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〈江戸時代(16)〉

1854(嘉永07、安政01・11/27)【孝明】 甲寅(きのえとら)

  《将軍》[第13代]徳川家定(徳川宗家)
  《奉行》大澤豊後守(02/発・05/09小普請奉行転出)、荒尾石見守(成允・前目付・05/09発令・08/着)、
      水野筑後守(10/発・12/24勘定奉行兼長崎事務取扱)
  《代官》高木作右衛門忠知
  《商館長》ヤン・ヘンドリック・ドンケル・クルチウス

  01/03《嘉永06・12/05》プチャーチンがロシア艦隊4隻を率いて2度目の来崎。通商条約、国境問題の交渉を求める
     01/06《12/08》勘定奉行の川路左衛門尉が露使応接掛として江戸より来崎
     01/07《12/09》大目付格西丸留主居の筒井肥前守、儒者の古賀謹一郎が露使応接掛として江戸より来崎
     01/08《12/10》目付の荒尾土佐守が露使応接掛として江戸より来崎
     01/12《12/14》江戸より来崎の幕府要人が奉行大沢豊後守、水野筑後守とともに西役所で露使節と会見
     ロシア側はプチャーチン、使節付副官兼蘭語通訳官の海軍少佐ポシェット、
     旗艦パルラダ号艦長の海軍大佐ウニコフスキー、秘書官ゴンチャロフの4人
     筒井、川路は「殊更に高き高麗べりの二畳台」に座り高さを合わせ、大通詞の西吉平衛と森山栄之助が同席
     三汁七菜と酒の昼食ののち正式な挨拶が交わされる
     1854(嘉永07)1月7日まで6回にわたり国境、通商問題などの交渉が行なわれる
     のちパルライダ号上の最終会談で日本が他国と通商条約を結んだ際、ロシアも同一条件を与える旨が保証
     01/15《12/17》プチャーチンが旗艦パルライダ号に筒井、川路、古賀ら日本人使節団を招き、船内を見学させる
     士官室のテーブル上に敷かれた円周軌道を走る蒸気機関車の模型を川路聖謨や森山栄之助らが日本で初めて見る
     01/16《12/18》幕府要人が西役所で露使節と会見し国書に対する回答書を交付。使節らに幕府からの贈り物を贈呈
     01/18《12/20》西役所で国境、通商問題について協議を開始する。以後、しばしば会談
     01/20《12/22》露使節が国王の献上品を西役所に持参。筒井ら受け取る
     02/05《嘉永07・01/08》ロシア艦隊が長崎を出港。樺太国境と和親通商交渉、妥協せず
     1854(嘉永07)04/20《03/23》プチャーチンがロシア艦隊3隻を率いて3度目の来崎
     1854(嘉永07)04/26《03/29》クリミア戦争勃発で上海まで後退するが、執拗に長崎、樺太、函館に来航
     1857(安政04)09/21《08/04》露使節プチャーチンが来航
     09/25《08/08》退去
     10/11《08/24》再来
     10/24《09/07》日露追加条約を長崎で調印。長崎、箱館で通商許可
     10/27《09/10》プチャーチンが退去
  25才のお慶が英・米・アラビアへ送る嬉野茶の見本を出島在留のオランダ人テキストルに託す
     のちお慶は九州一円のお茶の産地を駆け回り1万斤のお茶を集める
     のちお慶によるお茶の輸出取引は続けられ巨万の富を築く
     お慶の屋敷は油屋町、敷地は426坪で長い塀の中の庭園は樹木や石燈篭の配置も風趣に富み平庭では長崎一といわれる
     1871(明治04)06/43才のお慶は詐欺事件に巻き込まれる
     熊本藩士遠山一也のタバコ売り込みの3千両の保証人になるが返済がなくタバコの買い付けもない
     これは仕組まれた詐欺でお慶は毎月63両余、20か月返済の形で弁償。お慶のもとから家財が消える
     1884(明治17)04/1756才で没する
  01/16アメリカ合衆国印度洋艦隊司令官マッシュ・ペリー提督が軍艦7隻を率いて神奈川沖に再来日
     02/更に2隻加わる
     03/31《03/03》幕府がペリーと「日米和親条約(神奈川条約)」を締結調印。日本側全権は林復斎(大学頭)
     条約により伊豆国下田湊と蝦夷国箱館が即刻開港、鎖国体制は終焉をむかえる
     幕末のオランダ通詞・蘭学者で、のち造船・製鉄・航海術・印刷術にも通じる本木昌造が通訳をつとめる
  01/18筒井肥前守、川路左衛門尉、古賀謹一郎らが長崎をあとに帰府へ
  05/25幕府が日米和親条約付録協定を調印(下田条約
  07/06甲比丹クルチウスが造船術、航海術伝授のため軍艦スンビン号の派遣を幕府に通告
  07/09幕府は日章旗を日本総船印に制定
  07/28オランダ国王から将軍へ献上するため、オランダ東洋艦隊所属の軍艦が長崎に入港
     海軍中佐の艦長グ・ファビウスに率いらた蒸気船ゲデー号、スンビン号
     のちスンビン号は幕府に献じられ「観光丸」と名付けられ練習船に
     同道したペルスライケン大尉以下22人は教師団として長崎に残る
     海軍伝習所の準備は整い、幕府は取締りに長崎在勤の目付永井岩之丞、
     伝習生は旗本の子弟などから選ばれた矢田堀景蔵や勝鱗太郎ら30余人、
     停泊3か月間に地役人と警備の黒田、鍋島両藩の家臣に海軍に関する初歩の学術を教える
     秋/幕府とオランダ政府との間に(1)蒸汽船スンビン号を幕府に寄贈すること
     (2)スンビン号で実施した伝習を続行する準備としてグ・ファビウス中佐を再度日本に派遣すること
     (3)軍艦2隻を日本政府のために建造し、うち1隻は1857(安政04)中に交付すべきことなどを決定
     1855(安政02)07/29長崎奉行所西役所に長崎海軍伝習所が開設
  閏07/15英国東インド艦隊の司令長官スターリングが軍艦4隻を率いて入港。4隻のうち3隻が蒸気船
     露艦隊探索のため諸港の出入りを要求する
     08/10艦乗組員に昼間、ねずみ島の上陸を許す
  08/23長崎で日英和親条約を調印、長崎と箱館の2港を開港
     08/29英国東インド艦隊の司令長官スターリングが退去
  09/02幕府がオランダに下田と箱館を開港する
  09/同一世帯で宗教を異にすることを禁止する
  10/19水戸の蘭医柴田方庵が長崎で西洋料理を来客約20人に供応する
  12/21幕府が下田で日露和親条約に調印する。下田、箱館、長崎を開港
  12/23《11/04》駿河湾から遠州灘、紀伊半島南東沖一帯を震源とするM8.4という巨大地震が発生。安政東海地震
     沼津から天竜川河口に至る東海沿岸地の被害が著しく、町全体が全滅した場所も多数
     地震発生から数分〜1時間前後に大津波が発生、東海沿岸地方を襲う
     伊豆下田、遠州灘、伊勢志摩、熊野灘沿岸に押し寄せた津波で多くの被害がでる
     伊豆下田では推定6〜7米の津波が押し寄せ948戸中927戸が流失し122人が溺死
     清水から御前崎付近までの地盤は1〜2米隆起。清水港が使用不能に
     内陸部でも甲府で7割の家屋が倒壊、松本、松代、江戸でも倒壊家屋の記録があるなど広範囲に災害
     地震の被害は流失家屋8300余戸、死者600人余と甚大なものに
  12/23《11/04》安政大地震の津波で伊豆下田に碇泊していたロシア使節プチャーチンの乗艦ディアナ号が大破
     ディアナ号は全長52.8米、幅13.6米、トン数2千トン、大砲52門、マスト3本のロシア製フリゲート船
     遠洋航海が不能になったディアナ号は修理のために君沢郡の戸田に回航する
     途中、激しい波風に押し流されて駿河湾の奥深く富士郡宮島村沖に錨をおろす
     装備や積荷のほとんどをおろしたディアナ号は、地元漁民の決死の協力で再び航行を試みるが失敗
     艦は浸水激しく駿河湾で沈没
     酷寒の海に投げ出された約500人の乗組員は沿岸の漁民たちが総出で救出する
     のちロシア側は感銘を受けプチャーチンは幕府の許可を得て戸田港で帰国の代船を建造することに
     わが国の外洋航行可能な船の建造のはじまり
     のち建造された第1船は「ヘダ(戸田)号」と命名
     もう1隻の同型船とともに、条約締結の使命を果たしたプチャーチン一行を乗せ、無事ロシアへ帰途
  12/幕府が下田で日露通商条約に調印し、下田、函館、長崎を開港
     幕末のオランダ通詞・蘭学者で、のち造船・製鉄・航海術・印刷術にも通じる本木昌造が通訳をつとめる
  「長崎くんち」(7)…丸山町、寄合町、引地町、浦五島町、桶屋町、本石灰町、
     酒屋町、大井手町、袋町、船大工町、堀町、出来大工町、新町
  東濱町21番地に個人営業の呉服店「徳島屋」(岡政)が創業。唐物の卸小売に従事
     1894(明治27)呉服・太物の小売店を増設
     1920(大正09)雑貨部を開設
     1925(大正14)食料品部を増設、岡政呉服店に
     1934(昭和09)05/第4回国際産業観光博覧会にあわせ
     東濱町46番地に木造3階、一部4階建の(株)岡政百貨店が開業。県内でも佐世保玉屋に次ぐ百貨店
     1988(昭和63)07/31閉店
     1988(昭和63)09/26長崎大丸となる
  21才の福沢諭吉が蘭学研究のため中津から長崎を訪れる
     蘭学を学びにきたが確たる目的はもたずに。田舎の中津が嫌で外にでたいだけのあやふやな動機
     砲術への関心が高まり兄に砲術を極めるには蘭語の原書が読めなければと桶屋町の光永寺の食客となる
     光永寺は中津藩の家老の子、奥平壱岐が砲術研究のため寄寓していたため
     のち大井手町の奉行所付触頭で砲術家の山本物次郎(秋帆の一門)の食客となる【出来大工町?】
     のち長崎遊学はわずか1年ながらその影響は絶大
  出来大工町、光雲寺境内の松島神社が本河内に移される
     本河内の古くからの稲荷の小祠と合祀。松島稲荷神社と称する
  幕府の要請を最後のオランダ商館長ドンケル・クルチュウスの斡旋で、オランダ政府に協力を求る
     徳川幕府が欧米諸勢力の脅威に対抗するため近代的海軍を創設するため
     調査のためバタビアからファビアス中佐が来航
  郷土民謡「ぶらぶら節」が丸山を中心に流行。次第に市街に広がる
  日本初の新聞「官板バタビア新聞」を幕府の蕃書調書が発行
     オランダ本国や植民地バタビアで発行の新聞を蕃書の教授・箕作阮甫、杉田成郷らが翻訳
     江戸の洋書屋・萬屋兵四郎が発行。オランダと諸外国の重要ニュースを掲載
  露使節プチャーチン伊王島夏の上台場を視察、完備した装備に驚いて帰る
  ペリーが横浜へ再来航のときお土産に汽車の模型を持ってくる
     蒸気機関車と炭水車、客車の3両セット。レールを敷き人を乗せ試運転させる
  長崎の家数1万0842(家持2143・借家8482)、人口2万7339(男1万3116・女1万4223)
  唐船2隻、蘭船1隻が入港

1854(嘉永07・安政01)頃

  郷土民謡「ぶらぶら節」が丸山を中心に流行し次第に市街に広がる。作詞、作曲者は不明

1855(安政02)【孝明】 乙卯(きのとう)

  《将軍》[第13代]徳川家定(徳川宗家)
  《奉行》川村対馬守(修就・前大坂町奉行・05/01発令・08/着)、荒尾石見守(10/発)
  《代官》高木作右衛門忠知
  《商館長》ヤン・ヘンドリック・ドンケル・クルチウス

  02/28「荻信之助へ出状、パン、ビスコイト製法書在中……」とビスケットの記事
     軍用パンの製法を学ぶために長崎にきていた水戸藩の蘭医柴田方庵の日記より
  02/港口のねずみ島が日本で初めての一般外国人上陸解放として外国人遊歩場となる
  03/18仏軍艦が入港。以後、英仏軍艦の入港が相次ぐ
     仏軍艦の代表は奉行に国書を差し出し長崎港を対ロシアの軍地基地に所望する
     また後日入港する同盟国艦船の停泊を許可し、必需物資の供給を求める
     幕府の返答は露国と戦うための物資補給は許さない。自己所有の物品が欠乏ならば長崎、箱館、下田に限って給する
  03/22甲比丹クルチウスが風説書で露土戦争の戦況と英艦の来航を告げる
  06/08蘭軍艦フェデー号が幕府に寄贈する蒸汽船スンビン号を率いて入港
     フェデー号にはグ・ファビウス中佐、スンビン号には海軍伝習隊長ベルス・ライケン大尉以下22人の派遣教官が乗り込む
     10/05《08/25》幕府がオランダ国王より寄贈の蒸汽船スンビン号を受領
     蘭国政府に対する幕府の答礼品は王室官吏や同船船将以下水火夫にいたるまで物を贈る
     長刀2振、鎧2領、太刀3振、金屏風10双、絹高沙染100匹、白銀300枚、真綿200把、銅3万斤、米300俵、その他
  06/08蘭軍艦フェデー号に乗組む一行中にオランダ国王侍従長リンデン伯の姿も
     1860(万延01)リンデン伯は滞在中の見聞録をまとめ帰国後、「日本印象記」を出版する
  06/09多良村で参拝帰りの侍、歩行の娘が穢多と酒宴をする
  07/04オランダ国王が電信機と説明書を将軍に献上するため長崎奉行へ届ける
     のちことの重要性を認識した幕府は海防・軍備に役立てるため海軍伝習所に電信機の研究を命じる
     のち佐賀藩主鍋島直正は電信機の政治的、軍事的価値を見抜き、長崎から資料を取り寄せ研究をさせる
     1857(安政04)日本で初めて電信機の試作に成功する
  07/29幕府は小十人組矢田堀景蔵ほか勝麟太郎(海舟)、永持享次郎らを長崎に派遣
  07/日本に初めてコレラが発生。「嘉永明治年間録」より
     「暴瀉(ぼうしゃ)病7月下旬より、天下普(あまねく)流行、阿蘭陀(オランダ)にては、
     コレラと云うよし、両三度も暴瀉すれば、更に治し難し、故に是をコロリ病と痛言する也」
     江戸での死者は3〜4万人に、これ以前にはコレラは見られない
  07/幕府がオランダに注文したゲーペル小銃6千挺を江戸に送る。6千挺のうち2千挺は伝習用に使用
  08/18英仏両国軍艦が入港。両国軍艦あわせて13隻が港内にひしめきあう
     09/全艦去る
  09/01甲比丹クルチウスがシーボルトの日本渡来禁止令の解除について長崎奉行と交渉を開始
  09/01イギリス人は「約定」の草稿で外国人墓地として鼠島を望む
     09/09在留オランダ人に倣い稲佐郷の悟真寺充てることに
  09/10《07/29》幕府が西役所に海軍伝習所が開設
     10/24開校。第1次海軍伝習を開始
     伝習生たちは監督格の永井尚志に率いられ出島オランダ商館に赴き入門式を挙行
     伝習生は幕臣35人を中心に佐賀、福岡、鹿児島など8藩から送り込まれた129人【127人?】、通訳14人
     伝習生は永持享次郎、矢田堀景蔵、勝麟太郎ら幕臣、佐野常民ら佐賀藩士、
     また榎本武揚、沢太郎左衛門、赤松則良、内田正雄、佐々倉桐太郎、塚本明毅、中島三郎助、
     佐野常民、中牟田倉之助、真木長義、田中久重、松村安種、本島藤太夫、金子才吉など
     他に長崎地役人、水夫として瀬戸内海の塩飽衆も参加した
      授業は日曜日を除く毎日、朝08時〜12時、午後01時〜04時
      オランダ語の講義を通訳が訳すが、通訳が知らない語が出てくるとつかえる
      初め、生徒には筆記を許さず暗記のみで途方に暮れる
     教授科目として、航海術、運用術、造船、砲術の実技、天測の実技、数学、蒸気機関、鉄砲調練などがあった
     当初、伝習生はオランダ語に苦労し、アラビア数字による計算に戸惑ったが、徐々に伝習の成果が上がった
     オランダ国王より寄贈されたスンビン号(のち観光丸)が練習船に
     1857(安政04)春/海軍伝習が軌道にり、江戸築地講武所にに軍艦教授所を設ける
     永井岩之丞は矢田堀景蔵らと観光丸で江戸に帰る
     長崎の方は岡部駿河守が伝習を監督。勝ら数名は残留
     1857(安政04)09/21《08/04》幕府がオランダに発注した新建造軍艦ヤッパン号が長崎に入港。のち咸臨丸
     カッテンディーケ海軍大尉を隊長とする第2次の教師団37人が乗船。第1次の教官隊と交替
     なかにはオランダ海軍2等軍医のポンペ・ファン・メーデルフォールト、
     オランダ海軍機関将校のヘンドリック・ハルデスの姿も
     新たに伝習生として松本良順らが入所、第2次の海軍伝習が始まる
     陸上や海上での教育のほかポンペにより西洋医学の講義もなされる
     1859(安政06)02/時代は江戸が主舞台に変わり、遠隔地長崎では経費がかかるとのことで閉鎖
     教師はオランダ海軍士官が勤め、各藩から選ばれた青年が航海術、造船術、砲術、調練など近代海軍の基礎知識を学ぶ
     生徒監に勝鱗太郎、生徒の中に榎本釜次郎がいる
     蒸気機関の修理や取替えなどの必要を生じ、長崎奉行から幕府に造船所建設の上申
     1861(文久01)03/25稲佐郷飽の浦に長崎製鉄所が完成
  08/16新地の寅吉は火鉢の底の土が薄く残り火が底板に焼き付き出火
      新地・寅吉
  09/13渡御。「長崎くんち」が英仏艦来泊のため日程変更09/15還御。神事踊りはなし
     (1)…丸山町、寄合町、船津町、樺島町、本博多町、
     平戸町、八幡町、麹屋町、北馬町、万屋町、西浜町、銀屋町、諏訪町
  10/22オランダ人の市街遊歩が許可される
  10/出島水門の管理を、はじめてオランダ人に委任する。鍵は蘭商館長に渡される
  11/11《10/02》夜10時ごろ、関東地方南部でM6.9の安政江戸地震が発生する
     下町地区、隅田川東岸の深川などでは甚大な被害を生じる
     また日比谷から西の丸下、大手町といった谷地を埋め立てた地域では被害が大きくなる
     小石川の水戸藩藩邸が倒壊。水戸藩主の徳川斉昭の腹心、水戸の両田・戸田忠太夫や藤田東湖が死亡
     死者約4300人、倒壊家屋約1万戸とされる
     のち被害情報を伝える瓦版が発行され、風刺画の鯰絵なども刊行される
     復旧事業が一時的な経済効果になる
  11/29《10/20》勝海舟が海軍伝習所頭役として来崎。オランダ士官より航海術の訓練を受ける
     宿舎は本蓮寺境内の大乗院。4年間にわたり滞在
  11/英船の港内停泊を許す
  12/23日蘭和親条約を長崎で調印し正式に国交が開始される
  12/平戸小屋郷に外国人休息所を設ける
  12/日蘭和親条約によりオランダ人の市中遊歩が自由になる
     のちロシア人、アメリカ人、イギリス人も同様になる
  木場郷(現三ツ山町)に鹿島神社が創建される
  西役所に活字判摺立所が設立。オランダ渡来の印刷機が据えられる
     本木昌造が摺立方取扱掛となる
     ここで印刷した洋書の軍事書が海軍伝習所で教科書として使われる
  水戸藩の蘭方医柴田方庵が長崎でビスコイトの製法を習う
  杉亨二が老中の阿部正弘に知られ蘭学教授として阿部家に仕える
     1856(安政03)10/阿部家家来の杉亨二が老中阿部正弘に建白
     物産学、政事学、兵学、究理学、航海学などを学ばせるため留学生派遣の要を説く
  オランダ軍医ファン・デン・ブルックが来任
     薬学に精通し物理、化学に詳しく、また機械学にも通じる。長崎通詞達、門下生に物理・化学等を教える
     長崎奉行からの依頼を受けて行なわれる。断片的な「科学教室」といったもの
     11/長崎奉行に意見を上申する
     「学問を通詞などに教えるよりも年小の青年10人くらいを選んで手許においてその好むところに従って
     化学・物理・算術・測量を教え、通詞もその好むところに従って通訳させた方が有益である. 教示も試験も
     1人でも10人でも同じ費用と労力であって、しかも多人数の方がはげみになる。化学や物理の教示には
     器具薬品を必要としばく大な費用を要するが、自分所持の物もあり外国から取り寄せ方も何とか尽力する」. 
     1857(安政04)帰国
  カトリック宣教師のフューレらが平戸、長崎へ来航するが上陸は許されず
  横浜で日米和親条約締結、英、露、蘭とも締結
  高島炭坑技師ブラウンが外人登山禁止の雲仙に登り上田屋に投宿
  長崎の家数1万0853(家持2127・借家8505)、人口2万7376(男1万3109・女1万4267)
  唐船5隻、蘭船2隻が入港

1856(安政03)【孝明】 丙辰(ひのえたつ)

  《将軍》[第13代]徳川家定(徳川宗家)
  《奉行》荒尾石見守(09/着)、川村対馬守(11/発)
  《代官》高木作右衛門忠知
  《商館長》ヤン・ヘンドリック・ドンケル・クルチウス

  04/20合戦場で砲術演習が行なわれる
     04/284日間にわたり再び演習が行なわれる
  05/長崎港内の区域を神崎〜女神以内と定めオランダ人に告知する
  06/活字判摺立所で復刻洋書の第1号「シンタキシス」(蘭文典)を528部印刷
     定価は1部につき金2歩で長崎、大坂、京都、江戸の4か所で販売
     のち明年にかけて文典、軍事書の復刻刊行が相次ぐ
  07/10甲比丹クルチウスが英使節の渡来を知らせる。列国との通商条約締結を幕府に勧告
  07/21アメリカ合衆国の初代駐日総領事タウンゼント・ハリスが伊豆国下田に来航
     のちハリスが伊豆国下田の玉泉寺に駐剳
     08/24幕府がハリスの駐在を許可する
  07/ドイツのデュッセルドルフ郊外のネアンデル谷にあるフェルトホッファー洞穴で男性化石人骨が発見される
     石灰岩の採掘作業中、谷にあったフェルトホッファー洞窟から採掘作業員によって採取
     遺骨は顔面の一部や四肢の一部は欠けていたが状態は良好、高さの低い脳頭骨や発達した眼窩上隆起などが特徴
     発掘地からネアンデルタール人と名づけられる
  08/05英艦4隻が入港
     08/07英人を西役所で引見する
     08/08英人に市街遊歩を許可する
     08/18全艦去る
     09/10英艦がふたたび入港【3隻?】
     09/12引見する
  08/米1升74文になる
  08/英国商人オルトがお慶のお茶見本のを携えて来航。お慶に製茶の巨額な注文をする
  09/18浦上の潜伏キリシタン約15人を投獄、多くは牢死。「浦上三番崩れ
     約5万人のキリシタンは潜伏キリシタンの組織をつくり信仰を続けていた
     指導者の組織は最高指導者・帳方が1人、浦上郷に洗礼を授ける役の水方1人、各字に指令を伝授する役の聞役1人
     組織作りのリーダーで初代の帳方となったのが孫右衛門。子孫が代々推されて帳方を務めるたが
     浦上三番崩れで入牢獄死殉教したミギル吉蔵まで7代続く
     永井隆博士の夫人緑はミギル吉蔵の曾孫
     1948(昭和23)03/永井博士のため浦上の隣人たちが2畳一間の家を贈る
     この地は長いキリシタン弾圧に耐えた、浦上地区のキリスト教徒の惣頭の家「帳方屋敷」跡
     家を建てた人々の心を忘れず、自分もこの愛に生きようと、聖書の「己の如く人を愛せよ」の言葉から「如己堂」と命名
  10/阿部家家来の杉亨二が老中阿部正弘に建白
     物産学、政事学、兵学、究理学、航海学などを学ばせるため留学生派遣の要を説く
  「長崎くんち」(2)…丸山町、寄合町、榎津町、西古川町、磨屋町、本紙屋町、
     新橋町、新大工町、大村町、本五島町、金屋町、出来鍛冶屋町、今町
  12/オランダ人に市中での物品購入を許す
  日見峠道に建つ向井去来の句碑、芒塚が修復される
     1926(大正15)10/俳人の田士英らが主宰する「あざみ会」が金300円を投じて碑文の基礎にコンクリートを施すなど補修
  大浦お慶がアメリカに10万斤の茶を送り、日本茶の海外輸出が始まる
  西山御薬園の幕末の薬種目利中尾の『御薬園御薬草木改帳』に88種の植物が記載
  オランダ領事館ドリトル・ヤン・ヘンデレキ・ドンクル・キュルシュスが長崎奉行荒尾石見守、川村対馬守あての書面で訴え
     「日蘭条約中オランダ人とあるのは、男性だけでなく女性、小児も含むと解釈すべきで
     米婦人は既に開港場に滞在しているオランダ領事館としては条約の規定を明確にしたい」
  長崎の家数1万0840(家持2146・借家8475)、人口2万7381(男1万3139・女1万4242)
  唐船1隻、蘭船2隻が入港

1857(安政04)【孝明】 丁巳(ひのとみ)

  《将軍》[第13代]徳川家定(徳川宗家)
  《奉行》川村対馬守(01/21小普請奉行転出)、
      大久保右近将監(忠寛・前目付・01/22発令・04/15駿河奉行転出・長崎在勤せず)
      水野筑後守(忠徳・04/15長崎奉行兼任・06/着・10/発・田安家家老転出)、
      荒尾石見守(在勤・05/22勘定奉行次席兼任)、岡部駿河守(長常・前目付・12/28発令)
  《代官》高木作右衛門忠知
  《商館長》ヤン・ヘンドリック・ドンケル・クルチウス

  02/01甲比丹クルチウスが前年10月のアロー号事件を長崎奉行に知らせ幕府の通商拒否方針に警告する
     アロー号事件は、のち清と英仏連合軍との戦争に発展
  春/海軍伝習が軌道にり、江戸築地講武所にに軍艦教授所を設ける
     永井岩之丞は矢田堀景蔵らと観光丸で江戸に帰る
     長崎の方は岡部駿河守が伝習を監督。勝ら数人は残留
     1857(安政04)08/04幕府がオランダに発注した新建造軍艦ヤッパン号が長崎に入港。のちの咸臨丸
     艦長カッテンディケ中尉、オランダ海軍医ポンペ(28)など第2次海軍伝習教官隊一行37人が乗船
     新たに伝習生として松本良順らが入所、第2次の伝習が始まる
  05/04長崎の皮屋町穢多が絹布を用いてよいか尋ねる
     これまでもそういう申渡しはないとの返答
  06/16条約を締結した各国人の上陸を許可する
  07/長崎奉行川村対馬守が幕府に開国への伏線として長崎港付洲の場所埋め立てを申請する
  07/幕府が長崎奉行を通じ「空地にハゼを植えよ」と命じる
     産業のなかった長崎にハゼの名産地筑後の例にならって積極的な灯油資源の生産確保を狙う
     のち安政の開港、鎖国特権の喪失となりハゼは育たなくなる
  07/長崎奉行川村対馬守が幕府に長崎港付州の埋立てと飽の浦に溶鉄所建設を上申
     11/26《10/10》幕府が浦上村淵字飽の浦の9040坪の地に「徳川幕府 長崎溶鉄所」建設を着手
     製鉄所の建設は世界と肩を並べるため、いずれ自前の船を建造する狙い
     総指揮は09/21《08/04》に来日した海軍伝習所教官機関将校ハルデス
     煉瓦焼職人がいないため工場建設用の赤煉瓦を長崎の瓦屋に焼かせることに
     1861(萬延02)01/22《萬延01・12/12》官営長崎製鉄所」と改称
     1861(文久01)05/04《03/25》長崎製鉄所工場が完成
     キングポストトラス鉄骨造にプラスター塗りで仕上げた工場
     鍛冶場、工作場、溶鉄場の3工場で編成され8馬力の蒸気ハンマー、15馬力の最新の工作機械蒸気機関が設置
     機械代9334両を含め工費は5万8千両。官立でなければ負担できない金額
     1863(文久03)04/幕府は神戸に海軍操練所を設立
     長崎製鉄所より機械類の一部を移送、機械方職工数人を転任させる
     長崎製鉄所は神戸操練所の付属工場に
     1868(明治01)06/19明治政府に収められ長崎府判事の総轄のもと経営
     官営長崎製鉄所となり工部省所管長崎造船局と改称
     1871(明治04)05/27《04/09》長崎製鉄所を長崎造船所と改称
     1872(明治05)長崎製作所と改称
     1873(明治06)長崎造船局と改称
     のち三菱社が自家造船所経営の必要に迫られる
     のちちょうど、政府が工部省所管長崎造船局を民間に経営を委ねる方針を出す
     のち三菱社は機を逸せず長崎造船局の貸与を願いでる
     1884(明治17)07/06郵便汽船三菱会社社長の岩崎弥太郎が政府から25年間借り受けることに
     政府共同運輸会社との戦いの真最中に基幹産業として着目
     工部省長崎造船局(官営長崎造船所)廃止、郵便汽船三菱会社に貸し下げ長崎造船所と改称
     岩崎彌太郎が所有する37隻の修理と造船所経営の必要に迫られて官が設立し民に移譲
     急速な近代化を図るパターン。背景には官営事業の失敗もある
     1887(明治20)04/三菱社社長岩崎彌之助が大蔵大臣伯爵松方正義に長崎造船局の払下げを申請
     1887(明治20)06/代金45万9千円で許可を受け長崎造船局は三菱社の所有に
     1893(明治26)三菱合資会社が設立し「三菱合資会社三菱造船所」と改称
     長崎造船所を拡張し、神戸、下関の造船所を新設
     1904(明治37)07/造船所内の丘の上に木造洋館2階建、総面積406平方米の所長社宅が完成
     1909(明治42)主機械など重量物を搭載するため150瓲クレーンを飽の浦に建設
     1915(大正04)三菱合資会社長崎造船所となる
     1917(大正06)11/01三菱造船株式会社が設立し「三菱造船株式会社長崎造船所」と改称
     1934(昭和09)04/11三菱重工業株式会社が設立し「三菱重工業株式会社長崎造船所」と改称
     1950(昭和25)01/10戦後の財閥解体により三菱重工業株式会社が解散。三菱重工業は3社に分割
     「東日本重工業株式会社」「中日本重工業株式会社」「西日本重工業株式会社」として発足
     「三菱重工業株式会社長崎造船所」は「西日本重工業株式会社長崎造船所」に
     1952(昭和27)05/27「三菱造船株式会社長崎造船所」と改称
     1964(昭和39)06/01三菱日本重工業(株)、新三菱重工業(株)、三菱造船(株)が合併
     「三菱重工業株式会社長崎造船所」と改称。
  07/北海道の函館に五稜郭が起工
     フランス式築城術で建設された日本初の稜堡式城郭。天守閣を備えた城郭は持たない
     当初は開港による外国の脅威を念頭に、より多くの堀や城累の設置が検討された
     のち設計は縮小される
     1864(元治01)箱館奉行小出秀実が旧奉行所から郭内の箱館御役所に移転、業務を開始
     1866(慶応02)すべての工事が終了
     のち箱館戦争では榎本武揚率いる徳川幕府軍が入城
     城塞であるとともに榎本らが設立した「蝦夷共和国」行政府としても機能
  08/29日蘭追加条約付録追補により、事実上初の通商条約となる
     日本開港の場所にオランダ人が妻子を居住させても差しつかえなしとなる
  08/奉行所が語学伝習所を発足し英語の学習者を一般有志者に募集
     1858(安政05)07/岩原屋敷内奉行支配組頭の永持享次郎宅に設立、英語伝習所と改称
     頭取は蘭通詞の楢林栄左衛門、西吉十郎(のち大審院長)
     教師として海軍将校などオランダ人2人とイギリス人が招かれる
     8人の教員が蘭通詞、唐通事、地役人の子弟ら生徒たちに教える
     1862(文久02)片淵郷組屋敷内乃武館(だいぶかん)に移転、長崎英語所(英語稽古所)と改称
     頭取に中山右門太、柴田大介。教員は4人に
     1863(文久03)07/立山奉行所の東長屋に移る
     何礼之助、平井義十郎が学頭に。他教師は4人
     12/☆江戸町の元五箇所宿老会所跡に移転、洋学所と改称
     これまでの英語に加えて蘭学の授業も
     レフォームド教会の宣教師フルベッキが英語教授として嘱託
     1864(元治01)01/江戸町の洋学所仮校舎が大村町に落成開校した新校舎に移転。語学所と改称
     魯、英、仏の3か国語が修められることに
     1865(慶応01)08/新町の長州屋敷跡に新築校舎を竣工移転、済美館と改称
     学則を改め英、仏、露、清、蘭の語学以外に歴史、地理、数学、物理、経済の教授を開始
     これまで洋学書の取締方は運上所において執行されたが、以後、済美館で行なうことに
     1868(慶応04)04/08立山役所跡に移転、長崎府の管轄となり広運館と改称
     1872(明治05)08/文部省の学制頒布により第六大学区第一番中学と改称
     10/授業料制が採用され1か月金50銭に
     1873(明治06)04/大学区の区画改定により第五大学区第一番中学と改称
     04/30文部省布達第62号により校名を改称。広運学校となる
     06/10立山の旧県庁所在地に移転
     江戸町の旧西役所にあった広運学校と立山屋敷にあった県庁(立山庁舎)が地所、建物ともに交換
     1874(明治07)04/新たに長崎外国語学校として発足
     12/27愛知、大阪、広島、新潟、宮城の外国語学校とともに校名を改称、長崎英語学校となる
     1877(明治10)02/19文部省布達により長崎英語学校が廃止となる
     同時廃止は東京女学校、愛知、広島、新潟の各師範学校と愛知、広島、新潟、宮城の各英語学校
     幕末から維新にかけての外国語熱が峠を越し、その熱は衰微。多くの外国語学校が減少傾向を示す
     のち県令の北島は県が英語学校の土地、建物と書籍、器具頭を文部省より譲受けることで存続を図ろうとする
     1878(明治11)03/03文部省より長崎県に移管。長崎英語学校は県の所轄として存続
     03/22長崎県立長崎中学校と改称、中学校として再出発
     1882(明治15)07/校名を長崎外国語学校と改称
     1884(明治17)04/学校を分割。長崎中学校を再設
     同一校舎に2つの学校が廊下続きで存在することに。教師は掛け持ちで教授
     1885(明治18)11/15公立長崎商業学校が大村町11番地の旧商業会議所跡に開校
     1886(明治19)03/公立長崎商業学校と長崎外国語学校が合併
     長崎外国語学校は付属物所蔵一切を長崎商業学校に移し廃校となる
     04/08公立長崎商業学校が長崎県へ移管。県立長崎商業学校となる
     岩原郷(のちの県立美術館の地)へ移転
     1889(明治22)02/02ふたたび長崎区に移管され長崎商業学校となる
     04/01長崎区が長崎市と改まるが市立を冠せず長崎商業学校として校名を残す
     1891(明治24)09/県より無償貸与された新町の尋常師範学校校舎跡地へ移転
     1899(明治32)09/馬場郷徳蓮田の新築校舎に移転
     敷地面積2800坪、建築総坪4029坪、総工費支出額6万648円13銭
     1901(明治34)05/長崎商業学校を改め市立長崎商業学校と称す
     1919(大正08)11/28文部省告示第266号をもってこれまでの市立長崎商業学校が長崎商業学校と改称
     1925(大正14)06/30文部省告示第294号をもって長崎市立商業学校と校名を変更
     1933(昭和08)04/西彼杵郡西浦上村油木谷20番地に新校舎が落成し移転
     1945(昭和20)04/講堂や教室の一部が県の備蓄食糧保管倉庫として
     本館1階、雨天体操場などが三菱兵器製作所大橋工場分工場として使用される
     1945(昭和20)08/09爆心地から約1キロの距離にあった校舎はことごとく被災。教職員13人、生徒162人が犠牲に
     施設・設備は壊滅、学籍簿をはじめ書資料・などは、防空壕に保管され奇跡的に残された一部を除いてすべて焼失
     09/20桜馬場の市立高女上手の旧中和寮を仮校舎として授業再開
     12/仮校舎が上長崎小学校へ移る。校舎の一部を借りて再開
     のち東青年学校(現片淵中学校旧校舎)も併用
     1946(昭和21)12/09油木の校舎に復帰。開校式をあげる
     西山から油木までの約4キロはリレー式に校具類を移送
     1948(昭和23)04/学制改革により長崎市立長崎商業高等学校となる
     1970(昭和45)04/男子生徒の長髪が全面許可される
     経済の高度成長期が爛熟期に入り全国的にも高校生の長髪が一般化している中での解禁
     1986(昭和61)03/校舎が老朽化。泉町に総工費62億円で新校舎を建設移転
  08/米船に港内の停泊を許可する
  08/外国船の港内における祝砲を許す
  09/17銀板写真機ダゲレオタイプで薩摩藩藩主島津斉彬自らを藩士に写させる
     日本人が日本人を撮って成功した唯一の銀板写真
     写真機は上野俊之丞がオランダ船で輸入したもので、のちカメラが薩摩藩の手に渡る
  09/20正午、諏方社の古幣、注連縄などが焼却中に飛び火し失火。社殿回廊はもとより奉納物などすべてが灰に
     1806(文化03)江戸城に送り将軍の上覧に供したオランダ船の模型が焼失
     3社の神輿は西山妙見社に遷宮
     12/19仮殿が落成する
     1863(文久03)02/朝延が島原侯松平主殿頭に勅し、諏方社の再建を急ぐよう命じる
  09/20諏方社が焼けた日の夜、こんどは炉粕町の高林寺本堂から出火して全焼
     のち再建する
     1912(明治45)炉粕町の地を三菱造船所に売り、鳴滝町の晧台寺末庵の知足庵を合併、その地に移転改築
  09/21《08/04》露使節プチャーチンが来航
     09/25《08/08》退去
     10/11《08/24》再来
     10/24《09/07》日露追加条約を長崎で調印。長崎、箱館で通商許可
     10/27《09/10》プチャーチンが退去
  09/21《08/04》幕府がオランダに発注した新建造軍艦ヤッパン号が長崎に入港。のちの咸臨丸
     艦長カッテンディケ海軍大尉を隊長とする第2次海軍伝習所教官隊37人が乗船
     オランダ海軍2等軍医のポンペ・ファン・メーデルフォールト(28)
     オランダ海軍機関将校のヘンドリック・ハルデスの姿も
     新たに伝習生として松本良順らが入所、第2次の伝習が始まる。第1次の教官隊と交替
     陸上や海上での教育のほかポンペにより西洋医学の講義もなされる

●●●●●第2次海軍伝習の科目時間割
●●●●●
     1859(安政06)02/時代は江戸が主舞台に変わり、遠隔地長崎では経費がかかるとのことで閉鎖
     教師は オランダ海軍士官が勤める
     各藩から選ばれた青年が、航海術、造船術、砲術、調練など近代海軍の基礎知識を学ぶ
     生徒監に勝鱗太郎、生徒の中に榎本釜次郎がいる
     蒸気機関の修理や取替えなどの必要を生じ、長崎奉行から幕府に造船所建設の上申
     1862(文久02)09/10ポンペ・ファン・メールデルフォルトが帰国の途に
  09/26西役所内一室にてポンペの西洋医学講義が始まる
     松本良順、司馬凌海ら12人【14人?】医学伝習生となる
     ポンペが作った講義時間表により
     物理学、化学、包帯学、解剖学、組織学、生理学、治療学、調剤学、内科学、外科学、 眼科学の順に
     時間があれば法医学、医事法制、産科学の講義が進められる
     1857(安政04)11/12伝習生の数が増え、高島秋帆邸内の西北隅一屋に移す
     場所は大村町11番地(現長崎地方裁判所)にあり大村町医学伝習所と呼ばれる
     この大村町医学伝習所にて初めて公開の種痘を行う(小児8人に施行)
     のち長崎に天然痘が流行し、ポンペはバタビア政庁を通じて痘苗を入手
     1858(安政05)1歳から2歳までの小児218人に種痘を施行
     1859(安政06)1300人に種痘を行う
     種痘法の普及に力をつくし日本人を天然痘の惨禍から救うことに貢献
  09/幕府が居留地造成のため大村領戸町村を公領とし古賀村の一部と交換する
  09/日露追加条約により、日本に常住或は一時居住するロシア人は其の妻子を連れてくる権利を有するとある
  10/16《08/29》日蘭追加条約を長崎で調印。事実上、初の通商条約となる
     以後、列強の要求に対する条約の基本となる
  10/日本人が出島に自由に出入りできるようになる
     出島にはオランダ商人のためにいろいろな家が建ち、庭がほとんどなくなる
  10/官米払下げの際、米商が安値で買い高く売る弊があるのをいましめ改める
     改めない場合は指定米商人以下にも入札に参加させる旨を示す
  11/12医学伝習所が大村町11番地の高島秋帆邸内の西北隅一屋(現長崎地方裁判所)に移される
     大村町医学伝習所と呼ばれる
     最初にポンペの講義を聞いたのは、松本良順(頭取)をはじめ数名で、みな幕府と諸藩から派遣された者
     そしてポンペの在日5年間に彼の指導を受けた者は133人に及ぶ
     司馬凌海、緒方わ準、橋本節斎、戸塚文海、池田謙斎、佐藤尚中、佐々木東洋、岩佐純、
     長与専斎、橋本綱常、伊東玄伯、太田雄寧ほか、その後の日本医界を指導した人たち
     1865(慶応01)04/精得館と改称
     1868(明治01)10/17長崎府医学校、長崎府病院と改称
     1869(明治02)08/長崎県病院医学校と改称
     1871(明治04)12/文部省の所管となり、長崎県病院・長崎医学校と改称
     1874(明治07)10/12征台の役に当たり長崎病院を公兵員病院にするため長崎医学校を廃止
     学生は東京医学校に転学
     1874(明治07)11/01長崎県病院は蕃地事務局(兵員)病院と改称
     1875(明治08)04/県管轄の長崎病院と改称
     1887(明治20)08/医学校の国立移管に伴い、長崎県立長崎病院と改称
     1902(明治35)04/坂本町の現在地に移転
     1922(大正11)04/官立長崎医学専門学校附属医院と改称
     1923(大正12)04/長崎医科大学附属医院と改称
     1945(昭和20)08/原子爆弾により被災
     1945(昭和20)10/06長崎市立新興善国民学校に医科大学附属医院を開設して診療を開始
     1946(昭和21)05/新興善国民学校を医科大学附属第一医院、
     元佐世保海軍病院諫早分院(諫早市)を医科大学第二医院として診療開始(第二医院は7月診療開始)
     1949(昭和24)05/国立学校設置法に伴い、長崎大学医学部附属病院と改称
       診療科:内科(2診療科)、外科(2診療科)、産婦人科、小児科、眼科 、
       皮膚泌尿器科、耳鼻咽喉科、精神科、物理的療法科、歯科(治療室)
     1950(昭和25)10/全科の病室(入院)を坂本町の現在地に移し、新興善小学校に外来診療所を設置
     1865(昭和26)04/第2医院を医学部附属病院諫早分院と改称
     1865(昭和33)03/諫早分院を閉鎖
     1865(昭和33)06/外来診療所を本館に復帰
  11/12長崎に天然痘が蔓延しはじめたため大村町医学伝習所でポンペが初めて公開の種痘を行なう。小児8人に施行
     のち長崎に天然痘が流行したため、ポンペはバタビア政庁を通じて痘苗を入手
     1858(安政05)年中1歳から2歳までの小児218人に種痘を施行
     1859(安政06)1300人に種痘を行うなど種痘法の普及に力をつくす。日本人を天然痘の惨禍から救うことに貢献する
  12/04アメリカ合衆国初代駐日領事タウンゼント・ハリスが修好通商条約締結商議を開始
     1858(安政05)06/19「日米修好通商条約」を調印
  「長崎くんち」(3)…丸山町、寄合町、油屋町、今石灰町、下筑後町、
     今鍛冶屋町、今籠町、西中町、東中町、豊後町、本下町、外浦町、島原町
  長崎熔鉄所の建設の責任者としてオランダ海軍の機関方士官のハルデスが来崎
  長崎熔鉄所の建設にあたり幕府がオランダから堅削盤を購入
     1914(大正03)彦島造船所(のち下関造船所)に設立とともに移される
  オランダ軍医ファン・デン・ブルックが帰国
     ファン・デン・ブルックは薬学に精通し物理、化学に詳しく、機械学にも通じる。長崎通詞達、門下生に物理・化学等を教える
     長崎奉行からの依頼を受けて行なわれる。断片的な「科学教室」といったもの
  飽の浦熔鉄所建設が始まる
     裸島まで埋立てる工場敷地の周囲を巡らす石垣の基礎工事にドンケルスクロクが使用
     ドンケルスクロクは、泳気鐘(潜水器)でケーソンともいわれる
     熔鉄所建設の総指揮をとるオランダ海軍技術士官ハルデス中佐も自らケーソンに入る
     鋳鉄製で重さ4.5瓲、中に2人位腰掛けられ、台船につり下げられて使う
     上部の通気孔からポンプで空気を送り、上部のガラス製円窓から採光
     ダイバーは膝のあたりまで水に浸かりながら海底の様子を調査
  上野彦馬がオランダ人医師ポンペ・メーデルフォルトの塾「舎密試験所」に入り、舎密学(化学)の指導を受ける
     塾で知り合った伊勢藤堂藩の堀江鍬次郎とともに共同研究を始める
     堀江は藤堂候を説き、大枚150両を借り世界最高級のカメラ・ダルメアB3型を買う
     1859(安政06)来日したフランス人写真家ロッシェから写真術を学ぶ
     1862(文久02)11/中島川畔に写真場・上野撮影局を開業
  歌人で国学者の中島広足が大坂に移る
     中島は国学和歌の師となり崎陽歌壇の天保の黄金時代を招来する
  日本で初めて電信機の試作に成功する
     佐賀藩主鍋島直正は電信機の政治的、軍事的価値を見抜き、長崎から資料を取り寄せ研究をさせていた
  インフルエンザの大流行
  長崎港艦船輸入数1、横浜0
  唐船4隻、蘭船2隻が入港

1858(安政05)【孝明】 戊午(つちのえうま)

  《将軍》[第13代]徳川家定(徳川宗家)(→07/06)、[第14代]徳川家茂(紀州徳川家)(10/25→)
  《奉行》岡部駿河守(09/着)、荒尾石見守(10/発)
  《代官》高木作右衛門忠知
  《商館長》ヤン・ヘンドリック・ドンケル・クルチウス

  01/08丸山遊女屋で行われていた絵踏みが廃止に。宗旨改めだけが行なわれる
  02/12《安政04・12/29》奉行荒尾石見守が蘭商館長クルチウスの献言を入れ、明春の踏絵執行中止を命じる
  03/諏方社再興費の負担を決める。長崎会所の公金と市郷の寄付金による
  春/キリシタン弾圧強化のため長崎奉行が行なっていた年中行事の絵踏が日米修好通商条約の締結によって廃止される
     踏絵板は長崎奉行所の蔵に収められる
  04/大阪町奉行、古手町除痘館の種痘を官許とする。種痘官許のはじめ
  05/07江戸蘭学者の有志が神田・お玉が池に種痘所を開設。蘭方医学研究の拠点とする
  05/中国経由で入港中の米軍艦(ミシシッピー号、ペリー艦隊の4船うちの1船)乗組員にコレラ患者【06/?】
     長崎に上陸し市中に流行。死者767人をだす
     ポンペは医学伝習所の協力を得て治療に尽力、コレラにアヘンとキニーネを推奨
     ミシシッピ号は下田沖で吉田松陰らが密航しようとして乗りつけた船。コレラは長崎から日本の西半分の地域に蔓延
     ポンペは学生たちと共に日夜治療に当たり奉行所を動かし予防法を通達させる
     のち猛威は九州各地に広がり大坂、京都へ
     07/以降江戸に流行
     10/コレラが衰える。江戸では3万1229人の死者を出す
     のち50日間に4万人以上の死者をだす
     薩摩大名の島津斉彬もコレラで命を落とす
  06/アメリカ人への酒の販売を禁止する
     09/外国人一般への酒の販売を禁止する
  07/06幕府が官医の蘭方医学研修を許可。蘭医戸塚静海、伊東玄朴を幕医として採用
  07/08幕府が外国奉行を置く
  07/18「」が調印される
  07/29英国と米国の間に大西洋を通る電信用の海底ケーブルが敷設される
     大英帝国のヴァレンティア島(アイルランド領)とアメリカのニューファンドランド島(カナダ領)の間
     英国の軍艦アガメムノンと米国の軍艦ナイアガラの2隻での作業
     1度目のケーブル切断、2度目の燃料不足に次ぐ3度目での成功となる
  07/29《06/19》日米修好通商条約」が調印される
  07/語学伝習所を英語伝習所と改称し、岩原屋敷内奉行支配組頭の永持享次郎宅に設立
     頭取は蘭通詞の楢林栄左衛門、西吉十郎(のち大審院長)
     教師として海軍将校などオランダ人2人とイギリス人が招かれる
     8人の教員が蘭通詞、唐通事、地役人の子弟ら生徒たちに教える
     1862(文久02)片淵郷組屋敷内乃武館(だいぶかん)に移転、長崎英語所(英語稽古所)と改称
     頭取に中山右門太、柴田大介。教員は4人に
  07/アヘン輸入禁止を米・蘭・露・英と締結
  08/07フランス使節としてグロー男爵がラプラース号で伊豆国下田湊に入る
     江戸湾の品川沖に現れ4か国に続いて修好通商条約の締結商議を芝愛宕下の真福寺行なう
     09/03「日仏修好通商条約」に調印して本国政府で批准のため条約正文8通を持ち帰る
     フランスの場合は琉球で日本語を学んでいたパリ外国宣教会のメルメ・カシヨン神父が通訳を務め商議が容易に進む
  08/13日仏修好通商条約」が締結され、第4条に規定される条文で大浦天主堂が建つキッカケに
     「日本にあるフランス人は自国の宗旨を勝手に信仰いたし、その居留の場所へ宮柱(教会)を建つるも防げなし」
     1863(文久03)12/天守堂建立に着手
  08/17《07/10》日蘭修好通商航海条約」が調印される
  08/18《07/11》日露修好通商条約」が調印される
  08/26《07/18》日英修好通商条約」が調印される【09/03?】
  08/佐久間象山が電磁石・ダニエル電池を制作
  09/清国在住の宣教師がともに長崎に立ち寄り本国の各ミッションに宣教師の派遣を申請
     米国監督教会派のサイル、長老教会派のS・W・ウイリアムス、改革派のウッド
  「長崎くんち」(4)…丸山町、寄合町、新興善町、今下町、西築町、東上町、
     南馬町、大黒町、新石灰町、東浜町、東古川町、中紺屋町、本古川町
  10/15伊藤博文が長崎で洋式銃陣法を伝習する
  10/05/に発生したコレラが衰える。江戸では3万1229人の死者を出す
     コレラ流行を機にポンペは奉行岡部駿河守の援助のもと幕府に対し病院設立を建白
     1860(萬延01)幕府がポンペの要請により病院の設立を認める。名称は「養生所」とし場所は小島郷に決まる
     1861(文久01)07/小島養生所が完成
     1861(文久01)08/16小島養生所が開所
  上野彦馬が長崎医学伝習所でポンペから化学を学ぶ。さらに写真術をフランス人ロッシュに学ぶ
     暗箱、レンズ、薬品のすべてを自製
     1862(文久02)津藩食客の上野彦馬が藩の子弟のため講義用として「舎密局必携」(最古)を著す
      化学実験室必携ともいわれ漢字で元素記号と化学式を表わす
  岩瀬道の丘に2基の焼成窯が築かれハルデスらの指導のもと日本の瓦職人によって煉瓦が焼かれる
     岩瀬道の陣場の辻から入った丘の約100坪程度の北向きの場所に2楝の瓦焼きのかまど小屋を建て製造した
     日本初の赤煉瓦は厚さ4糎余りしかない。煉瓦は長崎熔鉄所の陸用ボイラー据え付けなどに用いられる
     形から俗に「コンニャク煉瓦」、また指導者から「ハルデス煉瓦」と呼ばれる
     のち煉瓦製造廃止後のかまどは焼却炉として数十楝の社宅の塵芥焼却炉として終戦後まで使用
     2004(平成16)03/27「ながさき出島道路」が供用開始
     オランダ坂トンネル新地側出口下で交差する都市計画道路片淵松ケ枝町線の歩道側壁用に「ハルデス煉瓦」が復刻
  出島の和蘭商館が廃止。領事館となる
  シーボルトの追放令解かれる
     1859(安政06)08/04《07/06》シーボルトが日本追放後30年ぶりにドイツ人の妻と5人の子女を連れて再渡来
     母娘に再会。再会後シーボルトはたきと疎遠となり同居を拒む
     たきはシーボルト帰国の1年後に再婚、のち寡婦となる
  志賀氏管轄の稲佐がロシア休息地に指定、開設に浦上村渕の庄屋をつとめた志賀氏が関与
  活字判摺立所で「日蘭条約書」(蘭語)、ポンペ著の「種痘書」(蘭語)などを出版
  プチャーチンが来航。日露修好通商条約締結交渉は進展せず
     出航入港を繰り返す最中、ロシアのフリゲート艦「アスコルド号」の艦内でコレラが発生。乗組員20人が死亡
     悟真寺の外人墓地オランダ人墓地の上方にはじめてロシア軍艦アスコリドの水兵4人の遺体を葬る
     のち日露戦争で犠牲となった兵士を合葬した集団墓地を含め270のロシア人の墓が造られる
     1870(明治03)オランダ人商人ヤナス・ラインフート(53)が悟真寺オランダ人墓地に埋葬された最後の人物に
     1918(大正07)09/墓地の門と煉瓦塀がオランダ政府によって設置
  長崎の商人竹内億助、蒲池喜兵衛が私費で茂木に柳山石橋を架ける
     1972(昭和47)06/10長崎市有形文化財に指定
     1982(昭和57)07/23大水害により流失
  活字判摺立所で「日蘭条約書」、ポンペ著「種痘書」(蘭語)など出版
  シーボルトに師事した伊藤圭介が名古屋の朝日町に薬園「旭園」を開園
  トーマス・ブレーク・グラバー(20)が東洋貿易を志して父、弟らと上海につく
     1859(安政06)09/19《08/23》英国貿易商で21歳のトーマス・ブレーク・グラバーが弟2人を同伴して長崎に入る
  ポンペが大村町医学伝習所にて1歳から2歳までの小児218人に種痘を施行
     1859(安政06)1300人に種痘を行なう
     種痘法の普及に力をつくし日本人を天然痘の惨禍から救うことに貢献
  前年の長崎での日露追加条約、本年の江戸での日露修好通商条約調印の功績でプチャーチンが海軍大将に昇進
  長崎港艦船輸入数3、横浜0

1859(安政06)【孝明】 己未(つちのとひつじ)

  《将軍》[第14代]徳川家茂(紀州徳川家)
  《奉行》荒尾石見守(09/10小普請奉行転出)、岡部駿河守(在勤)
  《代官》高木作右衛門忠知
  《商館長》ヤン・ヘンドリック・ドンケル・クルチウス

  01/13幕府が長崎、神奈川、箱館3港の開港にあたり、同地への出稼ぎ、移住、自由売買の許可を布告する
  02/07長崎での海軍伝習が終了することにあわせ勝海舟が長崎を出発、江戸へ帰る
  02/09遠隔地長崎では経費がかかり西役所の海軍伝習所が閉鎖。ポンペの医学伝習所は続行
     海軍伝習所教師は オランダ海軍士官が勤める
     各藩から選ばれた青年が、航海術、造船術、砲術、調練など近代海軍の基礎知識を学ぶ
     海軍伝習所生徒監に勝鱗太郎、生徒の中に榎本釜次郎がいた
     蒸気機関の修理や取替えなどの必要を生じ、長崎奉行から幕府に造船所建設の上申
     1861(文久01)03/25稲佐郷飽の浦に長崎製鉄所が完成
  02/13壱岐郷ノ浦元居のタイ網漁船7隻が五島沖に出漁中、漁師53人が強い突風で遭難
     漁師の間で春の初めの強い突風を「春一(春一番)」と呼ぶようになる
     春一番は海難事故、融雪洪水、雪崩、大火などを引き起こす
  02/大浦川河口周辺を開発し大浦外国人居留地が開かれることに
     南瀬崎、梅香崎、大浦、下り松と出島周辺の埋め立て、東山手・南山手地区の造成を告示。日本初の西洋人街が開発
     最初の居留地地域東山手、南山手だけでは在留外国人を収容できなかったため(第1次外国人居留地造成)
     北野織部が面積約2万坪の大浦海岸埋立てを請負う
     北野は天草赤碕村の庄屋、出自は御陵村大島部落の銀主(金融資本家で大地主)小山家の3男
     グラバー邸、大浦天主堂を造った国民社小山商会の小山秀之進は実弟
     背後の山手を削取り、長崎湾奥の堆積土を浚った土砂で大浦川河口から市民病院辺りまでの海岸を埋立てる大土木工事
     予想以上の難工事で工期も半年以上遅れ北野織部は長崎奉行所に再三にわたり完成期日延期願書が提出される
     1860(萬延01)10/造成工事が完成
  02/出島商人、袋町英重の火の不始末により蘭人部屋その他が焼失
  04/本博多町の豪商小曽根六左衛門が将来発展の地点として埋立てを申請。六左衛門は小曽根乾堂の父
     場所は堀の内(小曽根町)、波の原(浪ノ平町)の海岸約6千坪。小曽根町築地
     同年自費での埋立てが完成
     開国への時勢と洞察、用達として関係の深い福井藩をスポンサーに多額の金額を拝借して完成させる
     1860(安政07・万延01)10/第1次居留地が完成したときには、すでに小曽根築地で商行為が行なわれる
     福井藩はその貿易で藩の財政立て直しに
  05/02《03/30》開港後最初の伝道者、中国在留の米国監督教会宣教師リギンスが来航
     米国領事ワルシのあっ旋で上陸が許可される。奉行の依頼で通訳官8人に英語を教授
     居住地は崇福寺後山の広徳院
     1860(万延01)02/病のため帰国
  05/26英駐日総領事オールコックが来日
  05/28幕府が6月2日以降、露、仏、英、蘭、米5国の長崎、神奈川、箱館での自由貿易を許可する旨布告
     長崎は鎖国の特権を失う
     これまでの唐蘭に加え欧米各国の貿易商により物産の大量流入がはじまる。居留地貿易時代に入る
     居留地貿易時代は、その国の輸出入貿易の主導権が居留地の外国商人の手中にあり
     邦商は付属的なあるいは買弁(仲立人)的な役割を演じるにすぎず
  05/29大浦海岸一帯を外国商船の繋船場とするため、日本船舶の繋船は戸町、西泊両番所寄りの港内に変更する
  05/31英国の首都ロンドンにある国会議事堂大時計ビッグ・ベンが動きはじめる
     ビッグ・ベンは、ウェストミンスター宮殿(英国国会議事堂)に付属する時計台 (Clock Tower) の大時鐘の愛称
     時計台の高さは96.3米。時計の文字盤は地上55米に位置する
  05/江戸町南岸の家屋、土地を外国人に貸与することを許す
     条約による開港の日が迫っても居留地域の設定ができておらず、交渉の結果、仮泊の地域を協定
     居留地の完成とともに自費をもって転居することに
     仮泊地協定の地域は出島前面の江戸町から南方南山手の妙行寺に至る沿岸一帯
  05/米英公使と居留地造成の交渉で、わが国の腹案は遂次つぶされる
     09/計画案をたて実施されることに
     大浦湾入の大半を梅香崎側に埋立てるもの。居留地の核体となる第1次の造成
     1861(文久01)04/第1次居留地の完成に伴い、仮泊地協定により4月をもって居留地への移動を決める
     大浦海岸通りの造成により仮泊地で待機していた山手地区一帯の貿易商人や商社が移動を開始
     ほとんどが英米系で、なかでも英国人は海岸に面する上等地を占領して活躍する
  05/長崎奉行所よりの達し
     たとえ外国人が買い揚げている遊女であっても見物のため外国船へ行くことは罷りならぬ
  05/イギリスが大浦郷妙行寺内にて外交事務・英国領事館を開始
     06/18初代領事のホッジスンが英国軍艦サンプストン号で来着
     のち東山手9番地に移転
     1861(文久01)東山手甲13番地に移転
     1863(文久03)下り松バンドに移転
     1907(明治40)大浦6番館(赤煉瓦造瓦葺2階建)に移転、オーストリア、オランダの領事も代行
     上海の英国技師ウイリアム・コーワンの設計に基づき大浦町の後藤亀太郎が施工
     煉瓦造2階建、寄棟造、鉄板葺、各階正面と側面にベランダがあり中廊下式
     第二次世界大戦勃発と同時閉鎖
     1954(昭和29)09/公売にされる
     1955(昭和30)07/長崎市が1千万円で買収
     1957(昭和32)02/長崎市教育研究所に
     1957(昭和32)04/01長崎市児童科学館が開設
     1993(平成05)04/28長崎市野口彌太郎美術館に
  06/02奉行管理の下、長崎会所の一部として外交、貿易事務を処理する湊会所を俵物役所内に設置
     元大浦番所(現活水切通し)に置かれたが第1次居留地造成工事で消失、俵物役所に復帰
     1863(文久03)08/湊会所を運上所と改める。梅ケ崎、下り松、出島に荷改所(通称・運上所)を設置
     1866(慶応02)06/本格的な運上所新庁舎建設で梅香崎に移転
     1872(明治05)07/運上所が外務局から大蔵省租税寮の直轄に
     1872(明治05)11/28長崎運上所と改め梅ケ崎27番地に開庁
     1873(明治06)01/長崎運上所が長崎税関と改称。管轄区域は九州、沖縄、山口
  06/02幕府が貿易許可の3開港場で江戸図面、官服、法制書籍、武艦類、兵学書類、甲冑、刀剣などを外人に売ることを禁止
  06/19長崎来航のロシア海軍提督ビリレフが丸山で検梅を試みようとしたが拒絶される
     1859(明治06)09/ポンペが稲佐で我が国初の遊女の検梅を実施
  06/20幕府が3開港場における武器購入を大名、旗本、藩士に許可
  06/30フランスのアクロバットの名人シャルル・ブローディンがナイアガラの滝の上49米に綱を張り、渡ることに成功
     アクロバットとは「綱渡り」を意味し、アクロス(頂上)とバウエイン(歩くこと)の合成語
     1890(明治23)09/07軽業師ポンテがナイアガラの滝の観望公園からゴート島へ渡る260米の橋の下に綱を張って綱渡り
  06/フランスのジョン・ベンジャミン・メイジャーが来崎
     1861(文久01)外国人居留地開設と同時に大浦5番地に貿易商社「メイジャー商会」を創業
     自邸建設のため東山手10番地を賃借
     1861(文久01)04/ウィリアム・J・オルトやF・フィールドらとともに居留地自治会の初代役員に選出
     1862(文久02)02/1926才の若さで死去。大浦墓地174番に埋葬
  07/01イギリス、ロシアに開港
  07/04《06/05》日米修好通商条約により神奈川と長崎が開港する
  07/バタビアのドイツ人(プロシア人)ルイス・クニフラーが来崎
     オランダの保護のもと日本初のドイツ商社L・クラフニー商社を長崎に設立
  07/コレラが流行し青魚、タコ、生野菜、果物、鶏肉など禁食リストを公表
  08/04《07/06》シーボルトがオランダ貿易会社長崎支店顧問として追放30年ぶりにドイツ人の妻と5人の子女を連れて再渡来
     08/06《07/08》出島に上陸
     鳴滝の土地が買い戻され、長崎滞在中、旧シーボルト宅を住居とする
     母娘に再会。再会後シーボルトはたきと疎遠となり同居を拒む
     たきはシーボルト帰国の1年後に再婚、のち寡婦となる
     1862(文久02)春/幕府に献言しようとしてオランダ総領事に妨げられ帰国
     のち旧宅はシーボルトの娘楠本いねの所有になるが売却
     1874(明治07)旧宅は台風で大破
  08/10仏駐日総領事ベルクールが着任
  08/13ポンペが許しを得て早朝から夕暮まで3日間にわたり、西坂刑場で死刑囚の死体解剖実習を行なう
     日本初の死体解剖実習に受講生46人、シーボルトの娘イネも参加
     許可が下りるまではパリから取り寄せたキュンストレーキによって説明される
     キュンストレーキとは紙製の人体解剖模型で、フランス人の解剖学者オズーによって作られる
      解剖用死体の不足を補うために作られ、フランス語では“Anatomie Clastique”(分解できる解剖模型)と呼ばれる
      キュンストレーキ(Kunst lijk)はオランダ語で人工死体を意味
  08/15フランスに開港
  09/06パリ外国宣教師会のジラール神父が滞在中の那覇から江戸に入る
     日本教区長に任命されていたジラール神父は聖地長崎に布教
     「日本26殉教者聖堂」の建設を遂行するため、沖縄に待機中のフューレ神父とプチジャン神父に日本入国を指名
     1860(萬延01)10/日本布教を命じられたフューレ神父とプチジャン神父が那覇に上陸
     1862(文久02)12/那覇に待機中のフューレ神父とプチジャン神父を日本(横浜)に入国させる
     1863(文久03)01/22《1862(文久02)12/03》フューレ神父が居留地に付随した天主堂を作るため長崎に入る
     出島のオランダ人宅に泊まるがフランス領事レオン・デューリーのいる小島郷本籠町の大徳寺にも仮寓
     02/13《12/25》今籠町の崇福寺付属の高嘯庵を借りようと長崎奉行に申し入れるが居留地ができており断られる
     フューレ神父は直ちに居留地に隣接する現地の入手申請、先ず司祭館の設計・建設に着手
     聖堂の設計も並行して進める
     1863(文久03)08/05《1864(元治01)07/04》ベルナルド・タデ・プチジャン神父がフューレ神父に遅れて長崎に入る
     1863(文久03)10/フューレ神父が司祭館の設計・建築に着手、聖堂の設計も並行して進めるが休暇をとりフランスに帰国
     残ったプチジャン神父が聖堂の建設と日本人への布教策を練る
     1863(文久03)11/ヨゼフ・マリ・ローカーニュ神父が長崎へ赴任
     のち以後プチジャン、ローカーニュ両神父の手で聖堂の建設と日本人への布教策が練られる
     日本人に信教の自由はなく、禁教政策下の聖堂の建設も居留地在留外人の為にのみ認可
     聖堂建設の工事を請け負ったのは天草の大工棟梁小山秀之進
     小山棟梁の下に伊王島の大渡伊勢吉、浦上村の溝口市蔵、外海村の川原粂吉らの大工
     禁教下においては工人として参加することにも相当な覚悟を要する
  09/19《08/23》英国貿易商で21歳のトーマス・ブレーク・グラバーが弟2人を同伴して上海経由で長崎に入る
     同じスコットランド人の先輩ケネス・R・マッケンジーが経営する貿易支社「ジャーディン・マセソン商会」に勤務
     1861(文久01)05/マッケンジーが中国へ去りグラバーは仕事を引き継ぎ「グラバー商会」を旗揚げ
     日本茶の加工輸出業をはじめる
     マッケンジーの南山手1番地自宅を引き継ぐ
     1863(文久03)グラバーがマッケンジーの南山手1番地の土地を引き継ぎ家(グラバー邸)を建てる
     1864(元治01)艦船や武器の取引、不動産、地金取引、金融代理店的な仕事もはじめる
     のち若い武士たちに銃や艦船などの機械類を大量に販売。茶、絹、銀など、各地方の特産物を輸出
     日本での主な取引相手は倒幕を画策する西南諸藩で維新前の政治情勢に深くかかわる
     のち上海や横浜に支店をおく
     1867(慶応03)淡路屋ツルと結婚
     1868(慶応04)女の子が生まれハルと名づける
     1870(明治03)日本の政情不安定で武器弾薬の需要を見込み大量買付け
     1870(明治03)09/16英本国政府がグラバー商会に対し破産を宣告
     予想外の早期安定で売却できず、負債数10万弗となる。日本の国情安定が、グラバーを破滅させたことになる
     1871(明治04)08/グラバー商会廃社。倒産後も三菱の顧問に納まり高給を得る。新事務所は神戸に
     1885(明治18)「ジャパン・ブルワリ・カンパニー」(キリン麦酒株式会社)が横浜に設立される際、奔走
     1897(明治30)日本人の妻ツルとともに東京へ転居
     1899(明治32)03/23ツル(49)が東京のグラバー邸で胃癌のため死去
     遺体は火葬に付され長崎へ運ばれ太平寺の墓地へ埋葬
     1908(明治41)日本帝国政府から外国人には破格の勲二等旭日重光章が贈られ功績をたたえる
     1911(明治44)12/16グラバー(73)が慢性腎炎の発作に襲われ東京で死去
     東京の教会でしめやかな葬儀が執りおこなわれ、遺体は火葬に付され長崎へ運ばれる。新坂本墓地5番の2に埋葬
     妻ツルの遺骨の一部がグラバーの墓へ分骨
  09/ポンペが稲佐で我が国初の遊女の検梅を実施
  09/亀山陶器所を復興する
  09/外人居留地として常盤崎から大浦まで埋立てる。第1次外国人居留地の造成
     1860(安政07・万延01)10/第1次外国人居留地の造成工事が完成。大浦海岸水域の大半を梅香崎側に埋立てる
     工事は天草赤崎村の庄屋北野織部が実家小山家の財閥を背景に請け負う大工事
     海面埋立て1万8525坪、背後の陸手と山手1万6127坪、計3万4652坪
  10/03長崎の舶来小銃販売人を指定
  10/27吉田松陰が江戸伝馬町の獄において斬首刑に処される、享年30(満29歳没)
     松陰は尋問に際し老中暗殺計画の詳細を自供し、自身で「死罪」にするのが妥当だと主張。井伊の逆鱗に触れる
  11/07米国改革派教会から派遣されたレフォームド教会の宣教師フルベッキ(29)が上海からの船で長崎へ
     崇福寺境内の広福庵に居住する
     禁教下の日本では布教活動ができず家塾で指定に英語を教える
     家塾には維新の原動力となる人々がその学殖と人格にあこがれ雲の如く集まる
     岩倉具視、伊藤博文、井上馨、大隈重信、副島種臣、西郷隆盛、後藤象二郎など
     1863(文久03)12/教育活動が評判になり幕府経営の洋学所(済美館〜広運館)に外国人教師の英語教授として嘱託
     1866(慶応02)佐嘉藩立の長崎致遠館教師に就任する
     1869(明治02)04/広運館の英語教師フルベッキが長崎を去り、開成学校の教師に就任
     1870(明治03)10/大学南校の教頭となる
  11/24チャールズ・ダーウィンの進化論についての著作「種の起原」が出版される
     原題は「自然選択の方途による、すなわち生存競争において有利なレースの存続することによる、種の起原」
     1896(明治29)立花銑三郎がダーウィンの著作を「生物始源」という題で日本初翻訳
  12/29《12/06》土佐藩郷廻(郷村査察職)の岩崎弥太郎が外国事情の偵察調査で来崎
     1860(萬延01)最新の情報は吸収するが客の接待や花街の遊興で金を使うほど遊びすぎ解任を申し出る
     のち藩命を待たず独断で帰国したのは不届きとして罷免される
     1867(慶応03)再度、来崎
     開成館貨殖局長崎出張所(土佐商会)の所長・後藤象二郎が大政奉還運動で上京のため岩崎弥太郎が主任に
  「長崎くんち」(5)…丸山町、寄合町、東築町、桜町、小川町、内中町、
     西上町、八百屋町、勝山町、恵美須町、今紺屋町、炉粕町、伊勢町
  時代は江戸が主舞台に変わり長崎海軍伝習所が閉鎖される
  唐人屋敷が開国後、廃屋化
     1868(慶応04)まで
     1870(明治03)焼失
     のち市民に分譲
  外国人居留地造成のため住民が浪ノ平に移住、道栄崎の弁財天も古河の辻に移し浪ノ平の氏神に
     1868(明治01)伊都岐島神社に改称
  唐人屋敷での中国人は300人余が在留
     のち中国人は広馬場町や新地に移住
     1868(明治01)在留中国人総数743人。うち館内242人、新地213人
  築町に海産物食油卸問屋でカラスミ製造本舗の「小野原本店」が創業
     独自の手法で作りだされる「からすみ」は皇室御成婚・ご即位式の折り、宮内庁御用達の栄誉を賜る
  上野彦馬が来日したフランス人写真家ロッシェから写真術を学ぶ
     1862(文久02)11/中島川畔に写真場・上野撮影局を開業
  英国の汽船会社P&Oがアゾフ号(700瓲)など3隻を使い長崎〜上海に定期航路を開設。月1回、横浜に延航
     のち長崎〜上海は英国船による定期運行が続き、各国の船が行き来する
  ポンペが大村町医学伝習所にて1300人に種痘を行なう
     種痘法の普及に力をつくし日本人を天然痘の惨禍から救うことに貢献
  出島オランダ印刷所がポンペ著「出島における気象観測」を出版
  オランダ領事館ドンクル・キュルシュスが要求
     出島で遊女がオランダ人の子を出生した場合、其の母である遊女の承諾があれば子を本国へ連れていく許可を要求
     長崎奉行、岡部駿河守は幕府へ問い合せ
  麻疹が流行し幕府は予防書を配布
  開港場に石造りの外国商館が建ち並び石工が大いに繁盛する
  唐船、蘭船の入港はなし

1860(安政07、萬延01・03/18)【孝明】 庚申(かのえさる)

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