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〈江戸時代(12)〉

1804(享和04、文化01・02/11)【光格】 甲子(きのえね)

  《将軍》[第11代]徳川家斉(一橋徳川家)
  《奉行》肥田豊後守(09/着)、成瀬因幡守(在勤)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヘンドリック・ドゥーフ

  05/13大雨洪水で西浜町と東築町の間の長久橋が流出。家屋の流出も多数
     1805(文化02)長久橋が再び架かる
  07/26中紺屋町と今紺屋町をつなぐ石橋のすすき原橋が再架
     1982(昭和57)07/23大水害で流失
  07/甲比丹が露使節渡来の風評を奉行所に報告する
     本国からジャカルタ経由の通報で知り内報したもので奉行より賞される
  08/幕府が南部藩、津軽藩にエゾ地の警衛を命じる
  09/上五島町の佐嘉藩屋敷の改築がなる。手狭で藩主が滞留のとき差支えるために改築
     佐嘉藩は長崎警備の任にあたる必要上、五島町に屋敷を設け常に家臣を駐在させる
     藩主も年ごとの長崎を例としたが、急変があるときは屋敷が屯所となる
     1866(慶応02)07/諸藩屋敷は大黒町の佐嘉屋敷を除いて全廃に
  09/10大田直次郎(55歳、大田南畝・狂歌師蜀山人)が長崎奉行の支配勘定役として着任
     1805(文化02)02/02蜀山人が唐館の演劇場に招待される。観劇後、画家の程赤城らと酒を酌み交わし大いに歓談
     10/10蜀山人が長崎を出発して江戸に換える
     蜀山人は出島の甲比丹の生活や長崎の風物などを記した「瓊浦雑綴」その他の著書を残す
     「瓊浦雑綴」には多くの詩歌をのせるが「長崎の山から出づる月はよか、こげん月はえっとなかばい」は有名
  10/10《09/07》ロシアのレザノフ使節がロシア船「ナデジュダ」(乗組員81人)で長崎へ来航
     仙台の漂流民、津大夫ら4人の送還が口実
     もうひとつは1973(寛政05)長崎奉行から信牌を与えられた深謝を口実に改めて通商を求めた
     奉行はロシア皇帝の親書を早飛脚で幕府へ送る。早飛脚で江戸まで9日
     隣国の諸侯に通報。大村、黒田、鍋島の諸侯は3万7800人を長崎に送り警備を固める
     奉行はレザノフの求めにより仮宿舎「露西亜舘」を梅香崎に建設、上陸を許可
     この時、大村藩は崖の畑地(現活水短大)に陣を布き、海岸際に番所を配置して警固と警戒に当たる
     諏方社では奉行の命により平穏無事の祈願祭を行なう
     幕府は通商を拒絶
     1805(文化02)03/30《02/30》幕府が対露交渉に派遣した目付遠山金四郎景晋が長崎に到着
     3回にわたり会見
     1805(文化02)04/18《03/19》幕府は通商を拒絶、票流民の送還はオランダを介するようにと令達
     レザノフは長崎を退去。景晋は乗組員に真綿2千把、塩2千俵、米100俵を贈り、航行中の食料品その他を与える
  09/25大井手町〜本紙屋町の石橋大井手橋を公費で再架
     1911(明治44)09/原形通りに架け替え
  10/13《09/10》大田直次郎(号は南畝、蜀山人)が長崎奉行所支配勘定として来崎
  12/02ナポレオン・ボナパルトがパリのノートル=ダム大聖堂で戴冠式を行ないフランス人民の皇帝に就く
     英雄が独裁的統治者となる出来事は多方面にさまざまな衝撃を与える
  「長崎くんち」(6)…丸山町、寄合町、本大工町、今魚町、今博多町、本籠町、
     本紺屋町、材木町、上筑後町、江戸町、後興善町、古町、本興善町
     西浜町の貝箱と蛤(はまぐり)製作される
  長崎奉行に勤務していた大田蜀山人が、紅毛船で初めてコーヒーを飲む
     体験を焦げ臭くて味わうにたえないと書く
  伊良林郷字垣根山にて亀山焼きが開窯【1806(文化03)?】
     初めのうちは瓶山焼と称する
  唐人2人を教師として八幡町の水神社の境内でもうせん製造の仕事を習わせる
     幕府はもうせんの国産化を計画
     奉行成瀬因幡守は唐船主にもうせんの原料羊毛と細工道具、数頭の綿羊持ち渡るよう依頼
     綿羊飼育の地は浦上村と決まり、もうせん製造の技術者として趙大本、洪文和の2人が招かれる
     のち事業は綿羊が死んだため、まもなく中止
  美人で舞踏も巧みにこなす寄合町引田屋の遊女、千代菊は長崎派洋風画家、石崎融思に師事し絵を善くする
     蜀山人大田南畝は千代菊の絵に「千代菊のちよも長崎長月のすわのまつりの折はたがはじ」と賛する
  玉園町の元唐通事頴川の邸宅の一部分が料理屋として開業。関白一条忠良が「迎陽亭」と命名
  西浜町から新地蔵に架かる新地表門前の新地橋が石橋に改める
     1894(明治27)中島川の変流で解体される
  長崎在住の唐人たちが八幡町の水神神社に天后聖母の神像(媽姐像)を新たに寄進する
     1913(大正02)12/12中川郷の低部水源地構内に移転
  唐人画家の江稼圃が来朝
     のち僧鉄翁、木下逸雲がその門に入り南画を学ぶ
     1822(文政05)再渡来する
  豊後竹田の藩校由学館の教授、田能村竹田が長崎に来遊する。吉村迂斎の詩才に驚く
  皮屋町穢多乙名の龍蔵【竜造?】が遊女吉川となじむ
     身請け妻としたとして入牢追放される。吉川は非人手下に
     他の関係者は居町追放、手錠過料の処罰を受ける
     1848(嘉永01)軽追放処分を受けた龍蔵がふたたび長崎に戻る
     露呈して獄につながれる
     2か月後獄中にて病死
  日見村の非人・喜代松は身分をかくして日雇稼ぎをしたため追放となる
  唐船11隻、蘭船2隻が入港

1804(文化01)頃

  長崎版画が最盛期を迎える〜1829(文政12)

1805(文化02)【光格】 乙丑(きのとうし)

  《将軍》[第11代]徳川家斉(一橋徳川家)
  《奉行》成瀬因幡守(03/発・10/着)、肥田豊後守(10/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヘンドリック・ドゥーフ

  01/08停泊中の露艦の軍医ラングストルフが梅香崎にて熱気球をあげる
  01/17長崎会所請払役で初期西洋画家の若杉五十八(47)が没する。本蓮寺に葬る
  01/幕府はロシア船来航につき諸藩に警戒を命じる
  02/02蜀山人が唐館の演劇場に招待される。観劇後、画家の程赤城らと酒を酌み交わし大いに歓談
     10/10蜀山人が長崎を出発して江戸に換える
     蜀山人は出島の甲比丹の生活や長崎の風物などを記した「瓊浦雑綴」その他の著書を残す
     「瓊浦雑綴」には多くの詩歌をのせるが「長崎の山から出づる月はよか、こげん月はえっとなかばい」は有名
  02/11ドーフがヘトル役(荷蔵役)と遊女10数人を同伴し浦上の梁で白魚とりの遊興をする
  03/25《02/25》伊能忠敬が61才で第5次測量を開始。畿内、中国へ
     江戸〜東海道〜浜名湖周辺〜桑名〜伊勢〜鳥羽〜紀伊半島1周〜大坂〜京都〜琵琶湖1周〜宇治〜尼崎
     〜山陽道〜岡山〜瀬戸内海沿岸〜周辺諸島〜赤間関〜萩〜浜田〜宍道湖〜松江〜隠岐〜美保関〜鳥取
     〜丹後半島〜若狭湾〜琵琶湖〜大津〜東海道〜江戸
     1806(文化03)12/24《11/15》江戸に戻る
     出張日数640日。隊員19人。測量距離5383粁。旅行距離(測量隊)6992粁、(伊能)5385粁
  03/30《02/30》幕府が対露交渉に派遣した目付遠山金四郎景晋が長崎に到着
     04/05《03/06》奉行所で露使レザノフと会見
     奉行所から人をだして漂流民4人を受け取り、以後、漂流民はオランダ本国またはジャワに送還するよう伝える
     04/06《03/07》ふたたび会見。国法を告げて通商を拒否、帰国を促す
     04/18《03/19》ロシア船、港外にでる
     04/19《03/20》出帆する
     幕府は一行滞在中の諸費一切を支弁、乗務員たちに真綿2千把、塩2千俵、米100俵を贈り、航海中の食糧品その他を与える
     露船出港の数日後甲比丹ドゥーフは奉行所役人たちを商館に招待して慰労宴を催す
     04/24《03/25》遠山金四郎が長崎を発つ。江戸へ帰る
     1812(文化09)遠山景晋が奉行として来任。江戸町奉行の遠山金四郎景元は景晋の子
     景晋は幕命により対露交渉のため1805(文化02)3月に来崎
     レザノフは長崎を退去。景晋は乗組員に真綿2千把、塩2千俵、米100俵を贈り、航行中の食料品その他を与える
  03/ドーフが遊女20名ばかりに座頭もつれて茂木の浦にいき、裸になって泳ぐ
     遊女揚代350匁、その他弁当など物入に1貫目ほどかかる
  06/28篆刻家の吉村迂斎(57)が没する。墓所は春徳寺後山
  07/遠山景晋らを松前に派遣。西エゾ地を視察させる
  09/女浄瑠璃を禁止する
  10/07イギリスのラルフウェッジウッドが書き物の複製をつくるための用具としてカーボン紙を発明。特許を取得
     カーボン紙は複写に用いる紙。油、蝋、顔料を混合し、薄い雁皮紙などの片面または両面に塗ったもの
  10/加藤千蔭が「万葉集略解」を幕府に献上する
  「長崎くんち」(7)…丸山町、寄合町、引地町、浦五島町、桶屋町、本石灰町、
     酒屋町、大井手町、袋町、船大工町、堀町、出来大工町、新町
  本蓮寺境内の大乗院に江戸の狂歌師で幕臣の大田蜀山人が滞在
  荷蔵役マルティン・マックが丸山町、大坂屋の遊女折雛に白砂糖6籠を贈る
  1803(享和03)に来朝し。毎月2日と7日に聖福寺、崇福寺で病人を治療していた唐医の胡兆新が帰国する
  桜町の町民、勝木禎輔が同町に寺小屋「嘯涛軒」を創設する
     男子180人に読書や習字を教える。整備された私塾の第1号
  幕府の取調べて「隠れキリシタン」は5千人以上に
     浦上、外海、平戸、生月、五島、天草に外見は仏教徒を装い内心でキリシタン信仰を守り抜く
  西浜町と東築町の間の長久橋が再び架かる
     1860(万延01)04/08大雨出水で長久橋が流れ、流家2戸
  宇田川玄真が「医範堤綱」を著す。3巻、解剖学に生理学と病理学を加えた医学ハンドブック
  華岡青洲が全身麻酔を世界にさきがけて実用化
  紀伊の医師華岡随賢(青洲)が初めて麻酔薬を用い乳癌を手術する
  前年のアウステルリッツの戦いに勝利した記念にナポレオン・ボナパルトがエトワール凱旋門の建設を命じる
     設計はフランスの建築家J.F.TH.シャルグラン
     場所はパリのシャンゼリゼ通りの西端、シャルル・ド・ゴール広場
     のちナポレオン政権の崩壊により中断
     1836(天保07)07/29高さ約50米、幅約45米のエトワール凱旋門が完成
     ナポレオンは凱旋門が完成する前に死去。門をくぐったのは1840(天保11)パリに改葬されたとき
  唐船12隻、蘭船1隻が入港

1806(文化03)【光格】 丙寅(ひのえとら)

  《将軍》[第11代]徳川家斉(一橋徳川家)
  《奉行》肥田豊後守(01/小普請奉行転出)、成瀬因幡守(04/07死去・本蓮寺に埋葬)、
      曲渕甲斐守(景露(出羽守、和泉守を称する)・前京都町奉行・03/04発令・07/着)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヘンドリック・ドゥーフ

  01/ロシア船来着の際、幕府は取り扱い処置を諸大名に指令する
     難破漂流して食糧に欠乏しているときは与えて出帆させる。異議を唱えるならば撃退するなど
  05/13アメリカの雑誌「バランス」に「カクテル」の定義が掲載
     「蒸留酒に砂糖、水、ビターを加えて作る刺激的な酒がカクテルである」
  07/08蘭通詞で蘭学者の志筑忠雄(47・中野柳圃)が没する
  「長崎くんち」(1)…丸山町、寄合町、船津町、樺島町、本博多町、
     平戸町、八幡町、麹屋町、北馬町、万屋町、西浜町、銀屋町、諏訪町
  物価騰貴が起こる
  唐船に元朝以前の書籍を輸入させる
  諏方社のオランダ船模型を奉行の求めにより江戸城に送り、将軍の上覧に供す
     1857(安政04)09/20諏方社が火災により焼失。オランダ船模型も焼失する
  ロシア船により樺太、利尻島への襲撃事件「文化の露寇」が起きる
     レザノフが通商を拒絶されたことへの報復として
     1807(文化04)2度目の「文化の露寇」が起きる
  現在の佐賀県牛津町で田中丸善吉が荒物商を始める
     1894(明治27)1806(文化03)に田中丸善吉がはじめた荒物商が日清戦争を機に佐世保へ進出
     1918(大正07)10/佐世保の栄町に百貨店「田中丸商店」として設立
     1931(昭和06)佐世保栄町の百貨店「田中丸商店」が商号を「玉屋」と改称
  唐船5隻、蘭船2隻が入港

1807(文化04)【光格】 丁卯(ひのとう)

  《将軍》[第11代]徳川家斉(一橋徳川家)
  《奉行》松平図書守(康英(のち康平)・前目付兼船手頭・01/30発令・09/着)、曲渕甲斐守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヘンドリック・ドゥーフ

  02/01医者の嶋田雄甫を一代施薬外科医として施薬料毎年銀10枚を与える
  02/10長崎村木場郷より出火
  03/町年寄の高嶋四郎兵衛茂紀が、長崎村小島郷雷が丘(現東小島町)の丘上1242坪の敷地に2階建の別荘を建てる
     茂紀は高島秋帆の父、別荘は「雨声楼」「齢松軒」などと呼ばれる。【1806(文化03)?】
     1838(天保09)04/04小川町から出火。大村町に住んでいた高島秋帆の本宅も類焼し、父の別荘に住む
     秋帆一家が江戸に移った嘉永06(1853)ののち門人中島名左衛門が住む
     中島名左衛門が下関で没した文久03(1863)ののち料亭「咲草屋」となる
     1870(明治03)松尾浅吉が料亭「宝亭」を開く
     のち料亭「宝亭」が数度にわたり改造
     1916(大正05)料亭「宝亭」が廃業
     1917(大正06)瓜生タツが旧「宝亭」の一部を借りて待合「辰巳」を営業
     1922(大正11)10/12敷地全体が「高嶋秋帆旧宅」として、史蹟名勝天然記念物保護法の第1回指定に選ばれる
     1929(昭和04)瓜生タツが今籠町崇福寺門前に「辰巳」を新築移転
     1945(昭和20)08/09原爆により建物が損傷
     1931(昭和26)土地が10数筆に分筆販売され旧態を失う
  04/26アメリカ船エクリプス号が入港。広東より帰航中、飲料水と食料を請う【04/27?】
     水、乾魚、豚、野菜を与える
     船長ジョセフ・オーカインの妾でサンドイッチ諸島出身の美女カリヤボウが乗船
     顔中に入墨をしており長崎市中の評判に
     04/29出港
  04/樺太とエトロフ島にロシア船が来航
  06/蘭船がアメリカ漂着の芸州人3人を護送
  06/幕府が若年寄の堀田正敦らをエゾ地防衛総督として派遣。奥羽諸藩兵を北辺守備に配置
  08/19深川富岡八幡宮の12年ぶりの祭礼日に詰めかけた群衆の重みに耐え切れず、永代橋が落橋事故を起こす
     架橋から100年余を経ていた上、昨日までの大雨で橋脚は弱ったところに一気に大勢の人が渡りだしたため
     橋の中央部よりやや東側の部分で数間ほどが崩れ落ち、後ろから群衆が次々と押し寄せては転落
     死者は実に1500人を超え、史上最悪の落橋事故に
  09/02暮、日見村の百姓利三郎、収納小屋より出火。西風にあおられ総戸数287軒のうち庄屋宅を含む39軒が焼ける
  10/06長崎村十善寺郷より出火
  10/幕府が箱館奉行を廃し松前奉行を置く
  11/19蘭大通詞の石橋助左衛門が蘭書和解のため幕府に召され出発する
     古書で古文、古語が多く江戸では翻訳困難のため長崎で蘭人とも対談したい旨を申し出
     1808(文化05)06/帰崎命令がでて銀7枚下賜。道中路銀を拝借し長崎に帰る
  「長崎くんち」(2)…丸山町、寄合町、榎津町、西古川町、磨屋町、本紙屋町、
     新橋町、新大工町、大村町、本五島町、金屋町、出来鍛冶屋町、今町
  饒田喩義著「海魚考」がなる。饒田は「長崎名勝図絵」の著者
  ロシア船が松前に渡来。フランス語の書面を残す
  寺野郷の青蓮寺川の土橋を石橋に改める
  五島にて筑前生まれの長蔵夫婦が居着きを願い出る
     御用皮細工として役銀御免となる
  レザノフが通商を拒絶されたことへの報復として、ロシア船により2度目の「文化の露寇」が起きる
  唐船7隻、蘭船2隻が入港

1808(文化05)【光格】 戊辰(つちのえたつ)

  《将軍》[第11代]徳川家斉(一橋徳川家)
  《奉行》松平図書守(08/17死去・大音寺に埋葬)、曲渕甲斐守(09/着)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヘンドリック・ドゥーフ

  01/17聖堂の助教高松南陵が没する。埋葬料銀10枚を下賜
  01/長崎奉行肥田豊後守の発案により市中永続資の制を設ける
  01/《文化04・12/》幕府がロシア船の打ち払いを命じる
     牧島、有喜、神の島などに砲台が置かれる
  02/06蘭通詞6人がドーフから初めてフランス語を習い始める
     蘭大通詞石橋助左衛門、中山作三郎、同見習本木庄左衛門、小通詞今村金兵衛、同並楢林彦四郎、馬田源十郎
     前年、ロシア船が松前に渡来。フランス語の書面を残すが、江戸では翻訳し得る者が1人もおらず
     幕府は書面を長崎に送り甲比丹ドーフが翻訳をするが、かかることがありフランス語の研究が必要と考えられる
  02/21《01/25》伊能忠敬が64才で第6次測量を開始。四国、大和路へ
     江戸〜東海道〜浜松〜気賀街道(姫街道)〜名古屋〜京都〜大坂〜舞子浜〜淡路島〜福良〜鳴門〜阿波〜室戸
     〜高知(別動〜四国縦断路土佐と伊予の国境笹ケ峰まで)〜下田〜宿毛〜宇和島〜八幡浜〜佐多岬〜松山
     〜伊予北岸〜周辺諸島〜今治〜川之江(別動〜四国縦断路)〜丸亀〜塩飽諸島〜小豆島〜淡路島〜大坂〜法隆寺
     〜大和郡山〜奈良〜大和路〜桜井〜伊賀上野〜伊勢〜東海道〜江戸
     1809(文化06)03/03《01/18》江戸に戻る
     出張日数377日。隊員15人。測量距離粁3442。旅行距離(測量隊)4568粁、(伊能)4457粁
  02/27焼失した出島のカピタン部屋再建工事に着手
     1809(文化06)01/10カピタン部屋と附属家屋が完成
  03/南瀬崎の御蔵所と新地荷蔵の水門前の海底をさらえる
  06/10日より極暑が続き、農作物はほとんど枯れる。肥前各地の農村で雨乞いが盛んに
     諏方社でも長崎村12か郷の願い出により雨乞いの祈頑を行なう
  06/森安丈右衛門が蘭国製の望遠鏡を献上し銀30枚を下賜させる
  06/蘭書和解のため幕府に召されていた蘭大通詞の石橋助左衛門に帰崎命令がでて銀7枚下賜
     道中路銀を拝借し長崎に帰る
  閏06/紺屋町〜今下町の小川筋と今魚町〜西濱町大橋下の大川筋をさらえる
  07/01一代町年寄の高島作兵衛永喜が世襲町年寄となる
  07/諏方社境内中門以下の地を向こう50年間、有事の際は筑前侯黒田氏が使用することに
  10/04《08/15》早朝、英軍艦フェートン号がオランダ国旗を掲げて強行に入港。「フェートン号事件
     商館長ドーフと長崎奉行の松平図書頭康平は気づかずに、商館員と検使役の2人を出島沖に停泊中のフェートン号に派遣
     船に近づいたところ襲撃を受け、出向いたオランダ商館員は人質に
     検使の報告を受けた長崎奉行は直ちに商館員を救出に出向くが、フェートン号は大砲や銃を装備
     長崎港警備の当番であった佐賀藩は明かに兵力不足
     フェートン号が出島を襲撃する噂
     商館長ドーフたちは、西役所に避難
     フェートン号は3隻のボートを降ろし月明かりの中を悠々と長崎港内を偵察
     10/05《08/16》朝、フェートン号が英国旗を掲げ、拘置の蘭人と引き換えに薪水と食料を高圧的に強要
     かなえなければ長崎港内に停泊している和船や唐船を焼き払うと脅す
     ときの長崎警備は佐嘉藩1000余人のはずが100余人のみ、周囲の各藩も奉行に非協力的
     長崎奉行は激怒したが、なす術もなく要求をのむ
      当時オランダはフランスのナポレオンの勢力下に入り、海外のオランダ領植民地はイギリスの勢力下に入る
      世界の中で、オランダの国旗が掲げられていたのは長崎港の出島だけ
      フェートン号には出島を占領するという思惑があったという説も
     10/06《08/17》午後、フェートン号は何事もなかったように出港
     1825(文政08)02/幕府が沿岸諸藩に異国船の打ち払いを指令する。無二念打ち払い令
  10/06《08/17》夜、長崎奉行の松平図書頭康英(41)は攻撃をせず、異国に恥をさらした責任をとり西役所で切腹
     始末を記述した遺書を残す
     「肥前へ申しても一向に取り合わず、筑前は遠路にて間に合わず、大村との連絡二刻(約4時間)早ければ…」
     佐嘉藩主の鍋島斉直は蟄居100日を命じられる
     10/15《08/26》発喪
     10/16《08/27》葬儀。大音寺に葬る
     のち市民は図書頭康英に同情し、諏訪神社境内に図書明神として祀る
  10/幕府が長崎に文書を下し、通詞に英語を学ぶことを命じる。同時にロシア語、満州語も習得させる
  10/異国船入港を知らせる斧山(烽火山)番所が再興
     1815(文化12)10/斧山の勤番が再び廃止
  10/ドーフ(33)が呼入れた寄合町の遊女屋京屋抱えの瓜生野(26)に混血児丈吉が生まれる
     ドーフはその子に道富丈吉の名をつける
     1814(文化11)12/ドーフが幕府に嘆願書を提出する
     1、丈吉をオランダに連れて帰りたいが、日本の国法では混血児の海外渡航は許されないこと
     2、丈吉を地役人に取り立て、薬種目利か端物目利にして頂きたい
     3、バタビアから白砂糖300篭を長崎会所に差し出し、会所に売却方を願ってい、
       その代銀を会所に備え付け、その利子で1か月4貫目ずつ丈吉に与えて欲しい
     のち嘆願書を受け取った遠山左衛門尉は幕府に折衝する
     1815(文化12)09/03奉行遠山左衛門尉はドーフの愛児道富丈吉と新大工町乙名を奉行所に召しだす
     ドーフの希望を入れて白砂糖の利子として年々銀4貫目ずつ丈吉に渡すこと、
     追って成人の上は相当の役目に任用すること、
     町年寄には丈吉の保護を委託することを申し渡す
     1821(文政04)08/16丈吉(14)が新規に唐物目利役に任じられる。混血児の地役人は初めて
     従来の受用銀4貫のほか役料として銀1貫目ずつ給与される
     1824(文政07)丈吉が17才で死去。晧台寺後山に葬られる
  11/町年寄の高島四郎兵衛茂紀(秋帆の父)を語学修業監督に任じ、唐通事8人を選んで満州語を学ばせる
  11/佐嘉藩主鍋島斉直が長崎警備の怠慢により蟄居100日を命じられる
     江戸詰めの鍋島斉直は事件発生から解決まで、なにも知らないままに江戸城に呼びだされ老中にきつい叱りをうける
     「肥前へ申しても取り合わず」と松平図書頭の遺書に書かれた直後の責任者、深堀豊前、鍋島主水ら鍋島の家臣7人は引責自刀
  12/11月からの2か月間に唐船、広東漂着の薩摩家臣23人を送ってくる
  「長崎くんち」(3)…丸山町、寄合町、油屋町、今石灰町、下筑後町、
     今鍛冶屋町、今籠町、西中町、東中町、豊後町、本下町、外浦町、島原町
  飢饉に備えて籾を購入させる
  本木庄左衛門正栄が「軍艦図解」を訳述する
  長崎港口の男神〜女神に鉄鎖を張って異国船を遮断する計画を立てたが役に立たず中止に
  光永寺の山門が桶屋町筋から東向きの位置に移される。向陽山と号する
  奉行から江戸へ送る状箱「御用物」を矢上村で少し破損。矢上村の飛脚問屋、急度叱りの処分を受ける
     江戸と長崎の間には定期輸送便として糸荷飛脚が栄えるが、市外矢上村の宿に飛脚問屋があり
     郵便物は早飛脚で江戸と長崎の間を9日要する
  大村町の穢多3人、非人1人が丸山町に登楼、それぞれ処罰される
  幕府が甲比丹に銀30枚を下賜。翻訳その他諸用においての協力を賞する
  直八と非人良八は遊女を買うつもりで女中に銭をわたす
     身分をわきまえざる者として手鎖を申し付けられる
  有川江ノ浜に疱瘡が流行する
  唐12船隻(内番外船1)、蘭船0隻が入港

1809(文化06)【光格】 己巳(つちのとみ)

  《将軍》[第11代]徳川家斉(一橋徳川家)
  《奉行》土屋紀伊守(廉直・前堺奉行・03/05発令・09/着)、曲渕甲斐守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヘンドリック・ドゥーフ

  01/10焼失した出島のカピタン部屋と附属家屋が完成
  01/13商館長ヘンドリック・ドゥーフが阿蘭陀通詞や長崎奉行の役人など多数を招きカピタン部屋落成披露パーティを開く
  02/10間宮林蔵が樺太とユーラシア大陸の間が海で隔てられていることを確認する
     アメリカやイギリス、ロシア、中国をはじめとする諸外国ではタタール海峡と呼ぶ
     長さはおおよそ660粁。最狭部の幅は約7.3粁、深さは最浅部で約8米。間宮海峡
  02/25阿蘭陀通詞6人が長崎奉行所に召し出されロシア語、英語を学ばせる。英語研究の初め
     大通詞見習本木庄左衛門、小通詞末永甚左衛門、同格馬場為八郎、同並西吉右衛門、同末席吉雄忠次郎、稽古通詞馬場佐十郎
     きっかけは前年のフェートン号事件。イギリス船が来航の際に対応できるように
     先生役は軍人としてイギリスに滞在し英語に通じる出島荷倉役のオランダ人ヤン・コック・ブロンホフ
     1811(文化08)英語学習の成果として吉雄権之助らが「譜厄利亜言語和解(あんげりあげんごわけ)」を、
     本木正左衛門が「譜厄利亜興学小●(竹冠に全)(あんげりあこうがくしょうせん)」を長崎奉行に提出
     1813(文化10)ブロンホフが職務を終え出島を離れる。英語学習に協力した礼として酒25樽、醤油25樽が贈られる
     1814(文化11)「譜厄利亜語林大成(あんげりあごりんたいせい)」を幕府に献上
     約6千語の英語が収められ日本語訳とオランダ語の注釈がつく
  02/フェートン号事件に関する功罪賞罰を行なう
  06/幕府が樺太を北エゾと改称する
  08/24浦上山里村稲佐郷より出火
  08/総町奉納金で諏方社の踊り馬場石垣に欄干を設ける
     年内奉行曲渕甲斐守が諏方社に桜樹350本を寄付、境内に植え付けさせる
     1815(文化12)本石灰町の中村嘉右衛門の喜捨で、一の鳥居から踊り場までを石畳とする
  09/27諏方社の踊り馬場で3日間、大相撲興行。横綱免許玉垣額之助の願成就の大相撲
  09/27蛮学稽古世話役に6人が任命される
     本木庄左衛門、馬場為八郎、末永甚左衛門、岩瀬弥十郎、吉雄六次郎、馬場佐十郎
  09/出島売り込み商人が蘭船の模型を幕府に献上する。銀10枚下賜
  秋/帰国の唐船が港外中島で難破。水死1人、荷物が沈没する
  10/06《08/27》伊能忠敬が65才で第7次測量を開始。九州東南と往還路
     江戸王子〜岩槻〜熊谷〜中山道〜近江〜御代参街道〜土山〜京都〜西宮〜山陽道〜赤間関〜小倉〜中津〜杵築
     〜鳩浦(津久見)〜日向〜延岡〜飫肥(日南)(別動〜都城)〜日南海岸〜都井岬〜内之浦〜大隅半島横断
     〜鹿屋〜半島西岸を南下〜佐多岬〜内之浦〜大隅半島横断〜鹿児島〜桜島〜山川〜枕崎〜串木野〜甑島
     〜串木野(別動〜鹿児島〜肥薩街道〜肥後)〜天草諸島〜肥後海岸〜肥薩街道〜肥筑街道〜大分〜山口〜浜田
     〜三次〜甲州街道〜身延山〜甲府〜江戸新宿
     1811(文化08)06/28《05/09》江戸に戻る
     出張日数631日。隊員17人。測量距離粁7005。旅行距離(測量隊)7409粁、(伊能)6256粁
  「長崎くんち」(4)…丸山町、寄合町、新興善町、今下町、西築町、東上町、
     南馬町、大黒町、新石灰町、東浜町、東古川町、中紺屋町、本古川町
  小島村の天草代官所跡地(小島郷十善寺)の御薬園が薬園の役目を終える
     1810(文化07)西山郷(下西山町)に1228坪の御薬園が開設
     前の十善寺郷の御薬園は海岸に近く、潮風を受けるため薬草木の栽培に適さず、更に適地を求めて移転
     場所は松森神社の石垣に沿った斜面でそこを三段に分けた段々の圃場
     和漢洋の薬種数100種を栽培、薬効を明らかにし幕府の調達に
  唐船が日本版図書数種類を輸出する。「日本書紀」「大学解」「日本市選」「春秋集註」「論語」「孟子」など
  沖之島観音崎、船津夏ノ上、大明寺干場、中ノ田、出鼻に新台場が完成
  長崎向けの蘭船2隻のうち新商館長乗船の1隻が英艦隊に捕獲される。1隻だけが長崎に入港する
    ドーフは引き続き留任
  奉行曲渕甲斐守が諏方社に桜樹350本を寄付、境内に植え付けさせる
  長崎総町が諏方社境内に康平社(図書明神とも)を新設し松平図書頭の霊を祭る
     維新以後長崎土着地役人の祖先も合祀し祖霊社と改める
  イギリス人のフレデリック・バーソロミュー・フォルシュが万年筆の原型を発表。特許を得る
     ペン軸内にインキを貯蔵して軸の尾端に開閉する小穴を設け、小穴の開け閉めでインキが流出するタイプ
     同時期にイギリス人のジョセフ・ブラマーが現在の万年筆に近いタイプのペンを考案
     銀製軸の一部を肉薄にして、その部分を指で押してインクをだす仕組み
     「ファウンテン・ペン(万年筆)」と名づける
  唐船10隻、蘭船1隻が入港

1810(文化07)【光格】 庚午(かのえうま)

  《将軍》[第11代]徳川家斉(一橋徳川家)
  《奉行》曲渕甲斐守(09/着)、土屋紀伊守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヘンドリック・ドゥーフ

  01/20暁、西中町の茂兵次宅、炉中の焚火の後始末が悪く炉際の壁に燃え移り出火
      西中町・茂兵次押込数10日
  01/在館唐人が勝手に門外にでること、唐船水夫など多数で上陸することを禁じる
  02/幕命により白河藩、会津藩が相模と安房の海岸に砲台を築く
  03/06前日からの大雨で午後2時頃から大水となる
     水死男1人。被害家屋(かまど)数流失13、全壊28、半壊25、床上浸水517
     川筋石垣崩204間5尺。船流失1。「文化大水害
     橋 石橋崩壊3(八百屋町2、今魚町1)、破損8(大井手、今博多、古、桶屋、袋、榎津、萬屋など)、板橋崩壊1(大橋)
     魚市橋、網笠橋など多数の橋が崩落、破損
      魚市橋………1813(文化10)08木橋に再架
      網笠橋………欄干が破損1982(昭和57)07/23大水害で流失ののち再架
      袋(町)橋…破損のち再架
     崩流石橋の仮橋は4月竣工、破損石橋8の修復10月竣工
     罹災者、借家人へ1人前銭500文宛、家内7歳以上へ1人前銭300文。水死者(1人)遺族へ銭5貫文施与
  04/11町年寄末席の久松喜兵衛が一代町年寄15人扶持とする
  05/07土屋紀伊守が港外で舟戦の演習をする
  05/5月から8月まで疫病が流行する。銭213貫700文をだして貧困の病人を助ける
  07/18夜、本古川町より出火
  08/08孝心忠節の男女12人に銀2〜3枚を賞賜
  08/大宮司の青木永鷹が立山屋敷滞在中の砲術家坂本孫之進について砲術を習う
  08/諏方社の境内に射的場を設け、社中に射術を習わせる
  10/11本興善町の紙屋甚兵衛が銀60貫目を献上する
     賞として年始と八朔五節句の拝礼を許し一生の間公役を免じる
  10/13朝、浦上山里村里郷より出火
  10/長崎奉行所立山役所の用水として西山妙見社境内に湧く清水「椎の木の水」から約730米の樋を引く
     【1813(文化10)10/との違い?】
  「長崎くんち」(5)…丸山町、寄合町、東築町、桜町、小川町、内中町、
     西上町、八百屋町、勝山町、恵美須町、今紺屋町、炉粕町、伊勢町
  11/町村役人に命令して無産の者を正業につかせる
  諏訪社の大宮司青木永鷹が立山屋敷滞在中の砲術家坂本孫之進について砲術を習う
  長崎より18.5粁の海上に浮かぶ端島から石炭が発見される
     1870(明治03)小山某が開礦に着手
     1882(明治15)鍋島藩深堀領鍋島孫太郎の所有に
     1890(明治23)三菱の所有に
     1916(大正05)鉄筋コンクリート造り7階建の鉱員住宅からはじまり
     1970(昭和45)体育館が増築されるまで71号楝と31の施設がある
     昭和30年代最盛期には5259人もの人たちが生活をしていた
     総面積0.1平方瓩、海抜47.7米(8周囲1.2瓩、東西160米、南北480米)
     1974(昭和49)01/15端島鉱閉山
     04/20無人化
      *約100年間日本一の良質炭(粘結炭でコークスの原料炭)を産出した海底炭鉱の島
       戦艦「土佐」に似ており、いつしか「軍艦島」と呼ばれる
  宇田川玄髄がオランダ人ゴルテルの内科書を仮名まじりで訳し「内科撰要」全6編18巻が完成
     初編3巻3冊は1793(寛政05)に刊行
  西山郷(下西山町)に1228坪の御薬園が開設
     前の十善寺郷の御薬園は海岸に近く、潮風を受けるため薬草木の栽培に適さず、更に適地を求めて移転
     場所は松森神社の石垣に沿った斜面でそこを三段に分けた段々の圃場
     和漢洋の薬種数100種を栽培、薬効を明らかにし幕府の調達に
     1867(慶応03)薬園の役目を終える
  浜町大橋が完成。長さ14間、幅3間
  江戸参府が従前の長崎の正月出発から02/20前後の出発に変更する
     1850(嘉永03)03/甲比丹レフィスゾーンが江戸参府。甲比丹最後の江戸参府となる。合計166回を数える
  甲比丹所有の書「ジョメイル」を銀6貫目で買う
  オランダがフランス軍に侵入され、バタビア共和国となる
     ナポレオンは大陸封鎖令に違反していたオランダ王国をフランスに併合、オランダ国家が地上から消える
     大陸封鎖令が厳格に実施されたため,オランダの貿易は壊滅に瀕し,国家財政は破綻して市民は貧困に苦しむ
     1811(文化08)バタビア共和国がイギリスの占領下に置かれる
     イギリスがオランダが東洋に持つ利権の奪取を策略
     1813(文化10)ナポレオンがライプチヒの会戦で敗れる
     ナポレオンが没落したのを機、オランダ各地で反フランスの民衆蜂起が起こる
     イギリス亡命中に死去したオラニエ家のウィレム5世の子、ウィレム6世が帰国
     新たにオランダ連合王国国王ウィレム1世として即位【1814?】。独立を回復
  オランダ国家が地上から消えたことにより、出島には1隻のオランダ船も入港しなくなる。出島オランダ商館が孤立
     世界中でオランダ国旗を掲げていたのは長崎の出島とアフリカ西海岸のエルミナ基地だけに
     食料品などの必需品は、幕府が無償で提供。長崎奉行は毎週2、3回、人を遣わして不足品の有無を問い合わせ
     その他の支払いは、長崎会所の立て替えを受けて凌ぐ
     1812(文化09)長崎会所による立て替えの総額が8万0200両を超える
  唐船11隻、蘭船0隻が入港

1811(文化08)【光格】 辛未(かのとひつじ)

  《将軍》[第11代]徳川家斉(一橋徳川家)
  《奉行》土屋紀伊守(09/着)、曲渕甲斐守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヘンドリック・ドゥーフ

  01/16延命寺の住持猛雄が元大村藩士の片山清七に殺される。延命寺騒動
     大村藩士の小林宇右衛門が罪あって士籍を削られ、大村延命寺の徒弟となる
     のち長崎延命寺の住持となり名を猛雄と改めるが、高利の金を人に貸し財をなした
     清七は父が禄を没収され浪人となり、かつて父が恩をほどこした猛雄に江戸行きの旅費を無心する
     猛雄はこれを断り、逆に悪口を言ったことで、清七は猛雄を殺して金を奪い去る1816(文化13)
  01/27出島オランダ商館員のスヒンメルが日本酒の暴飲により死亡
     スヒンメルは酒を飲みすぎては日本人医師の治療を受けを繰り返し医師から見放されていた
  01/小通詞末席の吉雄権之助が英語研究書「●(言篇に音)厄利亜語和解(あんげりあごわげ)」第1巻を編集し幕府に献上
     銀5枚を下賜
     閏02/猪股伝次左衛門が第2巻を脱稿
     続いて第3巻を岩瀬弥十郎が奉行所に提出する
  03/05夜、銅座跡より出火
  04/松浦東渓が「長崎古今集覧」を著す
  06/本籠町の中村嘉右衛門が私費で広馬場の土橋を石橋に改める。銀3枚を賞として与えられる
  06/松前奉行支配調役の奈佐政辰がロシア艦隊ゴロウニンをクナシリで捕える
  07/09暁、船津町より出火
  08/04船大工町の尼智声に長寿を祝し米10俵を与える
  08/08対馬から朝鮮漂流の薩摩人24人を送還
  09/11渡御。「長崎くんち」が雨天のため日程変更09/13還御
     (6)…丸山町、寄合町、本大工町、今魚町、今博多町、本籠町、
     本紺屋町、材木町、上筑後町、江戸町、後興善町、古町、本興善町
  09/本木庄左衛門が「●(言篇に音)厄利亜興学小●(竹冠に全)(あんげりあこうがくしょうせん)」10冊を奉行所に献上
     銀10枚の褒美を受ける
  09/長崎奉行が英語学習のため蘭通詞に英和辞典の編集を命じる
     ヤン・コック・ブロムホフの指導のもと本木庄左衛門が主任となり楢林栄左衛門、吉雄権之助、馬場為八郎らが編さんに着手
     1814(文化11)編さんが完成し「●(言篇に音)厄利亜語大成」と題して奉行所に提出。白銀15枚を下賜される
  10/28町年寄の高島四郎兵衛茂紀(高島秋帆の父)が出島の石火矢台を受け持つことになる
  10/代官元締手代の小比賀慎八と金井総蔵を書物改役、向井元仲を次席として熨斗目、肩衣着用を許す
  12/05夜、野母村より出火。13戸が焼失
  12/19朝、本中町より出火
  12/25昼、長崎村馬場郷より出火
  第12回朝鮮通信使使節団が来朝。正使は金履喬、総人数328。使命は徳川家斉の将軍職就任祝い
     幕府側の財政負担がかさみ、江戸までは行かず対馬で祝賀の儀や国書の交換が執り行われる
     対馬で国書を受領[易地聘礼(へきちへいれい)]
     幕府は1回の来日で朝鮮通信使のために100万両を費やす
     1607(慶長12)の第1回以来12回を数える
  天文方に蛮書和解御用の一局を設け、「ショメル百科辞典(厚生新編)」の翻訳をはじめる
  フランス軍に侵入されバタビア共和国がイギリスの占領下に置かれる
     バタビア共和国はフランス軍に侵入されフランスに併合された旧オランダ
     イギリスがオランダが東洋に持つ利権の奪取を策略
     1813(文化10)ナポレオンがライプチヒの会戦で敗れる
     ナポレオンが没落したのを機、オランダ各地で反フランスの民衆蜂起が起こる
     イギリス亡命中に死去したオラニエ家のウィレム5世の子、ウィレム6世が帰国
     新たにオランダ連合王国国王ウィレム1世として即位【1814?】。独立を回復
  唐船11隻(内番外船2)、蘭船0隻が入港

1812(文化09)【光格】 壬申(みずのえさる)

  《将軍》[第11代]徳川家斉(一橋徳川家)
  《奉行》曲渕甲斐守(02/17勘定奉行転出)、遠山左衛門尉(景晋・前目付・02/27発令・09/着)、土屋紀伊守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヘンドリック・ドゥーフ

  01/03江戸在勤の長崎会所吟味役河野伴左衛門が登城して拝賀する
  01/09《文化08-11/25》伊能忠敬が67才で第8次測量を開始。九州残部と往還路
     江戸〜藤沢〜大山街道〜御殿場〜富士山麓〜東海道〜山陽道〜小倉〜北九州内陸部を南下〜大口(別動〜串木野)
     〜屋久島〜種子島〜鹿児島〜九州内陸部を縦断横断〜小倉〜博多〜唐津〜伊万里〜佐賀〜久留米〜有明海〜鹿島
     〜諫早〜島原半島1周〜大村(別動〜東岸・西岸)〜佐世保〜平戸〜平戸島〜松浦〜
      1813(文化10)04/13《03/13》15日かけて壱岐を測量
      のち56日かけて対馬を測量
      06/21《05/23》五島の宇久島へ上陸。忠敬は南側を、副隊長の坂部貞兵衛は北側を測量し南下
      08/10《07/15》途中、副隊長の坂部貞兵衛が福江町で病死。宗念寺に葬られる
      五島の測量は08/25《07/30》までの70日間
      のち西彼杵半島の西側を測量
      09/13《08/19》長崎へ到着。長崎町の止宿は炉粕町の大同庵(皓台寺の末寺)
      09/14《08/20》長崎半島を1周
     〜小倉〜赤間関〜広島〜松江〜米子〜鳥取〜津山〜岡山〜西脇〜福知山〜宮津〜京都〜津〜大垣〜岐阜〜下呂
     〜高山〜古川〜野麦峠〜木曽谷〜薮原〜松本〜善光寺〜飯山〜須坂〜松代〜追分〜富岡〜大宮〜川越〜板橋
     1814(文化11)07/09《05/03》江戸に戻る
     出張日数914日。隊員18人。測量距離1万1530粁。旅行距離(測量隊)1万3083粁、(伊能)9378粁
  06/02大雨洪水で東築町と今魚町の仮橋が流失。水死1人。死者遺族への弔慰金銭5貫文を支給
  06/14町年寄の高島四郎兵衛茂紀が荻野新流の砲術師範となる
  06/24夜、小瀬戸浦より出火。24戸が焼失
  08/12夜、大徳寺境内より出火
  08/ロシア船長リコルドが高田屋嘉兵衛をクナシリ海上で捕える
  09/遠山景晋が奉行として来任。江戸町奉行の遠山金四郎景元は景晋の子
     景晋は幕命により対露交渉のため1805(文化02)3月に来崎
  10/06夜、金屋町の秀七宅より出火。11町を焼く
     堀町、今町、新興善町、浦五島町、本五島町、樺島町、平戸町、大村町、本博多町、島原町に延焼
     焼失家屋339戸、土蔵37戸前、取崩し家屋38軒
      金屋町・秀七押込30日
     10/08鎮火
     罹災民に米銭を施与。地役人には10年賦をもって貸与
     義援金品は島田惣兵衛ら町人26人からの金10両、銀2貫800目、銭1740貫文、白米87石3斗4升をだして罹災の貧民に施与
  11/181787(天明07)に出された奉行所が出火の際の火消役付と場所詰を制定する令が徹底せず町火消担当区域を定める
     一、奉行出馬の節、
       火事場へ召連れた炉粕町、内中町、麹屋町、八百屋町、東中町の5か町の町火消を手附出役が掌握指揮する
     一、豊後町は制札場詰、新橋町は御米方掛り詰、両町の町火消も手附出役に付き添う、風筋によって両所に分けて出動する
     一、立山役所の後を警備することになっていた中紺屋町、東上町の町火消は奉行出馬の際これを引率して消防命令を与える
     奉行遠山左衛門尉は年番町年寄・福田六左衛門、月番町年寄・高木清十郎立ち会いのもと「出火一件御書附」を定める
      出火場所の風上2町、風脇2町の町火消(各町30人あて)は出火場所に乙名の指揮で集結
      屋根に上がった2町の者は2人ともども屋根剥取りその他の消火につとめ、他の2箇所は水利の確保、送水、注水を担当
     他に武具蔵、長崎会所などの官公諸施設の受持ち町や薬師寺久左衛門以下9人の町年寄付属各3か町など細かに定める
     のち町相互の対抗意識から火消人足間に喧嘩口論が起こることに
  11/18奉行所が各町に消防器具を規定する
     竜吐水1、水龍7、手桶5、鳶口7、大鋸1、火叩き(火の子消し)5、3間竹梯子1、大団扇3を備えさせる
     ほかに消防器めいめい存じ寄りで製造すること
     1787(天明07)に続く同様の達し
     1822(文政05)同様の達しがだされる
  「長崎くんち」(7)…丸山町、寄合町、引地町、浦五島町、桶屋町、本石灰町、
     酒屋町、大井手町、袋町、船大工町、堀町、出来大工町、新町
  備籾の制が中止に
  ヘトル役のヤン・コック・ブロムホフが呼入れた寄合町、門屋の遊女、糸萩に女児が生まれる
     乳母が遊女の名義で出島に入る
  オランダ船の入港が途絶え困っていた商館長ドーフが、日本で初めてビールを醸造
     ドーフがビールづくりの参考にしたのはショメールの「家庭百科事典」
  高島の丸尾頭山頂にあった高嶋神社に鳥居が寄進される
     深堀藩により相当量の石炭が産出。山口県大畠町遠崎の25隻の帆船で四国・中国方面の製塩用燃料として輸送販売される
     1868(明治01)島の守護神として深く信仰されていたが炭坑の守護神ともされる
     1874(明治07)07/大暴風雨で鳥居が崩壊
     1928(昭和03)山腹に散逸していた鳥居を青年団が御大礼記念事業として復元
  オランダ国家が地上から消えたことで、出島への長崎会所による立て替えの総額が8万0200両を超える
  志筑忠雄の門人馬場穀里が語学の才能を買われて幕府の天文方に召し抱えられる
  神代藩主第十代鍋島茂體公の時代、国見町に亀川出羽守忠英により少彦名命を祭神として粟嶋神社が建立される
     1963(昭和38)国見町の淡島神社にミニ鳥居が建立
     1983(昭和58)2つ目と3つ目の鳥居が設置される
     全部通り抜けると、安産まちがい無しといわれる
     3つの鳥居は石造りで、内側は縦横33糎、30糎、27糎と次第に狭くなり、産道に見立てている
  唐船13隻(内番外船3)、蘭船0隻が入港

1812(文化09)頃

  各町に備えられた消火器具
     龍吐水1挺、手桶5つ、水桶7つ、鳶口7挺、大鋸1挺、竹の先に俵の小口をつけたもの5つ程、3間竹梯子1挺、大団扇3本
     龍吐水を除けば原始的道具で延焼を防ぐために長鳶口、大鋸などで破壊消防が大きな要素
     責任者を決め自身番所で昼夜警戒に当たらせ、夜は木戸を6つ時乃至4つ時には閉じて挙動不審な者を取り締まる

1813(文化10)【光格】 癸酉(みずのととり)

  《将軍》[第11代]徳川家斉(一橋徳川家)
  《奉行》土屋紀伊守(05/08小普請奉行転出)、牧野大和守(成傑・前作事奉行・05/14発令・09/着)、遠山左衛門尉(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヘンドリック・ドゥーフ

  04/13《03/13》伊能忠敬が67才で第8次測量を開始。九州残部と往還路。途中長崎へ。15日かけて壱岐を測量
     のち56日かけて対馬を測量
     06/21《05/23》五島の宇久島へ上陸。忠敬は南側を、副隊長の坂部貞兵衛は北側を測量し南下
     08/10《07/15》途中、副隊長の坂部貞兵衛が福江町で病死。宗念寺に葬られる
     五島の測量は08/25《07/30》までの70日間
     のち西彼杵半島の西側を測量
     09/13《08/19》長崎へ到着。長崎町の止宿は炉粕町の大同庵(皓台寺の末寺)
     09/14《08/20》長崎半島を1周
     1814(文化11)07/09《05/03》江戸に戻る
  06/27イギリス東インド総督ラッフルズがオランダ商館乗っ取りを企てる
     ラッフルズが元甲比丹ワルデナール、蘭人カツサなどとともにオランダ国旗を掲げた英国船2隻で来航
     商館長ドーフの巧妙な拒絶で商館の明け渡しを拒否、幕府に内密に画策し、オランダ船として貿易させ斥ける
     1814(文化11)08/08《06/23》カッサはイギリスの命で再び入港しようとするが、ドーフは接収を断固拒否
  06/27イギリスのジャワ総督ラッフルズが蘭館乗っ取りのために派遣した2人をのせ蘭国旗を掲げた英船2隻で入港
     2人は元甲比丹ワルデナールと蘭人カツサ
     商館長ドーフの巧妙な拒絶にあい引き返す
     1814(文化11)06/23蘭人カツサが再び英船で来航し蘭館の引き渡しを要求する
     ドーフは拒絶。蘭館を守り祖国の再興を期する
     10/05英船が出帆
  06/28蘭船がセイロン産の象1頭を輸入。甲比丹ヘンドリキ・ドーフが将軍家へ象の献上を申し出る
     幕府はその儀に及ばずと謝絶。奉行の遠山佐衛門尉は小麦100俵を給して積み戻らせる
  07/20対馬にて履物生産のために作事方改めと商人が穢多を再度導入
     雪駄類の製造や修繕の材料の皮は朝鮮から輸入した物および郷村の死牛馬の皮を売り渡す
  08/今魚町〜諏方町の魚市橋が木橋に再架
  10/西山妙見社のかたわらの椎木水に水源を求め西山水樋をつくる
     掛樋を通して立山奉行所まで727米にわたり送水。所有者には年銀500目を支給する
     【1810(文化07)10/との違い?】
  11/08夜、長崎村小島郷の梅園社内芝居小屋より出火し焼失
  「長崎くんち」(1)…丸山町、寄合町、船津町、樺島町、本博多町、
     平戸町、八幡町、麹屋町、北馬町、万屋町、西浜町、銀屋町、諏訪町
  カピタンのアブラハム・カッサが3才の男児を同伴し出島に滞在
  大村藩士山本保助が新橋町(旧毛皮屋町)のししとき川のほとり、唐の毛皮商、陳建の屋敷を買い取る
     料亭「和楽亭一力(いちりき)」を始める
  阿蘭陀通詞に英語を教授していたオランダ人ヤン・コック・ブロンホフが職務を終え出島を離れる
     英語学習に協力した礼として酒25樽、醤油25樽が贈られる
  対馬にて穢多に対する差別待遇の徹底のための通達がだされる
     「門内に入らせない、言葉を交わすことを禁ずる」
  ナポレオンが没落したのを機、オランダ各地で反フランスの民衆蜂起が起こる
     イギリス亡命中に死去したオラニエ家のウィレム5世の子、ウィレム6世が帰国
     新たにオランダ連合王国国王ウィレム1世として即位【1814?】。オランダが独立を回復
     オランダ国家が地上から消えていたのは1810(文化07)から3年間
  スウェーデン東インド会社が閉鎖となる
     ナポレオン戦争の影響で会社の貿易基盤を完全に崩壊し行き詰まったため。設立は1813(文化10)
  唐船13隻、蘭船2隻が入港

1814(文化11)【光格】 甲戌(きのえいぬ)

  《将軍》[第11代]徳川家斉(一橋徳川家)
  《奉行》遠山左衛門尉(09/着)、牧野大和守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヘンドリック・ドゥーフ

  01/07暁、勝山町より出火
  05/23対馬にて死牛馬の骨の集荷および移出が町人によって開始される
  06/16夕刻から降りだした雨が夜には激しい暴風雨に
     停泊していた帆船は流されて暗礁に乗り上げ小舟の多くはバラバラに打ち砕かれる
     カピタン部屋は部屋や廊下が雨漏り。居間の天井板の大部分の張り紙が剥がれ落ちる。倉庫の壁の漆喰がはがれる被害
     最大の被害は庭園の囲いの多くが吹き飛ばされ、多くの果樹が根こそぎ吹き飛ばされる
     出島を囲む塀も、ある場所では15米、別の場所では10米に渡って損壊
     また出島護岸の石垣が崩れ海水が浸水
  06/23蘭人カツサが1813(文化10)6月27日に続いて再び英船で来航し蘭館の引き渡しを要求する
     ドーフは拒絶。蘭館を守り祖国の再興を期する
     10/05英船が出帆
  07/03バタビアから長崎出島にオランダ船2隻が新任カピタンのヤン・コック・ブロムホフを乗せ来航
     本国独立の報知をもたらす
  08/08《06/23》カッサがイギリスの命で再び出島に入港しようとするが、ドーフは接収を断固拒否する
  「長崎くんち」(2)…丸山町、寄合町、榎津町、西古川町、磨屋町、本紙屋町、
     新橋町、新大工町、大村町、本五島町、金屋町、出来鍛冶屋町、今町
  10/奉行遠山左衛門尉が浦上村の溜牢の構内に細工所を設ける
     犯罪の無宿者や放蕩息子を父兄の願いにより入所。縄や筵などをつくる仕事をさせ、おりにつけて教諭を加える
     改心した者には製品を買い上げて賃銭として渡し、釈放して正業に就く道を開く
     維新後まもなく廃止となる
  12/ドーフが幕府に嘆願書を提出する
     1、丈吉をオランダに連れて帰りたいが、日本の国法では混血児の海外渡航は許されないこと
     2、丈吉を地役人に取り立て、薬種目利か端物目利にして頂きたい
     3、バタビアから白砂糖300篭を長崎会所に差し出し、会所に売却方を願ってい、
       その代銀を会所に備え付け、その利子で1か月4貫目ずつ丈吉に与えて欲しい
     のち嘆願書を受け取った遠山左衛門尉は幕府に折衝する
     1815(文化12)09/03奉行遠山左衛門尉はドーフの愛児道富丈吉と新大工町乙名を奉行所に召しだす
     ドーフの希望を入れて白砂糖の利子として年々銀4貫目ずつ丈吉に渡すこと、
     追って成人の上は相当の役目に任用すること、
     町年寄には丈吉の保護を委託することを申し渡す
  奉行所が蘭館の生活窮乏を救うためドーフに蘭和辞書の編さんを命じる
     ドーフは通詞の協力を得て事業に着手する
     1833(天保04)12/「蘭和対訳字書」が完成。「御用紅毛辞典」俗に「ドーフ・ハルマ」「長崎ハルマ」とも
     幕府時代における最大の編さん事業のひとつと称すべきもので、蘭和対訳字書としては空前の大字書
  1811(文化08)長崎奉行が英語学習のため蘭通詞に編集を命じた英和辞典が完成
     ヤン・コック・ブロムホフの指導のもと本木庄左衛門が主任となり楢林栄左衛門、吉雄権之助、馬場為八郎らが編さんに着手
     「●(言篇に音)厄利亜語大成」と題して奉行所に提出。白銀15枚を下賜される
     約6千語の英語が収められ日本語訳とオランダ語の注釈がつく
  馬場佐十郎が「和蘭文範摘要」を脱稿する
  蘭船がロシアやイギリスの図書、文房具を輸入する。語学教授のため、かねて蘭人に依頼
  曲亭馬琴(滝沢馬琴)作による「南総里見八犬伝」の刊行が開始される
     1841(天保12)08/2028年の歳月をかけた9集98巻106冊からなる「南総里見八犬伝」が完成する
  明和の市中大火で類焼した崇福寺の上梁の門が再建される
     1828(文政11)大風で三門が倒壊する
     1849(嘉永02)三門が再建される。龍宮造楼門
     発願主は唐通事の游竜彦十郎、鄭幹輔、棟梁大串五郎平
  唐船7隻、蘭船1隻が入港

1815(文化12)【光格】 乙亥(きのとい)

  《将軍》[第11代]徳川家斉(一橋徳川家)
  《奉行》牧野大和守(06/17新番頭転出)、
      松山伊豫守(直義・前勘定吟味役・06/17発令・09/着)、遠山左衛門尉(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヘンドリック・ドゥーフ

  02/25長崎代官高木作右衛門の願い出により3日間にわたり諏方社で雨乞の祈祷を行なう
  04/杉田玄白が「蘭学事始」を完成させる
  06/04《04/27》伊能忠敬が第9次測量を開始。高齢の伊能は参加せず。伊豆七島
     江戸〜東海道〜三島〜下田街道〜下田〜三宅島〜八丈島〜三浦半島三崎〜三宅島〜御蔵島〜神津島
     〜新島〜利島〜新島〜伊豆半島須崎〜大島〜下田〜伊豆半島東岸〜熱海〜富士裾野〜箱根周辺
     〜平塚〜厚木〜八王子〜熊谷〜浦和〜江戸
     1816(文化13)05/08《04/12》江戸に戻る
  09/03奉行遠山左衛門尉はドーフの愛児道富丈吉と新大工町乙名を奉行所に召しだす
     ドーフの希望を入れて白砂糖の利子として年々銀4貫目ずつ丈吉に渡すこと、
     追って成人の上は相当の役目に任用すること、
     町年寄には丈吉の保護を委託することを申し渡す
     1821(文政04)08/16ドーフの息子、道富丈吉(14)が新規に唐物目利役に任じられる。混血児の地役人は初めて
     従来の受用銀4貫のほか役料として銀1貫目ずつ給与される
  10/28夜、浦上山里村中野郷より出火
  10/斧山の勤番が廃止
  「長崎くんち」(3)…丸山町、寄合町、油屋町、今石灰町、下筑後町、
     今鍛冶屋町、今籠町、西中町、東中町、豊後町、本下町、外浦町、島原町
  本石灰町の中村嘉右衛門の喜捨で、諏方社一の鳥居から踊り場までを石畳とする
     1827(文政10)正殿の柿葺を檜皮葺に改める。経費1千両は総町の寄付
  異国船入港を知らせる烽火山番所が再び廃止
  唐船11隻、蘭船0隻が入港

1816(文化13)【光格】 丙子(ひのえね)

  《将軍》[第11代]徳川家斉(一橋徳川家)
  《奉行》遠山左衛門尉(07/24作事奉行転出)、
      金澤大蔵少輔(千秋・前佐渡奉行・07/24発令・09/着)、松山伊豫守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヘンドリック・ドゥーフ

  03/01《02/03》〜03/17《02/19》伊能忠敬が第10次測量を開始。江戸府内第1次測量。17日間
     主要街道の始発点に接続する道路。街道の始発点相互間を接続させる
     たとえば東海道高輪の大木戸より日本橋まで、甲州街道四谷の大木戸より日本橋までなど
  04/07式見村で大火。248軒が焼失
  06/唐船が広東漂着の薩摩家臣45人を送ってくる
  07/15昼頃、本紺屋町より出火。風が強く大火に。13町が焼ける
     材木町、今下町、袋町、引地町、酒屋町、今魚町、本大工町、豊後町、桜町、新町、堀町、東築町に延焼
     家屋341軒、土蔵9戸前が焼失。破壊家屋59戸
     翌日鎮火
     類焼者、箇所持1人前白米1斗、銭1貫文宛。かまど主1人前白米1斗宛。取崩家、箇所持1人前白米升宛を支給
     地役人には10か年賦で貸付。特に町年寄の福田十郎右衛門、福田六左衛門に15年賦で銀210貫目を貸与
     義援金は町人の森安茂四郎が銭200貫文をはじめ5人から計550貫文
     弦屋伊助、箔屋太兵衛、木屋与一右衛門、中村嘉右衛門、弦屋宗八が各50貫文を罹災民に施与
     筑後の無宿喜兵衛が出火の折り挟箱・衣類20品を盗む08/27入牢10/13敲きの上、市中郷中払
  08/30《08/08》〜12/11《10/23》第10次測量を開始。江戸府内第2次測量。74日間
     測量場所など具体的な記録はない
  10/イギリス船が琉球にきて通商を要求する
  11/12夜、本古川町より出火
  11/20奉行所がハタあげ禁止令をだす
     盛んになったハタあげが農作物を荒らし、屋根を損じ、喧嘩争闘に及ぶことが多く、従来から禁止令がだされる
     奨励されないため重ねて禁じる
  12/29奉行所が嫁盗みを禁止する。この奇習は禁止令にもかかわらず、なかなかやまず
     「嫁盗み」は長崎の町に古くからの奇習。略奪結婚で自分の女房にほしい娘を知人や友人に頼み盗んできてもらうもの
     知人、友人は駕籠を用意し、夜にまぎれて娘をさそいだす
     いざ駕籠にのせると、今度はおおっぴらに「よめご盗み、よめご盗み」と連呼しつつ連れ去る
     のち人を立てて親元へ交渉にいくと、たいていの場合はそれでおさまることが普通
     どうしても親が承知せず娘を返せと訴えたときに初めて問題となる
     親も内心は許したくても、世間の体面上反対するような場合は、むしろ嫁盗みされることを黙認する
     この風習は幕末まで続く
  12/銀5貫800匁をだし市中の生活困窮の老人や病者に衣服を支給する【銀5貫800目?】
  「長崎くんち」(4)…丸山町、寄合町、新興善町、今下町、西築町、東上町、
     南馬町、大黒町、新石灰町、東浜町、東古川町、中紺屋町、本古川町
  落語や昔物語は忠孝を説く条件で許可される
  甲比丹ヘンドリキ・ドーフが将軍家へ象の献上を申し出たが、その儀に及ばずと謝絶
  唐船14隻、蘭船0隻が入港

1817(文化14)【仁孝】 丁丑(ひのとうし)

  《将軍》[第11代]徳川家斉(一橋徳川家)
  《奉行》松山伊豫守(06/30旗奉行転出)、筒井和泉守(政憲・前目付・07/21発令・10/着)、金澤大蔵少輔(10/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヘンドリック・ドゥーフ(←12/06→)ヤン・コック・ブロンホフ

  02/17アメリカのボルチモアの街頭に世界初のガス灯がともる
  04/07新石灰町乙名の南部義一郎は祖母に対して不孝であることを理由に免職される
  06/長崎芸子28人の総代、小島郷の嘉兵衛が長崎代官高木作右兵衛に旅芸子を10人にするよう願書を願い出
     許可されれば年々560匁を長崎会所へ上納するとも申し出る
     長崎奉行金沢大蔵少輔は旅芸子と太鼓持ちに今後一切の長崎滞在を禁じる
     また地下芸子も衣類髪飾りなど遊女に紛らわしいので質素にし綿襴、ビロード、べっ甲は堅く禁止するよう申し渡す
  07/03蘭船2隻が新任の甲比丹ヤン・コック・ブロンホフを乗せて入港する。本国独立の報知をもたらす【07/04?】
     ブロンホフはドーフが単独でよく出島商館の存立を確保したことに対する国王からの勲章を伝達
     ブロンホフ夫人、男児ヨハンネス、乳母、召使いの4人を同伴するが許されず
     西欧婦人は珍しくブロンホフとその家族を川原慶賀が画く
     長崎奉行は困惑し「病気がちのブロンホフの看病のため同伴は必要」と幕府に報告
     のち幕府からの返事は妻子の滞在を許可しないとの冷酷なもの
     12/06夫人ら5人は泣く泣く長崎港から船出
  07/奉行所が地芸子らの願いをほとんど認め旅芸子の数を10人に制限
     橋の普請人夫賃として毎年1人あたり銀20目を納めさせる
     近年、他国から長崎に入り込む旅芸子の数が増加したため、地芸子の稼ぎが薄くなり暮らしが苦しくなる一方
     長崎の地芸子一同は奉行所へ願いでる
      旅芸子の数を10人に制限し地芸子の生活を保証して欲しい
      地芸子は現在28人いるが、その数は増やしてもかまわない
      もしそれが認められるならば、市内の川にかかっている橋の普請人夫賃として地芸子一同から毎年銀500目ずつを納めたい
     1819(文政02)08/26奉行所は地芸子からの橋の普請人夫賃納入を廃止。旅芸子の人数制限を撤廃する
     旅芸子の人数を10人に制限したあと、地芸子たちの振る舞いが急にふしだらに
     芸を売らず身を売る者があるという噂がたつ。出入を禁止されている丸山、寄合町の遊女町で稼いでいる者も
  09/10対馬にて斃牛馬の処理のため穢多の郷村巡回が許可される
     11/24穢多が郷内を巡回するときは目印をつけるよう通達
     「あみ笠に赤木綿を付け被らせ、村内には宿泊させてはならない。
     また道筋などを尋ねられても返答してはならない」等
  09/小川町の川(岩原川)、大川(中島川)、出島水門前、大波戸前をさらえる
  09/イギリス船が浦賀に来航する
  11/上ヘンドリック・ドゥーフがブロムホフの妻子らとともに日本を去る
     幕府は在留18年の功労に際し銀50枚を贈る
  「長崎くんち」(5)…丸山町、寄合町、東築町、桜町、小川町、内中町、
     西上町、八百屋町、勝山町、恵美須町、今紺屋町、炉粕町、伊勢町
  奉行筒井和泉守により組合消防制度が確立
     一、立山御役所が風上の節は、
       役所詰の2町は役所に詰めることなく西役所、岩原屋敷その他の場所の詰め方もこれに準ずる
     一、これまで町々の組合せが定められてなかったので
       火元へ駆けつけ次第消防したのを5組の組合町を指定し分担区を定める
       分担区域内に出火の節はただちに消防に従事、
       区域外の出火は各々の屯場所に待機し手附給人、町年寄の指図によって出動する
     町火消担当区域を改定
     これまでは町々組合の定めもなく火元に駆けつけ消防。効果も上がらず
     全町を5組(雨、川、波、滝、井)に分け1組の町数を15〜17とし担当区域を定める
     一番組 上筑後町、下筑後町、東上町、西上町、西中町、恵美須町、大黒町、
         小川町、内中町、桜町、八百屋町、豊後町、船津町、引地町
     二番組 本大工町、新町、今魚町、本興善町、後興善町、新興善町、酒屋町、袋町、本紺屋町
         新橋町、磨屋町、諏方町、銀屋町、東古川町、西古川町、本古川町、堀町
     三番組 材木町、外浦町、島原町、東築町、西築町、大村町、今下町、本下町、本博多町、
         今町、金屋町、江戸町、樺島町、平戸町、本五島町、浦五島町
     四番組 新大工町、今博多町、伊勢町、大井手町、八幡町、麹屋町、出来大工町、
         南馬町、北馬町、本紙屋町、中紺屋町、今紺屋町、炉粕町、勝山町、桶屋町
     五番組 今鍛冶屋町、出来鍛冶屋町、今籠町、今石灰町、新石灰町、本石灰町、油屋町、榎津町、
         船大工町、西浜町、本籠町、万屋町、東浜町、丸山町、寄合町、銅座跡
     火災が発生したときは発生した町に所属する組のみ消火にあたり、
     他の組はそれぞれの屯場所に待機、指揮を待つ
       一番組町内で出火の際…一番組は早速消火につとめる
         二番組屯場所(本興善町)、三番組屯場所(今町、金屋町)
         四番組屯場所(馬町、勝山町)、五番組屯場所(酒屋町、袋町)
       二番組町内で出火の際…二番組は早速消火につとめる
         一番屯場所(東中町、西中町)、三番屯場所(今下町、本博多町)
         四番屯場所(桶屋町、今紺屋町)、五番屯場所(榎津町、万屋町)
       三番組町内で出火の際…三番組は早速消火につとめる
         一番屯場所(恵美須町)、二番屯場所(本興善町、新興善町)
         四番屯場所(引地町、本紺屋町)、五番屯場所(西浜町、万屋町)
       四番組町内で出火の際…四番組は早速消火につとめる
         一番屯場所(東中町、桜町)、二番屯場所(今魚町、本大工町)
         三番屯場所(酒屋町、引地町)、五番屯場所(新橋町、延命寺下通り)
       五番組町内で出火の際…五番組は早速消火につとめる
         一番屯場所(本紺屋町、袋町)、二番屯場所(本古川町、東古川町)
         三番屯場所(築町、材木町)、四番屯場所(汽船屋町、磨屋町)
  芸妓28名が奉行所の許可を得て「長崎検番」の営業を開始
  長崎で腸チフスが猛威をふるう
  唐船6隻、蘭船2隻が入港

1818(文化15、文政01・04/22)【仁孝】 戊寅(つちのえとら)

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