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〈昭和時代(4)〉

1938(昭和13)【昭和】 戊寅(つちのえとら)

  《総理大臣》[第34代]近衞文麿
  《知事》[第31代(官選)]岡田文秀(→04/18)、[第32代(官選)]川西実三(04/18→)
  《市長》[第12代]笹井幸一郎(→05/20)、[第13代]青木善祐(08/29→)

  01/11厚生省が設置される
  01/12未明、尾上町の集散場付近の倉庫からの出火
      人身の事故はなかったものの、集散場、魚市場、あわせての損害は8万2800円に
  01/長崎バス(株)が本社を鍛治屋町から元船町に移転。本社事務所(2階)と大波止営業所(1階)を開設
     隣にタクシー車庫を設け事業を1本化
     1956(昭和31)02/茂里町整備工場敷地内に本社を建設。大波止から移転
     1966(昭和41)10/22大波止営業所が廃止
  02/153日間にわたり盛り場の学生を警視庁がいっせいに検挙
     日中戦争のさなか非国民だと3486人を逮捕
     「忠良な子臣民になります」と誓約書を書かされ皇居前でお詫びをさせられる
  02/18春洋丸(日本郵船・旧東洋汽船)が大阪で解体
  02/合名会社「田中長一本店」が合資会社「田中長一商店」に改組、改称
     1938(昭和13)頃三輪車“ニューエラ”を購入
     長崎市内で三輪車を備えた商店は10店もなかった時代
     1948(昭和23)04/長崎地区を始め、東京、福岡に営業拠点開設
     東京出張所は日本橋の三井村のそば(現・千疋屋)に構える
  03/03長崎県営バスの大波止(玉江町)車庫が完成
  03/08佐世保市比良町にコレラ発生
  03/29戦艦武蔵が三菱長崎造船所にて起工
     主力艦の数の不足を個艦の優秀性で補おうと極秘のうちに第2船台で建造
     1940(昭和15)11/01三菱長崎造船所にて進水
     全長236.3米、幅36.9米、排水量6万9100瓲、15万馬力、速力27節、乗員2500人
     世界最大の主砲46糎3連装3基。射程距離41粁、30粁先の厚さ43糎の装甲板が貫通するほど
     3連装砲塔の旋回部だけで2200瓲に
     建造費として1937(昭和12)の見積書に6253万8550円と記される
     1942(昭和17)05/20長崎を出港し呉軍港へ向かう
     第1艦隊第1戦隊に編入、「大和」と交替し連合艦隊旗艦に
     1943(昭和18)連合艦隊旗艦となり大平洋各海域に転戦
     1944(昭和19)10/米軍のフィリピン上陸作戦を阻止する捷1号作戦に参加
     レイテへ向けてブルネイを出撃。他機動部隊を生かすために囮として目立つようペンキを塗り直す
     1944(昭和19)10/2419時35分、フィリピン群島シブヤン海にて米艦載機の6次にわたる猛襲を受け沈没
     猛襲は魚雷20発、爆弾17発の他、至近爆弾多数
  03/31長崎県営バスの矢上車庫が落成
  03/日本海員掖済会長崎病院が国内船、外国船の無線電信による医療相談機関として逓信省より指定される
     1945(昭和20)08/原爆のため長崎病院半壊、職員若干負傷するもただちに救援活動を行なう
  04/01長崎市の第3次市域拡張により西彼杵郡小榊村、土井首村、小ケ倉村、西浦上村を市域に編入
     90.54平方粁、戸数4万8270、人口26万8945となる[1938(昭和13)12/31現在]
     小榊村2.05平方粁、640戸、3741人(男1921・女1820)
     土井首村13.93平方粁、657戸、3880人(男1872・女2008)
     小ケ倉村9.78平方粁、425戸、2289人(男1135・女1154)
     西浦上村23.68平方粁、877戸、4665人(男2255・女2410)
     [拡張区域は1937(昭和12)12/31現在]
     1950(昭和25)04/01長崎市の第4次市域拡張により西彼杵郡福田村大浦郷字網場を市域に編入
     90.60平方粁、戸数5万7081、人口24万7248となる[1950(昭和25)12/31現在]
     福田村の一部0.06平方粁25戸106人(男56・女50)[1950(昭和25)01/20現在]
  04/01西彼杵郡小榊村、土井首村、小ケ倉村、西浦上村が長崎市に編入される
     1948(昭和23)10/01西彼杵郡高島村に町制が敷かれ高島町となる
  04/01北松浦郡相浦町が佐世保市に編入される
     1940(昭和15)02/11北松浦郡小値賀村に町制が敷かれ小値賀町となる
  04/01国家総動員法が公布される
     戦時や事変にあたって国力を全面的に発揮できるよう、人的、物的資源が統制利用すること
     物資は兵器、艦艇、軍需品、被服、食料、医薬品、船舶、航空機、車両、馬、通信機械、土木建築物資、燃料、電力など
     人的業務は物質の生産、流通、輸出入、運輸、通信、金融、衛生、教育、研究、宣伝、警備など
     1946(昭和21)04/01国家総動員法及戦時緊急措置法廃止法律(昭和20年法律第44号)に基づいて廃止
  04/駒場町に三菱グラウンドができる
  04/国家総動員法・電力国家管理法が公布される
     軍需産業拡充のための産業再編成が強行され、平和産業部門の中小商工業は大きな打撃を受ける
  05/01ガソリン切符制が実施
  05/15長崎県営バスの小浜営業所車庫が落成
     1961(昭和36)10/11小浜営業所が開所、新築落成
  05/22出島町の電車線路カーブ近くに三菱会館が映画・演劇場として開館
  06/07長崎医大看護婦寄宿舎に疑似赤痢・北松潜龍炭坑にも7人発症
  07/15政府が1940(昭和15)に予定された東京オリンピックの開催返上を閣議決定
     日本の威信をかけた1940(昭和15)開催予定の国家イベントは幻に終わる
     盧溝橋事件を発端として日中戦争の勃発
     また戦時下、資源の統制はすすみ、昭和13年6月には鉄鋼配給の統制が決定
     競技場建設に必要な800万円が国家予算の3%にも相当する巨大な金額
     イギリスなどは戦争が続く限り選手を派遣しないと公表、以後、ボイコット国が増えるなど
     ……オリンピック開催にとってはマイナス要因が増大
  07/22雲仙鉄道(小濱〜千々石〜愛野村)経営不振で第35回定期株主総会において解散決定
  08/01県下初の県立大村保健所が開設
  08/24午前8時55分、東京市大森区森ケ崎町上空150米で2機の民間飛行機が直角に空中で衝突。分解し墜落
     羽田飛行場から訓練飛行に向かう日本飛行学校のアンリオHD.14複葉機(2人乗り)
     その後離陸した日本航空輸送のフォッカー スーパーユニバーサル旅客機(搭乗員3人)
     市街地に墜落し航空機の双方の乗員4人全員が即死。機体の爆発に巻き込まれ住民28人が犠牲に
  09/10長崎市常磐町に恩賜財団済生会病院完成・開所式
     1982(昭和57)11/18長崎市は新地町の済生会病院が移転することで合意
     茂里町に新築移転する原爆病院の跡地(片渕1丁目)に進出
     1983(昭和58)08/23新地町の長崎県済生会病院が片渕町の旧原爆病院跡地へ移転オープン
     診療科目7科、病床数230床
  09/市立高等女学校が西山から桜馬場の長崎県師範学校跡地に移転
  09/東京での正午のサイレン(号笛所)による報時が廃止となる
     のちサイレン空襲警報などの告知にも使用される
  10/01石炭配給統制が実施
  10/07「長崎くんち」
     (3)は御神幸のみ。奉納踊は自粛
     くんち3日間は防空演習にあてられる
  10/23長崎で初の珠算能力検定試験を実施
     数ある珠算検定制度のなかでも最も歴史が古い
     1936(昭和11)から始まっている長崎県珠算競技大会にあわせて検定試験を実施
     受験者は120人、審査の結果70人が最初の合格証書を手にする
     1944(昭和19)珠算能力検定試験が日本商工会議所最初の検定制度にとりあげられる
     それまで各地の会議所が独自で随意に実施してきた検定試験を統一して、全国同時に同一問題で実施することに
  10/30アメリカCBSラジオがハロウィンに合わせたスペシャル番組を放送。午後8時15分〜9時30分
     内容はオーソン・ウェルズがH.G.ウェルズ原作の「宇宙戦争」を元にしたドラマ番組
     オーソン・ウェルズは放送の途中に臨時ニュースの形で火星人が襲来し攻撃している、という話の流れを構成
     「○○の都市が襲撃されました」「詳しい情報が入りましたらまたお伝えします」と、緊迫した実況原稿が読まれる
     番組の最初、断り入れたものの、途中からの聴取者が、ほんとうに火星人の来襲があったものと全米でパニックに
     のち新聞社を黒幕として非常に多くの訴訟がオーソン・ウェルズを含む製作者に対して行なわれる
     番組放送中、何度も「これはドラマである」旨の放送をしていたため、すべて棄却または無罪に
     警察は暴徒の襲撃に備えて番組終了後にラジオ局を緊急警備する
  10/31ナチス・ドイツの青少年団、ヒトラー・ユーゲント1行30人が来崎
     午後4時、大牟田より船で島原に着き、県連合青年団長、県学務部長が出迎える
     バスで雲仙観光ホテルに着き川西知事が晩餐会に出席
     11/01自由行動で乗馬、散歩、弓、普賢岳登山など各々楽しむ
     11/02沿道で歓送迎を受けながら長崎市内に到着。富貴楼で県・市・商工会議所共催の歓迎会
     のち諏訪神社参拝、シーボルト記念碑献花、蘭館跡、大浦天主堂見学、シーボルト宅跡に記念植樹などをする
     11/03深堀村のペーロンを参観、唐八景でハタ揚げを参観ののち、急行列車で福岡へ
       08/16横浜に上陸→宮城遙拝、明治神宮参拝→富士山→軽井沢→日光→鎌倉
       →横浜→箱根→奈良→京都→大阪→瀬戸内海→九州を巡遊→11/12☆神戸から帰国
  10/長崎高商(長崎市片渕町)にパラチフス患者48人
  10/長崎バス(株)が小浜〜茂木間を結ぶ長崎雲仙連絡汽船を吸収。海運部を設置
     1943(昭和18)戦時合理化により海運部は長期休業に入る
  11/01新地町〜梅ケ崎町に773坪余りの湊公園を開設し一般に開放
     戦後一時不法建物により占拠
     1956(昭和31)10/26警官34人が出動し湊公園内の不法建物40戸を撤去
     1957(昭和32)公園として再整備
  12/07長崎市内にコレラ患者3人天然痘患者も発生
  12/16上海から入港の「長崎丸」の船客に天然痘患者、直ちに女神検疫所に収容
  12/23三菱長崎造船所が自社用として諏訪丸、金比羅丸(各128瓲)2隻を建造
     長崎電鉄が無料で借り受け運航開始
  12/23南アフリカのイーストロンドンにある博物館で学芸員ラティマー女史が港でめずらしい形をした魚を発見
     【12/20?、12/22?】
     魚は体調が約1.4米、古代魚のような姿
     魚の研究をする女史は直感的に魚が貴重な生物であると考え剥製にする
     発見当初、魚は岩礁の海底に住むカサゴやメバルの仲間ロックコッドではないかと考える
     女史はグレアムズタウンのロードス大学のスミス教授に魚のスケッチを送る
     スケッチを見たスミス教授はその魚が絶滅したはずのシーラカンスであること確信
     シーラカンスは魚類が両生類に進化する頃に生きていた魚
     中生代白亜紀以降の地層から化石が発見されていないことから約6500万年前に絶滅したと考えられた
     【7000万年?、7500万年?】
     発見により6500万年もの時を経て生き続けたことが分かり「生きている化石」と呼ばれるように
  12/26北海道帝国大学の中谷宇吉郎が低温実験室を使って人工雪の結晶「中谷ダイヤグラム」を作ることに成功
  西浜町62番地の映画館「崎陽館」が長崎初の洋画封切館「富士館」となる
     1965(昭和40)東宝富士館となる
  外浦町の県庁前に七条達馬が新長崎ホテルを開業
     戦後長崎観光ホテルと改称
     1959(昭和34)七条達馬の死去により息子の七条達夫が雲仙の九州ホテルとかけ持ちで経営
     1960(昭和35)08/西浜町の精洋亭ホテルと合併。外浦町にて長崎グランドホテルとなる
  口之津町にて古野電気商会が発足
     1948(昭和23)世界で始めて音響測探機を改良した魚群探知器の販売を開始
     1955(昭和30)古野電気株式会社が設立。(株)古野電気工業所の事業一切を継承
     1959(昭和34)我が国で初めて超小型レーダーを開発
     水中翼船や各種小型船へのレーダー装備を可能にしレーダーの普及と安全航行に貢献
     1961(昭和36)資本金を1億2千万円に増資。兵庫県西宮市に本社が移転
     のち独自のアイデアを盛り込んだ漁業計器、航行計器、無線通信機などを開発
     船舶用電子機器の総合メーカーとしての基礎を築く
  西道仙の孫西仁寿が長崎医科大学を卒業
     のち台北帝大医学部副手に
     のち終戦まで中国大陸広東博愛病院医長として勤務。皮膚病の糸状菌研究を始める
     のち戦後引揚後は県立出島病院に勤務
     1949(昭和24)大学病院下で医院を開業
     戦後引揚者の多かった浦上地区で診察料を払えない人をも良く往診
  原料ゴム統制で、チューインガムの製造が禁止に
  漢口攻略戦直後、小松清が野母商船の第8太古丸を借り切り、船に菓子を満載し12日かかって揚子江をのぼり漢口へ向かう
     小松清は1912(明治45)北有馬の生まれ
     1950(昭和25)小松清は清月堂の唐人せんべいの権利を譲り受け、館内町に工場を建て長崎名物として売り出す
     のち名所せんべいを創案して売り出し基盤をつくる
     のち清月食堂を経営し、さらに観光ガイド社をつくる
     1959(昭和34)稲垣屋を借りてカステラ業界に進出。220円のカステラを売り名を知られる

1938(昭和13)頃

  丸山町の「花月」が株式会社となり本田寅之助が支配人として経営
     「花月」は、もともと丸山町の妓楼「引田屋」にあった茶屋のこと

1939(昭和14)【昭和】 己卯(つちのとう)

  《総理大臣》[第34代]近衞文麿(→01/05)、[第35代]平沼騏一郎(01/05→08/30)、[第36代]阿部信行(08/30→)
  《知事》[第32代(官選)]川西実三
  《市長》[第13代]青木善祐

  01/11函館気象測量所が国営に移管、中央気象台函館測候所と改称
  01/21プロ野球チームの巨人軍が第1回マニラに遠征、北野丸で長崎を出港
     12/18第2回マニラに遠征、熱田丸で長崎を出港
  02/02町内会第1号の銅座町町内会が設立
     のち長崎市は町内会、十戸組の設立を促進
     1941(昭和16)04/11市内全町が結成
     町内連合会24、町内会294、隣組4878
     町内会は衛生組合の区域ごとに設立、町内会長は衛生組長に
     国策遂行の末端機関として位置づけられる
     1942(昭和17)02/05長崎市が「町内会は市の下部組織として市長の管轄下に置く」と明示
     戦時中の町内会はフルに活用され、戦争遂行の一翼を担う
     1947(昭和22)02/21長崎市が04/01の町内会制度廃止に伴い関係者を集め感謝大会を開催
     1947(昭和22)04/01町内連合会、町内会、隣組が廃止
  03/13佐世保市で県医療組合総合病院の地鎮祭・県産聯が設立
  03/31日立製作所笠戸工場(下松)にて蒸気機関車C57形100号機が完成。車両番号はNo.1075
     1954(昭和29)デフレクターが門デフに改造される
     門デフ=門司鉄道管理局式デフレクター=小倉工場式デフの略称
     小倉工場で除煙板の上半分を残して切除、車体にパイプで取り付ける方式を採用
     1957(昭和32)10/01特急「さちかぜ」の開設初日、長崎発上り第1号列車の先頭を飾る
     1961(昭和36)04/19基山→佐賀でお召し列車を牽引
     04/23大村→長崎で、04/26長洲→博多で、それぞれお召し列車を牽引
     1973(昭和48)04/02人吉にて廃車となる。走行距離は164万5千粁
     1973(昭和48)09/29北九州市小倉区で分解。トラックとトレーラーに積み込まれる
     09/30展示会場である長崎の賑町の中央公園に到着
     10/01展示がはじまる
     はじめ長崎市は、展示する蒸気機関車としてC51形を所望
     C51形蒸気機関車は、1945年(昭和20)8月9日の原爆投下後、廃虚のなか救援列車を牽引。数多くの被災者を救出
     しかし、当時、C51形蒸気機関車は東京の青梅児童公園、新潟の鉄道学園などに3両残っているだけ
     そこで「ではC51によく似たSLを」ということで門司鉄道管理局では長崎にゆかりの深いC57形100号機を贈ることに
     C57形100号機は、特急「かもめ」「さちかぜ」「さくら」をはじめ、戦前には「富士」など、たくさんの列車を牽引
     10/14中央公園にて国鉄と長崎市の間で譲渡式が行なわれる。蒸気機関車は国鉄から長崎市への無償貸与
     原子野に乗り入れ被災者の救援にあたった国鉄職員7人も出席、功労を讃え市長から記念品が贈られる
  03/日本郵船発注の豪華客船「橿原丸」(2万7700総瓲【2万6500瓲?】)が三菱長崎造船所で起工
     1940(昭和15)10/時局緊迫のなか政府より空母所有の劣勢を挽回するため特設航空母艦に改装命令が下る
     豪華客船「橿原丸」としては未完成のままで特設航空母艦「隼鷹」に
     1942(昭和17)05/03完成し、戦争に駆り出される
     1944(昭和19)12/長崎港外で雷撃を受け中破
     戦後解体される
  04/10長崎県営バスの諫早営業所車庫が落成
     1949(昭和24)06/諫早駅前に諫早営業所落成
     1952(昭和27)諫早駅前の長崎県営バス諫早営業所が焼失
     1953(昭和28)09/17諫早営業所が落成
     1968(昭和43)05/23諫早営業所用地として東厚生町に8067.32平方米を買収
     1969(昭和44)01/24東厚生町に諫早営業所及び整備工場が新築落成
     1969(昭和44)06/30諫早営業所女子職員寮及び所長公舎が新築落成
     1977(昭和52)05/06西諫早営業所が発足
     1977(昭和52)09/04西諌早営業所が新築落成
     1983(昭和58)04/01諫早営業所が西諌早営業所に統合
     1983(昭和58)06/06諫早営業所(西諌早)が営業開始
  04/19関門トンネル工事で先通導坑(工事促進のため先に掘削した小トンネル)が貫通
     戦時体制下での輸送増強を目的に突貫工事で建設
     最先端のシールド工法(三菱重工業製のシールド)を駆使し、多量の湧水に対抗する難工事
     トンネルと海底との土被り(距離)が小さく、超小型潜水艇による調査が行なわれる
      坑内で頭上を通過する船舶のスクリュー音が聞こえる。海底に坑内の空気が漏れ出す
     1941(昭和16)07/第1トンネルが貫通
  05/01旧来の消防組と防護団に替わって警防団が組織される
     警察の指揮下に消防、灯火管制、避難、救護、警報の伝達、その他防空の任務を受け持つ
     家庭防空群の指導にもあたる代表的な民間自衛組織
  05/12ノモンハン事件が起こる
  05/桜町の弦洋会楽器店が浜町本通りに進出
  05/大阪商船向け豪華貨客船「あるぜんちな丸」が竣工
     1万2755瓲、1万6500馬力、21.5節
  05/野母商船が上海〜新港〜南京(霍橋)の中国・揚子江航路を開設
  05/対馬日日新聞が対馬時事新報と合併。対馬新聞の前身となる対馬朝日新聞が誕生
     1942(昭和17)03/東条内閣の命令のもと全国の新聞は1県1紙となり島唯一の対馬朝日新聞が廃刊
  06/07長崎商工会議所が長崎市商工団体連合会を結成。創立総会を開く
     各種商工団体が結集して国策協力の実をあげるため、長崎市商工団体連合会の結成を各団体に呼びかける
     連合会は全市181組合(組合員総数約1万5千人)で組織
     総会には各組合の代表112人が出席し、会則審議の後、役員選任を行ない、会長に山田鷹治商工会議所会頭を推す
     連合会の主な事業は(1)所属商工団体の提案に係る事項の審議遂行(2)経済統制諸法令の周知徹底
     (3)物価調整の実行確保(4)非常時商工経営対(5)応召商工業者の営業援護など
     1940(昭和15)12/08長崎市商工団体連合会の発足を祝い長崎市民運動場で体育大会を開く
     商工団体相互の融和団結の促進と商工業従業員の体育向上を図る趣旨による[〜1942(昭和17)毎年開催]
     大会には23団体から500余人の選手が参加して競技を行なう
     男子優勝の魚問屋組合が会議所会頭旗を、女子優勝の菓子工組合が市長旗を獲得する
  06/16佐世保市の伝染病患者96人と発表
     (赤痢32・腸チフス37・パラチフス4・ジフテリア14・猖紅熱5・流行性脳脊髄膜炎4)
  06/30三菱造船所がグラバー邸を倉場富三郎から買収
     戦時中三菱造船所の大浦クラブとして使用
     1945(昭和20)から約4年間米進駐軍の司令官公舎として接収
  07/06大村西小路に赤痢2人
  07/16北高来郡戸石村に腸チフス患者8人発生
  08/26東京日日新聞社(毎日新聞)の「ニッポン号」が世界一周飛行に向けて羽田を出発
     機体は海軍の「九六式陸上中型攻撃機」を改造したもの
     乗組員は親善使節大原武夫(社航空部長)、機長中尾純利(満州航空)ほか全7人
     10/205大陸、2大洋にわたる5万2800粁を194時間で翔破して無事羽田に帰還
  09/01ドイツがポーランド侵攻
     09/03英仏が対独宣戦布告をし第二次世界大戦が始まる
  09/01長崎市が毎月朔日を「興亜奉公日」と定め6項目の実践事項を全市民に実行することを奨める
     この日の正午には黙祷、武運長久祈願
     実践項目としては国旗掲揚、神社参拝、登山、ラジオ体操、一汁一菜生活、禁酒、禁煙、日の丸弁当を奨励
     開戦後開戦の詔勅が下された8日を毎月「大詔奉戴日」と定められる
  09/13長崎市内に流行性脳脊髄膜炎6人発生、うち3人は死亡
  09/30厚生省予防局民族衛生研究会が人口減少に危機感を強め、子供を増やそうというスローガンを発表
     「結婚十訓」
     (1)一生の伴侶に信頼できる人を選べ
     (2)心身ともに健康な人を選べ
     (3)悪い遺伝のない人を選べ
     (4)盲目的な結婚を避けよ
     (5)近親結婚はなるべく避けよ
     (6)晩婚を避けよ
     (7)迷信や因襲にとらわれるな
     (8)父母長上の指導を受けて熟慮断行せよ
     (9)式は質素に届けは当日に
     (10)産めよ殖やせよ国のため
  09/佐世保商業銀行と佐世保銀行が合併。親和銀行が創立。資本金310万円
     1940(昭和15)05/志佐銀行を合併
  09/コロムビアから渡辺はま子の歌による「長崎のお蝶さん(30348)」が発売される
     作詞は藤浦洸、作曲は竹岡信幸。作詞の藤浦洸は平戸出身
     のち歌う渡辺はま子にとって「支那の夜」「蘇州夜曲」とならぶヒット曲となる
  10/07「長崎くんち」
     (4)は御神幸のみ。奉納踊は自粛
     くんち3日間は防空演習にあてられる
  10/07日華連絡船「長崎丸」の船客に疑似コレラ患者が発生
  10/物価統制令が実施される(09/18の水準で価格を凍結)
  10/ビクターから由利あけみの歌による「長崎物語(J54611)」が発売される
     作詞は梅木三郎、作曲は佐々木俊一
     作詞の梅木三郎は本名黒崎貞治郎、新聞記者からプロ野球の大毎オリオンズのオーナー、パ・リーグの理事を務める
     片面は由利あけみの歌による「港のセレナーデ」。作詞は梅木三郎、作曲は佐々木俊一
     のち「長崎物語」は全国ヒット第1号として多くの人々に愛唱されるようになる
  11/01広島測候所が国営移管。中央気象台広島測候所となる
  11/02佐世保の腸チフスで市内は大恐慌、患者数は87人(10/27現在)
  11/03東彼杵郡西大村、竹松村、大村町が合併し大村町となる
     1940(昭和15)11/03東彼杵郡彼杵村に町制が敷かれ彼杵町となる
  11/04長崎港外端島、10月中だけで腸チフス患者は58人に
  11/12南高来郡山田村に赤痢患者35人
  11/県立の長崎測候所が国へ移管され「長崎測候所」と改称
     1947(昭和22)04/30現在地の長崎市南山手町5番地に「長崎海洋気象台」が創立
     場所は南山手の旧長崎要塞司令部跡地(ロシア領事館跡)
     07/19開庁式が執り行なわれる
     1949(昭和24)06/01「長崎測候所」が廃止
     業務は1947(昭和22)04/30創立の長崎海洋気象台が受け継ぎ統合される
  11/立山町に長崎公園内市民運動場が出来る。面積1万0681坪
     1970(昭和45)09/01本大工町の長崎中学校の新校舎が立山の長崎公園内市民運動場に完成
  11/国際情勢の緊迫化にともない海軍の要請で大橋町に長崎三菱兵器製作所の新工場を着工
     1944(昭和19)規模を次第に拡張し、大橋工場がほぼ完成
     工場敷地約19万8千平方米(6万坪)に配置された建物施設は7万5900平方米(2万3千坪)
  11/株式会社橋本商会が古鉄部門が業務拡張。株式会社橋本商会古鉄部(資本金19万5千円 社長/橋 本和太八)として発足
     朝鮮・台湾方面よりの屑鉄輸入等にともない同部門を株式会社橋本商会から、別会社として分離独立
     1945(昭和20)01/販売部門のほかに鉄材の鍛造機械部品の加工・製造部門として鉄工部を新設
  12/10傷庚年人小浜温泉療養開所式
  12/15地下1階、地上2階の木造建築による浜屋百貨店が一部開業
     建築用鋼材の使用統制があったが地階は防空用待避所となり鉄筋コンクリート造
     1940(昭和15)02/第2期工事が完成
     04/21落成式が行なわれる。店員数370余人
  12/私立宝塚音楽歌劇学校が宝塚音楽舞踊学校と改称
     1946(昭和21)03/宝塚音楽学校に校名を変更
  第2次世界大戦がはじまる。ドイツ軍がポーランドに侵入しニエポカラヌフが占領される
     コルベ神父(マキシミリアノ・マリア・コルベ)は逮捕されアムティツに入れられるが、のち解放される
     1941(昭和16)02/亡命者を救援したのを理由にドイツ秘密国家警察に再逮捕
  大阪商船所属の「ぶら志る丸」(1万2752総瓲)が竣工
     1940(昭和15)02/21処女航海の後、リオデジャネイロに入港
     歓迎式典には市長、ブラジル農林大臣、日本大使が臨席
     大阪商船からリオデジャネイロ市に大和桜の苗1020本が、リオデジャネイロ市からは船名表示板が寄贈
     のち南米航路の航海はたった3回で中止、日本海航路に短期間従事
     1941(昭和16)09/04海軍に徴用されて輸送船となる
     1942(昭和17)08/05北西洋上にて左舷中央部に魚雷2発を被る
     空母に改造のためトラックより横須賀向け単独航行中のこと
     フラッグデッキから「帽振れ」で別れの挨拶を告げる大野船長の勇姿とともに太平洋に葬られる。船員57人戦死
     姉妹船「あるぜんちな丸」同様、有事に航空母艦に改装することが可能なように設計
  長崎市内の映画館が7館になる
     1950(昭和25)9館になる
  三菱重工業株式会社長崎造船所の第1〜第8の全ての船台にガントリークレーンが竣工
     1967(昭和42)ガントリークレーンの解体が始まる
  バスの代燃化が通達され木炭や薪などの代用燃料への転換が指示
  県立長崎測候所温泉岳観測所が国立となり、雲仙岳測候所と改名
     1977(昭和52)03/庁舎の老朽化とアメダスの実現により廃止
  熊本の魚住一時が長崎へ。岩瀬浦の月川某の工場を買って手付けを打つ
     のち企業整備が強化され食料魚粉の製造をする
     戦後海産物の卸商に
     1946(昭和21)魚住商店としてふぐの製造に取り組む
     のちふぐ味淋ぼし、焼ふぐ、ふぐ茶漬、ふぐの燻製などふぐの珍味で知られるようになる
     のち東京、関西、北九州、北海道から沖縄まで販路を伸ばす
     1967(昭和42)カステラの製造も経営
  島原のミクリヤ商店自動車部のタクシー部門が、戦争の燃料不足を理由に営業を中止
     戦後営業を再開
  諫早小野村に飛行場が新設される。その代替地として県営による干拓計画が発表
  関門海底隧道開通後の長崎市の産業と貿易振興に備えるため「大長崎振興会」が結成
     関門隧道は九州の鉄道輸送体系に大変革をもたらすものとして早期完成を目指す
  国鉄伊佐線の潜竜ヶ滝〜吉井駅間にコンクリートアーチ橋の吉田橋梁が架かる
     単線鉄道橋でアーチ部全長58m0cm、アーチ半径5m×5
     戦時中の物資不足のため鉄筋の代用として竹筋が使われているとも
     1944(昭和19)04/13潜竜(現潜竜ヶ滝)〜肥前吉井(現吉井)間の開業に伴い供用開始
     2004(平成16)製造過程で鉄筋の代用として竹筋が使われているかどうか電磁波調査が行なわれる
     鉄筋が使われていない可能性が高いことが確認される
     2006(平成18)02/竹筋が使われているかどうか福井川橋梁で行われたコア抜き検査が行なわれる
     竹は確認されず。地元では竹が使われていたのを見たとの証言もあり信憑性は高い
     2006(平成18)09/同駅間にある福井川橋梁、吉井川橋梁とともに国の登録有形文化財となる
     長崎県のまちづくり景観資産にも指定

1940(昭和15)【昭和】 庚辰(かのえたつ)

  《総理大臣》[第36代]阿部信行(→01/16)、[第37代]米内光政(01/16→07/22)
        [第38代]第2次近衞文麿内閣(07/22→)
  《知事》[第32代(官選)]川西実三(→04/09)、[第33代(官選)]平敏孝(04/09→)
  《市長》[第13代]青木善祐(→03/11)、[第14代]井野次郎(07/06→)

  01/東山手の長崎公教神学校が東陵中学校に改称
     のち東陵高校に
     1952(昭和27)名古屋ローマ神言会経営・南山大学の姉妹校に、南山高等学校と改称、上野町に移転
  01/コロムビアから二葉あき子の歌により「天然の美(30467)」が再発される
     「美しき天然」の作曲者・田中穂積は佐世保鎮守府の軍楽隊楽長。佐世保女学校の音楽教師の委嘱をうけ教材用に作曲
     西海の自然にあう武島羽衣の詩をのせ教材に使うと全国にひろがり「天然の美」の別名も
  02/11北松浦郡小値賀村に町制が敷かれ小値賀町となる
     04/01北松浦郡江迎村に町制が敷かれ江迎町となる
  02/15北松浦郡小値賀村に天然痘患者発生
  02/21大阪商船所属の「ぶら志る丸」が処女航海の後、リオデジャネイロに入港
     歓迎式典には市長、ブラジル農林大臣、日本大使が臨席
     大阪商船からリオデジャネイロ市に大和桜の苗1020本が、リオデジャネイロ市からは船名表示板が寄贈
     のち南米航路の航海はたった3回で中止、日本海航路に短期間従事
     1941(昭和16)09/04海軍に徴用されて輸送船となる
  02/浜屋百貨店の第2期工事が完成
     04/21落成式が行なわれる。店員数370余人
     1953(昭和28)第1期増改築工事の地下1階、地上4階、塔屋4階、新館9階が完成
  03/05三菱長崎造船所が海軍管理工場に指定。確実に戦時体制に移行
  03/11長崎市長崎病院長の中山貞次郎が診療中に腸チフスに感染し殉職
     03/14東小島町正覚寺にて葬儀
  03/23日本郵船発注の3隻のうち日本最大の商船「新田丸(750番船)」(1万7150瓲)が三菱長崎造船所で完成
     政府の優秀船建造助成施設によって、船令20年を超える貨客船の代船3隻として建造を計画
     ドイツの新鋭豪華貨客船シャルンホルスト級3隻(1万8千瓲)が他を圧し、対抗する優秀貨客船の出現が急務に
     欧米航路に就航するが、「新田丸」は海軍徴用の命令を受けるまでに勤めた航海はわずか7回に過ぎず
     07/姉妹船「八幡丸(751番船)」が完成
     09/同じく「春日丸(752番船)」が進水
     「新田丸」「八幡丸」「春日丸」のイニシャルN、Y、Kは、日本郵船の略称NYKとなるように命名される
     3隻ともに1万7150瓲、三菱ツェリータービン2万5200馬力、速力22.474節、旅客定員283人
     1、2等公室全部に冷暖房設備を施し、艤装品には国産の優秀製品を採用
     全般にわたり統一のとれた、瀟洒な装飾・設備は…
     大西洋に君臨する「クイーンメリー」「ノルマンディー」にも劣らない豪華客船として海運界、造船界から注目
     のち春日丸」は商船として就航することなく、進水直後に特設空母に改造と決定
     船殻工事の大部分と艤装工事の30%を三菱長崎造船所で行なう
       「春日丸」
       1940(昭和15)11/佐世保海軍工廠で特設空母「大鷹」への改装に着手
       「大鷹」は改造空母の中で唯一開戦前に就役した空母
       1941(昭和16)09/05竣工
       1944(昭和19)08/18フィリピン北方海域で米潜水艦「ラッシャー」の雷撃を受け1本の魚雷が命中し沈没
       「八幡丸」
       1942(昭和17)01/大鷹型の2番艦として呉海軍工廠で特設空母「雲鷹」への改装に着手
       1942(昭和17)05/31竣工
       のち南方方面への輸送業務に従事。何度も魚雷攻撃を受ける
       1944(昭和19)09/17シンガポールから日本に向かう途中、
       南支那海で米潜水艦「バーブ」の魚雷攻撃を受け翌朝沈没
       [新田丸]
       1942(昭和17)05/大鷹型3番艦として呉海軍工廠で特設空母「冲鷹」への改装に着手
       1942(昭和17)11/25竣工
       それまでの戦訓を踏まえ、より大がかりな改装が加わる
       のち空母としての生涯のほとんどを横須賀〜トラックの飛行機輸送として従事
       1943(昭和18)12/03トラック島から日本に向かう途中、
       八丈島沖で米潜水艦「セイルフィッシュ」の魚雷攻撃を受け翌朝沈没
     3隻ともに速力が21節の鈍足で、機動部隊と共に行動はできず、もっぱら航空機や兵員の輸送、船団護衛等に従事
     また、その速力の遅さが原因で全て潜水艦の雷撃により沈没
  03/28内務省の通達があり、不敬にあたる芸名や外国風のカタカナ芸名が敵性語として改名させられる
     芸人は16人が適用
  03/企業整備により問屋制を廃止し、長崎鮮魚介集荷組合を組織
     魚類の配給機構は日華事変の進展とともに国家統制が加えられる
     1941(昭和16)04/長崎市鮮魚介出荷統制組合が設立。出荷統制業務を行なう
  03/長崎バス(株)の整備工場が大浦町から松ケ枝に移転
     1950(昭和25)09/松ケ枝町から岩川町に移転
     1955(昭和30)10/05岩川町から茂里町に移転
     新工場の面積4800平方米、1日の整備能力30両
     1990(平成02)茂里町営業所の隣接地から神の島工業団地内に移転
     神の島工業団地内は敷地面積約1万0800平方米の地
  04/01南高来郡島原町、杉谷村、安中村が合併し島原市となる。長崎県下で3番目に市政を施行
     1949(昭和24)08/01南高来郡愛野村に町制が敷かれ愛野町となる
  04/01北松浦郡江迎村に町制が敷かれ江迎町となる
     04/17北松浦郡大野村に町制が敷かれ大野町となる
     北松浦郡生月村に町制が敷かれ生月町となる
  04/021899(明治32)07/14に公布された「要塞地帯法」が法律第九十号として改正。1915(大正04)に続くもの
     新たに(1)爆発物の使用や貯蔵、(2)山林や原野での焚火、
     (3)運動場・競馬場・飛行場・高周波電流を発する設備の新設又は変更、等を規制する条文が加えられる
     注目すべき点は「要塞地帯」の幅員が拡大されたこと
     それまで要塞の「防御営造物ノ各突出部ヲ連結スル線」より「二千二百五十間(約4km)以内」だったのが
     「一萬五千メートル(15km)以内」と改められる
     要塞地帯が拡大されたことにより、12月2日、陸海軍省告示によって要塞地帯が指定され直される
     1943(昭和18)11/13勅令第八百六十八号により「要塞地帯法戦時特例」が公布される
  04/17北松浦郡大野村に町制が敷かれ大野町となる
     北松浦郡生月村に町制が敷かれ生月町となる
     11/03北松浦郡世知原村に町制が敷かれ世知原町となる
  04県立長崎工業学校が丸尾町から上野町(現南山高校)に移転
     1945(昭和20)08/09原爆で全校舎が焼失
  05/01長崎市営交通船が松が枝町〜旭町の航路を新設し運行開始
  05/15橘神社鎮座祭が執り行なわれる
     1976(昭和51)05/25橘中佐顕彰奉賀会が結成
  05/15アメリカのデュポン社がナイロン・ストッキングを全米で発売
     それまでアメリカのストッキング市場は日本の絹製のものが独占
     以降、ナイロン製のものに王座を明け渡す
     初年度だけで6400万足もの大ヒット商品に
  05/31石田昇がアメリカでかかっていた肺結核が悪化したため松沢病院内(旧巣鴨病院)で死亡。享年64才
     石田は長崎医学専門学校精神病学教室の初代教授。留学先のアメリカの病院で同僚の医師ウォルフを射殺
     事件当時、石田は心神耗弱、心神喪失など被害妄想からくる犯行で精神異常
     裁判では無期懲役刑(終身刑)の判決を受けてメリーランド刑務所に収容、服役していた
  05/島原半島にシービューホテルが開業
  05/親和銀行が志佐銀行を合併
     1941(昭和16)04/大村銀行、玖島銀行、九十九銀行を合併
  06/01逓信省がデンマークの大北(グレート・ノーザン)電信会社長崎支局の通信運用権を接収
     「わが領土内に外国の通信租界を置いておくことは防諜上からもまずい」
     支局舎に長崎電信局第2通信課を新設し運用、従来の通信課は第1通信課となる
     デンマークの大北電信会社は1871(明治04)以来、長崎に海底電信線を陸揚げし外国通信を運用
     日本としては通信上、数々の支障があり開設後数度の条約改訂が行なわれ、最後の改訂された条約期限が1940(昭和15)末
     大北電信会社は長崎における営業権を日本政府に無償返還
     1941(昭和16)12/08午前11時50分、大東亜戦争の勃発により長崎―上海間の海底線が不通になる
  06/04ソビエト連邦からの発注の耐氷型貨物船が引き渡されず商船として竣工した「地領丸」を海軍が徴用
     耐氷能力に目をつけ特務艦(運送艦)「宗谷」として配備される
     のちミッドウェー海戦に動員される
     1945(昭和20)10/01船舶運営会所属、引揚輸送に従事する
  06/14隅田川の築地と月島の間に勝鬨橋が完成
     「皇紀2600年」を記念して月島地区で開催予定であった日本万国博覧会へのアクセス路とする計画の一環
     博覧会は日中戦争が激化し、軍部の反対と参加国の減少が確実になり中止となるが橋は無事完成
     「東洋一の可動橋」と呼ばれるほどの評判を得る
     1日に5回、1回につき20分程度跳開する
  06/21北松浦郡各地に腸チフス患者が続出
  06/25香港上海銀行長崎支店の建物を長崎県が買収し梅香崎警察署が移る
     1954(昭和29)07/大浦警察署と改称
  07/10長崎県営自動車運輸事務所(長崎県営自動車)が大波止の玉江町3-5に移転
     1941(昭和16)06/01長崎県営自動車運輸事務所を長崎県自動車局と改称
  07/15東彼杵郡福重村に腸チフス26人
  07/25佐世保市赤崎方面に赤痢患者25人
  07/30佐世保市内の赤痢すでに40人
  07/30米、麦が配給切符制となる。大人1日2合3勺、砂糖は1か月半斤に
     12/木炭と酒の配給制が追加される
     1941(昭和16)10/米の配給が切符制から通帳制に改められる
     1942(昭和17)01/塩の通帳制配給が実施される
     1942(昭和17)02/味噌、醤油の通帳制配給、衣料の点数切符制が実施される
  08/16佐世保市に真性コレラ患者
  08/28壱岐全島に腸チフス蔓延、すでに36人
  09/01北高来郡小栗村、小野村、有喜村、真津山村、本野村、長田村、諫早町が合併し諫早市となる
     人口4万3987人、長崎県下で4番目に市制を施行
     1940(昭和15)11/03北高来郡湯江村に町制が敷かれ湯江町となる
  09/01「大阪朝日新聞」と「東京朝日新聞」の題号が「朝日新聞」に統一される
  09/07西海町営船所有の横瀬丸が貨物船となる
     1941(昭和16)09/01燃料不足により大八丸1隻にて運航
  09/22国民健康保険組合、8組合が新たに誕生、総員5万8000人になる
  09/23欧州にてフランスが敗戦。日本が北部仏印に進駐
     1941(昭和16)07/南部仏印に進駐
  09/27日・独・伊の三国軍事同盟が締結
  10/07「長崎くんち」
     (5)…寄合町、勝山町、紺屋町、台場町の4町のみ奉納。踊り内容は不明
     *小屋入りの参加…寄合町、桜町、小川町、内中町、西上町、八百屋町、勝山町、
     恵美須町、紺屋町、炉粕町、伊勢町、台場町、八千代町、御船町、瀬崎町、浪ノ平町
     非常時下1937(昭和12)以来、奉納踊は遠慮
     戦意高揚戦勝記念の意味をこめ奉納踊復活の機運が高まり、この年16町が参加
  10/17下県郡鶏知村に町制が敷かれ鶏知町となる
     1955(昭和30)03/01下県郡鶏知町と船越村が合併し美津島町となる
  10/26大浦海岸通りイギリス、アメリカ領事館前の埋立地に長さ100米の木造2階建倉庫、通称「目かくし倉庫」が建つ
     倉庫内に荷物は入れず憲兵や特高警察が陣取って領事館を監視するなど機密保持の対策が講じられる
  10/日本郵船の豪華客船「橿原丸」(2万7700総瓲)が時局緊迫のため三菱長崎造船所で特設航空母艦「隼鷹」に改装
     戦争に駆り出される
     1944(昭和19)12/長崎港外で雷撃を受け中破
  10/ホーム・リンガー商会が閉鎖
  11/01三菱長崎造船所第2船台にて戦艦「武蔵」進水
     全長263米、幅36.9米、排水量6万9100瓲、15万馬力、速力27節、乗員2500人
     世界最大の主砲46糎3連装3基。射程距離41粁、30粁先の厚さ43糎の装甲板が貫通
     3連装砲塔の旋回部だけで2200瓲に
     建造費として1937(昭和12)の見積書に6253万8550円と記される
     1942(昭和17)05/20長崎を出港し呉軍港へ向かう
     第1艦隊第1戦隊に編入、「大和」と交替し連合艦隊旗艦に
  11/02長崎電鉄が向島航路を休止。第3ドック辷りへ運航
  11/03東彼杵郡彼杵村に町制が敷かれ彼杵町となる
     1942(昭和17)02/11東彼杵郡三浦村、鈴田村、萱瀬村、福重村、松原村と大村町が合併し大村市となる
  11/03北高来郡湯江村に町制が敷かれ湯江町となる
     1955(昭和30)02/11北高来郡江ノ浦村と田結村が合併し飯森村となる
  11/03南松浦郡三井楽村(福江島)に町制が敷かれ三井楽町となる
     1941(昭和16)04/01南松浦郡青方村(中通島)に町制が敷かれ青方町となる
  11/03北松浦郡世知原村に町制が敷かれ世知原町となる
     1941(昭和16)01/01北松浦郡佐々村に町制が敷かれ佐々町となる
     北松浦郡星鹿村と御厨村が合併し町制が敷かれ新御厨町となる
  11/03小西六が国産初のカラーフィルム「さくら天然色フヰルム」を発表し、発売
     のち日本の写真用カメラフィルムのトップブランドのひとつとして成長する
  11/10長崎市が市民運動場で紀元2600年記念行事を開催。奉祝仮装行列を催す
  11/10宮城外苑で内閣主催の「紀元二千六百年式典」が盛大に開催される
     式典のために寝殿造の会場「光華殿」が設営される
      開会の辞(近衛首相)、君が代奉唱、近衞首相による寿詞奏上、勅語下賜、
      軍楽隊・東京音楽学校による紀元二千六百年頌歌斉唱、万歳三唱閉会の辞(近衛首相)
     西暦1940年が神武天皇の即位から2600年にあたり橿原神宮や陵墓の整備
     年初の橿原神宮の初詣ラジオ中継にはじまり、紀元節には全国11万もの神社において大祭
     展覧会、体育大会など様々な記念行事が全国各地で催される
     「神国日本」の国体観念を徹底させる動きが時節により強められ、行事は押し並べて神道色の強いものに
     特別観艦式、全国基督教信徒大会、観兵式、奉祝会、美術展覧会、武道天覧試合(剣道・柔道・弓道)、
  11/長崎バス(株)が西彼杵半島一円の乗合自動車を運営する長彼自動車を買収
     長彼自動車社屋が長崎バス時津営業所に
  11/大日本産業報国会が結成
  11/日本郵船発注の商船「春日丸」が佐世保海軍工廠で特設空母「大鷹」への改装に着手
     「大鷹」は改造空母の中で唯一開戦前に就役した空母
     1941(昭和16)09/05竣工
     1944(昭和19)08/18フィリピン北方海域で米潜水艦「ラッシャー」の雷撃を受け1本の魚雷が命中し沈没
  12/08長崎市商工団体連合会の発足を祝い長崎市民運動場で体育大会を開く
     商工団体相互の融和団結の促進と商工業従業員の体育向上を図る趣旨による[〜1942(昭和17)毎年開催]
     大会には23団体から500余人の選手が参加して競技を行なう
     男子優勝の魚問屋組合が会議所会頭旗を、女子優勝の菓子工組合が市長旗を獲得する
  12/10長崎医大高南病棟(35床)は結核患者で満床状態に
  丸尾町の県立長崎工業学校が上野町に移転
  梁橋が架け替えられる
  島鉄バスが島原〜雲仙の運行を開始
  松浦信太郎が丸山町の遊廓角海老を譲り受けて経営を開始
     角海老は遊廓・角油屋として明治の初めに創業。
     1958(昭和33)01/売春禁止法施行前に女性従業員の身の振り方を決め、旅館に転業
     過去の未練を断ち明るい経営に切り替える
  丸山町の「千歳」が「錦」と名称を変えふぐ料理をはじめる
     のち大村航空隊専用の待合となる
  皇紀2600年にあたり外地神社の北京神社、南洋神社(パラオ)、建国神廟(満州国)などの海外神社が建立される
  東京麹町山下町の徴兵生命保険の建物(鹿鳴館・華族会館)が取り壊される

1941(昭和16)【昭和】 辛巳(かのとみ)

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