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〈明治時代(9)〉

明治後期以降

  日本経済が東京・大阪が絶対的な中枢都市となり
     江戸期以来保ってきた対外貿易港としての地位を横浜、神戸に奪われる
     1899(明治32)の外国人居留地廃止と相まって長崎の外国人商人は他の港湾都市へと移住

1903(明治36)【明治】 癸卯(みずのとう)

  《総理大臣》[第11代]桂太郎
  《知事》[第14代(官選)]荒川義太郎
  《市長》[第4代]横山寅一郎

  01/20英語研究のため満2年間英国へ留学していた夏目漱石を乗せた船が長崎に入港。宝屋旅館に投宿
     ロンドンでは日本が恋しく孤独に繰りしみ、神経衰弱を病み、強度の神経衰弱で文部省に発狂の噂が伝わる
     01/23帰京する
  01/第1回水道拡張工事のうち本河内低部貯水池、西山低部浄水場、西山低部配水池が完成
     04/下給配水開始
     1904(明治37)03/西山高部貯水池、浄水場、配水池が完成し第1回水道拡張工事が完了。水不足が解消
  02/長崎商業会議所の第3代会頭に的野市二が就任
     1903(明治36)07/第4代会頭に森喜智郎が就任
     1905(明治38)02/第5代会頭に永見寛二が就任
  03/28札幌麦酒株式会社が東京・隅田川の吾妻橋畔に日本初のビールガーデンを開く
  03/31新橋高等小学校が新町の旧市立商業学校跡地に新築移転、新町高等小学校と改称
  03/築町〜西浜町を結ぶ長久橋が改めてプラットトラス式に架け替えられる
     1902(明治35)05/22に西側半分が墜落したのち
     1930(昭和05)鉄筋コンクリート造に架け替え
  04/4年制の仁田尋常小学校が完成。4年生まで児童数731人
     1908(明治41)04/改正小学校令を実施。5年生2個学級を増設
  04/13ペスト病など伝染病予防上の病原菌検査のための長崎県細菌検査所が馬込郷の浦上警察署跡に完成
  04/13上田町に大浦女児尋常小学校(南大浦小学校)が開校
     1908(明治41)04/01南大浦尋常小学校と改称し義務教育6か年制を実施
     1921(大正10)04/09南大浦小学校と改称
     1935(昭和10)04/01南大浦青年学校を併置
     1941(昭和16)04/01長崎市大浦国民学校と改称
     1947(昭和22)04/01長崎市立南大浦小学校と改称
     1954(昭和29)07/16新校舎落成。及び創立50周年記念式を挙行
     1960(昭和35)05/25旧木造校舎解体
     1971(昭和46)03/31体育館工事完了
     1975(昭和50)07/18プール落成
     2007(平成19)03/北大浦小学校、浪の平小学校とともに3校統廃合のため閉校
     2007(平成19)04/北大浦小学校の校舎を利用して大浦小学校が開校
  04/14「対馬警備隊司令部条例」が制定。司令部が長崎県対馬国下県郡鶏知村に置かれる
     1920(大正09)08/対馬要塞司令部が設置
  04/県警本部が県下で始めて市内の交通頻繁な道路15か所に左側通行令を適用
  05/22北海道出身の第一高等学校文科1年の藤村操が日光の華厳の滝で投身自殺
     自殺現場に残した遺書「巌頭之感(がんとうのかん)」によりマスコミ・知識人に波紋を広げる
     厭世観によるエリート学生の死は「立身出世」を美徳としてきた社会に大きな影響、あとを追う者が続出
     警察官に保護され未遂に終わった者が多かったが、藤村の死後4年間で同所で自殺を図った者は185人
  05/25長崎市稲佐郷稗田にペスト患者発生。同部落71戸(366人)の交通を遮断
  05/長崎重砲大隊に置かれていた長崎要塞司令部が竹の久保から大黒町に移転
     上長崎村舟津郷字舟津(大黒町・西坂町の一部/NHK長崎放送局)の長崎兵器支廠築城部長崎支部と合併
     1906(明治39)12/平戸小屋町に移転
  06/長崎瓦斯合資会社が小曽根町にタンクを設置、ガス灯と炊飯用火力を製造供給
     九州最初のガス事業で外国人居住の炊事用として需要があり、また商店街の店頭用として歓迎される
     1905(明治38)業績が上がらず解散
     名称を山内商会瓦斯部(資本金20万円)に改称。山内善三郎の個人経営で営業を継続
  07/「東洋日の出新聞」を創刊した鈴木天眼、西郷四郎が記念事業として「瓊浦遊泳協会」を設立
     市民皆泳武道鍛練の目的で長崎港口鼠島に遊泳場を設ける
     東洋日之出新聞の鈴木天眼が主唱し浜町の田中直三郎の援助による
     西郷四郎は協会師範となり青少年の心身の鍛練を行なう
     1903(明治36)新聞社内に協会事務所を置いて鼡島海水浴場で青少年の水泳指導を行なう
     発足当時の小中学生の正会員は810余人、そのほかあわせて1日平均1千人以上の参加があり盛況に
     1913(大正02)「瓊浦」が分かりづらく「長崎遊泳協会」と改称
  08/15長崎新報社と社長に対する新馬込組の糾弾事件がおこる
  08/22東京馬車鉄道会社の品川八ツ山〜新橋間5.6キロメートルが電化
     東京馬車鉄道会社が東京電車鉄道会社と改名
  09/長崎県医会(市医会)事務所が東中町60番戸から金屋町2番戸に移転
     1909(明治42)02/20長崎県医師会総会が開催。県医師会設立の件を建議し可決。長崎県医師会が設立される
  10/05市の要請で長崎測候所が風取山山頂の構内に午砲台を設置。大砲を撃ち正午を報せる
     それまでの時撞と時旗での知らでは、市内の戸数2万戸、人口15万人すべてに行き届かないため
     撃つのは市役所の砲手
     火薬をもって風取山山頂に登り、測候所職員が近くでストップウォッチを片手に「用意」「撃て」と合図
     のち風取山が通称「ドンの山」と呼ばれるようになる
     のち大砲は空砲に
     1941(昭和16)03/正午を報せる空砲がサイレンに変わる
  10/「長崎くんち」(4)…寄合町(本踊・段尻)、興善町(小薩摩)、今下町(本踊)、
     築町(本踊)、東上町(剣舞・川船)、大黒町(唐人船)、八坂町(川船)、
     東浜町(本踊・段尻)、馬町(本踊)、東古川町(川船)、本古川町(軍艦)
  10/上長崎村にコレラ患者25人発生
  10/日本初の映画常設館「電気館」が東京浅草に開館
     1910(明治43)08/西浜町新地通り西浜町42番地の落語音曲などの寄席「千鳥座」がマス席を腰掛式に改築
     京都の横田商会(のち日活)が長崎初の常設活動写真館として「電気館」を開場
     ユニバーサル・ユナイト、帝キネの作品を上映
     1945(昭和20)08/09原爆で無残な姿に
     観覧料は1等大人15銭、小人7銭
  11/21早稲田大学と慶應大学の初の野球対戦が慶應の三田綱町球場で行なわれる
     早稲田が慶應に挑戦状を送達し慶應が応じ行なわれた試合
     挑戦状の筆者は早稲田主将橋戸信
     試合は11対9で慶應の勝利
     早稲田は野球部発足から1年余り、対する慶應は発足から20年近い歴史を持ち最強を誇る一高に勝った実績も
     後発でかつ格下と思われた早稲田が大いに善戦し慶應も対戦相手にふさわしいと評価。翌年から定期戦を行なうことに
  11/23榎津町に「栄之喜座」が再建。実演劇場として落成
     1930(昭和05)06/09映画常設館の劇場「中座」となる
     ソ連映画を上演したりと、かなり実験的な映画館に
  11/長崎〜茂木に乗合自動車が運転を開始
     まもなく八坂町〜茂木を走っている既存の定期馬車との競争に敗れ廃業
  12/11大浦31番地に煉瓦造3階建の「ホテル・デ・フランス」が開業
     正式名称はHotel de Franceでフランス人のJ.Sirotが経営【孔子廟の北隣の大浦33番A】
     建物は煉瓦造りスタッコ仕上げの3階建で正面側には各階ともアーチ型列柱廊形式のヴェランダを取り付けた南欧風デザイン
     1909(明治42)02/営業不振により閉業
     1963(昭和38)明治期のフランスホテル跡地に長崎逓信病院ができる
  12/17ライト兄弟がノースカロライナ州のキティホークにあるキルデビルヒルズで世界初の有人動力飛行に成功
     12馬力のエンジンを搭載した「ライトフライヤー
     1回目は120フィート前方へ着陸。大気速度は毎時およそ30マイル。滞空時間はわずか12秒
     2回目の飛行は約175フィート。3回目は200フィート。4回目は59秒間、852フィートを飛行
  「長崎内外倶楽部」の中心メンバー倉場富三郎が雇主フレディック・リンガーにクラブの出島移転の協力を要請
     リンガー所有の出島町7番地に木造2階建の洋館を建設
     11/10夕最初の月例晩餐会が新築のクラブで行なわれる
  長崎にガス灯がともされる。横浜・東京・神戸に次いで全国で4番目
     設置は富商小曽根乾堂の長男、晨太郎らによって推進
     ガス街路灯の点火・消火は点消方(夫)の仕事で、担当区域の街路灯をともしてまわる早さが彼らの誇りに
     1914(大正03)ガス灯の最盛期で、その数8997基
  松早石油が日本石油株式会社の特約店となり、ランプ油、集魚灯油、植物油などを取り扱う
  横浜正金銀行の長崎支店が大浦海岸通りから梅ケ崎町4番地に移転
  南山手10番地に「十番ホテル」、大浦15番地に「ザ・ビラー・ホテル」がそれぞれ開業
  大浦13番地に「カイダ・ホテル」が開業
     1924(大正13)03/21焼失閉業
  長崎県立病院に附属した養成期間1か年の看護婦学校「長崎看護婦養成所」が設立
     西道仙が所長に
  天本愛命堂が銅座町に新築移転
  カステラの文明堂が店舗を船大工町84番地に移転
     1910(明治43)店舗を馬町に移転
  材木町市場に所属する13軒の問屋が、長崎魚類仲買(株)を設立
     それまで問屋が行なっていた漁業者への仕込金前貸しの禁止、代金不払者の取締まりを規定し
     反発した問屋3軒との間に猛烈な集荷競争が行なわれ、双方ともに大きな赤字をだす
  長崎電話交換局で電話交換業務の職員が女子交換手だけとなる
     職場の花「紫式部(和服に紫の袴を着用)」が世間の憧れに
  長崎電話交換局が長崎郵便局に併合、長崎郵便局電話部に
  水の浦郷に浄真寺が創建
  対馬日日新聞が創刊
     1939(昭和14)05/対馬日日新聞が対馬時事新報と合併。対馬新聞の前身となる対馬朝日新聞が誕生
     1942(昭和17)03/東条内閣の命令のもと全国の新聞は1県1紙となり島唯一の対馬朝日新聞が廃刊
     1946(昭和21)05/戦後物資統制の中、用紙割当を受けるため創立者の斉藤隼人が商工省繊維局に出頭陳情
     1946(昭和21)05/21全国離島紙で最初の用紙割当を受け、タブロイド版「対馬新聞」を発刊
     のち戦後最も古いローカル紙として創刊号のマイクロフィルムがアメリカ進駐軍によって製作
     国会図書館に保管される
  上五島中道島の鯛之浦地区にペルー神父の指導により鯛ノ浦教会が建つ
     第2次世界大戦中鯛之浦港に特攻基地が設けられ聖堂が基地司令部となる
     1949(昭和24)煉瓦造りの鐘塔が増築
     旧浦上天主堂の被爆煉瓦が使われる
     1979(昭和54)新聖堂が造られる
     潮風のため建物の破損が著しく不漁続きの不況の最中ながら信徒たちは巨額を拠出
     旧聖堂は図書館などのほか信仰教育の「けいこ場」として残される
  長崎市片淵町にアーチ橋の拱橋(こまねき)が架かる
     長崎大学経済学部の正門入口近く
  不知山人が歌「長崎節」を作る
     不知山人は演歌師の添田唖蝉坊
     1905(明治38)日露戦争のなか「長崎節」が流行る
  中山忠怨牧師が飽の浦に講義所(現飽の浦教会)を開設
  三菱合資会社三菱造船所に立神第2、第3船台が竣工
  前年にできた本河内低部貯水池、西山低部浄水場、西山低部配水池に桜の苗木が植えられる
     桜は日露戦争の戦争祝いとして東京から取り寄せたもの
  銀屋町に土地を購入し出島教会の建物を移築・改築。長崎中央教会と改称
     出島教会は東山手に新築・移転。ウェスレー教会と改称。端島伝道を開始
  「郵便報知新聞」を発行する報知社が新聞直営店制を開始する
     1904(明治37)川上貞奴の写真を掲載。日本初の新聞写真となる
  南側の区画の坂本町外人墓地が外国人の急激な増加でいっぱいになる
     北側の区画に新坂本町外人墓地を新設
     1908(明治41)新坂本外人墓地で初の埋葬が行なわれる
     新坂本外人墓地の埋葬者数(117)
     イギリス(31)、アメリカ(20)、日本(16)、イタリア(9)、オランダ(8)、
     ドイツ(8)、フランス(5)、ロシア(5)、オーストリア(3)、ポーランド(3)、
     ポルトガル(2)、スウェーデン(2)、デンマーク(2)、不明(3)
  市内の伝染病患者258(コレラ111、腸チフス73、ジフテリア60、赤痢13、痘瘡1)

1903(明治36)頃

  悟真寺国際墓地の南側にあるロシア兵の射的場が廃止となる

1904(明治37)【明治】 甲辰(きのえたつ)

  《総理大臣》[第11代]桂太郎
  《知事》[第14代(官選)]荒川義太郎
  《市長》[第4代]横山寅一郎

  02/04午後、御前会議でロシアとの国交断絶。開戦が決定される
     02/05御前会議で開戦が決定。連合艦隊司令長官に出撃命令が手交
     02/06ロシアに宣戦布告。連合艦隊が佐世保港より出撃。日露戦争が始まる
     02/10日本、露ともに宣戦布告
     1905(明治38)01/01旅順要塞司令官ステッセルが降伏の申し入れ
     01/02旅順開城規約が調印される
     1905(明治38)09/05日露戦争の講和条約(ポーツマス条約)が調印される
     北緯50度以南の樺太(サハリン)が日本領となるが、第九条によって樺太や宗谷海峡に要塞を築いてはならないことに
     そのため、宗谷海峡は軍事上重要な海峡にもかかわらず、太平洋戦争直前まで要塞建設がためらわれる
  02/05大阪商船の長崎〜鎮南浦の航路が休止
  02/05函館要塞・対馬要塞・佐世保要塞・長崎要塞・澎湖島要塞に動員が下令
     東京湾要塞・由良要塞・広島湾要塞・舞鶴要塞・下関要塞・基隆要塞に警急配備が下令
  02/07日本郵船の長崎〜上海、ウラジオストックの航路が廃止
  02/11日露戦争における大本営が設置される
     1905(明治38)12/20日露戦争の大本営が解散
  02/13ロシアのウラジオストック艦隊が津軽海峡西口付近に現れ、日本の商船名古浦丸を撃沈
  02/14勅令第三十六〜三十九号をもって、長崎要塞地帯、佐世保要塞地帯、対馬及びその沿海、函館要塞地帯が「臨戦地境」と定められる
     「戒厳ヲ行フコトヲ宣告」される
  02/17ジャコモ・プッチーニによるオペラ「蝶々夫人」がミラノのスカラ座で上演
     観客からヤジを浴び1回の上演で打ち切り大失敗に終わる
      プッチーニは米演出家デビッド・ベラスコの劇「蝶々夫人、日本の悲劇」を観て感激
      劇のオペラ化を決意。ベラスコと原作者ジョン・ルーサー・ロングから許可を得る
      台本作家の協力を取り付け作業にかかった末の上演
     05/多くの部分を書き換え再演。大好評を得る
  02/皇軍の出征以来、東浜町の呉服商「田中屋」の田中直三郎が合戦場の大岩を祭壇として皇軍の凱旋を祈る
     毎朝風雪炎暑にかかわらず毎日坂を登る
     1905(明治38)04/22祝捷山記念碑の落慶式が行なわれる
     「祝捷山」は日露戦争勝利を宿して西道仙が命名
  03/06橘周太が第2軍(司令官:奥大将)動員の際、橘少佐は軍管理部長として出征
     1904(明治37)08/30午前2時30分、宿営地出発。首山堡南方高地山頂めざし突撃を繰り返す
     遼陽付近で日露両軍主力が初めて激突した「遼陽会戦」で、第2軍は首山堡を攻撃
     ロシア軍の激しい抵抗により攻撃は進展せず、悲惨な戦況を現出
     午前5時30分、遼陽街道の峠から300〜400米の高地山頂に日章旗が掲げられる
  03/12第11回九州沖縄医学会が長崎市内の交親館で開催(〜03/13)
  03/12高野房太郎が病を得て青島で客死。35才歳と2か月の生涯。病名は肝臓膿腫
     【詳しくは1869-01/06に】
  03/31新町小学校が創立
     1934(昭和09)03/31興善小学校、新町小学校が合併、新興善小校が開校
  03/西山高部貯水池、浄水場、配水池が完成し第1回水道拡張工事が完了
     上水道専用の水源池が完成したことで市街地域拡大に伴う給水人口の増加による水不足が解消される
     西山高部、西山低部貯水池と本河内低部水源地が増築
     それまでは本河内高部水源地のみで旧市街地や旧居留地に給水
  03/長崎市内でハタ揚げをし糸を電線に引っかけた者に過料50銭が課せられる
     それでもなおハタ揚げによる架線事故が相継いだため
     1873(明治06)05/08、1879(明治12)03/07、1899(明治32)に次ぐ罰則
  04/01東彼杵郡日宇村の一部が佐世保市に編入される
     1923(大正12)04/01東彼杵郡早岐村に町制が敷かれ早岐町となる
  04/東山町の大浦尋常小学校に大浦実業補修学校が付設される
     1908(明治41)04/北大浦尋常小学校と改称
  06/15大型貨客船「常陸丸」(6172瓲)が玄界灘で兵員輸送中にロシア艦隊の砲撃を受け戦没
  07/01雲仙に有明(ゆうめい)ホテルが開業
  07/01煙草専売法施行により7種類の官製煙草が専売局から発売される
     国産の葉を使用した銘柄…
     「敷島」(紙巻・口付/20本入8銭)、
     「大和」(紙巻・口付/20本入7銭)、
     「朝日」(紙巻・口付/20本入6銭)、
     「山桜」(紙巻・口付/20本入5銭)
     米国産の葉を使用した銘柄…
     「STAR」(紙巻・両切/10本入7銭)
     「CHERRY」(紙巻・両切/10本入6銭)、
     「LILY」(紙巻・両切/10本入5銭)
  07/「絵入り長崎新聞」が廃刊
  07/三菱造船所内の丘の上に木造洋館2階建、総面積406平方米、曽禰達蔵設計の所長社宅が完成
     所長社宅には使われず迎賓館となる
     1905(明治38)01/30修理のため入渠した軍艦千代田艦艦長東伏見宮依仁親王が宿泊。占勝閣と命名
     元郷社の八幡神社境内の老松や古木を庭園に取り入れる
     階上中央和室の東西に寝室、階下に食堂、応接室、書斎、撞球場がある
  07/栗原森三が雲仙に有明ホテルを創業
     のち充実した設備と地の利とを得て着実に経営を伸ばす
     1936(昭和11)早くも合名会社の組織として経営の合理化を図る
     終戦直前他のホテルとともに佐世保海軍病院の保養施設となる
     終戦後アメリカ軍将校のレストハウスに接収
     1950(昭和25)接収が解かれ従来のホテル経営に復する
     1956(昭和31)政府登録ホテルとなる
     1959(昭和34)鉄筋4階建の新館を増設
     1965(昭和40)株式会社有明ホテルとなる
     1968(昭和43)12/隣接地のみどり屋ホテルを買収し、別館として落成
     室数116、冬季は全館スチーム暖房、渓流に望む一大ホテルとなる
  08/14片山潜がアムステルダムで開かれた第二インターナショナル万国社会党第六回大会に、日本の代表として出席
     大会代表者は各自国の政府に圧力を加え、日露戦争の終結に努力するよう求める決議案を提出
     日露戦争まっただなか、片山はロシア代表のプレハーノフと1千余の代表者を前に握手を交わす
  08/10バルチック艦隊の来襲に備え、鎮海湾要塞と対馬要塞に28糎榴弾砲を移設
  08/30午前2時30分、宿営地出発。首山堡南方高地山頂めざし突撃を繰り返す
     遼陽付近で日露両軍主力が初めて激突した「遼陽会戦」で、第2軍は首山堡を攻撃
     ロシア軍の激しい抵抗により攻撃は進展せず、悲惨な戦況を現出
     午前5時30分、遼陽街道の峠から300〜400米の高地山頂に日章旗が掲げられる
     08/31午後6時30分頃、橘周太が首山堡の攻撃中に敵の逆襲の中、銃弾にたおれ壮烈な戦死を遂げる
     享年40歳(満38歳)
     のち陸軍歩兵中佐に特進。正六位に叙され、勲四等攻四級金鵄勲章、旭日小綬章を授けられる
  09/05遼陽占領の長崎市祝勝会が出島の埋立て地で5万人が参加し開催
     のち提灯行列が行なわれ市民は熱狂
  09/勝山町の石丸國吉の文具店店舗が東浜町16番地の土地を購入し移転
     1909(明治42)忠兵衛を養子に迎え、三菱造船所にも出入りが許され、舶来の事務用品を多量に扱う
  (初発〜10/02)県下の伝染病患者、赤痢606、腸チフス306、ジフテリア182、痘瘡790、計1884
  10/04ジークムント・D・レスナーの父リオが88才で死去
     父は長崎ユダヤ教博愛協会の名誉会員、ユダヤ教会ラビの(宗教的指導者)だった
     遺体は坂本国際墓地26番に埋葬
     1914(大正03)07/28第一次世界大戦勃発
     オーストリア市民権を持つレスナーが敵国民と見なされ営業停止処分に
  10/「佐世保軍港新聞」が創刊
     1913(大正02)04/「軍港新聞」と改題
     1942(昭和17)04/01政府の強権により「長崎日報」に統合される
     「長崎日日新聞」「長崎民友新聞」「島原新聞」も同様に統合
     政府は1940(昭和15)に東郷内閣の国策遂行のため通信、報道の統制
     統合を強化、1県1紙の体制がすすめられた
     長崎県では「長崎日日」と「長崎民友」が共同で統合に抵抗、全国で最後まで残っていた
     合併反対派の「長崎民友新聞」の幹部全員が拘束され、その留守中のこと
     社長は「長崎日日新聞」の武藤具三
  11/07渡御。「長崎くんち」が日露戦争のため日程変更11/09還御
     (5)…丸山町(道囃子)、桜町(傘鉾のみ)、内中町(傘鉾のみ)、西上町(兵隊行列)、
     八百屋町(子狐行列)、勝山町(傘鉾のみ)、恵美須町(傘鉾のみ)、紺屋町(傘鉾のみ)、
     炉粕町(傘鉾のみ)、伊勢町(傘鉾のみ)。小川町は辞退
  11/13幸徳秋水と堺利彦が「共産党宣言」を共訳。週刊「平民新聞」第53号に掲載
     サミュエル・ムーア訳の英語訳からの重訳であったが、日本における最初の「共産党宣言」の翻訳となる
     のち週刊「平民新聞」第53号は発売頒布
     発行兼編集人の西川光次郎、印刷人の幸徳伝次郎はともに軽禁錮5か月、罰金50円の判決を受ける
  11/14神戸以西唯一の外国銀行「香港上海銀行長崎支店」の新社屋が常盤町から松ケ枝町42番地に移転
     設計は下田菊太郎による、最大級の石造洋館。煉瓦及び石造3階建、切妻造、外壁石造
     香港上海銀行長崎支店は主に在留外国人の貿易商を相手に外国為替や外貨の売買を行なう特殊為替銀行
     1931(昭和06)04/閉鎖
     1940(昭和15)06/25旧香港上海銀行長崎支店を長崎県が買収し梅香崎警察署が移る
     1954(昭和29)07/大浦警察署と改称
     1974(昭和49)03/08松ケ枝町7番2号の新庁舎に移る
     1978(昭和53)06/長崎市歴史民俗資料館本館として開館
     1988(昭和63)04/休館となる
     1996(平成08)10/旧香港上海銀行長崎支店記念館として開館
  11/15アメリカ合衆国特許がジレットのアイデアを発効する
     アメリカの発明家キング・キャンプ・ジレットが使い捨ての薄い刃を使った安全剃刀を発明する
     ジレットは剃刀本体を安く売れば、替え刃の市場が生まれてそこで利益を上げられると思いつく
     「剃刀と替え刃のビジネスモデル」、ロスリーダーなどと呼ばれ、その後様々な製品で応用されるようになる
  11/161897(明治30)10/23に起工した長崎港湾第2期改良工事の落成式が出島埋立地で行なわれる
     総事業費491万8231円
     第1期完成後わずか4年で土砂が堆積
      港湾面積150万坪の10分の1は干潮点以上に露出し船舶の停泊が不便なため
     急いだ理由…大阪・神戸の大築港計画による長崎港の地盤沈下の不安
      日清戦争後の活況での貿易の拡大など
     今回の工事の最大目標は水深確保
      最干潮時に5尺(1.5米)を維持するため、浅い海を埋立て陸地が拡大。24町が新設
     当初5年計画であった事業は難航し、軟弱地盤のために埋め立て工事は計画より2年遅れる
     事業は、浚渫、埋築、埋築の護岸及び街区、運河、橋梁、波止、堰堤、堰堤修理からなる
     埋立ての総面積は約11万7千坪
     内訳は出島付近22486坪、海岸通16699坪、浦上56262坪、稲佐22195坪
     埋立地は道路、溝りょう、荷揚場、九州鉄道用地、住宅のための市有地として使われる
     湾奥部、市街地付近及び出島前面の景観は一変。この事業による埋立てが、現在の長崎市の骨格となる
     浦上新田から尾上町への大規模造成が行なわれ、市街地と北部の浦上地区がつながる
     これまでの旧市街地と旧居留地を中心とした展開が市街地域は北部に拡大。市街地の地形骨格がほぼ完成
     第2次港湾改修工事の背景には、鉄道を中心市街地に延長する意図も
     ※現長崎駅周辺、出島前面海上等の埋立て
     《出島地区にできた町》…出島町、千馬町1〜3丁目、
     羽衣町1・2丁目、要町、末広町1〜3丁目、入江町1〜3丁目
     《現長崎駅北側にできた町》…八千代町1〜3丁目、瀬崎町1・2丁目(北瀬崎)、幸町1〜4丁目、
      福富町1〜4丁目、玉浪町1〜6丁目、梁瀬町1〜6丁目、船蔵町1〜6丁目、井樋ノ口町1〜3丁目、
      寿町1〜3丁目、宝町1〜4丁目、玉浪1〜6丁目
     《現長崎駅周辺にできた町》…台場町1〜4丁目、高砂1〜4丁目、尾上町
     《稲佐地区にできた町》…丸尾町1〜3丁目、大鳥町、外浪町、旭町1〜3丁目
     《大波止周辺にできた町》…玉江町1〜3丁目、元船町1〜5丁目、
  長崎港湾奥部の浚渫埋立が完成し、中島川を遡航できない大型漁船は尾上町海岸を利用することに
     人口増と悪疫予防で1891(明治24)に本河内、1904(明治37)に西山高部の水源地ができ中島川の流量が減少
     川を遡航する漁船は満潮時にしか航行できず、材木町河岸の長崎魚類共同販売所では荷の積降しができなくなる
     尾上町で水揚げされた魚類は全て材木町市場に運ばれ問屋を通過させた後、県外出荷物は再び尾上町の長崎駅まで逆送
     近代漁業がもたらす漁獲物の増大は、地元消費量をはるかに凌駕する状況となり深刻な魚価の低迷を招く
     卸問屋は県外出荷を積極的に取組み年々増加するトロール漁船の入港で、実質上、魚市場は尾上町に移ったも同然
     材木町市場往復のロスは流通・魚価に悪影響を及ぼし、入出荷に便利な尾上町への移転整備が市場発展の急務に
     しかし近代漁業発展の波に乗って、増大する漁獲物に対処せねばならぬ長崎漁港の設備は、まだ不充分
  11/16埋立事業の際に沖見川、丁字川、御舟川ができ、それぞれに橋が架かる
     沖見川に相生橋、高砂橋
     丁字川に玉浪橋、寿橋、玉杵名橋
     御舟川に丁字橋、御舟橋、馬込橋
     1920(大正09)瀬崎町1丁目と宝町4丁目のあいだ丁字川に架かる玉杵名橋が鉄筋コンクリート橋となる
     戦後御舟川が埋め立てられて国道敷地となり架かる橋が姿を消す。丁字橋、御舟橋、馬込橋および玉杵名橋
     1949(昭和24)03/八千代町1丁目と寿町3丁目の丁字川に架かる寿橋が架け替わる
  11/梅ヶ崎町、広馬場町に「魚菜市場」が開場。魚介・野菜類を販売
     1904(明治37)12/築町、本下町小野原にも開場
     それまで鮮魚介類の販売は店を構えた小売店や地魚を売り歩く魚行商人「ふれ売り」の手によって行われていた
     日露戦争前までの魚菜市場は今下町崖下、五島町、本紺屋町の3か所
  12/06創業時の越後屋呉服店と三井家の三井呉服店が合併。株式会社三越呉服店となる
     代表発起人に益田孝、専務取締役に日比翁助が就任
     デパートメントストア宣言を行ない百貨店の歴史がはじまる
     12/20日本初の欧米のデパートメントストア(百貨店)風の商店三越呉服店がオープン
  12/25下り松43〜45番地の「長崎ホテル」がパワーズ商会より広告がだされ競売に。リンガー商会が落札し開業
     1908(明治41)春閉業
  新橋町1番地の新橋町尋常女児小学校が新町6番地に移り、新町高等小学校の創立となる
     1908(明治41)新町尋常小学校と改称
  田中旭栄堂の初代、田中素郎市氏が『福砂屋』で菓子づくりを学び栗饅頭を作り始める
     日露戦争の戦勝祝いとして作られる
     はじめは形も卵形でしかも栗が入っておらず原材料の質もかなり劣っていたと考えられる
     おいしさを探求したものではなく『勝ちぐり』にあやかって作られた
  銅座川の千馬町〜常磐町に橋長19間(44米)、幅員6間(8米)の鉄製トラス橋の出師橋を創設
     第6師団の出征にあたって出島に集合する際、この鉄橋を通ったことを記念して命名
     1916(大正05)12/27長崎電鉄が千馬町〜大浦に路線を延長。同時に出師橋に単線軌道を敷設
     1958(昭和33)09/出島地区土地区画整理事業により銅座川が付け替え。姿を消す
  浜市商店街にガス灯が整備される
  「長崎毎日新聞」が創刊
     日刊紙で「絵入り長崎新聞」の主筆林一郎が社長兼主筆に
     発行所は大浦相生町の東友舎
     1905(明治38)廃刊
  南山手5番地乙のロシヤ領事館が日露戦争により一時閉鎖
     1906(明治39)再開
  三菱合資会社三菱造船所に立神第4、5、6、7、8船台が竣工
  稲佐の松尾鉄工所が香焼に進出
  長崎県内で中国の代表品種「芝罘」「直隷」など結球ハクサイが栽培
  (初発〜10/02)県下の伝染病患者、赤痢606、腸チフス306、ジフテリア182、痘瘡790、計1884
  島原の眉山中腹の杉谷で大島清が新種と思われるイチゴを発見
     のち世界的な植物学者・牧野富太郎が日本で最初の発見と認めシマバライチゴと命名
     1960(昭和35)長崎県が島原市南千本木岩下の群落を県の天然記念物に指定
  「郵便報知新聞」が川上貞奴の写真を掲載。日本初の新聞写真となる
     1906(明治39)夕刊の発行を開始する
  五島第2代主任司祭ペルー神父が福江島、奥浦の堂崎小聖堂のまわり、用地を拡張し新聖堂の建設に着手
     1908(明治41)05/赤煉瓦造りゴシック様式を持つ落ち着いた安定感のある堂崎天主堂が完成
     以後、五島各地に建てられた天主堂のモデルとなる
  市内の伝染病患者は天然痘447、ジフテリア56、赤痢52、腸チフス29、計584

1904(明治37)頃

   埋立工事に際して旭町〜平戸小屋町に木橋の旭橋を架設
     1932(昭和07)03/28 木橋を鉄筋コンクリート橋に架け替える

日露戦争中

  浦上天主堂の工事が一時中断
     1911(明治44)02/急逝したフレノー神父の業を継いでラゲ神父が浦上教会主任司祭に命じられる
     後任のベルギー人のラゲ神父は、天主堂を早く完成させるために、屋根を木造瓦ぶきに設計を変更。資金難は続く

1905(明治38)【明治】 乙巳(きのとみ)

  《総理大臣》[第11代]桂太郎
  《知事》[第14代(官選)]荒川義太郎
  《市長》[第4代]横山寅一郎

  01/01旅順要塞司令官ステッセルが降伏の申し入れ
     01/02旅順開城規約が調印される
     1905(明治38)09/05日露戦争の講和条約(ポーツマス条約)が調印される
     北緯50度以南の樺太(サハリン)が日本領となるが、第九条によって樺太や宗谷海峡に要塞を築いてはならないことに
     そのため、宗谷海峡は軍事上重要な海峡にもかかわらず、太平洋戦争直前まで要塞建設がためらわれる
  01/05長崎市祝勝会が出島の埋立地で旅順没落の祝勝会を開催。提灯行列を行なう。3万人が参加
  01/10ステッセル将軍以下の陸海軍将兵が宣誓帰国を許されるが、便船を待つため長崎に一時滞在
     01/1412時、佐渡丸に乗船したステッセル将軍らが女神検疫所で消毒を受ける
     ランチで平戸小屋の仮桟橋から上陸
     ステッセル将軍は旅順要塞司令官
     憲兵や警官に厳重に護衛され、助役以下50人の出迎えを受ける
     江口警視に先導され紋付きをきて出迎えた稲佐お栄のホテルへ
     荒川知事が表敬訪問をし横山市長はミカン、リンゴ、シャンペン1ダースをもって訪問
     帯勲帯剣を許されたステッセル将軍は凱旋将軍並に扱われ歓迎される
     01/18ステッセル将軍以下100余人がフランス汽船で知事、市長らの見送りを受け上海に向かう
     03/105回にわたり約1800人の将兵が送られてくる
  01/18本紺屋町で「長崎新聞」が創刊
     太田雪松が創立。当初は政党政派に偏せず民論を代表し政界の改革と産業、教育の発達が目的
     1909(明治42)頃やや反政友会派の色彩を帯びるようになる
     1919(大正08)憲政派同志で長崎新聞同志会社を組織。経営することになる
     1922(大正11)神戸新聞との組合経営となる
     今魚町が発行所で中川観秀や岩永八之凾が筆をふるう
     1935(昭和10)08/廃刊
  01/20アメリカのモルガン財閥の御曹司と京都祇園の芸者お雪が結婚
  01/22ロシアの首都ペテルスブルグで民衆10数万人が皇帝ニコライ2世のいる冬宮へ向かって行進
     日露戦争の即時停止、労働者の待遇改善、立憲政治の実施などを皇帝に嘆願するため
     突然、軍隊が発砲。3千人の死傷者がでる。聖なる日曜日が行進の参加者の血で染まることに。「血の日曜日」
  01/30三菱造船所内の迎賓館に修理のため入渠した軍艦千代田艦艦長東伏見宮依仁親王が宿泊され占勝閣と命名
  02/長崎商業会議所の第5代会頭に永見寛二が就任
     1909(明治42)01/第6代会頭に橋本辰二郎が就任
  03/25大浦町32番地の中国孔子廟内に華僑のための九州唯一の華僑学校・長崎時中学堂を創設
     駐長崎清国領事の提唱によるもので、時中とは「時に随い変に処してその宜しきにかなう」の意味
     華僑の同郷組織、広東、福建、三江の三幇の公有として発足。三幇から3人ずつ理事をだし運営
     第1回入学生は60人。3地方は言葉が異なり「複合授業」をするなど苦労が伴う
     08/10清国公認の学校となる
     のち孔子廟前に校舎を新築移転
     1988(昭和63)03/23児童の減少から卒業式で事実上休校
     のち時中語学院として再出発
  03/28長崎高等商業学校が長崎県西彼杵郡上長崎村片淵郷1万2912坪(4万2609.6平方米)の敷地に設立
     大陸へ進出する人材の養成を目的として初代校長に隈本有尚が就任
     東京高商(第1高商/一橋大)、神戸高商(第2高商/神戸大)に次ぐ第3高商として設立
     1917(大正06)海外貿易科が設けられる
  03/三菱合資会社三菱造船所に向島第3ドックが竣工
  04/05埋立てが完成し九州鉄道が台場町に長崎駅を新設
     それまでの長崎駅は浦上駅に変更し浦上(旧・長崎)〜長崎が開通
  04/05埋立てが完成し臨港延長線の浦上(旧長崎)〜長崎を設置
     鉄道を中心市街地に延長する背景には第2次港湾改修工事がなにより
     日露戦争軍需物資の積み出しが円滑化となる
     1912(明治45、大正01)10/21コッテージ式2階建の長崎駅新駅舎が完成
     2階は貴賓室にあてられる
     1931(昭和06)2階の貴賓室を廃しレストランとなる
     レストラン共進亭には上海東京往来の内外紳士淑女でテーブルはいっぱいに
     1945(昭和20)08/09原爆により焼失
     1949(昭和24)03/093代目の長崎駅舎、通称・三角屋根(高さ約15米)が完成
     教会風の駅舎と十字架をかたどったステンドグラス
     異国情緒を漂わせ、長崎の玄関口のシンボルとして、市民や観光客に親しまれる
     1999(平成11)03/04再開発にともなう新駅ビルの建設により解体撤去工事に着手
     約10日で、その雄姿がなくなる
     『三角屋根』ができて、ちょうど50年後のこと
     2000(平成12)09/21新しい駅ビル「アミュプラザ長崎」がオープン
  04/22合戦場で祝捷山記念碑の落慶式が行なわれる。「祝捷山」は日露戦争勝利を宿して西道仙が命名
  05/09創業6年目の森永製菓のマークがエンゼルになる
     創業時の主力商品は日本には珍しくも子どもたちには人気の菓子マシュマロ
     マシュマロはアメリカでエンゼルフード(天使の糧)と呼ばれる
     創業社長の森永太一郎は親交のあるアメリカ公使夫人に商標候補としてエンゼルを見せたところ絶賛される
     05/10商標登録される
  05/27午前05時05分。バルチック艦隊の発見が連合艦隊司令長官東郷平八郎に知らされる
     司令長官は全軍に対し出動を命じる。大本営に打電
     「敵艦見ユトノ警報ニ接シ連合艦隊ハ直ニ出動之ヲ撃滅セントス、本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」
     05/28午前09時30分過ぎ。日本海海戦でロシア艦隊が応戦せず降伏信号を掲げ航行を停止
     司令長官は降伏を容れて砲撃を中止。日本海海戦が終わる
  06/30スイス連邦特許局の無名の技師アルベルト・アインシュタインが特殊相対性理論を発表
     特殊相対性理論は重力場のない状態での慣性系を取り扱った理論
     光量子仮説、ブラウン運動の理論、特殊相対性理論に関連する5つの重要な論文を立て続けに発表する
     1915(大正04)加速度運動と重力を取り込んだ一般相対性理論を発表する
  08/10華僑学校・長崎時中学堂が清国公認の学校となる
     のち孔子廟前に校舎を新築移転
     1988(昭和63)03/23児童の減少から卒業式で事実上休校
  09/05日露戦争の講和条約(ポーツマス条約)が調印される
     北緯50度以南の樺太(サハリン)が日本領となるが、第九条によって樺太や宗谷海峡に要塞を築いてはならないことに
     そのため、宗谷海峡は軍事上重要な海峡にもかかわらず、太平洋戦争直前まで要塞建設がためらわれる
  09/11未明、佐世保港内で戦艦「三笠」の後部火薬庫が大爆発をおこし火災が発生
     瞬時に沈没し339人もの殉死者がでる
     査問委員会の調査では自然発火の疑いが濃厚とされるが、問題も…
     水兵は発光信号用のアルコールをギンバイしての飲用が流行
     工業用のアルコールを洗面器に入れ、まず火をつけて臭いをとり吹き消して水で割って飲んでいたという
     「三笠」では弾薬通路で、こぼれたアルコールの火を消そうと、洗面器をひっくり返し火災が起こる…とか
     1906(明治39)08/08午前02時に排水を開始、午前06時に浮揚。引き続き修理に着工
     1908(明治41)04/01第1艦隊に旗艦として復帰、編入
  09/12舞鶴座にて日露講和条約反対市民大会を開催
     約5千人が参集。「鎮西日報」「長崎新報」「長崎新聞」「九州日之出新聞」などが主催で
  10/14わが国初の山岳クラブとして日本山岳会(JAC/Japanese Alpine Club)が設立
     英国人牧師で登山家ウォルター・ウエストンの勧め
     小島烏水、城数馬、高頭仁兵衛、武田久吉、高野鷹蔵、河田黙、梅澤親光の7名の発起人による
  10/17日本でキリスト教の女性団体のキリスト教女子青年会(YWCA)が設立される
     初代会長は津田塾大学創立者の津田梅子
  10/「長崎くんち」が日露戦争のため傘鉾のみ奉納
     (6)…寄合町、本大工町、今博多町、本紺屋町、今魚町、本籠町、材木町、古町、上筑後町、江戸町
     御旅所が玉江町に移転
  11/03新聞各紙に「万歳」は西道仙が創始したとする記事が載る
     「萬歳」の出典は詩経に「萬棋歳」或は「萬寿無橿」という祝福の意を表す語があり
     寺院などでは500年前から陛下の祝福には「萬歳」「萬々歳」の語が用いられていた
     従って「萬歳」を唱えて天皇を奉賀するのは創始よりも復古が適切との解説が長崎新聞に載る
  11/大浦7番地のリンガー商会内にノルウェー領事館を設置。エフ・リンガーが代理領事を務める
  12/20日露戦争の大本営が解散
     1937(昭和12)11/18支那事変(日中戦争)は公式には「戦争ではない」とされたため
     大本営設置を戦時に限定していた大本営条例は勅令第658号によって廃止に
     新たに戦時以外に事変でも設置可能にした「大本営令(昭和12年軍令第1号)」が制定
  日露戦争のとき稲佐の人たちがロシアの俘虜を世話したことによって政府より金500円の交付金がでる
     町の人は交付金を基金として6千円を募集し稲佐遊廓上の松林を拓いて公園を造る
  伊良林尋常小学校に女子も収容し、男女共学の小学校となる
  大阪商船が長崎〜(壱岐・対馬・朝鮮)〜大連の航路を開設
     1918(大正07)第一次世界大戦による船舶不足、従来から利用が少ないため廃止
     1924(大正13)朝鮮郵船、大阪商船により復活就航
  大浦4番館にスウェーデン副領事館を設置。のちリンガー商会のエフ・リンガーが代理領事を務める
  長崎瓦斯合資会社が業績が上がらず解散
     名称を山内商会瓦斯部(資本金20万円)に改称。山内善三郎の個人経営で営業を継続
     1911(明治44)07/福岡系資本に吸収され九州瓦斯会社が創立。資本金25万円
  旧茂木村の庄屋屋敷跡に建つ木造2階建、寄棟造の茂木ホテルを道永栄(稲佐お栄)が譲り受けて経営
     1906(明治39)01/木造2階建の洋風建築ホテルに改築
     1924(大正13)経営から退く
     1928(昭和03)砂田三次郎が借用し茂木ビーチホテルと改称して経営
     1954(昭和29)増築
     1961(昭和36)経営不振で大長崎建設が経営
     1966(昭和41)ホテル廃業後は大長崎建設の寮に
     1981(昭和56)大長崎建設が倒産後、解体
  佐世保に電灯がつく
  佐世保の人口が測量艦入港の1883(明治16)に比べ19倍に飛躍
  西浜町から新地蔵に架かる新地橋が鉄筋コンクリート橋になる
     1953(昭和28)架け替え
  森下仁丹の商標として大衆の憧れ理想にデザインされ創売される
     大礼服にシルクハット、謹厳なうちにもりりしい男ぶりと美髭の持ち主に
     のち全国の薬店で大礼服マークの看板がシンボルマークに
     のち広告益世を基本方針に、あらゆる空間に野外看板の仁丹塔を設置
  「長崎毎日新聞」が廃刊
  鈴木日恭が東上町に正霑(しょうしゅう)寺を創建
  中津屋橋本商店が旅順港内で港湾閉塞のために自沈したロシアの艦船の過半数を軍命により引揚げる
     1912(大正01)トロール漁船3隻により水産業にも進出
  「長崎バプテスト教会」がバプテスト派の最初の機関紙「星光」を発刊
     1926(大正15)09/26教会は長崎市勝山町4番地に新会堂を献堂して移転
     「浸礼教会長崎講義所」を「長崎バプテスト教会」と改める
  市内で伝染病患者154(ジフテリア60、赤痢59、腸チフス33、痘瘡1、猖紅熱1)
  雲仙の夏季のみの季節電信取扱所が2等郵便局となる
  ドイツ、ベルツ博士が雲仙を登山。県当局に県営保養温泉公園設置を進言
  酒屋「笠置屋」が勝利と栄光のシンボル「月桂冠」を酒銘に採用
  サンフランシスコの11歳の少年フランク・エパーソンがアイスキャンディーを発明する
     寒い日、ジュースにストローを挿したまま外に放置。ジュースが凍ってキャンディーになっているのを発見する

1906(明治39)【明治】 丙午(ひのえうま)

  《総理大臣》[第11代]桂太郎(→01/07)、[第12代]西園寺公望(01/07→)
  《知事》[第14代(官選)]荒川義太郎
  《市長》[第4代]横山寅一郎

  01/03実業之日本社が女性月刊誌の第1号「婦人世界」を発行
     育児などの実用記事が中心で付録もつく
  01/28諏訪神社がはじめておみくじを備える
     日露戦争後、参拝者が急激に増えおみくじを希望する者が多くなる
     1914(大正03)日本初の「英文みくじ」が登場。訳文は長崎中学校英語教師の釘本小八郎
  01/浦上川の梁瀬町〜旭町に石柱木造の稲佐橋を架設
     橋長41間(73.8米)、幅3間(5.4米)、市内最長の橋
     1926(大正15)07/26ボウストリングトラス鉄橋に架け替え
     橋長23間4尺(42.6米)、幅員車道4間(7.2米)、歩道1間(1.8米)
     1962(昭和37)03/25コンクリート橋に架け替える
  01/稲佐お栄が茂木ホテルを木造2階建の洋風建築ホテルに改築
     1924(大正13)稲佐お栄が経営から退く
  02/三菱合資会社三菱造船所に立神第1船台が竣工
  03/01磨屋町の長崎裁縫学校が玉木女学校と改称
     1906(大正05)04/01伊勢町に移転
  03/01 鉄川興助が長崎県南松浦郡新魚目町丸尾にて家業を相続し鉄川組を設立
  03/17グラバーの甥、トーマス・ベリー・グラバー(32)が死去
     父親チャールズ・T・グラバーはグラバー家の長兄
     トーマス・B・グラバー、アルフレッド・B・グラバーを含む6人の弟と1人の妹マーサ・アン・ジョージがいる
     インドのカルカッタにある英国系商社バルマー・ローリー商会に勤務するベリー・グラバーが帰郷を思い立つ
     スコットランドへの途次、立ち寄った横浜で病気のため急死
     遺体は長崎へ運ばれ坂本国際墓地374番に埋葬
     手配と費用の支払いは従兄の倉場富三郎が行なう
  03/31全国的な鉄道網を官設鉄道に一元化するため、私鉄を国有化することを定めた鉄道国有法が施行される
     順次、私営17社が国有化となる
     10/01北海道炭礦鉄道(室蘭〜手宮、岩見沢〜歌志内、砂川〜空知太、他)、甲武鉄道(お茶の水〜八王子)
     11/01日本鉄道(秋葉原〜青森、日暮里〜岩沼、品川〜田端、他)、岩越鉄道(郡山〜喜多方)
     12/01山陽鉄道(神戸〜下関)、西成鉄道(大阪〜安治河口)
     1907(明治40)07/01九州鉄道(門司〜八代、鳥栖〜長崎、他)、北海道鉄道(函館〜小樽)
     08/01京都鉄道(京都〜園部)、阪鶴鉄道(尼崎〜福知山)、北越鉄道(直江津〜新潟)
     09/01総武鉄道(両国橋〜銚子)、房総鉄道(千葉〜大原)、七尾鉄道(津幡〜矢田新)、徳島鉄道(徳島〜船戸)
     10/01関西鉄道(名古屋〜湊町、加茂〜大阪、王寺〜和歌山、他)、参宮鉄道(津〜山田)
  03/長崎商業会議所主催による古器物武器書画展覧会が開催
  04/01「ウオーア(自由)」と題する新聞が発刊【1909(明治42)?】
     露字日刊新聞。ロシアの革命党員の手による
     ロシアの革命党はその運動の根拠地を自国領内に置くことは危険として、世界の諸地方に根拠地を構える
     シベリア、浦塩方面の同志は、日本長崎の地を選び新根拠地をつくる。長崎革命党の根拠となる
     ウォーアの主義はヴァデッキによる
     1907(明治40)03/領事館からの干渉圧迫があり廃刊【1910(明治43)?】
  05/10九州鉄道・長崎〜門司に初めて急行が走る。所要時間7時間30分
  05/14長崎キリスト教青年会が袋町に青年会館を建設。完工式を挙行。煉瓦造り3階建、工費2万7千円
     当時、市内に集会施設としては劇場以外になく、公会堂代用として広く利用された
     1930(昭和05)12/18古賀重太郎が会館・敷地とも3万2千円で買収
     改造費3万5300円を添えて市に寄付。長崎市公会堂が落成
  05/前島密が日本海員掖済会会長、男爵として列車で来崎
     長崎市支部の事務状況などを視察
     1907(明治40)09/13貴族院議員として神戸から日本郵船「山東丸」で長崎に再び入港
     1907(明治40)09/15早稲田大学長崎校友会が西濱町の精洋亭で午餐会を催す
  05/鎮西学館が私立鎮西学院に
     1911(明治44)鎮西学院新校舎落成
  06/01佐古尋常高等小学校が開校
  06/29岩田清秋が乗船する汽船日の出丸が門司に向かう途中、生月沖で沈没、非命にたおれる
     岩田清秋は貿易、石炭商として重きをなし長崎市参事会員11年
     県会議員を経て長崎商業会議所の設立発起人となり副会頭4期
     1901(明治34)03/松田源五郎の没後、衆望を追うて第2代会頭に推される
  06/建造艦第1艦(水雷艇を除く)の駆逐艦「白露」が竣工
        381瓲、6千馬力、29節
  08/08午前02時、佐世保港内で火災を起こし沈没した戦艦「三笠」が排水を開始
     午前06時に浮揚。引き続き修理に着工
     1908(明治41)04/01第1艦隊に旗艦として復帰、編入
  09/07銅座町の天本愛儀が十人町に長崎保育授産所を設立
  10/08乃木希典が特命検閲使として来崎
     使命の尊厳を堅持する必要があるとして、一般の歓迎をいっさい避ける
  10/08ドイツ人のカール・ネスラーが自分の店にヘアデザイナーを招待する
     ネスラーの店はロンドン、オックスフォード街にあるサロン「ネスレ・パーマネント・ウェーブ」
     髪をカールさせるパーマネントを初めて披露する。「パーマネントウェーブ」の呼び名が使われる
     1個800gのカール用クリップ(ロッド)を12個ほど頭につけ6〜8時間待つ
     それでも我慢してでもウェーブスタイルに魅力がありイギリス社交界の女性達には人気に
  10/「長崎くんち」(7)…丸山町(本踊・段尻)、浦五島町(本踊)、
     引地町(本踊)、本石灰町(本踊)、大井手町(獅子踊)、桶屋町(剣舞)、
     船大工町(川船)、袋町(本踊)、酒屋町(本踊)、出来大工町(曳段尻)。掘町は辞退
  10/長崎市立飽浦尋常小学校の立神分教場が設置
     教員室1、教室2、小使室1の合計67坪半
     1908(明治41)04/長崎市立立神尋常小学校として独立
  11/10藤井実が棒高跳びで3米90糎を飛び世界記録3米70糎を抜く。事実上の世界記録を達成
  11/南山手11番地のベルビューホテルが閉業
     のち澤山商会を経営する澤山家が邸宅として活用
     1974(昭和49)225室の長崎東急ホテルが開業
  12/01九州鉄道・長崎〜門司の急行列車の所要時間が6時間56分に短縮
  12/長崎要塞司令部が平戸小屋町に移転
     長崎兵器支廠築城部長崎支部と合併し上長崎村舟津郷字舟津(大黒町・西坂町の一部/NHK長崎放送局)に置かれていた
  長崎電灯会社が小曾根〜浦上山里村字坂本の4.78粁に単線の鉄道敷設を出願
  火災で焼失していた旧唐人屋敷内の天后堂が全国の華僑の寄附により再建
  古賀十二郎が帰郷、長崎史談会を設立
  日露戦争により一時閉鎖していたロシヤ領事館が再開
     1908(明治41)05/仏国領事の代理を兼摂
     ロシヤ革命露国壊滅後閉鎖
  濱町に好文堂書店が開店
  梅香崎橋架橋工事に従事中の人夫が河中泥土の中から10円金貨を発見
     翌日警察が捜査した結果、続けて187枚を発見
     金貨は1902(明治35)05/05香港上海銀行長崎支店勤務の中国人が遺失したもので
     紛失当時は800円しか発見できず、同中国人が銀行に弁償
     発見された金貨の三分の一は人夫他関係者に謝礼、残額は当該中国人に交付
  南山手でロシア革命党機関紙「ヴォーリア(自由)」を隔日発行
  崇福寺内の長崎孤児院が現在の上町1番33号に移転
     1943(昭和18)実質的に閉鎖
  第10代水戸徳川家藩主の水戸慶篤の孫にあたる徳川圀順が「大日本史」を完成させる
     「本紀」「列伝」「志」「表」の全てが揃い合計397巻と目録5巻を献上する
     編纂作業をしたのは着手1657(明暦03)02/27、第2代水戸徳川家藩主の水戸光圀
  台風でサンゴ船、カツオ船173隻が沈没、死者行方不明者734人に
  十八銀行がウラジオストクの日本人商店・杉浦商店の銀行部を譲り受ける
     1907(明治40)松田銀行部を開業
     ロシアは外国人法人による銀行支店の開設を認めず頭取松田庄三郎の個人名義とし実質的な支店
     1916(大正05)第一次世界大戦に伴うルーブルの下落に災いされ朝鮮銀行に譲渡
  「郵便報知新聞」が夕刊の発行を開始する
     1913(大正02)第一次護憲運動で政府系と見られて群衆の襲撃を受ける
  市内で伝染病患者178(腸チフス99、ジフテリア45、赤痢34)

明治30年代(1897〜1906)

  長崎なすを用いて施肥等の試験を実施

明治30年代末

  西郷四郎が諏訪神社裏の立山に長崎講道館を設立。青少年に柔道を教える

1907(明治40)【明治】 丁未(ひのとひつじ)

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