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〈江戸時代(13)〉

1818(文化15、文政01・04/22)【仁孝】 戊寅(つちのえとら)

  《将軍》[第11代]徳川家斉(一橋徳川家)
  《奉行》金澤大蔵少輔(04/28新番頭転出)、間宮筑前守(信興・前目付・04/28発令・09/着)、筒井和泉守(10/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヤン・コック・ブロンホフ

  05/23漢詩人で史家の頼山陽が九州への旅の途中、長崎へ立ち寄る。3か月ほど滞在
     名所旧跡を訪ね長崎の風物や内外詩人と交遊など42首の漢詩を詠む
     頼山陽は唐船主江芸閣との面会を望むが、江芸閣の船の入港が遅れて果たせず
     江芸閣の寵妓、引田屋の袖咲を花月に呼び詩書のことづてを依頼
     08/26矢上の牟田家に滞在ののち肥後に向かい舟出
     千々石灘で大暴風雨にあい漁家で一夜を過ごす
     このとき“雲耶山耶呉耶越…”の「泊天草灘」を詠む
  05/イギリス人のゴルドンが浦賀に来航して貿易を求める
     のち幕府は拒絶する
  06/春以来、疫病が流行する。この月がもっとも盛んに
     会所救銀から銭300貫文をだして貧民に与える
  10/24出島の倉庫からガラス製品のが盗まれていたことが発覚
     長崎奉行は厳しい取り調べを開始。商館長ブロンホフも密かに調査を開始
     12/06オランダ人の料理人部屋から懐中時計が盗まれる
     まもなく犯人が捕まる
     12/18数々の盗品がブロンホフに返却される
     貿易品の運搬人夫、番人、乙名などに罰が課される
     懐中時計盗難は日本人の賄い方(料理人)の息子に容疑がかかるが逃亡。賄い方自身が拘留
     長崎奉行は直接の犯人だけでなく出島役人をも調べようとする
     ブロンホフの計らいにより、それ以上の追及をやめる
  11/09オランダ国王の皇子の誕生日を祝し停泊中のフラウ・マリア号が12時に8発の祝砲(空砲)を撃つ
     荷を積んだはしけ(大船の荷を波止まで運ぶ小舟)に乗る漕ぎ手の喜三郎が海に落ちて溺れ死ぬ
     警告はしており見まわりもしたが船員は気づかず砲を放つ
     商館長ヤン・コック・ブロンホフ、船長ヴェームホフの他、舵手、水夫頭、砲手手伝が奉行に出頭、尋問を受ける
     オランダ人に罪はないが手落ちがあったとして砲手手伝いが国禁を命じられ、他のオランダ人はお叱りを受ける
     石火矢撃ちは国禁。按針役は急度叱り、水夫頭は叱りの処分
  11/09フラウ・マリア号の船長ヴェームホフは喜三郎の妊娠中の妻と2人の子どもたちの生活費を贈ることを申し出る
     商館長のブロンホフは年明けに砂糖10籠の提供を約束
     奉行所も妻子に法事料銀200目、老母と妻子に扶助費米20俵を贈る
  「長崎くんち」(6)…丸山町、寄合町、本大工町、今魚町、今博多町、本籠町、
     本紺屋町、材木町、上筑後町、江戸町、後興善町、古町、本興善町
  東浜町に長崎で最初の夜市がたつ
  大川(中島川)、出島門前、梅香崎前をさらえる
  発心寺が一代限りの寺号公称を許される
     1878(明治11)三栗円照のとき寺号公称独立
  中村盛右衛門・善右衛門父子により松森神社境内の神橋が木橋から石橋となる
     構造はアーチ橋ではなく「桁橋」
  西山御薬園の薬草目録に70種が記録される
     山梔子(サンシシ)、烏薬(ウヤク)、酸棗仁(サンソウニン)、木瓜(モッカ)、山茱萸(サンシュユ)、
     仏手柑(ブッシュカン)、呉茱萸(ゴシュユ)、槐樹(エンジュ)、牡荊(ボケイ)、杜仲(トチュウ)、
     木蝋樹(モクロウジュ)、肉桂樹(ニッケイジュ)、辛夷(シンイ)、西府海どう(サイフカイドウ)、
     木犀(モクセイ)、楝(レン)、枳樹(キジュ)、楓樹(フウジュ)、方竹(ホウチク)、対青竹(タイセイチクイ)、
     大明竹(ダイミョウチク)、貝母(バイモ)、天門冬(テンモントウ)、青木香(セイモッコウ)、艾(ガイ)、
     大戟(タイゲキ)、大黄(ダイオウ)、大麦門冬(ダイバクモントウ)、小麦門冬(ショウバクモントウ)、
     何首烏(カシュウ)、草菓(ソウカ)、覆盆子(フクボンシ)、白附子(ハクブシ)、萎ずい(イズイ)、
     黄精(オウセイ)、川弓(センキュウ)、薄荷(ハッカ)、茴香(ウイキョウ)、金桜(キンオウ)、前胡(ゼンコ)、
     地楡(チユ)、甘草(カンゾウ)、桔梗(キキョウ)、蒼朮(ソウジュツ)、三七(サンシチ)、使君子(シクンシ)、
     玄参(ゲンジン)、甘邃(カンスイ)、当帰(トウキ)、白れん(ビャクレン)、黄今(オウゴン)、金灯草(キントウソウ)、
     蔓生百部(マンセイビャクブ)、特生百部(トクセイビャクブ)、白薇(ビャクビ)、白前(ビャクゼン)、
     土茯苓(ドブクリョウ)、蓖麻(ヒマ)、蓍草(シソウ)、黄耆(オウギ)、竜胆(リュウタン)、防已(ボウイ)、
     菊葉黄連(キクバオウレン)、良姜(リョウショウ)、知母(チモ)、淫羊かく(インヨウカク)、北五味子(ホクゴミシ)、
     浙江大青(セツコウタイセイ)、馬蹄決明(バテイケツメイ)、江芒決明(コウホウケツメイ)
  唐船5隻、蘭船2隻が入港

1818(文政01)頃

  丸山町の妓楼「引田屋」の庭園内に茶屋を建て「花月」と名づける
     のち花月には頼山陽や江芸閣など内外の文人墨客がよく往来し、書画の一種の展覧会・品評会も行なわれる
     1879(明治12)03/丸山の大火で類焼

文化年間(1804〜1818)

  「長崎くんち」の本籠町「白蛇刺繍傘鉾幕」を中村嘉右衛門が寄贈
  諫早藩士の青木弥惣右衛門が、山下淵からの水を田井原に引き半造川の下をくぐらせて小野島に導くことを考え藩庁に献言
     原理のサイフォン方式を信用する人はなく四方説得に奔走。領主の理解も取りつけて完成に導く

1819(文政02)【仁孝】 己卯(つちのとう)

  《将軍》[第11代]徳川家斉(一橋徳川家)
  《奉行》筒井和泉守(09/着)、間宮筑前守(10/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヤン・コック・ブロンホフ

  01/幕府が浦賀奉行を増し2人とする
  05/島原侯松平主殿頭が来崎
     沖の両番所、台場、小瀬戸遠見番所、御船蔵、浦上村、茂木村、出島、唐館、野母村とくまなく検分する
  07/06高木道之助忠大が長崎鉄砲方に任じられる
     道之助は元代官の高木作右衛門忠興の3男
  07/23丸山町、寄合町の揚屋13人が旅芸子の長崎滞在の許可を長崎奉行へ差し出す
     1)地下芸子だけでは客の要求に応じられない
     2)28人の地下芸子は競争相手がおらず増長する
     3)客が減って商売に差支える
     4)地下芸子28人の外に旅芸子20人の増方を許可して欲しい
     5)不景気で物価が高いが旅の客は支払いが良く、召使の下男下女まで貰物があり旅客を目当てに稼ぎたい
     役人からは地下芸子の親たちと相談するよう注意を受け、相談したものの納得できず再度願い出
     年番乙名黒川勘八郎、盗賊方宇野九郎兵衛が仲裁しても親たちは承諾せず、奉行所に呼び出される
     親たちは奉行所で散々叱られ、遊女町芸子としては遊女屋、揚屋に従うこと
     旅芸子は長崎滞在日数100日を超えないことを申し渡される
  07/下長崎の細工人が江戸でガラス細工の見世物を興行。満都の人気を集める
     ギヤマン細工灯篭とビイドロ細工のオランダ船
  08/26奉行所は地芸子からの橋の普請人夫賃納入を廃止。旅芸子の人数制限を撤廃する
     1817(文化14)7月、旅芸子の人数を10人に制限したあと、地芸子たちの振る舞いが急にふしだらに
     芸を売らず身を売る者があるという噂がたつ。出入を禁止されている丸山、寄合町の遊女町で稼いでいる者も
  08/奉行は物価値上げ対策の触書きをまわし高騰する物価抑制につとめる
  秋/出島水門前と江戸町裏の溝渠をさらえる
  12/飢饉その他の災害に備え幕府が長崎迴米620石を増加。通計2万6620石となる
  「長崎くんち」(7)…丸山町、寄合町、引地町、浦五島町、桶屋町、本石灰町、
     酒屋町、大井手町、袋町、船大工町、堀町、出来大工町、新町
     銀屋町の大名行列が考案される
  丸馬場の安禅寺に乙名頭取や総町乙名の寄進によって石門が建立
     1868(明治01)明治維新で幕府の庇護がなくなり廃寺となる。御宮等は破壊
  書画清譚会が丸山の遊廓「引田屋」で美術展覧会を開催。美術展の始まり
  宇田川玄真が「和蘭薬鏡」(おらんだやっきょう)第1巻を刊行
     1835(天保06)6編、全16巻完成
     医薬品について、国産の薬材はもちろん、中国・東南アジア産で手に入るものから、
     オランダの医学書・薬学書・植物書・百科事典・局方などを参考にして、その形態・薬効・処方・製剤法などを示す
  徳川治保が「大日本史紀伝」45冊を幕府に献上する
  高野平郷の宝樹山現応寺、一の鳥居が風頭石で建立
     1868(明治01)神仏分離に伴い澤宣嘉総督により八坂神社と命名
     1879(明治12)本殿、拝殿の改修工事竣工に際し宮司、小西成則(易堂)により扁額を手書き
     人が集まる里の意を込めてコザト偏の「八阪神社」に改める
  江戸で赤痢やビタミン類などの不足からおこる大病、麻疹(はしか)が大流行する
  唐船12隻、蘭船2隻が入港

1819(文政02)頃

  江戸の籠細工職人と大坂の籠細工職人が江戸で競いあい、江戸の職人が負ける
     大坂の職人の見世物に見物人が殺到
     そこへ長崎のガラス細工に人気が集まり、大坂の職人方が寂れる
     江戸ッ子が溜飲を下げ江戸の町々では「江戸の仇を長崎が討つ」という語が流行する
  潁川連が唐人の林徳健から清楽を伝授される。三宅瑞蓮も林より月琴の曲節唱譜を学ぶ

1820(文政03)【仁孝】 庚辰(かのえたつ)

  《将軍》[第11代]徳川家斉(一橋徳川家)
  《奉行》間宮筑前守(09/着)、筒井和泉守(10/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヤン・コック・ブロンホフ

  01/01駿河国有渡郡清水美濃輪の高木寿三郎とトヨの四子として清水の次郎長(長五郎)が生まれる
     1893(明治26)06/1274歳で没する。法号・硯量軒雄山義海居士
  01/29彼杵の商人左太夫の娘が放虎野の屠児平吉の家にいたことで18才の戸籍が抜かれる
  02/対馬から朝鮮漂流の薩摩家臣24人を送還
  02/家慶が痘瘡を患う。痘法の研究が盛んになる
  04/08小作農のヨルゴスがオスマントルコ統治下のエーゲ海のミロス島でミロのヴィーナスを発見
     最初は、官吏に見つからないようヴィーナス像を隠すが、トルコ人の官吏に発見され没収
     のちフランス海軍提督ジュール・デュモン・デュルヴィルが像を見て価値を認める
     フランス大使に依頼しトルコ政府から買い上げる
     のち修復されルイ18世に献上。ルイ18世はルーヴル美術館に寄付する
     1964(昭和39)ミロのヴィーナスがルーヴル美術館を出て海外へ渡る。京都と東京での特別展示の一度のみ
  07/29儒者の松浦東溪(69)が没する。墓所は小島小田ノ原
  07/時計細工人の御幡栄三が御用時計師に召し抱えられる
  09/12浦上山里村里郷より出火。10戸が焼失
  09/15オランダ商館長ブロンホフが長崎奉行を離任する筒井和泉守正憲と新任の間宮筑前守信興を出島に招待
     玉突きをさせたり商館員や船乗組員に素人芝居を見せ、その合間にオランダ風の軽食を振る舞うなどの大歓迎
     実は日本からの輸出品の銅や樟脳の調達・引き渡しが順調でなく、輸出品がなかなか運びこまれなかった
     輸入品の評価額を上げ、日本滞在の経費を抑え貿易による利潤を多くするため日本側との交渉も順調でなく
     オランダ商館長は接待をして親交を深め交渉をより円滑にする必要があった
  09/27田上にウサギ狩りを催し、両奉行が出馬して地役人の砲術訓練をみる
  09/幕府が置いた奉行手付(附)出役を廃し奉行家人をもって事務を処理させる
  「長崎くんち」(1)…丸山町、寄合町、船津町、樺島町、本博多町、
     平戸町、八幡町、麹屋町、北馬町、万屋町、西浜町、銀屋町、諏訪町
     銀屋町の傘鉾新調される
  諏訪神社の祭礼「長崎くんち」の看々踊と蛇踊を名古屋と江戸で興行
  大坂堀江の芝居小屋で看々踊りを興行。蛇踊りも披露する。演ずる者は中国人の扮装をした長崎人
  勝山町の料亭・竹泉で料理人同志が、てんぷらの元祖を苦心して作る
  唐船8隻、蘭船2隻が入港

1821(文政04)【仁孝】 辛巳(かのとみ)

  《将軍》[第11代]徳川家斉(一橋徳川家)
  《奉行》筒井和泉守(01/29江戸町奉行転出)、土方出雲守(勝政・前目付・03/17発令・09/着)、間宮筑前守(10/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヤン・コック・ブロンホフ

  05/29町年寄の高島四郎兵衛茂紀が立山御役所の石火矢台を受け持つ
  06/23町年寄の高木清右衛門が弓術師範となる
     1827(文政10)11/20高木清右衛門が病気のため退職。生涯7人扶持を賜う。弓術師範は引き続き担当
  07/09サン=マルティンがリマに入城。ペルーの独立を宣言する
  07/アラビア・メッカ産のヒトコブラクダ雄雌各1頭が蘭船により長崎に上陸
     長崎奉行間宮筑前守が西役所で見物。江戸へ問合せるが幕府献上品とはならない旨の返答
     カピタン・ブロムホフは寄合町、引田屋の遊女糸萩へ贈る
     通詞仲間が引受けブロムホフに肥田織木綿330端、色縮緬57端、青海縞70端、紋羽30端を贈り代金は糸萩の収入となる
     糸萩が外に貰ったもの…素焼茶器1揃、針差1箱、銘酒器1箱、焼物とんまり1つ・水次1つ
     ・皿35枚・猪口2つ、きんもうる帯地1つ・ごろふくれん帯地2つ、上皿紗2端・皿紗2端・奥島2端
     のち阿蘭陀通詞中山作三郎の斡旋で大阪香具師に売却。全国見せ物屋を巡業
     閏08/09江戸の西両国広小路では木戸銭32文で見せ物に
     とても仲が良く、ラクダ使いが雌の手綱を引きグングンすすむと雄は雌にピッタリと寄り添う
     のち北国巡業中に寒さのため死ぬ
  08/15石崎太兵衛、中村嘉右衛門、馬場松太郎を会所上納金為替用達とする
     また町年寄支配として会所銀が欠乏のとき為替上納を命じる
     年始、八朔、五節句、式日の拝賀を許される
  08/16ドーフの息子、道富丈吉(14)が新規に唐物目利役に任じられる。混血児の地役人は初めて
     従来の受用銀4貫のほか役料として銀1貫目ずつ給与される
     1824(文政07)01/18丈吉が17才で死去。晧台寺後山に葬られる
  09/18朝、日見峠より出火
  09/27アグスティン・デ・イトゥルビデ将軍がメヒコ市に入城しメキシコの独立を宣言する
  09/伊能忠敬の「大日本沿海実測地図」が完成し幕府に献上する
  09/3か村の庄屋に帯刀を許す
  09/唐人との密商の罪で唐小通事末席の河間八兵衛(八平次とも)を免職する
     1842(天保13)新たに会所請払役の栄職に任ぜられる。世人は奇異とする
     1843(天保14)02/吟味役勤方になる
     12/放任となり江戸へ護送される
  12/11《11/17》平戸藩第10代藩主の松浦静山が「甲子夜話」の執筆を開始
     1841(天保12)08/15《6/29》正続100巻、続編80巻の大著になるが未完のまま死亡
  12/唐船が●[シ(さんずい)に折]江漂着の薩摩家臣15人を送還
  「長崎くんち」(2)…丸山町、寄合町、榎津町、西古川町、磨屋町、本紙屋町、
     新橋町、新大工町、大村町、本五島町、金屋町、出来鍛冶屋町、今町
  寄合町筑後屋の遊女管絵が唐船主願遠山との間に混血児を出産
  島原城内に蘭学の医学校と病院をかねた「済衆館」が設けられる
  五島藩9代藩主盛繁のとき藩校「育英館」が創立
     のち城下福江の南富江に藩校「成章館」ができる
  唐船7隻、蘭船2隻が入港

1822(文政05)【仁孝】 壬午(みずのえうま)

  《将軍》[第11代]徳川家斉(一橋徳川家)
  《奉行》間宮筑前守(06/14作事奉行転出)、
      高橋越前守(駿河守・重賢・前松前奉行・06/14発令・09/着)、土方出雲守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヤン・コック・ブロンホフ

  03/05浦上山里飽浦郷より出火
  03/20夜、本紺屋町より出火
  03/13蘭大通詞の本木正栄(56)が没する【03/15?】。墓所は大光寺
  04/英船が浦賀に入港して薪水を求める
  06/18筆者(書記)紅毛人ガウセマンが呼入れている寄合町、引田屋の遊女綾妻が女児を出産
     06/25驚風症で死去
  08/10月にかけて西国にコレラが流行する
  09/17フランスの学者 ジャン・フランソワ・シャンポリオンがエジプトの象形文字ヒエログリフを解読する
     ロゼッタストーンに刻まれたヒエログリフ、デモティク(民衆文字)、古代ギリシア語の3種類の文字がヒント
     碑文の内容は紀元前196年に開かれたメンフィスの宗教会議の布告を3種類の文字で書き写したもの
     ヘレニズム期のエジプト・プトレマイオス王朝のプトレマイオス5世エピファネス施政下にて
  「長崎くんち」(3)…丸山町、寄合町、油屋町、今石灰町、下筑後町、
     今鍛冶屋町、今籠町、西中町、東中町、豊後町、本下町、外浦町、島原町
  12/町火消しの受持ち場を改める
     市中出火の際、火消の出動につき1817(文化14)に細かく定めたが、不便な点があり1812(文化09)の定めにもどす
  奉行所が各町に火事場道具の竜吐水、手桶、水龍、鳶口、大鋸、竹梯子、大団扇、火の子消しを備えさせる
     1787(天明07)、1812(文化09)に続く同様の達し
  奉行高橋越前守は消火が円滑に行われるように通達をだし従来の組合消防を変更
     一、消防の仕方については各組ごとよく申合せ火消人足は厳に喧嘩口論を慎む
     一、各町の乙名、組頭、日行使などは町内を記した幟のもとにおいて決してその場から離れない
       火消人足が自分の知人の家のみ加勢に行くような公私乱るる振舞いがあってはならない
     一、火消人足の賃銭は従来一律であったが、今後その働き如何によって手当てを加える
       町役人は鎮火後、火消人足の甲乙を区別した成績表を出す
     一、火消人足は1町当り20人
  再びオランダ船が雄雌2頭のラクダを運んでくる。このラクダの値段は2頭で1050両と高額
  元出島商館長ティチングが帰国後に記した「日本図説」が死後に出版。諏方祭礼を伝える
  唐人画家の江大来(稼圃)と医師の胡兆新が渡来
     胡兆新は1803(享和03)に次いでの渡来となる
     江稼圃は1804(文化01)に次いでの渡来となる
  長崎奉行・土方出雲守が旧長崎奉行所内の稲荷に方形の鳥居を奉納
     1869(明治02)若宮稲荷境内脇に移す
  西古川町の世話役笠井伊助ら7人が奉納踊りの会計不正で10〜30日押し込めの処分を受ける
  浦上村中野郷庄屋の高谷官十郎が代官に伺いをたてず、家主に命じて博奕(ばくち)をした家を解き崩し7日押し込めとなる
     どれほど厳しいお触れが繰り返しだされても博奕をする者があとをたたず
     浦上村中野郷では徹底的に追放する手段として博奕をした家は解き崩す申し合わせ
  宇田川玄真が「遠西医方名物考」1〜2編刊行
     1825(文政08)全12編9巻が完成。西洋で定評のある薬品・製剤方法・器具などをイロハ順に並べた事典
  江戸町奉行が唐人踊りを禁止
  長崎に入ったコレラがたちまち大阪まで広がり、大阪での死者は日に3〜400人
  長崎の家数1万1466(家持2089・借家9377)、人口2万9681(男1万4375・女1万5306)
  唐船8隻、蘭船2隻が入港

1823(文政06)【仁孝】 癸未(みずのとひつじ)

  《将軍》[第11代]徳川家斉(一橋徳川家)
  《奉行》土方出雲守(09/着)、高橋越前守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヤン・コック・ブロンホフ(←11/20→)ヨアン・ウイルレム・ド・ステュルレル

  07/05夜、長崎村十善寺郷より出火。17戸が焼失
  07/06フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(27)が蘭館医として着任
     衰退した日蘭貿易を復活させる切り札として派遣
     オランダ東インド会社総督ファン・デア・カペレンは、長崎奉行高橋越前守に親書を送る
     「優秀な外科医であり、かつ、優れた科学者であるから優遇して欲しい。きっと日本のために役立つでしょう」
     そのとき日本に初めてピアノが持ち込み、出島商館の外科部屋で故郷の歌曲を奏じる
     シーボルトは、南ドイツのバワリヤ王国の学都ウエルツブルグのドイツ医学の名門の家に生まれる
     長崎奉行の特別の計らいで、来日草々長崎の町に出て、日本人患者の診察・治療・投薬に当たる
     週2回、日本の医学生を出島の自室に呼び入れ、医学の講義をする
     内科の治療だけでなく様々な手術の講義をする
     腹水穿刺、乳がんの手術、産科鉗子を用いて分娩、薬剤を用いて瞳孔を拡大し眼科手術…など
     漢方医学が主流の当時、蘭方医は医学書を頼りにする程度のもので、シーボルトの治療はまさに画期的なもの
     オランダ商館に名医来るの報は日本全国にひろがり、西洋の進んだ医学を学ぼうと150人を超える俊秀が集まる
  シーボルトは奉行所の役医師草野元甫の紹介で銅座町の商家の娘、楠本タキを診察する
     のち2人のあいだに愛が芽生えシーボルトは結婚しようとする
     日本女性が出島に出入りできるのは遊女でなければならず、寄合町の引田屋に頼みタキを名義上の遊女に仕立てる
     源氏名を「其扇(そのおうぎ)」と名づける
  11/15《10/17》シーボルトが母のアポロニアと伯父のロッツあたの書簡に楠本タキとの結婚許可を求める
     ロッツあての書簡に「私もまた古いオランダの慣習に従って、現在、愛くるしい16歳の日本女性とむすばれました
     私は恐らく彼女を、ヨーロッパ女性と取り替えることはありまいと思います」と書き送る
     また叔父アダム・エリアスあてには日本に初めてワクチンを紹介したことを報告する
  シーボルトが出島に上陸してすぐにジェンナーにより開発された牛痘法を日本の子供に実施
     残念ながら長い航海の間に痘苗が腐敗していたため失敗
  江戸参府の途中、シーボルトが植物2000種を栽培する尾張の水谷豊文の薬園を訪れ驚く
  「長崎くんち」(4)…丸山町、寄合町、新興善町、今下町、西築町、東上町、
     南馬町、大黒町、新石灰町、東浜町、東古川町、中紺屋町、本古川町
     寄合町の「金糸花模様刺繍傘鉾幕」が新調される
  諏方社が奉行・地役人および氏子らの寄付金1千両で、神輿や諸神器を修理する
  外海の東樫山から7戸のキリシタンが善長谷地区に移り住む
     のち三和町岳路に移り住んだ半分はカトリックに改宗せず
     善長谷に残った家族はカトリックに改宗
  唐船が福建漂着の薩摩人28人を送還する
  蘭船が洋上漂流の薩摩家臣14人を助けて護送する
  唐船が「日本版論語集解」「史記評林」「古梅園墨譜後編」を輸出する
  博打で身を持ち崩し無宿人となった江戸中村座の木戸番定七の子次郎吉が大名屋敷へ忍び込む
     以降、10年間に99か所、122回忍び込み、3千両とも1万2千両ともいわれる金を盗む
     1832(天保03)08/捕縛された鼠小僧次郎吉が市中引き回しの上、鈴ケ森刑場で打首獄門。35歳
  唐船7隻、蘭船2隻が入港

1823(文政06)頃

  浦上淵村の鵬ケ崎で蒲地子明が開窯
     1852(嘉永05)廃窯
  シーボルトが植物園を再建。出島の1/4近くを占めるものに
     1825(文政08)出島の植物園に日本の1000種以上の植物が移植
     植えられていた植物の約370種のリストが残される。なかには…。
     ケシ、ナデシコ、アサガホ、イレイセン、キキャウ、クララ、センゴシツ、、ソテツ、ワタ、チゴザサ、イシカグマ、
     シモクシダ、ハシリドコロ、クロムメモドキ、バイケイサウ、コケモモ、アシタバ、ハマナシ、、ガジュツ、キャウオウ、
     ヤマサンシャウ、キハダ、ニガキ、マタタビ、カギカヅラ、タケニグサ、テウセンアザミ、トサミズキ、チモ、ハマビシ、
     ザクロサウ、フジウツギ、レンゲシャウマ、ブナノキ、シイーノキ、タチアヲイ などや、
     春の七草のセリ、ナズナ、コギャウ、タビラコ、ホトケノザ、スズナ、スズシロが記載される

1824(文政07)【仁孝】 甲申(きのえさる)

  《将軍》[第11代]徳川家斉(一橋徳川家)
  《奉行》高橋越前守(09/着)、土方出雲守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヨアン・ウイルレム・ド・ステュルレル

  01/18ドーフと寄合町京屋の遊女、瓜生野の間に生まれた混血児で唐物目利の道富丈吉が17才で死去。晧台寺後山に葬られる
  長崎郊外鳴瀧の諏訪神社神官の別荘を長崎奉行の許可を得て、オランダ通事中山某氏の名義斡旋でシーボルトが購入
     木造2階建の母屋や倉が建つ
     1829(文政12)12/05国外追放で日本を去った後、敷地は人手に渡る
     1859(安政06)シーボルト再来日の際に買い戻され、長崎滞在中、この地に住む
     1862(文久02)春幕府に献言しようとしてオランダ総領事に妨げられ帰国
     のちシーボルトの娘楠本いねの所有になるが売却
     1874(明治07)台風で大破
     1894(明治27)解体され跡地だけが残る
  05/07ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの交響曲第9番ニ短調作品125が初演を迎える
     作曲者立会いのもと、ウィーンのケルントネル門劇場にて行なわれる。指揮はミヒャエル・ウムラウフ
     交響曲第9番はベートーヴェンの9番目にして最後の交響曲
     1918(大正07)06/01徳島県板東町の板東俘虜収容所でドイツ兵捕虜により全曲演奏がされる
     日本における初演となる
     1924(大正13)01/26九州帝国大学の学生オーケストラ「フィルハーモニー会」が第9の第4楽章を演奏
     摂政宮の御成婚祝いに開いた「奉祝音楽会」の席上で
     ただ、歌われた歌詞はドイツ語でも日本語の訳詞でもなく
     文部省が制定した『皇太子殿下御成婚奉祝歌』の歌詞を第9のメロディにアレンジしたもの
     11/29、30東京音楽学校のメンバーがベートーヴェンの交響曲第9番全曲を演奏
     指揮はドイツ人教授グスタフ・クローン
     1927(昭和02)05/03ベートーヴェンの交響曲第9番をプロ・オーケストラ新交響楽団(NHK交響楽団)が日本初演
  05/イギリスの捕鯨船員が常陸大津浜に上陸して薪水を求め水戸藩に捕えられる
  06/シーボルトが鳴滝に塾を開く
     シーボルトは、週に1度程度鳴滝塾を訪れ、塾生が選んだ患者の治療に当たり、日本初の臨床医学の方法を伝習
     シーボルトの教えを受けた門人は50余人だが、その影響は非常に大きく日本近代医学の黎明をもたらした
     門人に、美馬順三(阿波)、高良斎(阿波)、水谷豊文、伊東圭介(尾張)、二宮敬作(伊予宇和島)、桂川甫賢、
     石井宗謙(備前)、高野長英(陸奥水沢)、戸塚静海、岡研介、小関三英(出羽庄内)、湊長安(江戸)、竹内玄同、
     伊東玄朴(豊前)、大石良英(豊前)、大庭雪斎、石坂桑亀、賀【加】来佐一郎(豊後)、武谷元立(筑前)、
     百武万里(筑前)、河野禎造、森田千庵、黒川良安、日野鼎哉(豊後)、岡泰安、有吉周平(筑前)、原田種彦(筑前)、
     後藤松軒、児玉順三らがいる
     門人たちは業成り、帰郷して医者を開業し、蘭学を教授した
     シーボルトは門人に学問研究の方法を説いて、それぞれに研究課題を与え、成績優秀な者にはドクトルの免許状を与える
      高良斉は「日本の小児病、成人病」などの論文を提出
      美馬順三は「日本産科問答」を完成、1825年のバタビア学芸協会雑誌に発表
      高野長英は「日本の茶の木と茶の製法」について論文を提出
  07/イギリスの捕鯨船員が薩摩宝島に上陸して略奪する
  閏08/05絵師で唐絵目利の荒木如元(51)が没する。墓所は晧台寺後山
  閏08/07夜、浦上山里村里郷より出火
  「長崎くんち」(5)…丸山町、寄合町、東築町、桜町、小川町、内中町、
     西上町、八百屋町、勝山町、恵美須町、今紺屋町、炉粕町、伊勢町
  町人の島田総兵衛が救銀に銀400貫目をだす。これを賞し式日拝礼を許す
     1827(文政10)06/救銀取調所請払役となる
  本木昌造が北島三弥太の4男として新大工町に生まれる
     のち伯父の蘭通詞本木昌左衛門の養子となる
  ドーフと寄合町、京屋の遊女、瓜生野の間に生まれた混血児丈吉が17才で死去。皓泰寺後山に葬られる
  唐船9隻、蘭船2隻が入港

1825(文政08)【仁孝】 乙酉(きのととり)

  《将軍》[第11代]徳川家斉(一橋徳川家)
  《奉行》土方出雲守(09/着)、高橋越前守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヨアン・ウイルレム・ド・ステュルレル

  02/08小瀬戸浦より出火
  02/幕府が沿岸諸藩に異国船の打ち払いを指令する。無二念打ち払い令
     1808(文化05)10/04《08/15》の英艦フェートン号の長崎港侵入が発端
  03/15夜、西中町の大村屋敷内より出火
     出火の折り恵美須町の金三郎が火消人足として駆出されるが、指図通り動かず水口を抜取り消防の妨げとなり不届
      恵美須町・金三郎03/18入牢03/27追放
      恵美須町・喜蔵、忠蔵、増之助、久吉、仲蔵、万吉、夘吉、甚之助、勝次郎、寿吉、倉之助、馬次郎、利助ともに手鎖
  03/16本紺屋町より出火
  06/11鳴滝塾頭の美馬順三(31)がコレラにかかり没する。大音寺中山家の墓地に埋葬
     シーボルトが来朝したとき最初に入門した門人のひとりで、シーボルトの日本研究を助ける
  05/英国船が陸奥沖に来航する
  08/シーボルトがケンペルとツユンベリの功績を顕彰するため出島薬草園に記念碑を建立する
     出島の薬草園に日本列島の1千種以上の植物が移植(文政08(1825)10/付のシーボルトの書簡による)
     1879(明治12)記念碑が長崎公園に移される
     1956(昭和31)出島に植物園跡が復元され、庭園の1隅に移設される
  「長崎くんち」(6)…丸山町、寄合町、本大工町、今魚町、今博多町、本籠町、
     本紺屋町、材木町、上筑後町、江戸町、後興善町、古町、本興善町
     本籠町の大太鼓つくられる
  市中の銭相場が高騰。小銭が欠乏して市民は日常生活に困る
     箇所銀、かまど銀に4銭文、鉄銭など小銭を配与
  丸山遊郭の遊女・錦山が唐人陳仁謝と心中
  ドクトル・ビュルゲルが其扇の姉おつねとの間に女児千歳を設ける
     コンプラ仲間(諸色売込人)藤吉英重に付託
  シーボルトが茶の木をジャワに移植することに成功
  シーボルトが出島の植物園に日本の1000種以上の植物を移植
     植えられていた植物の約370種のリストが残される。なかには…。
     ケシ、ナデシコ、アサガホ、イレイセン、キキャウ、クララ、センゴシツ、、ソテツ、ワタ、チゴザサ、イシカグマ、
     シモクシダ、ハシリドコロ、クロムメモドキ、バイケイサウ、コケモモ、アシタバ、ハマナシ、、ガジュツ、キャウオウ、
     ヤマサンシャウ、キハダ、ニガキ、マタタビ、カギカヅラ、タケニグサ、テウセンアザミ、トサミズキ、チモ、ハマビシ、
     ザクロサウ、フジウツギ、レンゲシャウマ、ブナノキ、シイーノキ、タチアヲイ などや、
     春の七草のセリ、ナズナ、コギャウ、タビラコ、ホトケノザ、スズナ、スズシロが記載される
  シーボルトが要請した助手の1人としてハインリッヒ・ビュルガー(Heinrich Burger)が日本へ
     画家フィレネーフ(Carl Hubert de Villeneuve) とともに来日
     3等薬剤師に昇進したばかりのビュルガーは出島のオランダ商館付き医師シーボルトの下での「薬剤師」として来日
  宇田川玄真が「遠西医方名物考」全12編9巻を完成。西洋で定評のある薬品・製剤方法・器具などをイロハ順に並べた事典
     1〜2編は1822(文政05)に刊行
  唐船4隻、蘭船2隻が入港

1826(文政09)【仁孝】 丙戌(ひのえいぬ)

  《将軍》[第11代]徳川家斉(一橋徳川家)
  《奉行》高橋越前守(05/24新番頭転出)、
      本多佐渡守(近江守・政収・前日光奉行・06/17発令・09/着)、土方出雲守(10/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヨアン・ウイルレム・ド・ステュルレル(←08/05)(08/04→)ヘルマイン・フェリックス・メイラン

  02/15《01/09》甲比丹スチュルレルらがシーボルト、薬剤師ハインリッヒ・ビュルガーをともない江戸参府へ出発
     全同行者は107人シーボルトの協力者30人が加わる(普段はオランダ人3、長崎奉行所56の計59)
     シーボルトは画家フィレーネフの同行を申請したが、定員オーバーで不許可。代わりに 、画家の川原慶賀が同行
     02/22《01/16》下関に入る
     シーボルトが下関阿弥陀寺に絵馬額を奉納
     03/02《01/24》下関を出港
     03/09《02/01》姫路に入る
     03/10《02/02》加古川に入る
     03/11《02/03》兵庫に入る
     03/12《02/04》大坂に入る
     03/18《02/10》京に入る
     04/01《02/24》掛川に入る
     04/02《02/25》金谷に入り大井川を渡る
     04/09《03/03》川崎に入る
     04/10《03/04》江戸に入る。島津重豪と斉彬に面会
     05/01《03/25》江戸城で将軍家斉に謁見する
     シーボルトは書物奉行兼天文方の高橋作左衛門らと度々会談
     イギリス人シュケイ著の「地理書」と伊能忠敬作の「日本地図」とを交換
     04/高橋作左衛門がひそかにシーボルトを紅葉山文庫に案内する
     05/15《04/09》シーボルトが天文方の高橋作左衛門と日本地図受け渡しの密約を結ぶ
     05/18《04/12》江戸出立する
     最上徳内がシーボルトに間宮林蔵の樺太計測地図「黒龍江中之洲并天度」の写しを手渡す
     05/20《04/14》小田原に入る
     05/28《04/22》四日市に入る
     06/02《04/27》京に入る
     06/07《05/02》京を出る
     06/28《05/23》下関に入る
     07/07《06/03》長崎に帰る。所要日数143日。普段は平均90日、約3か月
  02/23寄合町、筑後屋の遊女高瀬がピストウリウスとの間に女児を死産
  04/25《03/19》江戸参府に随行したシーボルトが定宿の長崎屋で土生玄碩と会う
     土生玄碩は広島の安芸出身。徳川将軍家の奥医師で眼科医
     シーボルトは眼科の書物や眼科関係の器械を見せ、ベラドンナで瞳孔を広げてみせる
     土生は驚嘆し、白内障手術に必要な散瞳薬ベラドンナの製法伝授を頼むが、シーボルトは簡単に応じず
     土生は鰻の蒲焼き、駅路の鈴、果ては春画まで提供。さらに将軍より拝領した紋服を脱いで与える
     眼病を治すためには、例え露見し投獄されても息子の侍医玄昌に製法を伝える時間はあるはずと命がけの決断
     1828(文政11)台風によるシーボルト事件で国外持出禁止の品の中に将軍拝領の紋服が発見される
     土生玄碩は改易となり家禄が没収され終身禁固刑に
  08/29夜、長崎村馬場郷より出火
  11/22夜、浦上山里村里郷より出火
  11/寄合町、肥前屋の遊女橋藤の妹さだが唐人屋敷で紛れ女として見い出される
     遊女橋藤は謹慎、寄合町組頭藤田茂八郎は監督不行届のかどで押込みに
  「長崎くんち」(7)…丸山町、寄合町、引地町、浦五島町、桶屋町、
     本石灰町、酒屋町、大井手町、袋町、船大工町、堀町、出来大工町、新町
  ゲイルマン・フェリッキス・メイランの著「日本紀事」の丸山遊女の項に
     1)出島に日本人は居住できないが遊女は紅毛人の召使になることが許される
     2)遊女は出島滞在を証明するため毎日一度大門にいき役人に届け出る
     3)遊女は道徳的名誉的ではあり得ない、しかし家事にとって有用である
     4)男の使用人を雇うことは許されているが
     彼等は日の出前に来ることはできず、日没前に出島を退去する定めで、遊女がいないと不便
     5)一般的に良い趣味を持っている日本人が名誉も正義も打捨てて遊女屋を経営するのを認めるのは不可解
     6)公許の遊女屋は不相応な保護を受けて少しの規則で取り締まられている
     7)遊女が年期奉公を終えて社会に復帰し有利な結婚をし、妻、母として立派に生活するのが珍しくないのは一層注目
     長崎だけでも750人以上の遊女がいて全国には多くの遊女屋がある
  寄合町、筑後屋の遊女粧がヘトル役(荷蔵役)フィッセルとの間に男児を出産。数日後に死去
  寄合町、油屋の遊女青柳がカルロルス・ヒュウベルト・デ・フィレニゥフエとの間の男児を死産
  唐船11隻、蘭船2隻が入港

1827(文政10)【仁孝】 丁亥(ひのとい)

  《将軍》[第11代]徳川家斉(一橋徳川家)
  《奉行》土方出雲守(閏06/24西丸留守居転出)、
      大草能登守(高好・前目付・06/24発令・09/着)、本多佐渡守(10/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヘルマイン・フェリックス・メイラン

  05/06午後10時頃、寄合町、引田屋の遊女其扇(楠本タキ)が銅座の父佐平宅でシーボルトとの間に女児を出産
     シーボルト32歳、其扇21歳。女児の名は楠本いね
     07/女児いねのため乳母遊女の陸奥が雇われ出島に入る
     1828(文政11)07/女児いねのため乳母遊女十寸穂が雇われ出島に出入り
  05/頼山陽が「日本外史」を松平定信に献じる
  06/1824(文政07)に救銀400貫目をだした町人の島田総兵衛が救銀取調所請払役となる
  閏06/02新興善町乙名の角谷喜間太が品行不正により免職される
  閏06/唐人が館外にでて不法をはたらく者がある。唐人騒擾
     筑前藩兵を大徳寺に配置して警備中、大勢で大徳寺へきて乱暴する。即時に5人捕える
     07/01新地に兵を駐屯させる
     07/17大徳寺、新地ともに兵を撤収。5人を放免する
  07/其扇とシーボルトとの間の女児いねのため乳母遊女の陸奥が雇われ出島に入る
  07/町人の三田村太一郎が先祖以来貯えの銀400貫目をだし救銀に加える。賞として式日拝礼を許す
     1829(文政12)救銀取調所請払役とする
  09/09伊東圭介が来崎。大通詞の吉雄権之助の家に寄寓しシーボルトについて植物を研究する
     シーボルトも日本の植物について圭介より得るところがあり
  09/24市中および郷村の孝心貞節の男女20人に対し銀各2枚を賞賜
  「長崎くんち」(1)…丸山町、寄合町、船津町、樺島町、本博多町、
     平戸町、八幡町、麹屋町、北馬町、万屋町、西浜町、銀屋町、諏訪町
     樺島町の傘鉾鶉篭の2つ重ねに栗、垂れは十二支
  万屋町の傘鉾が完成する
     傘鉾の飾りは締め鰹に酒樽、垂幕には魚づくしの刺繍がつく。初代、10匹
     垂幕につく魚や海草の下絵は我国初期の洋画人原南嶺堂が描き、刺繍は刺繍師縫屋幸助の手による
  11/20町年寄の高木清右衛門が病気のため退職。生涯7人扶持を賜う。弓術師範は引き続き担当
  メイランが出島に商館長として4年赴任。帰国後の著書「日本」[1830(文政13)]で諏訪祭礼を伝える
  シーボルトが西山御薬園を訪れて調査。栽培されている植物108種を自筆で記録
  諏方社の正殿の柿葺を檜皮葺に改める。経費1千両は総町の寄付
     1832(天保03)1828(文政11)の台風で倒壊した諏方社の能舞台と回廊が修復
     各戸銀3匁を負担、総町より銀100貫を拠出して
  雲仙四面社の第一鳥居が建立される
     女性はこの鳥居から先ヘの立入が禁止に
     1869(明治02)神仏判別の制により温泉四面宮を国魂神社と改称
  熊本の人で歌人で国学者の中島広足が来崎。古町に居を構え、国学和歌の師となる
     のち崎陽歌壇の天保の黄金時代を招来
     1857(安政04)大坂に移る
  寄合町、京屋の遊女初紫が十二家船主周藹亭との間に男児を出産したが届をださず
     のち男児石井簾平は年寄の高島秋帆が秘し反物目利に
     1842(天保13)高島秋帆事件で発覚
     1842(天保13)周藹亭が初紫に養育料として銀札21貫666匁を与える
     1843(天保14)遊女初紫は江戸送りに
     1845(弘化02)周藹亭が初紫に養育料として銀札6貫目を贈る
     1846(弘化03)遊女初紫が長崎へ帰され、押込抱主の京屋えんは過料3貫文、
     乙名芦刈高之進は不埒につき叱り、組頭山口利三太も叱り、石井簾平は免職に
     1897(明治30)石井簾平が71才で死去。墓は勧善寺後山に
  唐船13隻、蘭船2隻が入港

1828(文政11)【仁孝】 戊子(つちのえね)

  《将軍》[第11代]徳川家斉(一橋徳川家)
  《奉行》本多佐渡守(09/着)、大草能登守(09/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヘルマイン・フェリックス・メイラン

  01/24寄合町、引田屋の遊女左門太がピイトル・ファン・オーテレンとの間に男児を出産
     10/痘瘡にかかり死去
  02/1221時頃、浦五島町の高砂屋久米蔵宅の神前灯火の消し忘れにより出火。37戸が焼失
      浦五島町・高砂屋久米蔵押込20日
  05/12暁、酒屋町より出火
  06/19大浦お慶が油屋町の豪商大浦家に生まれる
  07/シーボルトの娘いねのため乳母遊女十寸穂が雇われ出島に出入り
  08/09文政の大風による被害は雨や高潮も加わり未曾有のものとなる。被害は甚大に
     「文政台風」「子の年台風」「シーボルト台風」とも
     出島、唐館、新地、俵物役所、港番所などの公共建物と石塀石段その他付属施設は破壊崩落
     市中潰家34軒、崩家53軒。即死1人。番船、鯨船、荷漕船など流失21艘、大破中破55艘。水死者23人、負傷者2人
     近郊9か村(長崎、浦上山里淵、古賀、日見、茂木、川原、樺島、野母、高濱各村)の被害総計は
      風損田393町8反3畝余、風損畑565町9反4畝余。百姓潰家1578軒、半潰家1004軒、小屋潰2806軒
      潰家死人29人(男14人、女15人)、怪我人53人(男34人、女19人)。難破船水死男18人
      山林木根返中折御林1032本、百姓持山11万3482本。船流失難船486艘。農馬死13匹、その他
     市中罹災者に対し(箇所持自宅分)潰家1人前白米1斗銭1貫文宛、崩家1人前白米5升銭500文宛
      (かまど主)潰家1人前白米5升銭500文宛、崩家1人前白米5升宛
      別に家内の者7歳以上別銭300文宛を支給
  08/09夜半からの大暴風雨でシーボルトは其扇、いね、乳母、禿、黒人少年を出島表門に避難させる
  08/09夜半から翌朝にかけて大風雨
     シーボルトを乗せ帰帆する予定の蘭船コルネリウス・ハウトマン号が座礁
     海岸に流れついたシーボルトの荷物の中から国禁の品が続々発見され「シーボルト事件」の発端となる
     国禁の品:文政09(1826)春、江戸参府に随行したシーボルトは
      書物奉行兼天文方の高橋作左衛門らと度々会談
       イギリス人シュケイ著の「地理書」と伊能忠敬作の「日本地図」とを交換
      また幕府の医官土生玄碩は、散瞳薬ロート根を入手した謝礼に、将軍拝領の葵の紋付きを贈る
       …などなどが難破船から発見
     11/01シーボルト事件で江戸からの急使が長崎につく
     奉行本多佐渡守、小通詞助吉雄忠次郎に対し日本地図の取り立てを申しつける
     忠次郎はシーボルトに会い、すみやかに返却するよう伝える
     シーボルトは「日本地図は受け取っていない。ただ、エゾの地図だけを持っている」といい、それだけを返す
     11/10奉行所から検使3人と役人約30人を蘭商館に派遣
     商館長メイランに対しシーボルトの所持品と荷物を封印。国禁の品は取りあげる旨を申し渡す
     奉行所の申渡文書を受けたシーボルトは記録類をはじめ地図と書類を上手に隠そうとする
     大きな鉄製の箱に入れたものは庭に埋め、他のものはペットの猿の檻の二重底のなかに隠す
     11/12検使3人らが出島でシーボルトを尋問。居宅を捜索し荷物は封印する
     のち尋問は12月24日まで3回に及ぶ
     1829(文政12)01/03シーボルトが奉行所に連行され、奉行から蘭館長メイランを通じて24か条の質問を渡される
     01/05シーボルトが奉行所に回答書を提出する
     学問に対する熱意と愛情から行動したに過ぎないことを強調する
     01/05検使がシーボルトの所持品を出島から持ち出す
     01/16シーボルトが奉行所で尋問を受ける
     03/09シーボルトが長崎奉行本多佐渡守に日本帰化願の書面を提出
     シーボルトは自分との関係者が多く囚われの身となり、判決が分からない状態に気づく
     非常に驚いて帰化する嘆願書をだす
     「自分がこうなったのも研究熱心なためで政治的野心は少しもない。
     その証左のため母国においてきた老母を捨てても、日本に帰化して生涯を日本のために尽くしたい」
     09/25シーボルトが長崎奉行所に呼び出され判決が言い渡される
     シーボルトに帰国を許可するとともに、再渡来を禁じる旨を申し渡される
     12/05シーボルトが蘭船ジャワ号で出帆帰国
     12/06シーボルトは船上で母にあて伝える
     「日本における私にとって全く恐ろしい事件は、大変都合よく解決しましたので、
     昨晩、出島を去りました……私はコレクション全部を持っています」
     12/07港口の小瀬戸に門人の高良斎と二宮敬作、内妻の楠本タキとひとり娘イネが見送る
     シーボルトは、いっとき小瀬戸に上陸して別れのあいさつをする
     12/08港外の停泊地からジャワに向けて出港。日本を去る
  08/11台風で日用品、材木の価格が暴騰し米は1升116文まであがる
     奉行は日用品や材木の価格をはじめ大工その他諸職人の手間賃の騰貴を抑圧する
     また水死人や雑具が海辺に漂着したらすぐに届け出ることを布告
     佐嘉藩、大村藩の聞役にも同様の達しをだす
  08/13暁、長崎村十善寺郷より出火
  08/23〜24文政第2次台風が襲来。夜半より翌朝にかけて再び大風雨となる
     市中潰家25軒、崩家49軒。船流失4艘、破損4艘。負傷者1人
     近郊9か村の被害総計は百姓潰家328軒、半潰家413軒、小屋潰304軒、庄屋宅半潰1軒
     山林木根返中折御林20本、百姓持山7463本。船打砕22艘、その他
     台風により未曾有の被害。米をはじめ日用品、材木の価高騰(米164文に)
     奉行所は酒造米を3分の2を減じ、倉庫の米(御払米)1千石を放出して安価に売り物価や貸銀の騰貴をおさえる
     袋町の買入米取扱方の石崎太平次に命じて米を購入迴漕させる
  08/28大風のとき公事出張中死亡の者の遺族に銀を給する。吏員4人に埋葬料各銀15枚、水夫4人に手当各銭7貫文とする
  09/05岩瀬道郷の伊三郎が8月9日の夜風浪のなかを泳いで蘭船にいく
     闇夜で勝手不案内の乗組員を誘導し一同を無事陸地へ泳ぎつかせる。褒賞銭若干を賜る
  10/10杉亨二が本籠町に生まれる
  11/02時計師の御幡栄三が稲佐海岸に吹きつけられた蘭船コルネリウス・ハウトマン号の引き揚げに成功
     蘭人の希望ではじめは一般から募集。市中の大工3人が応募し銀100貫目で着手するが失敗
     そこで栄三は銭77貫で請け負う
     11/11着手する
     11/15浮上に成功する
  「長崎くんち」(2)…丸山町、寄合町、榎津町、西古川町、磨屋町、本紙屋町、
     新橋町、新大工町、大村町、本五島町、金屋町、出来鍛冶屋町、今町
  災害により市中の酒造3分の2を減らす
  八幡神社横に長崎で最初の常設芝居小屋「八幡座」開設。江戸や上方から歌舞伎役者が訪れる
     1943(昭和18)08/09「長崎歌舞伎座」と改称
     1946(昭和21)火事により焼失
     のち教会と幼稚園に
  大風で崇福寺の三門が倒壊する
     1849(嘉永02)三門が再建される。龍宮造楼門
     発願主は唐通事の游竜彦十郎、鄭幹輔、棟梁大串五郎平
  唐船5隻、蘭船1隻が入港

1829(文政12)【仁孝】 己丑(つちのとうし)

  《将軍》[第11代]徳川家斉(一橋徳川家)
  《奉行》大草能登守(09/着)、本多佐渡守(10/発)
  《代官》高木作右衛門忠任
  《商館長》ヘルマイン・フェリックス・メイラン

  01/03シーボルトが奉行所に連行され、奉行から蘭館長メイランを通じて24か条の質問を渡される
     「シーボルト事件
     01/05シーボルトが奉行所に回答書を提出する
     学問に対する熱意と愛情から行動したに過ぎないことを強調する
     01/05検使がシーボルトの所持品を出島から持ち出す
     01/16シーボルトが奉行所で尋問を受ける
     03/09シーボルトが長崎奉行本多佐渡守に日本帰化願の書面を提出
     シーボルトは自分との関係者が多く囚われの身となり、判決が分からない状態に気づく
     非常に驚いて帰化する嘆願書をだす
     「自分がこうなったのも研究熱心なためで政治的野心は少しもない
     その証左のため母国においてきた老母を捨てても、日本に帰化して生涯を日本のために尽くしたい」
     09/25シーボルトが長崎奉行所に呼び出され判決が言い渡される
     シーボルトに帰国を許可するとともに、再渡来を禁じる旨を申し渡される
     12/05シーボルトが蘭船ジャワ号で出帆帰国
     12/06シーボルトは船上で母にあて伝える
     「日本における私にとって全く恐ろしい事件は、大変都合よく解決しましたので、
     昨晩、出島を去りました……私はコレクション全部を持っています」
     12/07港口の小瀬戸に門人の高良斎と二宮敬作、内妻の楠本タキとひとり娘イネが見送る
     シーボルトは、いっとき小瀬戸に上陸して別れのあいさつをする
     12/08港外の停泊地からジャワに向けて出港。日本を去る
  01/10寄合町、引田屋卯太郎と遊女其扇が奉行所に呼び出されシーボルト事件に対する尋問を受ける
  02/13昼、長崎村十善寺郷より出火
  06/和人参の相対売買をかさねて厳禁に。町年寄高島四郎兵衛を取締掛とする
  07/20紅毛船が入港
     カロルス・ヒュウベルト・デ・フィレニュウフエ(29)と妻ミイミが乗船。妻の出島上陸は許されず
     長崎人に紅毛女性は珍しく仕立てた遊覧船で紅毛船のまわりに集まり酒肴を持込み太鼓、三味線の鳴物入りで見物
  「長崎くんち」(3)…丸山町、寄合町、油屋町、今石灰町、下筑後町、
     今鍛冶屋町、今籠町、西中町、東中町、豊後町、本下町、外浦町、島原町
  11/シーボルトは其扇に1千テール(銀10貫目)、
     指ぬき7つ、ギャマンの皿1つ、小指輪10、髪飾り7つ、櫛1つを贈る
     のち其扇といねは伯父宅に住み、伯父はいねから10貫目を預かっていたがドクトル・ビュルゲルが取り上げる
     別にシーボルトから寄託の5貫目を加えコンプラ仲間に預け毎月利子として150匁を渡すことに
  12/05シーボルトが国外追放で日本を去った後、鳴滝の敷地は人手に渡る
     1859(安政06)シーボルト再来日の際に買い戻され、長崎滞在中、この地に住む
     のちシーボルトの娘楠本いねの所有になるが売却
     1887(明治20)頃解体される
  シーボルトが帰国するとき500種800株の植物を積み込む
     のちオランダに届いたときには大半が駄目に
     1844(天保15・弘化01)ヨーロッパに移植が成功したもので生き残っていたのは204品種
     シーボルト自身が導入したものはそのうちの129種
     シーボルトが作成した販売カタログには、バイカイカリソウ、イカリソウ、トリカブト、ショウブ、シャクヤク、ヌルデ、
     サルトリイバラ、チャ、ツバキ、ガガイモ、ツルボ、シキミ、サネカズラ、ネズミモチ、カノコユリ、エビネ、シュンランなど
  米価が高騰。1升124文に
  1827(文政10)7月に先祖以来貯えの銀400貫目をだした町人の三田村太一郎が救銀取調所請払役となる
  伊東圭介が「泰西本草名疏(たいせいほんぞうめいそ)」を刊行
     シーボルトから贈られたツユンベリーの著書「日本の植物誌」を基に、
     記載されている植物名をアルファベット順に記し、それに和漢名を付す
     リンネの二名式のラテン名を用いて日本の植物を、日本人の手によって著された最初の本格的な本
  蘭館職員デ・ヒレニウヘが新妻を同伴するが上陸は不許可
     この紅毛女性を見物するため遊覧船が蘭館の周囲に多数集まる
  ヘトル役フィツセルが帰帆の際、遊女粧へ贈った品々は…
     絵鏡2枚、引堤1揃、但しコップ10、瓶3ツ、切子蓋物2揃、切子瓶1ツ、コップ2大小、焼物水さし2、焼物筆立て1、
     焼物蓋物2揃、但し匙1ツ、焼物皿18枚、内金絵15枚、焼物深鉢1、硝子板24枚、但し疵つき、針差し1、内糸9巻、
     指貫き1ツ、鋏1挺、針入1ツ、目ほがし1本、乳汁入れ1、皮櫃1、ばんこ1、オランダ沓4足、オランダき水張傘1本、
     硝子瓶8ツ、ブリキあき缶1つ、羊角燈籠1ツ、密漬6壷、オランダたんす1棹
  唐船9隻、蘭船2隻が入港

文政年間(1818〜1830)

  長崎書画清潭会の主催により日本国内はもとより、中国、朝鮮に及ぶ文人墨客の書画会が盛大に行なわれる
     清潭会の盟主、八幡町の乙名・木下逸雲、油屋町乙名・村尾萬載、唐人屋敷組頭・水野媚川らによる
     場所は、夏は引田屋庭園内の茶屋「花月」、秋は千歳窩(中の筑後屋の「中の茶屋」/唐人による呼び名)
  長崎公園丸馬場の安禅寺の地にナンキンハゼが4本植えられる
  秋田藩が薬園を設置
  廣島藩が薬園を設置

文化文政年間(1804〜1830)頃

  甲斐田市左衛門が旅人歓送迎の茶屋が始める。樹木が茂り夏は蛍が飛び交う名所で蛍茶屋とよばる
  中国から九斤(キュウキン・別名コーチン、クチン、エーコク)と呼ばれる鶏が輸入

1830(文政13、天保01)【仁孝】 庚寅(かのえとら)

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