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〈江戸時代(6)〉

1673(寛文13、延宝01・09/21)【霊元】 癸丑(みずのとうし)

  《将軍》[第4代]徳川家綱(徳川宗家)
  《奉行》牛込忠左衛門(09/着)、岡野孫九郎(09/発)
  《代官》末次平蔵(4代)茂朝
  《商館長》マルティヌス・カエサル(←10/29→)ヨハネス・カンファイス

  01/16安禅寺の上に徳川家霊廟「東照宮」の建設に着工。10/16竣工。奉行牛込忠左衛門の命による
  01/25幕府が長崎代官4代目末次平蔵に命じ船大工たちに建造させた唐船造御船が志州安乗沖で海難により沈没
     02/頃幕命を受け改良型の2艘目を建造
  04/03福州福清県の唐僧、隠元隆●(王偏に奇)(82)が没する。日本禅宗黄檗派の開祖
  04/本博多町奉行屋敷で失火、市街5、6町を延焼
     新高麗町の五郎右衛門が仲間数人と盗みを計画、放火したことが仲間長兵衛の訴えにより判明
      主謀者五郎右衛門・江戸伺いの結果06/08磔に。子も斬罪に
      仲間の筑前の者・才兵衛(22)06/08
      東上町・次左衛門(18)06/08刎首掛獄門
      今魚町・長左衛門(33)、本鍛冶屋町・宇兵衛(23)、今魚町・甚左衛門(33)06/09五島嵯峨島へ流罪
      今鍛冶屋町・三左衛門(29)、東中町・長左衛門(29)翌年02/10余罪あり斬罪
      古町・長兵衛は咎めを許され褒美に銀30枚を受ける
  07/09《05/25》イングランド船リターン号以下3隻が日本の江戸幕府に貿易再開を求め長崎に来航
     王政復古後、イングランド王位についたチャールズ2世は日本との通商再開を目指す
     幕府より対応を命じられた長崎奉行は
     チャールズ2世とポルトガルのカタリナ王女との婚姻問題を取り上げて問題視
     イングランド側がかつて一方的に商館を閉鎖した事を非難
     貿易再開要求を拒否して改めてイングランド船の来航を禁じる命令をくだす
     06/25幕府が拒否を示す
     07/27リターン号は長崎を出航【06/27?】
  「長崎くんち」(1)…丸山町、寄合町、船津町、樺島町、本博多町、
     平戸町、八幡町、麹屋町、北馬町、万屋町、西浜町、銀屋町、諏訪町
  11/09時を報せる島原町一ノ堀(のち堀町)の報時所(鐘撞所)を今籠町の大光寺北側境外畑地に移す
     1766(明和03)03/14総町の願い出により豊後町の高札場跡地に移転
  倉田次郎右衛門により水道「倉田水樋」が創設
     水源は伊良林の矢の平川(若宮川)と銭屋川の合流地である旧水神社裏手に湧く清泉
     水源に石造りの水樋を築き、市中に木樋その他で配水する
     八幡町を起点に中島川左岸は八幡町から東浜町(のち銅座跡)、右岸は大井手町から西築町
     それぞれの街路を3尺から5尺掘り下げ木樋を埋設、配水幹線とし、支樋を通じて各町に給水
     恩恵は66町中50余町に及ぶ
     1674(延宝02)奉行所が倉田水樋の給水、修理にあたる水樋係を新設して倉田氏に世襲させる。年俸2貫目を支給
  立山屋敷(立山役所)が竣工する
     大目付井上筑後守が長崎に下向したときに使用した立山の屋敷跡に奉行所を竣工。旧サンタマリア教会の地
     外浦町の東屋敷(東役所)を立山に移す。外浦町の旧役所を西役所と称する
     1678(延宝06)07/17夜、外浦町の唐通事頴川藤左衛門宅2階より出火
     本宅を消失し、西役所や江戸町の諏方神事器具庫を類焼
  天草代官が長崎への米の輸送事務のため小島郷に詰所と米蔵を建てる
     1720(享保05)08/天草代官所所属の小島郷(梅香崎・南瀬崎)の米蔵を長崎所属に改められる
     1724(享保09)南瀬崎の米蔵が南の御蔵という名称に
  式見に浄満寺が創建
  出来大工町の乙名・若杉喜三太がが自邸の楠木正成公守護神・若宮稲荷五社大明神を伊良林に移設
     伊良林稲荷神社(現若宮(勤皇)稲荷神社)を創建
     1868(明治01)12/15長崎裁判所総督の澤宣嘉が伊良林の稲荷神社を参拝。社号を伊良林稲荷神社と名づける
     若宮さまの名称で親しまれる
  新橋町〜本大工町に石橋の東新橋が架かる
     1721(享保06)閏07/28洪水で流失
     1742(寛保02)アーチ石橋を再架。費用は新橋町、本大工町の掛り町が負担
     1795(寛政07)07/19洪水で再び流失
     1796(寛政08)05/26仮橋が流失
     1800(寛政12)09/06銀12貫目の公費負担で石橋を完成
     1982(昭和57)07/23大水害で流失ののち再架
  岩国の錦帯橋が長崎在住の唐僧で医師の独立(どくりゅう・人名)の示唆により木造の5連アーチ橋として創建される
     全長193.3米、幅員5.0米
     1674(延宝02)洪水により流出。アーチ間の橋台を石垣で強固に再建
  甲比丹より医術修得証明書を得た蘭通詞の西玄甫が江戸に召され幕医となる
  市街各町の境界に門をつくる
  江戸町の150坪と、浦五島町の7.5坪が埋立てられる
  開業医で西流外科を興した西玄甫が幕医に召される
  イギリス船リータン号が長崎でビスケットを注文する
  博多の松屋利右衛門が長崎でオランダ人から玉子ソーメンの製法を習う
  九左衛門(32)がかたりを仕り小盗をする。母親、叔父から訴訟され長崎十里追放となる
     「犯科帳」に「穢多」の呼称が初出
  雲仙満明寺が火災で焼失し藩主松平氏により再建される
     1997(平成09)満明寺の本堂が改築される
  三井高利が江戸本町一丁目に呉服店を開業し、屋号を越後屋とする。現金掛値なし、反物の切売りなどの新商法を導入して繁盛
     のち三井家(のちの三井財閥)の基礎を築く。三井中興の祖
     1904(明治37)12/06創業時の越後屋呉服店と三井家の三井呉服店が合併。株式会社三越呉服店となる
  唐船20隻、蘭船6隻が入港

1673(寛文13、延宝01)頃

  岩原川の船津町〜恵美酒町に架かる木橋の名称が新橋から本新橋となる
     中島川の新橋町〜本大工町に東新橋が架かったため
     1717(享保02)石橋に架け替える

1674(延宝02)【霊元】 甲寅(きのえとら)

  《将軍》[第4代]徳川家綱(徳川宗家)
  《奉行》岡野孫九郎(09/着)、牛込忠左衛門(09/発)
  《代官》末次平蔵(4代)茂朝
  《商館長》ヨハネス・カンファイス(←10/19)(10/20→)マルティヌス・カエサル

  06/下オランダ人ウイレム・テン・ライネが出島商館医として来日
     1675(延宝03)甲比丹とともに江戸参府
     1676(延宝04)帰国後に樟脳、茶を欧州に紹介する
  10/24夜、油屋町で放火
     筑後の者・仁右衛門(37)、同・市左衛門(31)、肥前平戸の者・弥五兵衛(36)翌年01/18町中引廻の上火罪
     以下5人は放火の際、3人と相謀り盗賊の企てが発覚
     筑後の者・鶴之助(17)、肥前田代の者・市兵衛(25)、肥後の者・弥左衛門(41)、
     長崎紙漉町の者・彦左衛門(38)、肥前平戸の者・小左衛門(49)翌年01/18町中引廻の上刎首掛獄門
     以下2人は放火の企てに加わったことが発覚
     筑後の者・庄右衛門(47)、大村の者・吉左衛門(37)斬罪
  12/10今博多町より出火
  「長崎くんち」(2)…丸山町、寄合町、榎津町、西古川町、磨屋町、本紙屋町、
     新橋町、新大工町、大村町、本五島町、金屋町、出来鍛冶屋町、今町
  西築町と下町の間の入江328.7坪、296.6坪、17.2坪が順次埋立てられる
  唐船御船の船頭嶋谷市左衛門に江戸の南方、母島など無人島調査を密命
     1675(延宝03)06/22《閏04/29》苦難の末、無人島を発見、父島湊内に錨をおろす
  蘭人が大馬を献上する
  奉行所が倉田水樋の給水、修理にあたる水樋係を新設して倉田氏に世襲させる。年俸2貫目を支給
     1707(宝永04)水樋役の倉田次郎右衛門が官許を得て高野平郷(現小島小学校付近)に水源を求める
     木樋「出島水樋」を出島オランダ屋敷に給水
     給水料金として年間に蘭人から銀3貫600目を徴収。うち銀3枚を運上銀として納入。残りで水樋修繕他に
  イギリスの臨床医学者トーマス・ウィリスが、尿に含まれる成分を何としても知りたくなる
     患者の尿を舐めて甘く感じたのが糖尿病確認のきっかけに
  唐船22隻、蘭船6隻が入港

1675(延宝03)【霊元】 乙卯(きのとう)

  《将軍》[第4代]徳川家綱(徳川宗家)
  《奉行》牛込忠左衛門(09/着)、岡野孫九郎(09/発)
  《代官》末次平蔵(4代)茂朝
  《商館長》マルティヌス・カエサル(←11/07→)ヨハネス・カンファイス

  春/代官の末次平蔵家人7人と町民4人が矢上で村民と争う。傷を負わせ村民は11人を拘禁
     帰国途次の島原侯松平主殿頭が幕命により裁く。長崎方1人を斬る、2人を流し、矢上方9人を50日間の禁獄に
     長崎方は大いに憤り、以後、唐蘭船貨物の上方への輸送は矢上通過をやめ時津まわりに変更
     運賃が1駄につき銀3匁5分割高となる
  閏04/05唐船御船の船頭嶋谷市左衛門が幕命により唐船模造船で伊豆下田を出航
     06/22《閏04/29》苦難の末、江戸の南方、母島など無人島を発見、父島湊内に錨をおろす
     翌日調査を開始。5月中に探検し、父島・母島に神社を建立、日本領土明示の標柱を建てる
     06/20帰港。珍獣、奇木を将軍に献上する
  05/米不足で米価が高騰し庶民の難儀が加わる
     崇福寺の唐僧千呆が托鉢をして米を集め飢民に施粥。はじめ500人、のち1500人に及ぶ
     岡野奉行は米10俵を贈り、代官、町年寄、豪商らも競って施与する
     07/末まで
  07/25夜、西上町より出火
  08/28夜、今石灰町より出火
  12/26夜、大音寺下北比良より失火、今鍛冶屋町に延焼
  「長崎くんち」(3)…丸山町、寄合町、油屋町、今石灰町、下筑後町、
     今鍛冶屋町、今籠町、西中町、東中町、豊後町、本下町、外浦町、島原町
  出島商館医のオランダ人ウイレム・テン・ライネが甲比丹とともに江戸参府
     1676(延宝04)帰国後に樟脳、茶を欧州に紹介する
  江戸町浜手の船番屋敷内に米蔵(浜蔵)を建てる
     2万0450石の米を入れ残った古米は払下げに
     1719(享保04)07/位置が不便なため北瀬崎に移転。総坪数1561坪、土蔵3軒
     1724(享保09)北の御蔵という名称に
  蘭人が縞毛馬を輸入する
  万屋町の魚屋、高野勇助がカラスミの店、高野家を創業
     高野勇助は野母崎方面に赴きボラのマコを塩漬けにしたからすみを作る
     売り出したところ味が評判に
     1712(正徳02)長崎奉行から幕府へ献上されるようになる
     幕府は勇助に年俸銀100匁を下賜。献上は維新まで続く
  ロンドン郊外グリニッジ地区のテムズ川河畔グリニッジ・パーク内にグリニッジ天文台ができる
     設計はイングランド国王チャールズ2世が設計。初代天文台長はジョン・フラムスティード
     海洋国家のイングランドは航海の支援を目的として天文台を建設
     外洋の航海には正確な緯度と経度の計測が不可欠で、見渡す限りの海で緯度の目安となるのは星
     北極星の位置や角度から船の緯度が割りだせ、一方経度の測定には正確な時刻を知ることが必要なため
  イタリア出身のフランスの天文学者ジョヴァンニ・カッシーニが土星の環に隙間を発見
     カッシーニの間隙(カッシーニの空隙、カッシーニの隙間とも)
  唐船29隻、蘭船4隻が入港

1676(延宝04)【霊元】 丙辰(ひのえたつ)

  《将軍》[第4代]徳川家綱(徳川宗家)
  《奉行》岡野孫九郎(09/着)、牛込忠左衛門(09/発)
  《商館長》ヨハネス・カンファイス(←10/27→)ディルク・ド・ハーズ

  09/デンマークの数学者で天文学者のオーレ・レーマーが初めて光速度を測定
     木星の衛星が木星に隠れる周期の変化と木星までの距離から光速を計算し約22万 km/s という値を得る
     1983(昭和58)10/第17回国際度量衡総会で真空中の光速が2億9979万2458米/秒(約30万粁/秒)と定義される
  「長崎くんち」(4)…丸山町、寄合町、新興善町、今下町、西築町、東上町、
     南馬町、大黒町、新石灰町、東浜町、東古川町、中紺屋町、本古川町
     諏訪と住吉の神輿2社分を新調
  銀屋町の光源寺が火災により類焼し、伊良林郷の現在地に移築
  各町2人の支配により火の用心水桶等、消防器具を設け消防要員を置く。長崎町火消の初め
     1673(延宝01)の倉田水樋の完成で長崎の消防体制が強力になる下地ができる
  代官末次家4代平蔵茂朝と嫡子平兵衛の国禁品の密貿易が発覚
     父子は隠岐に流罪、一類は斬罪その他に処せられる
     前年、禁を犯し密かに商船を唐国へ遣わし、日本の絵図、刀剣など国禁品を輸出
     磔や斬罪があるのに平蔵父子流刑ですんだのは投銀(投資)のみで、直接商売に関与しなかったため
     末次家の資産60万石の大名に匹敵する財産はことごとく
     長崎代官の制度がなくなる
     のち勝山の家屋敷は町年寄高木作右衛門に与える
     1739(元文04)03/15代官再設される。御用物方高木作右衛門忠与が長崎付地方3千石の代官に。御用物方も兼務
     幕末まで世襲する
  新橋町の正覚寺が境内狭溢を理由に小島郷現在地に移転
  末次家没落後、代官事務は町年寄のうち2人が加役(兼務)で外町を支配
     1739(元文04)03/15代官再設
  奉行牛込忠左衛門が寛文の大火で焼失し一時中絶していた東上町の長崎聖堂(立山書院)を再興
     南部草寿を聖堂祭酒に任じ塾師に。長崎発の官学
     1711(正徳01)08/伊勢町の鋳銭所跡に移転、545坪の長崎聖堂(中島聖堂)が竣工【1714(正徳04)?】
     伊勢町の敷地は立山に比べ3.5倍に拡張
  新紙屋町の宝輪寺が高野平郷(現油屋町)に移転
     1972(昭和47)上戸町に移転
  十善寺郷の廣済寺が正覚寺境内に移る
     1883(明治16)正覚寺内から独立、現在の中新町に移転
  出島商館医のオランダ人ウイレム・テン・ライネが帰国後に樟脳、茶を欧州に紹介する
  外町の宅地を検地し箇所数を定める。間口5間、奥行15間で1箇所に
  人口増加にともない、海岸、河岸を埋築し市街を拡張
     西築町と下町の間の入江249.9坪、樺島町588.68坪、船津町225.46坪、内中町88坪、大黒町117.76坪と27.19坪、
     西濱町740坪、恵美須町194.6坪、船大工町343.76坪、本籠町769.2坪、諏訪町川端46.68坪、新橋町川端59坪、
     中紺屋町川端36.9坪、東濱町972.3坪と65坪、萬屋町75.9坪、榎津町40.7坪、本古川町6.8坪、今鍛冶屋町227.7坪
     うち中島川沿いに長さ74間、幅10間740坪を築出し薩摩藩、久留米藩、五島藩の蔵屋敷を置く
  唐船24隻、蘭船4隻が入港

1676(延宝04)頃

  総町80町(内町26町・外町54町)
     (内町)島原町、大村町、外浦町、平戸町、江戸町、本下町、今下町、樺島町、東築町、西築町、本博多町、
     新町、堀町、本興善町、後輿善町、新興善町、引地町、金屋町、今町、本五島町、浦五島町、豊後町、桜町、
     内中町、小川町、船津町
     (外町)本籠町、船大工町、本石灰町、丸山町、寄合町、油屋町、今石灰町、新石灰町、今籠町、今鍛冶屋町、
     出来鍛冶屋町、本鍛冶屋町、東濱町、西濱町、榎津町、本古川町、東古川町、西古川町、銀屋町、磨屋町、
     諏方町、毛皮屋町、紙屋町、本紙屋町、新紙屋町、新高麗町、出来大工町、新大工町、北馬町、南馬町、大井手町、
     古町、今博多町、桶屋町、今紺屋町、中紺屋町、本大工町、今魚町、酒屋町、袋町、本紺屋町、材木町、炉相町、
     勝山町、八百屋町、東上町、西上町、東中町、西中町、上筑後町、下筑後町、大黒町、恵美酒町、出島町

1677(延宝05)【霊元】 丁巳(ひのとみ)

  《将軍》[第4代]徳川家綱(徳川宗家)
  《奉行》牛込忠左衛門(09/着)、岡野孫九郎(09/発)
  《商館長》ディルク・ド・ハーズ(←10/16→)アルベルト・ブレフィンク

  05/10本古川町の鋳物師萩原祐佐に造らせた真鍮製の踏絵板20枚が真に迫った出来栄えのためキリシタンと疑われ処刑される
     1858(安政05)春/年中行事の絵踏行事が日米修好通商条約の締結によって廃止される
     踏絵板は長崎奉行所の蔵に収められる
  09/28夜、新橋町より出火
  09/30夜、長崎村本河内郷より出火、1人焼死
  10/13諏方社の能太夫早水主馬が八幡町に舞台を設け初めて勧進能を公開
  11/黄檗僧鉄心道胖(俗姓陳氏)が真言宗智覚院を譲り受け寺基を定める
     鉄心道胖は唐商陳朴純(中国人)と西村氏(松月尼・日本人)との間に生まれる
     木庵に嗣法、長崎奉行の要請で、母方唐通事西村家の財力により黄檗宗の寺を創設
     1678(延宝06)春/上筑後町に諸殿堂を建立
     1678(延宝06)04/晋山式を挙げ、寺を万寿山聖福寺(黄檗宗)と称する
     唐4福寺(興福寺・福済寺・崇福寺・聖福寺)のうちのひとつ
     大雄宝殿も建立。棟梁は堺の人。細部にはよく清朝様式が取り入れられ唐寺の雰囲気がよく醸し出されている
     1679(延宝07)04/黄檗山万福寺の末寺となる
     1694(元禄07)長崎で一番大きな梵鐘が寄進される。俗に鉄心の大鐘と呼ばれる。鐘には撞木が両側につけられる
     1703(元禄16)山門が建立される
     1705(宝永02)天王殿が建立
     天王殿は中央に仏殿があり左右に通り抜けられる門がある
     1717(享保02)09/梵鐘が再鋳される
  「長崎くんち」(5)…丸山町、寄合町、東築町、桜町、小川町、内中町、
     西上町、八百屋町、勝山町、恵美須町、今紺屋町、炉粕町、伊勢町
  晧台寺第5代住持の逆流が丈六の毘盧舎那大仏を鋳造する。身の丈1丈6尺(5.33米)、台座6尺(2米)
     逆流は華厳社がありながら毘盧舎那大仏がないのを遺憾に思い信者の協力を得て建立
     1681(天和01)仮大仏堂を建立
  崇福寺の大雄宝殿安置の十八羅漢が完成する。江西省南昌府豊城県の仏師潤陽ほか2人の作
     十八羅漢は他の唐3福寺にはなく、長崎では崇福寺のみ
     1681(元和01)大雄宝殿が上層に入母屋造屋根を付加し2階建てに重層化
     1階の黄檗様式に対し2階は和様式
  唐僧心越と慧雲[のち慧●(庁の丁なし)]が長崎に渡来。興福寺に入る
     のち心越は水戸に、慧雲は伊予に招かれて長崎を去る
  儒者で医者で立山書院(聖堂)の創設者、向井元升(68)が京都で没する
     元升は佐嘉神崎の人。名を玄松、字以前、号観水・霊蘭。天文、地理、経学、本草学、医学を修める
  唐通事東海家2代目徳左衛門が始祖の敬雲夫妻を祀るための墓と本家と分家の墓が一応完成する
  江戸町の大波戸が狭いために26坪余を埋築する
     内町、外町の人夫をもって3か所
  唐船29隻、蘭船3隻が入港

1678(延宝06)【霊元】 戊午(つちのえうま)

  《将軍》[第4代]徳川家綱(徳川宗家)
  《奉行》岡野孫九郎(09/着)、牛込忠左衛門(09/発)
  《商館長》アルベルト・ブレフィンク(←11/04→)ディルク・ド・ハーズ

  03/20《01/28》第38期の長崎阿蘭陀商館長アルベルト・ブレフィンクが江戸参府のため長崎を出発
     05/05《03/15》将軍家綱に拝謁
     06/16《04/27》長崎に帰着。40期商館長も勤める
  春/黄檗僧鉄心道胖(俗姓陳氏)が真言宗智覚院を譲り受け上筑後町に諸殿堂を建立
     04/晋山式を挙げ、寺を万寿山聖福寺(黄檗宗)と称する
     唐4福寺(興福寺・福済寺・崇福寺・聖福寺)のうちのひとつ
     大雄宝殿も建立。棟梁は堺の人。細部にはよく清朝様式が取り入れられ唐寺の雰囲気がよく醸し出されている
     1679(延宝07)04/黄檗山万福寺の末寺となる
  07/17夜、外浦町の唐通事頴川藤左衛門宅2階より出火。本宅を消失し、西役所や江戸町の諏方神事器具庫類焼
     残火は江戸町北隅の米屋太兵衛宅、南は掛屋船本弥平次宅まで及ぶ
     藤左衛門は責任を感じて謹慎するが、日ごろの勤務ぶりにより役職は解かれず
     江戸表から「売高壱貫目に付二匁目宛出し申候、当年売高凡千貫目余御座候に付二十二貫目合力仕候」するよう沙汰が出る
     結果、藤左衛門の家は唐商人たちの醵出金により再建
     1679(延宝07)03/1日250人を動員し西役所の再建がはじまる
  08/25夜、東築町より出火
  「長崎くんち」(6)…丸山町、寄合町、本大工町、今魚町、今博多町、
     本籠町、本紺屋町、材木町、上筑後町、江戸町、後興善町、古町、本興善町
     この時期の神事の費用は慶長銀、12貫目から16貫目
     神輿のお供は、男は大小の刀を帯び女は覆面
  本鍛治屋町が萬屋町と改称
  10/20夜、丸山町乙名与三兵衛(遊女屋主人)が酒に酔い遅く帰宅
     戸をたたくと登楼客の金屋喜右衛門の下男市平が戸をあける
     酔眼もうろうの与三兵衛は自分の家の下男と勘違いし、戸の開け方が遅いとさんざんと殴る
     あまりの騒ぎに喜右衛門は、その場に行き、下男にひとこと「やれ」と
     下男は与三兵衛を斬り殺す
     10/21御調べにて喜右衛門は「殺せ」といわなかったと抗弁。遊女たちも証人として呼びだされる
     のち下男市平は斬罪
     喜右衛門は銀10貫目あまり提出。萬屋町(旧本鍛冶屋町)と東築町の間によろす橋を架けることで一件落着に
     1721(享保06)閏07/28大洪水では無事
     1795(寛政07)07/19少し損じるが往来の妨げはなし
     1796(寛政08)05/26〜06/06橋が崩落
     1801(寛政13)08/28石橋が銀12貫目の公費で再架
     1915(大正04)橋面コンクリートの鉄桁橋に架け替えられる
     1971(昭和46)鉄筋コンクリート造に架け替え
     2005(平成17)川幅拡張のために架け替えられる
  今博多町の徳苑院が禅林寺に譲与、八幡町に移転。禅宗妙心派の徳苑寺に改称
     1868(明治01)廃寺に
  江戸町の諏方神事器具庫など焼失のため、供奉の町人は奉行所備え付けの弓と鉄砲各10挺の貸与を受けて帯刀
     女子は覆面で供奉
  出島オランダ商館と江戸町を結ぶ木橋が石橋に改められる
     1888(明治21)頃中島川の流路変更工事に伴い出島の北岸が削られ、石橋がはずされる
  朝鮮の草梁項(現釜山)に李氏朝鮮政府が日本からの通交特使のために設けた客館・新倭館が落成
     その大きさは東西450間、南北250間【規模は諸説あり一定しない】。全面積は約10万坪(出島の25倍)
     高さ6尺の石垣の外側には堀をめぐらし、門が2か所がある
     東に守門(平常の通用門)、北の宴席門は平常は開かず、れん官が来るときだけ開く
     中央に龍頭山、その東に館主館、接礼や貿易のための大庁、裁判所、代官屋、通詞屋が並び、寺院(東向寺)もある
     滞留の日本人(すべて対馬人)は館主以下の役人を含め約600人
      長崎の出島とは正反対に、日本から朝鮮におもむき、対馬藩のみの人たちが鎖国下に堂々と貿易に従事した
     1873(明治06)02/新政府外務省が接収
  人に対しての輸血実験禁止の命令が各国で時の権力者からだされ輸血は行なわれなくなる
  松尾芭蕉が「桃青」の号で談林派時代に「オランダ商館長」を詠み込んだ句をつくる
     はるかに遠いオランダ国の使者まで、将軍の前に拝謁にやってくる結構な新春との意味の歳旦吟
      かびたんもつくばヽせけり君が春
     1679(延宝07)松尾芭蕉が「桃青」の号で「阿蘭陀」を詠み込んだ句をつくる
     花の季節にくるもの珍しいオランダ使節カピタン一行の乗馬姿に興を催す
     謡曲「鞍馬天狗」の「花咲かば告げんといひし山里の、使いは来たり馬に鞍」を思い合せる
      阿蘭陀も花に来にけり馬に鞍
  唐船26隻、蘭船3隻が入港

1679(延宝07)【霊元】 己未(つちのとひつじ)

  《将軍》[第4代]徳川家綱(徳川宗家)
  《奉行》牛込忠左衛門(09/着)、岡野孫九郎(09/発)
  《商館長》ディルク・ド・ハーズ(←10/24→)アルベルト・ブレフィンク

  02/25《01/15》第39期の長崎阿蘭陀商館長ディルク・ド・ハースが江戸参府のため長崎を出発
     04/11《03/01》将軍家綱に拝謁
     05/22《04/13》長崎に帰着
  03/前年7月の火災で類焼した西役所の再建が1日250人を動員してはじまる
     08/西役所が竣工
     1698(元禄11)04/08夜、七つ半に長崎奉行諏訪下総守頼蔭在勤の西役所より出火【04/11?】
  04/上筑後町の万寿山聖福寺(黄檗宗)が黄檗山万福寺の末寺となる
     唐4福寺(興福寺・福済寺・崇福寺・聖福寺)のうちのひとつ
     1694(元禄07)長崎で一番大きな梵鐘が寄進される。俗に鉄心の大鐘と呼ばれる。鐘には撞木が両側につけられる
  08/1678(延宝06)の火災で類焼を受けた西役所が竣工
  11/堂門川(西山川)の出来大工町に、永島仁左衛門ト意が在留唐人たちの財を募り石橋の桃溪橋(卜意橋)が創建
     この辺りは河畔に桃の木が多くあり、桃の名所として有名
     橋長13米、幅員3.5米、径間(アーチ差渡し)9.8米、拱矢(アーチ高)3.7米
     崩落の記録はない
     1971(昭和46)10/21中島川石橋群として阿弥陀橋、高麗橋、袋橋とともに市指定有形文化財となる
     1982(昭和57)07/23大水害で一部破損
     1984(昭和59)12/14補修を終えて開通。補修を終えて開通。原型に修復
  「長崎くんち」(7)…丸山町、寄合町、引地町、浦五島町、桶屋町、
     本石灰町、酒屋町、大井手町、袋町、船大工町、堀町、出来大工町、新町
  諏方社の拝殿、廻廊、能舞台が完成
     1683(天和03)08/玉園山神宮寺の寺号をやめて神道一式となる。寺号を賜ったのは1648(慶安01)
  崇福寺の大檀越魏之●(王遍に炎)が木廊橋の古川町橋(本紺屋町橋)を石橋に改める
     1721(享保06)閏07/28大洪水で少なくとも被害は受ける
     1795(寛政07)07/19崩流
     1796(寛政08)05/26仮橋が流失
     1803(享和03)07/24銀12貫目の公費で再架
     1912(明治45)02/03鉄筋コンクリート橋に改築、常盤橋に改名
     石造り半円橋の古川橋が交通上不便のため本紺屋町、本古川町、西古川町の3町民が工費1556円を市に寄付
  西泊天満神社が創建
  今籠町の廃絶しようとしていた宗円寺を晧台寺第5代住持の逆流が晧台寺の末寺に
     妙相寺と改め再興。開山は逆流
     1706(宝永03)晧台寺第3代住持毒龍が今籠町の妙相寺を本河内郷の修験道場跡に修造移建する
  松尾芭蕉が「桃青」の号で「阿蘭陀」を詠み込んだ句をつくる
     花の季節にくるもの珍しいオランダ使節カピタン一行の乗馬姿に興を催す
     謡曲「鞍馬天狗」の「花咲かば告げんといひし山里の、使いは来たり馬に鞍」を思い合せる
      阿蘭陀も花に来にけり馬に鞍
  唐船33隻、蘭船4隻が入港

1680(延宝08)【霊元】 庚申(かのえさる)

  《将軍》[第4代]徳川家綱(徳川宗家)(→05/08)、[第5代]徳川綱吉(館林徳川家)(08/23→)
  《奉行》岡野孫九郎(03/12退任)、川口源左衛門(宗恒・前目付・03/25発令・08/着)、牛込忠左衛門
  《商館長》アルベルト・ブレフィンク(←11/11→)イザーク・ファン・スヒンネ

  01/11肥後熊本越中守より米2千石を購入
  03/元諏方社の跡に移った天満宮の社殿を長崎奉行牛込忠左衛門勝登が整備
     新築や改築で正殿、拝殿から正門まですべての建物が整備、松森神社の落成大祭が行なわれる
     長崎奉行牛込忠左衛門が「涼しさや御影とたのむ松の森」を詠じ、神前に奉納
     松森神社(松森天満宮)の名称の基になった句
     由来は、境内に同根3株の立派な松の木があり、「松」と木が3つでできている「森」の文字が当てられる
     奉行の要請で豪商魏之●(王篇に炎)が正門を寄進
     1713(正徳03)長崎奉行久松備後守定持らが松森神社を大改修
     本殿周囲を飾る「職人尽(ほり物)」が奉納される
     彫刻者は御用指物師喜兵衛・同藤右衛門。長崎奉行御用絵師小原慶山が下絵を描く
  04/米500俵を福済寺に渡し04/17から富商・唐紅毛の大通詞により施粥。1日3千人が集まる
  06/18漂着パタン(波丹)人18人を日向から長崎に護送する
     波丹は台湾に近い島。18人のうち12人は長崎で死亡
     09/残り6人が蘭船で本国へ送還する
  08/豊後町と桜町の間の水溜り35坪の二ノ堀が涸水がちとなり埋められる
     桜町通筋一面に土砂を埋め左右に石垣を築き上げる
  08/大波戸の制札場(高札場)を豊後町と桜町の間の埋立地に移す。昼番1人、夜番3人勤務
     1765(明和02)08/豊後町の制札場(高札場)を立山役所下の八百屋町に移る
  暮頃/諸国に風水害や干害があり、長崎への回米が不足。市民が困窮する
  「長崎くんち」(1)…丸山町、寄合町、船津町、樺島町、本博多町、
     平戸町、八幡町、麹屋町、北馬町、万屋町、西浜町、銀屋町、諏訪町
  11/造酒高は去年の半分とされるが長崎は「異国人数その外諸外国の者入込み申すにつき、去年の米高酒造」をしてよいことに
  伊勢宮が鎮座する新高麗町が伊勢町と改称
  米穀窮迫の兆し。1俵24匁5分が30匁に
  崇福寺中興2代千呆が仏具を売却し飢民に施粥。1日5150人が集まる
  南部草寿が立山書院の塾師を辞し京都に帰る
     たまたま向井元升の3子元成(去来の弟)が京都から帰崎、塾師となり、書物改役に補される
  町人・荒木伝兵衛が奉行の許しを得て十善寺村海岸115坪を埋築
     かっての中島川が長崎港に注ぐ河口の前方に位置していた十善寺郷地内の土地
     元は天神山と呼ばれたが、唐船の貨物土蔵などが建ち長崎奉行の牛込忠左衛門が「梅香崎」と名づける
  徳川家4代将軍家綱の時代、牛込忠左衛門が長崎村小島郷十善寺(十禅寺)跡に長崎御薬園を開設
     長崎での薬園の実際の開設はこれ以前にさかのぼる
     長崎代官末次平蔵が密貿易で入手した珍しい草木やその種子を支配下の空地になっていた十禅寺跡を開拓し植えたのが始まり
     密貿易が発覚し末次家が没落。幕府がこの薬園を没収して拡張し、正式に御薬園として管理をはじめる
     薬園跡と付近あわせた8766坪(現館内町)を唐船舶載の薬草植え付け地に指定。栽培を開始、薬は幕府に献上する
     1688(元禄01)薬園の役目を終える
     新たに立山奉行所内(現立山町)に御薬園が開設
     立山奉行所内では狭くて不自由なところも
     1720(享保05)薬園の役目を終える
     新たに小島村の天草代官所跡地(小島郷十善寺)に御薬園が移される
     1179坪(現十人町)に立山役所内の薬草木を移し、更に輸入した薬草木を植える
     吉宗により海外から有用植物の輸入が奨励されたこともあり、受け入れの窓口を果たしていた長崎の薬園の業務が増える
     受け入れた苗や種子は一旦栽培した後、江戸の小石川や駒場の御薬園に送られる
     また、幕府用品が不足した場合は直接に献上したり、奥医師に高額で売り渡す
     1809(文化06)薬園の役目を終える
     1810(文化07)西山郷(下西山町)に1228坪の御薬園が開設
     前の十善寺郷の御薬園は海岸に近く、潮風を受けるため薬草木の栽培に適さず、更に適地を求めて移転
     場所は松森神社の石垣に沿った斜面でそこを三段に分けた段々の圃場
     和漢洋の薬種数100種を栽培、薬効を明らかにし幕府の調達に
     1867(慶応03)薬園の役目を終える
     維新後西山御薬園がいったん長崎県の所有となる
     のち土地と薬草木は入札により売却され、御薬園としての幕を閉じる
  木鉢郷に神崎神社が創建
  唐船29隻、蘭船4隻が入港

1680(延宝08)頃

  本木良意がレムメリンの解剖書を訳す
  ドイツの作曲家ヨハン・パッヘルベルがカノンを作曲する
     ヨハン・パッヘルベルは南ドイツ・オルガン楽派の最盛期を支えたオルガン奏者で教師でもある

延宝年間(1673〜1681)

  丸山町、寄合町の遊女屋74軒のうち日本人行きの大夫を抱えているのは約5軒、大夫127人のうち10人のみ
     特に抜群な者しか日本行きの遊女にはなれず、はじめ唐人行きであった者が抜擢されて昇進
     日本行き大夫10人のうち金山、出羽、市之丞、小紫の4人は全盛の名妓
     「遊女薄雲のような名妓を唐人行きにしておくのは卑怯だ」と抱主の引田屋は世人から批難される
  それまで平堰と呼ばれていた地を長崎奉行牛込忠左衛門勝登が京都洛北の鳴瀧にちなみ「鳴瀧」と命名
  長崎ガラスが玉屋六右衛門などのビードロ細工師の活動に始まる
     享保年間(1716〜1736)長崎土産として有名になるまで発展
     眼鏡類や宙吹き素文のガラス器類、髪差し、笄(こうがい)、玉飾りのつり灯籠など
  毛皮屋町が新橋町となる

1681(延宝09、天和01・09/29)【霊元】 辛酉(かのととり)

  《将軍》[第5代]徳川綱吉(館林徳川家)
  《奉行》牛込忠左衛門(04/09退任)、宮城監物(和充・前目付・05/12発令・09/着)、川口源左衛門(09/発)
  《商館長》イザーク・ファン・スヒンネ(←10/31→)ヘンドリック・カンシウス

  01/17福済寺の2代住持慈岳が毎日従僧を率い托鉢をして浄財を募り、寺内で穀をもって施粥をはじめる
     米不足で長崎に餓死者がでる。人心に不安がつのるようになる
  01/20伊勢町の左兵衛(30)が物取りのため伊勢町に放火を企てる
     夜、今町の直入による訴えで役所より与力、同心、町使、散使、船番などが出動、事無きを得る
      伊勢町・左兵衛(30)03/09町中引廻の上火罪
     以下3人は放火には加わらないが年来左兵衛と盗人仲間であることが判明
      伊勢町・才兵衛(43)、伊勢町・八兵衛(33)、伊勢町・二郎兵衛(22)03/09町中引廻の上刎首掛獄門
     以下6人は放火には加わらないが年来一味として盗み荒らす悪人と判明
      伊勢町・助左衛門、作右衛門、清右衛門、権兵衛、大黒町・伊右衛門、八幡町・十助03/09五島へ流刑
      今町・直入は放火に組みしたが訴えにより褒美として白銀30枚を受ける
      03/12直入は郷里の有馬家の家来へ身柄を引き渡される
      11/13身持ちが治まらず有馬の国法律により斬罪
  04/20牛込奉行は官米500俵を内町、外町に給する。総町は米を施粥用として福済寺に送る
     05/頃施粥を受ける者は1日2千〜3千人に及ぶ
  09/回米不足で、再び飢餓となる
     09/15崇福寺中興2代千呆が粥を煮、多数の窮民を救う
     托鉢をし、また官米を請け、また豪商の喜捨により、さらには書籍や器物を売るなどをする
     1682(天和02)05/5月まで続く
  11/15夜、材木町より出火
  「長崎くんち」(2)…丸山町、寄合町、榎津町、西古川町、磨屋町、本紙屋町、
     新橋町、新大工町、大村町、本五島町、金屋町、出来鍛冶屋町、今町
  崇福寺の大雄宝殿が上層に入母屋造屋根を付加し2階建てに重層化。1階の黄檗様式に対し2階は和様式
     1766(明和03)02/27明和の市中大火で三門が類焼する
  中紺屋町と今紺屋町をつなぐアーチ石橋のすすき原橋が架かる
     1721(享保06)閏07/28洪水で崩流
     1722(享保07)11/中紺屋町、今紺屋町の掛り町が拝借銀を願い再架
     1795(寛政07)07/19破損
     1796(寛政08)05/26〜06/06崩流
     1804(文化01)07/26再架
     1982(昭和57)07/23大水害で流失ののち鉄筋コンクリートで再架
  山口屋貞助が本大工町に松翁軒を開き、天下に誇る砂糖漬やカステラをつくり出す
     1789(寛政01)5代要次郎が砂糖漬を改良。ざぼん漬の製法を習得して売出す
     のち6代幸次郎が寒菊を製作
     1861(文久01)7代熊吉が飾菓子の名手としてその名が知られる
     のち8代貞次郎は珍重されていたチョコレートに心を惹かれ元祖伝来のカステラにチョコレートの味を加える
     1890(明治23)8代貞次郎はパリの大博覧会にカステラを出品。金牌を受賞
     のちセントルイス万国大博覧会にカステラを出品。名誉大金牌を受賞
  本木庄太夫が「詳解内景鈔(阿蘭陀経絡筋脈臓腑図解)」を著す
  出来鍛冶屋町と豊後町の町火消しが火災時には豊後町と桜町の間の制札場(高札場)に詰めることに
     1765(明和02)08/制札場(高札場)が八百屋町に移るが火災の際の詰めは従前に同じ
  丸山、寄合町の遊女屋74軒、遊女数766人(太夫127人)
     1692(元禄05)丸山町の遊女577人、寄合町の遊女866人と最多に
     1902(明治35)丸山町、寄合町両町の貸座敷39軒、芸妓180人、娼妓520人
  晧台寺で仮大仏堂を建立する
     1723(享保08)木造本瓦葺入母屋造の大仏殿「華厳閣」が落成する。5間半四方
  インド洋マスカリン諸島のモーリシャスに生息していた飛べない鳥ドードーが絶滅
     飛ぶことも速く歩くこともできないドードーはオランダ人入植者によって食料や見世物として乱獲される
     イギリス人ベンジャミン・ハリーの目撃を最後に姿を消す
  諸国不作で米価が高騰、特に唐船入港数少なく、地下銀の配分が減ることに
  丸馬場の安禅寺が東叡山より厳有院(四代将軍家綱)の位牌を賜る
     これを機に、以後、免租朱印地に準じ歴代将軍の位牌を安置することとなる
     のち長崎における東照宮として崇敬を集める
     1687(貞享04)以降、歴代長崎奉行が頻繁に参詣。奉行交替に際しては、随時の居館になるのが慣例に
     そのため行装所として門外に屋舎を建てて従臣の宿泊に備える
  長崎の家数1万1065(家持3697・借家7366)、人口5万2702(男2万7798・女2万4904)、かまど数1万1060
     寺40、社10、石橋17、木橋13、官船9、米蔵4。造酒家160戸、造酒高3781余石。長崎、浦上両村石高2600石余
  唐船9隻、蘭船4隻が入港
     唐通事会所日録では入港唐船隻数を30とする

1682(天和02)【霊元】 壬戌(みずのえいぬ)

  《将軍》[第5代]徳川綱吉(館林徳川家)
  《奉行》川口源左衛門(09/着)、宮城監物(09/発)
  《商館長》ヘンドリック・カンシウス(←10/20→)アンドリース・クレイエル

  01/13長崎村西山郷より出火
  01/前年からの飢饉が続く。崇福寺の千呆が官米を請けて施粥を実施【こ】
     02/崇福寺の千呆は施粥のため大釜を造る
     04/14大釜の鋳造が終了。即日、寺に運ばれる
     大釜の鋳工は鍛冶屋町の鋳物師安山弥兵衛国逵。鋳造の代は1貫300目。深1.73米、径1.86米、重量1.18瓲
     一度に米630瓩を煮て粥にする
     のち回米が次第に順調となり釜の使用も月余になる
     05/15崇福寺の施粥はやむ
  福砂屋が米32俵を崇福寺に寄進、救助に協力
  02/19幕府は奉行所などの蔵にあるキリシタン遺品や書類など、1679(延宝07)以前の物は総て焼却処分に
  03/24〜26夜来の大雨で家、水車、長久橋が流失。船大工町が崖崩れで死者2人、小川町も家屋が浸水
     のち長久橋が数回洪水のため流失、再建する
     1804(文化01)05/13大雨洪水で西浜町と東築町の間の長久橋が流出。家屋の流出も多数
  05/キリシタン訴人賞銀を増額。初めて「立ちかえりの者」の訴人に対する懸賞金を加える
     いったん棄教した者のキリシタン復帰を防止する。嘱託銀制を強化し、密告を奨励する
     バテレン銀500枚、イルマン銀300枚、立ちかえりの者300枚、同宿および宗門100枚
  05/前年9月から続く崇福寺中興2代千呆の救済が終わる
     千呆は托鉢をし、また官米を請け、また豪商の喜捨により、さらには書籍や器物を売るなどをして、粥を煮、多数の窮民を救う
  07/すい星が出現。のちハレー彗星と命名される
  08/唐船の工社(水夫)が丸山の遊女屋で口論
     打擲されたのを唐船の船主たちが憤り丸山へ行くことを停止する申し合せ
     違反したら罰金を科すことにし、見張番を丸山の入口に詰めさせる
     遊女屋たちは困り果て年番大通詞の林道栄に託言を延べ仲裁を頼み漸く円満解決
  08/植物研究家でプロシア人のアンドリース・クレイエルが甲比丹として来朝し4年間滞在
     薬学者で薬学・医学・植物学の知識深く、日本植物を研究し1360種の図説を発表、欧州に紹介
  11/11夜、勝山町より出火
  12/05夜、長崎村馬場郷より出火
  「長崎くんち」(3)…丸山町、寄合町、油屋町、今石灰町、下筑後町、
     今鍛冶屋町、今籠町、西中町、東中町、豊後町、本下町、外浦町、島原町
  博多中島町の市兵衛が兄の半右衛門から職場を追い出されたのを恨み「兄はキリシタンだ」と訴えでる
     市兵衛は兄とともに長崎に護送され取り調べ
     のち結果、偽りの訴人をしたことを自供。町中引き回し、桜町札場にさらした上、磔に処す
  オランダ人のジョージ・マイステルが来任
     1685(貞享02)再来、2年間滞在し日本の植物を採取
  参府の蘭人が白書院でオランダの歌をうたい聞かせる。内外科と路程の書を贈呈する
  出島に初めて探番がつめる
     それまでは船番1人、町年寄常行司の家来1人ずつで諸事帳面に書載せ毎朝奉行所に差し出していた
  第7回朝鮮通信使使節団が来朝。正使は尹趾完、総人数473。使命は徳川綱吉の将軍職就任祝い
     通信使の江戸往復は対馬藩宗氏が終始その先導・護衛にあたる
     1711(正徳01)第8回朝鮮通信使使節団が来朝。正使は趙泰億、総人数500。使命は徳川家宣の将軍職就任祝い
  井原西鶴(41)が処女作「好色一代男」を完成させる。江戸時代前期の代表的な文芸作品で8巻8冊
  唐船26隻、蘭船4隻が入港

1683(天和03)【霊元】 癸亥(みずのとい)

  《将軍》[第5代]徳川綱吉(館林徳川家)
  《奉行》宮城監物(09/着)、川口源左衛門(10/発)
  《商館長》アンドリース・クレイエル(←11/08→)コンスタンティン・ランスト・ド・ヨンゲ

  01/25《天和02-12/28》大火「天和の大火」が起きる。八百屋お七
     のち江戸本郷の八百屋太郎兵衛一家は檀那寺(諸説あり)前に仮小屋を建てしばらく住む
     のち太郎兵衛の娘お七が寺の小姓生田庄之助(諸説あり)と人目を忍ぶ恋仲になる
     しかし太郎兵衛の新居が元の場所にできたため、門前の仮住いを引きはらうことに
     03/02火事があれば庄之助に会えると、はかない女心で考えたお七は夜、近所に放火
     のちたちまち見つかり未遂に終わる。お七は捕らえられ奉行所に引き立てられる
     03/18〜10日間江戸市中を引きまわされる
     04/25《03/29》鈴が森刑場で火刑に処される
     【旧暦と新暦が入り乱れている可能性あり】
  02/03幕府が長崎奉行に令して奢侈品・珍奇品の輸入を禁じる
     諏方神事に際し垂が華美に走る事を戒め、町人の帯刀を禁止し、踊り町民の衣類などは木綿を用いるなど質素にさせる
  04/通達
     1)女の衣類に金糸縫惣鹿の子、縫紋などしてはならない
     2)遊女の衣類も絹、紬、木綿を用いること
  05/通達
     諸社祭礼に出るものは帯刀してはならない
     衣類などは全て絹、紬、麻布、木綿を用いること
  08/諏方社が玉園山神宮寺の寺号をやめて神道一式となる。寺号を賜ったのは1648(正保05、慶安01)
     1722(享保07)諏方社の長坂が73段に改修される
  08/通達
     ベンカラ縞、かいき、北絹、ぱあ4色は長崎の者に限り、従来、紗綾などを着用したほどの者だけ許す
  09/14オランダの博物学者レーウェンフックが虫歯菌を発見
     歯の間に寄生するたくさんの微生物を顕微鏡で発見し虫歯の原因を突きとめ学会に報告
  「長崎くんち」(4)…丸山町、寄合町、新興善町、今下町、西築町、東上町、
     南馬町、大黒町、新石灰町、東浜町、東古川町、中紺屋町、本古川町
  長崎奉行所の通達
     1)羅紗、猩々緋其他毛織物類
     2)生糸
     3)衣類にならない織物
     4)薬類の外植物の類など舶載してきても購入してはならない
  唐船がいりこ、ほしあわび、ふかのひれの3品の俵物を輸出する
  唐船27隻、蘭船3隻が入港

1684(天和04、貞享01・02/21)【霊元】 甲子(きのえね)

  《将軍》[第5代]徳川綱吉(館林徳川家)
  《奉行》川口源左衛門(09/着)、宮城監物(09/発)
  《商館長》コンスタンティン・ランスト・ド・ヨンゲ(←10/28)(10/25→)ヘンドリック・ファン・バイテンヘム

  01/20唐僧で福済寺開法黄檗山2代の木庵性●(74)が没する
  04/05幕命により戸田又兵衛、小田切喜兵衛が来崎。唐蘭貿易の実態を検分する
     07/11長崎をあとに帰府へ
     のち調査復命に基づき貿易諸制度の改革が行なわれる
  04/江戸市中に出版取締令を公布する。瓦版などを禁止
  「長崎くんち」(5)…丸山町、寄合町、東築町、桜町、小川町、内中町、
     西上町、八百屋町、勝山町、恵美須町、今紺屋町、炉粕町、伊勢町
  長崎で疫病が流行し死者7千余人に
  幕府が江戸小石川に薬苑を開設
  唐船24隻、蘭船5隻が入港

1685(貞享02)【霊元】 乙丑(きのとうし)

  《将軍》[第5代]徳川綱吉(館林徳川家)
  《奉行》宮城監物(09/着)、川口源左衛門(10/発)
  《商館長》ヘンドリック・ファン・バイテンヘム(←10/07)(10/17→)アンドリース・クレイエル

  02/唐、蘭船の需要がなくなり伊勢町の鋳銭所(中島銭座)が廃止となる
  06/02ポルトガル船サン・パウロ号が伊勢度会郡神社村の漂流民12人を護送して来航
     長崎奉行は国禁を説き、食糧薪水を与える
     08/01帰帆させる
  秋幕府が、それまでの市法売買法から再び糸割符制度を復活させる。定高貿易法となる
     幕府が金銀流出の問題から長崎貿易の貿易仕法を再検討。初めて貿易額の制限を実施
     御定高商売法が制定され1年間の貿易額を制限する
     唐船銀6千貫目(金10万両)、オランダ船銀3千貫目(金5万両)
     加えて生糸の輸入額を制限。唐…総輸入額の4分の1に、蘭…3分の1に
     生糸は糸割符制、その他の商品は相対貿易となる
     しかし激増する唐船の要求を到底満たすことができない
     のち銅代物替貿易と称して銅が金や銀に代わって輸出される
     1698(元禄11)中国貿易に銀2千貫目分の俵物諸色による代物替が許可され、唐船の数が80隻に増加
     糸割符会所を幕府の長崎貿易官営化として貿易を司る役所「長崎会所」と改め正式に発足
     町年寄筆頭高木彦右衛門が勘定奉行直属の幕吏身分、異国商売吟味定役并運上銀納方役となる
     長崎会所は外国貿易と運上事務を統括。市政・貿易を中心に会計事務や貿易業務の一切を取り扱う
      貿易額の決算から地役人約2千人の諸給与、地下配分、幕府への上納金、
      市内や長崎10か村の徴税・貿易品入札・品物の引渡しなど
      天災・人災による被害の復旧や災民救済にかかる多額費用は「非常備金」「貧民救助米代」の名目で長崎会所が支出
       以前の災民救済は幕府に直接救済を頼み大坂金庫より支出
     彦右衛門のもと町年寄4人に兼任を含む請払役12人と筆者小役15人の陣容
     一般貿易収入以外に取引高に比例して得た礼銀などを長崎奉行、目付、地役人、特権商人、長崎町人へ配られる
     利益銀の「箇所銀」「かまど銀」(ボーナス?)が7月と12月に配分される
  12/内中町の張八兵衛が隣家へ脇差を抜き不作法をはたらいた上、火の元を散らかす
     町内組頭書面にて訴えられる12/05五島へ流刑
  長崎貿易制御令がだされ、銀の輸出は制限。銀に変わって銅が輸出の中心となる
  「長崎くんち」(6)…丸山町、寄合町、本大工町、今魚町、今博多町、
     本籠町、本紺屋町、材木町、上筑後町、江戸町、後興善町、古町、本興善町
  唐船で輸入した天文学書「寰有栓(かんゆうせん)」にキリシタン関係記事が発見される
     1687(貞享04)までに38種類が摘発され疑惑が深まる
     キリシタン禁制と密貿易の取締りが強化される
     1689(元禄02)06/02《04/15》に完成する唐人屋敷への発端の事件のひとつ
  オランダ人のジョージ・マイステルが1682(天和02)に次いで再来、2年間滞在し日本の植物を採取
  台湾生砂糖の白砂糖が初めて長崎に大量入荷
     のち全国的に白砂糖のブームが沸き起こる
  対馬藩主・宗義真が府中(厳原)に学校を建て小学校と名付ける。家臣の子弟を教育
  唐船で輸入した天文学書「寰有栓(かんゆうせん)」にキリシタン関係記事が発見される
     1686(貞享03)唐船輸入漢籍「福建通志」がキリスト教に関係あるものとして摘発され焼き捨てられる
     のち1687(貞享04)までに38種類が摘発され疑惑が深まる
     キリシタン禁制と密貿易の取締りが強化される
     1689(元禄02)06/02《04/15》に完成する唐人屋敷への発端の事件のひとつ
  唐船85隻(内積戻船12)、蘭船4隻が入港
     積戻船は貿易額の制限により商品を陸揚げすることなく追い返される唐船
     貿易額に一定の制限を設けても来航船のうち何隻で枠に達するかは不明
     密貿易が発生する端緒にもなる

1686(貞享03)【霊元】 丙寅(ひのえとら)

  《将軍》[第5代]徳川綱吉(館林徳川家)
  《奉行》大沢左兵衛(基哲・前目付・08/21発令)、川口源左衛門(09/着)、宮城監物(09/発・11/04免職閉門)
  《商館長》アンドリース・クレイエル(←11/05→)コンスタンティン・ランスト・ド・ヨンゲ

  01/01後興善町より出火
  03/18昼、春徳寺より出火、全焼する。飛び火し約2町離れた民家5戸を類焼
     後山で誰かが揚げた火矢が原因
     のちみだりに火矢を揚げることを禁じる
     春徳寺……のち再建1699(元禄12)春徳寺の境内に崎陽芭蕉門人が芭蕉句碑を建立、時雨塚をつくる
  閏03/16大浦前面の海底から漁師が南京焼物道具など荷物18個を引き揚げる
     抜け荷の品とみて黄金20枚をかけ訴人または自首を呼びかける。申し出はなし
  09/16諏方社・皓台寺・大音寺・本蓮寺に対し朱印状交付される
  09/27倉田水樋を創設した町乙名の倉田次郎右衛門吉重(年齢不詳)が没する
  11/奉行の宮城が伺いを立てず死刑を執行。免職閉門となる
  「長崎くんち」(7)…丸山町、寄合町、引地町、浦五島町、桶屋町、本石灰町、
     酒屋町、大井手町、袋町、船大工町、堀町、出来大工町、新町
  丸馬場の安禅寺が以降、歴代長崎奉行が頻繁に参詣。奉行交替に際しては、随時の居館になるのが慣例に
     そのため行装所として門外に屋舎を建てて従臣の宿泊に備える
     免租朱印地に準じ歴代将軍の位牌を安置することとなり、長崎における東照宮として崇敬を集めたため
     1689(元禄02)新地御庫の土后祠、弁才天祠、大黒天祠が当寺の支配になる。唐船置銀から当寺へ寄付させる
  田上に「観音院」を開創した尭存が高齢化して黄檗宗の僧、天州和尚に後の住職を委任。同宗の「石動山観音寺」となる
     開基には天州の師で臨済34世黄檗山万福寺第4代住持独湛を仰ぎ天州は開山
     唐船寄進銀受納資格を持つ黄檗山直属の末寺となる
  唐船輸入漢籍「福建通志」がキリスト教に関係あるものとして摘発され焼き捨てられる
     のち1687(貞享04)までに38種類が摘発され疑惑が深まる
     キリシタン禁制と密貿易の取締りが強化される
     1689(元禄02)06/02《04/15》に完成する唐人屋敷への発端の事件のひとつ
  唐船102隻(内積戻船18)、蘭船4隻が入港

1686(貞享03)頃

  市中に唐人歌が流行。「九連環」は諸国に広まる
     唐船主の魏九官が明清楽を伝える
     主要楽器は月琴であり、一般には月琴節とも。長崎に家庭にも普及
     宴席での踊りを「看々踊」といい唐人たちは遊女たちと合奏し踊る

1687(貞享04)【東山】 丁卯(ひのとう)

  《将軍》[第5代]徳川綱吉(館林徳川家)
  《奉行》大沢左兵衛(01/着・05/28死去・晧台寺に埋葬)、
      山岡十兵衛(景助・前御先鉄砲頭・02/18発令・07/着)、
      宮城主殿(和澄・前目付・08/11発令・12/着)、川口源左衛門(在勤)
  《商館長》コンスタンティン・ランスト・ド・ヨンゲ(←10/25→)ヘンドリック・ファン・バイテンヘム

  01/22夜、肥前大村の九郎左衛門(33)が物取りで小島村喜右衛門宅に放火
     立ち去ろうとしたところ夜廻りに捕らえられ江戸へ伺いを立てる
      肥前大村・九郎左衛門03/22火罪
  08/唐船との密貿易の発覚を恐れ10人が自殺。定高貿易法の実施に伴い密貿易が横行する
     主謀者2人の死体を磔にし、残り8人と共犯者3人を晒首、ほか多数を追放に処す
     唐船の積荷は大波戸で焼き捨てる
  11/06紀州からルソン人の漂流者3人を護送。2人は船中で死亡、1人は上陸後に長崎で死亡
  12/09元長崎奉行の牛込忠左衛門勝登(66)が没する。墓所は江戸の宗参寺
  「長崎くんち」(1)…丸山町、寄合町、船津町、樺島町、本博多町、
     平戸町、八幡町、麹屋町、北馬町、万屋町、西浜町、銀屋町、諏訪町
  長崎奉行の与力、同心制度が廃止。町年寄制度が充分に整備されたため
     奉行抱えの給人10人、下役30人に変わる
     1842(天保13)奉行所の機能の充実が必要となり、再び与力、同心が置かれる。与力10人、同心15人
  嵐山甫安が初めて兎唇手術を行なう
  佐渡守盛鴨が江戸の賤民を五島に移し原野を開かしむる
  入港の唐船普陀山丸が丁銀を輸入する
  長崎奉行が3人制となる。2人在勤、1人在府
     奉行交替時、前任者が安禅寺に引き移ることがはじまる
     1699(元禄12)06/28長崎奉行を4人として隔年2人交代となる
     幕府は長崎貿易を重視。席次を京、大坂町奉行の上座にする
  唐船137隻(内積戻船22)、蘭船3隻が入港

貞享年間(1684〜1688)

  長崎刺繍が唐人から伝わる
     のち幕府への献上品となり、これに従事する男子が多くなる

1688(貞享05、元禄01・09/30)【東山】 戊辰(つちのえたつ)

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