオン」
     カラット・匁・トロイオンスはそれぞれ、宝石・真珠・金貨の法定計量単位
     1カラット=0.2グラム ダイヤモンドや宝石の重さの単位
     1匁=3.75グラム 真珠の重さの単位、真珠の取引の時に使われる
     1トロイオンス=31.1035グラム 金貨の重さの単位
  12/09フランス武官ル・プリウール海軍中尉が相原四郎海軍大尉の協力を得て竹の骨組み複葉グライダー製作
     上野公園にてグライダーが自動車に牽引され40米浮揚する。公認飛行には不充分
     12/26上野公園池之端の広場にてル・プリウールは自動車に牽引された複葉グライダー第2号機に搭乗
     高度10米浮揚、そのまま130米滑空を続ける【約20米?】
     空気より重い物体の初飛行として公認されるのに充分
     相原も飛行し日本の空を飛んだ最初の日本人となるが、不忍池のまん中に墜落
  12/29アメリカ観光団650人を乗せたクリーブランド号(1万9千瓲)が長崎に入港
     各戸に日米国旗を掲げ提灯や打上げ花火で歓迎。数100人を超す外国観光団来訪は初めて
     市は歓迎に一般市民より募った寄付金で出師橋近くに歓迎門をつくる
     一行は長崎公園丸馬場に招待され、丸山芸者の踊りを披露、園内武徳殿で柔剣道の試合を観覧
     12/31夕神戸に向けて出港
  文具店を営む石丸國吉が忠兵衛を養子に迎る
     三菱造船所にも出入りが許され、舶来の事務用品を多量に扱うようになる
     1933(昭和08)03/2代目石丸忠兵衛が清水建設株式会社に店舗建築を依頼
     1階が店舗、2階が倉庫、3階が応接室など。入口両側のショーウインドに施されたステンドグラスが好評
     長崎でも2番目の鉄筋コンクリート造り3階建店舗を新築。話題を呼ぶ
     当時、浜市商店街の中で3階建は林田洋傘店と二枝鼈甲店(ともに木造)だけ
  三菱合資会社三菱造船所が主機械など重量物を搭載するため150瓲クレーンを飽の浦に建設
  油屋橋(石灰橋)と称していた油屋町〜本石灰町の木橋が水害で流失。鉄橋に架け替える
     1923(大正12)鉄筋コンクリート橋に架け替える
  東検番が創立
  熊本県内で熊本日日新聞が発刊される
  三池築港の完成により口之津港が三池石炭海外輸出港(石炭積出港)の役割を終える
  ド・ロ神父が建てた出津の聖堂の正面玄関部を増築
     四角の鐘塔を建て鐘を吊るしフランスから取り寄せたマリア像を塔上に据える
     戦時中鐘が供出される
  市内の伝染病患者234(赤痢129、ジフテリア65、腸チフス38、猖紅熱2)
     市内小学校児童のトラホーム罹患率、立神小65.93%、銭座小60.49%
  三越少年音楽隊が成立。民間の交響楽団として活動を開始
     三越は音楽教育や演奏を主目的せず、西洋的文明と近未来の繁栄のイメージ戦略の中で少年音楽隊を発足
     のち音楽界の重鎮となる人材を次々と育て、交響楽運動において大きな役割を担うことに
     三越少年音楽隊はジンタ(市中音楽隊)衰退後の代表的な民間の演奏団体として民衆に親しまれる
     1925(大正14)三越少年音楽隊が解散する

1909(明治42)頃

  「長崎新聞」がやや反政友会派の色彩を帯びるようになる
     1919(大正08)憲政派同志で長崎新聞同志会社を組織。経営することになる

1910(明治43)【明治】 庚戌(かのえいぬ)

  《総理大臣》[第13代]第2次桂太郎内閣
  《知事》[第14代(官選)]荒川義太郎(→09/10)、[第15代(官選)]犬塚勝太郎(09/10→)
  《市長》[第5代]北川信従

  03/26伊藤博文を暗殺した安重根が旅順刑務所内にて処刑される
  03/31浪平尋常高等小学校の高等科を大浦高等小学校へ移し浪平尋常小学校と改称
     1924(大正13)04/01高等科を併置し浪平尋常高等小学校と改称
  04/佐世保銀行(のちの親和銀行)長崎支店を築町に開設
     1922(大正11)08/本紺屋町に移転
  04/第27回ドイツ内科学会でエールリッヒが新しい砒素化合物(606号)の梅毒に対する化学療法の総論を発表
     秦佐八郎は動物実験を、シライバーとホッペは梅毒患者への臨床治験の成績を共同して発表
     のち医学界に大きな反響を呼び起こす
     のちドイツの製薬会社へキスト社がこの薬をサルバルサン(ラテン語で「救う」)と名づけ、製造販売する
     1913(大正02)第1次世界大戦にともないドイツから日本への輸入が途絶。国産サルバルサンの製造を開始
     のちサルバルサンの開発により梅毒の根本療法が確立される
     第2次世界大戦後ペニシリンをはじめとする各種抗生物質が開発されるまで、梅毒の治療の中心に
  06/玉江橋に接近し交通上存置の要が少なくなった新川口橋が撤去
     新川口橋はアメリカから輸入された、錬鉄のピン結合のプラットトラス橋
     木鉄混交橋の旧出島橋が老朽化したために、この新川口橋が出島橋に移設される
  07/長崎勧業協会が設立
  08/16東京京橋で大日本自動製造合資会社が初の貸し自動車業をはじめる【08/15?】
      料金は運転手付き1日30円、半日15円。1時間5円、1時間増す事に3円50銭の超過料金
  08/22日韓併合に関する条約が調印、朝鮮が日本領となる。朝鮮総督府を設置
  08/西浜町新地通り西浜町42番地の落語音曲などの寄席「千鳥座」がマス席を腰掛式に改築
     京都の横田商会(のち日活)が長崎初の常設活動写真館として「電気館」を開場。長崎の映画館のはじめ
     ユニバーサル・ユナイト、帝キネの作品を上映
     1945(昭和20)08/09原爆で無残な姿に
  夏/編集上のミスで「長崎新報」が不敬事件に問われる
     連載ものの「昔の女」「今の女」に不敬罪に触れる内容のものがあり発行責任者は懲役6か月の刑を受ける
     長期発行停止の処分を受け更生策が立てられる
     1911(明治44)03/11更生策ののち「長崎日日新聞」と改題
     【03/18?】
  09/08国産軟式飛行船ので50馬力のエンジンをつけた山田式1号飛行船が大崎から目黒まで試験自由飛行に成功
     先覚者山田猪三郎は英人スペンサーが東京上野不忍池畔で飛行船を公開したのに刺激される
  09/19で丸馬場上の高台の東照宮神社が諏訪神社の境内神社から諏訪神社の末社となる
  09/25長崎交通船(株)が設立。大波止〜水ノ浦、元船〜旭町に運航を開始
     片岡茂八(大波止〜飽ノ浦)と小西繁太(大波止〜瀬ノ脇)の船の競争が激化、経営難に陥り合併
     1924(大正13)04/01長崎交通船(株)の営業権を長崎市へ移管
  10/「長崎くんち」(4)…丸山町(本踊・段尻)、興善町(小薩摩)、今下町(本踊)、
     築町(本踊)、東上町(川船)、馬町(本踊)、大黒町(唐人船)、八坂町(川船)、
     東浜町(本踊)、東古川町(川船)、本古川町(軍艦)、銅座町(本踊)
     *神輿守…稲田、十人、館内、中の平、中野、住江町
  11/06東京上野の池之端に日本初の木造アパート「上野倶楽部」が完成する。5階建て70室
     上野公園に隣接した花園町1丁目に建ち、洋風の外観を持つ賃貸アパート
     洗面、浴槽、電話は共同。入浴時は居住者が実費で負担。居住者は主に官公吏、会社員、教師など
     独身者はおらず、日本人だけでなくロシア人やフランス人も
  11/19秋田出身の白瀬矗が南極探検のため出港
     27人とともに木造帆船「開南丸」(204瓲)に乗りこむ
     1912(明治45)01/16南極大陸に上陸、その地点を「開南湾」と命名する
     のち開南湾は上陸、探検に不向きなためロス棚氷の鯨湾に上陸、根拠地を設営する
     01/205人の突進隊は犬ぞりで内陸極地へ向けて出発
     1/28230粁進み、悪天候と食料不足で「使命は死よりも重し」と極点到達を断念、生還の道を選ぶ
     南緯80度5分、西経165度37分の地点に日章旗を掲げ、標識を埋め大和雪原(やまとゆきはら)と命名
     隊員一同「万歳万歳万々歳」と唱和する。同地には「南極探検同情者芳名簿」をうめる
     1912(明治45)05/12南極探検を終えた白瀬矗が帰途中、長崎に寄港
     福島屋旅館で休憩ののち、横浜へ向かう
  12/19代々木練兵場で徳川好敏陸軍大尉と日野熊蔵陸軍歩兵大尉が軍公式の飛行試験を行なう
     10万人あまりの大観衆が見守るなか日本国内で初めて飛行機で空を飛ぶ
     徳川大尉がフランス製のアンリ・ファルマン複葉機を操縦し距離約3千米、高度70米、滞空時間4分の飛行に成功
     日野大尉もドイツ製のグラーデ単葉機を操縦して距離約1千米、高度20米、滞空時間1分20秒の飛行に成功
  12/創業者 村木清三郎により村木汽船部として海運業を興す
     1929(昭和04)12/村木汽船部が野母商船株式会社と改組(資本金10万円)
  新聞「鎮西日報」(旧「長崎新聞」「西海新聞」)が廃刊
  カステラの文明堂が店舗を馬町に移転
     1910(大正09)今町54番地に今町店を開設。料理屋金鍋すき焼店を開業
  本行寺が開創
  浪ノ平の伊都岐島神社が以前から祀られていた琴平神社に合祀
  佐世保日日新聞が発刊
  1885(明治18)生まれの本多健蔵が小浜に旅館福徳屋を創業
     のち2代目がビルマで戦死
     1959(昭和34)初代健蔵が引退。3代目の本多洋己[1936(昭和11)生まれ、口加高校卒]が引き継ぐ
     1967(昭和42)11/増築。モーターボートを設備
  横浜元町に「不二家」が開店
  エールリッヒと秦佐八郎により梅毒の化学療法薬のサルバルサンが見いだされる
     それまで世界中で数百万の人々の人生を蹂躙し、徳川家康の息子2人もこれを患い命を落とす
  長崎交通船(株)が小瀬戸〜福田〜三重〜式見へ航路を延長
  (初発〜10/01)県下の赤痢患者1086(死亡236)

1909〜1910(明治42〜43)

  中小島町76番地の西洋料理店「福屋」が閉店
     のち和洋料理屋「凰鳴館」に
     のち福屋ホテルに
     1979(昭和54)11/解体、現中小島公園

1911(明治44)【明治】 辛亥(かのとい)

  《総理大臣》[第13代]第2次桂太郎内閣(→08/30)、[第14代]第2次西園寺公望内閣(08/30→)
  《知事》[第15代(官選)]犬塚勝太郎(→09/04)、[第16代(官選)]安藤謙介(09/04→)
  《市長》[第5代]北川信従

  02/10東京有楽町にルネサンス風5階建ての帝国劇場が完成
     客席はすべて椅子でオーケストラボックスがある初めての西洋式演劇劇場
     03/01開館
     のち「今日は帝劇、明日は三越」という流行語が生まれる
  02/27深川〜肥後の五島航路と西彼杵〜天草沿岸の三山汽船が合併。九州汽船となる
     長崎、熊本にまたがる定期航路を運営
     1927(昭和02)経営に行き詰まり原萬一郎が引き受け九州商船と称号を変え再発足
  02/急逝したフレノー神父の業を継いでラゲ神父が浦上天主堂主任司祭に命じられる
     後任のベルギー人のラゲ神父は、天主堂を早く完成させるために、屋根を木造瓦ぶきに設計を変更。資金難は続く
     1913(大正02)宣教師ラゲにより再び竣工
  03/11「長崎新報」が更生策ののち「長崎日日新聞」と改題
     不敬事件に問われた「長崎新報」が長期発行停止の処分を受け更生策が立てられていた
     【03/18?】
     社長は城野威臣(元県会議長)から則元由庸へと続く
     1912(大正01)10/01津田式輪転機を設備し輪転機刷りを発行
     1924(大正13)04/色刷り輪転機を採用。特別な記事や特別広告などに利用し読者の注目をひく
     のち1924(大正13)11/24創刊の民政党系「長崎民友新聞」(政友会色)と張合うようになる
     1941(昭和16)東京読売新聞に譲渡
     社長は読売本社から小林光政、武藤具三らが後を継ぐ
     1942(昭和17)04/01政府の強権により「長崎日報」に統合される
     「長崎民友新聞」「軍港新聞」「島原新聞」とともに同時に統合
     政府は1940(昭和15)に東郷内閣の国策遂行のため通信、報道の統制、統合を強化
     1県1紙の体制がすすめられる
     長崎県では「長崎日日」と「長崎民友」が共同で統合に抵抗、全国で最後まで残っていた
     合併反対派の「長崎民友新聞」の幹部全員が拘束され、その留守中のこと
     社長は「長崎日日新聞」の武藤具三
  03/三山汽船部と肥後汽船会社が合併、玉江町に九州汽船が設立。天草沿岸、甑島方面に運航
     所有船34隻、航路20余線
  03/報時観測所を大浦の鍋冠山中腹に設置
  04/01島原鉄道が機関車4輌、4軸客車10輌、無蓋貨車7輌とともに1号機関車を鉄道院より払い下げ
     1号機関車は英国バルカン・ファンドリー社製作で重量23.47瓲、全長7.4米
     1972(明治05)新橋〜横浜を走った日本最初の実用蒸気機関車
     のち1号機関車は貴重な機関車として保存運動が始まる
     1930(昭和05)07/03鉄道省に返還・保存されることになり、島原駅構内で惜別式が盛大に行なわれる
     「惜別感無量 昭和五年六月 為記念 島鐵社長 植木元太郎識」
     感謝の念を込めた社長自筆文字の刻まれた銘板が1号機関車側水槽につく
  04/01日本初の陸軍飛行場として埼玉県入間郡所沢町に完成。所沢飛行場が開設される
  04/03東京日本橋の架け替え工事が完了し、開通式を挙行
     木橋から石造(花崗岩製)の2連アーチ橋となる。総工費52万円
  04/09午前11時35分、東京の吉原で大火が起こる
     吉原江戸町2の20貸席美華登楼より出火して、竜泉、南千住、今戸にわたる大火に。午後8時に鎮火
     全焼家屋6550戸、焼死者4人、負傷者131人
     南からの強風により火は瞬く間に燃え広がり、廓内は全滅。廓の外にも延焼する大火事に
  04/13鎮西学院の新校舎が落成
     1930(昭和05)竹の久保に移転
  04/23浦田進太郎他11人が長崎電気軌道線路敷設願書を出願
     起業目論見書第3条には
      「1・起点 長崎県西彼杵郡浦上山里村中野郷字岡1090番地
       1・終点 長崎市馬場郷165番地
       1・経過地名 長崎県西彼杵郡浦上山里村に起リ、長崎市井樋ノ口町、寿町、八千代町、台場町、
         元船町、玉江町、末広町、入江町、西古川町、本紙屋町及ビ新大工町ヲ経テ馬場郷ニ至ル…」
     1912(明治45)04/17免許状下付
     1915(大正04)05/09工事施行認可が下る
     土地の買収・地質調査他の準備、変電所・橋梁の基礎工事、車庫・架線工事に着手
     1915(大正04)07/上軌道敷設工事に着手
     1915(大正04)11/16病院下(廃)〜築町に開通、営業運転を開始
  04/25外浦町に本館3階建、県会議事院は3階建の3代目の長崎県庁新庁舎と県会議事院が落成
     山田七五郎の設計で壮麗なルネッサンス様式の鉄骨石壁で屋根は銅板葺きの建築で風格のある重厚な建物
     敷地面積2630坪、総面積1670坪(約5511平方米)、県会議事堂435坪(約1436平方米)
     工費は55万7500円
     1911(明治44)05/15落成式が挙行
     1911(明治44)05/25仮庁舎の交親館から移転開庁
     戦時中建物に黒いまだらな迷彩が施される
     1945(昭和20)08/0912時過ぎ、原爆による火災が発生
     青銅屋根から白煙が生じ職員が手押ポンプで消火にあたるが、火の勢いが大きく手に負えない状態に
  04/改正日英通商航海条約が調印。関税自主権が回復する
  04/我が国初の県営雲仙公園が開設(温泉公園取締規則が定められる)
     雲仙観光が脚光を浴び外国人向けホテルが台頭、県が民間に呼応し雲仙開発に乗りだす
     植物学者の松村任三が公園調査に訪れゴルフ場を造るよう県に勧める
     1912(明治45)雲仙の農家47戸が所有する牧草地に無償で99か年の地上権を設定
     倉場富三郎をはじめ、長崎内外倶楽部の日本人や主要外国商人などの設計をもとに着工
     なかには長崎在留中の銀行員ウォルキンショーの姿も
     1913(大正02)08/14雲仙公園内に日本初のパブリックコース雲仙ゴルフ場が完成
     ゴルフ場は9ホール(約17ヘクタール)
     ささやかな藁葺きのクラブハウスも完成
     1914(大正03)ヒノキ、スギあわせて100万本余りが植栽
     のち外国人向け娯楽場やテニスコートが相次いでオープン
  05/05奈良原三次が外国製のノーム50HPエンジンを装備する奈良原式2号飛行機を製作。エンジン以外はすべて国産品
     陸軍所沢飛行場で自らの操縦で高度約4米、距離約6米の飛行に成功。国産機による初めての飛行記録となる
     前年の1号機は完成していたがエンジンのパワー不足で地上から浮上できずに失敗
  06/20島原鉄道が本諫早〜小野村〜森山〜愛野村の営業運転を開始
     1911(明治44)08/21諫早〜本諫早が延伸開業し、諫早〜愛野村(現愛野)で営業運転を開始
     1912(明治45)10/10愛野村〜山田村〜古部〜西郷〜神代町が延伸開業し、諫早〜神代町で営業運転を開始
     1913(大正02)05/10神代町〜多比良町〜大三東が延伸開業し、諫早〜大三東で営業運転を開始
     1913(大正02)09/24大三東〜三会〜島原〜島原湊が延伸開業し、諫早〜島原湊で営業運転を開始
     諫早〜島原湊が全線開通する。総延長26哩3分(42.3粁)
     1943(昭和18)07/01戦時統制により島原鉄道が口之津鉄道を吸収合併(諫早〜加津佐間78.5粁となる)
     同じく島原鉄道が口之津〜鬼池間航路を兼営
  06/雲仙〜小浜の乗合自動車運営がパッカードを購入して開始
     1937(昭和12)雲仙小浜自動車が県営バスに合併される
  07/山内商会瓦斯部(旧長崎瓦斯合資会社)が福岡系資本に吸収され九州瓦斯会社が創立。資本金25万円
     1914(大正03)07/九州瓦斯会社と長崎電灯会社が合併
     長崎電灯瓦斯株式会社が設立(資本金56万円)
     袋町に事務所を建築。稲佐、旭町に2千馬力以上の第2発電工場を創設
  07/●●●町に明治生命保険会社長崎支店の建物が竣工
     設計者は三菱長崎造船所の占勝閣を設計した曽禰達蔵
     長崎の代表的建築として評判に
     1945(昭和20)08/09原爆により焼失
  07/東京市京橋区木挽町の歌舞伎座が施設の老朽化と帝国劇場の出現を受け改造
     10/第2代の歌舞伎座が竣工
     第一期の建物の土台、骨組を残し、純日本式の宮殿風に大改築が施さる
     正面車寄せは唐破風造り、銅葺きの釣庇に左右の平家も破風造りに
     内部の正面大玄関は格の鏡天井、観客席は高欄付きの総檜造りで、二重折上げの金張り格天井となる
     1921(大正10)10/30漏電により焼失
  08/15三菱造船所で春洋丸(東洋汽船)が完成
     天洋丸、地洋丸、春洋丸の3姉妹船は大きさ、速力、設備の面で世界有数の大客船
     1926(大正15)03/10桑港航路が日本郵船に移譲。天洋丸、春洋丸も移籍
  08/21島原鉄道により諫早〜本諫早が延伸開業し、諫早〜愛野村(現愛野)で営業運転を開始
     1912(大正01)10/10愛野村〜山田村〜古部〜西郷〜神代町が延伸開業し、諫早〜神代町で営業運転を開始
  08/22レオナルド・ダ・ビンチの名作「モナリザ」が盗難、行方不明に。観覧にきた人が気づいて美術館の係員に通報する
     1913(大正02)12/12フィレンツェで「モナリザ」が発見される
     犯人はイタリア出身の木工大工ヴィンチェンツォ・ペルッジャ。ルーブル美術館の保護ガラスを取り付けた職人
     「ナポレオン時代にフランスに取られたイタリアの文化遺産を取り戻す目的で盗った」と供述
     のちイタリアで展示され、無事フランスのルーブル美術館に戻される
  08/県雲仙公園事務所が設置
  09/大井手町〜本紙屋町の石橋大井手橋が在来の石材を用いて拱石橋に架け替え
     1982(昭和57)07/23大水害で流失ののち再架
  10/「長崎くんち」(5)…寄合町(本踊・段尻)、桜町(本踊)、小川町(本踊・段尻)、
     内中町(本踊)、西上町(川船)、八百屋町(狐の曳物)、勝山町(大薩摩)、
     恵美須町(御座船)、紺屋町(本踊・曳段尻)、炉粕町(本踊)、伊勢町(剣舞)
  12/09横浜で浪花節の桃中軒雲右衛門が日本初のレコード吹き込み
     1912(明治45)05/銀座蓄音器三光堂から1枚3円80銭で発売される
  12/14ノルウェーのロアール・アムンセン隊が人類で初めて南極点到達をはたす
     のち無事帰還
     1912(明治45)01/1718時30分頃、イギリスのスコット隊が南極点に到達する
     01/18英国国旗を立てる。アムンセン隊が南極点に到達してから既に約1か月が過ぎ
     03/29スコットがテントのなかで息を引き取る。パーティーは帰途遭難、3月29日までに全員が死亡
     スコット隊に比べて不利と思われていたアムンセンが先に到着した理由
      スコット隊は学術調査を兼ね長いルートを選び、内燃機関を使った雪上車や馬、毛織物のセーターを使用
      アムンセン隊は極北航海の時に先住民から伝授された、寒さに強い犬ぞりや軽くて防寒性に優れた毛皮服を採用
  12/16トーマス・ブレイク・グラバー(73)が慢性腎炎の発作に襲われ東京で死去
     東京の教会でしめやかな葬儀が執りおこなわれ、遺体は火葬に付され長崎へ。新坂本墓地5番の2に埋葬
     妻ツルの遺骨の一部がグラバーの墓へ分骨
  12/21本石灰町の寄席「満知多座」にて坂東三津五郎一座が興行。〈入場料〉1等(平場・2階)60銭、3階30銭
  12/27社会、政治運動取締り強化のため県が警察部に高等警察課を新設
  「電気館」の隣り東浜町39番地の浜町本通の建物を改装し映画常設活動写真館「喜楽館」が開設
     もとは150坪(495平方米)ほどの広瀬勧工場(スーパー)
     「喜楽館」は日活、東亜、マキノ、パラマウントを上映
     1932(昭和07)松竹作品を上映する映画常設興行場となる
     1960(昭和35)12/福岡の東宝九州興行株式会社が鉄筋コンクリート4階建を新築
     「長崎東宝劇場」と改称
     1985(昭和60)頃閉館となる
  松尾シナが経営する大浦慶邸跡の旅館「宝家」が炭坑保証で失敗し神戸市下山手通りに移住
     長崎料理「宝屋」を経営
     松尾シナは雷が丘(現東小島町)で料亭「宝亭」を営む2代目松尾仲三郎の姉
  小浜、北本町の旅館一角楼が新館を増設
     1917(大正06)ロシア革命が起こる
     シベリア鉄道拡張のための資材を満載したアメリカの貨物船が長崎での待機を命じられる
     乗組員は雲仙、小浜に逗留。一角楼にも70余人が滞在
     まったく予定外の滞在客をうけて創業期における経営の基礎をつくる
  伊王島町の伊王島と沖ノ島の間にある伊王瀬戸に伊王橋が創設
     1953(昭和28)伊王橋を撤去し、賑橋を架設
  「瓊浦遊泳協会」で大名行列が行なわれるようになる
     江戸時代の細川藩の参勤交代の行列が大井川を渡る様子を再現
     1913(大正02)頃行事化される
     大名とお姫様を乗せた御輿を中心に露払い、騎馬、大鳥毛、小鳥毛、挟箱などの供廻りや道具持ちに入墨姿の雲助など
     総勢200人に及ぶ勇壮な行列に
     1972(昭和47)08/20第2次長崎外港埋立計画によりねずみ島が閉鎖されることになる
     最後の大名行列が行なわれる
  「大阪毎日新聞」と「東京日日新聞」が合併。全国紙として第一歩を踏み出す
     1943(昭和18)01/01東西で異なっていた「大阪毎日新聞」「東京日日新聞」の題号を「毎日新聞」に統一
  鉄道院総裁の後藤新平が土木技師の田辺朔郎に命じて関門海峡両岸の連絡手段を検討させる
     田辺は海底隧道により連絡可能と結論をだす。橋梁案は艦砲射撃への脆弱さから除外
     1918(大正07)政府は国会に初年度予算を計上
     翌8年から10か年継続事業で関門トンネルを完成させることが決議
  イギリスの客船タイタニック号 (Titanic)(総トン数 4万6358瓲)が、世界最大の豪華客船として建造
     全長268米、幅27.7米、総トン数は4万6328瓲。母港はリヴァプール
     タイタニック号はイギリスのホワイトスター社が北大西洋航路用に計画した3隻の旅客船のうちの2番船
     姉妹船にオリンピック号、ブリタニック号
     アイルランドのベルファストにあるハーランド・ヴォルフ社で建造された、世界最大の客船
     タイタニックの正式名称は、『R.M.S. (Royal Mail ShipまたはSteamer) Titanic』
     1912(明治45)04/10イギリスのサザンプトンを出港、 アメリカのニューヨークに向けて処女航海にでる
     04/14真夜中、北大西洋のニューファウンドランド沖で氷山に衝突し、2時間40分で沈没
     乗船2208人の中、1517人が死亡する世界最大の海難事故に
     1985(昭和60)09/01ロバート・バラード博士が海底3650米に沈没したタイタニック号を発見
     2004(平成16)06/バラード博士とNOAAはタイタニック号の損傷状態を調査する目的で探査プロジェクトを行なう
     のちバラード博士の呼びかけにより「タイタニック国際保護条約」がまとまる
     06/18アメリカ合衆国が条約に署名
     条約の内容はタイタニック号を保存対象に指定し、遺物の劣化を防ぎ、違法な遺品回収行為から守ることなど
  民家を借り受けて小浜〜雲仙間の道路改良が完成。自動車が走る←あり
  雲仙、小浜に電灯が灯る
  県下の伝染病患者1802。赤痢が最も多く、郡市別では西彼杵郡に多発
  武昌での武力蜂起をきっかけに辛亥革命が起こる。清は完全な内部崩壊を迎える
     1912(大正01)01/01南京に中華民国が樹立
     02/12清朝最後の皇帝、宣統帝(溥儀)が正式に退位。清は276年の歴史に幕を閉じ完全に滅亡する
  三越少年音楽隊に対抗して東京日本橋の白木屋呉服店が店舗大改築に併せて日本最初の少女歌劇を組織する
     余興場と称された本店3階の劇場で歌舞、コミックオペラ、お伽歌劇などを上演
     のち本居長世作曲の「うかれ達磨」は人気に。のち宝塚少女歌劇団など他の歌劇団や女学校の音楽会でも演じられる
     1917(大正06)白木屋呉服店が組織した日本最初の少女歌劇が幕を閉じる
  いとう呉服店(現在の松坂屋)が「多可良函」(たからばこ)の名で福袋の販売をはじめる

明治後期

  長崎市・佐世保市などでカリフラワーの栽培が開始される

明治末期

  日本初のキリスト教新教だった神学校、出島神学校が病院として使われる
     1977(昭和52)04/国指定史跡「旧出島神学校」の老朽化が著しくなる
     保存のため総工事費1億500万円で文化財保護法に基づく半解体修理復元工事が始まる
  柳川からでた初代が浦五島町に柳川藩の定宿を創業
     のち2代益山国三郎が屋号を村雨屋とし堺商人の船宿を営む
     のち屋号の村雨屋を筑後屋と改称
     のち上海航路の黄金時代を迎え、近隣の小林屋、三木屋、舞鶴屋、丸金などの旅館とともに船宿として繁昌する
     戦後柴田正寿が筑後屋を買取り経営を開始
  長崎駅前に平石某が食堂冨士野屋をはじめる
     1963(昭和38)☆池田義雄が後を継ぎ土産品屋を開業
     のちべっ甲、真珠に主力をおき「フジヤべっ甲・真珠店」に
  長崎市木場町の浦川某がオランダ人よりもらったものをオランダイチゴとして露地で栽培
  塩塚テイ女史が島原の数千坪の海を埋立てる
     1912(大正01)旅館をはじめる。渋江重寿が経営
     大正初期長崎歌壇に活躍した俳人碧梧桐により南風楼の名をうむ
     第2次世界大戦末期国の施設として軍部が使用
     戦後島原市が払い下げを受ける
     1948(昭和23)島原市の推薦を受け、有明館を経営していた村中茂夫が経営を引き継ぐ
  鍛冶屋町の大音寺の影照院が独立して大本山知恩院の直轄となる
     影照院は大音寺が島原町から鍛冶屋町へ移る際の仮本堂
     終戦時頃廃止となり入口の門だけが残る

1912(明治45、大正01)【大正】 壬子(みずのえね)

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