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〈昭和時代(7)〉

1945(昭和20)【昭和】 乙酉(きのととり)

  《総理大臣》[第41代]小磯國昭(→04/07)、[第42代]鈴木貫太郎(04/07→08/17)
        [第43代]東久邇宮稔彦王(08/17→10/09)、[第44代]幣原喜重郎(10/09→)
  《知事》[第35代(官選)]田中重之(→04/21)、[第36代(官選)]永野若松(04/21→)
  《市長》[第15代]岡田壽吉(→10/21)、[第16代]岡田壽吉(10/22→)

  終戦以前現桜町公園あたりは、空襲に備え防火帯を作るため、建物が強制疎開で取り払われる
     のちその跡が公園になる
  01/08貨客船「安洋丸」が台湾西岸で米潜Barb(SS-220)の雷撃を受けて沈没
  01/樺島町から築町へ待避道路としてトンネルが貫通
  01/株式会社橋本商会が販売部門のほかに鉄材の鍛造機械部品の加工・製造部門として鉄工部を新設
     1946(昭和21)03/株式会社橋本商会古鉄部が三菱製鋼株式会社の製鋼原料である屑鉄の一手納入者の指定を受ける
     戦後の国土復興に尽力する
  02/11第3回水道拡張事業の浦上水源地濾過池6面のうち3面が完成
     1日5千立方米の給水が可能に
  02/「長崎県立盲学校」の校舎を三菱長崎造船所に貸与。学校は長崎市近郊の長与村に疎開移転
     1945(昭和20)08/09帰省中の生徒4人と長崎出張中の校長が被爆死亡
     浦上校舎も直撃を受け壊滅的な被害を蒙る
  03/10午前0時07分、B-29爆撃機325機(うち爆弾投下機279機)による爆撃が深川地区へ初弾が投下
     城東地区にも攻撃が開始される
     0時15分空襲警報が発令
     0時20分浅草地区や芝地区でも爆撃が開始。「東京大空襲
     火災の煙は高度1万5千米の成層圏にまで達し、秒速50米以上、竜巻並みの暴風が吹き荒れる
     午前2時37分アメリカ軍機は退去し空襲警報は解除される
     警視庁調査の被害数は死亡8万3793人、負傷者4万918人、被災者100万8005人、被災家屋26万8358戸
     民間団体や新聞社の調査では死者行方不明者は10万人以上
     わずか1回の空襲で東京市街地の東半分、実に東京35区の3分の1以上の約41平方粁が焼失
     空襲での爆弾の制御投下弾量は38万1300発、1783瓲
     アメリカ側の損害は撃墜・墜落が12機と、撃破が42機
  03/17激しい戦闘の後にアメリカ軍が硫黄島を制圧し日本軍守備隊陣地の多くが壊滅
     日本軍2万3千人のうち捕虜になった210人を除く全員が戦死
  03/19県防空本部は長崎、佐世保、大村、諫早の4市と川棚町の全家庭に天井板を取り外すよう指示
     敵機による落下焼夷弾の早期発見に対処するため。03/21までに
  03/28佐世保空襲
  03/31B29約30機が大村地区を空襲
  03/長崎三菱造船所で5人乗り特殊兵器、潜航艇の「蛟龍」55隻の建造に着手
     のち敗戦時までに完成したのは5隻のみ
  03/旭町の公益質屋が戦局の重大化にともない閉鎖
     1945(昭和24)11/01第1市営公益質屋として復活、営業開始
  03/長崎県が立山町の諏訪公園の武徳殿の崖下に県防空本部「立山防空壕」を建設
     立山防空壕は防空施策の中心的役割を担う
     空襲警報が発令されると県知事ら要員が集まり、警備や救援・救護など各種応急対応の指揮、連絡手配にあたる
     壕内には知事室や警察部長室、防空監視隊本部などが配置
     2005(平成17)11/03県防空本部跡「立山防空壕」の一般公開がはじまる
     長い間、中に入ることはできなかったが、所有権問題が解決した昨年春から市が保存、公開に向けて検討
     県幹部らの執務室などのE字形の部分、電話交換手らの部屋がの大ホール部分など6つのエリア(406平方米)
     補強工事や内部の展示で公開はE字形部分(通路1本を除く)
  03/2時間にわたる県下大空襲で市の3分の1が壊滅
     長崎バス(株)の本社も空襲にあい、本社事務所を一時的に油屋町に移転
  04/01国民学校初等科以外の授業が1年間停止に
  04/01日本銀行長崎事務所が横浜正金銀行長崎支店内に開設
     1949(昭和24)03/01日本銀行長崎事務所が支店に昇格。炉粕町の長崎市商品陳列所跡に開店
     1978(昭和53)12/14旧店舗が老朽化したため新店舗が完成
  04/01アメリカ軍が沖縄本島へ上陸、沖縄戦が本格的に開始される。仲泊と石川の線で本島を南北に分断
     06/23午前4時30分、沖縄守備軍司令官牛島満が摩文仁司令部で自決。組織的戦闘が終わる
     沖縄戦戦没者は日本軍将兵9万4136人、他府県出身者6万5908人、沖縄出身者2万8228人
     沖縄県民の戦闘協力者5万5246人、民間の沖縄県民9万4754人
  04/05本土攻撃を逃れて武器の生産拠点を確保するため工場分散化が各中学校の校舎にも拡大
     長崎県内政部長の「決戦非常措置要綱に基づく学校工場化実施に関する件」が通達
     慌ただしく学校工場化の整備がはじまる
  04/0714時23分、沖縄へ出撃の途中、戦艦大和以下10隻の海上特攻隊が薩摩諸島沖合で壊滅
     鹿児島県坊ノ岬沖90海里の地点で大爆発を起こし戦艦大和の艦体は2つに分断されて海底に沈む
  04/12夜、出島長崎港駅前の門司鉄道管理局長崎管理部庁舎から失火
     原因は施設課員の電熱器の不始末。管理部建物の約2/3を焼失
     敵機の来襲が次第に烈しく港湾地帯であり、比較的攻撃目標になりやすいため修復を断念
     また出島近辺では、防空壕の施設が非常に困難等々の理由で長与駅前の適地を物色、管理部の施設を仮設することに
     05/06長与村大字吉無田郷字内園101番地にて地鎮祭
     突貫工事は地方村民各位の奉仕作業などをあわせて早期に完成。防空壕は裏山に掘鑿
     06/20頃長与村大字吉無田郷字内園101番地にて仮庁舎が落成
  04/15長崎市と佐世保両市が大規模な第2次疎開を実施
  04/21永野若松が長崎県知事に就任(任命)
     永野若松は1898(明治31)05/07福岡県生まれ
     東大工学部電機工学科を卒業、のち東大法学部政治学科に編入
     卒業と同時に内務省に入る
     厚生省労政課長・警視庁刑事部長・特高部長・内務省保安部長・
     福井県知事・東海地方協議会参事官・内務省防空総本部総務局長を歴任
     1946(昭和21)01/25GHQによる特高追放で長崎県知事を依願免官
  04/26午前11時、1機のB-29が無警報下の長崎市内に4瓲の爆弾と7発の時限爆弾を投下
     第2次空襲(目標:ドック地区)
     死者129人、重軽傷者278人、家屋の全壊1戸、半壊3戸
  04/26市営交通船の第6長港丸(55.82瓲)が空襲を受け乗客70人、船員2人が死亡
     同船は大浦海岸へ曳航され沈没。のち引揚げ改修して売却
  04/30ドイツの指導者兼首相アドルフ・ヒトラーが拳銃で自殺。エヴァ・ブラウンは毒を仰ぐ
     ふたりは前日にベルリンの地下壕で結婚式を挙げたばかり
     のち遺体が連合軍の手に渡るのを恐れて140リットルのガソリンがかけられ焼却される
     死亡は側近らの証言によって間接的に確認されるのみに
  04/長崎市立商業学校の講堂や教室の一部が県の備蓄食糧保管倉庫として
     本館1階、雨天体操場などが三菱兵器製作所大橋工場分工場として使用される
     08/09爆心地から約1キロの距離にあった校舎はことごとく被災。教職員13人、生徒162人が犠牲に
     施設・設備は壊滅、学籍簿をはじめ書資料・などは、防空壕に保管され奇跡的に残された一部を除いてすべて焼失
     09/20桜馬場の市立高女上手の旧中和寮を仮校舎として授業再開
     12/仮校舎が上長崎小学校へ移る。校舎の一部を借りて再開
     のち東青年学校(現片淵中学校旧校舎)も併用
     1946(昭和21)12/09油木の校舎に復帰。開校式をあげる
     西山から油木までの約4キロはリレー式に校具類を移送
  05/05三菱長崎兵器工場が被害を防ぐために分散。既存の日見トンネルを分工場として完成
     西口から見て右半分をベニヤで仕切り工場に
     通過する自動車、馬車、牛車の離合のため、トンネルの中央部15米ばかり仕切りのない空間が残される
     軍事機密で市民は中で何が製造されているか知ることはできず
     学徒動員を主体に魚雷部品を造る
  05/14長崎港外を航行中の船舶が米艦載機の集中爆撃を受ける。負傷者は掖済会病院に収容
  05/20長崎県自動車局が馬町81番地の富国徴兵保険(株)跡に移転
     1947(昭和22)07/29長崎県自動車局を長崎県交通局と改称
  05/25東京大空襲で東京市京橋区木挽町の歌舞伎座の大屋根が落ち、外郭を残して内部を焼失
     1951(昭和26)01/03第4代の復興した建物で開場式(こけら落し)
     戦禍をまぬがれた第三期の建物の基礎や側壁の一部を利用して改修。設計は吉田五十八
     外観は戦前の歌舞伎座を踏襲し、奈良及び桃山の優雅な趣はほぼ再現、同時に近代的な設備が取り入れられる
     客席数は桟敷、一幕見を含めて約2千席
     舞台間口15間(約27.6米)、廻り舞台の直径60尺(約18米)、大小合わせて4か所にセリがつく
  05/27読売報知、朝日新聞、毎日新聞、日本産業経済、東京新聞の5社共同による「共同新聞」が発行される
     1946(昭和21)05/01題号が「讀賣新聞」に復帰
  05/長崎市の食糧事情が深刻化。主要都市の医療機関はすべて医療団の運営となる
  06/02橘湾奥の日見村網場の砂浜でわら人形を相手に竹槍訓練が行なわれる
     陸軍省は他にさす叉、弓の使用を兵器として指示
  06/20頃門司鉄道管理局長崎管理部庁舎の仮庁舎が長与村大字吉無田郷字内園101番地に落成
     1945(昭和20)04/12夜、施設課員の電熱器の不始末により失火し管理部建物の約2/3を焼失したため
     06/23管理部が移転
     官舎は管理部裏の谷間に10数のバラックを建設、浦上村付近にある鉄道官舎の強制疎開となっているものを移転
     幹部級はおおよそこれに居住する
     08/09門司鉄道管理局長崎管理部は原爆の大きな被害から逃れ、鉄道の早期復旧の原動力になる
  06/28午後11時58分、大雨の降る佐世保市にB-29爆撃機が30機来襲。二波にわたり焼夷弾を投下
     市内全戸数の35%が全焼、247町のうち173待ちが被災
     焼失面積178万5千平方米、焼失家屋(全焼1万2037戸、半焼69戸
     被災者6万0734人、死亡者1217人[2002(平成14)現在]
     市役所、公会堂、郵便局、電話局、警察署、学校、玉屋デパートなどは、コンクリートの外郭だけを残す
  06/永井隆博士が白血病と判明、余命3年と診断
     白血球10万8千(正常値7千)赤血球300万(正常値500万)
  06/佐世保市医師会館が空襲で焼失。会員罹災38人・死亡3人
  07/01東亜交通公社より全国鉄道時刻表が発売。1部30銭
●●●●●長崎線(主要駅、主要列車)
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  07/07長崎市が救護所編成を改正
     救護本部を今魚町に置き、新興善国民学校など22か所に救護所を開設
     医師、歯科医師、薬剤師、看護婦、助産婦ほか総員327人を配置
  07/14米国ニューメキシコ州のアラモゴード空軍基地で原爆実験に成功
  07/26米、英、中首脳が日本に無条件降伏を要求する「ポツダム宣言」を発表
     07/28ポツダム宣言が発せられるが、政府の鈴木貫太郎首相は「ポツダム宣言」を黙殺すると発言
     08/09午後11時50分から御前会議が開かれる
     08/10午前02時20分、国体護持を条件に「ポツダム宣言」受諾を決定
     日本政府は中立国スウェーデン、スイスを通じて連合国へポツダム宣言受諾を打診
     08/12日本政府がポツダム宣言受諾に対する連合国の回答公電を受け取る
     政府はその内容(天皇制の存続には一切触れずに、無条件での「降伏」を勧告)をめぐって大混乱
     08/14最高戦争指導者会議が招集
     政府内混乱に対処するため御前会議で天皇が再び「ポツダム宣言」受諾を決定
     日本政府は中立国スウェーデン、スイスを通じて連合国へ受諾を正式に申入れる
     昭和天皇が「戦争終結の詔書」を発布。ラジオ放送用に録音し、翌15日正午に放送することに
     08/15連合国へ申し入れたポツダム宣言が正式に受諾される
     正午、天皇の日本の降伏を伝える「戦争終結の詔書」(玉音放送)がラジオ流れる
     「…堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス…」
     日本の無条件降伏により第2次世界大戦が終結する
  07/28ポツダム宣言」が発せられるが、政府の鈴木貫太郎首相は「ポツダム宣言」を黙殺すると発言
     08/09午後11時50分から御前会議が開かれる
     08/10午前02時20分、国体護持を条件に「ポツダム宣言」受諾を決定
     日本政府は中立国スウェーデン、スイスを通じて連合国へポツダム宣言受諾を打診
  07/29午前10時頃、沖縄基地の32機のA26が長崎市内に爆弾51瓲と破片爆弾6瓲投下
     第3次空襲(目標:ドック地区)。三菱造船所を中心に波状攻撃
     死者22人、重軽傷者41人、行方不明3人、家屋の全壊43戸、半壊113戸、校舎1楝半壊
  07/31沖縄基地の29機のB-24が伊王島沖で数波に別れ、港外(川南造船所)と市内に来襲
     第4次空襲(目標:川南造船所)
     港外では香焼島の川南造船所を低空爆撃
     市内では木鉢町、平戸小屋町、稲佐町、竹の久保町、岩川町、愛宕町、土井首町、田手原方面に投弾
     死者11人、重軽傷者35人、家屋の全壊72戸、半壊76戸
  07/1942(昭和17)04/01に統合された「長崎日報」が「長崎新聞」と改題
     1945(昭和20)08/09原爆により大村町の社屋が灰燼に帰す
  07/梅が崎11番地のユダヤ教会堂が解体
  07/戸町トンネルが爆撃を避けての三菱長崎兵器工場として使われる
     長崎造船所幸町工場から小型旋盤など120台の機械をトンネルに移す
     戸町の「と」を○で囲みマルト工場と呼び、学徒が動員され軍艦のエンジン部品などを製作
     トンネルの入口は両側とも壁でふさがれ、車は迂回することに
  07/空襲により相つぐ戦災を蒙り、関門国道トンネルの地上施設が焼失。工事は一時休止
     1952(昭和27)工事が再開
  07/島原の住吉旅館が強制疎開をうけ建物が取り毀される
     住吉旅館は井上ユキヨが1869(明治02)にはじめた料亭「腰駕楼」で1913(大正02)から旅館となる
     1946(昭和21)井上ユキヨの孫にあたる井上籠子が住吉旅館の経営を再開
  08/0124機のB-24と26機のB-25が空襲警報の中で軍需工場を中心に爆弾112瓲を投下
     第5次空襲(目標:三菱造船所・操車場)
     港外では香焼島の川南造船所を低空爆撃
     第1目標の三菱造船所本工場・幸町工場をはじめ
     三菱製鋼所、三菱兵器茂里町工場、長崎医科大学など重要施設に大きな被害
     他に大浦付近、台場町、寿町付近や山里、城山、竹の久保、稲佐地区なども被害を受ける
     死者169人【139人?】、重軽傷者215人、行方不明40人、家屋の全壊107戸、半壊134戸
     長崎医科大学附属病院は屋上に赤十字のマークを印しているにもかかわらず米軍から空襲を受ける
  08/01福富町3丁目の福岡県俘虜収容所第14分所が第5次空襲で造船所と幸町工場が攻撃を受ける
     収容所の俘虜3人が死亡
     1945(昭和20)08/09原爆落下日は造船所の就労はなく、全員が幸町工場、収容所の修理などをする
     幸町工場は瞬時にして全施設が全壊、猛火に包まれる
     収容所は煉瓦塀が崩れ落ち建物は全焼し、60〜80人が即死、200人余りが重軽傷を負う
  08/06B-29原子爆弾搭載機「エノラ・ゲイ」が観測用随伴機2機を従えテニアン島を離陸
     午前08時15分、広島市上空からウラニウム235原子爆弾「リトル・ボーイ」を投下
     上空約9600米から投下し地上約580米で炸裂
  08/08午後11時(モスクワ時間午後5時)日本に対してソ連が宣戦布告
     ソ連外務大臣ヴャチェスラフ・モロトフが日本の佐藤尚武駐ソ連大使に知らせる
     事態を知った佐藤は東京の政府へ連絡するが、領事館の電話は回線が切られ奇襲を伝える手段は残されず
     日ソ中立条約は破棄され、ソ連軍は対日参戦を実行。満州国、樺太南部、朝鮮半島、千島列島に侵攻し日本軍と戦闘に
     のち旧日本軍将兵や在満州民間人、満蒙開拓移民団、約65万人が満州国や南樺太などで捕虜になる
     【一説に200万人以上?】
     日本人捕虜はシベリアの強制収容所に抑留され、過酷な環境下で強制労働に従事、6万人を超える死者をだす
     ポツダム宣言違反
  08/09直前長崎三菱兵器製作所の拡張工事が完成
     土地7万5千坪、建物4万1794坪、機械設備3435台、従業員1万5千人に
     一部鉄筋コンクリート造の他は大部分が鉄骨、鉄板張りの建物で、本部事務所と食堂は木造建築。全部で20楝余り
     大橋工場では飛行機用91式魚雷、茂里工場では艦船用95式魚雷の制作が主
     91式魚雷は太平洋戦争の火蓋を切った真珠湾攻撃、マレー沖海戦で使用
     91式魚雷7343個、95式魚雷2699個を海軍に納める
     1945(昭和20)08/09原爆により大橋工場、茂里工場が倒壊
  08/0910時38分、被爆前では最後の門司港行き列車が長崎駅を出発
  08/09連合国軍の戦略爆撃機B-29「ボックスカー」には機長スイーニー少佐や爆撃手ビーハン他13人が同乗
     第1目標の小倉兵器庫が前日の八幡爆撃による煙やもやのため目視できず第2目標の長崎に変更
  08/09新型爆弾を警告した葉書ほどのビラが、長崎市を中心に長与村、田結村、茂木町などの町村にわたって散布される
       (表)
     即刻都市より退避せよ
      日本国民に告ぐ!!
     このビラに書いてあることを注意して讀みなさい。
     米國は今や何人もなし得なかつた極めて強力な爆薬を發明するに至
     つた。今回發明せられた原子爆彈は只その一箇を以てしても優にあ
     の巨大なB-29二千機が一回に搭載し得た爆彈に匹敵する。この恐るべ
     き事實は諸君がよく考えなければならないことであり我等は誓つて
     このことが絶對事實であることを保證するものである。
     我等は今や日本々土に對して此の武器を使用し始めた。若し諸君が
     尚疑があるならばこの原子爆彈が唯一箇廣島に投下された際如何な
       (裏)
     る状態を惹起したか調べて御覧なさい。
     この無益な戰爭を長引かせてゐる軍事上の凡ゆる原動力を此の爆彈
     を以て破壊する前に我等は諸君が此の戰爭を止めるよう陛下に請願
     することを望む。
     米國大統領は曩に名譽ある降伏に関する十三ケ條の概略を諸君に述
     べたこの條項を承諾しより良い平和を愛好する新日本の建設を開始
     するよう我等は慫慂するものである。 諸君は直ちに武力抵抗を中
     止すべく措置を講ぜねばならぬ。然らざれば我等は断乎この爆彈並
     びにその他凡ゆる優秀なる武器を使用し戰爭を迅速且強力に終結せ
     しめるであろう。
      “即刻都市より退避せよ”
  08/09午前11時02分、プルトニウム原子爆弾「ファット・マン」を高度約9600米から投下
     観測用随伴機からラジオゾンデ(落下傘付き爆圧等計測器)3個が投下
     松山町171番地上空約500米の地点で炸裂
     原爆を投下したB-29は急旋回し閃光と衝撃波を確認後、沖縄へ。すでにテニアン島までの燃料は残っておらず
       爆発した瞬間の爆発点の温度は摂氏数100万度、爆発から1万分の1秒後には約30万度の火球を形成
       爆発1秒後、火球は最大となり半径約240米まで膨張
       爆発直後の爆心地の地表温度は3千〜4千度を超える
       爆心地では1平方米あたり6.7〜10瓲もの圧力が瞬間的に働いたと推定
       爆風速度は爆心地から1粁の地点でも毎秒約170米に
     当時の被害状況(長崎市全市・死傷者数は12/末まで) 焼失土地面積670万2300平方米(203万1千坪)
     被災戸数1万8409戸、全焼1万1574戸、全壊1326戸、大破(半壊)5509戸、
     死者7万3884人、重軽傷者7万4909人、被災人員12万0820人(市の人口・約24万)
     爆風と熱線で松山町の爆心地より半径1粁以内の20か町は全壊と同時に火災が発生し全焼
     さらに半径2粁以内の20数か町も約80%が倒壊、全焼
     米国の野戦命令第17郷での長崎の照準点は114061。座標軸では中島川に架かる常磐橋から賑橋辺りを示す
       その後原爆症で死亡した人も少なくない
  08/09原爆炸裂直後、永野若松知事が長崎県防空本部立山防空壕から防空総本部長官や九州地方総監へ電文を送る
     電文のなかには爆弾の被害が軽微なことや爆弾が2個投下されたことなど、情報不足からの誤報が見受けられる
     防空本部は爆心地から約2.7粁離れ、山の反対側の爆心地周辺の被害情報が把握できず、また大混乱での報告のため
     防空情報   第一報
      一、本日一〇五三敵B29二機ハ熊本縣天草方面ヨリ北進シ島原半島西部橘湾上空ヲ経テ長崎市上空ニ侵入一一〇二頃落下傘附新型
        爆弾二個ヲ落下セリ
      二、右爆弾ハ広島市ヲ攻撃セルモノ小型ト認メラレ負傷者相當アル見込ナルモ広島ノ被害ニ比較シ被害ノ程度極メテ軽微ニシテ死
        者並ニ家屋ノ倒壊ハ僅少ナリ
        追而 縣廰員幹部ニ死傷ナシ
     防空情報   第二報
      敵機ハ長崎市ヲ爆撃セル後一一三〇頃北高来郡戸石村北方五粁ノ地点ニ落下傘附爆弾三個ヲ投下セルガ内一個ハ高度一、〇〇〇米
      ニ於テ炸裂シ二個ハ不発ノ儘同村山林ニ落下セリ尚同時刻頃東彼杵郡川棚町上空ニ於テ更ニ落下傘附爆弾二個ヲ投下セルモ海中ニ
      落下セル爲被害ナキ模様戸石村ノ被害ハ判明セザルモ調査中ナリ
     空襲被害状況 第三報
      本日ノ長崎市空襲被害状況十五時現在左記ノ通ニ有之
        記
      一、十二時三十分頃ヨリ市内各所ニ火災發生シ目下長崎駅前、大黒町、台場町、五島町、元船町、下筑後町、東上町、八千代町、
        西坂町、銭座町、稲佐町、竹ノ久保町、外浦町、大村町一帯火災發生延焼中ナリ
      二、十五時現在迄焼失セル主ナル建物左ノ如シ
        長崎縣廰 長崎地方裁判所 長崎地方裁判所検事局 長崎区裁判所及同検事局 長崎日報社 西日本新聞支局 長崎医科大學
      三、尚八千代町ヨリ以北浦上一帯ノ被害ハ相當死傷者アル模様ニシテ火災発生尚延焼中ニシテ詳細調査中
        右及申(通)報候也(防空總本部ヘハ總監府ヨリ報告相煩度)
     防空情報   第四報
      本日敵ノ投下セル落下傘附新型爆弾ハB29ヨリ高々度ニテ投下シ長崎市上空ヲ浮流シツツ降下シ高度五〇〇米位ニテ炸裂シタルモ
      ノト認メラルルガ其ノ威力ハ概ネ左記ノ如ク判断セラル
        記
      一、炸裂ノ瞬間強度ノ白色仄光ヲ發シ灰光アリテ約一〇秒位ニシテ大爆發音ト共ニ強烈ナル爆風ト熱風ヲ生ズ
     空襲被害状況 第五報
      本日二〇時現在判明セル長崎市空襲被害状況左記ノ通ニシテ其ノ被害ハ殆ンド全市ニ及ビ特ニ長崎駅以北浦上一帯被害甚大ニシテ
      敵ノ投下セル新型爆弾ハ二個ト認メラレ既報ノ如キ強烈ナル威力ヲ有シ広島市ニ於テ使用セルモノト同一爆弾ト思料セラル
        記
      一、死傷者
        死傷者ハ約五〇、〇〇〇人位ト認メラルルモ目下救護中ニシテ正確ナル調査困難ナリ今後尚増加ノ見込死傷者ハ何レモ火災ニ
        依ルモノニアラズシテ爆弾炸裂ニ依ル爆風弾片火熱ニ依ルモノナリ
  08/09蒸気機関車C51-68号機が牽引する肥前山口発長崎行き、旅客311列車が15分遅れて長与駅に到着
       直後、停車中に原爆にあい、危うく直撃を免れる
       すさまじい爆風がおこり、客車の窓ガラスが割れるなどの被害。乗客の負傷者はわずか
       1時間後、長崎管理部の指令救援列車第1号として、被爆直後の長崎の街に進入
       被爆者を力づけるかのように汽笛をなら続けながら爆心地より600米の地点、右手に照円寺が見える付近まで進む
       約600人もの被災者を列車に収容し、諫早まで引き返して病院に輸送
       この日のうちに311列車を含む4本の救援列車が運転され約3500人を収容。諫早、大村、川棚、早岐などに輸送
       1960(昭和35)12/C51-68号機が解体される
  08/09原爆投下直後、救護所になった施設
       三ツ山救護所、宮島氏宅、滑石太神宮、岩屋倶楽部、三菱重工業株式会社長崎兵器製作所大橋工場、浦上第一病院、
       山里国民学校、長崎市立商業学校、城山国民学校、長崎医科大学附属病院、三菱製鋼株式会社長崎製鋼所(本館)、
       三菱重工業株式会社長崎兵器製作所茂里町工場、銭座国民学校、稲佐国民学校、悟真寺、稲佐警察署、飽浦国民学校、
       三菱病院本院、仮編成第二一六兵站病院、伊良林国民学校、勝山国民学校、新興善国民学校、日本赤十字社長崎県支部、
       磨屋国民学校、大光寺、高木病院、活水高等女学校
  08/09原爆投下直後、元海軍予備役軍医中佐の宮島武が滑石郷平家地区の宮島家の自宅(3.8粁)を救護所として開放
       1988(昭和63)06/02宮島武が使った治療台や担架が見つかり遺族から国際文化会館に寄贈
  08/09原爆によりたくさんの被害を受ける。(括弧内の粁数は爆心地からの距離)
     浦上約1万2千人の信徒のうち約8500人が爆死
   (爆心地から0.5粁)
     松山町、橋口町、岡町の3町にまたがっていた長崎刑務所浦上刑務支所(0.3粁【0.25粁】)が崩壊
       高さ4米、幅25糎の鉄筋コンクリートの塀が、ほとんど根元から倒壊
       敷地約2万平方米(6060坪)、庁舎面責1万3千平方米(3940坪)
       爆風と火災により、一瞬にして全施設(13棟)が全壊、全焼、炊事場の煙突1本だけがかろうじて残る
       所内にいた受刑者48人、刑事被告33人(計81人のうち中国人32人、朝鮮人13人)、
       職員18人、官舎居住者35人のあわせて134人、全員が即死
       1955(昭和30)「平和祈念像」が完成
     爆風により簗橋(0.3粁)南側の橋面に亀裂が生じ、川岸へ約10センチほどほど後退、欄干は45度西に傾く
       簗橋は駒場町から城山町に抜ける浦上川に架かる
       のち補修される
       1986(昭和61)長崎大水害の河川改修工事により架け替えられる
     竹の久保町の鎮西学院(0.5粁)の鉄筋コンクリート4階建の校舎のうち4階部分が全て崩壊、3階は爆心側が粉砕
       竹の久保町は現宝栄町、鎮西学院は現活水高校
       建物全体に亀裂が生じ内部が全焼。授業の継続が不能に
       のち諫早の新築校舎に移転
     落下中心地から西に約500米離れた小高い丘の上の城山国民学校(0.5粁)が崩壊
       学校にいた教員28人、庁務員3人、三菱兵器製作所員58人、挺身隊員12人、学徒報国隊員42人が死亡
       生き残ったはわずかに教員3人、兵器製作所員9人、挺身隊員2人、学徒報国隊員4人のみ
       家庭にいた子供1400人余りが死亡、家庭にいて助かった子供は50人余りに過ぎなかった
       校舎の一部や半円形の窓を持つ階段塔屋は爆風による倒壊をまぬがれた
       校長室で会議中被爆した荒川秀男教頭は奇跡的に助かり、生き残った子供を集めて授業を再開
       1948(昭和23)04/城山小学校として復興
     爆心地から北東約500米の位置にある浦上天主堂(0.5粁)が全壊。ドーム部分は地上に落下
       双塔につく鐘楼のうち小さい方は壊れるが、大きい方はほぼ完全な形で残る
       戦後すぐ木造仮聖堂が建てられ本聖堂建設計画が持ち上がる
       長崎県原爆資料保存会から廃虚を原爆遺構として保存して欲しいという要望がだされる
     浦上天主堂(0.5粁)内にいた神父西田三郎、玉屋房吉の2人、24人の信徒が死去
     長崎バス(株)岡町営業所(0.5粁)が跡形もなくなる。女性従業員3人が犠牲に
     浦上川に架かる大橋(0.5粁)の一部の欄干と橋塔が欠けて川に落ちる
       1953(昭和28)原爆で破損した浦上の大橋の改修工事が竣工
       1974(昭和49)07/31原爆で吹き飛ばされた約4屯の橋塔などが川から引き揚げられ爆心地に保存される
       のち原爆資料館に移設
     原爆により下大橋(0.5粁)の欄干の半分10数米が川に落ち、橋脚の一部が破壊
       下大橋は浦上川の大橋町〜駒場町を結ぶ鉄筋コンクリート造の橋
       1947(昭和22)欄干を修理
       1981(昭和56)03/全面架け替え
     浦上川の橋口町〜大橋町を結ぶ鉄筋コンクリート造の本大橋が原爆で崩落
       のち復旧
       1984(昭和59)06/昭和の大水害の災害復旧改良事業で架け替え
   (爆心地から1.0粁)
     爆心地から東に約600米離れた長崎医科大学(0.6粁)の建物76棟のうち木造建築65棟が爆風で壊滅的な打撃を受け全滅全焼
       学長はじめ890人の教職員や学生が死去
     長崎医科大学と同附属薬学専門部の正門の2つの門柱(0.6粁)が爆風により約10糎傾き、全面に9糎ずれる
     竹岩橋(0.6粁)の東岸に接した桁が吹き飛び転倒、残された橋床は45米下流に吹き飛ばされる
       竹岩橋は浦上川の竹の久保町〜岩川町に架かる鉄筋コンクリート橋
       1948(昭和23)03/原形に復旧
     爆心地から北へ約600米離れた山里国民学校(0.7粁【0.6粁】)の鉄筋コンクリート造り3階建ての校舎が北側の1、2階を残して倒壊
       学校で作業中の教職員32人のうち生存者はわずか4人
       児童1581人のうち約1300人が死去
     長崎医科大付属病院(0.7粁)が被災
       1945(昭和20)10/長崎市立新興善国民学校に医科大学附属医院を開設して診療を開始
     医科大学附属医院にいた永井隆博士が被災。右側頭動脈を切断しても救護活動を続ける
       1945(昭和20)08/10緑夫人は原爆により死亡
       自宅焼け跡から夫人の遺骨を拾って埋葬する
     長崎県立盲学校」(0.7粁【0.5粁】)の帰省中の生徒4人と長崎出張中の校長が被爆死亡、浦上校舎も直撃を受け壊滅的な被害を蒙る
       1948(昭和23)05/長与村の仮校舎が手狭になり大村市に移転し再び盲聾学校併設となる
     山王神社(0.8粁)境内の建物が壊滅的被害を受ける
       一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居、四の鳥居のうち三、四の鳥居は倒壊
       一、二の鳥居は爆風に対し平行に立ち倒壊は免れる
       爆心地から南東約800米にあった二の鳥居が高温の熱線で上部は黒く焼け爆風で左半分は倒壊
       右半分は笠石を載せたまま奇跡的に残る
       爆風で笠石の部分は約5糎横にねじ曲げられたが、笠石と貫の一部でバランスを保つ
       1962(昭和37)03/ほぼ完全な形で残っていた一の鳥居が運送会社のトラックの衝突により倒れる
       そのまま撤去され行方知れずに
       1988(昭和63)ぼぼ旧来の姿に再建
     上野町(現南山高校)の県立長崎工業学校(0.8粁)の全校舎が焼失
       のち大村の元海軍空廠工員養成所の施設を仮校舎に
       のち市立商業学校の一部を使用、長大医学部の病床を借りるなど転々とする
       1952(昭和27)岩川町に新校舎が完成し落ち着く
     長崎県護国神社が本殿をはじめことごとく灰になる
       1963(昭和38)10/再建される
   (爆心地から1.5粁)
     長崎市立商業学校(1.1粁)の校舎がことごとく被災
       教職員13人、生徒162人が犠牲に。校舎の所在は西彼杵郡西浦上村油木谷20番地
       施設・設備は壊滅、学籍簿をはじめ書資料・などは、防空壕に保管され奇跡的に残された一部を除いてすべて焼失
       09/20桜馬場の市立高女上手の旧中和寮を仮校舎として授業再開
     竹の久保町〜茂里町を結ぶ梁川橋(1.1粁)の欄干が原爆により損傷
       1966(昭和41)鋼弦コンクリート造に架け替え
     長崎三菱兵器製作所「大橋工場」(1.2粁)の建物は全て倒壊
       鉄筋コンクリートの研究室は空洞化し、鉄骨、鉄板張りの各工場は木端微塵に破壊
       外皮をはがされた鉄骨が飴のように折れ曲がり、折れ重なって無惨な残骸をさらす
       本部と食堂の木造2楝は倒壊ののち、すぐに火災で焼失
       「茂里工場」の屋根のスレートと周囲の鉄板は四方に飛び散り、鉄骨は幾重にも曲がり、押し潰されて倒壊
       鉄筋コンクリートの建物は外壁を残し窓枠と内部の造作、器物は破損
       試験場2階から出火し建物1棟が焼けるが、機械工場の一部がかろうじて残る
       他に九州各県から動員された学徒報国隊、女子挺身隊用の7か所の寮と4か所の学校疎開工場が全壊、全焼
       2工場あわせての死者は職員335人、工員1358人、生徒580人
       負傷者は職員361人、工員4260人、生徒1058人
       1945(昭和20)11/15長崎三菱兵器製作所が正式に閉鎖
     男子フランシスコ会が聖フランシスコ神学校を結核療養所とした浦上第1病院(1.4粁)が壊滅
       1945(昭和20)11/焼け跡に聖フランシスコ診療所が開かれる
     長崎純心高等女学校(1.5粁【1.3粁】)の生徒700人のうち209人が死亡、全校舎が焼失
       1945(昭和20)10/大村市の元海軍工廠跡にて授業が再開
     原爆により浦上部落の人畜は強大な爆風と熱気によって一部は即死、大部分は重傷
       家屋約80%は倒壊、火災発生とともに焼失。浦上町戸数229戸、890人。原爆によって全戸全焼、430人が死亡
   (爆心地から2.0粁)
     銭座川の銭座町〜宝町間に鉄筋コンクリート造の目覚橋(1.6粁)が原爆の爆風で橋の片方の欄干が倒壊
       残った片方の欄干もひび割れ剥離し傷だらけに
     福岡県俘虜収容所第14分所(1.7粁)収容の俘虜による造船所の就労はなく、全員が三菱長崎造船所幸町工場、収容所の修理などをする
       幸町工場は瞬時にして全施設が全壊、猛火に包まれる
       収容所は煉瓦塀が崩れ落ち建物は全焼し、60〜80人が即死、200人余りが重軽傷を負う
       俘虜は金比羅山や浦上川川岸の空地などで一夜を過ごす
       08/10朝、どこからともなく幸町工場に集まり、仲間の遺体を発掘
     官立長崎師範学校男子部(1.8粁)の校舎が全壊全焼、学生54人が被爆死
       本部が大村市の女子部に移転。男子部は大村市の旧西部147部隊兵舎に移り授業を再開
       【男子部は大村市の旧四六連隊の旧兵舎を使用して授業を開始】
       1949(昭和24)05/31国立大学設置法の公布で長崎大学が設置。新制大学制度に学芸学部として組み込まれる
       長崎大学学芸学部(小学校、中学校、幼稚園を附設)が大村市乾馬場の大村連隊跡にて発足
   (爆心地から2.5粁)
     稲佐の悟真寺(2.4粁)の本堂その他が倒壊
       1959(昭和34)原爆で倒壊した本堂が再建
     尾上町の長崎魚市場が壊滅
       09/早くも青空市場同然の状態で業務を再開
       1946(昭和21)07/長崎魚市組合が食糧難の消費者と漁業生産者の要請に応えて魚市場の復旧工事に着手
       1947(昭和22)06/尾上町の旧位置に漁港施設が復旧
       荷揚場、荷捌場、事務所等、延1160坪の魚市場施設と
       浮桟橋2基、鉄道引込線、荷役用コンベア2基等の漁港施設が復旧
       1947(昭和22)06/元船町海岸通りに水産倉庫7棟が完成
     鉄筋コンクリート2階建の長崎市役所庁舎は焼け残る
       1958(昭和33)03/29夜、市議会事務局付近より出火。2階の大半を焼失
       のち全館が建て替えられる
     第15代長崎市長の岡田寿吉は市役所にいて助かる
       平野町の自宅は被災、妻初枝、長女輝子、長男陽太郎をなくす
       10/21任期満了
     長崎駅構内で勤務中<殉職3人、在籍者死亡27人(男性12人、女性15人)
       在籍者長崎地区127人(男性85人、女性42人)
       08/10死者は構内で火葬される
     15時頃、コッテージ式2階建の長崎駅駅舎が焼け落ちる
       1949(昭和24)03/093代目の長崎駅舎、通称・三角屋根(高さ約15米)が完成
       教会風の駅舎と十字架をかたどったステンドグラス
       異国情緒を漂わせ、長崎の玄関口のシンボルとして、市民や観光客に親しまれる
     筑後町の聖林山本蓮寺のすべてが焼失
       戦後本堂、書院、庫裏などが規模を縮小して再建
     長崎醤油味噌醸造工業組合」の生産設備の大半を失う
       1947(昭和22)02/長崎醤油味噌工業組合へ改称
   (爆心地から3.0粁)
     西中町教会(2.6粁)が大破。火災で外郭の壁と尖塔を残して焼け落ちる
       1946(昭和21)信徒たちが木造の仮聖堂を建てる
     日本通運株式会社の日通元船町倉庫(2.8粁)7棟のうち6、7号棟の鉄扉の中央が屈曲して内側に吹き飛ばされる
       戦後すぐに一部を補修して使用
     勝山国民小学校(2.9粁)が臨時救護所となる
       1947(昭和22)04/01長崎市立勝山小学校と改称
     新興善国民小学校(3.0粁)は爆心地から南3粁の地点にあり爆風により窓ガラスが飛び散る
       午後、付近一帯火災が発生するが、類焼はまぬがれる
       負傷者は、あらかじめ戦時災害時に備えて計画されていた焼け残った救護所へと詰め掛ける
       新興善国民学校もそのひとつ
       1945(昭和20)08/10午後、針尾海兵団の救護隊249人が宿舎に。衛生材料が届く
     唐大通事頴川藤左衛門が寄進した福済寺の山門、黄檗天竺様式の大雄宝殿が原焼失
       1979(昭和54)福済寺に「万国霊廟長崎観音」が建立
     今町の3階建ての華麗な洋館の山内慶華会館が原爆で焼け落ちる
       山内慶華財団が仏教精神に基づく慈善活動を行っていた
     勝山町4番地の「長崎バプテスト教会」が被災の影響で破損がひどく、雨漏りや危険を伴う状況に
       のち米国南部バプテスト教会より被爆地広島・長崎の両教会への会堂特別献金が献げられ、移転計画が進む
       1953(昭和28)05/03市内の片淵町1丁目に新教会堂を建て献堂式を挙行
     夕刻、市役所の下あたり船津町の三菱病院船津分院が、金屋町方面より燃え下ってきた火により延焼。夜にかけて炎上
       のち焼け残った外壁はその後修理され、戦後一時「長崎日日新聞」が使用
   (爆心地から3.5粁)
     大波止にある長崎バス(株)本社(3.1粁)が半壊。屋根が吹き飛び窓がメチャクチャに砕ける
     12時過ぎ外浦町の長崎県庁庁舎の青銅の屋根から白煙が生じ火災が発生
       職員が手押ポンプで消火にあたるが、火の勢いが大きくなり手に負えない状態に
     萬歳町の長崎控訴院(旧長崎上等裁判所)が焼失
     萬歳町45番地の長崎地方裁判所が焼失
     日本海員掖済会長崎病院が半壊、職員若干負傷するもただちに救援活動を行なう
     1946(昭和21)03/病床数12床で再開する
     大村町の「長崎新聞(長崎日報)」の社屋が灰燼に帰す
       のち☆社屋は出島町の旧長崎民友新聞社に移転
       1946(昭和21)05/10「長崎新聞(長崎日報)」従業員組合が西岡取締役会長の辞任を要求し大争議
       旧長崎日日系と旧長崎民友系との溝が深まり対立化したのが争議の主な原因
   (爆心地から4.0粁)
     長崎バス(株)松ケ枝整備工場(4.0粁)は被害が少なく部品庫などが残る
     西浜町新地通り西浜町42番地の常設活動写真館「電気館」が無残な姿に
       1947(昭和22)09/松竹配給洋画系の「松竹国際映劇」が設立
     長崎税関庁舎が甚大な被害を受ける
       1945(昭和20)09/アメリカ第8海兵師団が税関庁舎を接収。長崎の進駐軍本部となる
   (爆心地から4.5粁)
     福健会館天后堂(4.1粁)内の本館建物が倒壊。正門と天后堂のみが残る
     大浦天主堂(4.4粁)の屋根、正面大門扉、ステンドグラス、その他の部分が甚大な被害を受ける
       1951(昭和26)修理工事が始まる
       1952(昭和27)06/30国庫補助を受け修復工事が完了修復される
       1953(昭和28)03/31改めて国宝に再指定される
       1966(昭和41)02/01国宝大浦天主堂礼拝堂が拝観料を取り一般に公開される
       大人20円、中高校生15円、小学生と子供10円、30人以上の団体は各5円引き
     仁田小学校(4.3粁)の校舎、屋根が大破、降雨期は授業を中止。校舎の至る所に損害を受け使用禁止
       1950(昭和25)01/12招魂社境内に鉄筋コンクリートの校舎第1期工事を起工
     内務省の告示で国指定の史跡に指定された高島秋帆旧宅等が激しく損傷
       1951(昭和26)土地が10数筆に分筆販売され旧態を失う
     ●●●●町の木造3階建の九州海運局長崎支局が焼失
   (距離不明)
     明治生命保険会社長崎支店が焼失
     袋町の東邦電力株式会社長崎支店が焼失
     長崎電鉄の保有車両56両のうち36両が可動車。このうち16両を焼失、5両が大破
       架線柱120本が倒壊、レールは浮き上がり飴のように折れ曲がり全線不通に。従業員110余人を失う
       1945(昭和20)11/25全営業瓩9.8粁の内75%に当たる螢茶屋〜西濱町〜長崎駅前の7.4瓩を復旧
     交通船が1週間休航
       他、数多くの損害をうける
     門司鉄道管理局長崎管理部は長与に仮移転していたため原爆の大きな被害から逃れる
       鉄道の早期復旧の原動力になる
     伊王島灯台の鉄板の結合部が緩み老朽化
       1954(昭和29)白色四角形コンクリート造りの灯台に改造
  08/09旧市街では軍と主要官庁間の通信が即日復旧
  08/09焼失した町24か町
       全町焼失…外浦町、万才町、大村町、平戸町、本博多町、堀町、金屋町
            船津町(※)、本下町(※)、今下町、元船町1丁目
       半焼または一部焼失…新町、興善町、今町、豊後町、櫻町、築町(大半疎開)、材木町(※)、
            本紺屋町(※)、袋町、引地町、酒屋町、今魚町(※)、五島町(※)
  08/09陸海軍・各県派遣の応援隊が到着。死体処理、被災者の救済、施設の復旧、救出救援にあたる
       長崎市医師会員、配属の各救護所へ駆けつけ医療に挺身。秋月辰一郎医師、廃墟の浦上第1病院で診療開始
  08/09夕刻、大村海軍病院派遣の特別医療救助隊の第1陣が炎上中の市街地をトラックで突破
       爆心地一帯が炎上中のため進めず、南側から聖徳寺下の井樋口三叉路まで進出
       北側の爆心地一帯が炎上中のため進めず、この地で臨時救護所を開設。重傷の被爆者の応急治療を行なう
       08/10井樋口交番に長崎県現地救護本部が置かれる
       警察、消防団、救護隊、軍隊などにより死体の収容がはじまる
  08/09午後11時50分から御前会議が開かれる
     08/10午前02時20分、国体護持を条件に「ポツダム宣言」受諾を決定
     日本政府は中立国スウェーデン、スイスを通じて連合国へポツダム宣言受諾を打診
     08/12日本政府がポツダム宣言受諾に対する連合国の回答公電を受け取る
     政府はその内容(天皇制の存続には一切触れずに、無条件での「降伏」を勧告)をめぐって大混乱
  08/10午後、火災を免れた新興善国民小学校が針尾海兵団派遣の救護隊249人の宿舎に。衛生材料が届く
     救護隊がいるという噂が市民に伝わり治療を受けにぞくぞくと集まる
     4列に寝かせ1教室あたり60人を収容、1階から3階までで数100人が収容
     収容患者は次々に死亡。入院患者はあとをたたない状況
     日を追って佐世保海軍病院武雄分院の医師や、各地の医科大学の医師が集まる
     医大壊滅後の長崎市内で最大の救護所「特設救護病院」に
     のち浦上方面被爆地に設けられていた各学校救護所に収容中の負傷者が逐次、移される
     1945(昭和20)08/16長崎医科大学付属病院「新興善救護病院」となる
     08/17患者用の炊き出しが市内の婦人会、奉仕隊の協力で約2か月続く
     08/19から31までの13日間に154人が死亡
  08/10井樋口交番に長崎県現地救護本部が置かれ、警察、消防団、救護隊、軍隊などにより死体の収容がはじまる
  08/10長崎駅での死者を構内で火葬
  08/10長崎バス(株)が半壊状態の大波止本社、被害の少ない枝整備工場などで復旧を開始
     運行可能な車両の確保からスタート
     入庫していた老朽車の中から使用できる車両を探し転用を開始
  08/10夕方からNHK長崎放送局が放送を再開
  08/10朝、福岡県俘虜収容所第14分所収容の俘虜がどこからともなく幸町工場に集まり、仲間の遺体を発掘
     のち俘虜は造船所の小が倉寮(現戸町中学校)に移る
     09/それぞれ本国に送還
  08/10国鉄は鳥栖以南の各保線区、電力区員の他、要塞司令部より兵200〜300の助勢、応援を得て道ノ尾〜長崎間の復旧作業を開始
     08/1122時15分、施設課長の反対を押しきり試運転を開始
     08/123日3晩不眠不休の復旧作業により、朝より道ノ尾〜長崎間を開通。下り301列車、上り808列車より運転を再開
  08/1122時15分、施設課長の反対を押しきり道ノ尾〜長崎間の試運転を開始
  08/123日3晩不眠不休の復旧作業により、朝より道ノ尾〜長崎間を開通。下り301列車、上り808列車より運転を再開
  08/12日本政府が「ポツダム宣言」受諾に対する連合国の回答公電を受け取る
     政府はその内容(天皇制の存続には一切触れずに、無条件での「降伏」を勧告)をめぐって大混乱
     08/14最高戦争指導者会議が招集
     政府内混乱に対処するため御前会議で天皇が再び「ポツダム宣言」受諾を決定
     日本政府は中立国スウェーデン、スイスを通じて連合国へ受諾を正式に申入れる
     昭和天皇が「戦争終結の詔書」を発布。ラジオ放送用に録音し、翌15日正午に放送することに
     08/15連合国へ申し入れたポツダム宣言が正式に受諾される
     正午、天皇の日本の降伏を伝える「戦争終結の詔書」(玉音放送)がラジオ流れる
  08/12永井隆を隊長とする長崎医科大学11医療隊が木場郷藤ノ尾の三ツ山に救護所を設け原爆被爆者の診療を開始
     のち多数の被爆者を一軒一軒たずねてまわる
     充分な医薬品もない中で、救護隊員自らも原爆による影響を受けながらの救護活動
     全治79人、軽快10人、死亡29人、転出7人
     10/0858日間にわたり救護活動を続けた三ツ山救護所を閉鎖
  08/13伊能門司鉄道管理局長が視察と慰問のため来崎。長崎管理部を訪れる
     長崎管理部長の前田重作は、これまで常に「従事員の士気は益々旺盛」の旨を報告してきたが
     今回は「遺憾ながら職員の意気阻喪の感がある」と報告。これは将に偽りのない処
  08/14旧市街の電灯が復旧。地元九配関係者の不眠不休の努力と陸軍部隊や隣県電力関係者の協力による
  08/14最高戦争指導者会議が招集。政府内混乱に対処するため御前会議で天皇が再び「ポツダム宣言」受諾を決定
     日本政府は中立国スウェーデン、スイスを通じて連合国へ受諾を正式に申入れる
     昭和天皇が「戦争終結の詔書」を発布。ラジオ放送用に録音し、翌15日正午に放送することに
     08/15連合国へ申し入れたポツダム宣言が正式に受諾される
     正午、天皇の日本の降伏を伝える「戦争終結の詔書」(玉音放送)がラジオ流れる
  終戦直前雲仙の有明ホテルが他のホテルとともに佐世保海軍病院の保養施設となる
     終戦後アメリカ軍将校のレストハウスに接収
     1950(昭和25)接収が解かれ従来のホテル経営に復する
  終戦直前浜町の中古賀べっ甲店が、べっ甲の原料が入手できず貿易会社を作りべっ甲原料の輸入を駐留軍司令部に働きかける
     外国人の好みにあう製品を持ち上京。原料輸入の許可をとることに成功。戦後の長崎べっ甲の発展が軌道にのる
  08/15連合国へ申し入れた「ポツダム宣言」が正式に受諾される
     正午、天皇の日本の降伏を伝える「戦争終結の詔書」(玉音放送)がラジオ流れる
     「…堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス…」
     日本の無条件降伏により第2次世界大戦が終結する
  08/15憲兵3人が市防衛本部に乗り込む
     岡田市長に「玉音放送はデマだと町内会長を通じ市民に徹底せよ」と強制
  08/1510頭の騎馬隊、100人の在郷軍人が長崎経専ブラスバンドとともに行進
     先頭は在郷軍人会長崎分会長の伊吹元五郎
     「戦争はこれからだ」「ラジオ放送は謀略のデマだ」と書いたビラを配る
  08/15県警備隊の一部隊員20数人は本土決戦に備え多良岳に立てこもる
  08/15NHKに憲兵2人が押し掛ける
  08/15三菱重工業株式会社は太平洋戦争終結までに80隻に及ぶ世界に冠たる優秀な艦艇を建造
  戦後すぐ浦上天主堂跡地に木造仮聖堂が建てられ本聖堂建設計画が持ち上がる
     長崎県原爆資料保存会から廃虚を原爆遺構として保存して欲しいという要望がだされる
     12/24永井隆の提案により急ごしらえのアンゼラス鐘が被爆後初めて鳴り響く
     「長崎の鐘」と呼ばれる
  08/16新興善国民小学校が「新興善救護病院」となる
     1945(昭和20)10/06原爆で壊滅した坂本町の長崎医科大学付属病院の仮施設となる
  08/17市民は米軍の進駐を前に不安を隠せず動揺。各町内会長の指示で婦女子の避難が2・3日続く
     日見街道は人と車の行列が絶えず、長崎駅には人が殺到し臨時の出札口が設けられる
     被爆者への炊き出し従事の婦人会員も避難しており、市は3倍の手当てを出して数人に残ってもらう
  08/17新興善国民学校にできた救護所にて、のち15日間だけで約8千人が治療を受ける
  08/17日本陸海全軍に臨時戦闘行為停止、降伏の命令
  08/18満州国皇帝の溥儀が退位式を執り行なう
  08/21気象通報管制解除され気象観測値、天気予報の一般への公表と報道が自由に【08/22?】
  08/22敵国に利するとして防空対策上、報道禁止されていた天気予報が昼のラジオ放送で気象情報の報道が再開
  08/22滑石大神宮に収容中の角尾晋長崎医大学長が死去、享年52歳
  08/24長崎県医師会長の松永房雄が2次放射能障害のため死去、享年54歳
  08/26倉場富三郎が自殺
     岡田寿吉長崎市長らが三菱幹部会葬
     倉場富三郎は親しかった岡田寿吉を遺言執行人に指定。忠実に履行する
     遺体は新坂本墓地5番の1に埋葬
  08/28テンチ米陸軍大佐以下150人が横浜に発上陸し、連合国軍総司令部(GHQ)を横浜に設置
     同じ日、連合国軍先発隊が厚木飛行場に到着
     08/30ダグラス・マッカーサーが専用機バターン号で神奈川県の厚木海軍飛行場に到着
     連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の総司令官として日本占領にあたる
     GHQ(総司令部/General Headquarters)、SCAP(連合国軍最高司令官/Supreme Commander for the Allied Powers)
     09/16連合国軍総司令部(GHQ)が横浜から東京の第一生命相互ビルに移転
     09/17マッカーサーが東京の司令部に入る
     1951(昭和26)04/11トルーマン米・大統領によりダグラス・マッカーサーがGHQ最高司令官を罷免
     後任にリッジウェイ中将が就任
     →1952(昭和27)04/28午後10時30分、対日講和条約(サンフランシスコ平和条約)・日米安全保障条約が発効
     GHQ、対日理事会、極東委員会が廃止
     敗戦から6年8か月ぶりの主権回復(独立)し、国際社会に復帰(占領時代の終焉
     発効が午後10時30分なのは、時差のためにアメリカが28日をむかえるのを待つ
     独立式典は行われず、5月3日に日本国憲法施行5周年記念式典と抱き合わせで開催
  08/31「興安丸」が引揚船に指定され博多・仙崎〜釜山を往復
     往航は在日韓国人の帰国輸送、復航は日本人の引揚輸送に従事
     1950(昭和25)08/朝鮮動乱により国連軍に傭船され兵士や傷病兵を輸送。以降、引揚輸送に従事する
  08/要町の劇場「永久座」(現NIB長崎国際テレビ所在地)が廃座
  08/全壊した国鉄浦上駅がバラックで営業
     1953(昭和28)08/26駅舎落成式
  09/02日本政府が米戦艦ミズーリ号艦上で、降伏文書調印
     GHQ指令第1号(陸海軍の解体、軍需生産の停止など)が発表
  09/上「浦上一帯は今後70年は草木も生えないから住民は生命の危機がある…」
     長崎県内政部長が爆心地域の町内会長へ住民の退去命令を伝える
     被災者は避難先を持たないまま廃虚に踏みとどまる
     原爆研究参画者コロンビア大のハロルド・ヤコブソン博士の70年不毛説による
     のち不毛説が否定される
  09/13長崎県が連合軍の進駐を前に関係市町村へ注意事項を発表(要旨)
     一般的な注意
     (1)進駐時、男子は屋内に(2)協定線に立入禁止(3)夜、占領地帯通行不可
     (4)隣組が緊密に連絡、暴行防止に協力(5)流言禁止(6)解放の捕虜に「捕虜」の語を絶対慎む
     (7)個人の直接接触は避ける。特に婦女子は笑顔を見せたりしない
     (8)元捕虜宿舎に連合軍機が食糧などを投下しても、拾って連合軍から軽蔑され恥をかかぬよう慎む
     婦女子への注意
     (1)日本婦人として自覚し隙を見せぬ(2)服装は必ずモンペ。アッパッパやや下着で外出しない
     (3)夜の外出、1人歩き自粛(4)夕方、涼台や窓際で素足を露出しない(5)公衆の前で授乳しない
     (6)話しかけられても相手にしない
  09/13大本営が廃止となる
  09/16連合国軍先遣隊500人が出島岸壁から上陸、九州海運局長崎支局を接収
  09/20長崎市立商業学校が桜馬場の市立高女上手の旧中和寮を仮校舎として授業再開
     12/仮校舎が上長崎小学校へ移る。校舎の一部を借りて再開
  09/23ハント少将指揮の米第2海兵師団特別陸戦隊2万5千人が長崎に入港
     空母4隻、輸送艦20数隻に多数の護衛艦、駆逐艦を従える
     一部将兵は出島岸壁から上陸。活水高女、海星中学などに分宿
     ハント少将は永野知事を招き「降伏条件を順守し確実に実行せよ」と命令
     1952(昭和27)講和発効までに占領軍による届けがあった人身事故は191件、補償総額2300万円
     うち交通事故93件、死亡48人
  09/27昭和天皇がGHQ司令部を訪問
     報道機関に掲載のためマッカーサーが昭和天皇と会見
     写真を撮影。リラックスしている大男のマッカーサーと緊張して直立不動の小柄な昭和天皇が写る
     内務大臣は写真を掲載した新聞を発禁とするが、GHQは発禁の解除を指令
  09/下原爆傷害の日米合同調査団が発足。広島と長崎で原爆の急性傷害について詳しい調査と観察を行なう
  09/早くも尾上町の長崎魚市場がが青空市場同然の状態で業務を再開
     1946(昭和21)07/長崎魚市組合が食糧難の消費者と漁業生産者の要請に応えて魚市場の復旧工事に着手
  09/アメリカ第8海兵師団が出島の長崎税関庁舎を接収。長崎の進駐軍本部となる
       1946(昭和21)税関再開(門司税関長崎支署として再開)
  09/文部省の原子爆弾災害調査研究特別委員会の補助機関として、日本映画社が原爆被災記録映画制作のため広島と長崎で撮影
     のち米軍の干渉により撮影が一時中断
     のち交渉の結果、米軍の監視下で撮影・編集を続けることに
     1946(昭和21)03/記録映画「広島、長崎における原爆の影響」(全19巻/2時間45分)が完成
     のち米軍が映画フィルムを没収
     1946(昭和21)05/映画フィルムがアメリカに送られる
     1967(昭和42)没収された映画フィルムが日本に返還される
  09/日本映画社が原爆被災記録映画制作のため長崎の新興善救護所で撮影される
     強烈な熱線で下半身を焼かれた少年や、放射線で頭髪が抜けた少女など、多くの被爆者が手当てを受ける
     しかし薬品が不足し、被爆者は満足な治療を受けることなく次々と死亡
  09/福岡県俘虜収容所第14分所収容の俘虜がそれぞれ本国に送還
  10/上占領軍が税関ビルに長崎軍政府を設置
  10/01旧海軍の耐氷艦「宗谷」が船舶運営会所属、引揚輸送に従事する
     10/ヤップ島→浦賀(1280人引揚)
     11/グアム島、トラック島→呉(1520人引揚)
     1946(昭和21)台湾、ベトナム等から引揚者を輸送
  10/01西海町営船所有の大八丸(1日1航海)が横瀬を基地とし就航
     1950(昭和25)02/01瀬川丸、大八丸の2船で月40回の運航に
  10/04GHQから天皇に対する自由討議、政治犯釈放、思想警察全廃、
     内相・特高警察全員の罷免、などの民権自由に関する指令がでる
  10/06新興善国民小学校が原爆で壊滅した坂本町の長崎医科大学付属病院の仮施設とし診療を開始
     1946(昭和21)02/09長崎医科大学付属病院に校舎を引き渡し晧台寺に移転
     1946(昭和21)05/長崎医科大学付属病院は新興善国民学校を医科大学附属第一医院に、
     諫早の元佐世保海軍病院諫早分院を医科大学第二医院として診療開始(第二医院は7月診療開始)
  10/07「長崎くんち」
     (3)…ささやかながら丸山町(丸山芸能保存会)が踊り子6人、地方5人で手古舞を奉納
     花月の本田寅之助が踊奉納の推進役
     桟敷はないが長坂その他に長崎人が鈴なりとなり「モッテコーイ」「所望ヤレ」を絶叫、歓喜
     踊りは伊勢宮、八坂神社でも形のごとく奉納
  10/07舞鶴港に引揚第1船「雲仙丸」が到着
     1958(昭和33)09/07引揚最終船「白山丸」が舞鶴港に到着
     13年間にわたり延べ426隻の引揚船が入港
     引揚者66万4531人、遺骨1万6269柱を受け入れる
     引揚者は軍人・軍属48万3040人、一般邦人17万3636人、その他7855人
     引揚船内で59人、舞鶴地方援護局内で360人が亡くなる
     また着の身着のままで101人の孤児がたどりつく
     さらに引揚船は在日中国人・朝鮮人の帰国船の役割も果たし、3万2997人を故国へ送還
     中国へ3936人、朝鮮へ2万9061人
  10/10第2次世界大戦敗戦後の日本で戦後映画の第1号「そよか」が公開される。GHQの検閲を通った第1号映画作品
     佐々木康監督による映画作品。製作は松竹大船撮影所
     出演は並木路子、上原謙、佐野周二、斎藤達雄、高倉彰、三浦光子、若水絹子、波多美喜子、二葉あき子、霧島昇ほか
     挿入歌は「リンゴの唄」。歌詞は日本語。作詞はサトウハチロー。作曲は万城目正。歌唱は並木路子、霧島昇
  10/11マッカーサーは幣原首相に憲法の自由主義化と人権確保の5大改革を指示
     人権確保の5大改革…婦人の解放、労働組合の結成奨励、学校教育の民主化、専制政治の廃止、経済の民主化
  10/12勅令第五百六十八号によって「軍機保護法」等が廃止となる
  10/12連合軍による通信検閲が開始される
  10/13勅令第五百七十六号によって「要塞地帯法」「要塞地帯法戦時特例」等が廃止となる
  10/21市役所にいて助かった第15代長崎市長の岡田寿吉が任期満了を迎える
       10/22第16代市長に再任
       1946(昭和21)10/15退任。公職追放(パージ)該当者に指定される前に退陣
     菅野助役が市長職務代理になる
  10/22小倉陸軍病院分院を米国が接収、長崎軍政府管理の下、長崎茲惠(慈恵)病院となる
     原爆被爆者をはじめ、一般市民の診療にあたる
     1946(昭和21)04/米国より長崎市民に寄贈
     日本医療団経営による長崎県中央病院「長崎慈恵(慈恵)病院」として発足
  10/長崎純心高等女学校が大村市の元海軍工廠跡にて授業が再開
     1947(昭和22)現在の地に新制の純心中学校が開校
  10/長崎バス(株)が被災車を修理し6台の代燃車を確保。戦後初の運行を開始
     1946(昭和21)03/被災車のうち5台を整備し運行
     1946(昭和21)年末さらに3台を追加運行
     1947(昭和22)12/長崎バスが代燃車18台を保有。認可路線の運行は平常に近い状態まで回復
  10/GHQが経済民主化など5大改革を指令
  11/15長崎三菱兵器製作所が正式に閉鎖
     1946(昭和21)10/15残存者の強い要請で「長崎精機製作所」として再建
     民需品の生産を始める
  11/25長崎電鉄の螢茶屋〜西濱町〜長崎駅前が復旧
     1945(昭和20)11/25全営業瓩9.8粁の内75%に当たる螢茶屋〜西濱町〜長崎駅前の7.4瓩を復旧
  11/浦上第1病院の焼け跡に聖フランシスコ診療所が開かれる
     浦上第1病院は男子フランシスコ会が聖フランシスコ神学校を結核療養所とする
     1947(昭和22)木造建病舎(25床)を建設
  12/01軍部医療施設を厚生省に移管し、国立病院・療養所とする
  12/01川棚海軍共済病院が国立川棚病院となる
  12/17婦人参政、大選挙区制、制限連記制などの衆議院議員選挙法改正が公布
     女性に初めて参政権が認められる
  12/24浦上天主堂の急ごしらえのアンゼラス鐘が永井隆の提案により急ごしらえのアンゼラス鐘が被爆後初めて鳴り響く
     「長崎の鐘」と呼ばれる
     1946(昭和21)11/神父と信徒たちの努力で木造の仮聖堂が落成
     原子野に再建された最初の公共建造物で聖堂建立の熱意は信者でない長崎の原爆罹災者たちをも勇気づける
     中田藤太郎神父を中心に焼跡の瓦礫が整理され西側玄関の一部と南側入口は残されたまま
  12/長崎電鉄の千馬町〜石橋が復旧
  12/観光通り万屋町角の永尾靴店が浜町本通りに移転
  12/長崎魚市組合(出資金300万円)が設立
  12/長崎市立商業学校の仮校舎が上長崎小学校へ移る。校舎の一部を借りて再開
     それまでは桜馬場の市立高女上手の旧中和寮を仮校舎として使用
     のち東青年学校(現片淵中学校旧校舎)も併用
     1946(昭和21)12/09油木の校舎に復帰。開校式をあげる
     西山から油木までの約4キロはリレー式に校具類を移送
  12/西大洋漁業統制(株)長崎支社が大洋漁業株式会社長崎支社と社名を変更
     1948(昭和23)06/戸町冷凍工場を竣工
  1945(昭和20)末浜町に旅館恵風荘が開業
  1945(昭和20)末島原鉄道がバスの運行を開始。口之津〜鬼池航路を再開
  学徒動員のため中等学校の学業が1年間中止に
     男子中学2年生以上は工場労働に専念、1年生は土木作業の合間に授業を受ける
  壱岐集報社発行の「壱岐日報」が戦争のため休刊
     1946(昭和21)01/復刊
  三菱造船所所有の旧グラバー邸が約4年間は米進駐軍の司令官公舎として接収
     1955(昭和30)三菱造船所は寮にするため解体を計画。市立博物館専門委員による交渉の末、計画中止に
     1957(昭和32)10/10三菱長崎造船所の創業100年祝賀記念事業として長崎市に寄贈
  長崎医大が新興善国民学校を仮収容所として患者の診察を開始
     1951(昭和26)長大付属病院を興善町35番地へ移転。新興善小学校が復帰
  長崎市が市職員の待避所として本庁舎玄関突当りの部屋の床下に鉄筋コンクリートで固めた地下壕を構築
  疎開、空襲、原爆と西部瓦斯設備に甚大な被害をうけ、顧客戸数3万5千戸(合併時の55%)に減少
  岩川町に住宅営団の応急簡易住宅を建設
  浦上貯水池から給水を開始
  長崎地区占領軍が上陸まもなく駒場の焼け跡一帯をブルドーザーで整備。1.5粁の簡易飛行場を1週間でつくる
     アトミックフィルド(原子飛行場)と命名される
     10/13一番機として高翼単葉偵察機(空のジープ)が着陸
  福江島から南西約80粁に位置する男女群島の女島にある女島灯台が進駐軍に爆破される
     1948(昭和23)復旧
  濱町通りにダンスホールが登場しニッポン娘とアメリカ兵士が昼夜踊る
  雲仙古湯に石田次が旅館東洋館を創業
     1955(昭和30)酒がたたって石田次が37才で早死
     のち妻の石田スミ子(32)が女手ひとつで旅館を経営
     石田スミ子の実家は佐世保の山水楼。1922(大正11)、糸長幸吉の3女に生まれ県立諫早高女を卒業し石田家に嫁ぐ
     のち旅館が焼失
     火災後の新築を契機として経営のチャンスを自ら作りだす
     1968(昭和43)08/☆大建設をこなしホテル東洋館が完成する。施工は大成建設
     北欧風の建築物は熱帯植物にかこまれたサウナ風呂、大浴場、バーベキュウ宴会場、カクテルラウンジなど外観に設備をそなえる
     クラシックなムードのなかに華麗な色彩をとけ込ませる
  GHQから財閥解体の指令がでる
     侵略戦争遂行の経済的基盤となった財閥の解体で軍国主義の壊滅が目的とされる経済民主化政策
     1946(昭和21)09/06第1次指定。三井本社、三菱本社
     住友本社、安田保善社、富士産業(中島飛行機系の持株会社)
     1946(昭和21)12/07第2次指定。40社
     4大財閥に次ぐ規模の財閥と新興コンツェルンなどの持株会社、トラスト、独占・寡占的地位にある企業が対象
     1946(昭和21)12/28第3次指定。20社
     財閥傘下で、その会社自体が独占・寡占的地位にあり1次、2次指定の対象にならなかった企業
     1947(昭和22)03/15第4次指定。国際電気通信、日本電信電話工事の2社
     電気通信施設の国有化政策に基づく。便宜的に持株会社整理委員会の所管に
     1947(昭和22)09/26第5次指定。地方財閥、小規模財閥が対象。15社

戦争末期

  島原の海を埋立ててできた旅館南風楼が国の施設として軍部が使用
     戦後島原市が払い下げを受ける
     1948(昭和23島原市の推薦を受け、有明館を経営していた村中茂夫が経営を引き継ぐ

戦争末期〜終戦後

  樺島町にある港温泉を支配人の森崎正人は燃料がなく苦労、一家総動員で営業を続ける
     1950(昭和25戦後の観光ブームで2階を改装、旅館業を始める

戦後まで

    喜々津〜浦上の長崎新線が放置された状態で推移
     のち他地域との貨客の交流が活発化し、長崎本線のダイヤも過密化。在来線だけでは対応できない状況に
     鮮魚輸送の迅速化、観光客の誘致推進の面からも、浦上新線の早期実現の必要性が痛感される
     県、市、商工会議所は、政府、国会、関係方面に対し熱烈な陳情活動を再開
     1962(昭和37)05/調査線に指定を受けるに至り一歩前進をみることに

戦後まもなく

  中国から導入された夏ネギを長崎市田手原で栽培が開始

終戦時頃

  大本山知恩院の直轄である影照院(大音寺境内)が廃止となり入口の門だけが残る
     影照院は大音寺が島原町から鍛冶屋町へ移る際の仮本堂

戦後

  「長崎県仮設住宅建設部隊」が備蓄していた木材、釘などの資材が復旧に放出
  三菱長崎造船所が建造し直営で運航していた「必勝」「報國」(各430瓲)が「女神丸」「新生丸」と改称
  773坪余りの湊公園が一時不法建物により占拠
     1956(昭和31)10/26警官34人が出動し湊公園内の不法建物40戸を撤去
  混乱が続く中でバスへの需要は高まる
     長崎県営バスはトレーラーバス(96人乗り)等を購入して急場をしのぐ
     復活した雲仙観光客の輸送に力を入れ徐々に経営を回復
  郷土先見紀功碑が長崎公園内、別の場所に移される
     はじめは1916(大正05)、長崎公園内の東照宮神社下に建立
     長崎の発展に功績のあった日本人79人と外国人22人(中国人12、西洋人10)の名前が刻まれる
     長崎市小学校職員会が発起、市内有志者の賛助による
  日本通運株式会社の日通元船町倉庫7棟が一部を補修して使用
     1947(昭和22)1〜5号棟が建替えられる
  時局緊迫のなか政府より空母所有の劣勢を挽回するため改装した特設航空母艦「隼鷹」が解体される
     もとは日本郵船発注の豪華客船「橿原丸」(2万7700総瓲【2万6500瓲?】)
  丸山にて「川南造船所で捕虜になっているアメリカ兵が丸山に来るから男は顔をだすな」と警察から達しが入る
     警察官は姿を見せず、表戸を閉ざした丸山を8人のアメリカ兵がうろつく
     遊廓・角海老の松浦信太郎が犠牲になる覚悟で表にでたため、角海老は8人のアメリカ兵に占領される
     丸山に1人の女もいない中、松浦は8人の女を頼み相手をさせたことで丸山が救われる
  諏訪神社が神社本庁の別表神社となる
  筑後町の聖林山本蓮寺が本堂、書院、庫裏などが規模を縮小して再建
  福建省出身の林優が新地にて隆泰洋行を作り貿易をはじめる
     料理材料を輸入し基礎を築き工場を建て中華菓子の製造をはじめる
  御舟川が埋め立てられて国道敷地となり架かる橋が姿を消す
     丁字橋、御舟橋、馬込橋および玉杵名橋
     1949(昭和24)03/八千代町1丁目と寿町3丁目の丁字川に架かる寿橋が架け替わる
  長崎県営バスが海軍工廠から払い下げを受け迷彩車を運行
  大音寺が放火により本堂を焼失、鉄筋コンクリート建築により再建
  砂糖の統制で円滑化を図り千々石、小浜の菓子業者が雲仙食品株式会社をつくる
     初代理事長に小浜の井手上常太郎が就任
     のち砂糖の統制が解け、小浜側の井手上、小高、三宅らは手を引き、千々石だけで菓子の製造をはじめる
     1950(昭和25)04/雲仙食品が創立
     ざぼん漬、ざぼん羊羹、雲仙飴の詰合せを以てみやげ品界に進出
     1963(昭和38)ヨーグルト、ミルクコーヒー、なまジュースなどの飲料水部門を併営
  天草の合津で営む松尾呉服店の5代松尾治雄が呉服商となり、観光関係に目をむけて旅館の浴衣、丹前などの販路を開拓
     のち全国のトップを切ってウール丹前や袢纏の製造部門に新分野を拓いて旅館、ホテルの衣料方面に寄与
  雲仙の有明ホテルがアメリカ軍将校のレストハウスに接収
     1950(昭和25)接収が解かれ従来のホテル経営に復する
  浦五島町の旅館筑後屋を柴田正寿が買取り経営を開始
     もともとは明治の末、柳川からでた初代が創業した柳川藩の定宿
     のち、2代益山国三郎が屋号を村雨屋とし堺商人の船宿を営み、さらに屋号の村雨屋を筑後屋と改称
     そして上海航路の黄金時代には、近隣の小林屋、三木屋、舞鶴屋、丸金などの旅館とともに船宿として繁昌する
  国の施設として軍部が使用していた島原の旅館南風楼を島原市が払い下げを受ける
     1948(昭和23)島原市の推薦を受け、有明館を経営していた村中茂夫が経営を引き継ぐ
  佐世保海軍凱旋記念館が米軍に接収される
     第1次大戦時の鎮守府所属艦船の武勲を讚えるため九州、四国各県の寄付で建設
     海軍の行事や合同葬などに使用される
     鉄筋コンクリート造り2階建。鉄板葺で建築面積は826平方米
     1982(昭和57)佐世保市に返還される
  べっ甲原料の輸入、垣立商店(カメヤべっ甲店)の名称を垣立工芸品に変える
     1956(昭和31)垣立工芸品製造部を独立
  雲仙新湯の九州ホテルの日本軍による接収が終わる
     のちアメリカ軍の保養地として接収される
     支配人の七條達夫はホテルに常駐している米軍将校と日本人従業員の間にあって、何かと神経を使う日々を過ごす
     のちアメリカ軍の保養地として接収が終わる
     1950(昭和25)ホテルの内部改装工事、一部新築工事に着手
  長崎商工会議所と十八銀行が中心になり初代会頭松田源五郎翁の銅像の再建が進められる
     1963(昭和38)04/05長崎市出身の彫刻家・日展審査員の富永直樹の彫塑により復元
  島原の共栄製菓(藤田チェリー豆)が本来のチェリー豆の製造もどる
     1951(昭和26)会社組織を変更し合資会社藤田チェリー豆本舗となる
  島原のミクリヤ商店自動車部のタクシー部門が営業を再開
     戦争での燃料不足を理由に1939(昭和14)から中止
  中島川畔のカルルス公園に建つ旅館虎屋がアメリカ軍に接収され、旅館を本石灰町に移す
     1950(昭和25)駐留軍の接収が解かれ料亭はし本を新築開業。敷地約1千坪
     部屋は豪華な純和風だがカギ1本で自由に振る舞えるようにホテル洋式を採り入れる
     経営者の理念「外観は鉄筋の建物でも、旅館はあくまで古来のサービスと情緒とに徹しなければならない」
     屋上は長崎の夜の展望所、地階はクラシックな和風レストラン虎茶屋と駐車場
     「虎茶屋」では1品料理から天ぷら、鍋物料理、しっぽく料理、名物の虎鍋桜の葉で巻いたさくら寿司などを提供
     建設は西日本菱重興産(三菱造船一環の事業)第1回の建設として施工
  岩瀬浦に工場をもつ魚住一時が海産物の卸商に
     1946(昭和21)魚住商店としてふぐの製造に取り組む
  長崎駅前の文明堂支店の前の建物を中川安五郎から月300円で借り受け旅館を営んでいた戸野本得蔵が樺島町に移る
     1946(昭和21)旅館中央荘として経営を開始
  ペニシリンをはじめとする各種抗生物質が開発されるまで、サルバルサンが梅毒の治療の中心に
  外浦町の県庁前の新長崎ホテルが長崎観光ホテルと改称
     1959(昭和34)七条達馬の死去により息子の七条達夫が雲仙の九州ホテルとかけ持ちで経営
  「日本海員掖済会」が医療と社会福祉活動に重点を置き、対象を海員に限らず広く地域社会とすることに


1946(昭和21)【昭和】 丙戌(ひのえいぬ)

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